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Ver.3 Arrow Chapter 4-2 私が君を欲しかったからだ

ここまで、それぞれの場所で進んできた物語。


静かに壊れていく王都。


運命を大きく狂わされ始めたクラリスとアーネスト。


そして、誰にも必要とされていないと思いながら、王城の地下で意識を失ったレザード。


今回は、そんな彼らの物語がさらに大きく動き始めます。

 王都の中心に聳える王城は、これまで幾度となく戦乱を見下ろしてきた。人間同士の戦争、王位を巡る内乱、魔物の大発生。遠い昔には魔族の軍勢が王都近郊まで迫ったことさえあったが、それでも白灰色の城壁と巨大な尖塔だけは変わらずそこにあり続け、歴代の王たちは増築と改修を重ねながら、その防備をより強固なものへ作り替えてきた。石の一つ一つに刻まれた紋章は風雨に晒されて薄れながらも、いまだこの国の歴史そのものを物語っている。


 外郭には幾重もの防壁が築かれ、正門へ続く広場は敵軍を正面から迎撃できるよう広く取られている。近代に入ってからは銃火器や法術兵器まで防衛設備へ組み込まれ、王国の民にとって、あの城が立っていること自体が、この国がまだ滅びていない証でもあった。王都がどれほど混乱しようとも、最後まで王城だけは残る。それが、この国に暮らす人々が半ば無意識に抱いてきた信仰に近い安心感だった。子供たちは絵本の挿絵に描かれた王城を見て眠りにつき、老いた者たちは若い頃から変わらぬその威容に安堵してきた。


 だが、その日の王城には、国家の威信を象徴するような勇壮さなど残っていなかった。正門前に整列しているはずの近衛兵は半数以上が姿を消し、残された者たちも壁へ身体を預けなければ立っていられない。城門脇の衛兵詰所では甲冑を身につけたまま机へ突っ伏している兵士がいて、中庭には患者を収容するための天幕が急造されている。しかし、患者を治療するはずの法術師まで高熱と激しい咳に襲われ始め、運び込まれた者たちを寝かせる担架だけが石畳の上へ置き去りにされていた。誰かが水を求めて手を伸ばした形跡があったが、それに応える者はもういない。


 昨日まで何百人もの官僚、使用人、騎士、兵士、貴族たちが行き交っていた王国中枢は、巨大であることそのものが不気味に感じられるほど静まり返っている。開け放たれた執務室には書類が散乱し、途中まで運ばれていた荷物が廊下へ放置され、誰かが落としたらしい剣まで壁際へ転がっていた。人間だけが突然消えてしまったような光景だったが、実際には消えたわけではない。歩けなくなり、働けなくなり、次々と倒れていっただけだった。


 それでも、全員が倒れたわけではなかった。まだ歩ける者がいて、まだ武器を握れる者がいて、家族の安否すら分からない状況で、それでも自分が何者なのかを忘れていない者たちがいた。王城を守る騎士や王国軍の兵士たちは発熱に苦しみ、肺を焼かれるような咳に襲われ、中にはすでに血を吐きながら、それでも銃や剣を手に持ち場へ戻っていた。死にかけているからといって、王城を明け渡してよいと教えられた軍人など、一人もいなかったからだ。


 その彼らの前へ、三人の少女が現れた。


     ◇◇◇


 先頭を歩く最も小さな少女が、王城を見上げた。


 淡い白金色の髪を風に揺らし、背中から堕天使族特有の翼を覗かせた六歳の少女――リゼル・ノクス・ヴァルクロアは、人間界最大級の城塞を前にしているというのに、赤紫色の瞳に恐怖も緊張も浮かべていなかった。むしろ建物の高さや城壁の構造を興味深そうに眺め、時折視線を左右へ動かしている様子は、初めて訪れた観光地を見物している子供にすら見える。石畳を踏む小さな靴音だけが、静まり返った広場に妙にはっきりと響いていた。


 その右後方には、メア・ナイトが控えていた。主人より少し年上の夜魔族の少女は、リゼルとは対照的に周囲への警戒を怠っていない。正門、城壁上の狭間、左右の監視塔、閉ざされた窓、そのさらに奥へと視線を静かに巡らせながら、生き残っている人間の気配を一つずつ拾っている。腰には使い慣れた剣があり、いつでも抜ける位置へ右手を添えていた。歩調は主人に合わせて緩やかだったが、視線だけは一瞬たりとも止まらない。


 左側を歩くメリュジーヌは、魔鞭《ヒュドラー》を手にしていた。彼女自身が王都へ放った《インビジブル・ベイン》の影響など当然受けておらず、金色の瞳にも疲労の色はない。むしろ城壁にほとんど兵士が並んでいないことが気に入らないらしく、巨大な王城を見上げながら少し残念そうな表情を浮かべている。指先で鞭の柄を弄びながら、彼女は唇を尖らせた。


