Ver.3 Arrow Chapter 5-2 おかえり、勇者
勇者アーネスト・グレイス。
守るべき国は崩れ、妻を失い、残された娘も毒に侵されている。
それでも彼には、まだ帰らなければならない場所がありました。
「帰る」と決めた勇者と、
その帰りを待つ娘。
そして――その道を阻む、ひとりの悪魔。
Ver.3 Arrow Chapter 5-2
「おかえり、勇者」
よろしくお願いいたします。
王都中央広場は、すでに人で埋め尽くされていた。つい先ほどまで、そこへ集まった者たちは同じ災厄に苦しむ被害者だったはずだった。だが、九百九十九本という限られた解毒薬を目の前へ吊り下げられた瞬間、そんな連帯は跡形もなく消え失せていた。病に侵された身体を引きずりながら他人を押し退ける者、手にした小瓶を胸へ抱えて逃げようとする者、それを背後から引き倒す者。誰かが一本を手に入れるたびに歓声と絶叫が上がり、次の瞬間には別の誰かがその腕へしがみついていた。
倒れた者を助け起こす人間など、もうほとんど残っていない。石畳へ転んだ老人のすぐ脇を若者が駆け抜け、我が子のために一本だけ譲ってほしいと泣き叫ぶ母親を、別の父親が突き飛ばして前へ進んでいく。誰もが自分のためだけに争っているわけではなかった。むしろ多くの者が、自分にとって最も大切な誰かを救おうとしているからこそ、他人の大切な誰かを踏みつけることができた。善悪も秩序も道徳も、死を前にすればあまりにも脆かった。
その狂乱の中を、アーネストは進んでいた。かつてなら、その顔を見ただけで群衆は左右へ割れただろう。子供たちは勇者だと歓声を上げ、兵士は敬礼し、大人たちはこの男が来たのならもう大丈夫だと胸を撫で下ろしたはずだった。しかし今は違う。誰も彼を英雄として見ようとはせず、肩がぶつかれば怒鳴り、進路を塞がれれば押し返してくる。まして国営放送によって妻殺しの犯罪者とされた男へ、敬意を払う理由など彼らには残されていなかった。
それでもアーネストは、解毒薬へ一度も手を伸ばさなかった。目の前を一本の薬瓶を抱えた男が走り抜けても、視線すら向けない。人波を両腕で押し分け、罵声を浴びせられながら、それでもただ前へ進み続ける。彼がここへ来た理由は、九百九十九本の中からクラリスのための一本を手に入れることではなかった。
リディアを殺したと、彼が信じた者。クラリスを苦しめたと、彼が信じた者。そして、自分が守り続けてきた王都を、この地獄へ変えた者。その一人だけを殺すために、勇者アーネストはここまで来た。
不意に、広場の一角へ赤黒い光が差した。夕暮れに染まりつつある屋根の上で、白金色の長い髪が風に舞っている。漆黒と血紅を幾重にも重ねた華美なドレス、その背後で静かに開閉する黒と暗紅色の翼、髪の間から覗く二本の黒い角。人間たちが泣き、殴り合い、解毒薬を奪い合っている光景を足元へ置きながら、その少女だけが恐ろしいほど穏やかに立っていた。
赤紫色の瞳が、群衆の中を進むアーネストを見つけた。ほんの一瞬、少女の目が丸くなる。だがすぐに、その口元が嬉しそうに吊り上がった。自分が待ち望んでいたものが、ようやく向こうから姿を現してくれた。そんな無邪気な喜びすら感じさせる笑みだった。
そして、その赤紫色の瞳の前へ、見慣れた半透明の情報画面が浮かび上がった。リゼルにとっては、かつてゲームの中で幾度となく目にしてきたもの。対象の能力を数値として映し出す《ステータスウィンドウ》だった。
【ステータスウィンドウ】
名前:アーネスト・グレイス
種族:人間
身分:勇者
レベル:3890
生命力:52400
法力量:63700
筋力:5920
耐久:5360
敏捷:5680
知力:4870
精神:5780
統率:5420
政治:2860
礼法:3380
忠誠適性:4820
主要適性:法術/聖剣術/対魔族戦闘/近接戦闘/空中戦闘/防御法術/高速戦闘/継戦能力
表示された数字を追っていたリゼルの表情が変わった。驚愕ではない。恐怖でもない。むしろ、見れば見るほど口元の笑みが深くなっていく。レベル三八九〇。現在の自分との差は、僅か一一〇しかない。しかも筋力と耐久に至っては、自分の数値を明確に上回っている。
比較するように、リゼルは自らの《ステータスウィンドウ》も開いた。そこに並ぶ数字は見慣れたものだったが、目の前の勇者と並べてみれば、両者の強さがまったく異なる方向へ伸びていることがよく分かった。
【ステータスウィンドウ】
名前:リゼル・ノクス・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵家次女
年齢:6歳
レベル:4000
生命力:56800
魔力量:98200
筋力:4680
耐久:4520
敏捷:5940
知力:6180
精神:6440
統率:4980
政治:4010
礼法:4860
忠誠適性:9999
主要適性:暗黒魔術/重力魔術/飛行戦闘/近接戦闘/大規模殲滅/魔力制御/戦況分析/高位結界運用
生命力、敏捷、知力、精神ではリゼルが上回り、何より魔力量では圧倒的な差がある。一方で、筋力と耐久はアーネストが上。そこへ《ステータスウィンドウ》には表示されない、歴戦の勇者として積み重ねてきた経験と技量まで加わる。
格下などではない。
