Ver.3 Arrow Chapter 4-1 血に染まる同窓会
王都を蝕む異変は、静かに、しかし確実に広がり続けています。
学院で起きた出来事。
姿を消したクラリス。
そして、それを知った勇者アーネスト。
それぞれの場所で動き始めた歯車は、少しずつ一つの場所へと集まり始めます。
王都西部に建つ王立医術研究院第三分室は、外から見ればどこにでもある公的研究施設だった。白い石壁には王国の紋章が掲げられ、玄関前には薬草や医療物資を運ぶ荷車が日常的に出入りしている。窓は大きく、建物の正面には小さな庭まで設けられており、花壇には季節の花が律儀に植え替えられていた。ここで人間を拘束し、勇者の血統について非公開の研究が行われているなど、通りを歩く者の誰一人として想像しないだろう。
その欺瞞は地下へ降りるほど露骨になった。地下一階にはまだ普通の治療室や資料庫が残されていたが、二階、三階と降りるにつれ窓は消え、扉は厚くなり、通路を歩く者も軍人と研究者だけになっていく。壁に並ぶ扉には番号だけが振られ、名称の類は一切ない。すれ違う者たちは誰も目を合わせず、足早に自分の持ち場へ消えていった。最奥の区画など王国の正式な建築図からすら削除されており、壁も床も天井も、不自然なほど白く磨かれていた。空気には、消毒薬と、それだけでは隠しきれない鉄錆じみた臭いが薄く混じっている。
その白い部屋の中央で、クラリス・グレイスは両腕と両脚を拘束されていた。
部屋そのものは、驚くほど清潔だった。壁には計測用の法具が整然と並び、机の上には金属の器具が種類ごとに整理されている。まるで手術室と実験室を足して二で割ったような部屋で、その清潔さと明るさが、かえって不気味だった。
「……もう外してください。私、何もしてないでしょう?」
何度同じ言葉を繰り返したか、自分でも分からなくなっていた。手首と足首を固定する革帯には、暴れた形跡だろう、擦れて黒ずんだ跡が幾重にも刻まれている。力を込めるたびに金具が軋み、その音だけが虚しく部屋に響いた。肩や胸元、こめかみにまで測定用の法具がびっしりと取り付けられ、その一つ一つから伸びた細い術式が、クラリスの身体を這う蟲のように淡く明滅している。腕の内側には、すでに四本もの針が深々と刺し込まれ、そこからさらに枝分かれした細い管が、彼女の血を絶え間なく硝子の容器へと運んでいた。容器はすでに三つ、四つと満たされ、台の上に並べられている。
その針の一本が、皮膚の下で角度を変えるたびに、骨の近くまで抉るような鋭い痛みが腕の奥から肩、そして首筋にまで駆け抜けた。
「痛っ……」
思わず声が漏れた。目の端に涙が滲み、頬を伝って耳の後ろへ流れていく。それでも研究員の手は止まらなかった。むしろ、その反応こそ求めていたものだとでもいうように、傍らの男が満足げに頷き、新しい記録紙へ何かを書き付ける。ペン先の走る音までもが、やけに大きくクラリスの耳に届いた。
周囲にいる研究員たちは、その訴えへまともに答えようとしなかった。一人は記録紙へ数字を書き込み、別の男は測定器の反応を確かめながら、まるで機械の調子を診るような手つきでクラリスの瞼をこじ開けて瞳孔を覗き込む。さらに奥では二人の研究員が小声で何事かを相談し、時折クラリスの方を一瞥しては、また紙面へ視線を戻した。彼らの目に映っているのは、怖がっている十代の少女ではない。勇者アーネストの娘という、非常に希少な研究材料だった。
「法気循環値、さらに上昇しています。学院から提出された先月の記録と比較しても、明らかに異常です」
年嵩の研究員が声を上げると、室内の空気が僅かに変わった。周囲の者たちが一斉に測定器へ視線を向け、その反応を見ようと集まってくる。クラリスの胸元に置かれた薄い法具の表面では、光の線が幾重にも重なり、それまでより速い周期で明滅していた。誰かが興奮を隠しきれない声で「素晴らしい」と呟くのが聞こえた。
「採取量を増やしましょう。今のうちに、できるだけ多くのデータを」
若い研究員が言うと、年嵩の研究員が頷いた。
「そうだな。何が起こるか分からない以上、記録は多いに越したことはない」
