Ver.0 TUTORIAL 4-4 多忙な3歳児
三歳になる頃、リゼルは書庫に入り浸るようになった。ヴァルクロア家の書庫は、屋敷の奥にある。高い天井まで届く本棚が並び、古い魔導書、家系記録、戦史、地理書、魔法理論、貴族名鑑、禁書に近い資料まで厳重に管理されている。普通なら3歳の子供が入る場所ではない。少なくとも、自由に歩き回り、机に地図を広げ、魔法理論書に目を通す場所ではない。
だが、リゼルは入った。最初は父オルディアスの許可を得た。幼い娘が本に興味を持ったと聞き、オルディアスは微笑ましく思ったのだろう。危険な本には触れさせぬようにと条件をつけた上で、閲覧を許した。父の中では、幼いリゼルが絵本代わりに古い地図や家系図を眺める程度の想像だったのかもしれない。
その日から、リゼルは毎日のように書庫へ向かった。そしてメアも、当然のように付き従った。
「メア」
「はい、お嬢様」
「昨日の続き」
「魔界南方領の古戦史でございますね。こちらに」
メアは背中の翼を小さく震わせ、ふわりと浮き上がると、目的の本を取り出した。3年前なら、背表紙の文字を読むだけでも苦労しただろう。だが今のメアは違う。貴族家の系譜、主要領地、過去の戦争、爵位、魔族種の特徴。カサンドラに叩き込まれた基礎と、リゼルの書庫通いに付き合う日々によって、彼女の知識は同年代の使用人見習いとは比べものにならないほど増えていた。もちろん、リゼルには遠く及ばない。
リゼルは本を読む。読む、というより吸い込む。一度目を通しただけで内容を記憶し、別の本に書かれた情報と結びつけ、矛盾を見つけ、余白に小さな印をつける。3歳の子供がやっていいことではない。だが、メアはもう違和感を覚えなかった。違和感を覚える段階は、とっくに過ぎていた。リゼルお嬢様は、こういう方なのだ。そう受け入れていた。
3歳の後半になる頃、リゼルは家族の食卓に同席する機会が増えていた。それまでも母セレスティアの膝に抱かれたり、短時間だけ顔を出したりすることはあった。だが、この頃になると、幼児用の椅子に座り、簡単な食事を取りながら、家族の会話を聞くことが許されるようになっていた。もちろん、まだ正式な晩餐に出る年齢ではない。だが、ヴァルクロア家の内々の食事であれば、父オルディアスも母セレスティアも、幼い次女がそこにいることを喜んだ。
メアは壁際に控えていた。エルミナの背後には、ゼノヴィアとミラベルが控えている。ゼノヴィアは相変わらず鋭い目でメアを見ており、ミラベルはその横で静かに場の空気を読んでいた。
その日の料理は、魔界貴族の食卓としては上等なものだった。強い香草で香りを立てた肉。濃厚な魔獣の骨髄を煮詰めたソース。甘味素材を惜しげもなく使った、重たい焼き菓子。魔力を含んだ果実酒の香り。どれも高価であり、豪奢であり、ヴァルクロア大侯爵家の食卓に相応しいものだった。少なくとも、この世界では。
リゼルは一口食べた。そして、表情を変えずに咀嚼した。
(……不味い)
口には出さない。出せば母が困る。父が眉をひそめる。料理人たちが処罰されるかもしれない。だから言わない。だが、内心でははっきりと断じていた。
(香りが強すぎる。味が重い。甘味の扱いが雑。魔力素材に頼りすぎて、食感と余韻を殺している。これは食文化ではない。暴力だ)
リゼルは、静かに匙を置いた。この世界の食卓は、力を誇示するためにあるのかもしれない。強い魔獣を狩り、希少な素材を並べ、高濃度の魔力を含む食材を惜しげもなく使う。それはそれで魔族らしい価値観なのだろう。だが、味の組み立てが粗すぎる。調理というより、素材の暴力を皿に乗せているだけだ。
(改善が必要だ)
リゼルは思った。
(いや、改善では足りない。革命だ。甘味、保存、加工、流通、贈答品、嗜好品市場。食文化が変われば、農林水産も変わる。生産品目も、流通網も、貴族間の贈答も、庶民の消費も変わる。食は文化であり、産業であり、支配構造の一部だ)
4歳にも満たぬ娘が、食卓でそんなことを考えているなど、誰も知らない。
セレスティアは、リゼルが少し食べるのを止めたことに気づき、心配そうに声をかけた。
「リゼル、口に合いませんか?」
リゼルは即座に顔を上げた。
「いいえ、母上。少し考えごとをしておりました」
「また考えごと?」
エルミナがくすりと笑う。
「リゼルちゃんは本当に考えるのが好きなのね」
リゼルは姉を見た。その瞬間、視界の端に浮かぶ黒紫の窓が、激しく乱れた。
