Ver.3 Arrow Chapter 6-1 てめぇもレザードにごめんなさいしろ!
レザード、故郷へ帰還。
戦功あり。
《ザミエル》あり。
大魔王府からの正式な評価あり。
……さて。
以前、彼を「要らぬ」と切り捨てた王家の皆様は、どんな顔をするのでしょうか。
そして、その隣には当然――リゼルがいます。
Ver.3 Arrow Chapter 6-1
「てめぇもレザードにごめんなさいしろ!」
よろしくお願いいたします。
グリムロア王城の謁見の間は、以前と何一つ変わっていなかった。
魔界東方、その深い森のさらに奥。大魔王府の直接統治さえ及ばぬ独立国家グリムロアの中心に聳える王城は、外界の石造建築とは根本から成り立ちを異にしている。城を支える柱の一本一本は、まるで数千年を生きた巨木そのものを建材として用いたかのように太く、黒褐色の幹は遥か頭上まで伸び、天井付近で無数の枝へと分かれていた。その枝々を結ぶように精緻な彫刻が施され、葉脈まで再現された巨大な葉の意匠が梁を覆っている。高窓から差し込む淡い光は緑色の硝子を透過し、磨き抜かれた床へ深い森の木漏れ日のような模様を落としていた。
美しい場所ではある。荘厳でもある。十万年もの昔、人間界から追われたダークエルフたちが魔界の森へ根を下ろし、自らの国家と文化を築き上げてきた長大な歴史も、この謁見の間を見れば嫌でも理解できる。壁面を埋め尽くす歴代大王の肖像画、その下へ整然と掲げられた深緑の王旗、巨大樹と弓を組み合わせた王家の紋章。どれを取っても、他者の庇護だけに縋らず独立国家として生き延びてきた者たちの矜持が刻み込まれていた。
――だからこそ、リゼルはこの場所が嫌いだった。
文化や歴史を嫌悪しているのではない。ダークエルフという種族を嫌っているわけでもない。リゼルが心底気に入らないのは、この美しく荘厳な空間そのものに染み込んだ、グリムロア王家の価値観だった。
謁見の間の最奥には、何段もの階段を上った先に大王の玉座がある。そして、その左右に王族が並ぶための場所が設けられているのだが、誰もが同じ高さに立つわけではない。玉座に最も近い上段には王位継承順位の高い王子。その下に次の王子。さらにその下へ、その次の者。立つ場所そのものが、その者に王家が与えた価値を可視化していた。誰が上で、誰が下なのか。誰が将来この国を背負うに値し、誰がその予備に過ぎないのか。そして――誰ならば、失っても構わないのか。
以前ここへ来たとき、リゼルはその価値観を嫌というほど見せつけられた。レザードが人間界で囚われている可能性を知りながら、王家は動かなかった。末王子一人のために軍を動かすことはできない。国を危険に晒すわけにはいかない。そこまでは、王として理解できなくもない。
だが彼らは、救出する別の手段を模索することさえしなかった。
最終的には実の家族を「死者」として処理した。それでいて、リゼルが「ならば自分が貰う」と言えば、王家の血を他家へ渡すことは別だと言い出した。
助けない。要らない。価値もない。だが、自分たちの所有物ではある。
あのとき胸中に湧いた不快感を、リゼルは今でも鮮明に覚えている。
そして今日、かつてこの謁見の間で最下層に置かれ、いなくなっても国政には何の影響もないと判断された末王子が――もう一度、この場所へ帰ってきた。
「お久しゅうございます。ラシュカーン大王陛下」
淡白金色の髪をさらりと肩から流しながら、リゼルは完璧な角度で頭を下げた。赤紫の瞳は礼法に従って伏せられ、背筋から腰、指先に至るまで、ヴァルクロア大侯爵家の令嬢として一分の隙もない。声量は大きすぎず小さすぎず、他国の王へ敬意を示しながらも自家の格を損なわぬ、絶妙な調子に整えられていた。
つい数日前まで人間界で勇者と死闘を繰り広げ、自分の胸を魔弓で射抜かせるという常軌を逸した策まで実行した少女と同一人物だとは、初見の者ならまず信じないだろう。前世の黒瀬真璃亜として社会人生活の中で身につけた外面と、転生後に大侯爵令嬢として叩き込まれた礼法。その二つを組み合わせれば、こういう場で猫を被ることなどリゼルには造作もなかった。
その一歩後ろでは、メアとメリュジーヌも正式な礼を執っている。メアは主人付きの侍女として黒子に徹し、普段以上に存在感を抑えながらも、何かあれば即座にリゼルを守れる位置を外していない。メリュジーヌもまた、普段のどこか間延びした話し方からは想像しにくいほど堂々とした所作を見せ、他国の王城に相応しい品格を保っていた。
そして、そのさらに後方にレザードが立っていた。
彼だけは、この場で誰よりも静かだった。故郷へ戻った喜びを見せるでもなく、自分を捨てた家族へ怒りを露わにするでもない。ただ以前と変わらぬ無表情で、玉座と、そこに座る父親と、かつて自分を見下ろしていた兄たちを見ている。
ただし、以前と決定的に違うものが一つだけあった。
その背に、魔弓がある。
黒紫色の弓身には、生物の血管とも植物の蔓ともつかぬ不気味な筋が絡み、その各所には紫色の眼球が埋め込まれている。武器というより、武器の形をした生き物と呼んだ方が近い。
千年もの長きにわたり使い手を認めず、今ようやく唯一の使い手としてレザードを選んだ、魔界でも稀有な至宝だった。
「久しいな。リゼル・ノクス・ヴァルクロア」
玉座から響いたラシュカーンの声は、以前と変わらず低く、落ち着いていた。驚きも喜びも、あるいは不快感さえも、ほとんど声には乗っていない。
その鋭い視線がまずリゼルを捉え、次いでメア、メリュジーヌへと移り、そして最後にレザードへ向けられた。ほんの僅かだったが、確かに止まった。
「まさか、本当に連れ戻してくるとはな」
リゼルは胸中で何を思っているかなど微塵も表へ出さず、あくまでも他国の大王へ報告を行う大侯爵令嬢として、穏やかに顔を上げた。
「はい。レザード王子殿下には、人間界における此度の戦役にて、多大なる御助力を賜りました」
「……ほう」
「特に勇者アーネスト討伐におきましては、レザード王子殿下の放たれた《ザミエル》の一矢が勝敗を決する一因となっております。その戦功につきましては、大魔王府においても正式に受理されました」
ざわり、と謁見の間の空気が揺れた。
勇者討伐という言葉だけでも十分に重い。まして、それを認めたのがヴァルクロア大侯爵家だけではなく、大魔王府そのものだというのであれば話は別だった。
レザードを無価値と断じたのはグリムロア王家。そのレザードの戦功を認めたのは大魔王府。