ほとんど同格。それも、自分とはまるで違う方向へ完成した強者だった。
「……三八九〇」
リゼルの口元が、さらに吊り上がった。
「ははっ……いいじゃないか。これは楽しめそうだ」
「見つけたぞ……!」
アーネストが聖剣を抜き放った。刀身へ白銀の法光が走り、夕闇へ沈み始めていた広場を鋭く照らし出す。周囲の人々が異変に気づいて逃げ始める中、アーネストだけは屋根の上から目を逸らさなかった。床へ横たわるリディアの姿と、空き家の床へ倒れながら自分へ手を伸ばしていたクラリスの姿が、脳裏で何度も重なった。
「お前だけは……俺が殺す!」
その声を聞いたリゼルは、恐れるどころか声を上げて笑った。屋根の縁から身体を躍らせ、翼を一度だけ大きく開いて落下を殺すと、黒と血紅のドレスを翻しながら石畳へ降り立つ。逃げ惑う人間たちの間を悠然と歩き、やがてアーネストと正面から向き合った。
「はははは! いいぞ、その顔! 雑魚ばかりで飽き飽きしていたところだ!」
赤紫色の瞳を輝かせながら、リゼルは嬉しそうに両腕を広げた。これから殺し合う相手を前にした者というより、待ち望んでいた遊び相手を見つけた子供のようだった。アーネストから向けられる殺気を真正面から浴びても、その笑顔は少しも曇らない。
「やっと大物が釣れたぞ、勇者!」
「黙れぇええええッ!!」
アーネストの身体が消えたように見えた。石畳が踏み込みだけで砕け、白銀の軌跡が一直線にリゼルへ迫る。聖剣を覆っていた法光が刃先へ凝縮され、リゼルの眼前へ展開された赤黒い魔力障壁へ叩きつけられた。凄まじい衝撃音と共に障壁全体へ亀裂が走り、リゼルが目を見開いた直後、アーネストは剣を引くどころか、さらに身体ごと押し込んだ。
「《黎明断剣・アウローラ》ッ!」
聖剣から噴き上がった法光が、亀裂を内側から食い破った。魔力障壁が硝子のように砕け散り、その向こうへ白銀の刃が滑り込む。リゼルが首を傾けて辛うじて躱したものの、刃先が頬を掠め、白い肌へ細い赤線を刻んだ。
「ほう……!」
だが、感心している暇など与えられなかった。アーネストは斬り抜いた勢いを殺さず、そのまま身体を回転させて二撃目を放つ。リゼルが翼を開いて後方へ飛べば、今度は剣先から半月状の法光が射出され、逃げた先まで追い縋った。
「《天穿月牙・アルテミス》!」
白銀の斬撃が広場を横断した。リゼルは身体を捻って避けたが、翼の先端が切断され、暗紅色の皮膜が宙へ舞う。そのまま背後の建物へ命中した斬撃は石壁を斜めに切り裂き、遅れて上階部分が轟音と共に崩れ落ちた。
「はっ……はは! いいじゃないか! 勇者!」
リゼルは頬を流れる血を親指で拭い、その赤を確かめるように眺めた。自分の防壁を正面から破り、さらに翼へ刃を届かせた。その事実が腹立たしいどころか、たまらなく嬉しいらしい。赤紫色の瞳には、先ほどまでとは比べものにならないほどの愉悦が宿っていた。
「《十二聖槍・ロンギヌス》!」
「おっと!」
アーネストの周囲へ十数本の光槍が出現した。それらは号令を待つことなく一斉に射出され、地上から、左右から、さらに上空からリゼルを包囲する。リゼルは翼を大きく打って空へ逃れたが、光槍は軌道を変え、獲物を追う猟犬のように旋回しながら追跡してきた。
「だったら――《バアルの投擲》!」
リゼルの背後へ赤黒い魔法陣が幾重にも開いた。そこから生み出された無数の魔槍が一斉に射出され、迫る光槍と空中で正面衝突する。白銀と赤黒、二色の閃光が夕空を埋め尽くし、爆発が連鎖するたびに衝撃波が王都の屋根を駆け抜けた。窓硝子が次々と割れ、広場では逃げ遅れた人々が頭を抱えて地面へ伏せる。
爆煙を突き破って、アーネストが飛び出してきた。背中に翼などないにもかかわらず、身体は完全に地面から離れている。足元へ白銀の法陣を一瞬だけ生じさせると、それを蹴るようにしてさらに加速し、上空へ逃れたリゼルを一直線に追い始めた。
「《フライ》!」
「空まで追ってくるか!」
「逃がすかッ!」
アーネストが空中で聖剣を振り抜いた。白銀の斬撃が三日月のように飛び、リゼルが翼を畳んで急降下する。その頭上を法光が掠めた直後、リゼルは身体を反転させ、下方から掌を突き出した。
「《ワームブレイカー》!」
空間が爆ぜた。赤黒い魔力が巨大な顎のように膨れ上がり、下方からアーネストを喰らおうと迫る。だが勇者は《フライ》の推力を瞬間的に反転させ、身体を横へ滑らせることで直撃を避けた。それでも余波までは殺しきれず、アーネストは即座に左腕を突き出した。
「《不落聖壁・アイギス》!」
白銀の盾が魔力の奔流を受け止めた。表面へ無数の亀裂が走り、アーネストの身体が数十メートルも吹き飛ばされる。だが、リゼルはそれを見送らなかった。傷ついた翼を一度だけ強く打ちつけると、吹き飛ばされる勇者を追って自ら爆煙の中へ飛び込み、姿勢を立て直すより早くその懐へ潜り込んだ。
「ほら、どうした勇者!」
小さな右拳が、アーネストの腹部へ真正面から叩き込まれた。拳を覆っていた赤黒い魔力が鎧の表面で弾け、勇者の巨体が空中で大きく折れ曲がる。それでもリゼルは距離を取らず、左拳を頬へ叩き込み、さらに身体を回転させて踵を肩口へ振り下ろした。アーネストの身体が下方へ弾き飛ばされ、建物の屋根へ激突する寸前で《フライ》を強引に噴かし、辛うじて墜落を免れた。
「ぐっ……!」