「随分と寂しいですわねぇ。王城ですから、もっと大勢の騎士様がお出迎えしてくださるものと思っておりましたのに」


 メリュジーヌの声には、皮肉よりも本物の落胆が混じっていた。リゼルは彼女を一瞥したあと、正門脇に倒れている兵士へ目を向ける。男はまだ生きているらしく、甲冑を着たまま横向きに倒れ、胸を大きく上下させながら時折激しく咳き込んでいた。腰には剣も残っているが、それを抜くどころか、こちらへ顔を向ける力さえ残っていない。指先だけがかすかに震え、石畳を掻こうとしては力なく止まる。


「メル。お前が歓迎してくれる下等生物を先に減らしたのだろう?」


 メリュジーヌは目を丸くした。正門前で倒れている兵士を見て、次に城壁へ身体を預けながら銃を構えている男を見て、最後に自分の手の中にある《ヒュドラー》へ視線を落とす。しばらく本気で考え込んでいたが、ようやく因果関係へ思い至ったらしく、少女は小さく首を傾けた。


「あらぁ……言われてみれば、その通りですわねぇ。せっかくの王城でしたから、少し残念ですわぁ」


 二人のやり取りを聞きながらも、メアだけは笑わなかった。主人がどれほど強大な存在であろうと、主人を守ることと主人自身が強いことは、彼女の中では別問題である。城壁上部の狭間、監視塔の窓、正門脇に設けられた防御陣地へ視線を巡らせるうち、いくつもの銃口が自分たちへ向けられていることを確認した。指先が剣の柄を確かめるように一度だけ握り直される。


 兵士たちは今にも倒れそうだった。それでも引き金へ指を掛けている。さらに奥では、軍服姿の男が部下二人に身体を支えられながら立ち上がり、拡声用の法具を受け取っていた。男は一度激しく咳き込み、口元へ当てた手袋を血で汚しながら、それでも法具を口元へ近付ける。額には脂汗が浮き、目の焦点さえ怪しかったが、その声だけは軍人としての矜持を保っていた。


「そこで止まれ! ここより先は王国軍の管理区域である! 所属と目的を明らかにしろ!」


 増幅された声が城壁から降り注いだ。病人とは思えないほど強い声だったが、最後の方では僅かに掠れている。男は発熱のせいで視界さえ定まっていなかったが、それでも三人から目を逸らそうとしない。その背後でも、兵士たちが震える腕で銃を構え直していた。


 リゼルは足を止め、どう答えるべきか本気で考えるように少しだけ首を傾げた。人間界の王城へ無断で入ろうとしている以上、所属と目的を尋ねられること自体は、黒瀬真璃亜の常識から考えれば極めて正常な対応だった。とはいえ、ここまで来て律儀に訪問目的を説明して通行許可を求めるつもりもない。


「……メア。私は名乗るべきなのか?」


 メアは質問を受けて僅かに考えた。一般論で言えば名乗るべきなのだろう。しかし、ヴァルクロア大侯爵家の令嬢が、主人を銃で狙っている人間へ律儀に身分を説明する必要があるかという問題になれば、彼女の答えは最初から決まっている。


「いいえ、お嬢様。その必要はございません」


 リゼルは今度はメリュジーヌへ顔を向けた。突然意見を求められたメリュジーヌは少し楽しそうに微笑み、《ヒュドラー》の柄を両手で持ち直した。どうやら彼女も、人間側との交渉を始めるつもりはないらしい。


「私も必要ないと思いますわぁ」


 リゼルは二人の顔を順番に眺め、満足そうに頷いた。三人の意見は一致したらしい。そこで改めて城壁を見上げると、わざわざ声を張り上げることもなく、普段と変わらない調子で答えた。


「だそうだ」


 城壁上の指揮官の顔が引き攣った。所属不明の魔族らしき三人組が王城へ近付き、停止命令には従ったものの、名乗ることを仲間内で相談した挙句に拒否したのである。交渉の余地がないというより、自分たちの警告そのものが真面目に扱われていない。


「……警告はしたぞ。それ以上進むなら、敵対行為と見做す!」


 指揮官は震える右腕を持ち上げた。肺の奥から込み上げる咳を必死に飲み込み、三人へ照準を合わせている部下たちを見回す。中には恐怖で指が震えている若い兵士もいた。それでも誰一人、銃を下ろさなかった。


 リゼルは一度だけ自分の足元へ視線を落としたあと、何の躊躇もなく前へ踏み出した。小さな靴が石畳を叩く音を聞いた指揮官は一瞬だけ目を閉じ、次に開いた時には軍人としての迷いを消していた。振り上げていた腕を勢いよく下ろし、残された兵士たちへ命令を叩きつける。


「撃てぇぇぇッ!」


     ◇◇◇


 王城前広場の静寂が、無数の銃声によって一瞬で粉々になった。城壁の狭間、左右の監視塔、正門脇に設けられた防御陣地。それまで息を潜めていた兵士たちが一斉に引き金を引き、無数の銃弾が三人へ殺到する。硝煙が白灰色の城壁を覆い隠し、照準を外れた弾丸が石畳を抉って火花と細かな石片を撒き散らした。銃声の連なりは、まるで一つの生き物の唸り声のように広場全体を震わせている。