今までこの城の片隅へ追いやられていた末王子を見る目が、少しずつ変わっていく。
「しかし――」
エドモンドが、不意に口を挟んだ。
どうやらレザードの戦功について真正面から反論する言葉を持ち合わせていなかったらしい。その視線は末弟から外れ、リゼルの傍に控えるメリュジーヌへと向かった。
「随分と華やかな供を連れてきたものだな」
メリュジーヌの瞼が僅かに下がった。それだけだった。貴族令嬢として、他国の王族から向けられた無礼な視線一つで表情を崩すほど未熟ではない。
「ヴァルクロア家というのは、従者まで随分と目を楽しませてくれるらしい」
今度はジグマールの視線がメアへ向けられた。
メアの眉が、ほんの僅かに動いた。
「兄上。そちらの侍女は、帰国するまで城へ置いていっても構わないのでは?」
「それはいい。末弟などより、余程この城に置いておく価値がありそうだ」
くつくつと笑い声が重なった。
その瞬間、レザードの瞳から僅かに温度が消えた。自分が侮辱されることには慣れている。幼い頃から、この城では何度となく同じような言葉を浴びせられてきた。だが、自分を助けるために人間界まで来た者たちが、同じように値踏みされ、物のように扱われるのは話が違った。
しかし、レザードが何かを言うより先に、メアとメリュジーヌが、ほとんど同時に同じ方向を見た。
リゼルだった。
笑っていた。
それはもう、見惚れるほど美しい笑顔だった。赤紫の瞳は柔らかく細められ、幼い唇には品のよい弧が浮かんでいる。頬には怒りによる引きつり一つなく、指先にも力は入っていない。どこからどう見ても、他国の王族による少々品のない冗談を寛容に受け流す、育ちのよい大侯爵令嬢だった。
だからこそ、メアの背筋に冷たいものが走った。
この笑顔を知っている。
これは駄目なやつだ。
「大変、興味深いお話にございます」
リゼルは微笑んだまま、ほんの僅かに首を傾けた。声もまた、表情に負けず劣らず穏やかだった。怒気など欠片もなく、むしろ本当に会話を楽しんでいるかのような柔らかささえある。
「お二方とも、随分と愉快な御冗談を仰いますのね」
「冗談とは限らぬぞ?」
そう返したのはジグマールだった。
口元には先ほどから変わらぬ薄笑いが浮かび、その視線は再びリゼルの背後に控えるメアへと向けられている。リゼルの言葉を警告として受け取った様子など微塵もなく、むしろ大侯爵令嬢が表立って抗議できないものとでも思っているらしい。
メアは静かに目を伏せた。
メリュジーヌも、ほとんど同時に視線を逸らした。
二人とも、もう止めなかった。
というより――止められる段階は、たった今終わった。
「まあ」
リゼルの笑顔が、さらに美しくなった。
赤紫の瞳を細め、口元へ片手を添える。その仕草だけを見れば、少し意外なことを聞かされて驚いている幼い令嬢そのものだった。
「左様でございますか」
それだけだった。
声を荒らげることも、メアへ向けられた視線を遮ることもない。ジグマールとエドモンドへ何かを命じるわけでもなかった。
だが、メアには分かっていた。
お嬢様は、怒っている。
それも、かなり。
兄たちは、自分たちの運命が決まったことにまだ気づいていなかった。
むしろリゼルが何も言い返さなかったことで気をよくしたらしく、今度はジグマールの関心がレザードの背にある異形の魔弓へ移った。
「それが例の魔弓か」
「はい」
「千年も使い手を選ばなかったという割には、随分と大人しいではないか」
実際、《ザミエル》は大人しかった。
というより――寝ていた。
弓身に埋め込まれた紫色の眼球は、一つ残らず瞼を閉じている。王城へ入ってからというもの、周囲にどれほど王族や兵士が集まろうと、一度として目を開けていない。
「レザード」
「はい、兄上」
「寄越せ」
レザードの瞳が、僅かに細くなった。
「……何をでしょうか」
「その弓だ」
ジグマールは当然のように片手を差し出した。頼む者の仕草ではない。自分より下位の者へ、持っている物をこちらへ渡せと命じる者の手だった。
「お前には勿体ない。王家の宝具となり得るほどの魔弓ならば、王位継承第一位である私が持つ方が相応しい」
その瞬間、メアとメリュジーヌが、ほとんど同時にリゼルを見た。
先ほどまでの怒りとは、明らかに違うものが赤紫の瞳に浮かんでいる。口元には依然として大侯爵令嬢らしい微笑が残っているのに、目だけが妙に生き生きとしていた。
――面白そう。
そう書いてあるとしか思えない。
「よろしいのでは?」
あまりにも意外な答えに、レザードが僅かに目を見開いた。
「リゼルさん?」
確認するように名を呼ぶレザードへ、リゼルは、どうぞどうぞとでも言いたげに片手を差し出した。
「殿下がご所望なのだ。お渡しして差し上げろ」
レザードは数秒だけリゼルを見た。その笑顔と、その目を見る。
そして理解した。
「……分かりました」
レザードは背から《ザミエル》を外した。
片手だった。
何の力も込めていない。まるで木製の弓でも扱うように軽々と持ち、兄へ差し出す。
ジグマールは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたものの、すぐに当然のこととして《ザミエル》の弓身を掴んだ。自分こそが王位継承第一位であり、末弟が扱える物を自分が扱えないはずなどない。そんな確信が表情に滲んでいる。
レザードが手を離した。
次の瞬間――轟音が謁見の間を揺らした。
「――っ!?」
ジグマールの身体が真下へ落ちた。《ザミエル》を掴んでいた右腕が猛烈な勢いで床へ引かれ、それに肩が続き、上半身が引きずられ、最後には全身が受け身すら取れないまま石床へ叩きつけられた。
「ぐぁああああああああっ!?」
「兄上!?」
エドモンドが血相を変える。
あまりにも突然の出来事に、周囲の護衛たちも一瞬動けなかった。だが、ジグマールの悲鳴で我に返ると、数人が一斉に駆け寄り、《ザミエル》の弓身へ手を掛ける。
動かない。
二人になっても、三人になっても、さらに人数を増やしても、ぴくりとも持ち上がらない。床へ固定されているわけではない。先ほどまでレザードが片手で持っていたものが、今は巨大な山塊でもそこへ落ちてきたかのように微動だにしなかった。
「ぐっ……! 腕が……! どけろ! これをどけろぉ!」
ジグマールの右腕は《ザミエル》と床との間に挟まれ、不自然な方向へ曲がっている。必死に身体を引こうとしても抜けず、周囲の者たちが総出で弓を持ち上げようとしても状況は変わらない。
