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Ver.3 Arrow Chapter 5-3 悪魔たちの残業

勇者を倒しました。

王都もほぼ滅びました。


では、帰れるのか?


――いいえ。


書類仕事が残っています。


Ver.3 Arrow Chapter 5-3

「悪魔たちの残業」


よろしくお願いいたします。

 高層階のバルコニーから、そのすべてが見えた。


 レザードは《ザミエル》を下ろしたまま俯いている。放った矢の軌跡はもう空に残っていない。それでも、弦から指を離した瞬間の感触が消えなかった。勇者を射抜くため、リゼルの心臓も射抜いた。命令どおりにできたという事実が、彼の胸を軽くすることはない。むしろ、その手応えの確かさが、かえって彼の心を重くしていた。


 メアはリゼルが戻るなり駆け寄った。


 胸元の傷を見た瞬間、足が止まる。触れてよい場所も分からず、両手を宙に浮かせたまま涙を流した。彼女らしくない狼狽ぶりだったが、それだけ主人の傷が衝撃的だったということでもある。メリュジーヌもその隣に立つ。いつものように明るく迎えようとして唇を動かしたが、リゼルの姿を正面から見ると、声が震えてしまった。二人とも、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を隠そうともしなかった。


「……ただいま」


 リゼルは片膝をつきかけた身体を、意地だけで支えた。胸の傷から滴る血が、石畳へ音もなく落ちていく。それでも、二人の前で弱った姿を見せまいと、無理に口角を持ち上げた。


「心配するな。片方が潰れたくらいで、私は死なん。堕天使族の心臓は二つあると――前に、言ったはずだぞ」


 声は掠れ、息も浅い。強がりだということは、誰の目にも明らかだった。それがかえって、二人の涙腺を決壊させる引き金になった。


「っ……で、でも……おじょうざまのぉ……む、胸に穴がぁ……!」


 もはや言葉になっていなかった。メアは涙と鼻声のせいで、いつもの端正な発音がすっかり崩れている。それでも懸命に何かを伝えようとしているのは、たどたどしい響きの端々から十分に伝わってきた。彼女は袖で顔を拭っても拭っても、次から次へと涙が溢れてくるのを止められない。


「そ、そうでずわよぉ……リゼルぢゃんのおがらだの、おむねにぃ……矢が、あじゃいだのぉ……!」


 メリュジーヌまで同じように舌が回らなくなっていた。いつもの優雅な喋り方はどこかへ消え失せ、金色の瞳からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちている。友達が自分の目の前で胸を射抜かれた。その光景は、彼女の中でまだ何一つ終わっていなかった。


 リゼルには、予定していた一矢だった。だが二人には、彼女が勇者とともに倒れる光景にしか見えなかったのだろう。そう思えば、この号泣ぶりにも納得がいく。とはいえ、普段は年上らしい落ち着きを崩さないメアと、それを取り繕おうともしないメリュジーヌが、揃って赤ん坊のように泣きじゃくっている姿には、さすがのリゼルも苦笑いを禁じ得なかった。


 リゼルは二人の肩に手を置いた。堕天使族には心臓が二つある。龍族や天翼族も同じだ。だからレザードに射抜かせたし、回復のための薬も用意した。説明したはずのことを一つずつ言い直すうち、二人が作戦のどの部分を聞いていなかったのか、彼女には見えてきた。どうやら二人とも、作戦の説明そのものより、リゼルが矢面に立つという結論の方にばかり気を取られていたらしい。


「落ち着け、お前たち。堕天使族は心臓が二つあると言っただろう? ははん、さてはさっきの作戦、私が自分ごと撃たせると聞いて、途中から頭に入ってなかったな?」


 メアは首を横に振った。理解していたかどうかなど、今はどうでもよかった。リゼルの声が聞こえ、手が動き、自分の肩に触れている。それを確かめてもなお、胸の傷を見るたび涙が出る。メリュジーヌも鼻をすすりながら、何か言い返そうとして言葉を詰まらせた。二人とも、頭では理解していても、心がそれに追いついていないようだった。


 リゼルは困ったように息を吐き、メアの鞄を指さした。


「だからぁ、エリクサー十本残しといたろ! ほら、メア、預けていたエリクサー全部よこせ!」


 メアは瓶を取り出した。魔界の一般家庭なら、一瓶で一年は食べていけるほどの薬だ。リゼルは前世のコンビニで売っていた健康ドリンクでも呷るような気安さで一本目の封を切り、喉へ流し込む。次も、その次も。空瓶が並ぶたびに淡い光が彼女の身体を包み、貫かれた傷がゆっくり塞がっていった。メアは瓶を渡す手を止めない。メリュジーヌは光の中に立つ友達を見つめている。


 最後の一本を飲み干すころ、リゼルの呼吸は元に戻った。彼女は腕を回し、肩を動かしてみせた。二人がようやく安堵したのを見て、今度は黙ったままのレザードへ向き直る。


「どうした、レザード。まだつまらない自己嫌悪とか罪悪感でも感じているのか? さっき童貞捨てただろうに?」


 場違いなほど軽い調子だった。レザードは顔を上げかけ、その一言で耳まで赤くしながらまた俯いた。リゼルを射ると分かっていた。彼女からの命令も受けた。それでも矢が届いた瞬間、自分の判断が正しかったと言い切れるほど、彼は平然としていられなかったのだ。


