Ver.0 TUTORIAL 5-1 教育してやろう
いつも『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、ありがとうございます。
四歳。
まだ幼いと呼ばれる年齢ですが、考え方も、言葉も、そして他者との向き合い方も、少しずつ形になっていく頃です。
今回は、成長した少女が自らの価値観をはっきりと表に出し始めるお話です。
それが周囲に何をもたらすのかも含めて、お楽しみいただければ幸いです。
4歳を迎えた頃、リゼル・ノクス・ヴァルクロアの口調は明確に変わり始めた。もちろん、礼儀は崩さない。父には父として、母には母として、姉には姉として、講師には講師として、必要な敬意を払う。だが、その敬意は甘えや幼さとは違った。言葉は硬く、思考は冷たく、質問は鋭く、無能に対しては容赦がない。
その変化を最初に思い知らされたのは、魔法理論の講師たちだった。講師は3人いた。
魔法理論の基礎を教える老講師ディオル。ワイトキング――かつて人間界で謀反に遭い、王位を奪われた末に処刑された王の亡骸が、魔界へと流れ着き、濃密な魔力を浴びて魂をこの世に留め続けている存在だ。種族と呼べるものではない。ただ一体しか存在しない、稀有な現象そのものだった。頭蓋の奥には、生前の治世の記憶と、裏切られた恨み、そして流れ着いてから積み重ねた幾世紀分の知識が静かに眠っている。
だが、生前の有り余る豊富な知識から彼を超要する魔界貴族は少なくない。
詠唱構成を担当する女講師ファルネア。バフォメット種の出で、湾曲した双角と黒紫の翼を持つ。杖の先に浮かべた紫炎の五芒星と、常に傍らに携える古い魔導書。声そのものに魔力を宿す種族として知られ、構成の精密さにかけては他の追随を許さない。
実技補助を担当する若い魔術師グレイス。ヴァンパイア族――何百年生きようと、外見だけは若いまま留まり続ける種族だ。理論よりも実践、正確な魔力操作を体で覚えることに長けている。
いずれも、魔界の中では名の知れた実力者たちだった。3人とも、最初は幼い大侯爵令嬢に基礎を教えるだけの穏やかな仕事だと思っていた。その認識は、一刻もしないうちに砕けた。
「では、リゼル様。本日は八節詠唱による基礎障壁魔法の構築について学びましょう」
老講師ディオルは、黒板に魔法陣を書きながら穏やかに言った。
「障壁魔法は、第1節で魔力を起こし、第2節で方向性を定め、第3節で外殻を組み、第4節から第8節で安定化を行います。まずは形を正確に覚えることが重要で――」
「ディオル先生」
リゼルが静かに手を上げた。
「はい、リゼル様。ご質問でしょうか」
「その理論ですと、いささか第3節までの詠唱に時間がかかります。私ならば第7節と第5節を入れ替え、第3節へ接続します。そうすれば第8節に要する時間は簡略化可能だと思われますが、いかがでしょうか?」
ディオルの手が止まった。黒板に描きかけられていた魔法陣の線が、途中で震える。
「……リゼル様。それは、基礎課程では扱わぬ構成でございます」
「扱わぬ理由は?」
「初学者には、理解が難しいためです」
「理解できない者には順序通りに教えればよろしい。しかし、理解できる者にまで冗長な構成を正解として教える理由にはなりません」
メアはリゼルの後ろで控えながら、静かに胃を押さえた。始まった。先生方の受難が。
ディオルは顎の骨を、かたりと小さく鳴らした。
「もちろん、理論上は可能です。しかし、第7節を前倒しにすると、魔力の外殻安定が一時的に不足します。そのため、基礎としては危険が――」
「外殻安定が不足するのは、第2節で魔力方向を固定しすぎるからでは?」
「……はい?」
「第2節を固定ではなく半固定に留めれば、第7節を前倒しにしても外殻の歪みは限定的です。むしろ第3節の外殻形成後に第5節を挟む方が、魔力の逃げが大きくなります。ディオル先生の構成は安全ではありますが、速度に難があります。実戦では使いづらいかと」
ディオルの骨の指先が、かたかたと小さく震えた。女講師ファルネアが助け船を出すように口を開く。