 リゼルもメリュジーヌも動かなかった。動いたのはメアだけだった。主人の半歩前へ滑り込むように身体を移し、腰に佩いていた剣を抜き放つ。大仰な構えは取らず、魔法を使うこともなければ、何か特別な剣技を繰り出すわけでもない。彼女に必要なのは、主人へ届こうとするものを一つずつ排除する、それだけだった。


 最初の一発が顔面へ届く寸前、メアは手首を僅かに返した。刃の腹と弾丸が触れ、甲高い金属音とともに軌道が逸れる。続く二発目には剣先を合わせ、三発目には刃を斜めに滑らせて上方へ逃がした。その後も金属同士がぶつかる音と火花が連続し、右から飛んできたものを斬り上げ、正面から来たものを剣身で逸らし、僅かに屈んだ姿勢から手首を返して次の一発を弾いていく。淡々とした所作の連続は、まるで長年繰り返してきた家事の一つであるかのように滑らかだった。


 リゼルは最初こそ感心して眺めていたが、十数発を越えたあたりで別の感情が勝ってきた。メアなら銃弾程度、普通に避けられる。それを律儀に一発ずつ剣で弾いている。その光景が、彼女の中でどこか懐かしいような、うまく言葉にできない連想を引っ張り出してきた。


「……メア。いちいち下等生物のおもちゃを剣で弾く必要はないぞ。そんなもの、お前なら普通に避けられるだろう」


 主人から声を掛けられたメアは、剣を止めることなく僅かに顔だけを向けた。その間にも二発の弾丸が飛来したが、一発を上へ、もう一発を横へ弾き、続いて主人へ向かっていた三発目まで剣先で逸らす。やがて銃撃が一旦途切れると、メアは剣を下ろして主人へ向き直った。


「いいえ、お嬢様。ヴァルクロア家のメイドたるもの、この程度ができなくてどうします?」


 リゼルは数秒ほど黙って彼女を見た。硝煙が漂い、弾丸に削られた石畳から細かな埃が立ち上っている。その中央で剣一本を手に平然と立ち、大侯爵家のメイドなら銃弾くらい剣で弾けて当然だという顔をしている少女を見て、とうとう前世由来の言葉を我慢できなくなった。


「お前は一体、どこの戦闘メイド伝説だよ……」


「……戦闘メイド伝説、でございますか?」


 メアの眉が僅かに動いた。聞き覚えのない言い回しだった。主人が時折口にする、要領を得ない言葉の一つなのだろうとは思いながらも、意味までは分からず、彼女は小さく首を傾げた。


「いや、何でもない。忘れてくれ」


「承知いたしました」


「そこは少しくらい気にしろよ……」


 あまりにも素直な返答にリゼルが肩を落とす。横で聞いていたメリュジーヌも、話の要領を掴めなかったらしく、金色の瞳を瞬かせながら小さく首を傾げていた。二人とも、いまいち意味の分からない主人の言葉に首を捻るばかりで、それ以上深く尋ねようとはしない。王城守備隊にとっては命を賭けた戦闘であるにもかかわらず、侵入者たちは銃撃の最中に緊張感のないやり取りを交わしている。その光景こそが、銃弾を弾かれた事実以上に兵士たちへ絶望を与えていた。城壁の上では、指揮官が言葉を失ったまま、双眼鏡を握る手を震わせていた。


     ◇◇◇


 それでも王城守備隊は武器を捨てなかった。正門脇では、まだ歩ける兵士たちが数人がかりで大型の対魔兵器を引き出し、城門前へ据え付けていく。一人は途中で激しく咳き込み、別の兵士に肩を貸されながらようやく立っていた。もう一人は鼻から血を流していたが、それを拭う暇さえ惜しんで照準器へしがみついている。重々しい車輪の音が石畳へ響き、砲身の影が三人の足元まで伸びた。


「対魔重砲、照準!」


 大型火器の砲口がゆっくりと動き、リゼルへ向いた。その様子を見て、赤紫色の瞳が少しだけ輝く。黒瀬真璃亜だった頃の知識が、見慣れない異世界製兵器の用途をおおよそ理解させた。


「ほう……今度は随分と大きなおもちゃを出してきたな」


「先ほどの″じゅう″とやらより強いのですの?」


「まあ、バズーカみたいなものだな。下等生物が遠くの相手を吹き飛ばすためのおもちゃだ」


 メリュジーヌが「ばずーか」と小さく復唱している間にも、砲手は照準器を覗き込んでいた。指揮官が腕を振り下ろした瞬間、腹の底まで揺さぶる轟音が響き、発射の反動で周囲の砂埃が一斉に舞い上がった。


「撃てぇぇぇッ!」


 砲口から吐き出された弾体が一直線にリゼルへ向かう。しかし今度はメアが前へ出るより早く、リゼルが右手を上げた。その手の中へ暗い魔力が集まり、瞬く間に一本の剣の輪郭を形成する。


