Ver.3 Arrow Chapter 4-3 もう彼は、《無価値な王子》ではなかった
前回、王城の地下牢からレザードを救い出したリゼル。
「私が君を欲しかったからだ」
その言葉によって、誰にも必要とされていないと思っていた少年の運命は、少しずつ変わり始めました。
ですが、リゼルが王城へやって来た目的は、まだすべて終わったわけではありません。
そして、崩壊していく王都でも新たな動きが――。
Ver.3 Arrow Chapter 4-3
「もう彼は、《無価値な王子》ではなかった」
今回もよろしくお願いいたします!
追伸 今回はこれまでのレザードのストーリーの中で特に重要なストーリーでしたので、かなり長いストーリーとなりました。
秋の夜長ーーと言うにはまだ早いかもしれませんが、皆様の貴重なお時間を拝借できたら嬉しいです。
王都上空には、いくつもの黒煙が立ち上っていた。交通網が麻痺したことで衝突した車両、管理する者を失った工場設備、制御を失った送電施設。平時であればすぐに処理されるはずの小さな事故が、対応する人間まで倒れたことで次々と大きな被害へ変わり、高層建築の合間から黒煙を吐き続けている。壁面に取り付けられた大型映像表示器では避難を呼び掛ける緊急放送が繰り返されていたが、その映像もところどころで乱れ、通信網そのものが限界へ近付いていることを物語っていた。
幹線道路では自動車が何台も乗り捨てられ、その間で信号機だけが律儀に赤、青、黄色を繰り返している。携帯端末を握ったまま歩道へ座り込み、家族へ連絡を取ろうと何度も発信を繰り返している者もいたが、基地局や通信交換設備で働く人間まで倒れ始めた今、画面に表示されるのは接続不能を知らせる文字ばかりだった。病院の前には救急車が何台も並び、搬入口には患者を乗せた担架が溢れている。それでも医師も看護師も同じ症状に侵されている以上、患者を運び込んだところで治療を受けられる保証など、もはやどこにもなかった。
行政機関は感染症を疑い、医療機関は未知の病原体を疑い、軍は敵対勢力による攻撃の可能性まで視野に入れていた。テレビや携帯端末へ流れる緊急情報も錯綜し、市民へ呼び掛けられる内容は時間が経つたびに変わっている。外出を控えろと言われた直後には医療機関へ向かえという通知が流れ、その医療機関が機能停止したという情報がさらに後を追った。王都全体が巨大な混乱へ沈みながら、それでも誰一人として異変の正体には辿り着けずにいた。
原因は水だった。何の変哲もない水道水として家庭へ、学校へ、病院へ、軍施設へと運ばれた水が、目に見えぬまま人々の身体を蝕み、この巨大都市を内側から食い潰している。しかし、その答えを知る者は王都を救おうとしている側には一人もいない。真相を知る三人の少女たちは、むしろこの惨状を作り出した側にいた。
◇◇◇
王城西翼の上層部から張り出す軍用飛空艇発着場では、一隻の大型飛空艇が、正規の出航手順を半ば無視する形で強引に始動準備へ入っていた。流線型の船体側面には王国軍の紋章が刻まれ、船体後部には四基の大型主推進器、側面には姿勢制御用の補助スラスターが並んでいる。操縦室では航法、機関出力、高度、速度、燃料残量、外気圧、周辺空域を示す複数の表示器が忙しく更新を続けていたが、その上には油圧系統、機関冷却系、姿勢制御系、与圧系統からの警告表示が幾重にも重なっていた。
「右舷第二主推進器、回転数が上がりません……! げほっ、げほっ……吸気圧、規定値の七十八パーセント! 燃焼温度も、まだ安定してません!」
副操縦士が咳き込みながら機関状態表示を切り替えた。言葉を発するたびに喉の奥から湿った音が混じり、最後には口元を押さえた手袋へ赤い飛沫が散った。それでも彼は血を拭う暇すら惜しみ、震える指で操作盤へ触れながら、四基の主推進器から送られてくる数値を追い続けていた。
「補助動力から右舷系統へ迂回給電! 第二推進器の始動シーケンスをやり直せ! 機関室、聞こえるか!」
艦長がインターコムへ怒鳴った。しかし返事はない。数秒遅れて激しい雑音が入り、その向こうから誰かが何度も咳き込む音だけが聞こえてきた。
『……き、機関室……げほっ……こちら、機関主任……。再始動……します……。ですが、冷却液の循環圧が……六十……げほっ、げほっ……』
「循環圧がどうした! 最後まで報告しろ!」
『……ろく……じゅう……』
そこで通信が途切れた。艦長が何度呼び掛けても返事は戻らず、代わりに機関区画の乗員状態を表示していた監視画面から、一人分の生体信号が消えた。操縦室の片隅で短い警告音が鳴り、機関主任の表示が赤色から黒色へ変化する。誰もその意味を尋ねなかった。
「……機関主任、生体反応消失」
通信士が掠れた声で報告した。その直後、男は身体を折り曲げ、激しく咳き込んだ。二度、三度と咳を繰り返したところで大量の血が口から飛び出し、通信卓の表示器と操作盤へ赤い飛沫が散った。
「ぐっ……げほっ……!」
「おい、大丈夫か!」
「だ、大丈夫……です……。通信系統は、生きています……。げほっ……王都中央管制、応答なし……軍用周波数も、救難信号で飽和……しています……」
大丈夫なはずがなかった。通信士の顔色は土気色へ変わり、額からは滝のような汗が流れている。それでも男はヘッドセットを付け直し、血で濡れた操作盤へ再び指を置いた。受信周波数を切り替えるたびに、救難要請、医療支援要請、交通管制からの緊急通報が断片的に飛び込んでくるが、そのどれにもまともな応答は返っていなかった。
航法席でも異変は続いていた。航法士は激しい頭痛に耐えるように片手でこめかみを押さえながら、もう一方の手で慣性航法装置を操作している。衛星測位との同期に何度も失敗し、表示器へ現れる現在位置の誤差が徐々に拡大していた。
「慣性航法装置、誤差拡大……現在位置補正、げほっ……衛星測位へ切り替えます」
「高度計との同期は?」
「完了……しています。電波高度計、正常。気圧高度計との差……許容範囲内……」
航法士は最後まで報告すると、机へ両手をついた。胃の内容物を吐き出すように身体を震わせたが、床へ落ちたのは食物ではなく赤黒い血だった。それでも男は袖で口元を拭い、再び表示器へ顔を向ける。