「リゼル様。ですが、これはあくまで学習用の構成です。実戦用の最適化は、もう少し魔力操作に慣れてから――」
「ファルネア先生」
リゼルの視線がファルネアへ移った。
「学習用の構成が実戦用の構成と乖離しすぎている場合、学習者は後に癖を矯正する必要があります。それは教育として非効率です。安全性を重視するなら、最初から実戦構成に近い簡易型を提示すべきでは?」
「そ、それは……」
「たとえば、第1節で魔力を起こす段階で、外殻用と内圧用に分ける。第2節で半固定。第3節で仮外殻。第4節と第6節は、独立した工程ではなく第3節の仮外殻に統合する。第5節を飛ばして第7節を接続し、最後に第5節を補助として戻す。この方が、詠唱時間を削りつつ安定性も確保できる」
リゼルはそこで、小さな手を黒板へ向けた。
「メア」
「はい、お嬢様」
「今の順序を復唱」
いきなり振られたメアは、背筋を伸ばした。
「第1節で魔力を外殻用と内圧用へ分割。第2節で半固定。第3節で仮外殻。第5節を飛ばし、第7節を接続。最後に第5節を補助として戻す、でございます」
「よろしい」
リゼルは頷いた。
「ファルネア先生。私のメイドでも復唱可能な程度には整理できています。ならば、基礎として提示できぬほど複雑ではありません」
メアは少しだけ遠い目をした。
(お嬢様、私を盾にしないでくださいませ……)
若い魔術師グレイスが、どうにか挽回しようとした。
「リゼル様。では、実際にその構成で小規模障壁を作ってみましょう。ただし、魔力暴走の危険があるため、私が補助を――」
「不要です」
「え?」
「補助を入れれば、検証になりません」
「し、しかし、リゼル様はまだ4歳で――」
「年齢は魔力構成の正否に関係ありません」
リゼルは椅子から降り、小さな手を前へ出した。メアは息を呑む。ディオルも、ファルネアも、グレイスも、止めるべきか迷った。だが、次の瞬間には、リゼルの指先に黒紫の魔力が整然と集まり始めていた。
第1節。魔力が2層に分かれる。第2節。外側の魔力が、完全固定ではなく薄く揺らぎを残した形で留まる。第3節。小さな半透明の障壁が形を取る。第7節。本来なら後半に来るはずの安定化が、仮外殻へ直接接続される。最後に第5節。遅れて補助線が入り、障壁の内側を支える。
小さな障壁は、静かに完成した。美しかった。無駄がなかった。そして、講師たちの顔色は悪かった。
「……先生方」
リゼルは障壁を消し、振り返る。
「今の構成で、何か問題点は?」
ディオルは唇を動かした。だが、すぐには言葉が出ない。ファルネアが代わりに答えた。
「理論上の問題は……ありません。ただ、通常の初学者には、魔力分割の精度が難しいかと」
「ならば、魔力分割ができる者にはこの構成を教えればよいのです。できぬ者には従来構成でよろしいと思われます。能力差を無視して一律に遅い構成を教えるのは、教育ではなく足枷です」
グレイスが小さく呻いた。
「リゼル様、それは……おそらく正しいです」
リゼルは頷いた。
「正しいなら、次回から教材を修正してください」
4歳児が講師に教材修正を命じた瞬間だった。メアは心の中で、講師たちに深く頭を下げた。
(申し訳ありません、講師様方。お嬢様は悪気がないわけではないのです。悪気がないのではなく、正しさで殴っておられるのです)
授業が終わった時、ディオルの眼窩に灯る青い燐光は、心なしか弱々しく揺らいでいた。骨の身であるがゆえに顔に皺は刻まれないが、纏う空気だけは10歳も老け込んだかのようだった。ファルネアは黒板の前で自分の術式図を見直し、グレイスは小さな障壁を何度も再現しようとして失敗していた。
それから数日後の昼下がり、リゼルは再びエルミナから誘いを受けた。場所は屋敷の中庭へ続く回廊だった。曇りがちな空から、魔界特有の鈍い光が薄く差し込んでいる。回廊の柱には控えめな魔火が灯され、庭園には黒紫の花々が濡れたような艶を放っていた。そこに立つエルミナは、まるでその淡い光の中に置かれた一輪の花のように美しかった。彼女の背後には、ゼノヴィアとミラベルが控えている。