新しい針が、クラリスの腕へもう一本、無造作に押し込まれる。慣れた手つきではあったが、麻痺の術式すら惜しんだのか、皮膚を貫く感触が生々しく伝わってきた。
「痛い……っ、やめて……!」
クラリスの声が裏返り、拘束された身体が弓なりに反った。だが、その悲鳴も、彼らにとっては貴重な観測データの一部でしかなかった。若い研究員は表情一つ変えず、針の角度を微調整しながら、淡々と数値を読み上げていく。誰かが、指先に小さな法具を宛がい、クラリスの腕へ微弱な負荷をかけて反応の速さを測っていた。皮膚の下で何かが焼けるような、鋭く短い痛みが走るたび、クラリスの喉から堪えきれない声が漏れる。
「疼痛反応、良好。反射も正常範囲内。……この程度の負荷では、まだ限界に届きませんね」
「限界を見るのは、閣下の許可が下りてからだ」
その言葉に、クラリスの背筋が凍りついた。今この瞬間、これほどの痛みを与えられていてなお「限界」ではないというのなら、これから何をされるつもりなのか。想像するだけで、腹の底から冷たいものが込み上げてくる。額から流れ落ちる汗が目に染み、視界が滲んだ。呼吸は浅く、速い。全身が細かく震え、革帯の下の皮膚には、擦れて赤く腫れた跡がいくつも浮かんでいた。
「では、次の段階に移りましょう」
年嵩の研究員が言うと、別の研究員が台車を押して近づいてきた。載せられていたのは、細い電線の伸びた二枚の金属板だった。それが、クラリスの二の腕と、足首の内側へ、無造作に固定されていく。冷たい金属の感触に、クラリスの肌が粟立った。
「な、なに……これ……」
答えは、言葉ではなく行為で返された。研究員の一人が傍らの装置の目盛りを回すと、金属板から放たれた電流が、クラリスの身体を一気に貫いた。
「ぎゃああああっ……!」
拘束された身体が、糸の切れた人形のように激しく跳ねる。喉の奥から迸る絶叫は、もはや言葉の形すら保っていなかった。歯を強く食いしばったせいで、口の端から血の混じった唾液が垂れる。焦げた臭いがかすかに漂い、金属板の触れた皮膚がじわりと赤黒く変色していった。
「反応、記録しました。筋収縮、正常範囲を超えていますが、神経系への損傷は見られません」
電流が止まると、クラリスの身体は力なく崩れ、拘束具だけがその重みを支えていた。荒い呼吸の合間に、掠れた嗚咽が漏れる。目の焦点は定まらず、頬を伝う涙と汗が、顎の先から次々と滴り落ちていた。
「もう一段階、上げてみます」
「待って……お願い、待って……!」
クラリスの懇願は、届かなかった。再び目盛りが回され、先ほどよりも強い電流が身体を駆け抜ける。声はもう悲鳴にすらならず、喉の奥で押し潰されたような音だけが漏れた。意識が白く濁り、視界の端が明滅する。それでも、拘束帯だけは彼女の身体を離さなかった。
その一部始終を、少し離れた椅子から眺めていたエルディオ・レイン侯爵は、膝の上に置いた報告書を静かに閉じ、ゆっくりと立ち上がった。上質な衣服、整えられた髪、穏やかな笑み。これだけを見れば、少女の人体実験を眺めている男には到底見えない。
「なるほど。電気にも、随分と耐えるようだ」
感心したような口調だった。侯爵はクラリスの傍らまで歩み寄り、懐に手を差し入れる。取り出したのは、この国の兵器工廠が製造した、黒く鈍い光を放つ小型拳銃だった。法術ならば、術式を編むだけの時間と隙が要る。だが、これにはそんなものは要らない。引き金を引くだけで、金属の弾丸が確実に肉を裂く。科学が生んだ、恐ろしく単純な道具だった。
「閣下……?」
研究責任者の声が、僅かに上擦った。エルディオはそれに答えず、撃鉄を静かに起こし、銃口をゆっくりとクラリスへ向ける。
「では、これはどうだろうね」
「お、お待ちください、閣下! まだデータの整理も済んでいません、そのような――」
制止の声が終わるより早く、乾いた銃声が室内に響いた。
衝撃は、殴られたなどという生易しいものではなかった。肩口に灼熱の杭を打ち込まれたような感覚が骨まで貫き、クラリスの視界が一瞬、真っ白に弾けた。
