Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 1-1 天災の父親の苦難
夜明け前に、召喚状は届いた。
大魔王府の紋章が押された一枚の書状。オルディアス・ノクス・ヴァルクロアは、それを寝室で受け取った瞬間、眠気が一息に消し飛ぶのを感じた。差出人は大魔王府。宛先はヴァルクロア大侯爵家当主、ただ一人。同行者の指定はない。日時は今日。場所は正式な謁見の間。
(単独……しかも今日中に……)
貴族が大魔王城へ召し出されること自体は、珍しくはない。だが、伴を許さず、これほど急な指定で、正式な謁見の間を使う召喚は、少なくともここ数年のヴァルクロア家では前例がなかった。普段の陳情や報告であれば、大魔王府の一室で文官が応対する。正式な謁見の間が開かれるのは、戦の号令か、家門の存続に関わる沙汰か、そのどちらかだと相場が決まっている。
寝室を出ると、すでに執事が身支度を整えて待っていた。屋敷の空気そのものが、いつもより張り詰めているように感じられる。使用人たちの誰もが、主が単独で城へ呼ばれたことの意味を、それぞれに測りかねているのだろう。
支度部屋へ向かう途中、廊下の角で妻セレスティアと行き会った。
「あなた。顔色が優れませんわ」
「急な召喚だ。心配は要らない」
そう言いながらも、声に力がこもりきらないことは、自分でも分かっていた。セレスティアはそれ以上を問わなかった。ただ、正装の衿を静かに直しながら、こう言った。
「もし、リゼルのことでしたら――あの子は、悪いことをしたわけではありませんわ。少なくとも、私たちの目から見れば」
その一言に、オルディアスは苦笑するしかなかった。妻も同じ懸念を抱いていたらしい。悪いことをしたわけではない。だが、悪いことをしていないことと、大魔王陛下の前で申し開きが立つこととは、まったく別の話だった。
馬車に乗り込む直前、玄関先にリゼルの姿はなかった。まだ寝室で眠っている時刻だ。それでよかった、とオルディアスは思う。父がこれほど緊張した顔で城へ向かうところを、あの聡い娘に見られていたら、何を勘繰られるか分かったものではない。
馬車が動き出す。オルディアスは何度も己の記憶を辿った。領地の税収に不備はなかったか。北方の警備配置に落ち度はなかったか。他家との紛争に飛び火する種はなかったか。数え上げるうちに、思考は結局いつもの場所へ着地する。
(リゼルのやつ、何かやったか?)
情けない話だが、それが一番腑に落ちる可能性だった。厨房に妙な菓子を作らせ、外に漏らすなと厳命した。ゼノヴィアの一件も、屋敷内だけで処理したはずだった。あれらが漏れたのだとしたら――いや、考えるだけ無駄だ。分かるのは、城に着いてからだ。
窓の外を、黒々とした尖塔の連なりが流れていく。大魔王城が近づくにつれ、御者の手綱を握る音までもが硬くなっていくのが分かった。城門をくぐり、長い回廊を進む間、すれ違う文官も兵士も、誰ひとりオルディアスと目を合わせようとしなかった。単独の、しかも謁見の間への召喚。何が起きているのか知らない者たちにも、それがただ事でないことだけは伝わっているらしい。すれ違う視線のひとつひとつが、まるで死地へ向かう者を見送るようで、オルディアスは自然と背筋を伸ばした。
謁見の間の大扉の前で、オルディアスは一度だけ、深く息を吸った。
(何が待っていようと、当主として恥じぬ態度を)
そう己に言い聞かせ、扉をくぐった。
* * *
大魔王城、謁見の間。
3層に分かれた大広間の最下層は、魔界中の貴族が跪くためだけの広場である。それを見下ろす中段には七魔公の玉座が並び、さらに奥、大階段を昇り詰めた頂点に大魔王ドラコーの玉座があった。この間には古い盟約の魔法が張られている。どれほど離れていようと、言葉も表情も、まるで目の前にいるかのように全ての者へ届く。隠しごとはできない場所だった。
普段は七つの玉座が全て埋まる。だが今日、中段にいるのはキュマイラただ一人だった。
その最下層の中央で、オルディアス・ノクス・ヴァルクロアはただ一人、跪いていた。共に召喚された貴族もいない。従者もいない。ヴァルクロア大侯爵家当主として、並の貴族なら名を聞くだけで姿勢を正すほどの男である。だが、この場ではただの臣下だった。
(急な召喚。しかも単独。まさか……リゼルのやつ、何かやったか?)
