Ver.3 Arrow Chapter 5-4 勇者の娘は、もう誰も救わない
勇者アーネスト・グレイスは死にました。
ですが――
彼の死で、すべてが終わったわけではありません。
父を失い、母を失い、街を失い。
それでもまだ残っていたものまで、クラリスはこの夜に失っていきます。
Ver.3 Arrow Chapter 5-4
「勇者の娘は、もう誰も救わない」
よろしくお願いいたします。
どれほど歩いたのか、クラリスには分からなかった。足元の石畳はところどころ砕け、街路には横倒しになった荷車や、割れた窓枠が散乱している。少し前まで人と車で溢れていた大通りに、もう日常の面影はなかった。それでもクラリスは歩いた。瓦礫に足を取られ、何度も転びそうになりながら、中央広場へ向かって歩き続けた。
身体が熱い。頭が痛い。息を吸うたび、肺の奥が焼けるようだった。まともに立っているのが不思議なくらいだったが、足を止めれば、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいそうで、止まるわけにはいかなかった。
「……お父さん」
自分の口から漏れた声さえ、遠くから聞こえてくるようだった。頭の中では、いくつもの光景が渦を巻いている。父の名を告げるアナウンサー。絶叫した自分自身。悪魔の哄笑。空へ舞い上がる父の背中。そのどれもが現実だとは、まだ信じたくなかった。
お父さんを探さなければならない。傷だらけになって、それでも戦って、最後まで自分の名前を呼んでくれた。あの声だけは、まだ耳の奥に残っている。だから、探さなければならない。それだけを考えていた。考えることをやめれば、二本の脚はきっとその場に崩れ落ちてしまう。
◇◇◇
中央広場へ続く道に入ったところで、クラリスの足が止まった。
広場の中央には巨大な衝突痕が残されていた。石畳は蜘蛛の巣のように割れ、その中心だけが不自然なほど黒く変色している。砕けた石材の中に、見覚えのある聖剣の破片が混じっていた。その場所だけが、周囲から切り離されたように静まり返っている。
クラリスはそれを見つめた。一歩、また一歩。膝が震え、爪先が瓦礫に引っかかったが、止まることはできなかった。
「…………あ」
口元が緩んだ。喉の奥から、自分でも制御できない音が漏れ始める。
「あは……あはは……」
どうして笑っているのか、自分でも分からなかった。目の前にあるものを、父親だったものだと認識した瞬間、頭のどこかがそれを拒絶した。あれがお父さんなら、お父さんはもう帰ってこないことになる。それだけは、絶対に受け入れられなかった。
「あははは……お父さん……」
クラリスはその場に膝をついた。震える指を伸ばす。触れる寸前で、何度も止まった。触れてしまえば、それが本物だと確定してしまう。
「こんなところにいたんだ……探したんだよ……?」
返事はない。
「ねえ……帰ろう? 私……ちゃんと待ってたよ?」
何も答えない。そこでようやく、一滴だけ涙が落ちた。それを皮切りに、次から次へと涙が溢れ始めた。けれど不思議なことに、口元は笑ったままだった。
「お父さん……帰ろうよ……」
クラリスは笑いながら、泣いていた。もはやどちらが本当の自分の気持ちなのかさえ分からなくなっていた。
そのときだった。何かが額に当たった。
「……え?」
小さな石だった。やがて、もう一つ飛んできた。肩、背中。割れた煉瓦の欠片まで、次々と彼女の身体へ降り注ぐ。
「勇者の娘だ……!」
憎悪に塗れた声がした。クラリスはゆっくり振り返った。
生き残った人々がいた。毒に蝕まれ、傷を負い、家族を失い、それでも生き残った王都の人々が、広場の入口に集まっていた。誰もが疲れ果て、目だけが異様にぎらついていた。
「こいつの父親のせいだ! 勇者が国を裏切ったから……!」
「騎士たちを殺したのもあいつだ! 妻まで殺したって放送で言ってただろ!」
「勇者なんかじゃない!」
いくつもの声が重なり合い、罵声の渦になっていく。恐怖と絶望を抱えた人々にとって、目の前の少女は、その全てをぶつけるための的でしかなかった。
クラリスは何も言わなかった。理解できなかった。その中に、知っている顔があったからだ。
「今日も元気ね」
いつも、通りの向こうから声を掛けてくれた女が、今は石を握っていた。
「勇者様も大変ですね」
父と一緒に歩いていると、そう冗談を言っていた男が、今は憎悪の目でこちらを睨んでいた。かつて自分に向けられていた温かな笑顔は、もうどこにも見当たらなかった。