操縦室にいる乗員のうち、まともな状態の者は一人もいなかった。副操縦士は高熱と呼吸困難、通信士は喀血、航法士は激しい頭痛と眩暈を訴え、火器管制士は座席へ身体を預けたまま何度も意識を失いかけている。機関区画ではすでに死者まで出ており、この飛空艇は離陸する以前から、機体ではなく乗組員そのものが限界を迎えようとしていた。
それでも、出航を中止することは許されなかった。操縦室へ入ってから一度も乗組員を労おうとしなかった男が、艦長席のすぐ後ろまで歩み寄ってくる。次の瞬間、冷たい金属の銃口が艦長のこめかみへ押し付けられた。
「飛ばせ」
その後ろに立っていたのは、ハイエルフの侯爵――エルディオ・レインだった。普段なら寸分の乱れも許さない衣服は埃で汚れ、額には大量の汗が浮かんでいる。それでも彼だけが比較的まともに立っていられるのは、王城に残されていたエリクサーを誰にも分け与えず、すでに何本も自分一人で使用していたからだった。
「聞こえなかったのか。今すぐ離陸しろ」
艦長は銃口を横目で確認したあと、ゆっくりとエルディオへ視線を向けた。恐怖より先に浮かんだのは怒りだった。機関主任はたった今死んだ。操縦室の人間も、いつ誰が倒れてもおかしくない。その一方で、目の前の侯爵の上着からは空になったエリクサーの小瓶が覗いている。
「無理です! 右舷第二主推進器はまだ規定回転数へ達していない! 機関主任も死んだ! この状態で離陸したら、目的地どころか王都上空で墜ちる可能性すらある!」
「なら墜ちないように飛ばせ」
「飛空艇は貴族の馬車じゃない!」
艦長が怒鳴った直後、激しく咳き込んだ。胸を押さえながら身体を折り、床へ血を吐き出す。それでも顔を上げると、再びエルディオを睨みつけた。
「……どこへ行くつもりです」
「西だ」
「西のどこです?」
「ベルガント公国だ。すでに話はついている」
艦長の眉が寄った。そんな話は聞いていない。王国軍所属の飛空艇で国境を越えるなら、軍司令部から航路指定と識別情報が事前に送られているはずだった。
「ベルガント公国……? 越境許可コードも、外交通達も受け取っていませんが」
「表に出せる話ではない。公国政府とは密約がある」
「……密約?」
「国境を越えれば保護される。治療も受けられる。薬もある。お前たちも私を運べば助かる」
乗組員たちの視線がエルディオへ集まった。疑っている者もいれば、信じたい者もいた。自分の身体が急速に弱っている状況では、「助かる」という一言だけでも縋りつきたくなるほどの力を持っていた。
艦長だけは、エルディオの上着から覗いている小瓶を見た。
「……だったら、そのエリクサーを部下に使わせてください」
エルディオの表情が変わった。ほんの一瞬だったが、明らかな拒絶が浮かんだ。残されたエリクサーは、自分がベルガント公国まで生き延びるために必要なものだった。原因不明の病がいつ再び身体を蝕むか分からない以上、一本たりとも他人へ渡すつもりはなかった。
「公国へ着けば必要なくなる。それまで耐えろ」
「……そうですか」
艦長の声から感情が消えた。これ以上何を言っても無駄だと理解したのだろう。エルディオが銃口をさらに押し付けると、艦長は血で濡れた口元を袖で拭い、操縦席へ身体を沈めた。
「副操縦士。第二主推進器を切り離して三基運転へ移行。姿勢制御系を再設定しろ」
「三基で……離陸するんですか?」
「このまま第二の始動を待っていたら、先に俺たちが死ぬ」
「……了解。右舷第二、停止。推力配分再演算……げほっ……姿勢制御補正、入力します」
表示器の警告がさらに増えた。右舷第二推進器の表示が灰色へ変わり、残る三基へ推力が再配分される。左右非対称となった出力を補うため、姿勢制御スラスターが断続的に噴射を始めた。
「補助油圧ポンプ始動!」
「油圧、上昇……主系統、九十一パーセント!」
「係留ロック解除!」
「前部解除! 後部……げほっ……解除確認!」
「慣性航法、固定!」
「固定!」
「高度計同期!」
「同期完了!」
「三基主推進器、推力七十……八十……八十五!」
乗組員たちは咳き込み、血を吐きながら、それでも自分たちの仕事を続けた。機械は命令された通りに作動し、表示器には次々と正常を示す数値が並んでいく。それとは対照的に、その機械を動かしている人間の身体だけが、刻一刻と壊れていった。
艦長が操縦桿を引くと、三基の主推進器から轟音が響き、機体の下方で噴射された姿勢制御スラスターが発着場へ白煙を叩きつけた。大型飛空艇の巨体は左右へ僅かに揺れながらも王城から離れ、死にかけた乗組員たちを乗せたまま、ゆっくりと空へ浮き上がっていく。正常な機械と死にかけた人間たちを乗せた巨大な船は、王都から逃げ出すように西の空へ機首を向けた。
◇◇◇
王城の高層部に設けられた大バルコニーからは、王都のほぼ全域を見渡すことができた。かつてなら、人間界でも有数の大都市が広がっていた場所である。整然と並ぶ建築物の間を自動車が走り、高架鉄道が街を横切り、遠方では飛空艇が決められた航路に沿って行き交っていた。
今は道路に動かなくなった車両が並び、ところどころから黒煙が上がっている。救急車のサイレンも以前より少なくなっていたが、助けを求める者がいなくなったわけではない。助けに向かえる者の方が先にいなくなり始めているのだ。都市はまだ形を保っている。それなのに、その内部を満たしていた人間の営みだけが、少しずつ消えていた。
その変わり果てた景色を見つめているのは、リゼル、メア、メリュジーヌ、そしてつい先ほど王城地下から救い出されたレザードだった。少年はまだ完全に体力を取り戻してはいない。八本ものエリクサーによって《インビジブル・ベイン》そのものは排除されたものの、長時間にわたって高熱と全身痛に苦しめられていた身体が、一瞬ですべて元通りになるわけではなかった。
それでも、自分の足で立てる程度には回復している。地下牢を出る前には、リゼルが再び《インビジブル・ベイン》へ侵されることがないよう、毒への耐性を高める魔法まで施していた。レザードはバルコニーの手摺から少し離れた場所に立ち、先ほどまで自分が閉じ込められていた国が静かに崩れていく様子を、複雑な表情で見つめている。
