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Ver.3 Arrow Chapter 5-1 勇者は、もう誰も救わない

今回は、勇者アーネストとクラリス側のお話です。


守るべき国も、家族も、勇者としての名誉も。

少しずつ崩れていったものが、とうとう一つの場所へ収束していきます。


Ver.3 Arrow Chapter 5-1

「勇者は、もう誰も救わない」


よろしくお願いいたします。

 王都の鐘が、休みなく鳴っていた。


 最初は火災を告げる鐘だと思われた。次に、城門の閉鎖を知らせるものだという噂が広まった。だがその音がどれほど鳴り続けても、鐘楼の下を走る人々のうち、正しい意味を知る者はもういない。水を求める列は途中で崩れ、診療所の戸は叩き壊され、荷馬車は道の真ん中に乗り捨てられていた。かつて秩序という言葉で保たれていたものが、たった数日のうちに音を立てて溶け崩れていく。誰もが自分と、自分の大切な誰かを守ることだけで精一杯だった。


 かつて七つの塔と呼ばれ、大陸中の商人や旅人が羨望の目で見上げたこの王都は、今や見る影もなかった。中央通りに並んでいた宝飾店のガラスはことごとく割られ、略奪の跡だけが残っている。噴水広場の彫像は台座から引き倒され、割れた石片の上に、誰のものとも知れぬ血痕が黒く固まっていた。北の居住区では夜通し炎が上がり続け、消火に当たる者はもう誰もいない。灰混じりの風が、腐臭と煙の匂いを乗せて街路を這い、遠くの城壁の向こうでは、逃げ場を失った民が塁壁にすがりつくようにひしめいている。


 空を見上げれば、いつもなら商業用の飛空艇が悠然と行き交っていたはずの航路には、今は一機の影もなかった。国営放送の巨大な映写板だけが、電力の途切れがちな明滅の中で、意味を成さない砂嵐の映像を延々と流し続けている。交通管制も、医療網も、通信網も、行政機関も、完全に死んだわけではない。それでも、それらを維持する人間が一人、また一人と倒れていくことで、巨大都市を支えていた機能は確実に失われつつあった。


 この国が誇った千年の歴史も、鋼と魔導技術の粋を集めた文明の灯も、たった一人の少女がもたらした毒の前では、蝋燭の火ほどの意味も持たなかった。国王はすでに姿を消し、貴族は私兵を連れて我先にと領地へ逃げ帰り、王都に残された民だけが行き場のない絶望と共に取り残されている。誰も彼もが、明日という言葉の意味を失いかけていた。


 空き家の二階で、アーネストはクラリスの背を支えていた。


 研究院から助け出したとき、娘は自分の足で歩いていた。熱はあるが、まだ話もできる。その事実だけを頼りにここまで逃げてきた。ところが先ほどから咳が深くなり、細い肩が一度震えるたび、呼吸が元に戻るまでの間が長くなっている。窓の隙間から差し込む夕暮れの光が、娘の頬をますます青白く見せていた。


 クラリスが身に纏っているのは、王立第一学院の制服だった。白いブラウスの上に濃紺の上着を重ね、胸元には鮮やかな青のリボンが結ばれている。金色の意匠が施された上着も、幾重にも折り目の付いた濃紺のプリーツスカートも、数日前までなら彼女がごく普通の学院生活を送っていることを示すものだった。今ではところどころに汚れが付き、長い茶色の髪にも以前の艶はない。それでもその姿には、友人たちと笑いながら学院へ通っていた一人の少女の面影が、まだはっきりと残されていた。


「お父さん」


 クラリスが、掠れた声で呼んだ。


「なんだ。無理に喋らなくていい」


「テレビ、点けて」


 思いがけない言葉だった。アーネストは一瞬迷ったが、娘の目に宿る意志の強さを見て、口を挟むのをやめた。壁際に置かれた小さな法映像機の電源を入れると、暗かった画面に光が走り、何度か映像が乱れたあと、国営放送の緊急報道が映し出された。