アーネストは血の混じった唾を吐きながらも、再び高度を上げた。リゼルの拳をまともに受けた腹部が焼けるように痛み、呼吸をするたびに肺まで軋む。それでも聖剣を握る手から力を抜くことはなく、むしろ自分を追って降下してくるリゼルへ真正面から飛び込んでいった。
「まだ来るか!」
「帰ると言っただろう! クラリスのところへ帰るまで、俺は止まらない!」
聖剣と魔力障壁が空中で激突した。二人の身体がすれ違い、互いに反転し、再び正面からぶつかり合う。アーネストの剣がリゼルの肩を裂けば、リゼルの拳がアーネストの頬を打ち抜き、法術の盾が砕ければ即座に次の盾を展開する。互いに一歩も退かないまま、剣と拳、法術と魔法が王都の空で幾度も交差した。
リゼルも魔法だけに頼ろうとはしなかった。アーネストの聖剣が横薙ぎに迫った瞬間、右手へ魔力を凝縮して赤黒い刃を作り出し、その刃で白銀の刀身を正面から受け止める。甲高い金属音にも似た魔力の衝突音が響き、二人の顔が互いの息遣いまで感じられる距離へ近づいた。
「魔法使いだと思ったか?」
「化け物め……!」
「褒め言葉として受け取っておくよ!」
リゼルは魔力刃で聖剣を押し退け、そのままアーネストの胸元へ斜めに斬りつけた。法光を纏った鎧が刃を完全には通さなかったものの、胸当てには深い裂傷が走り、その下から血が滲み出す。アーネストが反撃の突きを放てば、リゼルは紙一重で身体を捻り、すれ違いざまにもう一度魔力刃を振るって彼の左肩を切り裂いた。
魔力の総量では圧倒的にリゼルが上だった。それでも、戦いそのものは一方的にならない。アーネストは魔法の発動兆候を見れば射線から外れ、近距離へ潜り込めばリゼルに詠唱の時間を与えず、逆に距離を取られれば法術による斬撃で追い立てる。レベル差は僅か一一〇。しかも筋力と耐久ではアーネストがリゼルを上回っている。そこへ歴戦の経験と技量まで加わる以上、勇者アーネストはリゼルにとって、単純な能力値の優劣だけでは決して押し切れない、ひどく相性の悪い相手だった。
「《天戒縛鎖・グレイプニル》!」
アーネストの左手から白銀の鎖が飛び出した。蛇のように空中を走った鎖がリゼルの右足へ絡みつき、翼で飛ぶ彼女の動きを一瞬だけ止める。その機会を逃さず、アーネストは聖剣を両手で握り締め、残る法力を脚部と刀身へ一気に集中させた。
「《勇者権能――神速光臨・ルクス=エクシード》!」
アーネストの身体が白銀の閃光へ変わった。リゼルが咄嗟に上半身を逸らすものの、完全には避けきれない。聖剣が肩口から胸元へ走り、漆黒と血紅のドレスを大きく切り裂いた。血が宙へ散り、衝撃をまともに受けたリゼルの身体が時計塔へ叩きつけられた。
石壁が陥没し、時計塔全体が大きく揺れた。巨大な文字盤へ蜘蛛の巣状の亀裂が広がり、石片と硝子片が雨のように地上へ落下していく。リゼルも崩れ落ちる瓦礫と一緒に一度は高度を失ったが、翼を開いて空中で身体を止めると、ゆっくりと顔を上げた。
「……痛いじゃないか」
口元から血が流れ、ドレスも裂け、片翼には深い傷が刻まれていた。それでも怒ってはいなかった。むしろ、口角は先ほどより高く上がっている。久しぶりに自分へ傷を負わせることのできる相手を前にして、リゼルはますます楽しそうに笑っていた。
「はは……はははははは! 素晴らしい! 素晴らしいぞ、勇者!」
「何がおかしい!」
「決まっているだろう! 楽しいんだよ! これだけ殴っても、斬っても、魔法を叩き込んでもまだ向かってくる! いいぞ! もっと私を楽しませろ!」
その言葉は、もはや誇張ですらなかった。拳を叩き込み、魔力の刃で斬りつけ、《ワームブレイカー》まで浴びせ、それでも勇者は剣を握っている。リゼルにとってそれは腹立たしいことではなく、むしろ久しく味わっていなかった興奮を与えてくれるものだった。敵を殺したいという欲求と、この戦いをもう少し続けたいという欲求が、幼い顔に浮かぶ笑みの中で奇妙に同居していた。
リゼルが両腕を広げると、傷ついた翼も大きく開いた。膨大な魔力が周囲へ溢れ出し、夕暮れの雲が赤黒く染まっていく。アーネストはその魔力量を肌で感じ取り、聖剣を握り直した。次に来るものが、それまでとは比較にならないことを歴戦の勘が告げていた。
「《デスブリンガー》!」
数十、数百の黒い刃が空を埋め尽くした。一本一本が人間を容易く両断できるほどの魔力を宿し、それらが一斉にアーネストへ殺到する。上も下も左右も、すべてが黒い刃によって塞がれ、逃げ道と呼べるものはどこにも残されていなかった。
「《絶対聖域・サンクトゥス》!」
アーネストを中心として巨大な白銀の球体が展開された。黒い刃が次々と衝突し、そのたびに白銀の表面へ波紋と亀裂が広がる。十本、二十本、五十本と受け止めるうちに障壁は崩壊寸前まで追い詰められ、それでもアーネストは聖剣を構えたまま耐え続けた。
「まだだ……! こんなところで、終われるかぁああああッ!」
白銀の球体が砕けるのと同時に、アーネストは自らその中から飛び出した。残る黒刃を迎え撃つように背後へ巨大な光の翼が形成され、そこから放たれた無数の光弾が迫る刃を撃ち落としていく。爆発と閃光が入り乱れる中、その間隙を縫うようにアーネスト自身がリゼルへ突進した。
「《勇者権能――熾天光翼・セラフィム》!」
