Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 0 白亜の少女と妖鳳公
魔界のどこかに、その部屋はあった。王の私室と呼ぶにはあまりにも豪奢で、あまりにも静かな部屋だった。黒曜石の壁、金糸のような魔族文字、淡い紫と白銀の魔晶灯。窓の外では魔界の空が荒れ、紫電が走り、巨大な翼の影が雲間に覗く。だが分厚い硝子の内側には、その音すらほとんど届かない。
その中心に、白亜の少女がいた。骨のように冷たく、月光のように静かな白いドレス。闇と炎と血の色が尊ばれるこの世界で、白は異質だ。だからこそ、それを纏う者には何者にも染められぬ強さが要る。
少女は豪奢な椅子に腰掛け、小さな白い菓子を食べていた。ふわりとした生地、白いクリーム、赤い果実。魔界には珍しい、素朴で儚い菓子だった。
フォークで切り分け、口へ運ぶ。しばしの沈黙のあと、少女はほんの少しだけ目元を緩めた。
「ん……やっぱり美味しい。これを考えた子は天才だな」
心からの呟きだった。周囲の侍女たちは黙している。誰も返事をしない。主が言葉を求めていないからだ。
部屋の隅には書類の山がある。軍務報告、貴族間紛争の裁定案、封印補修申請――重要なものばかりのはずなのに、少女はそちらを見ない。
「4歳で、これか……」
侍女の一人が指先をわずかに強張らせた。
(4歳……ヴァルクロア大侯爵家の、あの御令嬢のこと……)
まだ社交界にも出ていない幼子が、屋敷の厨房に指示を出し、この菓子を作らせた。それだけでも奇妙な話だが、味わう少女の表情は、珍しい物を見つけた者のそれではなかった。
「面白い子だ」
その言葉は、甘味への感想ではない。人材への興味だった。
「入るぞ、大魔王殿」
扉の向こうから、許可を待つ気のない声が響いた。重厚な大扉が、低く重い音を立てて開く。入ってきたのは鳳凰のごとき女魔族――紅と紫を帯びた髪、宝石のように輝く翼。美しいが、花のような美しさではない。刃だ、炎だ。逆らう者を風の中へ散らす女帝の美しさだった。
妖鳳公キュマイラ。
魔界に君臨する大魔王が血統も種族も関係なく選りすぐった7人の公爵。彼ら彼女らは他の魔族より圧倒的に強い。各々が手を取り合えば、大魔王を除く他全てを滅ぼすことは困難ではなかろう。
もっとも、この七魔公筆頭である妖鳳公は大魔王を絶対に裏切らない。彼女の存在そのものが、現在の魔界の秩序とも言える。
妖鳳公キュマイラは、大魔王の私室へ許可なく踏み込んで、なお許される数少ない例外だった。
「珍妙なものを喰ろうておるな、大魔王殿」
白亜の少女――彼女こそ魔界の頂点、
大魔王ドラコーだった。
フォークを持ったまま顔を上げ、ぱっと表情を明るくする。
「あ、マイラ」
「『あ、マイラ』ではないわ。妾が来たというに、その甘味から目を離すのが一拍遅れたな」
「仕方ないよ。美味しいんだ」
キュマイラは長卓の菓子へ視線を落とす。肉と酒の香りに満ちた魔界の料理ではない。あまりに華奢で、あまりに平和で、大魔王が夢中になるには妙に可愛らしすぎる菓子だった。
「見慣れぬ菓子じゃな。妾にも馳走してたもれ」
侍女は主の許可を待つべきか、七魔公の言葉を優先すべきか、一瞬迷った。その迷いを、キュマイラは見逃さない。
「これ、メイド。妾にもその白い菓子を配膳せよ」
「畏まりました、妖鳳公閣下」
キュマイラは許可も待たず椅子に腰掛け、フォークを取り、一口切り分けた。沈黙。やがて目がわずかに細くなる。
「……ほう。見た目よりも軽いな。甘いが、しつこくはない。赤い果実の酸味があるゆえ、甘さだけで終わらぬ」
もう一口。今度は迷いがない。妖鳳公キュマイラは気高い。素直に「美味しい」とは言わず、まず分析し、評価し、最後に「悪くない」と言う。
「面白い味じゃ。控えめなようで、きちんと記憶に残る。悪くない」
「気に入った?」
「妾はまだそのようなことは申しておらぬ」
そう言いながら3口目を食べる。ドラコーは嬉しそうに微笑んだ。
「これはね、ショートケーキっていうんだ」
「しょおと……けぇき?」
「うん。ショートケーキ」
「奇妙な名じゃな」
「可愛い名前だと思うよ。朕のように白亜の美少女みたいで可愛らしいでしょ?」
「自分で申すな。阿呆のように思われるぞ」