「身体はどうだ?」
隣に立つレザードへ、リゼルが問い掛けた。少年は自分の手を開閉し、続いて胸へ手を当てる。先ほどまで肺を焼いていた痛みは消えている。喉にも違和感はなく、呼吸をするだけで身体中へ響いていた苦痛も、ほとんど残っていなかった。
「……大丈夫です。少し、身体が重いくらいで」
レザードの声はまだ弱かった。リゼルはその返事を聞きながら、少年の顔色と呼吸を注意深く確かめる。エリクサーの効果そのものに疑いはないが、つい先ほどまで死にかけていたのだから、念を入れすぎるくらいでちょうどいい。
「念のため毒耐性を付与してある。この街の水は飲むな。エリクサーで治した直後にもう一度毒を飲まれたら、さすがの私も困る」
レザードは一瞬だけ目を伏せた。自分が飲んだ水に何が入っていたのか、そこで初めておおよその事情を察したらしい。やがて少年は王都へ視線を向け、それから隣にいる三人を順番に見た。
「……僕が飲んだ水には、毒が入っていたんですか?」
リゼルが答えるより早く、メリュジーヌが申し訳なさそうに眉尻を下げた。普段の柔らかな笑みは残っているものの、レザードが自分の毒で死にかけたことについては、さすがに少し思うところがあるらしい。
「ええ。《インビジブル・ベイン》という、わたくしの呪毒ですわぁ。まさかレザード殿まで王都のお水をお飲みになっているとは思いませんでしたのぉ」
レザードは少し驚いたように、メリュジーヌへ視線を移した。眼下では、いまもその毒によって都市全体が崩壊しつつある。自分も同じものを飲み、ほんの少し救出が遅ければ、地下牢でそのまま命を落としていたはずだった。
「……あなたが、この毒を?」
「ええ。わたくしが作りましたの」
メリュジーヌはそこで胸元へ手を添え、改めて優雅に一礼した。自分の毒によって眼下の都市が崩壊しつつある状況とは不釣り合いなほど、その所作だけは完璧だった。
「申し遅れましたわねぇ。わたくし、メリュジーヌと申します。リゼルちゃんからは、メルと呼ばれておりますのぉ」
レザードは返事に困った。自分を殺しかけた毒を作った少女が、目の前で優雅に自己紹介をしている。しかも、その隣には自分を救うためにエリクサーを何本も使った少女がいて、さらにその後ろには牢へ向かう途中で大量の兵士を斬り伏せたメイドが無表情で立っていた。
「……そう、ですか」
結局、それしか言えなかった。目覚めてからまだそれほど時間も経っていないというのに、理解しなければならないことが多すぎる。自分がなぜ助かったのかさえ完全には飲み込めていない。
リゼルはそんなレザードの様子を見て、少しだけ笑った。
「まあ、詳しい話は後だ。今は――君に渡したいものがある」
その言葉とともに、リゼルは右手を宙へ掲げた。何もなかった空間が波紋のように歪み、その中心へ黒い亀裂が縦に走る。亀裂は徐々に広がり、その向こう側から巨大な箱がゆっくりと姿を現した。
ただし、現れたのは箱だけではなかった。箱の下にあった台座も、そのさらに下に敷かれていた石床も、切り出された時の姿を寸分違わず保ったまま一緒にせり出してくる。箱を動かすことができなかったため、台座と床まで含めた一つの巨大な塊として亜空間へ収納されていたのである。
メアはその光景を見ても驚かなかった。むしろ、現れた石床の切断面へ視線を落とし、そこに残る見覚えのある剣筋を静かに眺めていた。以前、《ザミエル》を収めた箱はリゼル、メア、メリュジーヌの三人がかりでも持ち上がらず、どうやって運ぶか考えた末に、リゼルが出した答えは至って単純なものだった。箱だけを動かせないのなら、箱が置かれている場所そのものを切り取ってしまえばいい。
そのために箱と台座を囲む石床を切り離したのは、他ならぬメアだった。主人に命じられるまま剣を振るい、床を四方から深く断ち切って、一つの巨大な塊として切り出したのである。そして最後にリゼルが、それを床ごと亜空間へ収納した。いま目の前へ現れた石床の縁には、その時にメア自身が付けた切断面が、そのまま残っている。
「……本当に、あのまま出てくるのでございますね」
メアは驚いたというより、妙な感慨を覚えながら呟いた。自分で床を切ったのだから、こうなることは当然分かっている。それでも王城の大バルコニーへ、別の場所から切り取ってきた床の一部が巨大な箱ごと鎮座している光景は、改めて見るとなかなかに異様だった。
「ちゃんと持ってこられただろう?」
リゼルは何が問題なのか分からないという顔で首を傾げた。メアは数秒だけ沈黙したが、確かに主人の言う通りだった。三人がかりでも動かなかったものを、床ごと切り離して亜空間へ収納するという強引極まりない方法ではあったものの、こうして目的地まで無傷で運べている以上、結果だけを見れば何一つ間違ってはいない。
「……左様でございますね」
その横では、メリュジーヌが当時の光景まで思い出したのか、口元へ手を添えて肩を小さく震わせていた。メアが無表情のまま床を切り始め、その横でリゼルが当然のように指示を出していた光景は、今思い返しても相当におかしい。
「ふふっ……あの時、メアさんが床を切り始めた時は、何事かと思いましたわぁ」
「仕方ないだろう、メル。持ち上がらなかったんだから」
「それはそうなのですけれどぉ。床ごと持ち逃げするなんて、リゼルちゃんくらいですわぁ」
リゼルは少しだけ不満そうにメリュジーヌを見た。自分としては、あの場で最も確実な方法を選んだだけだった。そもそも持ち上げることのできない代物をどうやって運ぶのかと考えた結果、動かせないものの周囲までまとめて収納したにすぎない。メリュジーヌからすれば立派な持ち逃げでも、リゼルにしてみれば合理的な運搬方法だった。
「人聞きの悪いことを言うな、メル。置いてきたら勿体ないだろう?」
「否定なさらないのですねぇ」
「持ってきたこと自体は事実だからな」
メリュジーヌはとうとう堪えきれず、くすくすと笑い始めた。メアも表情こそ変えないものの、主人が持ち逃げという部分ではなく言葉の印象にだけ反論したことには気付いている。レザードだけが状況を理解できないまま、床ごと出現した巨大な箱と三人の顔を順番に見比べていた。
