Ver.3 Arrow 大型Update
Ver.3 Arrow、本編終了後の恒例――
悪神タイムです。
勇者アーネスト・グレイス。
国を守り、娘を守り、最後まで戦い抜いた男。
そんな彼を待っていたのは――
悪神ルキフグスによる、容赦のない商品レビューでした。
そして今回は、それだけでは終わりません。
どうぞ最後までお楽しみください。
――勇者レビュー
「くぅ〜っ! 勇者でもリゼルさんには勝てませんかぁ……!」
薄暗い部屋の中へ、心底悔しそうな男の声が響いた。もっとも、その声音とは裏腹に、本人の姿から悲壮感というものは一切感じられない。言葉だけは嘆いているのに、口元はだらしなく緩み、目は画面に釘付けのまま輝いている。
巨大なモニターが幾つも壁を埋め尽くし、その一つには、つい先ほどまで人間界で繰り広げられていた勇者アーネスト・グレイスとリゼルたちの戦いが映し出されている。椅子のすぐ脇には、低いテーブルに載せられた擬似パソコンが一台――キーボードとマウス、それにもう一枚の小型モニターがセットになったものが置かれており、ルキフグスはいつもそれで雑務をこなしていた。床には空になったビール缶が無造作に転がり、開きっぱなしの菓子袋からは食べかけのポテトチップスがこぼれ、飲みかけの炭酸飲料のグラスが汗をかいていた。使い終わった割り箸や、何のゲームに使ったのか分からないコントローラーまでもが、足の踏み場を奪うように床一面に散乱している。世界と世界の狭間に存在する異空間――本来ならば、神や悪魔ですら容易には踏み込めないはずの場所が、まるでどこかの独身男の部屋のような有様になっていた。
その惨状の中心で、悪神ルキフグスは、だらしなく大型のゲーミングチェアへ身を沈めていた。背もたれを目一杯倒したリクライニング姿勢のまま、両足を肘掛けの外側へ投げ出し、手にはゲーム用のコントローラーを握ったまま、視線だけは巨大なモニターへじっと向けられている。姿勢を変える気配すらなく、まるでそのままチェアに溶けて一体化してしまいそうなだらけ方だった。
「いやぁ〜……アーネスト君。もうちょっと頑張ってくれると思ったんですけどねぇ」
ルキフグスはコントローラーを、ぽい、と床へ放った。硬い床へ落ちたそれが、乾いた音を立てて跳ねる。その音にすら反応せず、彼の視線は変わらずモニターへ据えられたままだった。チェアの上で緩慢に姿勢を変え、今度は両足を肘掛けの上へ乗せる格好になる。だらしなさが一段と増した。
「まあ、アラフォーですし? 六歳児相手に体力負けしても仕方ありませんかぁ」
死人に対する敬意など、欠片もなかった。ルキフグスはテーブルの上へ手を伸ばし、冷えた缶ビールを一本取る。爪を引っ掛け、ぷしゅ、と小気味のよい音を鳴らした。泡が缶の口から僅かに盛り上がり、彼はそれを慣れた仕草で舐め取る。
「妻は死ぬ。娘は壊れる。本人も死亡」
ぐびぐびと喉を鳴らす。流れ込む冷えた液体の感触を味わうように目を細め、喉仏を何度も上下させた。モニターの中では、崩れ落ちた城壁の向こうで炎がまだ燻っている。
「いやぁ〜、勇者って職業、福利厚生が最悪ですねぇ」
ごくん、と喉を鳴らしてから、満足げに息を吐いた。空いた手で頬杖をつき、画面の端に映る小さな文字――戦闘記録のログを、興味なさそうに指先で撫でる。
「……あ〜、うま」
世界を一つ揺るがした戦いの直後とは思えない態度だった。勇者が死んだ。王国は滅びた。父を失った娘は、憎悪の中へ沈み始めている。それでもルキフグスにとっては、ひとつのゲームが一区切りついた程度の出来事でしかなかった。チェアの上で軽く伸びをし、空いた缶を床へ転がす。
「さて」
ルキフグスが指を鳴らす。モニターの一つが切り替わった。戦場の映像が消え、代わりに表示されたのは簡素な入力画面――星評価、コメント、おすすめ度。どう見ても、通販サイトの商品レビュー画面そのものだった。倒していた背もたれを起こし、ようやくチェアの上で胡座をかく。
