Ver.0 TUTORIAL 5-2 ヴァルクロアの白い悪魔
それからしばらくして、リゼルは厨房にたびたび現れるようになった。
料理長以下、厨房の者たちは一斉に動きを止めた。大侯爵家の次女が、しかも4歳の令嬢が、使用人の仕事場へ足を運ぶこと自体が異例だったからだ。リゼルはそんな視線など気にせず、作業台の上に置かれた卵、乳脂、果実、甘味素材を順に見た。
あの会食以来、リゼルは魔界の食文化に対する不満を胸の奥で育てていた。
魔界のメシは不味い――。
正確には、素材は良い。魔力を含む果実も、魔獣の肉も、香草も、酒も、素材としての力は強い。
だが、強すぎる。料理人たちは素材の魔力や香りを誇示することに慣れすぎており、調和させるという発想が弱い。甘味は重く、香りはしつこく、食後に出される菓子ですら、まるで戦場で振るわれる鈍器のようだった。
ならば、変えればいい。食文化を変えれば、食材の作り方が変わる。食材の作り方が変われば、農林水産が変わる。保存、加工、流通、贈答、嗜好品市場、貴族の茶会、庶民の小さな贅沢。その全てに波及する。リゼルは、まだ4歳だった。だが、内心ではすでに、菓子ひとつを起点に魔界の食文化を揺らすつもりでいた。
(それに、菓子作りなら私にも分がある)
前世の記憶が、胸の奥でひっそりと疼く。
(パンデモニウム・オンラインの大型アップデート。あれのせいでどれだけ潰されたと思ってる。メンテナンスは長い時で丸2日。サーバーに入れない間、他にやることがなかった。攻略サイトも更新されない。フレンドだのギルドだの、人間のプレイヤー同士の馴れ合いなど最初から数に入れていない。私のチームは7人、全員NPCだ。サーバーが落ちれば、当然あいつらとも会えない。だから、仕方なく――本当に、仕方なく――菓子を焼いていた)
(最初はただの暇つぶしだった。だが、アップデートは月に1度は必ず来る。しかもいつも長い。気づけば、スポンジの膨らみ方も、クリームの角の立て方も、果実の水分をどう散らすかも、体が勝手に覚えていた。ゲームの腕は多少落ちたが、代わりに製菓の腕だけは無駄に育った。……我ながら、皮肉な話だ)
前世――彼女がまだ黒瀬真璃亜と呼ばれていた頃、菓子作りの腕は、あの長いメンテナンスの合間に育ったものだった。当人にとっては暇つぶしの延長でしかなかったが、積み重ねた時間だけは、決して軽くはなかった。
リゼルは、作業台の上の卵を一瞥した。
「料理長」
「は、はい、リゼル様」
「白翼鶏の卵を3顆。精霊小麦粉を90マグラム。白糖精霊の欠片を90マグラム、ただし生地には3回に分けて入れろ。乳脂の雫は20マグラム、冷やしてから聖乳の雫15マナリルと合わせて40マグドに温めておけ」
厨房が、静まり返った。
「……は?」
料理長は、聞き取れなかったわけではない。マグラムもマナリルもマグドも、学のある魔族なら誰もが知っている魔界共通の単位だ。学院で習い、書物で目にし、頭では当然理解している。大侯爵家の厨房ともなれば、当然そのための道具も一級品が揃っている。魔導秤も、精密な魔導温度計も、砂ではなく魔力の流れで時を刻む魔導砂時計も、壁際にずらりと並んでいた。だが、それを実際にこの手で読み取りながら調理したことが、彼にはただの一度もなかった。
「リ、リゼル様。道具はございます。ございますが……当厨房では、代々この手と鼻と勘で味を作って参
りましたもので……」
料理長は震える手で、壁の魔導秤に歩み寄った。目盛りは確かにマグラム単位で正確に刻まれている。だが、彼がこれまでその数字を読んだことは、ほとんどなかった。粉を一掴み、卵の黄身の照りを見て、生地の匂いを嗅いで、長年の感覚だけで仕上げてきたのだ。
「秤はそこにあるだろう」
「あ、ございます。ございますが、数字を読みながら手を動かすというのが、その、慣れておらず……!」
「では今すぐ慣れろ」
料理長は目眩を起こしかけた。副料理長が震える手で魔導秤に粉を乗せ、目盛りを読み上げようとして
「え、えっと、これは……」と固まる。若い見習いが「僕、数字は苦手で……!」と半泣きで訴え、別の一人が「感覚と数字が一致しません! いつもの一掴みが、こんなに軽いなんて……!」と魔導秤の前でわなわなと震えた。
鍋が倒れる音がした。誰かが粉を派手にこぼした。見習いの一人が魔導温度計を覗き込みながら「170マグドって、こんなに数字が細かいなんて知りませんでした……!」と炉の前で立ち尽くし、火加減担当の老料理人が「わしは炎の色だけで70年やってきたんじゃ! 今更数字で見ろと言われても!」と怒鳴り返す。厨房はまるで戦場だった。