「リゼルちゃん。今日こそ、私のお茶会に来てくれない?」
エルミナは柔らかく微笑んだ。
「珍しい果実のお菓子も用意したの。きっとリゼルちゃんも気に入ると思うわ」
リゼルは、いつものような略式の会釈ではなく、わざわざスカートの裾を摘み、片足を引いて深く沈み込む、完璧な淑女の礼――カーテシーを見せた。角度も、視線の落とし方も、間の取り方も、非の打ちどころがない。だが、それは親愛を示す仕草ではなかった。むしろ逆だ。家族に対して用いるにはあまりに格式張った、他人行儀な礼。
姉との距離を、あえて他人行儀な様式の中に押し込めるための礼だった。
「お誘い、感謝いたします、姉上。ですが、本日は魔法理論の再検証がございます。先生方の説明に不備が多く、放置できませんので」
エルミナの微笑みは崩れなかった。ただ、ほんのわずかに目が細くなる。
「そう。また、お勉強なのね」
「はい。基礎の欠陥は後の破綻を招きます。遊興より優先されるべきかと」
その一部始終を、ゼノヴィアは見ていた。妹が姉に向けた、あまりにも整いすぎた礼。他人にしか見せないはずの、線を引くための礼儀。エルミナがそれに気づかないはずがないのに、何も言わず微笑んでいる。その様子が、ゼノヴィアの中で何かに火をつけた。
ゼノヴィアの眉がぴくりと動いた。ミラベルが、すぐに低く言う。
「ゼノ。駄目よ」
その声は、訓練室で見せた笑顔の毒とは違っていた。短く、低く、命令に近い。エルミナの背後に立つ者として、今ここで余計な波風を立てるなと告げる声だった。
だが、ゼノヴィアの怒りはもう止まらなかった。
「てめぇ、エルミナ様が何度誘ってると思ってるんだ」
「ゼノ」
ミラベルの声がさらに低くなる。
「黙りなさい」
「うるさい、ミラ!」
ゼノヴィアはミラベルの制止を振り払うように一歩前へ出た。
「エルミナ様がわざわざ時間を作ってくださってるんだぞ。それを毎回毎回、本だの授業だの、くだらない理由ばかり並べやがって」
メアが反射的にリゼルの半歩前へ出ようとした。
「ゼノヴィアさん、リゼルお嬢様に対して――」
「夜魔族は黙ってろ」
ゼノヴィアの視線がメアを刺した。その一言で、リゼルの空気が変わった。表情は笑っていない。怒鳴りもしない。だが、目の奥だけが急激に冷える。まるで、感情ではなく処理対象としてゼノヴィアを認識したような目だった。
視界の端に、見慣れた黒紫の窓がすっと開く。ゼノヴィアの数値が、静かに流れていった。
――――――――――――――――――
名前:ゼノヴィア
種族:黒斑獣人族ザグレム種
身分:エルミナ付き侍女補佐/元奴隷
年齢:14歳
レベル:620
生命力:7600
魔力量:1600
筋力:940
耐久:870
敏捷:1460
知力:360
精神:1080
統率:230
政治:60
礼法:210
忠誠適性:測定不能(エルミナへの忠誠が突出)
主要適性:護衛/索敵/近接格闘/追跡
危険度評価:中
敵対意志:なし
備考:エルミナへの忠誠が極端に高い。エルミナを害する存在に対してのみ、敵対意志が瞬間的に跳ね上がる。
――――――――――――――――――
(レベル620――及第点、といったところか)
悪くはない。年齢を考えれば、むしろ優秀な部類だろう。だが、それだけだった。リゼルは視線をわずかに動かし、自分自身の表示も横目で確かめる。
――――――――――――――――――
名前:リゼル・ノクス・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵家次女
年齢:4歳
レベル:1580
生命力:58000
魔力量:74000
筋力:3100
耐久:3300
敏捷:4200
知力:8900
精神:7600
統率:2200
政治:1800
礼法:3900
忠誠適性:9999(大魔王ドラコー陛下への絶対忠誠)
主要適性:大規模殲滅魔法/複合詠唱理論/対人制圧/高速拘束術
危険度評価:測定不能
敵対意志:状況による