しかも、当の《ザミエル》は――寝たままだった。
弓身に並ぶ紫色の眼球は一つとして開かず、怒っている様子も、威嚇する様子もない。ジグマールを拒絶して睨みつけることすらしなかった。
興味がない。ただ、それだけだった。
千年もの間、数え切れないほどの者を拒み続けてきた魔弓にとって、ジグマールは怒りを向ける価値すらないらしい。
「…………ぶっ」
妙な音がした。
メアがゆっくりと目を閉じる。
メリュジーヌは口元を両手で覆っていた。
「ふっ……ふふ……」
リゼルが必死に耐えている。肩が震え、唇を噛んでいる。
それでも駄目だった。
「リゼル嬢?」
玉座からラシュカーンが怪訝そうに呼んだ。
それが最後の一押しになった。
「くっ……駄目……もう駄目だ……」
大侯爵令嬢としての仮面に盛大な亀裂が入り、次の瞬間、それは跡形もなく砕け散った。
「ぶっははははははははははははは!!」
リゼルは腹を抱え、腰まで折って笑った。
「なんだそれ! だっせぇぇぇぇぇぇ!! 自分から寄越せって言っといて潰されてんじゃねぇか! あはははははは!!」
謁見の間が凍りついた。
つい先ほどまで完璧な礼法でラシュカーンへ頭を下げ、柔らかな微笑を浮かべていたヴァルクロア大侯爵令嬢の姿は、もうどこにもない。
「お嬢様……」
メアの声には、既に諦めが滲んでいた。
「ついに剥がれましたわねぇ……」
メリュジーヌも肩を震わせている。
「き、貴様……!」
「あー、腹痛ぇ! 最高だなお前! ザミエルにも相手にされてねぇじゃねぇか!」
ジグマールの顔が、痛みとは別の理由で真っ赤になった。
王位継承第一位として臣下たちの前に立ってきた男が、末弟から取り上げようとした弓に押し潰され、その末弟の同行者である幼い大侯爵令嬢から指を差されて大笑いされている。
屈辱としては、これ以上ない。
その横から、エドモンドが怒鳴った。
「この無礼者を捕らえろ!」
その瞬間、リゼルの笑いが止まった。
腹を抱えていた身体をゆっくり起こし、口元に残った笑みだけは消さないまま、レザードへ視線を向ける。
「レザード」
「……はい、リゼルさん」
「殺さなくていい」
一拍置いて、リゼルの口元がさらに吊り上がった。
「殺す寸前だ」
その一言で、先ほどまで笑い声に満ちていた空気が一変した。
レザードは問い返さなかった。
「……はい、リゼルさん」
静かに歩き出す。
護衛たちが必死に持ち上げようとしている《ザミエル》の前まで来ると、レザードは何の気負いもなく右手を伸ばした。
そして――ひょい、と持ち上げた。
何人がかりでも微動だにしなかった魔弓が、まるで最初から彼の手へ戻ることだけを待っていたかのように、何の抵抗もなく床を離れた。
突然重圧から解放されたジグマールが荒い息を吐きながら右腕を抱え、護衛たちは呆然とレザードを見上げる。つい先ほどまで自分たちが全力を込めても持ち上げられなかったものを、華奢な末王子が片手で持っている。その事実を目の前に突きつけられ、誰一人として言葉が出なかった。
そして、レザードの指が弓身へ触れた、その瞬間だった。
ジグマールに握られていた間は一度として反応を示さなかった《ザミエル》の紫色の眼球が、一斉に開いた。幾つもの瞳がぎょろりと動き、周囲の王族や護衛たちを見渡したあと、やがて自らを握るレザードの視線を追うように同じ方向へ向けられていく。
これ以上ないほど明確な答えだった。
レザードは何も言わない。
矢筒へ静かに手を伸ばし、謁見の間にいる者たちを一度だけ見渡すと、必要な本数の矢を抜き取った。その動作には怒りに任せた乱暴さも、相手を脅して愉しむような気負いもない。だからこそ、次に何が起きるのか分からない者たちにとって、その静けさはかえって不気味だった。
最初の弦音が、張り詰めた謁見の間を鋭く裂いた。
一射目が放たれた直後には、既に二射目が番えられていた。二射、三射、四射――そこから先は、もはや誰にもレザードの指先を追うことができない。放たれた矢は単純な直線を描かず、巨大な柱の脇を掠め、王族たちの間を縫い、玉座へ続く階段を駆け上がるようにして、それぞれ異なる標的へ殺到していった。
悲鳴が上がるより早く、すべての矢が止まった。
ジグマールにも、エドモンドにも、居並ぶ臣下にも、護衛にも。そして玉座に腰掛けるラシュカーンにさえ一本ずつ。リゼル、メア、メリュジーヌ、レザード自身の四人だけを除き、この場にいるすべての者の眉間から指一本分にも満たない距離で、鋭い鏃が静止していた。
誰かが恐怖に耐えきれず、そっと顔を横へ逸らした。だが逃れられたのは、ほんの一瞬だった。《ザミエル》の矢もまた滑るように軌道を変え、再びその眉間の正面へ回り込む。別の者が一歩後ずされば、その一歩分だけ矢も前へ進み、決して距離を広げさせない。
それを見た瞬間、誰も動かなくなった。
ただし――一人だけ、あまりにも様子のおかしい男がいた。
ラシュカーン・モル・グリムロア。
グリムロア大王その人である。
もちろん彼の眉間にも、他の者たちとまったく同じように《ザミエル》の矢が浮かんでいた。ほんの指一本分。少し身を乗り出せば、自分から鏃へ額をぶつけそうな距離である。
それなのにラシュカーンは、玉座へ深く腰掛けた姿勢を崩していなかった。片肘を肘掛けへ預け、顎を僅かに上げ、眉間の真正面に浮かぶ鏃など最初から存在していないかのようにレザードを見ている。銀髪の間から覗く鋭い目には狼狽の色などなく、それどころか、千年もの間使い手を選ばなかった《ザミエル》の性能を自ら確かめられたことにでも納得しているような、妙に堂々とした表情を浮かべていた。
大王の威厳と言えば聞こえはいい。
だが、絵面だけを切り取れば、かなりおかしい。
臣下も王子も眉間へ矢を突きつけられ、息をすることさえ躊躇っているというのに、国王だけがまったく同じ状態で妙に偉そうなのである。
メアは何とも言えない顔で、ラシュカーンの眉間に浮かぶ矢と、その堂々たる顔を交互に見た。メリュジーヌも同じところへ目を向け、口元を僅かに引きつらせている。
そんな父親の姿を見ても、レザードだけは特に驚かなかった。
昔から、こういう男だった。
そしてリゼルもまた、そのシュール極まりない光景へ遠慮するような性格ではない。
小さな靴が、磨き抜かれた床を叩く。
ラシュカーンの前まで歩いていったリゼルは、まず大王の顔を見た。次に、その眉間へ浮かぶ矢を見る。もう一度、大王の顔を見る。
(なんでそんなに偉そうなんだ……?)