「《デスブリンガー》」


 漆黒の魔剣を握り、迫る弾体へ切っ先を向ける。その瞬間、足元に散らばっていた細かな砂が不自然な方向へ滑り、砕けた石片が小刻みに震え始めた。《デスブリンガー》の切っ先へ重力そのものが一点集中し、周囲の景色まで僅かに歪んで見える。


「――《ワームブレイカー》」


 目に見える光線が放たれたわけではなかった。それでも、何かが空間を貫いたことだけは誰の目にも分かった。リゼルへ迫っていた弾体の軌道が空中で突如として崩れ、見えない巨大な質量へ正面から叩きつけられたかのように押し潰される。


 不可視の重力奔流はそのまま前方へ突き抜け、正門脇の防御陣地へ到達した。石畳が一直線に抉れ、大型火器の土台が浮き上がり、周囲にいた兵士たちが装備や石材ごと吹き飛ばされる。さらに背後の防壁へ巨大な亀裂が走り、積み上げられていた石材が耐えきれず次々と崩れ落ちていった。土煙が広場全体を覆い、瓦礫の転がる音がしばらく鳴り止まなかった。


「うむ。やはり便利だな」


「まあぁ。綺麗に吹き飛びましたわねぇ」


 白い粉塵が正門前へ広がる中、リゼルは満足そうに《デスブリンガー》を下ろした。しかし粉塵の向こうからは、それでも武器を握った兵士たちが姿を現す。彼らはもう勝てるなどと思っていなかっただろう。それでも、背後に王城があるという理由だけで逃げなかった。土煙にまみれた甲冑姿が、幾つも幾つも、崩れた瓦礫の間から立ち上がってくる。


 そこから先は、戦闘というより侵入者による一方的な突破となった。メアは飛んできた弾丸を剣で逸らし、銃剣を避け、主人の進路へ立った者だけを淡々と斬り伏せていく。五人の兵士が連携して襲い掛かっても、その動きに乱れはない。正面から振り下ろされた長剣の軌道を軽く外し、その勢いを利用して横から迫った兵士へ刃を返し、背後から放たれた銃弾には振り返りさえせず剣を合わせる。


 反対側では、メリュジーヌが金色の瞳へ魔力を宿していた。彼女を取り囲んだ騎士の一人が自分の指先を見て愕然とする。剣を握っていた手が灰色へ変わり、その変色が手首、腕、肩、胸へと這い上がり、逃げる暇さえ与えず全身を無機質な石へ変えていった。


「あらぁ。綺麗にできましたわねぇ」


 メリュジーヌは完成した石像を眺めたあと、手にしていた《ヒュドラー》を持ち上げた。八つの首を持つヒュドラの姿へ変えることはしない。この程度の相手なら、通常の鞭として振るうだけで十分だった。


「ヒュドラーちゃん。今日はそのままで結構ですわぁ」


 鋭い風切り音が響き、鞭が石像の胸部へ叩きつけられた。乾いた破砕音とともに無数の亀裂が走り、人間だった石像が一気に崩れ落ちる。頭部が石床へ落ちて砕ける光景を目にした残りの騎士たちはとうとう隊列を維持できなくなったが、逃げようとしてメリュジーヌと目が合えば、その足元から同じ灰色が這い上がった。


 やがて正門を守っていた兵士たちの抵抗が途絶えた。メアは剣についた血を軽く振り払い、メリュジーヌは《ヒュドラー》を手元へ戻す。リゼルは倒れた人間たちにはほとんど興味を示さず、その向こうに開かれた王城の入口だけを見つめていた。静寂の中、崩れた瓦礫の隙間から立ち上る土煙だけが、風もないのにゆっくりと形を変えていた。


「行くぞ。目的を忘れるな」


「承知いたしました」


「もちろんですわぁ」


 三人は崩れた正門を越え、王城内部へ足を踏み入れた。


     ◇◇◇


 王城へ入ってからも、抵抗は続いた。外で何が起きたのかを知らない兵士たちが各階から集まり、長い廊下の曲がり角には銃を構えた一隊が陣取り、大階段の上では騎士たちが机や長椅子を倒して即席の障害物を作っている。赤く明滅する法導灯の下では警報が絶え間なく鳴り続け、銃声と怒号、咳き込む声が高い天井へ幾重にも反響していた。壁に飾られた歴代国王の肖像画が、その騒がしさをただ黙って見下ろしている。


 しかし、三人の歩みは止まらなかった。メアは主人へ向けられた銃弾だけを剣で弾きながら進み、接近してくる騎士を必要な分だけ斬り伏せる。メリュジーヌは通路を塞ぐ兵士を石化させ、《ヒュドラー》で粉砕して道を開ける。その中央を歩くリゼルは、二人に任せられる敵にはほとんど手を出さず、ただ一つのことだけを考えていた。