 そこには、けたたましく点滅する赤いテロップが表示されていた。「緊急速報」の四文字が画面いっぱいに躍り、その下で、マスクをした記者が咳き込みながら原稿を読み上げている。背後では職員らしき人間が慌ただしく行き交っていたが、その中には机へ突っ伏している者までいた。


『……げほっ……緊急速報です……国家反逆罪、並びに複数名に対する殺人容疑で指名手配中の元勇者アーネスト容疑者ですが……』


 画面の端に、アーネストの顔写真が大きく映し出された。赤い文字で「指名手配」の印が焼き付けられている。かつて国家の象徴として何度も報道された勇者の顔が、今度は国民へ警戒を呼び掛けるための犯罪者の顔として使われていた。


『……げほっ、昨夜、王立研究院を襲撃し、警護に当たっていた元パーティメンバー三名を殺害……さらに……』


 記者は一度言葉を切った。原稿へ落としていた視線が僅かに揺れ、画面の向こうで小さく息を呑む。それでも仕事を続けなければならないのか、震える指で紙面を押さえながら、次の一文を読み上げた。


『……自宅において、妻のリディアさんを殺害したものと見られています』


 部屋の空気が、凍りついた。


「お母さんを……お父さんが……?」


 クラリスの声が震えていた。信じたくないという思いだけが、辛うじてその身体を支えているようだった。画面に映る父の顔と、すぐ隣にいる本物の父親を何度も見比べ、その金色の瞳が大きく揺れる。


「嘘だ……嘘だよ、そんなの! お父さんが、お母さんを殺すわけない……!」


 絶叫だった。喉が裂けるほどの声に激しい咳が重なり、クラリスは胸元を押さえながら身体を折った。それでも顔を上げ、画面へ向かって何度も首を振る。誰かに向けてというより、この世界そのものへ突きつけるような否定だった。


「違う」


 アーネストは、掠れた声で答えた。娘の背へ腕を回しながら、もう片方の手を強く握り締める。爪が掌へ食い込んでも、その痛みすらほとんど感じなかった。


「俺は、リディアを殺してない」


 だがその声は、自分でも驚くほど弱々しかった。真実など、もはや何の意味も持たない。国が、国民が、テレビの向こうの何百万という目が、彼を人殺しだと信じている。妻を喪った悲しみの上に、殺人犯という汚名まで塗り重ねられていく。積み上げてきたものすべてが、音を立てて崩れ落ちていく感覚だった。


「分かってる……分かってるよ、お父さん」


 クラリスは咳き込みながら、それでも父から目を逸らさなかった。信じたいという思いと、目の前で突きつけられる現実との間で、幼さの残る心が引き裂かれていく。それでも彼女にとって、目の前にいる父親だけが、もうこの世界で最後に信じられる存在だった。その光景こそが、アーネストにとって何よりの拷問だった。


 画面の中では、記者の声がなお続いていた。アーネストの指名手配を伝えていた赤い速報表示が消え、代わりに画面下部へ「王都中央広場・生中継」の文字が現れる。映像は何度か激しく乱れ、砂嵐と音声の途切れを挟んだあと、王都中央部に設置された報道用定点カメラの映像へ切り替わった。


『……続いて、王都中央広場から入った映像です。現在、広場には多数の市民が集まっており――げほっ、げほっ……原因不明の症状による死者、重症者が……』


 記者の説明など必要ないほど、そこに映し出された光景は凄惨だった。噴水広場を埋め尽くすほどの人間が集まり、その中には立っていることすらできず、石畳へ座り込んでいる者も少なくない。幼い子供を抱き締める母親、身体を支え合う老夫婦、軍服姿の兵士、白衣を着た医療関係者までが入り混じり、誰もが何かを待つように空を見上げていた。


 画面の端では、一人の男が激しく咳き込み、その場へ膝をついた。隣にいた女性が慌てて身体を支えようとするが、その女性自身も足元がおぼつかず、二人揃って石畳へ倒れ込んでしまう。それでも周囲の人間に二人を助ける余裕はなく、広場全体が死を目前にした者たちの荒い呼吸と呻き声で満たされていた。


