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The Fallen Star

Ver.3 Arrow――その後。


勇者アーネスト・グレイスの娘、クラリス。


すべてを失った少女が、滅びた王都で拾ったものは――たった一つの名前でした。


今回は、そんな彼女の小さな後日譚です。

Another Story


――勇者の娘は、復讐だけを抱いて歩く


 最初に戻ってきたのは、痛みではなく臭いだった。焼けた木材、焦げた布、砕けた石灰、それに鉄錆のような血の臭い。それらが混ざり合った空気を吸い込んだ瞬間、細かな粉塵が喉の奥へ貼りついた。クラリス・グレイスは反射的に咳き込みかけたが、寸前で掌を口へ押し当てた。


 頭の上には斜めに落ちた梁があり、身体の左右を崩れた煉瓦と石材が囲んでいた。その隙間から外を覗くと、生まれ育った王都は黒煙の底へ沈んでいる。折れた塔、崩れた建物、横転した荷車、途中からへし折れた街灯。通りを歩いているのは、もう人間ではなく、角や牙や尾を持った魔族兵ばかりだった。


 身体を起こそうとした瞬間、脳裏へ一つの数字が浮かんだ。


 九百九十九。


 その数字に続いて蘇ったのは、生き残っていた人々の顔だった。自分へ投げつけられた石、耳を塞ぎたくなるほどの罵声、フィオナとエマの顔。そして、すべてを呑み込んだ白い光。その先にいた九百九十九人は、もうどこにもいない。


「…………お父さん。お母さん。フィオナ、エマ……」


 掠れた声は、瓦礫の中へ吸い込まれて消えた。返事などあるはずがないのに、クラリスはしばらく耳を澄ませていた。やがて視線を落とし、自分の掌を見つめる。泥と煤がこびりついているだけで、千人近い人間を一瞬で消し去った力の痕跡など、どこにも残っていなかった。


 胸の中には、大きな穴が開いていた。悲しいのか、怖いのか、後悔しているのか、自分でもよく分からない。何かを考えようとしても、感情が形になる前に、その穴へ落ちて消えてしまう。


 それでも、一つだけ消えてくれないものがあった。


 銀白色の髪。赤紫の瞳。自分より遥かに幼い、小さな身体。父が娘のもとへ帰ろうとしていることを知りながら、それでも父を殺した悪魔の顔だった。名前は知らない。どこの誰なのかも知らない。それなのに、その顔だけは瞼を閉じるたびに何度でも現れた。


 そのとき、瓦礫の外から何か重い物を引き摺る音が聞こえた。続いて、何人もの男たちが声を張り上げる。クラリスは咄嗟に身を伏せ、崩れた石壁の陰へ身体を押し込んだ。


「せーのっ! 引けぇ!」


「おい、そっち! 車輪が石に噛んでるぞ!」


「分かってる! ったく、なんなんだよこの鉄の箱は!」


 隙間から覗くと、数人の魔族兵が一台の自動車へ太いロープを括りつけ、力任せに引っ張っていた。誰も運転席へ座ろうとはしない。どうやら動かし方が分からないらしく、車輪が瓦礫へ乗り上げるたびに二、三人が車体を持ち上げ、残りが掛け声を合わせて前へ引いている。


「壊すなって命令されてんだぞ!」


「だったら動かし方も教えろよ!」


「知るか! 俺だって今日初めて見たんだ!」


 重たい自動車は、魔族たちの腕力だけでずるずると通りを進んでいった。その後ろでは、別の兵士たちが薬瓶や鍋、時計、本、衣服、玩具まで木箱へ詰め込んでいる。戦利品を漁っているというより、街全体を片端から箱詰めしているような異様な光景だった。


 中でも目立っていたのは二人だった。一人は黄緑色の肌と太い牙を持つ大柄なオーガ。髪を後ろで編み込み、棘の付いた肩当てを身につけている。もう一人は緑色の鱗と長い尾を持つリザードマンで、革鎧の脇に短剣を吊るし、心底うんざりした顔で地面に積まれた品々を眺めていた。


「なあ、ガルドン。これ何だ?」


 リザードマン――シャルガが、指先で小さな金属部品を摘まみ上げた。歯車のようにも見えるが、それだけを見ても用途は分からないらしい。オーガのガルドンも一瞥しただけで、すぐ手元の帳簿へ視線を戻した。


「知らん。だが捨てるな。番号つけて、その箱だ」


「知らねぇ物まで持って帰るのかよ……」


 シャルガは露骨に顔をしかめた。それでも部品へ小さな札を括りつけ、木箱へ放り込もうとする。直前でガルドンの視線に気づくと、舌打ちしながらそっと置き直した。


「王都なんか焼き払えば一日で終わるだろ。なんで俺らが人間の筆一本まで数えなきゃならねぇんだよ」


「焼いたら中身まで灰になるだろうが。分からねぇ物ほど壊すな、そのまま持って帰れって命令だ」


「誰だよ、そんな面倒臭ぇ命令考えた奴」


 シャルガは今度は細長い筆記具を手に取った。蓋らしき部分を引っ張り、先端を覗き込み、匂いまで嗅いでみる。結局何なのか分からなかったらしく、首を傾げたままガルドンへ差し出した。