光弾の群れが先行してリゼルの障壁へ激突し、赤黒い防壁を次々と削り取る。その直後にアーネスト本人が飛び込み、聖剣を大上段から振り下ろした。障壁が一枚砕け、二枚目まで切り裂かれ、ついには刃がリゼルの肩へ食い込む。
「リディアの分だぁああああッ!!」
リゼルが翼を使って距離を取ろうとするが、アーネストは逃がさない。空中で身体を反転させ、返した刃をもう一度叩き込む。今度はリゼルが翼そのものを盾として受け、暗紅色の皮膜が大きく裂けた。
「クラリスの分だぁあああああッ!!」
さらに三撃目が来る。リゼルは両腕を交差させ、幾重もの魔力障壁を重ねて受け止めた。しかしアーネストの法光はそれらを削りながら押し込み、リゼルの小さな身体を大きく後方へ弾き飛ばした。
全身はすでに傷だらけだった。アーネスト自身も法力の底が見え始め、呼吸をするだけで脇腹の傷が痛む。それでも《フライ》を維持し、王都中央広場の遥か上空で聖剣を構え直した。クラリスのところへ帰る。その約束だけが、限界を越えた身体をまだ空へ留めていた。
「……終わらない。お前を倒して、俺は帰る」
空中で姿勢を立て直したリゼルが、傷ついた翼をゆっくりと広げた。アーネストは剣を握り直し、霞み始めた視界を無理矢理に前へ向ける。眼下では中央広場を埋めていた人間たちが豆粒ほどに小さく見え、二人の戦いを追い続ける法映像機だけが、王都中へその姿を送り続けていた。
「クラリスが待ってるんだ……! 俺は絶対に帰る!」
その言葉を聞いた瞬間だけ、リゼルの笑みが僅かに薄れた。待っている者がいるという感覚そのものを理解できないわけではない。自分にも、絶対に失いたくない者たちがいる。それでも、理解できることと敵へ慈悲を与えることは、彼女の中ではまったく別の問題だった。
「そうか。だったら、急がないとな」
リゼルが両手を広げると、掌の間へ光の存在そのものを拒絶するような漆黒が生まれ始めた。周囲の空気が歪み、時計塔から崩れ落ちていた瓦礫さえ落下を止め、逆向きに空へ吸い上げられていく。アーネストの表情が変わった。それまでの魔法とは、明らかに格が違っていた。
「最上級暗黒魔法――《ブラックホール》」
だが、術式が完成する寸前、リゼルの視線が眼下へ逸れた。遠方にはメアがいる。メリュジーヌがいる。そして、先ほど自分が魔弓を託したばかりのレザードもいる。《ブラックホール》をここで完全に発動させれば、目の前の勇者だけを都合よく呑み込んで終わりとはいかない。あの三人まで効果範囲へ巻き込む可能性を悟った瞬間、リゼルは忌々しそうに舌打ちした。
「…………ちっ。駄目だな、これは」
せっかく形成しかけた漆黒の球体を、リゼルは自ら握り潰した。周囲の光を歪ませ、瓦礫さえ空へ吸い上げていた異常な引力が唐突に消失し、行き場を失った破片が再び王都へ向かって落ちていく。なぜ敵が絶好の機会に大魔法を中断したのか、アーネストには知る由もない。だが歴戦の勇者にとって、理由など必要ではなかった。敵が攻撃を止め、術式を解除し、防御へ移行するまでの僅かな時間が生まれた――それだけで十分だった。
「もらったぁあああああッ!!」
《フライ》の出力を限界まで引き上げ、アーネストは一直線に突進した。満身創痍の身体が再び白銀の光を纏い、両手で握った聖剣がリゼルの胸元を目掛けて突き出される。先ほどまでなら障壁を展開したはずだった。あるいは翼を使って回避してもよかった。それにもかかわらず、リゼルは迫り来る刃を前にして防御するどころか、不意に肩から力を抜いた。
「仕方がない。あまりやりたくない手なんだが……まあ、いいか」
リゼルは避けるのではなく、自分からアーネストの懐へ飛び込んだ。予想していた手応えが突然消えたことで、今度はアーネストのほうが虚を突かれる。聖剣の間合いの内側へ小さな身体が潜り込み、次の瞬間には細い両腕が彼の胴へ回されていた。さらに傷ついた堕天使の翼までアーネストの背中へ回り込み、空中で逃げ道を塞ぐように身体全体を包み込んでいく。
「なっ……!? 離せッ!」
「嫌だね。せっかく捕まえたんだ。どうして私から離してやらなければならない?」
アーネストは咄嗟に肘を振り下ろし、しがみついているリゼルの背中へ叩き込んだ。一撃、さらにもう一撃と、勇者の膂力をまともに受けるたびに小さな身体が揺れ、口元から血が零れる。それでもリゼルは腕を解こうとしない。それどころか翼を大きく広げて二人分の体重を支え、全身へ魔力を巡らせながら両腕の拘束をさらに強めていった。
「貴様……! 何をするつもりだ!?」
「何って、決まっているだろう? 君は思ったより強かった。私とここまで斬り合えるとは、本当に大したものだよ。だから――」
血に濡れた唇が、ゆっくりと笑みを形作った。負けを認める者の顔ではなく、次の悪戯を思いついた子供のような顔だった。アーネストがその表情の意味を理解するより早く、リゼルは彼の身体へしがみついたまま眼下へ顔を向け、大きく息を吸い込んだ。
「――私一人で倒せないなら、仲間を使えばいい!」
次の瞬間、リゼルの声が王都の空を揺るがした。魔力で増幅された幼い声は中央広場へ降り注ぎ、建物へ反響し、遥か遠方まで届いていく。自分の身体を敵へ密着させたまま、それでも何の躊躇もなく、リゼルは新しく手に入れた仲間の名前を絶叫した。