「……何なの、これ……」


 クラリスが呟いた。先ほどまで父親の指名手配を映していた画面から、目を離すことができない。自分たちが空き家へ隠れている間に、王都はここまで壊れていたのかと、ようやく現実を突きつけられたような気がした。学院へ通うために何度も歩いた街路も、友人たちと寄り道した店も、そのすべてが同じ王都の中にあるという事実さえ信じられなかった。


 その時だった。広場のざわめきとはまったく異なる音が、法映像機の小さなスピーカーから流れ始めた。最初は遠くから響く羽音のように聞こえたそれが徐々に大きくなり、定点カメラが自動追尾機能によってゆっくりと上空へ向きを変えていく。広場に集まった人々も次々と顔を上げ、その視線の先にいるものを見つけた瞬間、騒めきが波のように広がっていった。


 夕暮れの空に、一人の少女が浮かんでいた。


 最初に目を奪われるのは、そのあまりにも幼い姿だった。年齢はせいぜい六、七歳ほどにしか見えない。腰を越えて流れる淡い白金色の髪が夕暮れの風を受けて揺れ、その隙間から覗く赤紫色の瞳は、眼下に集まった何千もの人間を静かに見下ろしている。陶磁器を思わせる白い肌も、小さな鼻梁も、まだ幼さの残る頬も、本来ならば庇護される側の子供にしか見えないものだった。


 しかし、その小さな身体を包む衣装だけは、子供という言葉からあまりにも遠かった。全身を覆うのは、艶を抑えた漆黒と、乾ききらない血を思わせる深い紅を重ねたゴシック調のドレスだった。首元から胸元にかけて黒と血紅のレースが幾重にも重なり、その上を細い鎖や小さな金属装飾が縫うように走っている。長い袖にも同じ意匠が惜しみなく施され、白い指先だけが暗い色彩の中から浮かび上がっていた。


 腰から下はさらに華美だった。黒を基調としたスカートへ暗紅色の布が何層にも重ねられ、その一枚一枚を縁取るように繊細なレースが走っている。細い鎖や小さな飾りが腰回りから垂れ、風を受けるたび、幾重もの布と一緒に微かな金属音を立てて揺れた。華やかでありながら明るさはなく、可憐でありながら愛らしさだけでは終わらない。その姿は、まるで喪服と礼装と血塗られた舞踏衣装を一つに縫い合わせ、小さな令嬢へ着せたかのようだった。


 白金の髪の間からは、黒く湾曲した二本の角が伸びていた。角の周囲にも血紅の細かな装飾が絡みつき、少女の頭部を飾る髪飾りと一体になっている。そのため遠目には、黒い棘と赤い花で作られた異形の冠を戴いているようにも見えた。王冠など身につけていないにもかかわらず、その立ち姿には、眼下の人間たちを自分と同じ高さに置いていない者だけが持つ、奇妙な威圧感があった。


 そして、白金の髪の向こうから覗いているものが、少女を人間ではない存在だと決定づけていた。背中から生えているのは、羽毛に覆われた天使の翼ではなかった。黒い骨格の間に暗い深紅を帯びた皮膜が張られた、蝙蝠を思わせる一対の翼だった。身体に比して十分に大きくはあるものの、空を覆い尽くすような巨大さではない。少女の背後で静かに開閉するたび、薄い皮膜へ夕陽が透け、黒の奥から赤い色だけがぼんやりと浮かび上がった。


 顔立ちだけを見れば、愛らしい少女だった。白金の長い髪も、華奢な手足も、まだ丸みを残した頬も、その年齢に相応しいものに見える。だが、血紅と漆黒に染め上げられたドレス、黒い角、背中から伸びる異形の翼、そして何より、眼下で死にかけている人間たちを見ても微塵も揺れない赤紫色の瞳が、その幼さを完全に裏切っていた。


「……あの子……」


 クラリスの表情が強張った。自分より遥かに幼い。学院の制服を着て友人たちと歩いていれば、思わず振り返ってしまうほど綺麗な少女だったかもしれない。それなのに今、画面越しに見ているだけで背筋が冷たくなった。


