Ver.0 TUTORIAL Epilogue
――狭間の世界。
どの神にも、どの魔王にも属さない領域があった。境界の隙間に浮かぶ、小さな空間だ。本来ならば何もない虚無のはずのそこに、ひとつの部屋が再現されていた。
悪神ルキフグス。もっとも、その名を口にできる者など、パンデモニウムにはほとんど存在しない。広大な世界の中で、この悪神の存在を知る者はごくわずかしかいなかった。歴史書にも伝承にも記されない、限りなく無名に近い神。だが今、この部屋の中に、その無名の神としての体裁すらかけらもない。普段まとっているはずの荘厳な法衣は、無造作に床へ脱ぎ捨てられている。手にしていたはずの杖も、部屋の隅に転がったまま放置されていた。
部屋は薄暗い。窓のひとつもない空間に、いくつものゲーミングモニターの光だけが青白く、あるいは紫がかった光を放っている。棚には空き缶とスナックの袋が積み上げられ、床にはピザの空き箱、辛味麺の空容器、ポテトチップスの空袋が散乱していた。かつて――黒瀬真璃亜という人間だった頃の、あの狭いワンルームの光景を、悪神は自らの支配領域にそっくりそのまま再現していたのだ。デスクの上にはキーボードとマウス、コントローラーが雑に置かれ、その奥にはゲーミングPCの本体が、ファンの音もなく静かに光を灯している。
悪神は、その部屋をゆっくりと見回した。まるで博物館を巡る観光客のような、悠長な足取りだった。
棚の上に並ぶ小さなフィギュアの一体を、指先でつまみ上げる。
「ほう。こういう人形を集めるのが、あなたの慰めだったんですねぇ。……随分と細かい造形だ。生前のあなたは、こんなものを眺めて何を思っていたんですかぁ? 寂しさを埋めていたんですかねぇ」
悪神はくすくすと喉の奥で笑いながら、フィギュアを元の位置とは微妙にずらして置き直す。誰かに触られた形跡を、わざと残すように。
本棚に手を伸ばし、背表紙をなぞる。並んだ漫画の巻数を一冊抜き取り、パラパラとめくった。
「なるほど、なるほど。こういう話が好みでしたか。人間の趣味というのは実に興味深い。地球の魔王や神々が、この手の創作物にいちいち心を動かされるのも、少し分かる気がしますねぇ」
悪神は本を戻すことなく、そのまま床へ放り投げた。
次に目をつけたのは、机の引き出しだった。何のためらいもなく引き開け、中身を検分する。給与明細らしき紙を一枚つまみ上げ、目を通す。
「ふぅん。これが、あなたを縛っていた鎖の正体ですか。随分と安い鎖だ。この程度の対価で、あの残業とやらに魂をすり減らしていたとは。人間というのは、つくづく度し難い」
紙を無造作に放ると、悪神は今度はクローゼットへ視線を移した。扉を開け、中の衣服をひとつひとつ手に取っては、批評するように眺める。
「ふふ、これはまた、随分と地味な服ばかりですねぇ。それとも、それが今の流行りとやらなんですかぁ? まぁ、良いでしょう。プライバシーというものを、人間はずいぶん大事にするようですが――私にとっては、これもただの見世物ですから」
クローゼットの奥、小さな写真立てが目に留まった。悪神はそれを手に取り、埃を払うように指で軽くなぞる。写っているのは、まだ幼かった頃の黒瀬真璃亜と、その家族らしき人々だった。
「へえ。こんな顔もしていたんですねぇ、あなたは。今のあの、4歳児のくせに妙に落ち着き払った顔とは、ずいぶん違う。……面白いものですね、人間の記憶というのは」
悪神はしばらくその写真を眺めていたが、やがて興味を失ったように、机の上へ無造作に投げ出した。
続いて目に入ったのは、ベッドサイドに置かれた小さなノートだった。表紙には鍵がかかっていたが、悪神にとってそんなものは何の障害にもならない。指先で触れただけで、鍵は音もなく開いた。
「おや、これはこれは。日記、というやつですかぁ?」
ぱらぱらとページをめくり、悪神はにやりと口角を上げる。
「ふふ、ふふふ。なるほどなるほど。人間というのは、誰にも見せるつもりのない紙にまで、こんなに正直な言葉を書き残すんですねぇ。……いやはや、実に興味深い。実に、実に、覗き見がいのある人生だ」
悪神は日記を閉じることなく、開いたまま無造作に床へ置いた。持ち主の羞恥も、隠したかった弱さも、彼にとっては上等な見世物でしかない。誰かの心の内側を勝手に暴き、それを笑いものにする。それが、この悪神という存在の、救いようのない性根だった。
「まったく、人間というのは、隠したがるくせに、こんなに簡単に暴かれる生き物だ。だからこそ、面白い。だからこそ、覗く価値がある」