「レザードォオオオオオオオオオオオオオオオッ!! 私ごとぉおおおおおおおおおおッ!! こいつをぶち抜けぇえええええええええええッ!!」
その意味を理解した瞬間、アーネストの顔から怒りとは別の色が浮かんだ。眼下にいるダークエルフの少年が持っているものを、彼もすでに見ている。先ほど飛空艇を一撃で射抜いた、あの異様な魔弓。その射線上へ自分だけではなく、目の前の少女自身まで重なっていることに気づき、アーネストは初めてこの小さな敵が何を考えているのか理解した。
「まさか……正気か!? お前まで死ぬぞ!」
「ははは! 今さら私に正気かどうかを訊くのか、勇者!?」
心底おかしそうにリゼルが笑う。アーネストが必死に身体を振っても、リゼルは離れようとしない。自分も射抜かれることなど最初から計算のうちであり、その代償を支払うことに何の迷いも持っていない。その理解不能な覚悟を目の当たりにして、アーネストの背筋へ、これまでの戦闘では一度も感じなかった冷たいものが走った。
「お嬢様ぁああああッ!?」
眼下でメアが叫び、反射的に飛び出そうとした。その隣ではメリュジーヌも顔色を変え、普段の優雅な声音など完全に消え失せている。二人にとって恐ろしいのは勇者ではない。自分たちが何より守らなければならない少女自身が、自分の生命を駒として戦術へ組み込んでしまったことだった。
「リゼルちゃん!? 何を仰っていますの!? レザード殿、駄目ですわ! そんなものを撃てば、勇者だけではなくリゼルちゃんまで――!」
メリュジーヌの制止を受けても、レザードはすぐには動かなかった。魔弓を握ったまま、遥か上空で勇者へしがみついているリゼルを凝視している。自分を地下牢から救い出した少女だった。自分を《無価値な王子》としてではなく、欲しいと言ってくれた少女だった。さらには誰にも扱えなかった魔弓を託し、自分自身の手で存在価値を証明する機会まで与えてくれた。
その少女が今、自分ごと撃てと命じている。命令だからと簡単に矢を放てるようなことではなく、レザードの指は目に見えて震えていた。だが、いつまでも迷っている時間はない。リゼルは一度も助けを求める表情を見せず、むしろ遥か上空からレザードを見下ろし、いつものように自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「…………リゼルさん。本当に……よろしいのですね」
上空のリゼルへ届くはずもない。それでもレザードは問いかけずにはいられなかった。すると、まるでその言葉が聞こえたかのように、リゼルがさらに強くアーネストを抱き締める。その赤紫色の瞳に迷いはなく、口元には相変わらず笑みが浮かんでいた。
「撃て、レザード! 君なら当てられる! 《ザミエル》を持つ君ならな!」
レザードは静かに《ザミエル》を持ち上げ、矢筒から一本の矢を抜いた。鏃には大粒のルビーが嵌め込まれている。ほんの少し前に、その一本だけで魔界の一般家庭が一年暮らせるほどの値段だと聞かされ、思わず絶句したばかりの矢だった。だが今のレザードには、その値段を気にする余裕など微塵もなかった。
「………………はい、リゼルさん」
レザードはルビーの矢を番え、ゆっくりと弦を引き絞った。《ザミエル》の中央に埋め込まれた紫色の眼球が大きく見開かれ、遥か上空で重なり合う二人を捉える。黒紫色の魔力が鏃へ集まり始めると、周囲の空気が低く唸り、レザードの足元に転がる小石や瓦礫が震えながら浮き上がった。
「やめろッ! 離せ! 俺は……俺はまだ死ねないんだ!!」
ここへ来て、アーネストの声から初めて純粋な焦りが滲んだ。聖剣を持つ腕へ力を込め、リゼルの拘束を引き剥がそうとする。帰らなければならない。あの空き家には、母親を失い、身体を病に蝕まれ、それでも父親だけを信じて待っている娘がいる。
「クラリスが待ってるんだ! あの子はもうリディアまで失った! 俺まで帰らなかったら、あの子は一人になるんだ!!」
「知っているよ。君、さっきからそればかり言っているじゃないか」
「だったら離せ! お前にも仲間がいるんだろう!? あいつらを巻き込みたくなくて、さっきの魔法を止めたんじゃないのか!? だったら分かるはずだ! 待っている奴を残して死ねない気持ちくらい――!」
その言葉を聞いた瞬間だけ、リゼルの赤紫色の瞳から笑みが消えた。ほんの一瞬だった。大切な者を残して死ねないという言葉そのものは、彼女にとって決して理解不能なものではない。むしろ、誰よりも理解できてしまうからこそ、《ブラックホール》を途中で止めたのだ。
だが次の瞬間には、その瞳へ再び冷たい愉悦が戻っていた。理解できるから助ける、という倫理はリゼルの中には存在しない。自分が守ると決めた者と、そうでない者。その境界線の外側にいる人間へ向ける慈悲など、彼女は最初から持ち合わせていなかった。
「そうだな。よく分かるよ」
リゼルはアーネストの胸元へ頬を寄せたまま、妙に穏やかな声で答えた。その返答に僅かな希望を感じたのか、アーネストの表情が一瞬だけ緩む。だが、顔を上げたリゼルの口元に浮かんでいたものを見た瞬間、その希望は完全に消え失せた。
「だから私は、私の仲間を守る。君の娘については――私の知ったことではない」
「貴様ぁあああああッ!!」
「それより勇者、一つだけ教えておいてやろう」