 醜いからではない。恐ろしい姿をしているからでもない。むしろ、あまりにも綺麗だったからこそ恐ろしかった。あれほど美しく着飾った幼い少女が、死者と病人で埋まりつつある王都の上空に浮かび、泣き叫ぶ人々を何の感情も見せずに眺めている。その光景そのものが、クラリスの知る善悪の形から外れていた。


 アーネストにも、それは同じだった。勇者として長く魔族と戦ってきた彼にとって、角も翼も見慣れないものではない。それでも画面の少女には、これまで刃を交えてきた魔族とは異なる不気味さがあった。怒っているのでも、殺気を撒き散らしているのでもない。ただ静かに、当然のようにそこにいる。それだけなのに、眼下にいる何千という人間と少女との間には、決して埋まらない何かが横たわっているように思えた。


 やがて少女は、血紅と漆黒のドレスの胸元へ白い手を添えた。広場の各所に設置された拡声設備が、小さな雑音を立てる。通信設備をどのように掌握したのか、それとも魔法によって声そのものを届けているのかは分からない。それでも、その幼く澄んだ声は広場だけではなく、生中継を映している法映像機を通して、アーネストとクラリスのいる部屋にまで鮮明に届いた。


『偉大なる大魔王ドラコー陛下よりの慈悲だ』


 その瞬間だけだった。それまで人間たちを無感情に見下ろしていた少女の表情へ、明確な敬意が宿った。胸元へ添えた手に僅かに力が入り、誇らしげに顎を上げる。大魔王の名を口にすることそのものが、この少女にとって何よりも尊い行為であるかのようだった。


 だが、次に眼下へ視線を戻した瞬間、その表情から温度が消えた。


『貴様ら下等生物に、解毒薬を用意してやった』


 広場が揺れた。ほんの数秒前まで死を待つしかなかった人々が、一斉に少女を見上げる。座り込んでいた者が立ち上がろうとし、倒れていた者まで顔を上げ、泣いていた者が涙を拭うことさえ忘れて空を見つめた。


 クラリスも思わず身を乗り出した。青い制服の胸元でリボンが揺れ、弱った身体を支えるために片手をベッドへつく。解毒薬という言葉が何を意味するのか、考えるまでもなかった。自分を苦しめている症状も、王都中の人間を倒している異変も治せる薬があるというのなら、それは今この国に残された唯一の希望だった。


「お父さん……! 薬が……!」


「ああ」


 アーネストも画面を凝視した。もし本当に解毒薬が存在するのなら、クラリスを助けられる。妻を失い、仲間を斬り、国から殺人犯として追われようとも、娘だけは救えるかもしれない。その可能性がほんの僅かでもあるなら、何をしてでも手に入れるつもりだった。


 だが、画面の中の悪魔は続けた。


『ただし、用意したのは千人分だけだ』


 広場から音が消えた。そこに集まっているだけでも千人では到底足りず、王都全体を見れば、その何十倍、何百倍という人間が同じ症状に苦しんでいる。それなのに少女は、まるで簡単な算数の問題でも出したかのように、何でもない顔で眼下を眺めていた。


 やがて画面の上方から、大きな木箱がゆっくりと降下してきた。魔法によって支えられているのか、何本もの瓶を収めた箱は少女の傍らで静止し、その蓋がひとりでに開いていく。中には同じ形をした小瓶が隙間なく並び、その一本一本へ淡い光を放つ液体が満たされていた。


 広場の人々が一斉にどよめいた。画面越しのクラリスでさえ、それが偽物ではないのだと直感できた。少女が箱の中へ手を伸ばし、そのうち一本を摘まみ上げる。血紅と黒のレースに包まれた袖口から、小さな白い指だけが覗いた。その指先で、今この瞬間にも死にかけている誰か一人を確実に救える薬が、夕暮れの光を受けてきらきらと輝いていた。


『どうするかは、貴様らが決めろ』


 少女はそう告げると、指先で瓶を弄ぶように一度だけ回した。眼下では、数え切れないほどの人々がその小さな瓶だけを見つめている。家族を救いたい者、自分だけでも生き延びたい者、まだ何が起きているのか理解できない子供まで、その場にいるすべての人間の希望が、たった一本の小瓶へ集中していた。