重厚な金具で補強された長大な箱は、人間一人なら横たわったまま収まりそうな大きさがあり、表面には古びた文字と複雑な紋様が刻まれている。華美な宝飾品こそ付いていないが、ただの武器を保管するための箱ではないことだけは一目で分かった。
「レザード。こっちへ来てくれ」
呼ばれた少年は、少し躊躇しながらリゼルの隣へ歩み寄った。まだ足元は完全には安定しておらず、メアがいつでも支えられる位置へ一歩だけ移動する。しかしリゼルは急かさず、レザードが箱の前まで来るのを待った。
「……これは?」
「見れば分かる」
リゼルは重厚な留め金へ手を掛け、一つずつ外していった。最後の金具が外れたところで両手を蓋へ添え、そのままゆっくりと押し上げる。重い蓋が開いていき、その中に収められていたものが陽光の下へ姿を現した。
そこに横たわっていたのは、一挺の弓だった。黒紫色の弓身は捻れた茨とも、乾ききった魔獣の骨ともつかない異様な形へ歪み、鋭い棘のような突起が随所から伸びている。優美さよりも禍々しさが先に立つ造形であり、握りの周囲には紫色の宝石にも似た巨大な眼球が埋め込まれていた。
「《ザミエル》だ」
レザードはその名を知らない。それでも、目の前の武器から視線を離すことができなかった。初めて見るはずなのに、胸の奥へ妙な感覚が湧き上がる。まるで自分がここへ来るよりも遥か以前から、この弓だけが自分を待っていたような、不思議な感覚だった。
「……ザミエル」
「そうだ。そして――これは君のものだ」
レザードは弓からリゼルへ顔を向けた。意味が分からなかった。牢獄から助けられたばかりである。それだけでも理解が追いついていないのに、今度は見たこともない魔弓を自分のものだと言われている。
「……僕の?」
「ああ。正確には、私たちにはどうにもできなかった。私とメアとメルの三人で持とうとしても、こいつは動かなかったんだ」
レザードはもう一度を見た。目の前にいる三人がどれほど異常な力を持っているのか、王城をここまで突破してきた痕跡を見れば嫌でも分かる。その三人が、持ち上げることさえできなかった。その事実だけで、箱の中に横たわる弓が尋常な武器ではないことは十分すぎるほど伝わった。
「……それを、僕に?」
「持ってみろ」
レザードはすぐには動かなかった。牢獄で自分が考えていたことが、脳裏へ蘇る。兄たちのようにはなれなかった。父から期待されることもなかった。祖国から切り離され、最後には人間界の牢獄へ放り込まれた。
何もできない。誰にも必要とされない。そんな自分に、目の前の三人がかりでも持ち上がらなかったものを扱えるはずがない。期待されればされるほど、失敗した時にこの少女まで失望させてしまうのではないかという恐怖が、レザードの指先を止めていた。
「……無理だと思います」
小さな声だった。リゼルの表情から笑みが消えたが、怒ったわけではない。むしろ、その言葉が出ることまで分かっていたような顔で、レザードを真っ直ぐ見つめていた。
「レザード」
名前を呼ばれ、少年は顔を上げた。赤紫色の瞳が、真っ直ぐ自分を見ている。そこには憐れみもなければ、できなければ仕方がないという逃げ道も用意されていなかった。
「私を信じろ」
レザードはしばらくリゼルを見つめていた。今日初めて会った少女だった。名前さえ、つい先ほど知った。それなのに彼女は、自分を迎えに来たと言った。自分が欲しかったと言った。そして、自分が死にかけていた牢獄で、目を覚ますまで諦めなかった。
やがてレザードは、ゆっくりと手を伸ばした。指先が《ザミエル》へ触れ、そのまま禍々しい弓身を掴む。閃光もなければ轟音もなく、巨大な魔力が吹き荒れることもなかった。ただ静かに、レザードの指が《ザミエル》へ馴染んでいく。
そして彼が腕を上げると、《ザミエル》は何の抵抗もなく箱から離れた。レザード自身が思わず目を見開き、持ち上げた弓と自分の腕を交互に見るほど、その感触には重さというものがなかった。三人がかりでも動かなかったという話が冗談だったのではないかと疑いたくなるほど、魔弓は少年の手へ自然に収まっている。
「…………え?」
まるで一房の真綿を持ち上げたかのように、腕へ負担らしい負担すら感じない。レザードは信じられないという顔で弓を少し高く掲げ、さらに角度を変えてみた。それでも重量感はほとんど変わらず、自分の手へ吸い付いているとでも言うべき感覚があった。
すると、弓身に埋め込まれた紫色の眼球が動いた。瞳孔がゆっくりと上を向き、自分を握っているレザードの顔を見つめる。少年の金色の瞳と魔弓の紫色の眼がしばらく向き合ったあと、《ザミエル》は一度だけゆっくりと瞬きをした。その眼差しには拒絶も敵意もなく、ようやく待っていた者が現れたことを確かめるような落ち着きがあった。
その様子を見ていたリゼルの眉が、ぴくりと動いた。眼球が動いたことに驚いたわけではない。むしろ見覚えがありすぎた。以前、自分とメアとメリュジーヌの三人で《ザミエル》をどうにか持ち上げようとして、結局一ミリたりとも動かせなかった時、この忌々しい魔弓は眼球だけをこちらへ向け、最後には明らかに嘲笑するように瞼を歪めたのである。
「……お前、私の時と随分態度が違わないか?」
《ザミエル》の眼球が、レザードからリゼルへ動いた。赤紫色の瞳と紫色の眼球が正面からぶつかり、数秒間、互いに微動だにしない。やがて《ザミエル》の瞼がゆっくりと細くなり、眼元だけが以前とまったく同じ形へ歪んだ。
口など存在しない。それでも、その場にいる全員が同じものを見た。声も出さず、表情を作るための顔さえ持たない魔弓が、眼だけで明らかにニヤリと笑ったのである。
「……こいつ」
リゼルのこめかみが僅かに引きつった。その横でメアは何も言わなかったが、前回、床を切り出す羽目になった一部始終を知っているだけに、主人が何に腹を立てているのかも理解している。メリュジーヌだけは堪えきれなくなったのか、口元へ手を添えながら小さく肩を震わせていた。
「ふふっ……やはりリゼルちゃんには、そのお顔をなさるのですわねぇ」
「メル、笑うな。こいつ、絶対に私を馬鹿にしているだろう」