そんな疑問が、素直に頭へ浮かんだ。
「なあ、ラシュカーン大王」
「何だ」
普通に返事をした。
眉間に矢があるのに。
「要らねぇって言ったはずだぞ?」
リゼルが低い声で告げても、ラシュカーンは顔色一つ変えなかった。鏃の向こう側から赤紫の瞳を真正面に見返し、王としての威厳を一歩たりとも譲る気配がない。
「レザードは、もう要らぬ。それでいい――そう言ったのは、あんただ」
「ああ。言った」
即答だった。
リゼルの眉が僅かに動く。
「だから私が貰った。今さら返せなんて言うなよ?」
「返せとは言っておらん」
ラシュカーンはそう答えると、眉間の矢を避けようともせず、その向こう側に立つ末子へ視線を移した。当然、矢も動いた。ラシュカーンが右を向けば右へ、僅かに顎を上げれば、その分だけ上へ移動し、再び眉間の真正面へ収まる。
それでも大王は気にしない。
「……なるほど」
低く呟きながら、考えるように顎へ手を添えようとして――鏃が邪魔だった。
その手が、一瞬だけ止まった。
何事もなかったかのように肘掛けへ戻す。
メリュジーヌの肩が、ぷるりと震えた。
「千年にわたり使い手を認めなかった魔弓が、レザードを選んだ。加えて勇者討伐の戦功まで得たか」
「それがどうした」
リゼルが吐き捨てる。
そこで不意に、その赤紫の瞳が少しだけ大きくなった。
「あっ」
何かを思い出したらしい。
人差し指を一本立てる。
「あぁ~、そういえばぁ……」
声が変わった。
メアの眉が、ぴくりと動いた。
怒鳴っていたときより――まずい。
リゼルはゆっくりとジグマールへ身体を向けた。
「あぁ~、そういえばぁ……ジグマール殿下ぁ?」
「……な、なんだ」
ジグマールの返事が僅かに上擦った。右腕は《ザミエル》に押し潰されたせいで固定され、そのうえ眉間の真正面には、先ほどから一本の矢がぴたりと浮かんでいる。少し顔を逸らせば律儀についてくる以上、逃げることさえできない。
「先ほどぉ、《ザミエル》を御自分へ『寄越せ』と仰っておられましたわよねぇ?」
「…………」
「あらぁ? わたくしの聞き間違いでございましたかしら?」
リゼルは首をこてんと傾げ、片手を頬へ添えた。心底不思議そうな顔をしているが、わざとらしいことこの上ない。
「『お前には勿体ない』『王位継承第一位である私が持つ方が相応しい』――でしたっけぇ?」
顎へ人差し指を添え、記憶を辿るように天井を見上げる。
もちろん忘れてなどいない。
一字一句、根に持っている。
「ああ!」
ぽん、と両手を合わせる。
「そうでした、そうでした。確かにそう仰っておりましたわねぇ」
ジグマールの頬が引きつった。
「では、せっかくですのでぇ――皆様にも、ひとつ大切なことを御説明申し上げましょうか。こちらの《ザミエル》でございますがぁ――」
リゼルはそこで言葉を切り、レザードの手にある魔弓へ芝居がかった仕草で両手を差し向けた。
「グリムロア王家の所有物ではございません」
ジグマールの喉が、ごくりと動いた。
「もちろん――レザード王子殿下の所有物でもございませんの」
「……では、誰のものだ」
エドモンドが口を挟む。
リゼルは待っていましたとばかりに彼を見る。
「まあぁ。よい御質問にございます」
胸元で両手を重ねる。
その瞬間だけ、リゼルの表情から芝居がかった甘さが消えた。
「《ザミエル》の御所有者は――我らが大魔王、ドラコー陛下にございます」
謁見の間の空気が、明確に変わった。
ドラコーの名を口にするときだけは、リゼルは決してふざけない。その声に宿る敬意も忠誠も、紛れもなく本物だった。
しかし、再びジグマールへ向けられた笑顔には、先ほど以上の甘さが戻っていた。
「つまりぃ、ジグマール殿下は先ほど――大魔王ドラコー陛下の御所有物をぉ――『寄越せ』と?」
「…………」
「まあぁぁぁ。なんて勇敢な御方なのでしょう!」
リゼルは両頬へ手を添え、大きく目を見開いた。
「わたくしには、とても真似できませんわぁ。大魔王陛下の御所有物を、御本人の御許可もなく『俺に寄越せ』だなんてぇ……いやぁ、ジグマール殿下は大物でいらっしゃる」
「わ、私は……そのような事情とは知らず――」
「あらぁ? 知らなければ、陛下の物を勝手に取り上げてもよろしいので?」
「いや、それは――」
「まあまあまあまあ」
リゼルは楽しそうに両手を振った。
「大丈夫でございますよぉ。わたくし、わざわざ陛下へ『グリムロアのジグマール殿下が、陛下の《ザミエル》を自分に寄越せと仰っておりました』などと、告げ口するような性格の悪い女ではございませんのでぇ」
メアが、すっと横を向いた。
メリュジーヌも、すっと横を向いた。
誰一人として信じていなかった。
「たぶん」
ジグマールの顔から、さらに血の気が引いた。
十分に楽しんだらしいリゼルは、今度はくるりと玉座へ身体を向ける。
「さて、大王陛下」
「うむ」
ラシュカーンは普通に応じた。
まだ眉間に矢が浮いている。
しかも先ほどより深く玉座へ腰掛け、両腕まで組んでいた。どうしてその状態でそこまで堂々としていられるのか、リゼルにも段々分からなくなってきた。矢が見えていないのではないかと疑いたくなるが、先ほど顎へ手をやろうとして鏃に邪魔されているので、確実に見えている。
それでも大王は大王だった。
ならば、もう好きにさせることにした。
「現在、この《ザミエル》は、御所有者たる大魔王ドラコー陛下より――こちらのレザード王子殿下へ、正式に貸与されております」
リゼルは芝居の舞台で主役を紹介するかのように、レザードへ掌を差し向けた。
「それも、ただ武器を一張お貸しになられた――などという無粋なお話ではございません。レザード王子殿下御本人へ。そして、その御実家たるグリムロア王家へ。そして――このグリムロアという国へ」
胸元へ手を添え、今度は芝居ではなく正式な礼を執る。
「我らが大魔王ドラコー陛下からの、友情の証にございます」
その一言は、先ほどまでの脅しとはまったく異なる意味で、王族たちを黙らせた。
独立国家グリムロアへ、大魔王ドラコーが自ら所有する千年来の至宝を置く。それは単なる武器の貸し借りではない。両者の関係を形として示す、極めて分かりやすい政治的象徴となる。
しかも、その中心にいるのは王家そのものではない。
レザードだ。
これまで王家が無価値と判断し、行方不明になっても国政には影響しないと切り捨てた末王子が、今や大魔王とグリムロアを繋ぐ一本の線になっている。