 そして、その指が開いた。


 小瓶が落ちていく。誰かが広場で悲鳴を上げた。伸ばされた無数の手など届くはずもなく、小さな瓶は何度か夕陽を反射しながら落下し、そのまま石畳へ叩きつけられた。


 乾いた破砕音が、生中継のマイクを通して部屋へ届いた。透明な破片が石畳の上へ散らばり、中に入っていた液体が僅かな染みを作る。ほんの数秒前まで一人の命を救えたはずのものが、誰にも使われることなく失われた。


「……え?」


 クラリスの口から、掠れた声が漏れた。何が起きたのか理解できなかったのではない。理解できてしまったからこそ、頭がそれを受け入れることを拒んだ。


 画面の中で、悪魔の少女が落下した瓶を見下ろした。驚きもしなければ、慌てもしない。黒と暗紅色の翼をゆっくりと動かしながら、自分が何をしたのか完全に理解したうえで、それでも悪びれた様子一つ見せず、ほんの少しだけ首を傾げてみせた。白金の髪の間で黒い角を飾る血紅の装飾が揺れ、その仕草だけを切り取れば、些細な失敗をした幼い令嬢にさえ見えた。


『すまんな、下等生物諸君』


 その声は軽かった。食卓で小さな失敗でもした時のような、ごく日常的な響きだった。だからこそ、その言葉と石畳へ散った解毒薬との落差が、クラリスには恐ろしかった。


『一本、落としてしまった』


 広場のどこかで、女性の絶叫が上がった。続いて男の怒号が響き、さらに別の場所から泣き声が重なる。だが少女はそれらを聞き流すように、残された木箱へ視線を落とした。


『残りは九百九十九本だ』


「……酷い……」


 クラリスの唇が震えた。濃紺のスカートを握り締めた細い指へ力が入り、布地に深い皺が寄っていく。身体の震えが熱によるものなのか、それとも怒りによるものなのか、自分でも分からなかった。


「なんて……酷いことを……」


 クラリスは画面から目を逸らさなかった。むしろ睨みつけるように、空に浮かぶ少女を見ていた。自分よりも幼く見えるその悪魔が、死にかけている人々の希望を手のひらで弄び、それを一つ潰した直後でさえ平然としている。その事実が、クラリスにはどうしても許せなかった。


「この悪魔……なんて酷いことをするの……!?」


 その言葉を聞いても、アーネストは答えなかった。彼は画面の中の悪魔ではなく、その背後に映っている王都を見ていた。倒れた人々、救護を受けられない負傷者、死者で埋まりつつある広場。そして、先ほど報道されたばかりのリディアの死が、頭の中で一つずつ繋がっていった。


 妻が死んだ時、自分は家にいなかった。クラリスを助けるため、研究院へ向かっていた。帰宅した時にはすでに手遅れで、自分は妻の最期を看取ることさえできなかった。それなのに国は、リディアを殺したのは自分だと報道した。


 だが、本当に妻を殺したものは何だったのか。


 王都中の人間が同じように倒れている。画面の向こうにいる悪魔は、その症状を治せる解毒薬を持っている。そして、その解毒薬を「大魔王からの慈悲」だと言って、死にかけた人々の頭上へ見せつけている。


 偶然であるはずがなかった。


「……こいつだ」


 アーネストの声が低く沈んだ。クラリスが父を見る。先ほどまで悲しみに沈んでいた男の顔から、その悲しみが消えたわけではない。ただ、そのすべてを覆い尽くすほどの別の感情が、ゆっくりと表へ現れ始めていた。


「お父さん……?」


「こいつらだ」


 アーネストは立ち上がった。拳が震えている。奥歯が軋むほど強く噛み締められ、画面の中の悪魔を睨む瞳には、もはや勇者として幾度も見せてきた冷静さなど残っていなかった。


「この毒を撒いたのは……こいつらだ」


 確証などなかった。誰が毒を作り、誰が王都へ広げたのか、アーネストは何一つ知らない。それでも今の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。解毒薬を持ち、王都の惨状を見下ろし、それを弄ぶように扱う魔族がいる。それだけで十分だった。