備考:4歳とは思えぬ魔力運用能力を持つ。表向きは大侯爵家の令嬢だが、実態は既に一軍を単独で凌駕する戦闘力を有する。
――――――――――――――――――
(こちらは1500超え)
比較する意味すら薄い差だった。獣が精一杯に牙を剥いたところで、山を崩せはしない。
(まただ)
リゼルは、胸の奥で静かに思った。
(この獣は、よく吠える。姉上の前では忠犬のつもりかもしれないが、実態は躾の悪い野良ネコだ。しかも、吠える相手を選ぶ。私ではなく、メアに牙を向ける。その程度の知恵だけはあるらしい)
嫌悪があった。怒りよりも、先に嫌悪があった。無能な獣が、自分より弱い者にだけ牙を向ける。その構図が、リゼルにはひどく不快だった。
もっとも、ゼノヴィアが本当に憎んでいるものが何なのか、リゼルはまだ知らない。獣人の血を引く彼女が、貴族という存在そのものに向ける感情の底に何があるのか。今のリゼルには、ただの粗暴な従者としか映っていなかった。
「ゼノヴィア」
リゼルは静かに名を呼んだ。敬称はない。その時点で、回廊の空気が一段冷えた。
「お前は以前から、私のメイドに対して随分と吠えていたな」
「あ?」
「夜魔族。泣き虫。大侯爵家に相応しくない。弱い。役立たず。主人に尻尾を振っているだけ。記憶しているだけでも、それなりの数になる」
メアの胸が、きゅっと痛んだ。リゼルは覚えていた。自分が言い返せなかった言葉を。聞こえないふりをした侮辱を。泣きそうになった日の、あの小さな棘を。
「ミラベル」
リゼルの視線がギロリ!
と、横へ滑った。ミラベルの顔から、わずかに笑みが消えた。
「……はい、リゼル様」
「お前もだ。起動時間の少ないアルラウネ族のくせに偉そうにしているな。褒め言葉に見せかけた侮辱は、聞く者を選べば有効だろう。だが残念だったな。私もそれを聞いている」
ミラベルは一瞬、唇を結んだ。
「私は、そのようなつもりではございませんでした」
「そうだろうな。お前のような者は、いつもそう言う。悪気はなかった。褒めたつもりだった。相手が傷つくとは思わなかった。実に便利な逃げ道だ」
その言葉を口にした瞬間、リゼルの胸の奥に、前世の記憶がほんのわずかに滲んだ。
(……何度も聞かされた台詞だ)
(怒鳴った側は、指導のつもりだったと言う。仕事を押しつけた側は、期待していたからだと言う。成果を奪った側は、チームの成果だと言う。傷つけた側は、冗談のつもりだったと言う。逃げ場を塞いだ側は、そんなに深刻に受け取るとは思わなかったと言う)
(悪気はなかった。褒めたつもりだった。君のためを思って言った。そんなつもりじゃなかった。その言葉は、刃を握った者が、自分の手を汚さずに済ませるための布だ。刺された側の血を拭うためではない。刺した側の指先を、綺麗に見せるためだけの布だ)
(パワハラも、モラハラも、カスハラも、セクハラも、名前を変え、場所を変え、笑顔や善意や冗談の皮を被って、人の尊厳を削っていく。相手が傷つけば、弱いと言う。耐えれば、まだいけると踏みつける。壊れれば、そんなつもりではなかったと逃げる。私はそれを知っている。魂に刻まれるほど、知っている)
(だから嫌悪する。力ある者が、逃げ道を用意してから弱い者を刺すことを。優しさの形をした刃を。善意を装った支配を。相手の痛みを、相手の弱さとして処理する卑劣さを)
リゼルは淡々と言った。
「だが、毒を用意してから逃げ道へといざなう者を、私は嫌悪する」
ミラベルは黙った。ゼノヴィアのように怒鳴ることはできない。怒鳴れば、リゼルの言葉を認めることになる。かといって、笑って流せるほど軽い指摘でもなかった。彼女はそこで初めて、自分の柔らかな悪意が4歳の幼女に見抜かれていたことを理解した。
エルミナは、何も言わなかった。穏やかな笑顔のまま、ただ見ている。ゼノヴィアが侮辱されても、ミラベルが追い詰められても、彼女はすぐには止めない。眉ひとつ動かさず、まるで自分の庭で珍しい花が咲くのを眺めているかのように、微笑んでいた。
メアは、その笑顔にぞっとした。
(エルミナ様は……止めないのですか?)