「そしてぇ――ここからが、とぉっても大切なお話でございます」
リゼルは再び人差し指を一本立てた。
「貸与期間につきましても、既に定められております」
「いつまでだ」
ラシュカーンが問う。
眉間へ矢を浮かべたまま、実に堂々と。
もはやリゼルも驚かなかった。
「レザード王子殿下が――その御生涯を終えられるまで」
初めて、ラシュカーンの表情が僅かに変わった。それは恐怖でも動揺でもない。長年この国を統べてきた王として、その言葉が意味するところを瞬時に計算した顔だった。
「……何?」
「ええ。ですからレザード王子殿下がお元気でいらっしゃる限り、《ザミエル》もまた殿下と共にございます。ただし、レザード王子殿下が亡くなられた、その瞬間をもって――貸与は終了。《ザミエル》は大魔王ドラコー陛下の御所有物でございますゆえ、殿下が亡くなり次第――」
立てていた人差し指を、くい、と自分の方へ引いた。
「速やかに回収に参ります」
その意味を理解できない者は、この場にはいなかった。
レザードを排除して《ザミエル》だけを王家へ残すことはできない。彼が死ねば、その瞬間に貸与の根拠そのものが消え、《ザミエル》は大魔王のもとへ戻る。反対に、レザードが生き続ける限り、大魔王ドラコーの至宝はグリムロアに留まり続ける。
これまで王家にとって失っても構わなかった末王子が、今や生きていることそれ自体で、国家に利益をもたらす存在へ変わっていた。
「ですのでぇ、御兄弟のどなたかが万が一にもぉ――『レザードが死ねば、この弓は俺のものになる』などと、お考えになる必要は一切ございません」
ジグマールとエドモンドの顔が強張る。
「よかったですわねぇ? 殿下が生きていらっしゃる限り、《ザミエル》は殿下のお傍に。殿下がお亡くなりになれば――陛下のもとへ。簡単でございましょう?」
そして最後に、ジグマールへ向かって優雅に一礼する。
「ですので、先ほどのような『寄越せ』という御命令は、今後お控えくださいますよう――心より、お願い申し上げますわぁ」
「……分かった」
「あら? お声が小さくて、わたくしにはよく聞こえませんでしたわぁ?」
「……分かった!」
「まあ! 御理解が早くて助かりますぅ」
ぱちぱち、と小さく手まで叩いてみせる。
その横でメアは、完全に無表情になっていた。
これを外交と呼んでよいのだろうか。少なくとも自分の知っている外交には、相手国の王族全員の眉間へ矢を浮かべた状態で説明を聞かせる作法など存在しない。
そんなメアの葛藤など知らず、ラシュカーンは黙ってレザードを見つめていた。
相変わらず眉間には矢が浮いている。それなのに腕を組み、玉座へ堂々と腰掛けている。そして何故か――先ほどより少し偉そうだった。
レザードを捨てた過去への後悔に沈んでいるわけでも、目の前の矢へ怯えているわけでもない。千年にわたり使い手を認めなかった《ザミエル》がレザードを選び、勇者討伐の戦功を大魔王府が正式に認め、さらにドラコー本人が自らの至宝をレザードの生涯にわたって貸与した。そのすべてを、一国の王として計算している。
リゼルからレザードを取り返すつもりはない。だが、だからといって王家における末子の評価まで、以前のまま据え置く理由にはならない。かつてラシュカーンがレザードを切り捨てたのも、愛憎ではなく国にとっての価値を基準とした判断だった。そして今、その価値を構成する条件そのものが根底から変わった。
やがて、その計算が終わったらしい。
「……なるほど」
ラシュカーンが低く呟いた。鏃が視界の中央にあるはずなのに、その顔には怯えどころか、妙な自信すら浮かんでいる。
「価値が変わった」
堂々と言い切った。
リゼルは、ちょっと腹が立った。
「王家とは、感情で継承者を定めるものではない。力、実績、そして王家へもたらす利益。それらが変われば、評価もまた改められるべきだ」
眉間に矢を浮かべながら語る内容ではない。
だが本人は至って真面目だった。ジグマールとエドモンドも、父親の眉間に浮いている矢と、その威厳に満ちた表情を交互に見ている。
何故この状況で、そんなに偉そうにできるのか。
誰も聞けなかった。
「王位継承順位を改める」
「父上!?」
「レザードを第一位とする」
その宣言が落ちた瞬間、ジグマールの顔から血の気が引いた。
「お待ちください!」
悲鳴にも似た声が謁見の間へ響く。
「そのようなことが認められるはずがない! 私は第一王子です! これまでずっと、王位継承第一位として父上をお支えしてきた!」
「黙れ」
「黙れません!」
ジグマールは折れた腕を庇いながら、それでも食い下がった。眉間へ《ザミエル》の矢を突きつけられていることさえ、この瞬間だけは頭から抜け落ちているらしい。
「よりにもよって、なぜレザードなのです! 何の役にも立たず、この国から消えても誰一人困らなかったあいつが、なぜ私より上になる!?」
その言葉に、レザードの瞳が静かに細くなった。
「《ザミエル》に選ばれたから何だ! 勇者を討ったから何だ! そんなものがなければ、こいつは今までと何も変わらない! 父上もそうお考えだったからこそ、こいつを――」
「――レザード」
不意に、リゼルが呼んだ。
怒鳴りもしなかった。
ジグマールを言い負かそうともしなかった。
もう十分だった。
何の役にも立たない。
消えても誰も困らない。
自分より上になることなど認められない。
ジグマール自身が、レザードをどう扱ってきたのか、そして今なおどう見ているのかを、これ以上ないほど雄弁に語っている。
ならば、リゼルから付け加える言葉などない。
「……はい、リゼルさん」
レザードが静かに答えた。
その手に握られた《ザミエル》が、僅かに持ち上がる。
直後――ジグマールとエドモンドの眉間で静止していた二本の矢が、す、と前へ進んだ。
鏃と皮膚との間に残されていた僅かな空間が、さらに狭まる。
そこでようやくジグマールは口を閉じた。
リゼルは腕を組んだ。
「謝れ」
「…………」
矢が、もう僅かに進む。
「今まですまなかった」
ジグマールが深く頭を下げた。
「申し訳なかった! すまなかった、レザード!」
エドモンドも続く。
もちろん、心から反省したわけではない。
ジグマールは折れた腕を庇いながら歯を食いしばり、屈辱に顔を歪めている。レザードが第一位になったことを受け入れたわけでも、これまでの扱いを悔いたわけでもなかった。
ただ、頭を下げなければ眉間に矢が刺さる。
それだけだった。
レザードは、そんな兄たちを黙って見ていた。