 そして彼の脳裏へ、床へ横たわっていたリディアの姿が蘇った。


「リディアも……」


 声が震えた。愛した妻の名前を口にした瞬間、胸の奥へ押し込めていた悲しみが、形を変えて噴き出した。守れなかった後悔も、最期に傍にいられなかった罪悪感も、自分が殺したと報道された屈辱も、そのすべてが一つの方向へ向かい始める。


「きっと、あいつがリディアを殺したんだ……!」


 クラリスが息を呑んだ。父の言葉が正しいのかどうか、彼女には分からない。それでも母が死に、父は殺人犯にされ、自分も身体を蝕まれ、王都では数え切れないほどの人々が苦しんでいる。そのすべての向こう側に、画面の中で平然と解毒薬を弄ぶ少女の姿があった。


 その時、法映像機から大きな怒号が響いた。二人が画面へ視線を戻すと、広場の空気が明らかに変わっていた。人々はもう悪魔の少女ではなく、その傍らに浮かぶ木箱を見ている。


『九百九十九本……』


 誰かが呟いた。別の誰かが立ち上がり、ふらつく足で箱が降りてくる場所へ歩き始める。それを見た別の人間が、さらに一歩前へ出た。互いの視線が交錯し、ほんの少し前まで同じ苦しみを分かち合っていた者同士の間に、目に見えない緊張が走っていく。


 やがて、一人の男が走り出した。


『俺のだ! 俺が先だ!』


 その一声を境に、広場の均衡が崩れた。誰かが男の肩を掴み、別の誰かがその腕を引き剥がし、さらに後ろから人の波が押し寄せる。病人も、老人も、兵士も、親に抱かれた子供を除けば、動ける者は一斉に同じ場所へ殺到し始めた。


『押すな! 子供がいるの!』


『どけ! 俺の妻が死にかけてるんだ!』


『私の息子に! お願い、一本だけでいいから!』


『うるさい! みんな同じなんだよ!』


 生中継の音声が悲鳴と怒号で埋め尽くされた。転倒した者の上を別の誰かが踏み越え、親しかったはずの者同士が互いの服を掴み、兵士が群衆を止めようとして逆に引き倒される。ほんの数分前まで同じ災厄に苦しむ被害者だった人々が、九百九十九本という数字を与えられただけで、互いを押し退ける敵へ変わっていった。


 クラリスは言葉を失っていた。制服の胸元を握り締めたまま、ただ画面を見つめることしかできない。少女は自分の手で彼らを斬ったわけではない。それでも、たった一つの希望を目の前へ吊り下げるだけで、人間同士が争う状況を作り出してしまった。


 そして画面の上方では、その張本人である少女が逃げようとも、止めようともせず、ただ静かに眼下を眺めていた。漆黒と血紅を幾重にも重ねたドレスの裾が夕暮れの風に揺れ、細い鎖が微かな光を返す。白金の髪の向こうでは、黒と暗紅色の翼がゆったりと開閉していた。人間たちが泣き、叫び、互いを押し退ける地獄の上で、その美しく着飾った小さな姿だけが異様なほど静かだった。


 アーネストの中で、最後に残っていた何かが切れた。


 国を守る勇者として戦ってきた。人々を救うために剣を振るい、何度傷付いても立ち上がり、家へ帰れば妻と娘が待っていることだけを支えにしてきた。その国から殺人犯として追われ、守ろうとした人々は目の前で互いを傷付け、愛した妻はもう帰ってこない。


 そして、そのすべてを嘲笑うかのように、一人の悪魔が空に浮かんでいる。


 アーネストは壁へ立て掛けていた聖剣へ手を伸ばした。鞘ごと掴み取ると、留め具を外して刀身を僅かに抜き、刃に異常がないことだけを確かめる。その動作は長年の習慣そのものでありながら、そこに宿る感情だけは、これまで勇者として剣を抜いた時とはまるで違っていた。


「お父さん……?」


 クラリスが父の背中を見上げた。嫌な予感がした。研究院へ向かった時とも、かつて魔物の討伐へ出掛ける父を見送った時とも違う。今目の前にいる父親は、誰かを救うために剣を取ろうとしているのではない。