「では、今回使用した勇者アーネスト君を評価しましょうかぁ」
ルキフグスは缶ビールを片手にしたまま、傍らの擬似パソコンへ向き直った。もう片方の手でキーボードを引き寄せ、器用な指先がカタカタと軽快な音を立てながら滑っていく。小型モニターに映った評価画面の星マークが、彼の指の動きに合わせてちらちらと瞬いた。
「まずは性能ですねぇ」
ルキフグスは缶ビールをテーブルへ置き、指を一本ずつ折りながら項目を数え始めた。
「レベル三八九〇。戦闘経験豊富。法術使用可能。奥さん思い。娘思い。それなりに根性もある」
項目を数え終えると、ルキフグスは再び缶ビールを手に取った。だが、口元へ運びかけた手が途中で止まる。
「でも負けた」
ぽち。
★★★★★
五つ並んだ星のうち、三つが音もなく消える。消えた星の跡に、小さな粒子だけが残って散っていった。
★★☆☆☆
「はい。星二つ」
ルキフグスは満足そうに頷いた。缶ビールを一口含み、画面に残った星の数を改めて眺める。
「ちょっと甘いですかねぇ」
考える。顎に手を当て、しばし思案する素振りを見せた。視線は星の数と、モニターの隅に残る戦場の残像を往復している。
「でも、最後まで娘さんのところへ帰ろうとしてましたし。サービスで二つにしておきましょう」
続いてコメント欄。指先がキーボードの上を滑る。打ち込まれた文字が小型モニターへ一つずつ表示されては、流れるように整列していった。
『勇者としては期待外れでした。妻子への執着は評価できますが、最終局面で六歳児を仕留め切れなかった点が減点。再購入はありません。』
「っと」
入力終了。そのままマウスを掴み、画面上の投稿ボタンへカーソルを合わせる。ボタンがほのかに光を帯びた。
「ぽちっとな」
クリック一つで、投稿完了。小型モニターの評価画面がふっと消えていく。
「よし」
最低だった。人間一人の人生を、使い捨て商品のレビューのように処理した男は、満足そうに缶ビールへ口をつけた。喉を鳴らし、空いた片手で足元のポテトチップスの袋を引き寄せる。
「まあでも――」
指を軽く振る。別のモニターが点灯した。そこには、父を失ったクラリス・グレイスの姿が映っていた。泣いている。怒っている。少しずつ、何かが壊れ始めている。その表情の移り変わりを、ルキフグスは興味深そうに眺めた。
ルキフグスはポテトチップスを一枚摘まみ、口へ放り込んだ。ぱり、と小気味のよい音が鳴る。咀嚼しながらも視線は画面に釘付けで、瞬き一つ惜しむように少女の表情の変化を追っていた。
「クラリスちゃんは面白くなりそうですけどねぇ」
もう一枚。ぱり。塩気の強い欠片を舌で転がしながら、ルキフグスは画面へにじり寄るように身を乗り出した。
「子供は成長が早くていいですねぇ」
悪神らしい笑みが、ほんの僅かに口元へ浮かぶ。画面の向こうで苦しむ少女を肴に、酒とつまみを楽しむ。その姿には、罪悪感の欠片すら見当たらなかった。
そのときだった。
――ピロン。
「…………」
ルキフグスの動きが止まった。珍しい音だった。ゲームの通知ではない。配達でもない。聞き慣れない通知音に、だらけきっていた上体がわずかに起き上がる。手の中のポテトチップスが、宙で止まったままになっていた。
「メール?」
眉を寄せる。空いた手で耳の後ろを掻きながら、通知の出所を探るように視線を巡らせた。
「誰ですかぁ。こんな時間に」
マウスを手繰り寄せ、小型モニターへ一通の電子メールを開く。文面が表示される直前、ルキフグスの指先がほんの一瞬だけ躊躇うように止まる。
「…………」
差出人を見た瞬間、ルキフグスの顔が、本気で嫌そうに歪んだ。眉間に深い皺が刻まれ、口の端が引き攣るように下がっていく。
「うっわぁ……」
缶ビールを持ったまま、身体を仰け反らせる。ゲーミングチェアの背もたれが軋むほどの勢いだった。反動で零れかけた液体を、慌てて手のひらで受け止める。