「時間はメナスで測れ」
リゼルが淡々と付け加えた一言が、とどめだった。
「メ、メナスとなりますと、あの魔導砂時計を……!」
「あるのだろう。使え」
「使ったことがほとんどなく……いつも匂いと音で仕上げどきを判断しておりましたもので……!」
料理長は膝から崩れ落ちそうになるのを、ぎりぎりのところで踏みとどまった。厨房の全員が、たった4歳の令嬢が放つ簡潔な数値の羅列に振り回され、右往左往していた。誰かが魔導秤の数字と睨めっこをして固まり、誰かが慣れない手つきで魔導温度計を確かめては首をひねり、誰かが魔導砂時計の魔力の流れをひたすら見つめて祈るような顔をしていた。
メアは戸口近くで、この惨状をただ見ていた。
(お嬢様……当たり前のように魔界共通の単位を使われるだけなのに、厨房がここまで……)
リゼルは腕を組み、厨房の混乱を眺めながら、ふむ、と小さく頷いた。
「思ったより手間取るな」
「お、恐れながらリゼル様……もう少し、当厨房の者たちが慣れるまでご猶予を……勘で、ある程度は……」
「勘?」
リゼルの声が、一段冷たくなった。
「料理と菓子作りを同列に語るな。料理は多少の誤差を腕で補える。だが菓子作りは化学だ。粉と水分と油脂と気泡の比率がわずかに狂えば、生地は膨らまず、沈み、分離する。勘は再現性を持たない。今日うまくいっても、明日同じ手が同じ結果を出す保証がどこにある」
「そ、それは……」
「目分量も同様だ。許さない。今この場で、正確な数値を読み取れるようになれ」
厨房が凍りついた。だが、リゼルは待たなかった。
「料理長、まず卵を魔導秤に乗せろ。数字を読め」
「は、はい……! え、えぇと……」
「読め」
震える声で、料理長が目盛りを読み上げる。副料理長が粉を量り、見習いが恐る恐る温度計を覗き込み、老料理人でさえ渋い顔をしながら魔導砂時計の前に立った。誰もが、生まれて初めて自分の道具の数字と正面から向き合っていた。
厨房中に、緊張と静寂が満ちた。誰も冗談を言わない。誰も勘に頼ろうとしない。ただ、数字と、リゼルの指示だけが、厨房を支配していた。
その後の工程は、数字と共に進んだ。
「卵は泡立てろ。砂糖は一度に入れるな。3回に分けろ。乳脂は冷やしてから混ぜろ。果実は薄く切れ。厚くするな。香りが強すぎるものは外せ」
料理長は目を白黒させながらも、今度は素直に頷いた。単位の惨劇を経た後では、この程度の指示はむしろ聞き取りやすいとさえ感じられた。
「この配合ですと、生地が潰れる恐れがございます」
「だから混ぜ方を変えろ。力任せに混ぜるな。空気を潰すな」
「空気を……菓子に?」
「そうだ。口当たりが変わる」
「しかし、魔界果実の酸味が勝ちすぎる可能性が……」
「なら甘味を足すな。酸味の強い果実を中央に置くな。外側へ逃がせ。見た目も味の配置も考えろ」
料理長は黙った。4歳児の指示ではない。少なくとも、厨房で遊び半分に口を出す貴族令嬢のそれではなかった。リゼルは包丁を握らない。火にも近づかない。だが、完成形を知っている者のように、迷いなく指示を出す。
やがて、見たこともない菓子が完成した。ふわりと焼き上げた生地。重すぎない乳脂の層。薄く飾られた果実。魔界の菓子にありがちな過剰な魔力香は抑えられ、代わりに柔らかな甘さと酸味が整っている。
料理長が恐る恐る試食した。そして、固まった。
「……リゼル様」
「何だ」
「これは……何という菓子でございましょうか」
「ショートケーキだ。正式な再現には材料が足りない。だが、魔界の果実なら代替できる」
料理長はもう一口食べた。今度は震えた。
「……これは、危険です」
「毒は入れていない」
「そういう意味ではございません。これは、食文化が変わります」
リゼルは当然のように頷いた。
「変えればいい」
料理長は絶句した。
「よいか、料理長。これはまだ試作品だ。甘味がやや重い。生地も粗い。乳脂の処理も甘い。次は半分の大きさで作れ。貴族用と庶民向けで材料を分ける。高級品として出すなら果実を選べ。広めるなら材料費を落とせ。味を落としすぎるな。安物の劣化品が先に広まると、元の価値まで落ちる」
「リゼル様……」
「何だ」
「本当に、4歳でいらっしゃいますか?」
厨房が凍った。言った料理長本人が、一瞬遅れて青ざめる。だが、リゼルは怒らなかった。ただ、つまらなそうに料理長を見た。
「質問が愚かだ。だが、今の菓子は悪くなかった。失言は相殺しておく」