リゼルだけが満足そうに頷く。
「よし」
「よし、ではありません、お嬢様……」
メアが深く息を吐く。
「メアさん。もう止められませんわぁ」
メリュジーヌも肩を竦めた。
だが、リゼルはまだ終わっていなかった。
ゆっくりと首だけを玉座へ向ける。
そこには、未だに眉間へ一本の矢を浮かべながら、何故か先ほどからずっと堂々としている男がいた。
「おい、そこのヒゲヅラ無駄イケメンダークエルフ」
メアが目を閉じた。
メリュジーヌも目を閉じた。
ラシュカーンは数秒ほど沈黙した。どうやら自分のことだとは思わなかったらしい。やがて周囲を一度見渡し、眉間の矢を連れたまま、自分自身を指差す。
「……私か?」
「てめぇ以外に誰がいるんだよ」
リゼルは独立国家の大王へ、堂々と指を突きつけた。
「てめぇもレザードにごめんなさいしろ!」
臣下たちが一斉に息を呑む。
「ぶっ殺すぞ!!」
「お嬢様……」
「リゼルちゃん……」
ラシュカーンはしばらくリゼルを見ていた。
怒るかと思われた。
だが、やがて小さく息を吐くと、何も言わず玉座から立ち上がった。
その瞬間、眉間の矢も上がった。
ラシュカーンが一段、階段を下りれば、矢も同じ高さだけ下がる。二段目を下りてもやはりついてくる。大王はそこで試すように少しだけ顔を横へ向けたが、矢は滑るように移動し、寸分違わず眉間の真正面へ戻った。
「……なるほど」
まだ分析していた。
「感心してんじゃねぇよ!」
リゼルの怒声が飛び、メリュジーヌがとうとう吹き出した。
ラシュカーンはそれ以上試すことをやめ、ゆっくりと階段を下りていく。臣下たちはその姿へ道を空けたが、誰も声を掛けようとはしなかった。大王本人が眉間へ矢を突きつけられたまま、何事もないように歩いている光景があまりにも異様で、どう反応するのが正解なのか分からない。
やがてラシュカーンはレザードの前まで歩き、足を止めた。
父と息子。
かつてこの城で最も高い場所にいた男と、最も低い価値を与えられていた王子が、今は同じ床の上で真正面から向き合っている。
そしてもちろん、大王の眉間にはまだ矢がある。
「レザード」
「……はい、父上」
「私は王として、お前を切り捨てた」
レザードは何も言わなかった。
「その判断を、当時の私が誤りだったと認めることはない。あの時点で国を守るために下した判断だった」
リゼルの眉が、ぴくりと跳ねる。
だが、ラシュカーンは続けた。
「だが――父として、お前に謝罪すべきことまで失ったつもりはない」
そこで初めて、大王の声から政治の響きが薄れた。
ラシュカーンは息子の顔を真っ直ぐに見た。
そして、頭を下げた。
当然、《ザミエル》の矢もついていった。ラシュカーンの額との距離を寸分違わず保ったまま、頭の動きに合わせて、すうっと下へ降りていく。
せっかくの親子の謝罪なのに、どうしても絵面だけはおかしかった。
「すまなかった、レザード」
だが、その声だけは真摯だった。
王としての判断は撤回しない。過去の自分を否定することもしない。それでも、父として息子を傷つけたことについては頭を下げる。それがラシュカーンという男なりの謝罪だった。
レザードは、すぐには答えなかった。
たった一度の謝罪ですべてが消えるわけではない。怒りも、悲しみも、諦めも、自分はその程度の存在だったのだという空虚な納得も、そんなに単純なものではなかった。
だからこそ、無理に許すとは言わなかった。
「……はい、父上」
許すとも、許さないとも言わない。
ラシュカーンも、それ以上を求めなかった。
リゼルは親子をしばらく眺め、ようやく満足そうに頷いた。
「よし」
ここで終われば、まだ多少は美しい話だった。
だが、リゼル・ノクス・ヴァルクロアは、そこで終わらなかった。
「あとなぁ、ジグマール」
折れた腕を庇っていたジグマールの肩が、びくりと跳ねる。
「……なんだ」
「てめぇの部屋、明日からレザードの部屋な」
「は?」
ジグマールは本気で意味が分からないという顔をした。
「聞こえなかったのか? さっさと帰って部屋片付けて出ていけ!」
「なぜ私の部屋を――」
「レザードが王位継承第一位になったからに決まってんだろ! てめぇ脳味噌にうじ虫でも湧いてんのか?! ぶち殺すぞ!!」
あまりにも身も蓋もない正論と罵倒が、まとめてジグマールへ叩きつけられた。
ジグマールが口を噤む。
王位継承順位によって居室の格まで変わるこの王城では、ジグマールがその部屋を与えられていたのも、彼が第一位だったからに他ならない。ならば、その地位がレザードへ移った以上、部屋も明け渡せ――リゼルの理屈は乱暴極まりないが、グリムロア王家自身の序列に従えば、筋だけは通っていた。
何より、反論しようにも眉間にはまだ《ザミエル》の矢が浮いている。
「返事!」
「……分かった」
「声が小せぇ!」
「分かった!!」
謁見の間いっぱいにジグマールの声が響いた。
リゼルの表情が、ぱっと明るくなる。
「よし!」
メアは天井を見上げた。
大魔王府へ今回の訪問をどう報告すればいいのか、もう分からなかった。ジグマールの私室を勝手に没収して、新たな王位継承第一位となったレザードへ明け渡させたことを、報告書では何と表現すればよいのだろう。ましてや、大王本人を含む王族や臣下たちの眉間へ魔弓の矢を突きつけた状態で王位継承順位まで変更されている。
外交。
果たしてこれは、外交と呼んでよいのだろうか。
少なくともメアがこれまで教わってきた礼法の中に、「相手国の大王へ矢を突きつけたまま息子への謝罪を要求する」という項目は存在しなかった。
隣ではメリュジーヌがとうとう耐えきれなくなり、口元を押さえてくすくす笑っている。その視線の先では、ラシュカーンが未だに眉間へ浮かぶ矢を鬱陶しそうに眺めながらも、最後まで大王としての威厳だけは崩すまいとしていた。
そしてレザードだけが、自分のために王城の序列を丸ごとひっくり返した少女を見ながら、ほんの僅かに笑っていた。
兄たちへ勝ったことを誇る笑みではない。王位継承第一位になったことを喜ぶものでもなかった。この城へ戻ってきてから初めて、ほんの少しだけ肩から力が抜けたのだ。
父の前で。兄たちの前で。そして、かつて自分へ価値がないと決めたこの謁見の間で、レザードは確かに笑った。
おそらく、それが今日、最も大きく変わったことだった。
◇◇◇
その夜、昼間の騒動が嘘だったかのように、グリムロア王城は深い静寂に包まれていた。