「これは?」


「知らん」


「こっちは?」


「知らん」


「お前、本当に何も知らねぇな」


「俺は人間界の道具博士じゃねぇ」


 ガルドンは鬱陶しそうに答えながらも、帳簿へ回収場所を書き込んでいく。その横を、先ほどの自動車が何人もの魔族に引かれて通過した。車体の後ろを押していた兵士が「これ本当に馬なしで走るのか?」と叫び、別の兵士が「知らん!」と怒鳴り返している。


 シャルガはその光景を眺め、呆れたように口を半開きにした。


「馬の要らねぇ馬車。空飛ぶ船。変な薬。時計。鍋。服。玩具。挙げ句の果てに筆まで……本当に全部持って帰るのか?」


「全部だ」


「昨日、便所の蛇口外してる奴いたぞ」


「それも持って帰れ」


「頭おかしいんじゃねぇか、そいつ?」


 ガルドンの羽根ペンがぴたりと止まった。ゆっくり顔を上げ、周囲に上官がいないことを確かめてから、シャルガへ睨むような視線を向ける。シャルガも少しだけ首を竦めたが、口を閉じる気配はなかった。


「お前、声がでけぇぞ」


「だってそうだろ。俺らにゃ何に使うかも分からねぇ物を、壊さず全部持って帰れだぞ?」


「魔界へ持ち帰ってから調べるんだとさ。この国の物は、向こうじゃ見たことのねぇ物ばっかりだからな」


「だから、誰がそんなこと言い出したんだよ」


 ガルドンは帳簿を閉じ、小脇へ挟んだ。どこか得意げに太い牙を覗かせると、知らないのか、とでも言いたげにシャルガを見る。


「ヴァルクロア大侯爵閣下の二番目のご令嬢だよ」


「大侯爵閣下の娘?」


「ああ」


 シャルガは少し考えたあと、周囲の惨状を見渡した。城壁は破壊され、街の至るところから煙が上がっている。それでも半壊した工場や建物は残っており、内部から機械を運び出すことができる程度には形を保っていた。


「じゃあ今回、ここを潰したのって大侯爵閣下の軍なのか?」


「違う」


「違うのかよ」


「大侯爵閣下の軍なら、こんなに建物残ってねぇだろ」


 その言葉に、シャルガは「ああ」と納得したように頷いた。以前にも似たような後始末へ駆り出されたことがあるらしく、足元の割れた石畳を爪先で蹴る。


「確かにな。前に大侯爵軍の後始末やったとき、建物どころか地面まで抉れてたもんな」


「今回は軍じゃねぇ」


「じゃあ誰がやったんだよ」


「四人」


 シャルガの尾が止まった。数秒間ガルドンの顔を見つめ、冗談を言っているのか確かめるように目を細める。しかしガルドンは真顔のまま、帳簿の表紙を指で叩いていた。


「……何が四人?」


「この国を潰した人数」


「はぁ?!」


 思わず上がった声に、近くの兵士が何人か振り返った。ガルドンは慌ててシャルガの頭を掴み、無理やり自分の方へ引き寄せる。


「だから声がでけぇっつってんだろ!」


「だって国だぞ! 街じゃねぇんだぞ! 四人でどうやって国潰すんだよ!」


「俺に聞くな。やったのは俺じゃねぇ」


「その四人って誰だよ」


 クラリスは瓦礫の陰で息を殺したまま、二人の会話へ耳を澄ませた。先ほどまでなら、魔族兵の雑談など聞く価値すらないと思っていたかもしれない。だが、自分の国を滅ぼした者たちの話だと分かった瞬間、意識がそこへ吸い寄せられた。


「ヴァルクロア大侯爵家の二女――リゼル様」


 リゼル。初めて聞く名前だった。クラリスは動かず、そのまま続きを待った。王国を滅ぼした四人の中心にいるらしい少女の名。


「それとノクタール侯爵令嬢のメリュジーヌ様。リゼル様付きのメイド、メア。それから、ここに捕まってたグリムロアの王子――レザード殿下だ」


「本当に四人じゃねぇか……」


「だから何回言わせんだ」


 シャルガは両手を広げ、周囲一帯を示した。見渡す限りの瓦礫、焼け落ちた屋根、崩れた城壁。たった四人という数字と、目の前の光景がどうしても結びつかないらしい。


「いや、でも勇者がいたんだろ? この国には」


「ああ」


「勇者どうした」


「死んだ」


「誰に?」


 ガルドンは何でもないことのように、木箱の蓋を閉めた。


「勇者をぶっ殺したのも、そのリゼル様らしい」


 その瞬間、クラリスの呼吸が止まった。


 先ほど聞いた名前へ、一人の少女の顔が一気に重なった。銀白色の髪。赤紫の瞳。自分より遥かに幼い、小さな身体。父が娘のもとへ帰ろうとしていることを知りながら、それでも父を殺した悪魔。