「い、いえ。リゼルさん……ふ、服が」


 消え入りそうな声だった。リゼルは怪訝な顔で自分の胸元を見下ろし、そこで初めて気付いた。矢に貫かれた傷こそ塞がったが、裂けた衣服までは元に戻らない。上着の合わせ目が大きく破れ、夜風に煽られるまま、小さな胸元がすっかり露わになっていた。


「う……うにゃあああああ!!」


 リゼルは顔を真っ赤にして両腕で胸元を隠し、その場でくるりと背を向けた。堂々と勇者と渡り合っていた威厳など、もうどこにもない。メアが慌てて外套を広げて主人の身体を包み込み、メリュジーヌもすかさず前に立って風除けになる。レザードは律儀に視線を逸らしたまま、微動だにしなかった。


 リゼルは外套の合わせをきつく掻き合わせ、震える声を絞り出した。


「レザード」


 短く名を呼ばれ、レザードは背を向けたまま姿勢を正した。何の責任を問われても、今の彼には引き受ける以外の選択肢がないように思えた。彼女を射たことにも、見てはいけないものを見てしまったことにも、言い訳のしようがなかったからだ。


「はい、リゼルさん」


「責任取れよ」


 レザードは振り向かずに深く頷いた。その律儀な返事が、かえってリゼルの顔をさらに熱くさせる。彼女はしばらく外套の前をきつく握りしめたまま、頬の熱が引くのを待っていた。


「はい、リゼルさん」


 もう一度そう答えたレザードの声にも、隠しきれない照れが滲んでいた。二人のやり取りを見ていたメリュジーヌが、涙の跡も乾かぬうちにくすくすと笑い出す。リゼルはその視線に気付き、慌てて咳払いをすると、努めて平然とした顔を取り繕った。


 彼女は外套の前をもう一度確かめてから、バルコニーの下を見下ろす。中央広場は静まり返っていた。生き残らせて魔族への恐怖を語らせる予定だった九百九十九人も、あの光の奔流に巻き込まれて消え去ったらしい。彼女は小さく鼻を鳴らした。


「ふんっ! せっかく九百九十九人生き残らせて、我々魔族に逆らう愚かさを喧伝させようとしたのに、なんかバカが勝手にはしゃいで皆んな蒸発してしまったぞ?」


 メリュジーヌは、光が晴れたあとの静まり返った広場を見下ろした。あの光がどこから放たれたものなのか、正確な出所までは分からない。それでも、王都を包んだ混乱は、リゼルの計算からも外れるほど大きくなっていた。メリュジーヌはまだ赤い目を指で拭い、ようやくいつもの口調を取り戻す。


「しょうがないですわぁ、リゼルちゃん。あれだけのパニックだったのですもの。何が起きても、おかしくはございませんわぁ」


 リゼルは頷いた。下界の異変については、後で調べればよい。今は明日の準備がある。王国から運び出す品の目録、施設の記録、技術者の名簿。大魔王府へ捧げるものがあまりに多く、机をいくつ並べても書類を置く場所が足りない。彼女は仲間たちを見回し、レザードの前で得意げに胸を張ろうとした。


「そうだな、それもそうだ。さて、下等生物どもが勝手に滅んでくれたが、これから書類仕事が待っているぞお前ら! レザード、君は今は部外者だが手が足らん。手伝え」


 言い終えると、リゼルはこれ以上ないほどのドヤ顔をレザードへ向けた。まるで、この惨状すべてを自分の手柄であるかのように誇示する態度だった。その様子を見ていたメアが、たまりかねたように声を上げる。


「お、お嬢様! ドヤ顔でふんぞり返らないでください! お召し物が、また……!」


 言われて初めて、リゼルは自分の外套の合わせがまた緩んでいることに気付いた。


「へ……はぁあああッ!? レザードてめぇ、また見やがったなぁ!?」


 悲鳴じみた声を上げ、リゼルは慌てて外套を掻き合わせる。レザードは今度こそ完全に顔を背け、耳まで真っ赤にしながら小さく答えた。


「い、いえ……見ておりません」


「見ておりません、じゃないぞ! 慰謝料として、君は徹夜で書類整理だ! 明日は大魔王府の方々がわざわざお越しくださる。不備を残すことは、大魔王ドラコー陛下への不忠だからな!」


 レザードは深く頭を下げた。何を言われても、今の彼には頷く以外の選択肢がないように思えた。リゼルは満足げに頷き、メアへ筆記具の準備を命じる。メリュジーヌは目録の束を抱え、まだ涙の跡が残る顔で笑った。レザードも彼女たちに続いて部屋へ入る。


 王国から、音が死んだ日。高いバルコニーでは、魔界から来た小さな侵略者たちが、明日の献上品目録をめぐって賑やかに言葉を交わしていた。眼下に広がる静寂と、頭上で交わされる笑い声。あまりにも隔たったその二つの光景が、同じ夜の同じ空の下に、何事もなかったかのように共存していた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


勇者との戦いは終わりました。

けれど、王都に残されたものは、決して「終わり」だけではありません。


誰かにとっては国が滅びた夜。

誰かにとっては、大切な仲間が生きて帰ってきた夜。


そして――

父を失った少女にとっては、すべてが始まってしまった夜でした。


次回――

Ver.3 Arrow Chapter 5-4「勇者の娘は、もう誰も救わない」


クラリスの物語が、大きく動き始めます。


引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。

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