「……どうして? どうして……お父さんの悪口を言うの?」
答えの代わりに、石が飛んできた。頬に当たった。鋭い痛みが走り、口の中に鉄の味が広がる。
「お父さん……ずっと、この街を守ってたよ? 怪我しても……帰ってきたら、痛いって言わなかったよ?」
また飛んでくる。今度は腕に当たった。それでもクラリスは訴え続けた。
「私には……笑ってたんだよ?」
クラリスの声が震え始めた。声を張り上げれば張り上げるほど、群衆の憎しみはますます濃くなっていくようだった。
「お母さんが死んで……お父さんだって、辛かったのに……」
誰も聞かなかった。裏切り者。人殺し。疫病神。勇者の面汚し。言葉の礫は、石よりもずっと深く彼女の中へ食い込んでいった。
「違う……違うよ……お父さんは……そんな人じゃない……」
誰にも届かなかった。そのときだった。
「クラリス」
知っている声がした。クラリスの顔が上がった。人垣の中に、二人の少女が立っていた。
「…………フィオナ? ……エマ?」
王立第一学院で、いつも一緒だった二人。地獄のような光景の中で、二人の姿だけが唯一の救いのように見えた。
「よかった……二人とも……無事だったんだ……」
クラリスは立ち上がろうとした。縋るように手を伸ばそうとする。
その瞬間。フィオナの手が動いた。石が飛んできた。クラリスの胸元に当たり、床へ落ちた。乾いた音が、やけに大きく耳に残った。
「…………え?」
フィオナは泣いていた。それでも、その目にはクラリスへの怯えと怒りがあった。
「どうして……フィオナ……?」
「私のお父さん……死んだの。お母さんも……弟も!」
フィオナの叫びが広場に響いた。
「みんな死んだの! クラリスのお父さんが国を裏切ったから、こんなことになったんでしょ!?」
「違う……」
「違わない!」
「違うよ……」
「だったら返してよ!」
返して。ほんの少し前、自分も同じ言葉を叫んだ。あの悪魔に向かって。お父さんを返して、と。その記憶が、フィオナの言葉と重なって、クラリスの中で何かを激しく揺さぶった。
「返してよ! 私の家族を返してよ!」
フィオナが泣きながら叫ぶ。クラリスは何も答えられなかった。そして、隣にいたエマまで地面から石を拾った。
「……エマ?」
エマは目を逸らした。それでも、拾った石を捨てなかった。
「嘘だよね……? ねえ、エマ……私たち……友達だよね?」
返事はなかった。エマの腕が動いた。投げられた石が、クラリスの足元で跳ねた。
その瞬間。クラリスの中で、最後まで残っていた何かが、静かに切れた。
◇◇◇
「……あ」
小さな声だった。クラリスは俯いた。長い前髪が影を落とし、その表情はもう誰の目にも見えなくなっていた。
「あ……ぁ……あ゛……あ……ぁあ……」
喉の奥から奇妙な音が漏れ始めた。それが泣き声なのか、呻き声なのか、誰にも分からなかった。広場を包んでいた罵声さえ、その異様な響きの前では次第に勢いを失っていく。
やがて。
「……ふ、ふふ……」
クラリスは顔を上げる。
「ふふふ……あは……」
笑っていた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で。もはやその瞳には、先ほどまでの怯えも縋るような光も残っていなかった。
「あははははははははははははっ!」
広場から罵声が消えた。誰もが、少女を見ていた。
「そっかぁ……もう、いいんだ」
フィオナが一歩後ずさった。
「ク、クラリス……?」
「お父さん、死んじゃった。お母さんも死んじゃった」
あまりにも屈託なく、あまりにも壊れた笑顔だった。
「フィオナも、エマも……私のこと嫌いなんだ」
「ち、違……」
「違わないよ」
クラリスは首を傾げた。それは昨日までの彼女と何一つ変わらない、友達へ話しかけるときの仕草だった。だからこそ、その場にいた誰もが、言いようのない悪寒に総毛立った。
「だって、石投げたもんね?」
「クラリス……待って……」
「待たないよ。だって――もう待つ人、いないもん」
クラリスは笑った。フィオナの顔から血の気が引いた。逃げようと踏み出した足が、恐怖でもつれてうまく動かない。
「もういいや。皆んな――皆んな一緒に、跡形もなくなりましょう♪」
歌うような、あまりにも明るい声だった。その手が伸び、フィオナの首を掴む。乾いた音がした。フィオナの身体から力が抜けた。糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちていく。