対象名:#@Ω▽7ム£˚0◇§卍4≒
種族:8&%◆■▽卍£Ωム0
身分:ム§◇@卍3≠▓£&Ω1
年齢:▽#ム£◇卍
推定レベル:Ω&◆@§7▓▽ム
生命力:卍£≠◇9Ω#@▽ム4
魔力量:▓&§0◇@Ωム£≠8
筋力:≠7@卍Ω▓§◇5&
耐久:ム0#▽£≠@卍
敏捷:§Ω&◇9▓ム@£
器用:@≠卍6▽Ω§0&
知力:▓2Ω#£◇9@ム
精神耐性:3≠卍◆&§ム0
魔力制御:ムΩ1◇@#§卍6
礼法習熟:◆&卍3§ム2Ω0
社交適性:▽ム1≠#Ω&9
観察眼:0&▓#3Ω§5卍
親愛傾向:▽2&10ム◇#§
支配傾向:▓■&§Ω#◇*
独占傾向:卍3&10§▽Ω
危険度:◇▽*■&#卍
保有スキル
§Ω&*卍◇#:レベル@
卍=§&&▽Ω:レベル≠
▓&卍§◇Ω:レベル卍
ム=*§▓&卍:レベル◇
=卍§▓&◇:レベル_
■&卍§Ω◇:レベル*
■■■■:レベル■
状態
▽&卍§:Ω#≠
*§◇&:ム£卍
卍&§▽、**:@Ω&
=◇卍§:§▓≒
■■■■:微弱
備考:¥$#@ムΩ&≠§▽◇*卍_%£8##X$
(また文字化けか)
いや、違う――何かが彼女を隠している。
リゼルは表情を変えなかった。だが、内心では即座に訂正した。今までの乱れとは規模が違う。名前も種族も年齢も、数値の羅列すら、統一された暗号のようには見えない。ある桁は記号だけになり、別の桁は数字が生き残り、また別の項目は完全に空白に近い。まるで、決まった法則で潰れているのではなく、無秩序に食い荒らされているようだった。
目の前のエルミナは、いつも通り優しく、美しく、妹を愛おしむ姉の顔をしている。だが、その柔らかな笑顔の奥で、表示だけが今までにない速さで乱れ続けていた。嫌悪というには早い。敵意というにはまだ浅い。けれど、リゼルの胸の奥に、冷たい針のような違和感が残った。
「はい、姉上」
リゼルは静かに答えた。
「考えずに食べると、食材に失礼ですので」
オルディアスは満足げに頷いた。
「幼いながら殊勝なことを言う」
メアは壁際で表情を殺した。違う。絶対に違う。今のお嬢様は、おそらく食材への感謝ではなく、料理そのものの問題点を洗い出しておられた。そう思ったが、もちろん口には出さなかった。
エルミナは楽しそうにリゼルを見ている。
「リゼルちゃん、今日は書庫にいたの?」
「はい、姉上」
「難しい本ばかり読んでいるのね。私が3歳の頃は 人形遊び の方が好きだったわ」
「姉上らしいと思います」
「あら。それは褒めてくれているの?」
「はい。姉上には、姉上に似合うものがあります」
その言葉は礼儀正しく、穏やかだった。だが、どこか距離があった。エルミナはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、柔らかく微笑む。
「明日、私のお部屋に遊びに来る? 綺麗な人形があるの。きっとリゼルちゃんも気に入るわ」
リゼルは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、姉上。ですが、明日は書庫で調べたいことがございますので」
エルミナは一瞬だけ目を瞬かせたあと、微笑みを深めた。
「まあ。リゼルちゃんは本当に勉強熱心なのね。でも、少しくらい休んでもよいのではなくて?」
リゼルは、ほんのわずかに背筋を伸ばした。幼い肩。まだ小さな手。椅子に座る姿は、どう見ても3歳の子供でしかない。だが、次に発された言葉は、その姿とはあまりに釣り合っていなかった。
「大魔王ドラコー陛下と魔界、そして我がヴァルクロア大侯爵家の御為にも、学びを休む暇はございません」
一瞬、食卓の空気が止まった。メアは息を忘れた。それは、3歳児が口にするには異常な言葉だった。玩具が欲しいでも、甘味が欲しいでも、姉と遊びたいでもない。大魔王の名を出し、魔界のためと言い、大侯爵家のために学びを休まぬと告げる。幼い子供の背伸びと片づけるには、あまりに言葉が重く、あまりに方向が定まりすぎていた。
だが、オルディアスの顔は一瞬で輝いた。
「リゼル……!」
父は感極まったように身を乗り出した。大侯爵としての威厳を保とうとはしていたが、口元が緩むのを隠しきれていない。
「我が娘ながら、なんと見事な心がけだ。幼くして大魔王ドラコー陛下と魔界への忠義を忘れず、家の務めまで理解しているとは……!」
セレスティアもまた、胸に手を当て、目を潤ませるように微笑んだ。