 あの少女の名前は、リゼル。


 クラリスの指が、崩れた煉瓦の角へ食い込んだ。


「……おい。今なんつった?」


 シャルガも目を見開いていた。ガルドンはそんな反応を面白がるように片方の眉を上げ、帳簿を抱え直す。


「だから、勇者アーネストを殺したのがリゼル様だって話だ」


「大侯爵家の娘が勇者を?」


「ああ。しかも六歳」


「…………は?」


「六歳だよ」


 数秒の沈黙のあと、シャルガは周囲の瓦礫をもう一度見渡した。それからガルドンへ顔を戻し、今度こそ我慢できないというように両手を振り上げる。


「はぁ?! たった六歳のガキが数十万人を皆殺しにしたのかよ?!」


「だから全部一人でやったわけじゃ――」


「そこじゃねぇよ! 六歳だぞ?! 俺が六歳の頃なんて虫捕って食ってたぞ!」


「お前、今も食ってるだろ」


「そういう問題じゃねぇ!」


 ガルドンは腹を抱えて笑ったが、クラリスにはその声が遠く聞こえた。六歳。その年齢を聞けば、もう疑いようもなかった。あの小さな身体も、銀白色の髪も、赤紫の瞳も、父を殺したときの顔も、すべて鮮明に覚えている。


 シャルガはまだ納得できない様子で頭を抱えていた。


「で、その六歳の嬢ちゃんが、なんで俺らにこんな面倒な仕事させてんだ?」


「この国を潰したあと、人間界の技術や物資を回収して魔界へ持ち帰るべきだって提言したんだとよ。それが大魔王府で通った」


「六歳が?」


「六歳が」


「お前、さっきから六歳って言えば何でも許されると思ってねぇか?」


「俺に言うな」


 ガルドンは肩を竦め、再び帳簿を開いた。だがシャルガの質問は終わらない。すぐ横へ回り込み、紙面を覗き込むように顔を近づけた。


「勇者を殺して、国を潰して、ついでに回収計画まで出したってことか?」


「そういうことになるな。それで征滅勲章まで賜ったらしいぞ」


「……征滅勲章?」


「ああ」


「六歳で?」


「六歳で」


 シャルガは暫く口を開けたまま固まっていた。やがて額を押さえ、大きく息を吐く。


「大丈夫なのかよ、大魔王陛――」


 最後まで言わせなかった。


 ガルドンの太い腕が伸び、シャルガの胸ぐらを掴み上げる。大柄なリザードマンの身体が軽々と地面から浮き、長い尾が慌てて宙を泳いだ。


「しっ! 馬鹿! それ以上言うな!」


「ぐ、ぐるじ……!」


「リゼル様はドラコー陛下を狂信してるって噂だぞ。今の言葉が本人の耳に入ってみろ。お前、本気で殺されるぞ!」


「わ、分かった! 分かったから降ろせ!」


 地面へ戻されたシャルガは、鱗に覆われた首を押さえて何度も咳き込んだ。ガルドンは呆れたように鼻を鳴らし、落ちた帳簿を拾って土埃を払う。先ほどまで笑っていた周囲の兵士たちも、ドラコーの名が出たあたりから、聞こえなかった振りをして仕事へ戻っていた。


「……やべぇな。そのリゼル様ってお嬢様」


「リゼル卿だ」


「は?」


「征滅勲章を賜ったことで、七魔公、貴族家当主、大尚書閣下なんかに次ぐ発言権を持っちまった。俺らみたいな下っ端が、いつまでも大侯爵家のお嬢様扱いしていい相手じゃねぇよ」


 シャルガの顔から、ようやく冗談めいた色が消えた。王都の惨状を見回し、それから喉をさすりながら小さく頷く。


「あ、あぁ……リゼル卿か……」


 少し間を置き、遠くで引き摺られていく自動車を眺めながら、乾いた笑いを浮かべた。


「どんなおっかねぇ化け物なんだろうな」


 二人は再び仕事へ戻り、やがて木箱を載せた荷車と共に遠ざかっていった。魔族兵たちにとって、それは遠い上位者についての噂話にすぎない。酒場へ戻れば、六歳で征滅勲章を取った化け物じみた令嬢の話として、笑いながら酒の肴にするのだろう。


 荷車の軋む音が完全に消えるまで、クラリスは瓦礫の陰から動かなかった。俯いた肩が、やがてゆっくりと揺れ始める。泣いているようにも見えたが、唇から漏れたのは嗚咽ではなく、乾いてひび割れた笑い声だった。


「…………あは。リゼル……っていうんだ」


 クラリスは自分の口で、その名前を初めて発した。今度は二文字の向こうに、はっきりとあの少女の顔が見える。父を殺した銀白色の髪の悪魔には、リゼルという名前があった。


「お父さんを殺した悪魔……リゼル」


 もう一度口にすると、胸の奥に開いていた空洞へ冷たい熱が流れ込んできた。何も感じられなかったはずなのに、その名前を口にしたときだけは、奥歯が軋むほどの感情が湧き上がってくる。


「お母さんを奪って、国まで滅ぼして……それで、勲章まで貰ったんだ」


 笑いは止まった。


 クラリスは瓦礫を押し退け、ゆっくりと外へ這い出した。近くに倒れていた人間兵の腰から短剣を抜き取り、別の死体から丈夫そうな外套と靴を剥ぎ取る。財布、水筒、乾燥肉、薬瓶、何に使うのか分からない法具まで袋へ押し込んだ。


 死者へ祈りは捧げなかった。謝罪もしなかった。もう、そんなことへ心を使う余裕は残っていない。生きるために必要な物だから奪う。それだけだった。


「必ず殺してやる……リゼル」


 口にした瞬間、進む方向だけは決まった。


 食べる。眠る。逃げる。戦う。強くなる。そのすべてを、いつかあの悪魔へ辿り着くために使えばいい。何年かかろうと構わない。どこにいるのか分からなくても、名前さえ分かれば探せる。