ゼノヴィアはエルミナの従者だ。ミラベルもそうだ。リゼルの言葉は、2人を明確に傷つけている。それなのに、エルミナは何も言わない。自分の従者がリゼルに切り刻まれていくのを、穏やかに見ている。その異常な静けさが、メアには恐ろしかった。
「てめぇ……」
ゼノヴィアの声が低く震えた。
「エルミナ様の前で、よくも……!」
「ほう」
リゼルは目を細めた。
「まだ吠えるか、このメス猫は。ふん」
その一言で、ゼノヴィアの中の何かが切れた。先ほどまでの怒りは、まだ主を侮辱された従者としての怒りだった。だが今の言葉は違う。リゼルはゼノヴィア自身を、完全に足元の獣として見下した。しかも、エルミナの前で。エルミナの大切な従者である自分を、メス猫と呼んだ。
ゼノヴィアの身体が沈んだ。次の瞬間、彼女の指先の爪が獣のそれへと変わった。人の形を保っていた爪が伸び、反り、刃のように鋭さを増す。魔力で急拵えした武器ではない。獣人の血が、怒りに呼応して本来の形を取り戻しただけだ。床を蹴る音が響き、ゼノヴィアの身体がリゼルへ向かって跳ねた。
「ゼノ、駄目!」
ミラベルが叫んだ。だが遅い。ゼノヴィアの爪が、幼いリゼルへ届こうとする。
その瞬間、リゼルは笑った。年齢に似合わぬ、深く昏い笑みだった。
「よろしい。ようやく野良猫らしくなったな」
小さな身体が沈み、次の瞬間には跳ね上がっていた。低い姿勢から一気に膝を伸ばし、地を蹴る。ゼノヴィアの爪が空を切るより先に、リゼルの拳がその懐へ潜り込んでいた。
鈍い音。拳が腹の中心に深くめり込む。ゼノヴィアの跳躍の勢いがそのまま殺され、身体が一瞬、宙で止まった。
「――ッ、ぐ……ぇ……」
空気を全て吐き出したような声だった。目を見開いたまま、ゼノヴィアの身体が力を失っていく。リゼルはその隙を逃さなかった。落下してくるゼノヴィアの髪を、小さな手でわし掴みにする。
「――かはっ!?」
そのまま、体重の何倍もの力で床へ叩きつけた。石の床が鈍く鳴り、ゼノヴィアの背が跳ねる。爪はとうとう、リゼルの服の裾にすら触れられなかった。
「ぐ……あ……」
床に伏したまま、ゼノヴィアは震える手で身を起こそうとした。だが、髪を掴む小さな手の力は緩まない。それどころか、額を石畳へ押し付けるように、じわりと力が増した。
「どぉしたぁ、メス猫ぉ?」
リゼルは、髪を掴んだ手をぐいと持ち上げ、うつ伏せのゼノヴィアの顔を少しだけ床から浮かせた。
「粋がるだけ粋がっておいて、そのザマか? 無駄飯喰らいが!」
声には、幼い響きの奥に、はっきりとした嘲りが滲んでいた。ゼノヴィアは歯を食いしばり、床を爪で掻いた。伸ばした爪が石に傷をつけたが、体勢はどうにもならない。
「ぐっ……離せ……!」
「離せ?」
リゼルは首を傾げた。
「命令する立場だと思っているのか? 随分と教育の足りない猫だ」
リゼルは掴んだ髪の力を緩めぬまま、もう片方の手をゼノヴィアの背へかざした。指先に、黒紫の魔力がごく小さく灯る。
「ならば、少し躾けよう」
得意技のうちでも、最も基礎の重力術式だった。本来なら、訓練された成人魔族が受けても軽い圧迫感を覚える程度の、下級も下級の代物。だが、込める魔力の絶対量が違いすぎれば、下級も上級もない。
「重力魔法――《グラビス》」