「超面倒臭ぇのからメール来てますよぉ〜……」
差出人。
――ニャルラトホテプ。
その名を見ただけで、ルキフグスの肩口から力が抜けていくのが分かった。これから起こることへの予感だけが、嫌という程に確信めいていた。
「っていうか、あの人……どっから地球文明仕入れてきたんです?」
ルキフグス自身が言えた義理ではない。ぼやきながらも、指先でメールを開く。内容の半分ほどが文字化けしていた。画面に浮かぶ乱れた文字列を、彼は眉をひそめながら一行ずつ目で追っていった。
『縺薙s縺ォ縺。縺ッ☆』
『見 た よ』
『勇者くん、負けちゃったねぇ』
『ねえ』
『私にも』
『遊 ば せ て』
『あの世界』
『おもしろそう』
『混ぜて混ぜて混ぜて混ぜて混ぜて』
「…………」
ルキフグスの顔から表情が消えた。文字の羅列を一通り読み終えた瞬間、先ほどまでのだらけた空気が一気に冷えていく。握った缶ビールの表面に、びっしりと浮いていた水滴だけが、しんと静まり返った部屋の中で一筋、二筋と垂れ落ちていった。
「嫌ですねぇ」
即答だった。間を置く理由すらなかった。返信欄を開き、キーボードを叩く指先に迷いのない動きで文字を打ち込んでいく。カタカタという音だけが、やけに速く正確だった。
『嫌です。勝手に私の世界に関わらないでください。』
入力終了。文面を見返すことすらせず、そのままマウスへ手を伸ばす。
「送信っと」
ぽち。
「はい終わり」
画面を消した。そして何事もなかったかのように缶ビールを一口。喉を鳴らしてから、安堵したような息を吐く。肩の力を抜き、再びゲーミングチェアへ背中を預け直した。
「まったく。人様の管轄に首を突っ込むなんて、マナーが――」
その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
――ドンドンドンドンドン!!
「ひっ!?」
ルキフグスの肩が大きく跳ねた。手にしていた缶ビールから、泡混じりの液体が零れる。部屋の扉が、猛烈な勢いで叩かれている。木目が軋み、蝶番がびりびりと震え、まるで外側から巨大な槌で殴りつけられているかのような衝撃が繰り返し伝わってきた。
「開けろぉぉぉぉぉ!!」
ゲーミングチェアから転げ落ちるようにして、ルキフグスは床へ尻をついた。心臓が早鐘を打ち、手の中の缶から中身が勢いよくこぼれ出していく。
「…………」
返事をする余裕すらなかった。呼吸を整えようとするが、扉の向こうから伝わる圧に押されて、思うように息が吸えない。
「いるんでしょー! 引きこもりのダメ悪神ー!!」
図星を突かれ、ルキフグスの頬が僅かに引き攣った。居留守を使う選択肢は、もはや残されていないらしい。
「来たぁぁぁぁぁ!!」
ルキフグスは缶ビールを放り出し、慌てて扉へ駆け寄った。転がる缶から泡が噴き出し、床へ茶色い染みを広げていくが、構っている余裕などなかった。
ただし。
開けない。
絶対に開けない。
両手を扉へ押し当て、全体重をかけて押さえつける。靴底が床を滑りそうになるのを、踏ん張った足先が辛うじて止めていた。扉の向こうから伝わる振動が、両腕を通して骨の芯まで響いてくる。
「帰ってください!」
声を張り上げながらも、扉を押さえる手には一切の力を緩めない。全身の体重を前へかけ、歯を食いしばる。
「開けてー!」
負けじと返ってきた声に、ルキフグスの背中へさらに冷や汗が滲んだ。扉越しに伝わる圧が、一段と強くなった気がした。
「嫌です!」
即答だった。交渉の余地など最初からない、という意志を込めて、もう一度強く扉を押し返す。
「ちょっとだけ!」
甘えるような声音に、ルキフグスは一瞬だけ気を緩めそうになり、慌てて自分を叱咤した。この手の誘いに乗ってはいけないと、長年の経験が告げている。
「あなたのちょっとは世界一個なんですよ!」
ドンドンドンドン!!