怒りに任せて暴れるアーネストをさらに強く拘束しながら、リゼルは楽しそうに首を傾げた。自分自身も《ザミエル》の射線上にいるというのに、その声には恐怖がまるでない。それどころか、これから相手へ突きつける事実が愉快で仕方がないようだった。
「私たち上位魔族の心臓は――二つあるんだよ」
「……何?」
「さて、勇者。君の心臓は何個ある?」
その問いが終わるのと、レザードの指が弦から離れるのはほとんど同時だった。《ザミエル》が低い咆哮にも似た音を響かせ、黒紫色の閃光が地上から空へ一直線に駆け上がる。あまりにも速く、矢そのものを目で追うことなどできない。先に上空の二人の身体が激しく跳ね、その後から遅れて空気を引き裂く轟音が王都全体へ降り注いだ。
ルビーの矢は、最初にリゼルの身体を貫いていた。だが《ザミエル》の一撃はそこで勢いを失わず、彼女の背後へ密着していたアーネストまで一直線に射抜いていく。二人の身体が上空でまとめて跳ね、リゼルの腕がようやく勇者から離れた。
「が……っ……ぁ……!」
その瞬間、アーネストの《フライ》が途切れた。身体を支えていた白銀の法光が砕けるように消え、聖剣を握っていた指からも力が抜けていく。剣だけが先に手を離れ、回転しながら遥か下方の中央広場へ落ちていった。
続いて、アーネスト自身の身体も落下を始めた。もはや姿勢を立て直す力もなく、腕も脚も力なく垂れ下がったまま、重力へ引かれて王都へ向かって落ちていく。だが、ほんの数メートル落下したところで、その身体は不自然に空中へ停止した。
アーネスト自身が飛行を取り戻したわけではなかった。傷だらけの翼を広げたリゼルが、落ちていく彼の襟元を片手で掴んでいた。もう片方の手は《ザミエル》に射抜かれた自分の傷口を押さえている。自分も同じ矢に貫かれ、翼まで傷ついているというのに、それでもリゼルだけは空へ留まり続けていた。
「……な……にを……する……」
「何をするって? まだ終わっていないぞ、勇者」
リゼルは心底不思議そうに首を傾げた。片手で自分の傷口を押さえ、もう片方の手だけで成人男性の身体を宙吊りにしている。アーネストの足は何もない空を虚しく揺れ、もはや《フライ》を再発動するだけの法力さえ残されていなかった。それでもリゼルの赤紫色の瞳には疲労より愉悦のほうが濃く、手を離せばそのまま落下する男を、わざわざ掴み止めていた。
「君は《フライ》まで使って、あれだけ格好よく空を飛んでいたじゃないか。途中で終わりなんて寂しいだろう?」
「や……めろ……」
「駄目だ。せっかくなんだから――もっと高く飛んでいけ」
その言葉と同時に、アーネストを掴んでいるリゼルの腕へ赤黒い魔力が集中した。傷ついた翼を大きく開き、自分の身体を空中へ固定すると、成人男性の身体を片腕だけで一度大きく振りかぶる。アーネストには抵抗する力すら残されておらず、ただ首元を掴まれたまま、これから何をされるのかを理解した瞳だけが大きく見開かれた。
「ほら。もう一度、空へ行ってこい」
リゼルが腕を振り抜いた。死にかけたアーネストの身体が、砲弾のように空を突き抜ける。二人がすでにいた高度からさらに上へ、王都の時計塔も、飛空艇が行き交う高度さえも越える勢いで、勇者の身体は夕空へ向かって一直線に打ち上げられていった。
◇◇◇
法映像機の前で、クラリスは床へ倒れたまま画面を凝視していた。画面に映る男が誰なのか、確認する必要などあるはずがなかった。幼い頃には何度もその腕に抱き上げてもらい、肩車をして王都の祭りを見せてもらった。王立第一学院へ入学した日には、新しい制服姿を見て本人以上に嬉しそうな顔をしていた。
その父親が、今は悪魔の少女によって空へ放り投げられている。ほんの少し前まで自分の力で《フライ》を使い、聖剣を振るっていた男が、今は手足を動かすことさえできない。画面の中で急速に小さくなっていく父親を見て、クラリスは震える両手を床へつき、少しでも映像へ近づこうと身体を引きずった。
「…………お父さん?」
喉から漏れた声は、自分自身のものとは思えないほど弱々しかった。毒に侵された身体は思うように動かず、腕へ力を込めるだけでも全身が痛んだ。それでも止まることはできない。画面に映る父親がまだ生きている限り、クラリスは帰ってきてくれる可能性を捨てることができなかった。
「ねぇ、お父さん……もういいよ。もう戦わなくていいから……お願いだから、帰ってきてよ……」
返事があるはずなどなかった。これは王都上空から送られてくる生中継であり、クラリスの声が父親へ届くことなどない。それでも彼女は呼び続けた。画面の中でアーネストが少しでも動くたびに、まだ大丈夫だ、まだ生きている、まだ帰ってきてくれると自分へ言い聞かせた。
「お父さん……私、ここにいるから。ちゃんと待ってるから……だから……」
その言葉は最後まで続かなかった。画面の中で、父親の身体が上昇する速度を失い始めたからだった。最初は人間の輪郭を保っていたものが、やがて豆粒ほどになり、青黒く染まり始めた夕空の中で一瞬だけ静止したように見えた。
◇◇◇
遥か上空まで投げ上げられたアーネストの身体は、やがて完全に上昇する力を失った。眼下には、彼が勇者として長年守ってきた王都が広がっている。炎を上げる建物、毒に苦しむ人々、そして遥か下方に小さく見える中央広場。その街のどこかに、自分が必ず帰ると心へ決めて置いてきた娘がいる。