「―――ッ、ぎゃあああああああっ!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫が迸る。拘束された身体が弓なりに仰け反り、革帯が軋みながら深く肌へ食い込んだ。硝煙の匂いが鼻を突き、肩口に穿たれた黒い穴からは鮮血が脈打つように噴き出し、白い実験着や床を瞬く間に赤く染めていく。あまりの激痛に、視界の端が明滅し、意識が今にも刈り取られそうになる。指先の感覚が消え、代わりに焼けるような熱だけが全身へ広がっていった。
「な……」
「馬鹿な……閣下、何を……!」
研究員たちが色を失って駆け寄ろうとするのを、エルディオは片手で制した。
「見ていたまえ」
クラリスは、痛みで塗り潰された意識の中、自分の身体に何が起きているのかさえ分からなかった。ただ、肩の奥で何かがせめぎ合うように蠢く感触があった。焼けるような熱さの中に、今度は肉が沸き立つような、粟立つ感覚が混じり始める。それは苦痛ではなく、むしろもっと不気味な違和感だった。
傷口は、数秒のうちに、見る間に閉じていった。噴き出していた血が止まり、抉れていた肉が音もなく盛り上がるように再生し、やがて皮膚が薄い膜を張るように塞がっていく。焼け爛れたような赤みだけを残し、傷そのものは完全に消えていた。
「あ……あ……」
クラリスは、荒い呼吸を繰り返しながら、震える声しか出せなかった。全身がまだ小刻みに痙攣し、恐怖と混乱で瞳孔が開いたまま戻らない。自分の肩を見下ろし、そこに穴が空いていたはずの場所に、ただ薄赤い痕だけが残っているのを見て、彼女は言葉を失った。痛みの記憶だけが、まだ生々しく身体の奥に焼き付いていた。研究員たちは誰一人として言葉を発せず、ただ呆然とその光景を見つめている。
「……嘘だろう」
誰かが呟いた声が、静まり返った室内に落ちた。
エルディオは満足げに頷くと、拳銃を懐へしまい、何事もなかったかのように元の椅子へ戻って腰を下ろした。机に置いたままだった報告書を再び手に取り、悠然と一枚めくる。
「面白いね。昨日までの記録とは、まるで別人じゃないか」
声にも緊張はなかった。新しい葡萄酒の品評でもしているかのような軽さだった。その態度が、クラリスには拘束具そのものより不気味だった。怒鳴られたり脅されたりする方が、まだ相手を理解できる。だが、この男は自分をここへ連れてこさせたことを、悪いことだとすら認識していないように見えた。
「面白くなんかありません! 勝手に人の身体を調べないでください!」
クラリスが身体を起こそうとすると、革帯が強く張った。肩が僅かに浮いただけで、それ以上は動かない。悔しさに歯を食いしばりながらエルディオを睨むと、侯爵は一度だけ瞬きをし、それから手元の報告書へ視線を戻した。
その仕草は、怒りをぶつけられた人間の反応というより、実験対象が予想より元気に動いたことを確認した研究者のようだった。
「そう怒らないでくれたまえ。身体を壊すようなことは、まだしていないだろう?」
クラリスの顔が強張った。「まだ」という一言だけが耳に残った。胸の奥にあった不安が、一気に冷たい恐怖へ変わっていく。彼女は自分の手首へ視線を落とし、そこから伸びる器具や術式を見たあと、再びエルディオへ顔を向けた。
「……お父さんが来たら、あなたなんか絶対に許しませんから」
その言葉だけは、自分でも驚くほど真っ直ぐに出た。怖くないわけではない。むしろ今すぐ逃げ出したい。だが、父の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥に小さな火が灯るような気がした。
アーネストは王国では勇者と呼ばれていた。魔物を討ち、国を救い、多くの人間から英雄として称えられてきた男だ。それでもクラリスにとっては、転んだ時に膝の泥を払ってくれた父親であり、怖い夢を見た夜に眠るまで側にいてくれた父親だった。
「お父さんは、絶対に来ます」
エルディオの指が、報告書をめくる途中で止まった。
ほんの僅かに考えるような間があり、それから侯爵は顔を上げた。怒ってはいない。脅されたとも思っていないらしい。ただ、クラリスの確信に満ちた目を見て、どこか愉快そうに笑った。
「それは困ったな。僕は勇者殿には、できれば嫌われたくなかったのだけれど」
クラリスは一瞬、言葉を失った。あまりにも場違いな台詞だったからだ。自分を誘拐させ、拘束している張本人が、父に嫌われたくないと口にしている。その厚かましさに、恐怖より先に怒りが湧き上がった。