 クラリスは黒煙に沈む王都を一度だけ振り返った。あの煙の向こうには家があった。学校があった。父も母も、フィオナもエマもいた。昨日までなら帰る場所だったはずなのに、今はもう、どこを見ても知らない廃墟しか残っていない。


「…………さよなら」


 誰へ向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


 血と煤に汚れた外套を深く被り、クラリスは魔族兵の巡回が途切れる瞬間を待って歩き出した。小さな背中は、崩れた王都の路地へ溶け込むように消えていく。勇者の娘が生まれ育った国を去るとき、その手に残っていたものは、拾い集めた僅かな物資と、たった一人の敵の名前だけだった。


     ◇◇◇


 ――数年後。


 深い森を貫く街道に、獣じみた咆哮が轟いた。鬱蒼と茂る木々の梢が震え、驚いた鳥たちが一斉に空へ舞い上がり、湿った土の匂いに混じって鉄錆のような血の臭気が風に流れてくる。荷馬車を囲んでいたのは、二本の巨大な角を生やした牛頭の魔物だった。岩のように隆起した筋肉に覆われた巨体は人間の三倍近くあり、振り回された棍棒が街道脇の木へ叩きつけられるたび、幹が悲鳴のような音を立ててへし折れていく。馬は恐怖に狂って嘶き、御者台から転げ落ちた商人たちは荷車の陰へ身を寄せ、迫りくる怪物を前に膝を震わせていた。


「た、助けてくれ! 誰か! 誰かぁぁぁっ!」


 先頭に立つ商人の男が、枯れ果てた喉から絞り出すように叫んだ。その声に応えるかのように、街道脇の茂みが大きく揺れ、積もっていた落ち葉が一斉に舞い上がる。足音は風に紛れて聞こえず、ただ揺れる枝葉の向こうから、何かが猛烈な速さで近づいてくる気配だけが、肌を撫でるように伝わってきた。商人たちは救いの手を期待しながらも、その気配に得体の知れない寒気を覚え、思わず息を止めて茂みを見つめた。


「ヒャッハァァァァァァッ!!」


 あまりにも場違いな歓声と共に、茂みを割って一人の女が飛び出してきた。長く伸びた薄茶色の髪を振り乱し、裂けた蒼黒の外套を翻しながら、彼女は勢いよく地面を蹴る。怯える商人たちなど見向きもせず、琥珀色の瞳は牛頭の魔物だけを捉えて爛々と輝き、唇には、獲物を見つけた子供のような満面の笑みが浮かんでいた。首には黒い首輪が食い込み、片肩の棘付きの肩甲から垂れた鎖が、裂けて灰色の刺繍を覗かせる外套の下で擦れ合って軽やかに鳴る。指のない黒手袋の手と包帯を巻いた腕には乾いた血がこびりつき、腰の幅広の革帯と、腿へ幾重にも巻かれたベルトの間では、十字や短剣を模した金の飾りが揺れていた。高い踵の黒鋼の長靴が砂利を踏み砕くたびに、血の乾いた肌に刻まれた無数の傷痕が、駆ける身体の動きに合わせて陽光の下で浮かび上がる。


「いたいたいたぁ! ちょうど退屈してたんだよぉ!!」


 牛頭の魔物が彼女へ顔を向け、湯気の立つ鼻息を吐きながら大きく棍棒を振り上げた。まともに受ければ人間など原形も残らない一撃だったが、彼女は避けようともせず、むしろ魔物の真正面へ向かって一直線に踏み込んでいく。風を切って振り下ろされる棍棒の影が、彼女の頭上へ覆いかぶさった。その寸前、軽やかな足取りのまま、彼女の姿がふっと地面すれすれまで沈み込んだ。


「おっせぇぇぇぇッ!!」


 地面に触れそうなほど身体を倒して一撃を潜り抜け、そのまま魔物の脇を駆け抜ける。棍棒が地面を砕いて土煙が舞い上がる中、銀色の軌跡が一閃し、遅れて牛頭の魔物の右腿から大量の血が噴き上がった。彼女は数歩先で靴底を滑らせて急停止し、振り返りざまに、血の滴る剣を肩へ軽々と担ぎ上げる。頬に笑みを貼りつけたまま、傷口を押さえて呻く巨体を、品定めするように眺めていた。


「ほらほら! どうしたデカブツ! こっちだぞぉ!」


 女は剣先を揺らしながら、まるで子犬でもあやすように手招きをした。挑発を受けた魔物の目が血走り、鼻の穴が大きく膨らむ。蹄が地面を抉り、太い腕の筋肉が軋むほど盛り上がり、怒りが巨体の隅々へ満ちていくのが、離れた場所の商人たちにも肌で感じられた。


「グオオオオオオオッ!!」


 怒号が森に反響し、木々の枝が揺れて葉が雨のように降り注ぐ。魔物は痛む脚を引きずりながらも、棍棒を捨てて両腕を広げ、猛然と突進を始めた。大地が足音に合わせて震え、荷馬車の車輪が小刻みに跳ね、繋がれた馬が怯えて何度も前脚を蹴り上げる。


「そうそう! 怒れ怒れ! その方が面白ぇからよぉ!」


 彼女は笑い声を上げながら、真正面へ向かって走り出した。衝突する寸前、地面を蹴って横へ跳び、すれ違いざまに腰を捻って剣を振り抜く。刃が肉を裂く湿った音が響き、今度は魔物の脇腹が深々と裂けて、熱い血が弧を描いて散った。血飛沫が彼女の頬へ飛び、彼女はそれを拭おうともせず、むしろ舌先で唇をなぞるようにして笑みを深めた。