扉の向こうから、少女の声が響く。声だけ聞けば、年頃の女子高生そのものだった。甘えるような、拗ねるような、どこにでもいそうな響き――だからこそ、ルキフグスは一瞬たりとも気を緩めなかった。
その押し合いの最中、扉の上半分に設けられた、小さな鉄格子付きの覗き窓から、外の光景がちらりと覗いた。ルキフグスは反射的にそちらへ目をやり――そして、息を呑んだ。
窓の向こうに映っていたのは、濡れそぼった黒髪を幾筋も顔に張りつかせた、少女の顔だった。セーラー服の肩を上下させ、固く握った拳を今まさに扉へ叩きつけようとしている。だが、問題はそこではない。
その両目が、完全な虚無だった。白目も黒目もない、ただの真っ黒な穴が二つ、顔の中央で見開かれている。そして、裂けるように開いた口の奥にも、歯も舌も見えない暗黒だけが広がっていた。笑っているのか、威嚇しているのか、判別すらできない表情のまま、鉤爪のように尖った指先が覗き窓を引っ掻き、キィ、と耳障りな音を立てる。
「…………っ」
ルキフグスの背筋に、冷たい汗が一筋流れ落ちた。悪神である自分でさえ、今の光景には本能的な悪寒を覚える。慌てて視線を逸らし、覗き窓から離れた。見てはいけないものを見てしまった、という感覚だけが胸の奥に残る。震える手で、扉の脇に積んであった南京錠と鎖を一つ、二つ、三つと次々にかけ足していく。金属同士が擦れ合う音が、荒い呼吸の合間に響いた。
かけ終えて背中を扉へ預けた頃には、外の声はいつの間にか、いつもの拗ねたような少女の口調に戻っていた。先ほどの異形の気配はもう感じられない――いや、感じたくなかった、というのが本音だった。
そして、もし扉を開ければ。
そこに立っているのは、黒い制服に短いスカート、肩口まで伸びた黒髪という、姿形だけなら年頃の女子高生だった。
――首から上を除けば。
虚無そのもののような二つの眼窩と、暗闇を切り裂いたように開く口。人間の少女という形へ、何か別のものを無理やり押し込めたような姿。ルキフグスは、それを知っているからこそ、絶対に扉を開けなかった。
「ねぇ〜、ルキフグスぅ〜」
甘ったるい猫撫で声だった。これが来るときは大抵ろくなことにならないと、長年の経験則が全身で警鐘を鳴らしている。
「嫌です!」
先回りするように即答する。
「私もリゼルちゃんで遊びたい!」
予想通りの言葉に、ルキフグスは天井を仰ぎたくなる衝動をこらえた。扉へ押し当てた手に、さらに力を込める。この手の相談事に「いいよ」と答えた瞬間、取り返しのつかない何かが起こることを、彼は骨身に染みて知っていた。
「言い方ぁ!!」
思わず素で突っ込んでしまった。
「だって面白そうなんだもん!」
無邪気な声音が、かえって恐ろしい。
「帰ってください!」
短く、しかし強く言い切る。これ以上の問答は無用だと、態度でも示すように扉を押し返す力を強めた。
「ちょっとくらいいいじゃん!」
駄々をこねる子供のような声に、一瞬だけ気が緩みそうになった。慌てて首を振り、意識を引き締め直す。
「あなたこの間、管轄の世界を一個滅ぼしたばっかりでしょう!?」
一瞬。
扉の向こうが静かになった。叩く音も、声も、すべてが止まる。その唐突な静寂が、かえってルキフグスの緊張を高めた。
「…………事故だよ?」
決まりの悪さの滲む声だった。
「どこがですか!!」
声を荒らげながらも、扉を押さえる両腕は一切緩めない。
「ちょっと文明を進歩させてあげようと思って」
開き直ったような口調に、ルキフグスのこめかみがぴくりと動いた。善意のつもりだったらしいという点が、何よりも恐ろしい。それで一つの文明が丸ごと消えたのだから、もはや洒落にもならなかった。
「それで全滅させたでしょうが!」
語気を強める。
「進歩はしたよ?」
悪びれない返答に、ルキフグスは額を扉へ、ごつん、と押しつけた。理屈は通っているようで、まるで通っていない。
「滅亡したら意味ないんですよ!」
再び。
ドンドンドンドンドン!!
