Ver.0 TUTORIAL 6-1 休まない少女とサボる少女
ある日の午後、リゼルは書庫で古い地図を広げていた。天井まで届く書架には、革表紙の分厚い記録簿がびっしりと並び、窓から差し込む光の中を埃が緩やかに舞っている。魔界の書庫特有の、古紙と魔力インクの混じったにおいが、静かに部屋を満たしていた。メアはその横で、魔界南方領に関する資料を整理している。
「お嬢様、こちらが南方諸侯に関する記録でございます」
「読め」
「はい。南方には武門として名高い家が複数あり、その中でも特に、幼少より極めて高い戦闘適性を示す血筋が存在する、とあります」
リゼルの指が止まった。メアはすぐに気づいた。主の目が変わった。興味を持った時の目だ。
「……幼少より、か」
リゼルは小さく呟いた。
「面白い」
「記録によれば、その家系は代々剣を扱う武門で、当主の座は実力で決まるとのことです。他家と異なり、血統よりも才を重んじる家風だと」
「才を重んじる、か。血統だけを誇る家より、よほど健全だ」
リゼルは頷いた。血の力だけに頼る家系は、いずれ淀む。才ある者を才で選ぶ家系の方が、長い目で見れば強い。それは食文化の話とも通じる理屈だった。良い素材だけでは足りない。それを活かす技術と発想が要る。
「詳細をお調べいたしますか?」
「調べろ。家格、現当主、継承順位、訓練記録、過去の武勲。分かる範囲で全てだ。ただし、表に出ている記録だけでよい」
「かしこまりました」
メアは記録簿を閉じ、次の資料を探しに本棚へ向かった。その背中を見ながら、リゼルは椅子に深く座り直す。指先で机を軽く叩きながら、頭の中では既に別の計算が動き始めていた。
武門。幼少より高い戦闘適性。それは単なる興味本位の話ではない。もし本当に、そういう血筋が存在するのなら、いずれ軍事、あるいは護衛として使える駒になる。菓子ひとつで農林水産と流通に手を伸ばそうとしている自分にとって、力を持つ者との繋がりは、決して無駄にはならない。もっとも、今の段階でそこまで考えていることを、リゼルは誰にも悟らせるつもりはなかった。
リゼルは、これまでも屋敷の中で似たような計算を繰り返してきた。厨房を掌握し、次は流通と価格を握ろうとしている。だが、それだけでは足りない。経済を握った者は、いずれ力を持つ者に守られなければ意味がない。金だけでは、剣を持つ者の前では無力だ。だからこそ、武を司る血筋には興味がある。もしその一族に、幼くして自分と同じように、周囲の理解を超えた何かを持つ者がいるとすれば――それは、駒ではなく、対等な誰かになるかもしれない。
そこまで考えて、リゼルは自分の思考に小さく苦笑した。4歳の令嬢が、まだ会ったこともない南方の子供に、対等という言葉を使う。傍から見れば、滑稽以外の何ものでもないだろう。だが、リゼルにとって、それはごく自然な発想だった。
窓の外では、魔界の空に稲光が走っていた。まだ誰も知らない。この小さな令嬢が、やがてその地へ向かうことを。だが今この時点では、それはただの資料上の記述にすぎなかった。南方の武門。幼い直系に、異様な戦闘適性を示す者がいるらしい。それだけで、リゼルの興味を引くには十分だった。
ただ、メアだけは知っていた。リゼルお嬢様は、いずれ何かを起こす。それはきっと、屋敷の者たちが想像するよりずっと大きく、ずっと恐ろしく、ずっと眩しい何かだ。だからこそ、メアは急がなければならない。置いていかれないように。主の半歩後ろを歩き続けるために。
メアは重い資料を抱え、リゼルのもとへ戻った。
「お嬢様、こちらも関連があるかと」
リゼルは資料を受け取り、満足げに目を細めた。
「よくやった、メア」
「光栄です」
メアは深く頭を下げながら、内心で小さく息をついた。褒められて嬉しくないわけがない。だが同時に、こうして主の役に立つたびに、自分がどれほど主に追いついていないかを思い知らされる。リゼルが求める情報の速さ、正確さ、そして何より視点の広さ。メアはまだ、その全てに応えられているとは思えなかった。
その日、夜魔族のメイドは改めて誓った。リゼル・ノクス・ヴァルクロアが何者であろうと構わない。普通の子供でなくてもいい。優しい姫でなくてもいい。ただ、自分はこの方の後ろに立つ。そのために覚え、耐え、鍛えられるものはすべて鍛える。
主が見ている先を、自分もいつか見られるようになりたい。そう思うのは、おこがましいことなのかもしれない。それでも、メアは思わずにいられなかった。半歩後ろから見上げるだけの主従ではなく、いつか隣で並んで歩けるようになりたい、と。