悪神は独り言のように呟きながら、部屋の中央へ戻ってきた。散らかしたものを片付けるつもりなど、微塵もない。散らかったままの部屋が、むしろ心地よいとでも言うように、悪神は満足げに周囲を見渡した。
ひとしきり部屋の中を物色し終えると、悪神は満足げに息をついた。
「さぁて、あらかたは見終えましたし――そろそろ、本題といきましょうか」
そう言って、悪神は冷蔵庫へ向かった。
冷蔵庫を開け、缶を一本取り出す。プルタブを起こし、一気に喉へ流し込んだ。
「ぷっはぁー美味ぇー! 地球の神や魔王たちはこんな美味いものを飲んでいるんですか? ズルいですねぇ」
悪神は満足げに笑いながら、傍らに置かれた赤い袋へ手を伸ばす。指先に摘んだ一枚を、そのまま口へ放り込んだ。
「このポテチとやらと、この泡泡。うんもぉ! 最高ーっ!!」
子供のような、いっそ滑稽なほどの喜びようだった。何百年、何千年と生きてきたはずの悪神が、たかが地球の菓子と酒に、これほど無邪気に興じている。もし誰かがこの姿を見れば、呆れて言葉も出なかっただろう。
ひとしきり堪能した後、悪神はゲーミングチェアへ深く腰を沈めた。目の前には、いくつものゲーミングモニターが並んでいる。だが、そこに映っているのは作り物の映像ではない。パンデモニウム――魔界そのものの、今この瞬間に起きている現実だ。悪神は自らの権能で世界の各所に目を這わせ、それを気に入った演出でモニターに映し出しているに過ぎない。この悪神にとって、魔界という現実そのものが、盤上の駒であり、遊び場だった。
大型モニターには、黒紫の空を背景に佇む、見覚えのある少女の姿が映し出されている。
『リゼル・ノクス・ヴァルクロア!! 好感度:MAX イベントコンプリート!』
その文字は、悪神が自らの趣味で被せた演出にすぎない。実際にリゼルの周囲で起きたのは、紛れもない現実の出来事だ。厨房での騒動も、父との対話も、商会を経て魔都へ広がった菓子も――すべて、この悪神が高みから見物していた、生々しい現実だった。
その文字を見つめながら、悪神はゆっくりと缶を傾けた。
「チュートリアル長すぎですが、まぁ、面白いものが見られました」
視線が、隣のモニターへと移る。そこには、リゼルによく似た――だが、確かに別人である少女の姿が映っていた。淡く輝く銀の髪、紫を帯びた瞳。頭からは黒く艶やかな角が伸び、優雅な微笑みを浮かべている。品のある佇まいの奥に、何かを覆い隠すような気配が滲んでいた。
悪神はその少女の映像を、じっと睨みつけた。指先で宙をなぞるように動かす。本来ならば、そこに簡単な情報――名や血統、力の質――が浮かび上がってくるはずだった。だが、何も出てこない。まるで、少女の存在そのものが、悪神の権能をするりとすり抜けているかのようだった。
「それにしてもあの少女……気に入りませんねぇ」
悪神の声から、先ほどまでの子供っぽい浮かれた響きが、わずかに消えた。ほんの一瞬だけ、瞳の奥に冷たい光がよぎる。
「私の目をもってしても、何ひとつ見えてこない。……ふん、面白くない。実に、面白くない」
だが、悪神はすぐに小さく息を吐き、興味を切り替えるように肩をすくめた。見えないものをいつまでも睨んでいても仕方がない。それに、今はまだ、そちらに手をかけるべき段階ではなかった。
「まぁ、今はチュートリアルだから見逃してあげましょう。で――次は、ようやくあなたですか」
悪神は机の端に置かれていたゲームソフトの入っているパッケージを手に取った。表紙には、赤銅色を帯びた肌を持つ、巨躯の青年が描かれている。六本の腕。今にも弾け飛びそうなほどに膨れ上がった筋肉。それでいて、顔立ちだけは驚くほど整っている、異形と美貌が同居する姿だった。これも、絵空事ではない。魔界のどこかに、今まさに実在する者の姿だ。悪神はこれから、この者をリゼルの前へ引き合わせるつもりでいる。それが、この悪神なりの「遊び方」だった。
パッケージの隅には、こう記されている。
『Ver.1 JUGGERNAUT』
もちろん、それも悪神が勝手につけた呼び名にすぎない。当人が知る由もない、悪神だけの符丁だった。
悪神は、そのパッケージを愛おしそうに、しかしどこか愉悦を隠しきれない表情で見つめた。
「さぁて、チュートリアルの次は――格闘ゲームですかぁ? 盛り上げてくれますねぇ、リゼルさんは……」
薄暗い部屋の中、モニターの光だけが悪神の顔を照らしていた。散らかった空き缶とスナックの山に囲まれながら、悪神ルキフグスは、次に自分が動かす現実の駒に、静かに口角を吊り上げた。
――Ending & Restart
――Next : Ver.1 JUGGERNAUT