 レザードはどこにいるのか。


 城内へ入ってから、リゼルの表情から少しずつ余裕が失われていた。人間たちが何人立ちはだかろうと、それ自体はどうでもいい。問題は、この広大な王城のどこへレザードが閉じ込められているのか分からないことだった。しかも王都を侵している《インビジブル・ベイン》は、今この瞬間も人間だけでなく、完全な魔族ではないダークエルフの身体を蝕み続けている。焦りが、彼女の歩幅を少しずつ大きくしていた。


「地下牢への道は、まだ分からないのか?」


 先ほどまでの軽い調子は、リゼルの声から完全に消えていた。メアは倒した兵士の先へ視線を向ける。廊下の奥には複数の階段があり、一方は上階へ、もう一方は王城の奥へ続いている。その中で、壁際に設けられた細い石造りの階段だけが下へ向かっていた。


「お嬢様。あちらを」


 リゼルはメアが示した先を見た。装飾の施された大階段とは明らかに用途が違う。幅が狭く、壁には窓もなく、入口には鉄製の扉まで設けられている。客人や王族が使う場所ではない。兵士や使用人、あるいは囚人を移送するための裏動線と考えた方が自然だった。


「地下か。行くぞ」


 三人は速度を上げた。途中で立ちはだかった兵士をメアが斬り払い、閉ざされた鉄扉はリゼルが力任せに破壊する。蝶番が悲鳴のような音を立てて千切れ、分厚い鉄扉が内側へ大きく吹き飛んだ。王城の華美な装飾は階段を下りるにつれて急速に姿を消し、磨き上げられた大理石の床は粗い石材へ変わっていった。


     ◇◇◇


 地下へ降りるほど、空気は冷たく湿っていった。


 壁を飾っていた絵画や彫刻はとうに姿を消し、一定間隔で取り付けられた法導灯だけが薄暗い通路を照らしている。湿った石と古い鉄、それに長年染みついた人間の汗や排泄物が混ざったような臭いが鼻についた。地上で鳴り続けていた警報も、分厚い石壁を何枚も隔てたことで、今では遠雷のように低く響くだけになっている。三人の足音だけが、湿った石壁に反響してやけに大きく聞こえた。


 そこでリゼルは異変に気付いた。牢獄ならば囚人の声が聞こえてもおかしくなく、見張りの兵士が巡回していてもいい。それなのに、聞こえてくるのは三人の足音ばかりだった。途中に設けられた詰所を覗けば、机へ突っ伏した看守がいる。別の男は壁際へ座り込んだまま荒い呼吸を繰り返し、その隣には口元を血で汚したまま動かなくなった兵士までいた。


「……ここにも届いているな」


 リゼルの声が低くなる。


 城内で生活する者も当然、水を飲む。ならば王都の給水施設から流れ込んだ《インビジブル・ベイン》が、この地下牢へ届いていても何の不思議もなかった。問題は、人間より高い耐性を持つとはいえ、レザードが完全な魔族ではないことだった。


 メリュジーヌの表情からも、先ほどまでの楽しげな笑みが消えた。自分が生み出した毒である以上、その性質を最もよく理解しているのは彼女だ。リゼルが名前を呼ぶより早く、何を危惧しているのか察していた。


「メル」


「……はい。急ぎましょう」


 三人は走った。


 鉄格子が並ぶ通路を一つ抜け、さらに奥へ進む。途中の牢にはすでに動かなくなった囚人もいれば、こちらを見る力さえ残っていない者もいた。しかしリゼルは足を止めない。今は彼らを気に掛ける余裕などなかった。呼吸を乱すことも忘れ、ただ前だけを見て走り続ける。


 そして、牢獄の最深部へ到達した時だった。


 リゼルの足が止まった。


 狭い牢の中、冷たい石床の上に、一人の少年が倒れていた。長い耳が薄暗い光の中に浮かび上がった瞬間、リゼルの赤紫色の瞳が大きく見開かれる。


「――レザード!」


 返事はなかった。


     ◇◇◇


 リゼルは鉄格子へ駆け寄った。鍵を探すことすらせず、両手で格子を掴むと、そのまま力任せに引く。固定されていた金具が悲鳴を上げ、周囲の石壁へ亀裂が走り、古い鉄が大きく歪んだ。次の瞬間には格子そのものが壁の一部ごと引き剥がされ、凄まじい音を立てて通路へ倒れ込んだ。


 それが床へ完全に落ちるより早く、リゼルは牢の中へ飛び込んでいた。少年の傍へ膝をつき、身体を仰向けにする。長い耳、黒い髪、そしてダークエルフ特有の特徴。探していた少年で間違いない。


 頬へ触れた瞬間、リゼルの顔色が変わった。


 熱い。異常なほどの熱だった。呼吸は浅く、唇の端には乾いた血が残っている。床にも吐血したらしい痕跡があり、そのすぐ近くには空になった木椀が転がっていた。薄暗い牢の中で、その木椀だけが妙に鮮明にリゼルの目へ映った。