もっとも、それがどれほど遠い道のりか、メアにはまだ分かっていなかった。リゼルの思考は、いつも数手先を歩いている。今日の書庫での様子も、ただの調べ物には見えなかった。南方の武門。幼い戦闘の才。そこに何を見出したのか、メアには推し量ることしかできない。だが、推し量ることをやめるつもりもなかった。
リゼルが進む。メアが続く。それが、ヴァルクロア家の誰にも見えないところで始まった、最初の主従の形だった。
――その頃。
魔都ベル・ガ・モード。荘厳な尖塔と硝子細工の街灯が立ち並び、黒紫の空の下でなお美しく輝く、魔界随一の都だ。石畳の大通りには魔導馬車が行き交い、露店からは香辛料と焼き菓子の匂いが漂っている。その一角にある小さな菓子店で、ひとりの少女が席についていた。
庶民の娘が着るような、少しだぶついたベージュのコートを羽織り、その下には飾り気のない黒い服。髪は淡い金に、毛先だけ淡い紅が滲むように色づいている。頭に被った格子柄の帽子の両脇からは、赤く艶やかな角が2本、緩やかに渦を巻きながら覗いていた。もっとも、魔界では角を持つ者など珍しくもない。道行く誰もが一瞥するだけで通り過ぎる程度の飾りでしかなかった。耳は緩やかに尖り、赤い縁の眼鏡の奥で、橙色の瞳が静かに店内を見渡している。
小さなテーブル席へ座っている。外見だけなら、少し身なりの良い少女がこっそり甘いものを楽しんでいるようにしか見えない。
店内は、庶民向けの菓子店らしく、木製の椅子とテーブルが所狭しと並んでいた。壁際の棚には焼き菓子が積まれ、奥の厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。客の大半は仕事帰りらしい商人や、買い物の合間に立ち寄った主婦たちだ。誰もが気安い調子で世間話をしながら、菓子をつまんでいる。庶民的で、温かく、雑多な空気。少女はその空気を、どこか懐かしそうに眺めていた。
賑やかな店内で、彼女だけがどこか静かだった。椅子に座る角度。背筋の伸び方。フォークを持つ指先。視線を動かすわずかな間。ちょっとした所作の端々が、妙に丁寧だった。店員が注文を取りに来た時も、彼女は一度だけメニューに目を通し、迷いなく品を告げた。まるで、既に何を頼むか決めていたかのように。
「お嬢さん、ここらでは見ない顔だね。旅行のお客さんかな?」
店主が、気さくな笑みを浮かべて声をかけた。少女は顔を上げ、小首を傾げた。ほんの一拍だけ置いて、柔らかく笑う。
「うん、そのようなものかな。少し、魔都を見て回っているんだよ」
言い方は砕けている。声も軽い。
「そりゃいい。魔都は広いからね。迷子にならないように気をつけなよ」
「ふふ。心配してくれるんだね。優しいね、あなたは」
「はっはっはっ、そりゃ客には優しくするさ」
「うん、いいことだよ」
少女は満足げに頷くと、フォークを持ち直し、目の前の菓子へ視線を落とした。運ばれてきた瞬間から、彼女はその菓子を一度、じっと眺めていた。生地の焼き色、乳脂の層の厚み、果実の並び方。値踏みするような視線ではなく、どこか懐かしむような目だった。
柔らかな生地を切り分け、口へ運ぶ。ふわりとした生地。軽い甘さ。果実の酸味。魔界の菓子にしては珍しい、押しつけがましさのない繊細な口当たり。少女の目が、ほんのわずかに細くなった。
「それで、うちの新商品は口に合ったかい?」
店主が嬉しそうに身を乗り出した。少女は菓子を飲み込むと、フォークを置いた。
「うん。これは美味しいね。甘いのに重くない。果実の酸味もよく働いている。食べたあと、口の中が疲れないのがよい。魔力を含む素材を使っているのに、風味を主張させすぎていない。これはなかなか面白い」
店主は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「お嬢さん、若いのにずいぶん分かるんだねえ」
「食べることは好きだからね」
「うちではショートケーキって呼んでる。珍しいだろう?」
「珍しいね。あまり見ないお菓子だ」
少女は店内を見回した。隣の席では、仕事帰りらしい商人らしき2人組が、同じ菓子を分け合いながら「これは女房に土産で買って帰るか」などと話している。奥の席では、子供連れの母親が、小さな手にフォークを持たせてやりながら微笑んでいた。誰もが自然に、この菓子を受け入れている。少女はその光景を、興味深そうに眺めた。