《ザミエル》は何も喋らない。笑い声さえ出さない。それでも眼球だけは感情豊かに動き、リゼルへ向けた瞳を愉快そうに歪ませている。その一方で、レザードが弓身を握り直した途端、すぐにそちらへ眼を向け、今度は何事もなかったように穏やかに瞬きをした。
「……なんだ、その差は」
リゼルが不満そうに呟く一方、レザードは自分の手の中にある魔弓と少女を交互に見比べていた。目覚めてから理解不能なことが立て続けに起きているが、その中でもこれは相当に理解しがたい。少なくとも、自分が持っているこの弓に、かなり面倒な性格があるらしいことだけは分かった。
「メア。矢筒をレザードに渡してくれ」
「承知いたしました」
メアは傍らへ置いていた細長い矢筒を手に取り、レザードの前へ差し出した。黒革を基調とした頑丈な造りで、縁や留め金には精緻な装飾が施されている。そして中へ収められている矢は、一本一本が実用品とは思えないほど豪奢だった。
レザードが一本を慎重に引き抜く。磨き上げられた鏃、寸分の狂いもなく整えられた軸、美しく揃えられた矢羽。そして鏃の根元には、深紅のルビーが惜しげもなくあしらわれていた。
その瞬間、《ザミエル》の眼が大きく見開かれた。瞳孔がルビーの矢へ吸い付き、レザードが試しに右へ動かすと眼球も右へ動き、左へ戻せば律儀に左へ追いかける。先ほどまでリゼルを馬鹿にしていた時とは別の意味で感情が分かりやすく、もはや高価な矢への興味を隠そうとすらしていなかった。
「……これが欲しいのか?」
レザードが尋ねても、《ザミエル》は答えない。ただ、矢から一度も眼を離さなかった。レザードが試しに矢筒へ戻そうとすると瞼が露骨に細くなり、再び引き出せば眼がぱっと開く。
「そいつは選り好みが激しいという文献を読んだ。安物の矢なんか渡してみろ。たぶん、ものすごく嫌そうな眼で見るぞ」
《ザミエル》の眼が一瞬だけリゼルへ向いた。瞼がすっと細くなり、何か言いたげな視線を送ったあと、すぐにルビーの矢へ戻る。その態度だけで、リゼルの説明がほぼ正しいことを自分から証明していた。
「ちなみに、それ一本で魔界の一般家庭の魔族が一年食っていけるくらいの値段だ」
レザードは自分が摘まんでいる矢へ視線を落とした。聞き間違いではないかと思ったのだろう。ほんの少し前まで何気なく持っていた指が、ぴたりと止まる。
「…………一本で?」
「ああ。一本で、だ。無駄にしないでくれよ?」
レザードの持ち方が変わった。それまで普通の矢として扱っていたものを、急に壊れ物でも持つように慎重に支え始める。しかも矢筒の中には、同じようなものがまだ何本も並んでいた。
「……努力します」
レザードが慎重に答えると、《ザミエル》の眼が彼を見上げた。次いで矢を見て、もう一度レザードを見る。どうやら魔弓の方には、節約という概念はなさそうだった。
◇◇◇
飛空艇は王城上空を離れ、三基の主推進器だけで西へ針路を取っていた。左右非対称の推力を補正するため、姿勢制御スラスターが頻繁に噴射し、そのたびに船体へ小さな振動が走る。操縦室では機関警告と乗員の咳が絶えず響き、誰かが血を吐くたびに、別の誰かがその者の担当まで引き継いでいた。
「高度、三百二十……上昇率、毎分百二十……げほっ……針路、西北西二八七……」
「左舷主推進器、排気温度上昇!」
「許容範囲内だ、そのまま維持! 右舷姿勢制御スラスターの噴射間隔を短くしろ!」
「自動補正では追いつきません!」
「手動補正へ切り替えろ!」
艦長は操縦桿を握りながら、何度も視界を瞬かせた。高熱のせいで計器の数字が二重に見える。それでも飛空艇を王都の建築物から離し、少しでも安定した高度へ上げようと必死に操縦を続けていた。
その時、光学監視装置が王城上層部で複数の人影を捉えた。火器管制卓から短い検知音が鳴ったものの、担当者からの報告がない。艦長が横目を向けると、火器管制士は座席へ沈み込み、胸を上下させながら辛うじて意識を保っていた。
「火器管制、応答しろ!」
「……はい……」
「光学センサーが何か拾っている。確認できるか?」
「やります……げほっ……倍率、上げます……」
火器管制士が震える指で操作すると、主表示器の一つへ王城上層部の映像が映し出された。電子補正によって拡大された大バルコニーには、四人の人影が立っている。白金色の髪をした小さな少女、メイド服の少女、金色の瞳をした少女、そして銀白色の髪と長い耳を持つ少年だった。
その映像を見た瞬間、エルディオの顔色が変わった。操縦席の背へ片手をつきながら表示器へ身を乗り出し、何度も倍率の上がった映像を食い入るように確認する。見間違えるはずがない。研究施設から始まり、いまや王都そのものを滅茶苦茶にした連中が、逃げようとしている自分の眼下にいた。
「……あいつらだ」
艦長が苦しそうに振り返った。操縦だけでも手一杯なのに、背後の侯爵が突然何を言い出したのか分からない。エルディオはそんな艦長を無視し、画面の中にいる四人を指差した。
「何です?」
「あいつらだ! 王城へ侵入した魔族どもだ!」
「……それが、どうしたんです?」
「攻撃しろ」
艦長は一瞬、聞き間違えたと思った。今の飛空艇がまともな戦闘機動など行える状態ではないことは、警告表示を一目見れば分かる。ましてや王都から離脱することを最優先にしていたはずのエルディオ本人が、今度は自分から敵へ喧嘩を売れと言い出したのである。
「……正気ですか?」
「火器管制! あのバルコニーを攻撃しろ!」
火器管制士の返事がなかった。エルディオが苛立たしげに振り返ると、男は操作卓へ片手を置いたまま俯いている。肩が一度大きく震え、次いで口から大量の血が溢れ出した。
「ぐ……げほっ……!」
「火器管制!」
艦長が呼び掛けたが、男はもう照準器へ顔を戻すことさえできなかった。何かを言おうと口を動かしたものの声になる前に全身から力が抜け、座席へ深く沈み込む。表示器の端に出ていた生体監視表示から脈拍が消え、警告音が一度だけ鳴った。
「衛生兵!」
「医療班は全員、下層区画で倒れています!」
副操縦士が掠れた声で答えた。その本人も返事の直後に激しく咳き込み、操縦盤へ血を吐きそうになるのを辛うじて腕で受け止めている。数秒後、火器管制士の生体表示が完全に黒へ変わった。
「……火器管制員、死亡」