 水を飲んだ。理解するまでに時間は掛からなかった。


「……メル」


 声が震えていた。責めているわけではない。メリュジーヌに毒を作らせ、それを王都へ流すことを決めたのは自分だ。そのことを誰よりも理解しているからこそ、リゼルは彼女を責める言葉など口にできなかった。


 メリュジーヌもすぐにレザードの傍へ膝をついた。首筋や呼吸の状態を確かめ、床へ残された血にも目を向ける。いつもの柔らかな口調こそ残っていたが、その声から遊びの色は完全に消えていた。


「《インビジブル・ベイン》ですわ。かなり進んでおります」


 リゼルの指が僅かに震えた。


 自分が命じた。自分が許可した。王都を壊すために、メリュジーヌへ毒を使わせた。その毒を、助けるためにここまで来たレザードが飲んだ。自分のせいだという結論へ辿り着いた瞬間、胸の奥を冷たいものが走った。しかし、後悔するのは後でいい。謝るのも後でいい。今ここでレザードが死んでしまえば、そんなものには何の意味もない。


「エリクサーだ!」


 叫ぶと同時に、リゼルは自ら右手を宙へ掲げていた。命令が終わるより早く、何もないはずの空間に亀裂のような裂け目が走り、そこから巨大な木箱がせり出してくる。人間一人がゆうに入りそうな大きさの箱が、鈍い音を立てて石床へ叩き付けられた。亜空間に保管していた備蓄の一つだった。


 リゼルは蓋に打ち付けられた留め金を丁寧に外す時間すら惜しんだ。両手を掛け、力任せに引き剥がす。木材が悲鳴じみた音を立てて裂け、蓋が半分ほど吹き飛ぶようにして外れた。


 箱の中には、緩衝材に包まれた無数の小瓶がぎっしりと詰め込まれていた。淡い光を帯びたエリクサーの群れだった。リゼルは中身を選び出す余裕もなく、両腕を突っ込んで乱暴に瓶を掻き出していく。


 ガチャン、と硬質な音が響いた。


 勢い余って取り落とした瓶がいくつか、石床へ叩きつけられて割れる。中の液体が瞬く間に染み込み、淡い光の残滓だけが石畳の上で儚く消えていった。


「――ッ、そ、それは……!」


 メリュジーヌが悲鳴のような声を上げた。一本一本が国家予算にも匹敵するとされる超貴重なエリクサーが、目の前で無造作に割られていく。金色の瞳が零れんばかりに見開かれ、彼女は割れた瓶の破片へ思わず手を伸ばしかけたが、それがもう何の意味もないことに気付いて動きを止めた。


「も、勿体ない……! あれが一体何本分の……!」


 彼女の悲鳴に構う者はいなかった。リゼルは箱の中身を掻き出す手を止めず、次々と瓶を引き寄せては自分の傍へ並べていく。ある瓶は転がり落ちて割れ、ある瓶は箱の縁へぶつかって罅が入った。それでも彼女の動きに迷いはない。今この場で優先すべきものが何か、リゼルには分かっていた。


「構わん。数など後で数えればいい」


 リゼルは割れた瓶に一瞥もくれず、無事な一本を掴み取った。栓を抜き、レザードの上体を抱き起こして、瓶の口を少年の唇へ当てる。


「レザード。飲め」


 反応がない。


「おい。レザード、起きろ。飲むんだ」


 頬を軽く叩いても瞼は動かなかった。リゼルはエリクサーをほんの僅かに口元へ流してみる。しかし、意識を失った少年には自分から飲み込むだけの力さえ残されておらず、淡い光を帯びた液体は口端から零れ、頬を伝って石床へ落ちていった。


 その一滴が床へ落ちるのを見た瞬間、リゼルの表情が強張った。


「……駄目か」


 呼び掛けても起きない。それでも胸は僅かに上下している。ならば、まだ間に合う。リゼルはほんの一瞬だけ考えたあと、迷うことなく小瓶を自分の口元へ運んだ。


 その行動の意味に最初に気付いたのは、メリュジーヌだった。


「あ……あらぁ……?」


 金色の瞳が大きく見開かれた。リゼルがエリクサーを自分の口へ含み、そのままレザードの頭を支えて顔を近付けたところで、何をしようとしているのか完全に理解したらしい。メリュジーヌは思わず両手で自分の口元を覆い、白い頬をみるみる赤く染めていった。


 しかし、当のリゼルには彼女の反応を気にしている余裕などなかった。これは口づけでもなければ、恋愛めいた意味があるわけでもない。ただ、自力で薬を飲めないレザードへエリクサーを届けるための手段だった。


 少量ずつ、口移しで送り込む。喉が動く。飲んだ。


 リゼルはすぐに身体を離し、レザードの呼吸を確認した。


「……よし」


 だが、目を覚まさない。


 空になった一本目を床へ置き、すぐに二本目を手に取る。栓を抜いて自分の口へ含み、もう一度レザードを抱き起こした。今度は先ほどよりも手際よく、喉の動きを確認しながら少しずつ飲ませていく。