扉が軋みながら揺れ、蝶番の周囲の壁から細かい埃が舞い落ちる。ルキフグスは両足を踏ん張り、全身で扉の震動を受け止め続けた。
「開けろぉぉぉ!」
叩く音が一段と激しさを増した。
「帰れぇぇぇ!」
叫び返す声は、半ば悲鳴に近かった。扉の向こうの圧に押され、背中がじりじりと後退しそうになるのを、気力だけで押し留める。
「混ぜろぉぉぉ!」
懲りずに繰り返される要求に、心の中で深いため息をついた。
「ダメですぅぅぅ!」
語尾を伸ばしながらも、意志だけは一切揺るがない。
「ケチ!」
子供のような罵倒に、一瞬だけ気が抜けそうになる。
「ケチで結構です!」
開き直るように言い返す。この程度の評価なら、むしろ甘んじて受け入れる覚悟はできていた。
「引きこもり!」
心当たりがありすぎて、反論の言葉が咄嗟に出てこなかった。
「知ってます!」
自覚だけは十分にある、という開き直りの声だった。
「ダメ悪神!」
もはや罵倒のバリエーションも尽きかけているらしい。それでも扉を叩く勢いだけは、まったく衰える様子がなかった。
「それはちょっと傷つきますよぉ!」
冗談めかした口調の奥に、僅かな本音が滲んでいる。
「じゃあ開けて!」
話の筋道が繋がっているようで、まったく繋がっていない要求だった。
「嫌です!」
扉が再び激しく揺れる。叩く位置が少しずつ下がり、今度は蹴りつけるような重い衝撃が混ざり始めた。両腕へ伝わる衝撃の種類が変わったことに、ルキフグスは思わず眉をひそめる。
「ねぇ、混ぜて混ぜてー!」
語尾を跳ねさせるような甘えた声が、繰り返し扉越しに響く。
「嫌です!」
もはや条件反射のような速さで、言葉が口をついて出た。
「一回だけ!」
この手の「一回だけ」ほど信用ならないものはない。
「絶対嫌です!」
語気を強めて断言する。妥協の余地など、最初から用意していなかった。
「リゼルちゃんに一個だけ贈り物するだけだから!」
贈り物、という単語の不穏さに、ルキフグスの背筋が凍りついた。
「それが一番嫌なんですよ!!」
悲鳴に近い声で返す。
「大丈夫だって!」
その「大丈夫」がまったく大丈夫でないことを、彼は誰よりもよく知っている。
「あなたの『大丈夫』ほど信用ならない言葉はないんですよ!」
叫び返しながらも、扉を押さえる力だけは緩めない。過去幾度となく繰り返されてきた苦い経験の積み重ねが、この一言に凝縮されていた。
「じゃあ、ちょっと見るだけ!」
条件を次々と切り下げてくる交渉術に、ルキフグスは内心で舌を巻いた。
「もっと嫌です!」
段階を踏んで譲歩を引き出そうとする手口には、断じて乗らない。
「ケチぃ!」
拗ねたような声音に、胸の奥がちくりと痛んだ。
「帰ってください!」
もう何度目になるか分からない台詞を、変わらぬ強さで繰り返す。
「開けて!」
短く鋭い要求が、繰り返し扉越しに叩きつけられる。ルキフグスの両腕はもう感覚が鈍くなりかけていた。それでも、押し返す足腰の構えだけは崩さなかった。
「これ以上やるとケーサツ呼びますよ!」
一秒。
二秒。
三秒。
沈黙が落ちる。扉の震動も、声も、ぴたりと止んだ。ルキフグスは息を詰めたまま、その静けさの意味を測りかねていた。
扉の向こうから。
「狭間の世界にンなもんいるかぁぁぁ!!」
至極まっとうな指摘だった。
「ですよねぇ!!」
開き直るように同意する。
「じゃあ開けてよ!」
論理の飛躍に、思わず苦笑を漏らした。
「それとこれとは別です!」
また扉が叩かれる。
ドンドンドン。
ガンガン。
とうとう蹴る音まで混じり始めた。規則性のない連打が続き、ルキフグスの腕がじんわりと痺れていく。両足の踏ん張りも、少しずつ限界に近づいていた。額を伝った汗が、顎の先からぽたりと落ちる。