操縦室に一瞬だけ重い沈黙が落ちたが、エルディオは死んだ男からすぐに視線を外した。彼にとって必要なのは乗組員の生死ではなく、自分をベルガント公国まで運ぶために機体が動き続けることだった。そして今は、それに加えて王城に残る魔族たちを始末することが優先事項へ加わった。
「兵装統制を別席へ移管しろ」
艦長は耳を疑った。火器管制士が目の前で死んだばかりだというのに、侯爵が口にしたのは悼む言葉でも撤退の指示でもない。空席になった仕事を別の人間へ押し付けろという命令だった。
「……何?」
「聞こえなかったのか。兵装統制を副操縦席へ移管して、あいつらを撃て」
艦長が操縦席から半ば振り返った。その瞬間、胸の奥から込み上げたものに耐えられず、口元を押さえて激しく咳き込む。指の隙間から血が溢れたが、それでもエルディオから目を逸らさなかった。
「ふざけるな! 右舷推進器は一基停止! 姿勢制御は手動補正! 航法士も通信士も死にかけてる! 今度は副操縦士に操縦補助と火器管制を同時にやらせる気か!」
「そう言っている」
「部下が死んでいるんだぞ!」
「なら、次はお前が死ぬか?」
エルディオが拳銃を艦長へ向けた。操縦室が静まり返り、残ったのは機械の警告音と、誰かが苦しそうに咳き込む音だけだった。艦長はしばらく侯爵を睨み続けていたが、背後ではまた一人、乗組員が激しく咳き込みながら床へ膝をついている。
「……副操縦士。兵装統制をこちらへ回せ」
「艦長……」
「やれ。ここで撃たれたら、操縦する人間までいなくなる」
副操縦士は歯を食いしばった。やがて血の付いた指で表示器を切り替え、空席となった火器管制席から兵装系統を自分の端末へ移管する。操縦補助表示の横へ火器管制画面が展開し、照準情報と兵装残数が次々と表示された。
「兵装統制……移管完了。光学追尾、王城上層部へ固定……げほっ……目標捕捉」
エルディオは表示器へ映るリゼルたちを睨んだ。
「攻撃しろ」
◇◇◇
王城のバルコニーで、メリュジーヌが最初に飛空艇の異変へ気付いた。遠ざかっていたはずの機体が僅かに旋回し、その側面の兵装区画が開いている。彼女は目を細めると、すぐにリゼルの袖を軽く引いた。
「リゼルちゃん。あちらをご覧になって」
「ん?」
リゼルが振り返る。メアも同じ方向へ視線を向けた。レザードの手の中では、《ザミエル》の眼球までが飛空艇を追うように動いている。
次の瞬間、飛空艇側面から光が走った。遠方で白煙が膨らみ、複数の飛翔体が王城へ向かってくる。メアが即座に主人の前へ半歩出たが、リゼル自身は迫ってくる攻撃を眺めても眉一つ動かさなかった。
「お嬢様。こちらを狙っております」
「ああ。見れば分かる」
リゼルは慌てなかった。むしろ遠ざかりながら攻撃まで仕掛けてきた飛空艇を見て、呆れたように小さく息を吐いた。
「逃げるだけでも気に入らないのに、わざわざ撃ってくるのか」
メリュジーヌが飛来する弾頭を眺めながら、首を傾げた。
「どういたしますの、リゼルちゃん?」
「どうもしない」
メリュジーヌが不思議そうに瞬きをした。リゼル自身が防ぐ気もなければ、メアさんや自分へ迎撃を命じる様子もない。けれど、その赤紫色の瞳が隣に立つ少年へ移った瞬間、メリュジーヌはこの小さな悪魔が何を考えているのかを察した。
「あらぁ……そういうことでございますのねぇ」
「そういうことだ」
リゼルはレザードを見た。少年はまだ《ザミエル》を手にしている。その眼もまた、接近する攻撃ではなく、その向こうにいる飛空艇そのものをじっと睨んでいた。
「……逃げる気か。ちょうどいい」
リゼルの翼が大きく広がった。白金色の髪が巻き起こった風に揺れ、一度大きく翼を羽ばたかせると、小さな身体が石床から浮き上がる。
もう一度翼を打ち、リゼルはレザードの背後へ回った。そのまま少年と目線の高さが揃うところまで身体を浮かせ、背後から同じ景色を見つめる。レザードの正面には飛空艇があり、リゼルの正面にも同じ飛空艇がある。そして《ザミエル》の紫色の眼もまた、二人とまったく同じ標的を見据えていた。
リゼルは背後から左腕を伸ばした。小さな手のひらが、レザードの左頬へそっと触れる。突然の感触に少年の身体が僅かに強張ったが、リゼルは手を離さず、そのまま耳元へ顔を寄せた。
「さぁ、レザード。君の存在価値を私に証明してくれ」
命令というには静かだった。励ましというには、あまりにも危険だった。リゼルは少年の頬へ手を添えたまま、飛空艇を見つめている。その赤紫色の瞳には迷いも、慈悲もない。ただ、自分が選んだ少年なら必ずできるという、歪なほど純粋な確信だけが宿っていた。
牢獄で自分には価値がないと思っていた少年へ、彼女は優しい慰めの言葉を与えなかった。代わりに、自分にしか扱えない武器を与えた。そして、その力を使って自分自身の価値を証明してみせろと要求した。
「ここで殺しの童貞は捨てていくんだ、レザード」
レザードはすぐには答えなかった。目の前の飛空艇には人間がいる。自分が矢を放てば、その中にいる誰かが死ぬ。今までレザードは、王族として生まれながら戦場へ出ることもなく、自分の手で誰かの命を奪った経験など一度もなかった。
牢獄の中で死を待っていた自分と、今ここで誰かの生死を握っている自分。その二つがあまりにも違いすぎて、頭の中でうまく繋がらない。それでも頬にはリゼルの手があり、手の中には自分にしか持ち上げられなかった《ザミエル》がある。そして背後には、無価値だったはずの自分を欲しいと言った少女がいた。
レザードは一度だけ目を閉じた。ほんの僅かな時間、自分の中に残っている迷いと向き合う。そして再び瞼を開いた時、その金色の瞳は遠ざかる飛空艇を真っ直ぐ捉えていた。
「………………はい、リゼルさん」
レザードは《ザミエル》を構えた。初めて構えたはずなのに、身体が動きを知っているかのようだった。左腕を伸ばして禍々しい弓身を支え、先ほどメアから渡された矢筒へ右手を伸ばす。
引き抜いたのは、一本で魔界の一般家庭が一年暮らせるというルビー装飾の矢だった。レザードがそれを番えた瞬間、《ザミエル》の紫色の眼が大きく見開かれる。瞳孔は一度だけ矢を確認すると、すぐに遥か彼方を飛ぶ飛空艇へ向き直り、その眼元が楽しげに歪んだ。