「アハハハハハッ! いいねぇ! まだ立ってんじゃん!」


 その笑い声を聞いた商人たちは、助けが来たという安堵よりも、別の種類の恐怖を覚え始めていた。牛頭の魔物も凶暴だったが、目の前で嬉しそうに剣を振り回している彼女も、どう見てもまともではない。荷車の陰で縮こまった男たちは、互いの顔を見合わせたまま、声を出すことさえできずにいた。その間にも彼女は一気に間合いを詰め、魔物が横薙ぎに振るった腕を軽々と跳び越え、空中で身体を捻る。法気を纏った剣が青白い光を引きながら走り、右腕を肩口から斬り飛ばした。


「一本!」


 切断された腕が棍棒を握ったまま、遠くの地面へ鈍い音を立てて転がった。着地した瞬間に膝を沈めた彼女は、体勢を崩すことなく、低い姿勢のまま剣を水平に薙ぐ。刃が空気を裂く鋭い音と共に、魔物の左脚が深く斬り裂かれ、支えを失った巨体が大きく傾いた。


「二本!」


 倒れかけた魔物の胸板を足場にして、彼女は軽く蹴って高く跳ね上がった。外套が風を孕んで大きく広がり、鎖の飾りが空中で弧を描く。そのまま体重を乗せて膝を顔面へ叩き込むと、鈍い衝撃音と共に牛頭が大きく仰け反り、折れた牙が一本、地面へ弾け飛んだ。


「まだ死ぬなよぉ! せっかく見つけたんだから、もうちょっと遊べよ!」


 もはやどちらが襲撃者なのか、商人たちには分からなくなっていた。魔物は残された片腕を滅茶苦茶に振り回したが、彼女には一度も触れられない。剣閃が走るたびに肉が裂け、血が飛び、巨体へ傷が増えていくのに、彼女は致命傷だけを巧みに避けるように斬り刻み、口元には狂ったような笑みを浮かべ続けていた。やがて牛頭の魔物は片膝をつき、荒い息を吐きながら彼女を睨みつける。全身は傷だらけで、立ち上がる力さえほとんど残されていない。


「あーあ。もう終わりかよ」


 女はようやく剣を下ろし、心底つまらなそうに唇を尖らせた。肩を落として首を回し、つま先で足元の小石をつまらなそうに蹴る。さっきまでの高揚が嘘のように冷めた目で魔物を見下ろし、その表情が次の瞬間、がらりと別のものへ変わった。


「じゃあ――片付けるか」


 彼女が右手を前へ突き出すと、掌の周囲へ青白い光が集まり始めた。それは炎だった。だが、薪や油を燃やす炎とは明らかに違い、眩い法気そのものが火焔へ変わり、白に近い光を放ちながら彼女の腕へ絡みついていく。周囲の空気が震え、街道に散った枯れ葉が熱風に煽られて渦を巻き、商人たちは思わず腕で顔を覆った。


「《カルミネリア・デ・アルディエス》!!」


 突き出した掌から、巨大な光炎が奔流となって放たれた。牛頭の魔物が咆哮を上げる間もなく、青白い炎が巨体を真正面から呑み込み、残っていた毛皮も肉も骨も、一瞬で光の中へ溶けるように消えていく。熱風が街道を駆け抜け、木々の葉が焦げた匂いを撒き散らした。


「汚ねぇ生ゴミは燃え尽きて、灰になっちまぇええええっ!!」


 女の狂笑と共に、光炎はさらに膨れ上がり、森の空気そのものを震わせた。眩しさに目を細めた商人たちの耳へ、炎の唸りと彼女の笑い声だけが響き続ける。数秒後、光が収まると、そこに牛頭の魔物の姿はなく、街道には黒く焼け焦げた跡と、熱風に舞う僅かな灰だけが残されていた。


「…………ふぅ」


 女は満足そうに息を吐き、剣を鞘へ戻した。頬についた血を手の甲で乱暴に拭い、肩を軽く回しながら、そこでようやく荷馬車の横で固まっている三人の商人へ顔を向ける。男たちは誰一人として動かず、助かったはずなのに、顔色は青ざめたままだった。今しがた魔物を笑いながら切り刻み、最後には灰へ変えた彼女が、満面の笑顔でこちらへ歩いてくる。


「よぉ」


 ブーツの底が砂利を踏む音が近づき、彼女の影が商人たちの足元まで伸びてきた。血と埃にまみれた顔は笑っているのに、その琥珀色の瞳には、どこか底の見えない暗さが沈んでいる。商人の一人は無意識に後ずさり、荷車の車輪へ背中をぶつけた。


「ひっ……!」


 声を掛けられただけで、商人の一人が肩を跳ねさせ、握り締めていた帽子を取り落とした。慌てて拾い上げようとして指が震え、帽子は何度も手から滑り落ちる。周囲の仲間たちは息を呑み、彼女の機嫌を損ねないよう、ただ立ち尽くしていた。


「な、なんでしょうか……?」


 もう一人の商人が、愛想笑いを浮かべようとして頬を引き攣らせた。額には脂汗が滲み、握り締めた拳の中で、指が白くなっている。彼女は彼の前でぴたりと足を止め、腰へ手を当てて、値踏みするように首を傾げた。