「えー。朕はこんなにかわいいのに、美少女以外に例えようがないでしょう? ねえ、君たちもそう思うよね?」
急に話を振られた侍女たちは固まった。大魔王を少女と例えてよいのか。否定は死。肯定も場合によっては不敬。
「あ、あの……陛下は、その……大変お美しく……ですが、少女と申し上げてよいものか……」
全員が見事に口籠る。キュマイラは扇の奥で肩を震わせた。
「やめいやめい。メイドどもが困惑しておるでないか」
「困惑しなくてもいいのに。素直に、陛下は美少女ですって言えばいいんだよ」
「それを言わせる大魔王がどこにおる」
「ここにいます!」
「胸を張るな」
ドラコーはくすくすと笑う。侍女たちはようやく安堵した。恐怖というより、困り果てた敬愛だった。大魔王は恐ろしい。だが同時に、こうして時折、妙に可愛らしい無茶を言う。その時間だけは、部屋の空気が少し柔らかくなる。
「まったく。大魔王殿は、こういう時だけ妙に年若い娘のように振る舞う」
「こういう時だけ?」
「政務から逃げる時もじゃ」
その一言で、空気がわずかに引き締まった。キュマイラの視線が、部屋の隅の書類の山へ向かう。もはや壁だった。軍務、外交、財務――どれも大魔王の署名を待って止まっている。
「それは違うよ。政務から逃げているんじゃなくて、別の大事なものを探しに行っているんだ」
「ほう。その別の大事なものが、しょおとけぇきか」
「うん」
「堂々と認めるでない。また臣下どもに何も言わず、小娘の装いで城を抜け出したそうだな?」
「変装だよ。……視察かな。城下で、菓子屋を、一人で」
「お主の文官どもが、妾の天空城まで泣きついてきたぞ。『陛下がまたお姿を消されました』とな」
キュマイラの言葉は辛辣だった。だが怒りだけではない。長年仕えてきた者だけが持つ、遠慮のなさが混じっている。
「文官たちは少し心配性なんだよ」
「では、あの書類の山は幻かえ?」
「幻だったらいいなぁ」
「現実じゃ。あの量を放置して菓子を買いに行く王など、そうそうおらぬ」
ドラコーは困ったように、しかしどこか楽しそうに笑う。叱られてもなお威厳を失わない。むしろキュマイラ相手だからこそ見せる隙があった。
「でもね、マイラ。美味しいものを食べると幸せなんだよ?」
キュマイラは黙った。ドラコーは真面目な顔をしていた。本気だった。
「大魔王殿。妾は今、書類と無断外出について話しておる」
「うん」
「お主は甘味の幸福について語った。話が噛み合っておらぬ」
「でも、大事な話だよ」
「そこが厄介なのじゃ」
そう言いながらも、キュマイラは侍女にもう一切れを命じた。説教は続ける。菓子も食べる。その姿は、まさに七魔公だった。欲しいものは欲しいと言う。咎めるべきものは咎める。優雅で傲慢で、どこか面倒見がよい。
「して、大魔王殿。このしょおとけぇきを考えた者は誰じゃ。名を申せ」
ドラコーの表情が明るくなった。何か面白い宝物を見つけた子供のような顔――大魔王がその顔をする時、たいてい魔界の未来に何かが起こる。
「ヴァルクロア大侯爵家の娘だよ」
キュマイラのフォークが止まった。
「……ヴァルクロア? 確かええっと、エル…なんとか…だったかのぉ?」
「そっちは長女のエルミナ。そうじゃなくて、これを考えたのは次女のリゼルだよ」
「聞かぬ名じゃの。隠し子かぇ?」
「あー、マイラ酷ぉい。オルディアスは堅物だからセレスティアちゃん一筋だよー。リゼルはね、まだ社交界デビューしていないから、皆が知らなくても仕方ないよ」
「は? 社交界デビュー前じゃと? 大魔王殿、甘味の取り過ぎで惚けてしもぉたかの?」
「酷ぉいマイラ! 朕はまだまだぴちぴちの1万7000歳だよ!」
「1万7000歳など、普通の魔族の10倍長生きしておるわ! ――大魔王殿、話が進まぬ」
「あ、リゼルの話! 凄いんだよその子!」
ドラコーはぱっと顔を輝かせた。王が人材を語る顔であり、同時にお気に入りの菓子を自慢する少女のような顔でもあった。
「リゼルはね、ケーキ作りだけじゃなくて、食材の生産のコントロール、物流、市場操作、物価への介入と圧力まで、全部オルディアスを通さないでやっているんだ」
沈黙。部屋の空気が完全に止まった。
「……は? 4歳の童が、それを、オルディアスを通さずに、ヴァルクロア大侯爵家の屋敷内で?」
「うん」