「あら……あらあらぁ……」


 メリュジーヌは完全に口元を両手で覆っていた。頬どころか耳まで真っ赤になり、目の前で行われているのが救命行為だと理解しているにもかかわらず、どうにも別のものを見ているような気分になってしまうらしい。目を逸らすべきなのか、それともレザードの状態を確認するために見ているべきなのか迷いながら、それでも指の隙間からしっかり様子を窺っていた。


 その隣では、メアが立っていた。


 表情はいつもと変わらない。主人の護衛として牢の入口へ注意を払い、いつ敵が現れても対応できるよう剣へ手を添えている。その横顔だけを見れば、リゼルがどのような方法でレザードを救命しようと、主人の判断へ一切口を挟まない忠実なメイドそのものだった。


 ただ、鞘の口へ軽く添えられた手だけが、小刻みに震えていた。


 二本目を飲ませても、レザードは起きなかった。リゼルは三本目を取り、同じように口移しで飲ませていく。一本飲ませるたびに頬へ触れ、呼吸を確かめ、胸の動きを見て、それでも意識が戻らなければ次の瓶へ手を伸ばした。


 三本目。まだ起きない。


 四本目を飲ませ終えた頃には、呼吸が僅かに深くなった。


 五本目まで使うと、異常なほど熱を帯びていたレザードの頬から、少しずつ赤みが引き始めた。


「レザード。おい、もういいだろう。起きろ」


 返事はなかった。


 リゼルは唇を噛み、六本目へ手を伸ばした。もう最初にあった僅かな迷いすらない。栓を抜き、自分の口へ含み、レザードの身体を抱き起こして少しずつ飲ませる。薬がきちんと喉を通ったことを確認するたびに次の一口を含ませ、その間にも何度も少年の名前を呼び続けた。


「……お嬢様」


 メアが初めて声を発した。


 リゼルは振り向かなかった。六本目を空にし、七本目のエリクサーへ手を伸ばしながら短く答える。


「なんだ」


 メアは一瞬だけ黙った。視線は主人ではなく牢の入口へ向けられ、表情にも変化はない。しかし鞘へ添えた指先だけは、先ほどより少し強く力が込められている。


「……いえ。何でもございません」


 メリュジーヌが横から、そっとメアを見た。その震える手。無表情。もう一度、リゼル。レザード。そして再びメア。何かを察したらしい。


「あらぁ……❤︎」


 今度の「あらぁ」は、明らかにレザードへ向けられたものではなかった。


 メアの手の震えが止まった。代わりに鞘を握る指へ、ほんの少しだけ強く力が込められる。


「メリュジーヌ様。何か?」


「いいえぇ。何でもありませんわぁ❤︎」


 牢獄の空気が一瞬だけ妙なものになったが、当のリゼルだけはまったく気付いていなかった。七本目を口移しで飲ませ終えてもレザードの意識は戻らず、彼女の関心は目の前の少年へしか向いていない。


「……もう一本だ」


 八本目の栓を抜く。エリクサーを口へ含む。何度目か分からなくなった動作でレザードの身体を抱き起こし、少量ずつ薬を飲ませていく。喉が動いたことを確認し、さらにもう一口。最後の一滴まで飲ませ終えると、リゼルは身体を離し、すぐに少年の頬へ手を当てた。


「これで起きなかったら、九本でも十本でも飲ませるからな。だから……いい加減、起きろ」


 数秒が過ぎた。


 レザードの呼吸は先ほどより明らかに安定している。異常だった体温も下がり始めている。それでも瞼だけは閉じられたままだった。


 リゼルの表情が強張る。


 九本目へ手を伸ばそうとした、その時だった。


「……ぅ……」


 あまりにも小さな声だった。聞き間違いかと思うほど弱々しい。それでもリゼルの手はぴたりと止まり、メリュジーヌも両手で口元を覆ったまま目を見開いた。牢の入口を警戒していたメアまで即座に振り返り、三人の視線が一斉に少年へ集まる。


 閉じられていたレザードの瞼が、微かに震えた。一度、もう一度。長い眠りの底から這い上がろうとするように、ゆっくりと瞼が持ち上がっていく。だが、開いた瞳にはまだ光が戻りきっていない。ぼやけた天井と法導灯の明かりが滲み、視界の中でいくつもの輪郭が重なっていた。


「……レザード?」


 名前を呼ばれても、すぐには反応できなかった。誰かの声がする。知らない声。けれど、不思議なほど近い。


 レザードは何度か瞬きを繰り返した。少しずつ視界が鮮明になっていくにつれて、自分が冷たい石床へ横たわっているのではなく、誰かに上半身を抱き起こされていることに気付く。


 最初に見えたのは、淡い白金色の髪だった。その向こうに、赤紫色の瞳がある。幼い少女だった。見覚えなどない。これほど特徴的な少女なら、一度でも会ったことがあれば忘れるはずがない。だが、記憶をどれだけ辿っても、その顔も、その声も、その白金色の髪も出てこなかった。