「財布」


 短く告げた彼女の視線が、男の腰の革袋へ吸い寄せられる。その視線の鋭さに、男の喉がごくりと鳴り、膝がかすかに笑い始めた。魔物に襲われていた時とは違う種類の恐怖が、背筋を這い上がってくるのを、男は感じていた。


「……はい?」


 聞き間違いだろうと信じたい気持ちが、男の声を裏返らせた。彼女は人差し指を立て、悪戯を企む子供のように目を細めて、もう一言だけ付け足す。


「あと飯と水」


 男は慌てて腰の財布へ手を伸ばしたが、指が震えて留め具がうまく外れなかった。その間にも、彼女の視線が今度は荷馬車へ移る。積荷を眺め、繋がれた馬を眺め、車輪を眺め、最後にもう一度商人たちへ視線を戻した彼女は、顎に指を当てて少し考え込み、やがてにっこりと笑った。


「……やっぱ馬車も」


 その笑顔があまりにも無邪気だったので、商人たちは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。風が吹き抜け、焼け焦げた草の匂いが、凍りついた空気の中で薄く揺れる。三人の視線が、ゆっくりと、お互いの顔と荷馬車の間を往復した。


「え?」


 間の抜けた声が、一人の口から漏れた。彼女は呆れたように肩をすくめ、聞き分けのない子供へ言い聞かせるような調子で、ゆっくりと口を開く。


「だから馬車」


 彼女は荷馬車を親指で指し、そのまま腕を組んで、片足に体重を預けた。その仕草はあまりにも自然で、まるで当然の権利を主張しているかのようだった。商人たちは、助けてもらったはずの相手が、実は魔物よりも厄介な存在だったのではないかと、ようやく気づき始めていた。


「馬も荷物も全部な。置いてけ」


 三人が揃って固まり、街道には再び風の音だけが流れた。荷馬車の中の積荷が、馬の足踏みに合わせて小さく軋む。やがて一番年嵩の商人が、乾いた唇を舐めて、恐る恐る口を開いた。


「ぜ、全部……ですか?」


 女は笑顔のまま、ゆっくりと頷いた。その仕草は優しげでさえあり、それがかえって、男の背筋を凍らせる。夕刻へ近づく柔らかな日差しの中で、彼女の影だけが、三人の足元へ長く伸びていた。


「全部」


 きっぱりと言い切られ、商人は握り締めた手を胸の前で擦り合わせた。この荷馬車は、長年かけて築いた商売の全てであり、積荷には家族への土産まで混ざっている。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、彼は必死に言葉を探し、震える声を絞り出した。


「で、ですが、これは私どもの商売道具でして……これがなくなると、その……」


 最後まで言い切れず、商人の声は掠れて消えていった。彼女は笑顔を崩さないまま、片方の眉だけを軽く持ち上げて、首を傾ける。その動作に合わせて、薄茶色の髪が肩から滑り落ち、鎖の飾りが小さな音を立てた。


「ん?」


 女の笑顔が、少しだけ深くなった。それは確かに笑顔のはずなのに、見る者の心臓を冷たい手で掴むような、不穏な気配を孕んでいる。同時に、彼女の右手がゆっくりと剣の柄へ伸び、革の握りがきゅっと軋んだ。


「私が来なきゃ、お前ら今頃あの牛野郎の腹ん中だぞ?」


 柄を握る指に力が込められ、鞘の中で刃が低く擦れる音がした。商人たちは息を呑み、反論の言葉を探したが、喉の奥で何かが詰まって、声にならない。焼け焦げた街道に立ち上る煙が、彼らの沈黙をいっそう重く引き立てていた。


「…………」


 誰も何も言えなかった。ただ荷馬車の馬が鼻を鳴らし、蹄で地面を掻く音だけが、気まずい静けさの中に響いた。彼女はそれを同意と受け取ったのか、満足げに目を細め、ゆっくりと商人たちの顔を順番に見回していく。


「財布もいらねぇ。飯も食わねぇ。水も飲まねぇ。馬車も使わねぇ。死人には必要ねぇだろ?」


 指折り数えながら語られる理屈は、狂気じみているのに、どこか筋が通っているようにも聞こえた。男の顔が引き攣り、膝の力が抜けかけて、荷車の縁を慌てて掴む。彼女は首を傾げ、まるで本当に不思議がっているかのような、無垢な目で彼を覗き込んだ。


「それとも何? 助けなくてよかった?」


 その問いかけは、ナイフの切っ先を喉元へ突きつけられたようなものだった。男は何度も首を横に振り、乾いた唇を震わせて、必死に言葉を探す。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、足元の地面が揺れているようにさえ感じられた。


「い、いえ! 滅相もございません!」


 男は両手を前へ突き出して、全身で否定を示した。その必死な姿に、彼女は満足そうに口角を持ち上げ、軽く顎を上げて、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。三人の商人は、ただ従うしかない状況に、無言で項垂れた。


「だろ?」


 彼女は楽しそうに笑い、剣の柄から手を離して、ぱん、と軽く両手を打ち合わせた。まるで取引が成立したことを祝うかのような、屈託のない仕草だった。その音に、商人たちはびくりと肩を震わせる。