レザードが弦を引く。《ザミエル》の弓身を走る紫色の紋様が淡く輝き始め、番えられた矢へ魔力が流れ込んでいく。ルビーがその魔力を受けて深紅の光を宿し、弓と矢と射手が一つへ繋がっていった。
リゼルはレザードの頬から手を離した。もう支える必要はなかった。少年の指から震えは消え、金色の瞳は遠ざかる飛空艇だけを捉えている。
そして彼が指を開いた瞬間、張り詰めていた弦が震え、《ザミエル》の魔力を纏った一矢が王都上空へ解き放たれた。深紅のルビーを抱いた矢は、もはや普通の弓矢とは比較にならない速度で空気を穿ち、飛空艇へ向かって一直線に飛翔していく。放たれた直後、《ザミエル》の眼はその軌道を追いながら愉快そうに細められていた。
◇◇◇
飛空艇の操縦室では、副操縦士の眼前に高魔力反応を示す警告が出現し、甲高い警報音が鳴り響いた。先ほどバルコニーへ向けて攻撃を放った直後、今度は王城側から何かが猛烈な速度で接近している。火器管制士はすでに死んでいるため、副操縦士が操縦補助と迎撃管制を同時に行わなければならず、血に濡れた指が二つの操作系統を忙しく行き来していた。
「高魔力反応! 正面下方より高速接近! 速度……測定不能! げほっ……小型目標! 距離、一四〇〇! 一二〇〇! 接近が速すぎます!」
艦長が警告表示を確認する。光学追尾装置が捉えた映像は、あまりの速度によって輪郭すらまともに表示できていない。それでも、その中心にある細長い物体が先ほどのバルコニーから放たれたものであることだけは分かった。
「自動防御系へ回せ!」
「識別できません!」
「識別なんか後だ! 脅威判定を手動で敵性へ変更しろ!」
「了解……!」
副操縦士が震える指で敵性指定を行った。直後、船体側面の近接防御システムが自動的に旋回し、接近物へ照準を合わせる。しかし射撃解が表示された時には、対象はすでに最初の迎撃範囲を突破していた。
「近接防御、追尾間に合いません!」
「迎撃弾を使え!」
「誘導シーカー、ロック……げほっ、げほっ……ロック完了!」
「撃て!」
飛空艇側面の兵装区画が開いた。内部の発射装置が自動的に標的を追尾し、小型迎撃ミサイルが一発、白い噴煙を引きながら射出される。
ミサイルは機体から離れるとすぐに姿勢を変え、《ザミエル》から放たれた矢へ正面から向かっていった。二つの飛翔体は互いに猛烈な速度で距離を縮め、王都上空で真正面から衝突する。
巨大な火球が空中へ膨れ上がった。迎撃ミサイルの弾頭が炸裂し、轟音と衝撃波が空気を揺らす。爆炎が急速に膨張して周囲へ黒煙を撒き散らし、操縦室の乗組員たちは、その光景を見て迎撃に成功したと思った。
「迎撃……成功……?」
副操縦士が荒い呼吸を繰り返しながら呟いた。しかし、警報音は止まらない。表示器上の高魔力反応も消えておらず、むしろ爆炎の中心からこちらへ向かって一直線に接近し続けていた。
「違う! 反応健在!」
艦長が叫んだ直後、膨れ上がった炎の中心が割れた。赤橙色の火炎を引き裂き、一本の矢が姿を現す。その速度はほとんど落ちておらず、迎撃ミサイルを正面から貫き、その爆発さえ突き抜けてきたことを、乗組員たちは遅れて理解した。
「そんな……」
副操縦士の声に答える者はいなかった。矢はすでに飛空艇の目前まで迫っている。回避する時間も、二発目の迎撃弾を発射する時間も残されていなかった。
次の瞬間、強化された正面窓が内側へ弾け飛んだ。無数の破片が操縦室へ飛び込み、乗組員たちが反射的に顔を庇う。そのガラス片よりも速く、一本の矢が室内を一直線に突き抜けていった。
その直線上に、エルディオ・レイン侯爵がいた。彼が何かを理解する時間はなかった。ベルガント公国へ逃げることも、残されたエリクサーを使うことも、自分が生き延びた後のことを考えることも、もう二度とない。
《ザミエル》から放たれた矢は正面窓を貫いた勢いをほとんど失わないまま操縦室を横切り、エルディオの額へ吸い込まれた。深紅のルビーをあしらった鏃が一瞬で頭部を貫通し、侯爵の身体は衝撃に押されるように大きく仰け反る。握っていた拳銃が指から滑り落ち、硬い床へぶつかって乾いた音を立てた。
ほんの少し前まで自分だけは助かると信じ、部下へ一本のエリクサーすら渡そうとしなかった男が、そのまま操縦室の床へ崩れ落ちた。ベルガント公国との密約が本当に存在したのか、それとも死にかけた乗組員を従わせるための嘘だったのか、それを説明できる者ももういない。エルディオ・レイン侯爵は、王都から逃げ切ることすらできずに絶命した。
しかし、操縦室に残された者たちには、エルディオの死を気にする余裕すらなかった。正面窓の破損によって外気が激しく吹き込み、与圧低下、前方視界異常、姿勢制御異常を知らせる警告が次々と重なっている。さらに艦長自身も限界へ達しつつあり、操縦桿を握ったまま激しく咳き込んだ。
「げほっ……くそ……姿勢を……戻せ……!」
「艦長、右舷補助スラスター応答しません!」
「左舷を絞れ! 推力差で機首を――」
艦長の言葉が途中で途切れた。胸を大きく震わせた直後、口から大量の血が溢れ、操縦桿を握っていた右手から力が抜ける。身体が横へ傾き、そのまま座席へ崩れ落ちた。
「艦長!」
副操縦士が操縦桿へ手を伸ばした。しかし、その本人も高熱と喀血によって意識が朦朧としている。視界は滲み、警告表示の文字すらまともに読み取れない。
「姿勢角……右……二十七……いや、三十一……。高度……低下……」
航法士が必死に数値を読み上げた。だが、その声も次第に弱くなる。最後には操作盤へ額を預けるように倒れ、そのまま動かなくなった。
「航法士! おい!」
副操縦士が呼び掛けても返事はなかった。大型飛空艇は大きく右へ傾きながら、高度を失い始めている。三基だけで運転していた主推進器の推力バランスは崩れ、姿勢制御を担う人間も次々と意識を失っていった。
機械だけは最後まで正常に仕事を続けようとしていた。自動警報は異常箇所を知らせ、飛行制御装置は可能な範囲で姿勢を戻そうと補正を試み、衝突警報装置は前方の高層建築物を検知してけたたましい警告音を鳴らし続ける。しかし、どれほど正確に異常を知らせようとも、その警告へ対応できる人間がもう残っていなかった。