囁くような詠唱とともに、ゼノヴィアの背に見えない重みがのしかかった。
「がっ……あ、があああッ……!」
絶叫だった。石の床に押し付けられた背が、内側から圧し潰されるように軋む。殺傷を意図した威力ではない。ただの初級魔法だ。だが、リゼルとゼノヴィアの間にある魔力の桁の差が、その「初級」を凶器に変えていた。
「ゼノ!」
ミラベルが青ざめる。メアも息を呑んだ。
リゼルは、笑っていた。冷たくではない。楽しそうに。相手の反応を観察し、苦痛の度合いを調整し、どこまでなら壊れずに済むかを測るような、残酷な楽しさだった。
「どうした、ゼノヴィア。吠えろ。先ほどまで随分と元気だっただろう」
「くっ……ちく、しょう……!」
「その程度か。姉上の従者とやらは、口ほどにもないな。いや、訂正しよう。口だけは達者だった」
リゼルは、重圧の術式にほんの少しだけ魔力を足す。それだけで、圧の桁が変わった。
「があっ……!」
ゼノヴィアの額に汗が滲む。歯を食いしばり、自由な方の手で床を爪で掻く。伸ばした爪が石の床に傷をつけたが、重みは緩まない。
エルミナはまだ止めなかった。穏やかな笑顔のまま、ゼノヴィアが苦しむのを見ている。まるで、それが必要な時間であるかのように。
メアの背筋が冷えた。
(この方は……今、ゼノヴィアさんを助けようとしていない)
それは冷酷とは少し違った。エルミナは怒っていない。焦ってもいない。悲しんでもいない。ただ、自分の大切な従者が苦しむ様を、自分の好きなタイミングで止めるために眺めている。その異常性が、メアにはリゼルの残酷さとは別の意味で恐ろしく思えた。
やがて、エルミナがゆっくりと口を開いた。
「リゼルちゃん」
声は穏やかだった。いつものように、柔らかく、甘い。
「そろそろ、ゼノを許してあげて貰えないかしら?」
リゼルは重圧の魔力を緩めた。だが、髪を掴む手はまだ完全には放さない。彼女はエルミナへ顔を向け、にっこりと笑う。
「姉上のお願いでしたら」
そして、リゼルは重圧の魔力と髪を完全に解放した。ゼノヴィアの身体が床に崩れる。息が荒い。爪はゆっくりと縮み、指先へ戻っていった。全身に重みの余韻が残っているのか、立ち上がろうとしても上手く力が入らないようだった。
その姿を見下ろしながら、リゼルはゆっくりとしゃがみ込んだ。小さな手が、ゼノヴィアの頭に触れる。次の瞬間、その手がゼノヴィアの頭を床へ押し付けた。
「姉上ぇ」
リゼルは、邪悪なほど甘ったるい声音で言った。
「このメス猫は、私が代わりに殺処分して差し上げましょうかぁ?」
エルミナは微笑んだ。
「駄目よ、リゼルちゃん」
その声は、ひどく穏やかだった。
「ゼノは私の大切な子なの」
リゼルは目を細める。
「あらぁ、そうで御座いますかぁ?」
わざとらしく、甘く、幼い声で。
「畏まりましたぁ」
そう言ったあと、リゼルはゼノヴィアの耳元へ顔を近づけた。そして、声色を変えた。先ほどまでの甘さを残したまま、底にどす黒い嘲りを滲ませる。
「おい、メス猫ぉ」
ゼノヴィアの目が見開かれる。
「優しい優しい飼い主様が、助けてくれってよぉ? よかったなぁ、姉上がお優しい方で」
「くそ……調子に乗るなよ……」
「おいコラ、聞いてんのかよ、メス猫ぉ!!」