政治でも軍務でもなく、真っ先に浮かんだのがそれだった。次女リゼルは、生まれた時から明らかに何かがおかしい子だった。最近では屋敷の厨房に奇妙な菓子まで作らせ、外に漏らすなと厳命したはずだった。
(漏れるはずが……)
そのはずだった。
「オルディアス」
玉座から声が降った。
「はっ」
「顔を上げて」
オルディアスは顔を上げ、そして表情が凍りついた。
大魔王ドラコーの手元に、見覚えがありすぎる菓子。屋敷の中だけで済ませろと命じたはずの、リゼル考案のショートケーキを、大魔王が謁見中にもぐもぐと召し上がっていた。中段のキュマイラの前にも同じ皿があり、半分ほど減っている。
「オルディアス。これ、君のところのリゼル嬢が考えたんだってね」
逃げ場が消えた。
「……恐れながら、陛下。娘の戯れ言を厨房が形にしたものにございます。御口に入れるには未熟な品かと」
「そう? 美味しいよ? 朕は気に入った。マイラも気に入ったよね?」
「妾は悪くないと申しただけじゃ」
「3切れ食べたよね」
「念入りな検分じゃ」
陛下がわざわざ謁見の間で自分を呼び、菓子を召し上がりながらこの話をなさる。つまり、すでに何か決まっている。
キュマイラが扇の奥からオルディアスを見た。獲物の腹を裂く前の、見定めるような鋭さだった。
「ヴァルクロア大侯爵。そなたの娘、なかなか珍妙であるな。4歳でこの菓子を考えるだけでも珍しいが、それだけではない。食材の生産から仕入れ先の選定、物流の経路、果ては市場への価格の働きかけにまで、すでに手を伸ばしておるそうな。菓子ひとつの裏で、小さな経済圏をまるごと動かしておる」
そこまで掴んでいるのか。リゼルが屋敷の外にまで手を伸ばしていることは、外部に広めていなかったはずだった。だが、キュマイラの耳にはすでに届いている。
「ええっ、そうなの? リゼルってばすごーい!」
ドラコーが大げさに目を丸くした。白々しい。陛下は知っておられた。今の驚きは完全な演技だ。だが、それを指摘できるわけがない。
「大魔王殿、驚く演技をするならもう少し加減を覚えよ。そこの大侯爵が胃を押さえたそうな顔をしておる」
キュマイラは声を少し低くする。
「そして、もう一つ。屋敷の中で口止めされていた件があろう。4歳のリゼルが、14歳の獣人の侍女を、魔力操作で一方的にぶちのめした件じゃ」
謁見の間の空気が凍った。ドラコーが、わざとらしく両手を頬へ当てる。
「ええええっ!? 魔力操作で4歳の女の子が14歳の獣人をぉおお!? そんなことがあったの!?」
大げさすぎた。オルディアスは床に額を擦りつけたまま意識を飛ばしたくなった。
「……恐れながら、陛下。屋敷内の些事にございます。家中で処理いたしました」
些事ではない。だが、重大事と認めれば、なぜ報告しなかったと問われる。あの侍女ゼノヴィアの側にも非はあった。リゼルを侮り、幼子と見て不用意に圧をかけた。だが結果は一方的だった。リゼルは冷静に相手の魔力の流れを見切り、最小限の操作で身体能力を封じた。力ではなく、技術で崩したのだ。4歳児が、14歳の獣人を、ほぼ一方的に。
「それを些事と呼ぶなら、そなたの屋敷では日々どれほど愉快なことが起きておるのかえ? ……隠し方は悪くなかった。大侯爵としては及第点をくれてやろう」
たった1日半で、ここまで。召喚状が届いてから馬車を休ませずに駆けてくる間に、キュマイラはヴァルクロア家が隠した事件をすでに掌握していた。それが妖鳳公キュマイラだった。
「ヴァルクロア大侯爵。リゼルは、ただ賢い童ではない。見識、解釈、魔力操作、人を動かす感覚。その全てが、4歳という枠から外れておる」
オルディアスは答えられなかった。分かっている。父として、それを認めることがどれほど危険かも分かっている。子供として守るべきか、才能として磨くべきか、危険物として封じるべきか。まだ答えは出ていなかった。
ドラコーが柔らかく微笑んだ。
「オルディアス。リゼルを屋敷の中だけで育て続けるのは、たぶん難しいよ。知識も、魔力も、忠義も、好奇心も。全部、外を向き始めている」
キュマイラは何も言わなかった。ただ、ドラコーの横顔を見ていた。ふざけたように見えて、やはり見ている。リゼルという幼子の中にある、異常なものを。危険なものを。美しいものを。
「だからね、オルディアス。リゼルを、アーシュラ侯爵家へ連れて行って」
あまりに軽い口調だった。だが、内容は軽くない。アーシュラ侯爵家はアスラ族の武門貴族、気性が荒
く、リゼルを気軽に連れていく相手ではない。
「恐れながら、陛下。リゼルはまだ4歳にございます。礼法もまだ学びの途中であり、他家の御前で失礼があっては申し開きが立ちません」
これは嘘ではない。だが、本当の理由でもなかった。リゼルは礼法を理解できないから危険なのではない。理解した上で、必要なら踏みにじる可能性があるから危険なのだ。
「うん。分かっているよ、オルディアス。無理強いはしたくないから、これは命令じゃない。断ってくれても構わない」
その瞬間、オルディアスの表情がぱぁっと明るくなった。
(断れる……!)