「待っていろ、クラリス」


 アーネストは振り返らなかった。視線は法映像機の中にいる悪魔の少女へ向けられたままだった。画面の中では人々の争いが始まり、それを作り出した少女は、異形の翼を背負って空から見下ろしている。


「駄目……」


 クラリスは震える手を伸ばした。父の服へ指先を届かせようとするが、身体へ力が入らない。ベッドから起き上がろうとしただけで膝が震え、肺の奥から激しい咳が込み上げた。


「駄目……! 行かないで、お父さん……!」


 アーネストの足が、一瞬だけ止まった。背後から聞こえる娘の声に、父親として振り返りたいという思いが残っていなかったわけではない。今ここに留まり、たった一人残された娘の傍にいることこそ、本当ならば最も優先すべきことだった。


 それでも、リディアの死に顔が脳裏から離れなかった。画面の向こうでは、また誰かが倒れている。妻を奪ったものも、娘を苦しめているものも、あの空に浮かぶ悪魔へ繋がっている。その考えは、すでにアーネストの中で疑いではなく確信へ変わりつつあった。


「……あいつを、このままにはできない」


「お父さん!」


「リディアを殺して、お前までこんな目に遭わせて……この国まで……」


 そこで言葉が途切れた。アーネストは聖剣を強く握り締める。手の甲に浮かんだ血管がはっきりと見えるほど、指へ力が込められていた。


「必ず、俺が終わらせる」


 クラリスがベッドから身を乗り出した。父へ追い縋ろうとした身体は支えを失い、そのまま床へ崩れ落ちる。濃紺のスカートが床へ広がり、長い茶色の髪が肩から滑り落ちた。肩を強く打ち付けても痛みなど気にならず、彼女は這うようにして扉へ手を伸ばした。


「待って……! お願いだから……! 私を一人にしないで……!」


 その言葉だけが、アーネストの背中へ突き刺さった。彼は扉の前でほんの僅かに動きを止めたが、それでも振り返らなかった。父を求める娘の声を背中に受けたまま、ゆっくりと扉の向こうへ姿を消していった。


 そして、扉は閉じた。


 階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていく。クラリスは床へ倒れたまま、何度も父の名を呼んだ。声は次第に咳へ変わり、最後には掠れた息しか出なくなったが、それでも閉ざされた扉から目を離すことができなかった。


 法映像機だけが、誰も見ていない部屋で生中継を続けていた。


 画面の中では、九百九十九本の解毒薬を巡って人々が争っている。泣き叫ぶ声も、怒鳴り声も、助けを求める声も、一つの巨大な騒音へ溶けていた。その遥か上空には、漆黒と血紅のドレスを纏った小さな悪魔が浮かび、黒と暗紅色の翼をゆっくりと動かしながら、眼下で起きているすべてを静かに見下ろしていた。


 それがかつて、その悪魔自身が夢の中で見た光景だったことを、この場にいる誰も知らない。ましてや、夢でしかなかったはずの光景を、少女自身が現実の王都へ作り上げてしまったことなど、アーネストにもクラリスにも知る由はなかった。


 夕暮れに染まった王都の街路を、アーネストは走っていた。胸の内にあるのは、国を救う使命でも、勇者としての誇りでもない。リディアを奪われ、クラリスを苦しめられ、自分が守ってきたすべてを踏みにじられた男としての、焼け付くような怒りだけだった。


 聖剣を握るその手に、迷いはなかった。長年、人々を守るために振るわれてきたその刃が、今度はたった一人の悪魔を殺すために夕闇の中を進んでいく。妻を失った夫として、娘を奪われかけている父として、アーネストの中に残された感情は、もはや一つしかなかった。


 勇者アーネストは、もう誰かを救うために走ってはいなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


アーネストは、もう「国を救う勇者」として走ってはいません。

妻を失った夫として。

娘を守れなかった父として。

そして、自分からすべてを奪ったと信じた相手を討つために、剣を取りました。


ここから、勇者とリゼルの因縁は決定的なところまで進んでいきます。


次回――

Ver.3 Arrow Chapter 5-2「おかえり、勇者」


引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。

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