「も、申し訳ございません!」
「謝罪はよい。次を作れ。私は改善案を出す。メア、記録しろ。今度は正確な単位でだ」
「はい、お嬢様……単位は、どちらで記録いたしましょう」
「マグラムとマナリルとマグドとメナスだ」
厨房の隅で、まだ立ち直っていなかった見習いの一人が、小さく嗚咽を漏らした。
メアは慌てて羊皮紙を取り出しながら、内心でそっと厨房の面々に詫びた。
(申し訳ありません、皆様……お嬢様は、ただ当たり前の単位を当たり前に使われているだけなのです……)
* * *
その話は、すぐにオルディアスの耳に入った。ただし、彼が聞いたのは「リゼルが厨房で妙な菓子を作らせ、共通単位を厳格に使わせて大騒ぎになった」という、いくぶん誇張された話だった。4歳の娘が食文化を起点に農林水産と流通へ干渉するつもりでいるなど、さすがのオルディアスも想像しない。だが、試作品を口にした瞬間、彼は眉をひそめた。美味かったからだ。そして、上に立つ者は知っている。美味いものは、人を動かす。
「リゼル」
「はい、父上」
執務室ではなく、家族用の小さな応接室だった。机の上には小さく切り分けられた試作品が置かれている。セレスティアは素直に感心していたが、オルディアスの顔は渋かった。
「この菓子は、屋敷の中に留めろ」
「なぜです、父上」
「理由を説明する前に、その目をやめろ」
「どの目でしょうか」
「利益計算を始めた目だ」
メアは背後で視線を落とした。オルディアスは深く息を吐く。
「リゼル。これは確かに美味い。だが、美味いからこそ危うい。材料の需要が急変すれば、価格が乱れる。卵、乳脂、甘味素材、果実、冷却用の魔石、それらを扱う商会まで影響を受ける。貴族が欲しがり、商人が動き、領地の生産体制が揺れる」
「揺れるなら、制御すればよろしいのでは?」
「その発想を今すぐ捨てろ」
「父上、食は文化です。文化が変われば産業が変わります。産業が変われば税収も――」
「4歳児が税収を語るな」
「年齢は税収の正否に関係ありません」
「関係ある」
オルディアスの声が少し強くなった。リゼルは口を閉じた。叱られたからではない。どこまで話せば不自然か、測り直したのだ。オルディアスはそれを、幼い娘が父の剣幕に押されたのだと解釈した。まだ、この時点では。
「よいか、リゼル。お前が厨房で新しい菓子を試す程度なら構わん。母や姉を喜ばせたいというなら微笑ましい。だが、屋敷の外へ出すには、相応の準備と根回しがいる。商会、農園、牧場、果樹園、保存技術、価格調整。思いつきで広げてよいものではない」
「思いつきではありません」
「なお悪い」
オルディアスは額を押さえた。
「とにかく、私の許可なく外へ出すな。よいな」
「……承知いたしました」
リゼルは礼儀正しく頭を下げた。その礼は完璧だった。だからこそ、メアは少しだけ不安になった。
(お嬢様、絶対に何か考えておられますよね……?)
リゼルは顔を上げた。その表情は幼い娘のものだった。少なくとも父の目にはそう見えた。だが、メアには分かった。リゼルは諦めていない。ただ、正面突破を一度取りやめただけだ。
それから数日、リゼルは表向きには大人しくしていた。厨房に出入りする回数も減り、料理長への指示も屋敷内の試作に留めた。オルディアスはそれを見て、ひとまず娘が理解したのだと判断した。
実際には、試作品の一部が商会筋の手を経て、ごく小さな範囲で魔都へ流れていた。リゼルが命じたのではない。少なくとも、直接は。料理長が腕試しとして相談した相手がいた。出入りの商人がその噂を聞いた。珍しい菓子に目をつけた者が、材料の調達を試みた。そうして、ほんの小さな偶然と欲が重なり、リゼルの意図を越えたように見える形で、菓子は屋敷の外へ出た。
メアはそれを知っていた。だが、リゼルに問うことはしなかった。問えば、きっとこう返される。私は命じていない、と。それは嘘ではない。だが、完全な真実でもなかった。
4歳のリゼル・ノクス・ヴァルクロアは、すでに内側の輪郭を完成させていた。幼い身体。小さな手。まだ高い声。だが、その中身は赤子ではない。ただの令嬢でもない。ヴァルクロア家の次女という器の中で、何か恐ろしく濃いものが静かに育ち、今まさに屋敷の中で動き始めていた。
魔都の片隅では、まだ誰もその名を知らない菓子が、小さな評判を呼び始めていた。屋敷の厨房で生まれた一枚のケーキが、やがて魔界の食卓そのものを塗り替えていくとは、この時点では、オルディアスさえ想像していなかった。