「至急、大魔王殿の宮廷医を呼べぇい!」
「ま、待ってマイラ!」
侍女たちは本気で動きかけた。宮廷医を呼ぶべきか、ショートケーキを下げるべきか、大魔王を宥めるべきか――すべてが同時に発生し、優秀な彼女たちですら正解が分からなかった。
「本当だよ、マイラ! リゼルはね、4歳の子供の遊びみたいに見せかけて、ちゃんと家内の者を動かしている。オルディアスにバレないよう、巧妙に立ち回っているんだ。でも、結果だけは出ている。屋敷の中で不満を持つ者も少ない。むしろ、みんな楽しんでいる」
キュマイラの表情が、少しだけ変わった。呆れと疑念が薄れ、七魔公としての目になる。ただの冗談ではない。ドラコーは、ふざけたように語りながらも、リゼルという幼子が見せた異常な手腕を正確に見ている。
「……大魔王殿。それは、童の遊びではないぞ。材料の生産と流れを押さえ、価格にまで触れておるなら、それは小さな経済圏を握っておるのと同じじゃ」
「だから凄いんだよ、リゼル」
ドラコーはまた、誇らしげに胸を張った。なぜ他家の4歳児を自慢しているのか、キュマイラにも分からなかった。だが、ドラコーがリゼルに強い興味を抱いていることだけは、もはや疑いようがなかった。
「ふむ、オルディアスの娘がそこまでの逸材とはのぉ、実に興味深い。リゼルか。覚えておこう」
キュマイラはゆっくりと笑った。獲物を見つけた猛禽のような笑みだった。
「あとさマイラ、アーシュラ侯爵家の子の話は聞いたことある?」
「アスラ族の武門貴族であろう。あの家は昔から血の気が多いと聞くがの」
「うんうん、3人兄妹がいてね、みんなそれぞれ凄いんだ。まず長兄はね、武の才はそこまで高くないんだけど、回復魔法の使い手なんだ。魔界じゃかなり貴重な人材だよ」
「ほう……武門の家に、癒しの才を持つ長兄か。アスラの血は荒々しいことで知られておるが、その中で異彩を放つ子じゃな」
「でしょ? それで、次男がまた凄いんだよ。アスラ族始まって以来の武術の神童って言われててね。もう大人顔負けの戦闘力で、年端もいかぬうちから並の戦士では相手にならないんだって」
「ああ、その噂なら妾も耳にしておるわ。アスラ族始まって以来とは、また大きく出たものよ。だが、噂に違わぬ腕前だそうじゃな」
「うん、間違いないよ。マイラ、耳が早いね」
「魔界の童の噂ひとつ拾えぬようでは、七魔公筆頭など務まらぬわ」
「さすがマイラ」
「して、末の子はどうじゃ」
「それがね、末っ子で、唯一の娘なんだけど、その子がまた凄いんだよ。剣術と武術を合わせて、まるで舞踏みたいに戦うんだ。剣舞の才能が図抜けててね。戦ってるっていうより、踊ってるようにしか見えない」
「舞うがごとき剣か……面白い。して、歳は」
「10歳」
「10で、そこまでか。末恐ろしい家じゃな、アーシュラ侯爵家は」
部屋に控える侍女たちは、何も言わずに頭を垂れている。だが、彼女たちにも分かった。今、何かが決まろうとしている。大魔王の気まぐれに見える一言が、貴族家の運命を動かす瞬間を、彼女たちは見ている。
「マイラ。リゼルと、あの3人を会わせてみようよ」
キュマイラはしばし沈黙した。そして、喉の奥で笑う。
「……大魔王殿。お主、また面倒な火種を見つけたな?」
「火種じゃないよ。出会いだよ」
「魔界における出会いとは、大抵火種じゃ。……だが、面白いと思う」即答だった。
ドラコーは満足そうに笑う。キュマイラもまた、扇の奥で美しく、苛烈に笑った。
「4歳にして大魔王殿を菓子で惑わせ、屋敷の中から経済を掻き回すヴァルクロアの娘と、アーシュラの三兄妹。なるほど、会わせれば何か起こるであろうな」
「だが、誰に命じる」
「オルディアス」
「断りにくいのう」
「だから、マイラも一緒にいてね」
「妾を脅しの飾りに使うつもりかえ」
「飾りじゃないよ。マイラがいると話が早いんだ」
「それを脅しと言うんじゃ」
そう言いながら、キュマイラの皿もまた空になっていた。ドラコーはそれを見て、また嬉しそうに笑った。白亜の部屋に、静かな満足が漂う。だが、その裏で決まったことは決して小さくない。ヴァルクロア大侯爵家の次女リゼルと、アーシュラ侯爵家の三兄妹。
大魔王が興味を持ち、妖鳳公が愉快と評した。その時点で、それは魔界の未来に小さな火花を投げ込む行為だった。