「……フィオナ?」
一瞬だけ、昔のクラリスの声に戻った。だが、それもすぐ消えた。
「あは」
エマが悲鳴を上げた。
「いやぁあああああッ!!」
逃げる。クラリスは追わなかった。足元を見る。崩れた建物の瓦礫に、一本の鉄管が転がっていた。それを拾う。
「エマ、待ってよ」
呼ばれても、少女は振り返らなかった。クラリスは鉄管を投げた。一直線に飛んだ鉄管が、逃げるエマの身体を貫き、その勢いのまま瓦礫へ叩きつけた。広場が静まり返った。
「…………」
クラリスは動かなくなった二人を見た。昨日まで親友だった。明日も会えると思っていた。それなのに。
「あはは……」
もう、何も感じなかった。心のどこかで、何かがぷつりと途切れる音がした気がした。
◇◇◇
誰かが逃げ始めた。それを合図に、広場にいた人々が一斉に背を向けた。
「逃げろ! こいつも化け物だ! 勇者の娘が――!」
その言葉に、クラリスの笑い声が止まった。
「勇者の娘……?」
ゆっくりと顔を上げる。何度傷ついても立ち上がった父。帰ってくるたび、クラリスの頭を撫でた。お前が無事なら、それでいい。そう言って笑った。あの温かな手の感触が、今も皮膚の下に生々しく残っている。
「お父さん……」
その父を、この人たちは呪った。最後まで街を守ろうとした男を、人殺しと呼んだ。そして今度は、その娘を化け物と呼んだ。
「…………そう」
クラリスは空を見上げた。遥か上空。壊れた王都を見下ろすように、小さな影が浮かんでいた。あの悪魔。リゼル。視線が交わった。クラリスは笑った。
「…………いた」
黒く濁った瘴気のような光が、クラリスの足元から滲み出した。かつて彼女の中に宿っていた清らかな法気とは、似ても似つかない色だった。砕けた石畳の間に、聖剣の欠片が転がっていた。クラリスはゆっくりとそれを拾い上げた。
「これでいいや」
クラリスは笑った。逃げ惑う人々の中に、見覚えのある背中を見つけた。幼い頃、よく一緒に遊んだ近所の男の子だった。
「え……クラリス、ちゃん……?」
男の子が振り返り、震える声で名を呼んだ。かつて一緒に泥だんごを作った、その記憶が一瞬だけ頭をよぎる。
「あ、久しぶりだね」
クラリスはその背に追いついた。剣が振り下ろされた。悲鳴すら上げる暇もなかった。少年だったものが、瓦礫の上に崩れ落ちる。クラリスはそれを一瞥もせず、すぐに次の背中を探した。
「あなたも、知ってる顔だ」
毎朝パンを焼いてくれた店の主人だった。
「ま、待ってくれ……! わしは、お前さんに何もしとらん……!」
「あ……おじさんだ。いつも焼きたてのパン、くれたよね」
クラリスは懐かしそうに目を細めた。逃げようとした主人の足に、彼女は指先を向けた。迸った紫黒の火が、瞬く間に全身へ燃え広がる。悲鳴が短く尾を引き、そしてすぐに聞こえなくなった。
「熱かった……? ごめんね」
クラリスは笑ったまま、燃え尽きていく背中をしばらく見送っていた。
次に目に入ったのは、飴玉をくれた雑貨屋の店員だった。
「ひっ……く、来るな……!」
「あ……覚えてる。おじさん、いつも飴くれたよね」
「ありがとう」
クラリスは笑い、そのまま剣を振るった。それ以降、店員の声はどこからも聞こえなくなった。
「知ってる、知ってる、知ってる」
クラリスは笑いながら歩き続けた。父と手を繋いで歩いていたとき、優しく笑いかけてくれた見知らぬ大人たちの姿も、次々と目の前に現れては消えていった。
「やめっ――やめてくれぇ……!」
背後から掴まれた男が、最後にそれだけ叫んで、首の骨をへし折られた。乾いた、あまりにもあっけない音だった。
「ここにいたら見つからないと思った……?」
瓦礫の隙間に隠れていた女が、クラリスの手から放たれた瘴気の刃に貫かれ、声もなく崩れ落ちた。かつて彼女に親切だった顔、顔、顔――それらが次々と現れては、二度と動かなくなっていった。それでもクラリスは笑うのをやめなかった。
腕が疲れると、今度は瓦礫の中から折れた鉄柵を拾い上げ、逃げる背中へ向かって投げつけた。
「うわああああッ――」
鉄柵は凄まじい勢いで飛び、男をそのまま崩れた壁へ叩きつける。短い呻き声が聞こえたあと、その身体は二度と動かなかった。クラリスはそれを満足げに見上げた。
「あはっ」
次の瞬間、掌を広げた。指先から迸ったのは、紫黒く濁った一筋の閃光だった。まるで法具から放たれる砲撃のように、逃げる人々の背中を撃ち抜いていく。