「まあ、リゼル。なんて立派なの。あなたは本当に、ヴァルクロア家の娘なのですね」
母の声には誇りがあった。幼い娘の言葉を、危ういものとしてではなく、家の教育が実を結んだ尊い芽として受け止めている。魔界の貴族家に生まれた子が大魔王に忠義を示す。それは、この家では美徳だった。父母にとって、それは喜ばしいこと以外の何ものでもなかった。
メアだけは、背中に冷たいものを感じていた。このお嬢様は、今、子供として褒められるために言ったのではない。本気だ。大魔王ドラコー陛下と魔界。その言葉を口にした時のリゼルの声には、幼児の憧れとは違う硬さがあった。誰かに教えられた美辞麗句ではなく、自分の中で決定済みの誓約を、ただ短く表に出したような響きがあった。
そしてエルミナは、涼しい笑顔でそれを受け止めていた。
「まあ」
姉は、柔らかく目を細めた。
「リゼルちゃんは、本当に偉いのね」
声は優しい。褒め言葉も自然だった。だが、その笑顔は、父や母のように単純な喜びだけで満ちてはいなかった。少なくとも、メアにはそう見えた。エルミナは驚かない。取り乱さない。妹の異常なほど早熟な忠義の言葉を聞いても、ただ涼やかに微笑んでいる。まるで、珍しいものを見つけたように。まるで、綺麗な人形が思っていたより複雑に動いたことを、面白がっているように。
「けれど、無理はしないでね。リゼルちゃんは、まだ小さいのだから」
「お気遣い、感謝いたします、姉上」
リゼルは丁寧に頭を下げた。
「ですが、幼さは怠惰の免罪符にはなりません」
オルディアスはまた感動したように頷き、セレスティアはうっとりと微笑んだ。メアは、ただ静かに目を伏せた。
この食卓で、リゼル・ノクス・ヴァルクロアは初めて明確に示した。大魔王ドラコー陛下への忠義。魔界への帰属。そして、ヴァルクロア大侯爵家の娘としての自覚。それは誇らしい言葉だった。だが同時に、メアにはどこか、まだ幼い主の内側で燃える黒紫の炎が、ほんの一瞬だけ外へ漏れたようにも思えた。
ゼノヴィアの口元が動いた。何か言おうとしたのだ。あれはきっと、エルミナを慮っての言葉だった。リゼルが大魔王ドラコー陛下と魔界への忠義を堂々と口にし、父母の賞賛を一身に浴びた。その瞬間、ゼノヴィアはおそらく、エルミナの立場を守るために何かを言おうとしたのだろう。リゼルばかりが称えられる空気が面白くなかったのかもしれない。あるいは、エルミナ様だって、と言いかけたのかもしれない。
だが、その瞬間、ゼノヴィアの表情がわずかに歪んだ。ミラベルが、何食わぬ顔でゼノヴィアの足を踏んでいた。食卓の影になって、父オルディアスや母セレスティアからは見えない位置である。ゼノヴィアはミラベルを睨んだが、ミラベルは涼しい顔で前を向いたまま、小さな声で囁いた。
「ゼノ。今は駄目よ」
「……っ」
「エルミナ様の前」
ゼノヴィアは歯を食いしばる。だが、黙った。ミラベルは分かっていた。今ここでゼノヴィアが口を挟めば、場は乱れる。父母の喜びに水を差し、エルミナの名まで巻き込む。ゼノヴィアの忠義は本物でも、出す場所と時を間違えれば、ただの醜い嫉妬に見える。それを、ミラベルは一瞬で察して止めたのだ。
メアはそれを見ていた。ゼノヴィアは分かりやすい。怒れば顔に出る。だが、ミラベルは違う。笑顔のまま足を踏み、笑顔のまま場を整える。ゼノヴィアより穏やかに見えて、ずっと器用で、ずっと嫌なことができる。
ミラベルはふと、メアの視線に気づいた。そして、にこりと笑った。
その笑みは、まるで言っていた――見たわね? でも言えないでしょう?
メアは静かに目を伏せた。
食事が終わると、リゼルは部屋へ戻る。メアはその小さな背を追いながら、廊下でそっと声をかけた。
「お嬢様、エルミナ様のお誘いはやはりお断りに……?」
「行きたくない」
リゼルは短く言った。
「よろしいのですか?」
「姉上は優しい」
リゼルは歩きながら言った。
「優しい人の部屋には、優しいものがある。私は、それを見るのが少し疲れる」
メアは黙った。意味の全てを理解できたわけではない。けれど、寂しさに似た何かを感じた。
「お嬢様は、エルミナ様がお嫌いなのですか?」
問いかけた瞬間、メアは失言だったかと思った。けれどリゼルは怒らなかった。ただ、廊下の窓の外を見た。魔界の空は暗く、遠くで雷が光っている。
「嫌いではない」
リゼルは言った。
「だから、面倒」
幼い声だった。けれど、その言葉は重かった。メアはそれ以上聞けなかった。