「ふざけてるんですか!」
エルディオは少し首を傾げ、それから「ああ」と小さく声を漏らした。今になって自分の発言のおかしさへ気付いたような反応だった。
「確かに、娘を勝手に連れてきておいて好かれたいというのは、少々厚かましい話だったね」
室内の何人かが愛想笑いを浮かべた。クラリスだけは笑わなかった。むしろ、この部屋にいる大人たち全員が、自分とは違う世界の人間に見えてきた。
そのとき、部屋の隅で作業をしていた若い研究員が、不意に肩を震わせた。
「げほっ……」
小さな咳だった。だが一度出ると止まらず、続けて二度、三度と喉の奥から絞り出される。周囲の同僚が一瞬だけそちらへ目をやったが、誰も手を止めなかった。誰もが自分の作業に集中したいのか、それとも、他人の不調に構っている余裕がないのか。年嵩の研究員までもが、口元を布で軽く押さえ、こほんと小さく咳払いをした。
「……朝から、やけに喉がいがらっぽいな」
その呟きに反応する者はいなかった。皆、同じ違和感を、それぞれの胸の内へ押し込んでいるようだった。
エルディオはそれを横目で見て、僅かに眉を上げた。
「ふぅん。君たちも、か」
誰へ向けたともつかない呟きだった。侯爵の視線は、咳き込む研究員から、拘束されたクラリスへ、そして自分の掌へと移っていく。何かを確かめるように、その掌をしばらく見つめていた。
そして、その時だった。
地の底から突き上げるような轟音が響き、研究室全体が大きく震えた。
机の上の硝子器具が床へ落ち、甲高い音を立てて砕け散る。壁へ取り付けられていた法導灯が激しく揺れ、天井から細かな砂埃が降り注いだ。研究員たちは一斉に顔を上げ、何が起きたのか理解できないまま互いを見回した。
二度目の衝撃は、さらに近かった。
今度は床まで大きく震え、積み上げられていた資料の束が崩れ落ちる。通路の向こうから誰かの怒鳴り声が聞こえ、その直後、金属が激しくぶつかり合う音が響いた。
「何だ!?」
研究責任者が叫ぶと、防音扉が勢いよく開いた。飛び込んできた兵士は顔面を蒼白にし、肩で荒い息をしている。額から大量の汗を流し、報告しようと口を開いたところで、激しく咳き込んだ。
「侵入者です! 正面警備が突破されました!」
研究責任者は椅子を蹴るように立ち上がった。周囲の研究員もようやく事態を理解し始め、書類を抱える者、通信法具へ飛びつく者、逃走経路を確認する者が一斉に動き始める。誰もが慌てふためく中、二人、三人と、同時に咳き込む声が重なった。
「何人だ!」
兵士は一度、言葉を詰まらせた。まるで自分の報告内容そのものを信じられないような顔だった。口元を腕で拭うと、そこには少量の血が付着している。それでも男は息を吸い込み、声を張り上げた。
「一人です!」
室内が、一瞬だけ静まり返った。
「……一人?」
兵士は大きく頷いた。
「勇者アーネスト・グレイスです!」
クラリスの表情が変わった。
さっきまで必死に押し込めていた恐怖が、一気に崩れ落ちる。胸の奥から安堵が込み上げ、目の奥が熱くなる。
「……お父さん」
その声だけは、誰にも聞こえないほど小さかった。
◇◇◇
エルディオ・レインだけは、周囲の混乱から切り離されたように落ち着いていた。研究員たちが逃げる準備を始め、兵士たちが廊下へ駆け出していく中、彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、乱れた上着の裾を整えた。
遠くから、また轟音が響いた。今度は誰かの悲鳴も混じっている。それでもエルディオは慌てることなく、床へ落ちた報告書を一枚拾い上げ、その内容を一度だけ確認してから机へ戻した。
「思っていたより早かったね」
研究責任者が驚いたように振り返った。
「閣下! ただちに退避してください! 勇者です! すでに第一封鎖区画まで突破されたとの報告が!」
エルディオは困ったような笑みを浮かべた。自分の命が危険に晒されているというより、予定していた会議が少し早く終わった程度にしか感じていないようだった。答える途中、彼は小さく咳払いを一つ挟んだ。
「もちろん退避するよ。僕は戦士ではないからね」