だが、希望は長く続かなかった。
「……でも残念だなぁ。マイラも楽しみにしているのに……。ねぇ、マイラ?」
キュマイラがゆっくりと扇を開いた。笑っていた。だが、優しくはない。空の高みから大地の獲物を見据えるような圧だった。
「そうじゃのぉ。オルディアスの4歳の神童がアーシュラの神童とどう語らうのか、脇で眺めたかったわ。残念じゃ」
断れるものなら断ってみよ。そう言っている視線だった。
(断れるわけがない)
命令ではない。だが、大魔王陛下が残念がり、妖鳳公閣下が楽しみにしていたと仰せになった。その期待を踏みにじるという選択肢は、もはや存在しなかった。
オルディアスは深く頭を垂れた。
「……大魔王陛下の御心、しかと承りました。リゼルを、アーシュラ侯爵家への外遊に伴わせます」
「本当? わーい! ありがとう、オルディアス!」
「よい判断じゃ。そなたの胃には悪かろうが、リゼルにとっても悪い話ではあるまい」
(胃には悪い。非常に悪い。だが、拒否などできようものか)
「アーシュラ侯爵家には、大魔王府から外遊の指示を出しておくよ。急にヴァルクロア家から申し入れるより、その方が向こうも準備しやすいでしょう?」
「そなたはただ、予定された日にリゼルを連れていけばよい。通達も名目も大魔王府で整える。余計な根回しは要らぬ」
これは圧だけではない。配慮でもあった。武門貴族に突然「4歳の娘を連れて訪問したい」と申し入れれば、余計な勘繰りを生む。だが大魔王府からの正式な外遊指示であれば、両家はそれに従う形となり、詮索を抑えられる。
「妖鳳公閣下の御配慮、深く感謝申し上げます」
(これが七魔公筆頭か。敵に回したくない。味方であっても胃が痛い……)
「ところで、オルディアス。帰る前に、このショートケーキ、少し持って帰る?」
キュマイラが吹き出すように笑う。
* * *
城門を出た頃には、日はすでに高く昇っていた。馬車に揺られながら、オルディアスは膝の上の小さな包みを見下ろした。侍女が丁寧に包んだ、あのショートケーキだった。持ち帰るかと問われ、断れるはずもなかった。
(胃には悪い。だが、この包みひとつで済んだと思えば、安いものか)
窓の外を、見慣れた領地の緑が流れていく。城にいる間ずっと張り詰めていた肩が、ようやく少しだけ緩んだ。だが、緩んだのは肩だけで、頭の中はまだ謁見の間に置き去りのままだった。
アーシュラ侯爵家への外遊。武門貴族の屋敷に、まだ4歳の娘を連れて行く。無論、供もつけずに一人で行かせるわけがない。当主である自分が同行し、目の届く範囲で、あの娘の一挙一動に目を光らせる。それがヴァルクロア家当主としての、最低限の責務だった。
だが、責務があるからといって、不安が消えるわけではない。震えているのは、外遊そのものへの不安ではない。震えているのは、リゼルが向こうで何をしでかすか、その予測がまるで立たないという一点だった。
(礼法を教え込む時間はない。せめて、余計なことを口走らないように――いや、無理か。あの娘に「言うな」は通じない。むしろ、言うなと言えば言うほど、あの娘は自分の判断で動く)
それがリゼルという娘の恐ろしさだった。従順に見せかけて、実は誰の指図も受けていない。4歳の身体に、4歳ではない何かが詰まっている。
思えば、今日の謁見そのものが、リゼルという娘の異常さを改めて突きつけられる時間だった。大魔王陛下が興味を持ち、妖鳳公閣下が1日半で家の隠し事を暴く。そこまでの存在に、4歳の娘がすでになっている。屋敷の中でどれほど目を配っていたつもりでも、外の権力者たちの目の方が、よほど早く、よほど深く、あの娘の本質を見抜いていた。
(いつまで、屋敷の中に留めておけるつもりだった、私は)
苦い自問だった。リゼルを守っているつもりで、実のところは自分の安心のために、あの娘を閉じ込めていただけなのかもしれない。あの娘の才は、とうに屋敷の壁を越えている。それを一番遅く認めたのは、父である自分自身だった。
エルミナのことも、頭をよぎった。長女は長女で、聡明で、優しい娘だ。だが、リゼルの傍らに立つと、その聡明さすらも、どこか普通の範疇に収まって見えてしまう。それは長女への不当な評価だと分かっていながら、比べずにはいられない自分がいる。父として、それもまた恥じるべきことのひとつだった。
馬車が屋敷の門をくぐる。出迎えた執事の顔を見た瞬間、オルディアスは一つだけ、心を決めた。
(せめて、旅立つ前に、あの娘とちゃんと話しておかねば)
外遊は、大魔王陛下の御意向であること。ヴァルクロア家として恥じることなど何もないということ。そして、自分も共に行くのだということ。あの娘が何者であっても、ヴァルクロア家の娘であり、自分の娘であることに変わりはない。
膝の上の包みを見つめ、オルディアスは小さく息を吐いた。
(まずは、これをリゼルに渡してやるとするか)
大魔王陛下が気に入った、と伝えて。それから、一緒にアーシュラ家へ行く、と。