「あはは」
二人、三人。閃光は次々と放たれ、そのたびに悲鳴が一つずつ消えていった。逃げ遅れた一人を瘴気の炎が包み込み、悲鳴はほどなく聞こえなくなった。炎に呑まれる者、光に撃ち抜かれる者、逃げ場を失って倒れる者。広場のあちこちで、悲鳴が一つ、また一つと途絶えていった。
「みんな、知ってる顔だ……」
クラリスの声が、次第に震え始めた。笑っているのか、泣いているのか、もう彼女自身にも分からなかった。かつて自分を見つめ、名前を呼び、笑いかけてくれた誰かの声が、一人また一人と永遠に失われていく。それでも手は止まらなかった。数え切れないほどの命を刈り取ったころには、広場はもう、血の匂いに満たされた死の庭と化していた。
やがて。クラリスの中で膨れ上がった力が、彼女自身の制御を振り切った。
「……あ?」
異変に気付いたときには、もう遅かった。足元から立ち上る紫黒の瘴気が、急速に膨張を始めていた。抑えようと伸ばした手の先から、瘴気はさらに勢いを増して噴き出した。
「や……待っ……」
初めて、クラリスの顔に本物の恐怖が浮かんだ。だが、もう誰にも止められなかった。紫黒の光が臨界を超えて弾け、広場全体を呑み込む閃光と爆音が、夜の王都を切り裂いた。クラリス自身の身体も、その爆風に巻き上げられて宙に舞った。
「――っ!?」
声にならない悲鳴が漏れる暇もなく、崩れ落ちてきた建物の壁が彼女の上に覆い被さった。轟音が収まったあとに残ったのは、ただの静寂だった。
光が収まったとき、そこにはもう何も残っていなかった。逃げ惑っていた人々も。石を投げた者たちも。かつて彼女に笑いかけてくれた者たちも。すべてが、跡形もなく消え去っていた。かつて父と同じように黄金に輝いていた法気は、もうどこにもない。あるのは、闇そのものを煮詰めたような紫黒の輝きの残滓だけだった。そして、その爆心地――積み上がった瓦礫の下に、クラリスの姿も埋もれていた。
◇◇◇
リゼルは上空から、その光景を見下ろしていた。紫黒の光が夜の王都を呑み込み、そして静かに収まっていく様を、彼女はただ黙って見つめていた。
「ふんっ」
小さく鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。その夜を境に、王国から人が消えた。
煙の向こうには、瓦礫の山がひとつ残っているだけだった。その隙間から、ひび割れた指先が一本、震えながら伸びた。積み重なった石材を押しのけ、クラリスはゆっくりと瓦礫の下から這い出した。全身は土埃と血にまみれ、片腕はだらりと不自然な角度に垂れ下がっていたが、それでも彼女は倒れなかった。顔を上げ、夜空を見上げる。二人の視線が、遠く離れた場所で重なった。父を殺し、自分から何もかもを奪った小さな悪魔が、今、何を考えているのかも分からないまま、ただ黙って空から自分を見下ろしている。クラリスにはそれだけが分かった。
その夜。勇者アーネストの娘は、すべてを失った。父も。母も。友達も。帰る家も。守るべき人々も。そして最後には、自分をクラリスたらしめていたものまで、自分自身の手で壊した。それでも、一つだけ残った。空を見上げる、闇に濁った瞳に焼き付いた、小さな悪魔の姿だけは消えなかった。
あの悪魔を殺す。
いつか必ず。
何を失っても。何になっても。たとえ自分が、父の愛した勇者とは正反対の存在へ成り果てたとしても。
もう、誰かを救うために生きる必要などなかった。
その日。勇者の娘クラリスは死んだ。
そして死都の中心で――
リゼル・ノクス・ヴァルクロアを殺すためだけに生きる、ひとりの勇者が産声を上げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この日を境に、クラリスは「勇者の娘」ではなくなりました。
父のように誰かを救うためではなく。
誰かを守るためでもなく。
ただ一人――
リゼル・ノクス・ヴァルクロアを殺すために生きる存在へ。
ここから、リゼルとクラリスの因縁は、物語の中で長く続いていくことになります。
そして次回は、そんな王国滅亡の裏側で進んでいた「戦後処理」のお話です。
次回――
Ver.3 Arrow Chapter 5-5「滅びた国の、そのお値段」
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