王城の高層部。つい数刻前までジグマールの私室だった部屋は、王位継承第一位へ与えられるものに相応しく、レザードがかつて使っていた部屋とは比較にならないほど広かった。天井は高く、壁には森を題材とした繊細な彫刻が施され、調度品には希少な木材と魔石が惜しみなく使われている。寝室だけでも以前のレザードの私室が丸ごと入りそうな広さがあり、その隣には書斎、応接室、衣装室まで備えられていた。
もっとも、つい数刻前までジグマールの物だったため、片付けは完全には終わっていない。臣下たちが慌ただしく私物を運び出し、本人は折れた腕を固定されたまま、凄まじい形相でそれを眺めていた。
リゼルは一切気にしなかった。
そして今、部屋の奥に設けられた大きなバルコニーに、レザードは一人で立っていた。
眼下には、グリムロアの森が広がっている。昼間に見れば果てしなく続く緑の海も、夜になれば姿を変える。巨大樹の枝葉の隙間には無数の灯りが浮かび、集落や街路を示す淡い光が森の奥まで連なっている。月明かりを受けた葉は銀色に輝き、風が吹くたび、森全体が巨大な一つの生き物のように波打った。
生まれ育った国であり、幼い頃から何度となく眺めてきた景色のはずだった。それなのに、今夜の森は以前とはまるで違って見える。景色そのものが変わったわけではない。変わったのは、この城で自分へ向けられる視線であり、そして何より、レザード自身だった。
背後で扉が開いた。
聞き慣れた軽い足音が近づいてくる。その歩調だけで誰なのか分かったため、レザードは振り返らなかった。
「広いな」
「はい」
淡白金色の髪が視界の端へ入り、小さな身体が隣へ並ぶ。
リゼルは自分の背丈より高いバルコニーの石塀を一度だけ見上げると、背中の黒い翼をふわりと広げた。
羽ばたきは、ほんの一度。
小さな身体が軽やかに宙へ浮かび、そのまま石塀の上へ、音もなく降り立つ。
足元の遥か下には、月明かりに沈むグリムロアの森がどこまでも広がっていた。巨大樹の隙間に灯る無数の明かりは、地上へ散らばった星のように森の奥まで続いている。
リゼルは細い石塀の上に立ったまま、背中の黒い翼を半ば開き、眼下の景色を見下ろした。夜風が淡白金色の髪をさらい、黒い羽根を静かに揺らしていく。
昼間のような完璧な大侯爵令嬢の仮面はない。かといって、王子たちへ「ぶち殺すぞ」と怒鳴っていた荒々しさもない。
今はただ、レザードの隣で、彼が生まれ育った国を静かに眺めていた。
「牢獄よりは少しはマシか?」
冗談めかした問いだった。
人間界でレザードが押し込められていた、冷たい石壁と鉄格子に囲まれた牢獄。それと比べれば、王位継承第一位へ与えられるこの部屋など、比較すること自体がおかしい。上質な寝台も、書斎も、応接室も、こうして故郷の森を一望できるバルコニーまで備わっている。
だからリゼルも、ほんの軽口のつもりで尋ねた。
「……僕にとっては、どちらも似たようなものです」
返ってきた言葉に、リゼルの笑みが僅かに止まった。
レザードはリゼルを見ていなかった。石塀に片手を添えたまま、生まれ育ったグリムロアの森を静かに見下ろしている。その声には恨みも、自嘲もなかった。ただ本人にとっては、人間界の牢獄も、生まれ育ったこの王城も、自分を閉じ込めていた場所という意味では大差がないのだろう。
「……そうか」
リゼルは、それ以上何も言わなかった。
安易に「もう違う」と慰めることもしない。今日一日で王位継承順位がひっくり返り、兄たちへ頭を下げさせたところで、レザードがこの城で過ごしてきた年月まで消せるわけではないことくらい、リゼルにも分かっていた。
ただ、今までと同じ牢獄に戻すつもりだけはなかった。
しばらく二人は何も話さず、夜の森を眺めていた。昼間とは正反対の静けさだった。怒鳴り声も、王子たちの抗議も、《ザミエル》が床へ落ちる轟音もない。聞こえるのは森を渡る風と、遠くで鳴く夜鳥の声だけだった。
「レザード」
「……はい、リゼルさん」
リゼルは、すぐには続けなかった。
今日、自分は随分と好き勝手をした。兄たちを脅してレザードへ頭を下げさせ、父親にまで謝罪を強要し、最後にはジグマールの部屋まで奪った。やりすぎたという自覚くらいは、一応ある。
反省しているかどうかは、また別の話だった。
「君は、これからどうしたい?」
レザードがリゼルを見る。
予想していなかった問いだった。今日一日のリゼルを見ていれば、これからこうしろ、次はこうするぞと命令されても不思議ではない。それなのに最後の最後で、この少女は自分自身の意思を聞いてきた。
「王位継承第一位になった。《ザミエル》もある。勇者討伐の戦功もある。今まで君を馬鹿にしていた連中は、もう以前のようには扱えない」
リゼルは石塀の上から眼下の森へ視線を戻した。
「でも、それは全部、周りが勝手に付けた価値だ」
王位継承順位が低かったから無価値だった。《ザミエル》に選ばれたから価値が生まれた。勇者討伐へ貢献したから、今度は第一位に相応しいと言われる。
それでは結局、この城の者たちと同じだった。
リゼルが知りたいのは、そこではない。
「君自身は、何がしたい?」
レザードは答えなかった。
夜風が二人の間を通り抜け、長い髪と衣服の裾を揺らしていく。これまで考えてきたのは、王族として何をすべきか、末王子としてどこまで出しゃばってよいのか、兄たちの邪魔にならないためにはどう振る舞うべきなのか、そんなことばかりだった。
自分自身が何を望んでいるのか。
そんなことを、誰かから問われた記憶さえほとんどない。
「僕は――」
そこで一度、言葉が止まる。
リゼルは急かさなかった。
やがてレザードは、森から隣の少女へ視線を移した。
「貴女のものなのでしょう?」
今度は、リゼルが黙る番だった。
自分で言った。確かに言った。王家が要らないなら自分が貰う。今日だって、ラシュカーンへ堂々と「私が貰った」と言い切った。
それを本人から返されるとは思っていなかった。
「……言うようになったな」
リゼルの口元に浮かんだのは、昼間に王族たちへ向けていた邪悪な笑みでも、大侯爵令嬢として作り上げた完璧な微笑でもなかった。少し困ったような、それでいて嬉しそうな、素の笑顔だった。
「ええ。リゼルさんのものですから」
「ふふん、その通りだとも!」
リゼルは得意げに両腕を組んで、鼻息を鳴らしながらふんぞり返った。細い石塀の上だというのに、足元を気にする様子など欠片もない。ほんの少し前まで、この先の人生について真面目な顔で尋ねていた少女と同一人物とは思えないほど、分かりやすく上機嫌だった。