少女はもう一口、ゆっくりと味わった。
「ただ、乳脂の扱いはもう少し軽くできるかなぁ。果実も、酸味の切れがよいものを使えばもっと伸びる気がするよ。うん……でも、これはこれですごく良いね。とても面白いよ」
店主は笑った。
「はっはっはっ、まるで料理人みたいなことを言うね」
「そう聞こえちゃったら、気にしないでね。旅の娘の生意気だと思ってさ」
少女は何でもないように微笑んだ。店主はそれを冗談だと思った。
「これはな、ヴァルクロア大侯爵様のご令嬢様が考えられたって話なんだ」
少女のフォークが、ほんのわずかに止まった。ほんのわずかだった。店主には分からないほど小さな変化。だが、その瞳の奥だけが、わずかに深くなる。
「ヴァルクロア大侯爵家の?」
「ああ。すごいもんだよなあ。貴族様の料理人が試作したものが商人に伝わって、そこからうちみたいな小さい店にも少しずつ広がってきたんだ。材料はまだ高いが、工夫すれば庶民にも出せる」
少女はケーキを見下ろした。そして、楽しそうに目を細める。
「へえ。エルミナ……様だったかな?」
「いやいや、次女のリゼル様だよ」
店主は笑った。
「まだ小さなお嬢様らしいけど、とんでもなく賢いって噂だ。料理だけじゃない。魔法の先生を黙らせたとか、エルミナ様付きの怖い従者を泣かせたとか、まあ、どこまで本当かは知らんがね」
「魔法の先生を黙らせた、か」
少女は小さく繰り返した。愉快そうに、目の奥だけが笑っている。
「リゼル」
少女はその名をゆっくりと口にした。とても小さく。けれど、どこか楽しげに。
「リゼル・ノクス・ヴァルクロア」
少女は菓子をもう一口切り分ける。
「それは、とても会ってみたいなぁ」
店主は大声で笑った。
「はっはっはっ! お嬢さん、大侯爵様のご令嬢様には、そう簡単に会えやしないさ」
「そうだね」
少女は微笑む。
「普通なら、ね」
店主はその言葉の意味に気づかなかった。ただ、変わったことを言うお嬢さんだと思っただけだった。
「4歳の子供が菓子を考えて、魔法の先生を黙らせて、従者を泣かせる、か。ずいぶん、賑やかなお嬢さんだ」
少女は独り言のように呟いた。店主には聞こえなかったが、その声には確かな熱がこもっていた。
少女はショートケーキを最後まで食べた。皿の上には、ほとんど何も残っていない。飾られていた果実の一片まで、綺麗に口へ運ばれていた。味を評価する者としてではなく、純粋にその菓子を楽しんだ者の食べ方だった。
そして少女は、満足げに息をついた。
「うん。とっても美味しいお菓子だったよ」
「そいつはよかった。また来ておくれよ」
「うん、また絶対来るよ。新作が出来たら食べた〜い」
そう言って、少女は代金を置いた。少しだけ多い。店主が気づいて声をかけようとした時、少女はもう椅子から立ち上がっていた。振り返り、可愛らしく手を振る。その仕草は庶民の娘のようで、けれど背筋だけは最後まで崩れなかった。
「お釣りはいらないよ。新商品の開発費用ってことで。なんてね❤︎」
「お、お嬢さん、気前がいいねえ!」
「美味しいものには、相応の対価が必要だからね」
少女はそう言って、店を出た。店主はしばらく上機嫌で皿を片づけていたが、やがて首を傾げた。
「……今の子、どこのお嬢さんだったんだろうな」
答える者はいない。外では、魔都の通りを多くの者が行き交っていた。少女はその中へ自然に紛れ込む。誰も振り返らない。誰も彼女を特別な存在だとは思わない。
少女は大通りをゆっくりと歩きながら、通り過ぎる露店や看板を眺めていた。誰かに追われているわけでも、急いでいるわけでもない。ただ、この魔都という街そのものを味わうように、一歩一歩を丁寧に踏みしめている。
露店の店主が声を張り、子供たちが石畳の隙間を縫うように走り回る。荷馬車の車輪が石を跳ね、遠くで鐘の音が響いた。何もかもが、少女にとっては目新しく、同時にどこか懐かしい光景だった。これまでも、彼女はいくつもの街を渡り歩いてきた。だが、これほど活気があり、それでいて誰も彼女に注意を払わない街は珍しい。都合がいい、と少女は思う。目立たずに動けるというのは、何よりの武器だ。
ただ、通りの向こうで遠雷が鳴った。少女は空を見上げ、ほんの少しだけ楽しそうに笑う。
「リゼル、か」
その呟きは、魔都の喧騒に溶けて消えた。
だが、少女の橙色の瞳の奥には、確かな光が灯っていた。ただの興味では終わらない、もっと深い何かを見つけたときの光。まだ誰も、それに気づいてはいなかった。