そのまま出口へ向かおうとした背中へ、クラリスの声が飛んだ。
「逃げるんですか!」
エルディオは足を止めた。
ゆっくりと振り返り、拘束されたクラリスを見る。
「逃げる?」
侯爵は一度その言葉を反芻したあと、小さく笑って肩を竦めた。研究室の外では、また何かが壊れる重い音が響いている。足音と怒号も、先ほどより確実に近い。
「違うよ。僕は部外者だからね」
クラリスの眉が跳ね上がった。
「あなたが全部やったんでしょう!」
エルディオは、その言葉を聞いても否定しなかった。それどころか、どこか楽しそうに片眉を上げるだけだった。
そして、ほんの少し声を潜める。
「それに、今日は勇者殿の懐かしい友人たちも来ている」
クラリスの怒りが、一瞬だけ困惑へ変わる。
「友人……?」
エルディオは答えなかった。
ただ扉の前まで歩き、最後に振り返る。喉の奥に小さな違和感を覚えたのか、指先で軽く自分の首筋を撫でた。
「勇者殿には伝えておいてくれたまえ」
穏やかな笑顔。
「久しぶりの同窓会だ」
そして、本当に自分とは無関係な催しへ他人を残して帰るような調子で続けた。
「存分に楽しんでくれたまえ。僕は部外者だからね、先に失礼するよ」
言い終えた直後、こほん、と一つ小さな咳が漏れる。エルディオはそれを気に留めた様子もなく、ただ小さく首を傾げただけだった。
「……この街は、随分と分の悪い賭けをしているらしい」
誰へともなく呟き、扉が閉まった。
クラリスは、その扉をしばらく睨み続けていた。
◇◇◇
地下第一封鎖区画の通路には、血の臭いが充満していた。
崩れた壁の破片が散らばり、折れた槍や割れた盾が、倒れた兵士たちの間に転がっている。法導灯の半分は割れ、残る半分もちらちらと明滅を繰り返し、通路全体を不安定な光で染めていた。
アーネスト・グレイスは右手に剣を下げ、無言のまま奥へ進んでいた。磨き上げられていたはずの刀身には赤黒い血が付着し、剣先から一定の間隔で雫が落ちている。彼自身も無傷ではない。上着の袖は裂け、左肩には矢か刃が掠めた浅い傷があり、頬にも細い血の線が走っていた。それでも歩みには一切の迷いがない。左右に転がる兵士や、砕かれた盾、折れた槍へ視線を向けることもなく、ただ娘がいるはずのさらに奥を見据えている。
この場所へ来るまでに何人倒したのか、もう数えていなかった。国王に仕えた兵士だろうと、侯爵家の私兵だろうと、娘を奪った側に立つなら、今の彼には同じだった。
「クラリス……」
小さく名前を呼んだ、その時。
「止まれ」
聞き覚えのある声がした。アーネストの足が止まる。通路の奥、法導灯の青白い光の下に、三人の人影が立っていた。長い法杖を持つ男――セドリック。大剣を肩へ担いだ巨漢――ガレス。そして、短弓を手にした女――ローウェン。
何年も前なら、彼らが並んで立っている光景を見ただけで、アーネストは安心しただろう。魔物の大群に囲まれても、絶望的な戦場でも、この三人がいた。酒場でくだらない話をした。野営地で喧嘩もした。何度も命を預け合った、勇者パーティー――かつて世界を救った仲間たちだった。
その仲間たちが今は、娘へ続く道を塞いでいる。
「……久しぶりだな、アーネスト」
最初に口を開いたのはガレスだった。昔と同じ低い声。だが、その声には力がなかった。言い終えた直後、大男の身体が僅かに折れ、激しい咳が漏れる。片手で口元を押さえながら何度か咳き込み、腕を離すと、手甲の縁に赤い血が付着していた。
アーネストの視線が、その血へ落ちる。
セドリックも顔色が悪かった。額には汗が浮かび、法杖を握る指が僅かに震えている。ローウェンも呼吸が浅く、唇から血の気が失われていた。
「……お前たちもか」
セドリックが眉を寄せた。
「何の話だ」
アーネストは三人を順番に見た。
「街で広がっている病気だ」
ローウェンが鼻で笑った。
「心配してくれるの? 相変わらず優しいじゃない、アーネスト」
だが、その皮肉を言い終えるより早く、ローウェンは激しく咳き込んだ。胸元を押さえながら壁へ片手をつき、何度も肺の奥から空気を絞り出すように身体を折る。ようやく顔を上げた時、口元には細い血の線が垂れていた。
アーネストは、それ以上何も言わなかった。