リゼルの手に力が入る。ゼノヴィアの顔が床へ叩きつけられた。鈍い音が回廊に響く。
「リゼル様!」
ミラベルが叫んだ。今度は本気だった。顔色は青ざめ、先ほどまでの計算高さは消えている。さすがに、ここから先は駄目だと判断したのだろう。彼女は一歩踏み出し、震える声で言った。
「おやめください。これ以上は、エルミナ様の従者として看過できません」
リゼルは、ゆっくりとミラベルを見た。その目は冷たかった。先ほどまでの甘さも、楽しげな色もない。ただ、邪魔なものを見た時の目だった。
「遅いな、ミラベル」
ミラベルは息を呑む。
「止めるべきはゼノヴィアが爪を出す前だ。いや、メアを侮辱したあの時にこそ、お前は口を塞ぐべきだった。食堂で私の目を盗んで足を踏んだ、あの手際で」
リゼルはゼノヴィアの頭から手を離した。
「中途半端な制止は、制止ではない。責任を逃れるための装飾だ」
ミラベルは何も言えなかった。エルミナは、まだ微笑んでいる。だがその笑みは、ほんの少しだけ薄くなっていた。
リゼルは立ち上がり、服の裾を整えた。つい今しがた従者を床に叩きつけた者とは思えないほど、所作は綺麗だった。そしてエルミナへ向き直る。
「姉上」
声は冷たく、礼儀正しかった。
「授業がございますので、失礼致します」
深々と頭を下げる。その礼は完璧だった。だからこそ、ひどく歪んで見えた。
「行くぞ、メア」
「……はい、お嬢様」
メアは震えそうになる足を叱りつけ、リゼルの後ろに続いた。回廊を歩きながら、一度だけ振り返りそうになる。だが、振り返らなかった。今振り返れば、きっとエルミナの笑顔を見ることになる。それが怖かった。
リゼルの背中は小さい。けれど、今のメアには、その背中がとてつもなく遠く、大きく見えた。
回廊に残されたのは、エルミナと、床に倒れたゼノヴィアと、青ざめたミラベルだった。ゼノヴィアは震える腕で床を叩いた。
「ちくしょぉおおおおおおおおおおおおッ!!」
絶叫が回廊に響く。ミラベルは何も言えず、ただゼノヴィアのそばへ膝をついた。触れようとして、躊躇う。どこを支えればいいのか、どう声をかければいいのか、一瞬分からなかった。
エルミナは、リゼルが去っていった方を見ていた。穏やかな笑顔は、もうなかった。怒っているのか。悲しんでいるのか。それとも、別の何かを考えているのか。ミラベルには分からなかった。ただ、エルミナの目は、去っていく妹の背中を静かに追っていた。その表情は、姉が妹を見るものとしては、あまりにも静かだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これまで内側に留めることの多かったリゼルの価値観が、今回はかなりはっきりと表に出ました。
非効率を嫌い、悪意を隠した言葉を嫌い、そして自分の大切な者へ向けられた侮辱を決して許さない。
その一方で、彼女自身もまた、決して優しいやり方を選ぶ人物ではありません。
そして今回、リゼルとエルミナ、その周囲にいる者たちの間にあった距離も、少しずつ形を持ち始めました。
まだ決定的な何かが起きたわけではありません。
ですが、同じ屋敷で育つ二人の姉妹が、同じものを見て、同じように考えるとは限らない。
その違いが、これからどのように積み重なっていくのか。