傾いた船体が高層建築の上部へ接触した。外壁とガラスを削り取りながら大量の破片を撒き散らし、飛空艇はなおも止まらない。そのまま隣接する建物へ船体側面から突っ込み、折れた構造材と外壁を巻き込みながら高度を落としていく。
推進器の一基が破損し、漏れ出した燃料へ火が回った。炎は船体後部から内部へ走り、残された燃料と弾薬へ次々と引火していく。巨大な爆発が王都の一角を呑み込み、膨れ上がった火球から衝撃波が走った。
周囲の建物の窓ガラスが一斉に砕け、崩れた外壁が車道へ落下して乗り捨てられていた車両を押し潰した。そこから上がった炎がさらに隣の車両へ燃え移り、ただでさえ呪毒によって機能を失いつつあった街へ、新たな火災と混乱が広がっていく。
逃げようとしていた人間もいた。倒れた家族を運ぼうとしていた者も、病院へ向かおうとしていた者もいた。彼らの頭上へ燃え盛る残骸と建材が降り注ぎ、すでに《インビジブル・ベイン》によって崩壊寸前だった王都へ、さらに大きな惨事が加えられていった。
◇◇◇
その光景を、レザードは見ていた。《ザミエル》を構えた姿勢のまま、しばらく動くことができなかった。遠く離れた場所では巨大な炎が空へ上がり、墜落した飛空艇の残骸が建物を巻き込みながら燃え続け、黒煙がゆっくりと王都の空へ広がっていく。
自分が放った矢だった。あの火災も、墜落も、その始まりに自分がいる。飛空艇の中に何人いたのかも、墜落した場所に何人いたのかも知らないが、自分が狙った人間以外まで巻き込まれたことだけは、遠目にも理解できた。
レザードの指先が震えた。それでも、《ザミエル》だけは落とさなかった。牢獄で死を待っていた少年の手に、今は一つの街へ巨大な傷跡を残すほどの武器が握られている。先ほどまで、自分には何の価値もないと思っていた。誰にも必要とされず、そのまま死ぬのだと思っていた。
その手の中で、《ザミエル》の眼球がゆっくりと動いた。遠方で燃え上がる飛空艇の残骸を眺め、次にレザードの顔を見上げる。紫色の瞳は一度だけ満足そうに細くなり、眼元が僅かにニヤリと歪んだあと、眠りにつくように静かに瞼を閉じた。
どうやら、一本で魔界の一般家庭が一年暮らせるほどの矢は、お気に召したらしい。射手の方はその値段を聞いて青ざめていたというのに、魔弓には節約する気など微塵もない。そのあまりに図太い態度を見れば、リゼルが以前この弓に腹を立てたのも無理からぬことだった。
その直後、レザードの頬へ柔らかな感触が触れた。少年が目を見開く。リゼルが、彼の頬へほんの一瞬だけ小さく口づけていた。
それは一瞬触れただけの、ごく短いものだった。リゼルはすぐに顔を離すと、翼を小さく動かしてレザードと同じ高さへ留まり、少年の顔を満足そうに見つめる。彼女の背後では王都が燃え、黒煙が上がり、飛空艇の残骸が崩れ、遠くから新たな警報音まで聞こえてきていた。
それほどの惨事を背負う光景を背後にしながら、リゼルの視線は一度もそちらへ戻らなかった。今この少女が見ているのは、燃え上がる王都でも、死んだ侯爵でもない。自分が見つけ、自分が救い、自分が魔弓を与え、そして初めてその力を振るった少年だけだった。
「素敵だったよ、レザード」
その一言に、レザードは何も言えなくなった。牢獄では無価値だった。誰にも必要とされなかった。自分が死んでも、誰も困らないと思っていた。
それなのに今、自分にしか持てない武器を手にしている。リゼル、メア、メリュジーヌの三人がかりでも動かなかった《ザミエル》が、自分の手の中では真綿のように軽かった。そればかりか、眼球を持ち、明確な好悪まで示す禍々しい魔弓そのものが、まるで当然のように自分を受け入れている。
そして、自分が放った一矢を見て、自分を欲しいと言った少女が満足そうに笑っている。善いことをしたとは、レザード自身にも思えなかった。燃え上がる街を見れば、自分の一矢によって狙った相手以外まで巻き込まれたことくらい分かる。それでも、自分には何もないという思いだけは、もう以前と同じ形では胸の中に存在できなくなっていた。
レザードは頬へ残った感触を確かめるように僅かに目を伏せた。やがて白金色の少女へ視線を戻した時、その頬にはほんの少しだけ赤みが差していた。
「………………はい、リゼルさん」
レザードの手の中では、《ザミエル》がすっかり満足したように眼を閉じていた。誰にも必要とされず、王城の地下牢で死ぬはずだった一人の王子は、自分には何の価値もないと信じ、そのまま誰にも知られず消えていくはずだった。
けれど今、その手には自分だけが扱うことのできる魔弓がある。そして傍らには、自分を欲しいと言い切り、その価値を疑うことすらしなかった少女がいる。それが救いだったのか、それとももっと深い場所へ踏み込む最初の一歩だったのか、今のレザードにはまだ分からない。
ただ、王城の地下で死を待っていた時とは、もう何もかもが違っていた。父にも、兄たちにも、祖国にも見出されなかったものを、出会って間もない少女と、眼球を持つ禍々しい魔弓だけが当然のように認めている。その事実は、これまでレザード自身が抱いてきた自分への評価を、否応なく塗り替え始めていた。
王城の地下牢で、誰にも知られず消えていくはずだった少年。その手には今、《ザミエル》がある。そしてその傍らには、彼を必要とする者がいる。
もう彼は、《無価値な王子》ではなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
誰にも必要とされず、王城の地下牢で死を待っていたレザード。
そんな彼を選んだのは――
家族でも、祖国でもなく。
一人の少女と、千年ものあいだ誰一人として使い手を認めなかった魔弓でした。
この一矢を境に、レザードの立場も、彼自身の人生も大きく変わっていきます。
そして王都では、勇者アーネストとクラリスを巡る物語が、いよいよ最悪の地点へ向かいます。
次回――
Ver.3 Arrow Chapter 5-1「勇者は、もう誰も救わない」
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。