「……クラ……リス……」
声は風に消えた。《フライ》を発動しようとしても、法力は応えてくれない。指先一つまともに動かせない身体は、ほんの一瞬だけ空の頂点へ留まったあと、ゆっくりと向きを変えて落下を始めた。
さらに下方では、リゼルが翼を広げたまま空中へ留まっていた。自分が投げ上げた勇者が落ちてくるのを確認すると、傷口を押さえていた手をゆっくりと離す。赤紫色の瞳には憎悪も怒りもなかった。あるのは純粋な好奇心と、自分がこれから起こす現象への期待だけだった。
「さぁ、勇者。せっかく娘のところへ帰りたいと言っていたんだ」
リゼルは両腕を広げ、落下してくるアーネストへ向けて掌を掲げた。膨大な魔力が周囲へ広がり、王都上空の空気が一変する。遥か眼下では建物の窓硝子が細かく震え、中央広場に転がっていた石片まで微かに跳ね始める。やがてアーネストと地上との間を塞ぐように、巨大な黒紫色の魔法陣が空中へ形成された。
「少しだけ、帰る速度を速めてやるよ」
幾重にも重なった魔法陣が回転を始めた。円環の内側を複雑な術式が走り、そこだけ世界の重さそのものが変質していく。落下しているアーネストは、その異常な領域へ自分の身体が近づいていることを理解していた。それでも、もはや軌道を変える力はどこにも残されていなかった。
「《グラビトン・フィールド》」
アーネストの身体が領域へ入った瞬間、それまで彼を地面へ引いていた力が異常なまでに増大した。ゆっくりと落ち始めていた身体が一瞬で引きずり下ろされ、速度は瞬く間に人間の落下と呼べる範囲を越えていく。傷ついた身体では姿勢を制御することさえできず、アーネストは自分が長年守り続けてきた王都へ向かって、一直線に加速していった。
周囲の空気が急激な速度変化に耐えきれず、遅れて凄まじい衝撃音が響いた。アーネストの身体はすでに落下というより射出された砲弾に近く、夕空に一本の軌跡を残しながら地上へ迫っていく。その先には、自分が守り続けてきた王都中央広場が待っていた。
◇◇◇
「やめてぇええええええッ!!」
クラリスの絶叫が空き家へ響いた。画面の中で父親の姿が急速に大きくなっていく。何が起きようとしているのか、説明される必要などなかった。
「お父さん! お願い! 飛んで! お父さんなら飛べるでしょ!? お願いだから……お願いだからぁッ!!」
だが、アーネストの身体を法光が包むことはなかった。《フライ》を発動するだけの力もなく、聖剣さえすでに手元にはない。勇者として空を駆けた男は今、自分の意思とは無関係に、黒紫色の重力場によって王都中央広場へ引きずり落とされていた。
「お父さぁあああああああああああああああああんッ!!」
クラリスが父を呼んだのと、アーネストが広場へ到達したのはほとんど同時だった。黒紫色の重力場によって加速し続けた身体は、もはや一人の人間が落下しているという速度ではなかった。王都の空を一本の軌跡が貫き、その先端にいたアーネストが中央広場へ到達した瞬間、石畳そのものが巨大な槌で殴りつけられたように沈み込んだ。
轟音と同時に、法映像機の画面が激しく揺れた。衝撃点を中心として石畳が円形に砕け、無数の亀裂が広場の端まで一気に走っていく。跳ね上がった石片と砂塵が中継映像を覆い隠し、ほんの数秒前まで確かにそこへ存在していたアーネストの姿も、その灰色の幕の向こうへ完全に消えた。あまりの衝撃に中継用の法映像機まで焦点を失い、乱れた映像だけがクラリスの前で明滅していた。
クラリスは息をすることすら忘れて、その灰色の画面を見つめ続けた。何も見えない。だからこそ、まだ生きているかもしれないという希望へ縋った。父親は勇者なのだ。何度も死地から帰ってきた。自分が小さい頃から、どれほど傷ついても最後には必ず家の扉を開けて帰ってきた。
「……大丈夫……お父さんだもん……」
震える唇が、必死に言葉を紡いだ。自分へ言い聞かせるための言葉だった。そうでなければ、今にも胸の奥から何かが壊れてしまいそうだった。
「勇者なんだから……あれくらい……大丈夫だよね……? また帰ってきて……クラリス、心配したかって……笑ってくれるんだよね……?」
やがて風が吹き抜け、広場を覆っていた砂塵が少しずつ薄れていった。最初に姿を現したのは、巨大な衝突痕だった。石畳は深く陥没し、その中心から蜘蛛の巣のような亀裂が四方八方へ伸びている。だが、クラリスが探している鎧姿の男は、どこにも立っていなかった。
中継映像がゆっくりと衝突地点へ寄っていくにつれて、クラリスは瞬きすらできなくなった。立ち上がる勇者も、膝をつくアーネストも、倒れている父親さえ存在しない。衝突地点の石畳には、黒ずんだ人型とも呼べない痕跡がへばりついているだけだった。それがほんの数秒前まで聖剣を握り、《フライ》で王都の空を駆け、自分の名前を呼んでいた父親なのだと、クラリスの頭はどうしても理解することができなかった。
「…………お父さん?」
返事はなかった。映像のどこを探しても、アーネストという人間はもう見つからない。残されていたのは砕けた石畳と巨大な衝突痕、そしてその中心へ焼き付いたように残る、もはや人間の輪郭すら持たない黒い痕跡だけだった。
「ねぇ……お父さん。どこ……?」