「じゃあ交渉成立」


 交渉など最初から存在していなかった。商人たちは青ざめた顔で荷馬車から離れ、お互いに肩を寄せ合うようにして、街道の端へ後ずさる。彼女は当然のように御者台へ軽やかに飛び乗り、男の手から財布と水筒を受け取った。さらに荷台を覗き込むと、干し肉、パン、毛布、酒瓶、衣服、保存食まで、ぎっしりと積まれている。


「おお。結構持ってんじゃん」


 女は目を輝かせ、嬉しそうに荷台へ潜り込んだ。木箱の蓋を開け、麻袋の口を緩め、手当たり次第に中身を確かめていく。やがて干し肉を一本取り出すと、遠慮もなく、その場で大きく齧りついた。


「ん。悪くねぇ」


 口の中で肉を噛みしめながら、彼女は頬を膨らませて、満足そうに頷いた。塩気と燻した香りが口いっぱいに広がり、荒んだ旅の疲れを、ほんの束の間だけ慰めてくれる。その様子を見ていた商人が、おずおずと、小さな声を上げた。


「あ、あの……」


 商人は片手を肩の高さまで上げ、喉の奥から勇気を絞り出すようにして、彼女の背中へ声を掛けた。振り返った彼女は、頬に干し肉を詰め込んだまま、不機嫌そうに眉を寄せる。その表情に、商人の足が半歩、後ろへ下がった。


「何?」


 口を動かしながら、彼女は男をじっと見つめた。その視線に射抜かれた商人は、背筋を伸ばし、必死に言葉を整える。それでも、命を落とすよりはましだと自分に言い聞かせ、震える声で続けた。


「せ、せめて……町まで歩くための水だけでも、少し……」


 彼女は口を動かしたまま、数秒の間、男を見つめて考え込んだ。やがて腰の水筒を一本、無造作に掴み取ると、片手で軽く投げて寄越す。水筒は弧を描いて宙を舞い、商人の胸元へ、ぽすんと落ちた。


「ほら」


 商人は慌てて水筒を抱き締め、何度も深く頭を下げた。その表情には、恐怖と安堵が複雑に混ざり合い、目尻には薄く涙さえ滲んでいる。彼女はその様子を、御者台から腕を組んで見下ろしていた。


「あ、ありがとうございます!」


 震える声で礼を述べる商人の姿は、命乞いをする罪人のようにも見えた。彼女は満足そうに口角を持ち上げ、御者台の背もたれへ肘を預けて、胸を張る。そして、いかにも誇らしげな顔で、とんでもない確認を口にした。


「私、優しいだろ?」


 その問いかけに、商人は一瞬、言葉を失った。肯定すれば自分の尊厳が削れ、否定すれば命が危うい。長い沈黙の後、彼は観念したように、蚊の鳴くような声を漏らした。


「…………はい」


 女は眉を寄せ、不満げに鼻を鳴らした。腕を組んだまま身を乗り出し、商人の顔を覗き込むようにして、じとりとした視線を向ける。逃げ場のない圧に、商人の額から冷や汗が一筋、頬を伝って落ちた。


「もっと心込めろよ」


 命じられた商人は慌てて背筋を伸ばし、両手を胸の前で握り締めた。必死に笑顔を作ろうとするが、頬が引き攣って、ひどく歪んだ表情にしかならない。それでも声を張り上げ、精一杯の誠意を込めるふりをして、叫んだ。


「と、とてもお優しいです!」


 街道に響いた声は、虚しいほど大きく、森へ吸い込まれていった。彼女は満足そうに目を細め、ふんぞり返るようにして、荷台の背に寄りかかる。その笑顔は、本当に心から喜んでいる子供のようで、だからこそ、いっそう恐ろしかった。


「だろぉ?」


 彼女は満足そうに笑い、干し肉の残りを口へ放り込んだ。完全な追い剥ぎだった。しかも本人だけは、自分が命を救った正当な報酬だと、本気で思っている。御者台へ戻って手綱を握ると、怯えていた馬も、しばらくの間をおいて、ゆっくりと動き始めた。


「あ、あの!」


 馬車が進み出したところで、商人が慌てて駆け寄り、声を張り上げた。車輪の軋む音が遠ざかろうとする中、彼は必死に腕を伸ばし、御者台の彼女へ呼びかける。彼女は手綱を引いて馬を軽く制し、無愛想な顔のまま、肩越しに振り返った。


「お名前だけでも! せめて、お名前を!」


 商人の声には、恐怖と、それでも命を救われた者としての切実な感謝が、複雑に混ざり合っていた。薄茶色の長い髪が風に揺れ、夕刻の光を受けて、金糸のように淡く輝く。彼女は視線を前へ戻すと、短い沈黙を置いて、ひとことだけ答えた。


「……クラリス」


 その名だけを残し、荷馬車は軋む車輪の音と共に、街道の向こうへ走り去っていった。残された商人たちは、次第に小さくなっていく馬車を、呆然と見送る。しばらくして、一人がへたり込むように膝を折り、乾いた笑いを漏らした。


「…………助かった、んだよな?」


 誰に尋ねるでもなく零れたその言葉に、もう一人の商人が、頼りなく首を傾げて答える。胸を撫で下ろしたいのに、財産を失った現実が、重く肩へのしかかっていた。夕風が吹き抜け、焼け焦げた街道の灰を、さらさらと巻き上げていく。