「ねぇ〜!」
呼びかける声が、徐々に長く伸びていく。
「帰ってください!」
もはや何度繰り返したか分からない台詞だった。
「混ぜてぇ!」
集中力が少しずつ削られていくのが分かる。
「嫌です!」
機械的なまでに即答する。もはや考えるより先に、口が勝手に拒絶の言葉を紡いでいた。
「ちょっとだけ!」
何度言われても、答えは変わらない。
「ダメです!」
短く断る。
「一時間!」
具体的な数字を出されても、返答は変わらなかった。
「ダメ!」
即座に否定する声だけが、部屋に短く響いた。
「十分!」
値切るような交渉に、ルキフグスは思わず笑いそうになるのをこらえた。扉を挟んだ値切り合戦というのも、考えてみれば随分と珍妙な光景だった。
「ダメ!」
譲る気配は、欠片も見せない。
「五分!」
さらに短くなった時間提示に、ルキフグスはもはや呆れすら通り越していた。
「ダメ!」
短く、しかし確かな拒絶だった。
「三十秒!」
もはや交渉というより意地の張り合いに近くなっていたが、ルキフグスは最後まで屈しなかった。
「絶対ダメです!」
語気を強めて言い切る。扉の向こうから伝わる圧が、ふっと一瞬だけ弱まった気がした。
「もういい!!」
ようやく。
扉の向こうから、怒った声が響いた。
「ケチ!」
足音。
とん、とん、とん。
遠ざかっていく。軽やかな、それでいてどこか拗ねた響きを残しながら、足音は徐々に扉から離れていった。
そして。
静かになった。
「…………」
ルキフグスは扉へ耳を当てた。息を潜め、わずかな物音も聞き漏らすまいと、全神経を集中させる。
一分。
二分。
三分。
「……帰った?」
そっと身体を離す。周囲を見回し、改めて部屋の惨状を確認した。
「まったく……」
額の汗を拭った。袖口で乱暴に拭うと、手のひらにじっとりとした湿り気が残る。
「危ない危ない。あの人を入れたら、ストーリーが三章くらい吹き飛びますからねぇ」
ぶつぶつ言いながら、床へ落としたビール缶を拾おうと腰を屈める。零れた液体が指先を濡らし、思わず顔をしかめた。
その瞬間。
――ピンポーン。
「ぎゃあああああ!!」
ルキフグスが飛び上がった。腰を屈めていた姿勢のまま跳ね起き、背中を強かに壁へぶつける。
「まだいるぅぅぅ!?」
痛みに顔を歪めながらも、ルキフグスの意識はすでに扉の向こうへと向いていた。先ほどの攻防が、再び始まるのかと身構える。
『お届け物でーす』
「…………」
聞き覚えのある声だった。張り詰めていた肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。それでも油断はできないとばかりに、ルキフグスは恐る恐る扉へ近づいた。
「……誰です?」
念のため、警戒を解かないまま尋ねる。扉越しに伝わる気配を、慎重に探るような声音だった。
『シャングリラ配送でーす』
「…………」
覗き窓。そこにいたのは、全身を黒い靄で覆い、丸い光だけを目のように輝かせた――いつもの配達員だった。黒い帽子、黒い制服、黒い鞄。両腕には、一つの小包を大切そうに抱えている。箱の側面には大きく、
――狭間行き。
と書かれていた。
「ぁ〜……あなたでしたかぁ」
ルキフグスは心底安心したように胸を撫で下ろした。張り詰めていた全身の力が、一気に抜けていく。
扉を開ける。先ほどまでかけていた鎖と南京錠を、今度は一つずつ丁寧に外していった。
「驚かさないでくださいよぉ。今ちょっと面倒なのが来てたんですから」
愚痴をこぼしながらも、ルキフグスの表情にはすでに先ほどまでの緊張の色は見当たらなかった。
配達員は何も答えない。ただ、無言で箱を差し出した。荷札には、送り主の名が記されている。
――SHANGRI-LA。