震える手が法映像機の画面へ触れた。クラリスは陥没した広場の映像を指先でなぞり、そこに父親の姿を探そうとする。だが何度見ても、見慣れた鎧も、優しい顔も、自分へ伸ばしてくれた手も見つからない。
「さっき言ったじゃない……。私、一人にしないでって言ったじゃない……。お父さん、ちゃんと帰ってくるって……そういう顔してたじゃない……」
声が次第に震え始めた。画面を掻く指へ力が入り、爪が硝子の表面を滑る。母親はもういない。リディアを失った時にも、父親だけは残っていた。父親がいるから耐えられると思った。父親まで失う未来だけは、考えないようにしていた。
「嘘つき……。帰ってきてよ……。ねぇ……お父さん……。私、ちゃんと待ってたよ……? 言うこと聞いて、ここで待ってたよ……? だから……帰ってきてよ……」
クラリスの目から涙が落ちた。最初は一滴だった。それが頬を伝い、顎から床へ落ちる頃には、次の涙が溢れていた。返事が来ないと分かっていても、呼ぶことだけは止められなかった。
その時、中継映像の端へ黒と血紅が入り込んだ。クラリスの瞳が動きを止め、涙に歪んだ視線が、父親だった痕跡の傍らへ降り立った小さな影へ吸い寄せられていく。悪魔の少女だった。
自分自身も傷だらけで、華美だったドレスは裂け、堕天使の翼にも深い傷が残っている。それでも少女は生きていた。父親と同じ《ザミエル》の一撃を受けながら生き残り、自分の翼で空から降りてきて、たった今一人の人間を消し去った場所を眺めている。
勝利を噛み締める静かな笑みではなかった。憎い敵へ復讐を果たした者の笑みでもない。面白いものを見た時のように赤紫色の瞳を輝かせ、リゼルは満足そうに口元を綻ばせていた。父親が最後まで帰ろうとしていたことも、どこかで娘が待っていることも知ったうえで、それでも何一つ心へ届かなかったかのように楽しそうに笑っていた。
「…………お前……」
クラリスの声が変わった。先ほどまで父親を求めて震えていた少女の声とは違う。涙はまだ頬を流れている。それでも画面を見つめる瞳の奥で、悲しみとは別の感情が生まれ始めていた。
「お前が……」
指先が画面へ食い込むほど強く押しつけられた。爪が割れ、痛みが走っても気づかない。視界の中にはもう、父親が消えた広場さえほとんど入っていなかった。ただ一人、そこに立って笑っている悪魔の少女だけが、焼き付いたように残っている。
「お前がぁ……お父さんをぉ……!」
クラリスの喉が引き攣った。怒鳴ろうとしても息がうまく吸えず、胸が痛い。それでも込み上げる感情は止められなかった。母を失った悲しみも、自分が受けた苦痛も、そして今まさに父親まで失った絶望も、クラリスの中で出口を求めて激しく渦巻いていた。
「返して……。お父さんを返してよ……。私のお父さんを……返してよぉ……!」
クラリスは泣きながら、画面の向こうの少女へ訴えた。返事など来ない。それでも今度は父親ではなく、その悪魔へ向かって言葉を投げつける。画面を叩くたびに涙が落ち、喉が裂けそうになっても、父親を返してほしいという言葉だけは止まらなかった。
画面の中では、漆黒と血紅のドレスを纏った少女がまだ笑っていた。クラリスの声など聞こえるはずもなく、その娘が今まさに中継を見ていることさえリゼルは知らない。だからこそ、何のためらいもなく浮かべられているその無邪気な笑顔が、クラリスには何より残酷だった。
「返せぇええええええええええええええええええッ!!」
絶叫が空き家の壁を震わせた。クラリスは法映像機へ縋りついたまま泣き叫び、何度も画面を叩いた。母を呼んでも返事はない。父を呼んでも帰ってこない。その代わりに画面の向こうには、すべてを奪ったと彼女が信じる悪魔だけが生きて立っている。
その瞬間、クラリスの中で何かが壊れた。母を失った悲しみも、父を失った絶望も、自分自身が受けた苦痛も、まだそれぞれに名前を持った感情ではいられた。だが今、それらすべてが一つに溶け合い、画面の向こうで笑う白金髪の少女ただ一人へ向かって収束していく。
それはまだ、クラリス自身にも名前を付けられない感情だった。今はただ、父親を返してほしいと泣き叫ぶことしかできない。だが、この日の光景も、中央広場へ残された黒い痕跡も、そしてその傍らで笑っていた悪魔の少女の顔も、クラリスは生涯忘れることができないだろう。
やがて、その感情には名前が与えられる。
それが何であるのかを、この時のクラリスはまだ知らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
勇者アーネスト・グレイスの戦いは、ここで終わりました。
最後まで彼が望んでいたのは、勝利でも、名誉でもありません。
ただ一つ――クラリスのもとへ帰ることでした。
けれど、その帰還を待っていた娘が見届けたのは、父が帰ってくる姿ではなく、父を奪った悪魔が笑っている光景でした。
悲しみ。
絶望。
怒り。
まだ、この時のクラリスは、それらすべてが最後に何へ変わるのか知りません。
ですが――この日を境に、彼女の物語は大きく変わり始めます。
次回――
Ver.3 Arrow Chapter 5-3「悪魔たちの残業」
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