「た、多分……」


 三人は顔を見合わせ、青ざめた表情のまま、同時に深い溜息を吐いた。冷静になってみれば、命が助かった喜びよりも、失ったものの大きさが、じわじわと胸へ染み込んでくる。やがて最年長の商人が、馬車の消えた方角を見つめて、呟いた。


「馬車、全部持ってかれたぞ……」


 三人の声など、すでにクラリスには届いていなかった。彼らは知らない。その名が、かつて勇者アーネスト・グレイスの娘として知られていた娘のものだということを。王国が滅びたあの日から数年、一人で各地を流れ歩き、魔物を殺し、必要なら他人から食料も金も馬車さえ奪いながら、ただ一人の敵を探し続けていることを。


 やがて街道が森を抜け、小高い丘へ差しかかった。西へ沈みかけた夕陽が空一面を赤く染め、遠くの山々の稜線が、燃えるような橙色に縁取られている。その色を見た瞬間、それまで機嫌よく干し肉を齧っていたクラリスの表情から、笑みがすっと消えた。赤い空を見ると、どうしてもあの日を思い出す。黒煙に覆われた王都、瓦礫、帰ってこなかった父、死んだ母、最後には自分へ石を投げつけた友人たち、そして瓦礫の陰で初めて知った、銀白色の髪を持つ悪魔の名前。


「…………まだだ」


 クラリスは手綱を引いて馬車を止め、御者台からゆっくりと降りた。靴底が乾いた土を踏み、夕風が外套の裾を揺らし、鎖の飾りが寂しげな音を立てる。先ほど倒した魔物など、今となっては遊び相手にもならない。斬って、刻んで、最後には灰へした。それでも、あんなものを百匹殺そうが千匹殺そうが、あの日父を殺した悪魔へ届く保証など、どこにもなかった。


「まだ足りねぇ……全然、足りねぇんだよ……!」


 掠れた声と共に、クラリスは鞘から剣を抜いた。その瞬間、全身から法気が溢れ出し、足元の小石が小刻みに震え、一つ、二つと宙へ浮き上がっていく。繋がれた馬が怯えたように嘶き、周囲の草木が、風もないのに大きくざわめいた。


「どこだ……どこにいやがる……リゼル……!」


 絞り出すような声には、怒りも哀しみも憎悪も、区別がつかないほど混ざり合っていた。年月が過ぎても、その名前だけは薄れなかった。眠りにつく夜も、魔物の血に塗れて朝を迎えた日も、泥の中を這って生き延びた夜も、瞼を閉じれば必ず、銀白色の髪と赤紫の瞳が蘇ったのだ。


「どこにいやがる、リゼル!! お父さんを殺して! お母さんを奪って! 私の全部を台無しにした――」


 クラリスは赤く染まった空へ向けて、剣を高々と突き上げた。身体を包む法気が爆発するように膨れ上がり、周囲の木々が大きくしなり、飛び散った小石が光の粒となって舞い上がる。森の鳥たちが一斉に飛び立ち、黒い群れとなって、夕空へ散っていった。


「クソ悪魔がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 咆哮は山々へぶつかり、何度も反響して、遠く彼方から戻ってきた。クラリスは荒い呼吸を繰り返しながら、それでも赤く燃える空から目を逸らさない。あの日、自分は父を失い、母を失い、友を失い、故郷を失った。そして最後には、人々を救いたいと願っていた自分自身さえ、滅びた王都へ置いてきたのだ。


 それでも、一つだけ失わなかったものがある。父を殺した悪魔の顔と、瓦礫の中で知ったその名前だった。年月が過ぎても、その二つだけは少しも薄れることなく、むしろ刃を研ぐように鮮明さを増している。かつてのクラリスは、勇者である父の背中を追いかけ、人々を救うことを夢見ていた少女だった。誰かへ手を差し伸べれば笑顔が返り、努力を続ければ、自分もいつか父のように誰かの道を照らす存在になれると信じていた。夜空へ昇り、どこまでも高く輝いていける。そんな未来を疑ったことなど、一度もなかった。


 けれど、その星は堕ちた。光そのものが消えたわけではない。ただ、その輝きが向かう先を変えてしまったのだ。人を救うためではなく、一人の悪魔を殺すために。希望を照らすためではなく、胸の底へ沈殿した怨嗟だけを、絶やすことなく燃やし続けるために。クラリス――かつて輝ける星だった彼女は、堕ちた。今の彼女は、ただ怨嗟のみで形作られ、暗い夜の中で凶々しく光り続ける、不吉な星。


 ――凶星であった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


これにて、Ver.3 Arrowにまつわる物語はひとまず幕引きとなります。


父を失い、母を失い、友人を失い、故郷さえ失ったクラリス。


かつて勇者の娘として人々を救う未来を夢見ていた少女は、今やただ一人――リゼル・ノクス・ヴァルクロアを殺すためだけに歩き続けています。


リゼルにとっては、すでに終わった一つの国の物語。


けれど、その向こう側では。


彼女の行いによって、新たな復讐者が生まれていました。


彼女たちの物語は、まだ終わりません。


⸻


そして、大変恐縮なのですが……。


もしここまでお付き合いいただき、「この先も少し読んでみようかな」と思っていただけましたら、ページ下部のブックマークをそっと押していただけますと、とても励みになります。


もちろん、無理にとは申しません。


こうしてここまで読んでいただけただけでも、本当にありがたいことです。

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