「君は私のものだ、レザード」
六歳の少女が口にするには、その言葉は妙に堂々としていた。だがレザードには、不思議と傲慢には聞こえなかった。
王家が彼を不要と判断したとき、リゼルだけが必要だと言った。兄たちがその生死すら国政には影響しないと切り捨てたとき、リゼルだけが人間界まで迎えに来た。彼女の口にする「私のもの」という言葉には、所有という意味だけでは片づけられない、ひどく身勝手で、それでいてレザードにとっては何よりも温かな意味が込められていた。
リゼルはそんなレザードの胸中など知らないまま、夜風に乱された淡白金色の髪を指先で払った。
「だからこそ、頼む……いや、違うな。これは命令だぞ!」
途中で言い直し、最後だけ妙に偉そうに胸を張る。
レザードの口元が、ごく僅かに緩んだ。
「……はい、リゼルさん」
「二年後」
そこで一度言葉を切り、リゼルは隣のレザードへ顔を向けた。
「大魔王府の王立学園タルタロスへ来い」
「……王立学園へ?」
「ああ。留学という形にすればいい。グリムロアの王子として学べるものもあるだろうし、何より――」
リゼルの赤紫の瞳が、ほんの少しだけ悪戯っぽく細められた。
「私の傍に来い」
レザードは黙って、その横顔を見つめた。
自分のものだと言う。傍に来いと言う。命令すると言う。それなのに、この少女は決してレザード自身の未来まで奪おうとはしなかった。
「それまでに、自分が何をしたいのか考えておけ。王になりたいなら王を目指せばいい。なりたくないなら、それでもいい。《ザミエル》を使って何かしたいなら、それも自分で決めろ」
風が吹き、淡白金色の髪がリゼルの頬へ掛かる。指先でそれを耳へ掛け直すと、今度は先ほどまでの悪戯っぽさを消し、真っ直ぐレザードを見た。
「私のものだからといって、君の人生まで私が決めるつもりはない」
レザードは数秒、黙った。
「……矛盾していませんか?」
言われたリゼルも一瞬だけ黙る。
言い訳はいくらでも考えられた。所有と自由は両立するとか、そういう意味ではないとか、もっともらしい理屈を並べることもできた。
だが、リゼルはふん、と鼻を鳴らした。
「してるな。だが、私は負けず嫌いだから、それは認めてやらん」
レザードが僅かに目を見開いた。
何を言っているのだ、この人は。
そんな感情がほんの一瞬だけ表情を過ぎり――やがて、笑った。
ほんの僅かに、けれど今度ははっきりと。
リゼルもつられて笑う。
「まあ、二年ある。ゆっくり考えろ」
それは、誰かに自分の価値を決められるための二年ではない。生まれて初めて、自分が何を望み、何になりたいのかを自分自身で決めるための二年だった。
「……はい、リゼルさん」
短い返事だったが、それで十分だった。
リゼルは石塀の上で満足そうに頷くと、ふと何かを思い出したように目を細めた。
「ああ、そうだ」
「?」
月明かりが、淡白金色の髪を淡く照らしている。
その背で、半ば開かれていた黒い翼が大きく広がった。
リゼルは石塀を軽く蹴る。
黒い翼が一度はためき、小さな身体がふわりと宙へ浮かんだ。夜風の中で高度を僅かに上げ、そのままレザードの正面へ回り込む。
もう一度、翼が静かに揺れた。
そして、レザードとちょうど同じ目線の高さで止まる。
月光を浴びた淡白金色の髪がふわりと揺れ、赤紫の瞳が間近からレザードを覗き込んだ。
そして――蠱惑的に、微笑んだ。
幼い顔立ちには不釣り合いなほど、自信に満ちた笑みだった。相手がどんな反応をするのか、それを分かったうえで敢えて一歩踏み込んで楽しんでいるような、悪戯と妖しさの入り混じった表情だった。
リゼルは宙に浮かんだまま、ゆっくりと自分の胸元へ指を添えた。
そこは、勇者アーネストとの決戦で、レザードが《ザミエル》を放ち、リゼルの身体ごと勇者を射抜いた場所だった。傷そのものは既に癒えている。だが、あの瞬間の光景を二人とも忘れてはいない。
「君が私を傷物にしたのだ」
レザードの瞳が僅かに揺れた。
責めている声ではない。
むしろ、その反応を待っていたかのように、リゼルの微笑がほんの少し深くなる。
「責任は取って貰うぞ?」
夜風が吹き抜けた。
広げられた黒い翼の羽根がさらさらと揺れ、その向こうでは、グリムロアの森が月明かりを受けて銀色の波を作っている。
レザードは、すぐには答えなかった。
思い返してみれば、最初から最後まで無茶苦茶な少女だった。人間界の地下牢から自分を引っ張り出し、大魔王ドラコーが所有する《ザミエル》を自分が手にする道を開き、勇者との戦いでは自らの身体を射抜かせることまで躊躇わなかった。そして戦いが終われば、そのまま自分を故郷へ連れ帰り、かつて自分を見捨てた兄たちを脅して頭を下げさせ、父である大王にまで謝罪させた。
挙げ句の果てには、自分が王位継承第一位へ据えられるや、兄の部屋まで奪い取って押しつけてきた。
強引で、身勝手で、やることの何もかもが常識から外れている。それなのに最後の最後で、この先どう生きるかだけは自分で決めろと言う。自分のものだと言いながら、自分の人生まで奪おうとはしない。その矛盾が、今のレザードには少しだけ可笑しかった。
そして何より――彼女は一度として、自分を捨てなかった。
その事実だけは、王位継承順位が第一位になったことよりも、《ザミエル》に選ばれたことよりも、今のレザードにはずっと重かった。月光の下、少年の口元に浮かんだ微笑はほんの僅かなものだったが、かつてこの城で感情を押し殺していた頃の彼なら、決して見せることのなかったものだった。
「……はい、リゼルさん」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間界で囚われ、「無価値な王子」として切り捨てられていたレザードも、ようやく故郷へ帰ることができました。
王位継承第一位。
魔弓。
勇者討伐の戦功。
けれど、今回彼が手にした一番大きなものは、たぶんそのどれでもありません。
「自分がこれから何をしたいのか」
それを、自分自身で考えていいという時間だったのだと思います。
そして二年後――
王立学園タルタロスで、また彼とリゼルが並ぶ日が来ます。
Ver.3 Arrowも、いよいよ一区切り。
次回はいつもの――
悪神タイム。
勇者アーネスト・グレイス。
果たして悪神ルキフグスから、何点を貰えるのでしょうか。
……だいたい想像はつくと思います。
次回もよろしくお願いいたします。