 それなのに、少女は泣きそうな顔で、自分を見ている。


「……よかった」


 リゼルの口から、掠れた声が漏れた。


 その言葉を聞いても、レザードには何も分からなかった。なぜ、この少女が自分の名前を知っているのか。なぜ、自分を抱いているのか。なぜ、こんなにも必死な顔で自分を見ているのか。そもそも、ここは王城の牢獄だったはずだった。


 誰も来ない場所だった。自分は捨てられたはずだった。食事すら届かなくなり、残っていた水を飲み、身体が焼けるような高熱に襲われた。咳が止まらなくなり、全身が痛み、最後には血を吐いた。冷たい石床の上で、自分はこのまま誰にも知られず死ぬのだと思った。


 なのに、目を覚ましたら、知らない少女が、自分を抱きかかえていた。


 レザードの唇が僅かに動いた。


「あ……」


 声にならない。喉が酷く乾いていた。それでも目の前の少女が誰なのか知りたくて、残っている力を振り絞るように、もう一度唇を動かした。


「あ……あな……たは…………?」


 リゼルの目が僅かに見開かれた。そこで初めて気付いた。


 自分にとってレザードは、ずっと前から知っている存在だった。探していた。助けに来た。本人の許可すら得ていないのに、心の中ではとっくに「私のレザード」とまで呼んでいた。


 だが、レザードにとっては違う。今日が初めてなのだ。リゼル・ノクス・ヴァルクロアという少女を見るのも、その声を聞くのも、その名前を知るのも、何もかもが今日初めてだった。


 リゼルは一瞬だけ黙ったあと、レザードの身体を支え直した。先ほどまでの焦りを押し込めるように小さく息を吐き、まだ力の入らない少年を安心させるよう、ほんの少しだけ笑う。


「そうか。まだ自己紹介もしていなかったな」


 レザードはぼんやりと少女を見つめた。


 リゼルは胸へ手を当てた。牢獄の床で誰にも知られず死ぬはずだった少年へ、自分の名前を初めて告げる。


「私はリゼル。リゼル・ノクス・ヴァルクロアだ」


 レザードの瞳が僅かに揺れた。


「……リ……ゼル……?」


「ああ」


 リゼルは笑った。


「君を迎えに来た」


 レザードは理解できなかった。迎えに来た。誰を。自分以外に、この牢には誰もいない。それでも、自分のことだとはすぐに思えなかった。その疑問が、そのまま少年の表情に浮かんでいる。


 リゼルはそんなレザードを見て、今度ははっきりと言った。


「君だよ、レザード」


 その一言に、レザードは何も返せなかった。


 生まれてからずっと、自分はいなくても困らない王子だった。父から期待されることもなく、兄たちのような価値も認められず、最後には祖国から切り離され、人間界の牢獄へ囚われた。食事さえ来なくなった牢の中で毒に蝕まれながら、誰にも迎えに来てもらえないまま死ぬ。それが自分に相応しい最後なのだと、本気で思っていた。


 なのに、違った。迎えに来た者がいた。王城の兵士たちを突破し、地下牢まで降りてきて、自分を探し出した者がいる。八本ものエリクサーを使い、自分の意識が戻るまで諦めなかった少女がいる。


 しかも、その少女は。今日初めて会った自分へ。当然のように告げた。


 ――君を迎えに来た、と。


 レザードの唇が震えた。


「……どう……して……?」


 リゼルは首を傾げた。彼女にとっては、答えるまでもない質問だった。


 地位が欲しいからではない。グリムロアの王族だからでもない。何かを差し出せと要求するためでもない。レザードという存在そのものを求めて、ここまで来た。


 だからリゼルは、まだ事情を何一つ理解できていない少年を抱き支えたまま、迷うことなく答えた。


「私が君を欲しかったからだ」


 レザードの瞳が、大きく見開かれた。


 自分を欲しい。その言葉だけが、うまく働かない頭の中へ残った。生まれて初めて聞いた言葉だった。価値があるからでもなく、王子だからでもなく、何かを成し遂げたからでもない。自分を。欲しいと言った者がいた。


 レザードは何かを言おうとした。けれど、声にはならなかった。代わりに、赤くなった目元から一筋だけ涙が流れ、頬を伝っていった。


 リゼルはそれを見ても、からかわなかった。ただ少年の身体を支えたまま、もう二度と、この冷たい牢獄へ戻すつもりなどないというように、しっかりと抱いていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


誰にも必要とされず、《無価値な王子》として地下牢で死を待っていたレザード。


そんな彼を救い出したリゼルの答えは、とても彼女らしいものでした。


「私が君を欲しかったからだ」


たったそれだけの理由で王城へ乗り込み、レザードを連れ出すリゼル。


そして、その言葉を聞いて流れたレザードの一粒の涙。


二人の出会いが、これから何をもたらすのか。


今回も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

次回もよろしくお願いいたします!


それでは――


Ver.3 Arrow Chapter 4-3


「もう彼は、《無価値な王子》ではなかった」

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