「おっ」
ルキフグスの目が輝いた。先ほどまでの疲労など、すっかり忘れ去ったような明るい声だった。
「来ましたねぇ」
受領印を押す。配達員は箱を渡すと、何事もなかったように踵を返し、闇の中へ溶けるように去っていった。
「いつもありがとうございますぅ」
扉を閉める。鍵を掛ける。二重。三重。さらに魔術封印まで重ねがけし、先ほどの来訪者を思い出してか、念入りに確認した。
「よし」
ルキフグスはようやく安心した。そして、先ほどまでの騒動など完全に忘れたように、床へどさりと座り込む。
「さてさてさてぇ」
包装を破る。箱を開ける。中から現れたのは、一枚のゲームソフトだった。
黒。
そして金。
これまでのシリーズとは明らかに雰囲気が違う。中央には、眩い黄金色の文字が浮かび上がっていた。
――Ver.4 GOLD
「おぉ〜」
ルキフグスが目を細める。パッケージを隅々まで眺め回し、感嘆の息を漏らした。
「ゴールドですかぁ」
パッケージを裏返す。説明文へ目を走らせる指先が、少しずつ速度を上げていった。
「国家経営……」
少し読む。眉間に皺を寄せ、文字を追う目つきが徐々に真剣みを帯びていった。
「企業経営……」
さらに読む。口元には、先ほどまでとは違う種類の笑みが浮かび始めていた。
「金融……交易……産業育成……雇用……市場操作……」
眉が上がった。
「へぇ」
口元へ、悪神らしい笑みが浮かぶ。先ほどまでの怯えた表情が嘘のように、好奇心に満ちた顔つきへと変わっていた。
ルキフグスはゲームソフトを片手にしたまま、モニターの一つへ視線を向けた。画面が切り替わる。
そこには。
一人の男が映っていた。鮮やかな赤髪。端正な顔立ち。手には、深紅の液体を湛えた酒杯。身に纏う衣装は華美でありながら下品さはなく、むしろ貴族然とした気品さえ漂わせている。けれど、その口元に浮かぶ笑みだけは――どうにも信用ならない。他者の財布の中身を見ただけで、その人物の人生まで値踏みしそうな、そんな笑い方だった。
「なるほどなるほど」
ルキフグスは、その画面と手元のパッケージを交互に見る。机から新しい缶ビールを一本取り、ぷしゅ、と栓を開けた。
「剣と魔法の次は――」
一口飲む。喉を鳴らしながら、画面の中の男の笑みをじっと見つめ続けた。
「金ですか」
画面の中で、赤髪の男が笑った。ルキフグスも笑う。二つの笑みが、モニターを挟んで呼応するように重なった。
「いやぁ〜」
ゲームソフトを指先でくるりと回す。黒と金の装丁が、部屋の薄暗い光を受けて鈍く輝いた。
「今度は経営シミュレーションってわけですかぁ」
もう一度、パッケージを見る。
――Ver.4 GOLD。
「戦争より性格悪いゲームになりそうですねぇ」
まだ誰も知らない。次にリゼルが戦う相手は、剣でも、魔法でも、勇者でもない。
――金だった。
⸻
――Ending & Restart
――Next : Ver.4 GOLD
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて、Ver.3 Arrowは終了です。
勇者との戦い。
一つの王国が滅びたその顛末。
クラリスの変貌。
そして、レザードが自分自身の未来へ歩き始めるまで。
長い章となりましたが、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
そして最後に届いた、新しいゲーム。
――Ver.4 GOLD。
剣でもなく。
魔法でもなく。
勇者でもない。
次にリゼルの前へ立ちはだかるものは――
金。
戦場は、また少し形を変えます。
引き続き『パンデモニウム・リベリオン』を、よろしくお願いいたします。