「クラリスはどこだ」
三人が黙った。その沈黙だけで、十分だった。
◇◇◇
「俺たちは国の命令で動いている」
セドリックが法杖の石突きを床へ当てると、その地点を中心に淡い術式が円形へ広がった。だが、かつての彼が展開していた完璧な法術陣とは違う。一部の線は不規則に揺らぎ、明滅し、時折消えかけている。本人もそれに気付いているらしく、何度か呼吸を整えようとしていた。
「国の命令?」
アーネストの脳裏に、古い記憶が次々と浮かんだ。ガレスと初めて酒を飲んだ夜。ローウェンに弓の構えを笑われた日。重傷を負った自分を、セドリックが徹夜で治療したこと。魔王軍の砦を落とした後、いつか全員でまた集まろうと笑ったこと。全部、もう昔の話だった。
「娘を攫うのが、国の命令か」
セドリックの表情が、目に見えて硬くなった。法杖を握る指に力がこもり、揺らいでいた術式の線が一瞬だけ安定する。だがそれも長くは続かず、彼の呼吸はすぐにまた浅く乱れ始めた。かつて幾度も並んで戦場に立ち、互いの背を預け合った男の顔に、アーネストは今、初めて後ろめたさに似た影を見た気がした。それでも、その影は言葉になる前に、硬い無表情の下へ押し込められてしまう。
「クラリスには価値がある」
その一言が発せられた瞬間、アーネストの瞳から、最後に残っていた過去への温度が音もなく消え失せた。何年もの間、酒を酌み交わし、傷を舐め合い、命を預け合ってきた記憶が、たった一言でひどく遠いものになる。娘を、道具のように語る声。それが、かつての仲間の口から出たという事実だけが、彼の胸を鈍く抉った。
「人間としてではなく?」
声は静かだった。だが、その静けさは怒りを押し殺したものではなく、すでに何かを見限った者の落ち着きに近かった。セドリックはその問いに答えなかった。答えられなかった、という方が正しいのかもしれない。法杖の石突きが、床の上で小さく震えている。
「研究材料としてか」
通路に、しばらくの沈黙が落ちた。遠くではまだ何かが崩れる音がし、法導灯の明滅が、三人の影を壁の上で不規則に揺らしている。誰も動かず、誰も口を開かない時間が、やけに長く感じられた。やがて、その沈黙を破ったのはセドリックの方だった。声は低く、絞り出すようだった。
「勇者の力は国家の財産だ」
その言葉を聞いた瞬間、アーネストの手が、剣の柄を強く握り直した。使い古された革の柄巻きが軋み、掌に食い込む。彼はゆっくりと刃を持ち上げ、切っ先に付いた血の雫を一つ、石床へ滴らせた。国家の財産。かつて自分自身もそう呼ばれてきた言葉が、今は娘へ向けられている。その事実だけで、腹の底から冷たい怒りが込み上げてくるのが分かった。
「そうか」
短く応じると、アーネストは静かに切っ先を持ち上げ、昔の仲間たちへ真っ直ぐに向けた。剣先はほとんど揺れていない。もう迷いはなかった。三人の顔を、順番に見る。ガレスの巨躯。セドリックの強張った表情。そして、まだ何も言っていないローウェンの警戒した目。かつて世界を救った仲間の姿は、もうそこにはなかった。
「なら俺は、もうこの国の勇者じゃない」
◇◇◇
最初に動いたのは、三人揃っての抜き撃ちだった。ガレスは腰から重厚な回転式拳銃を、セドリックは法杖の柄に仕込まれた小型の銃身を、ローウェンは弓と並べて携えていた自動拳銃を、それぞれ無言のまま抜き放つ。国家お抱えの元勇者パーティーには、王国兵器工廠の最新装備が惜しみなく支給されていた。乾いた三連の銃声が、狭い地下通路に重なって反響する。
だが、アーネストは剣を振るう素振りすら見せなかった。彼はただ、柄を握る手に法気を通し、刃の表面へ薄い法気の膜を纏わせただけだった。三発の銃弾は、その見えない壁に触れた瞬間、火花を散らして弾かれ、あるいは融けるように軌道を逸らされ、通路の壁や天井へ空しく突き刺さった。
「……剣で足りる」
感情の乗らない声だった。国家の科学が生んだ銃弾も、鍛え抜かれた法術と剣術の前では、ただの金属片でしかない。アーネストにとって、それはあまりにも当然の結果だった。
「アーネストォッ!」
銃撃が通じないと悟るや、ガレスは拳銃を投げ捨て、巨大な大剣を肩から引き抜いた。両手で頭上へ持ち上げられる。だが、その途中で巨体が僅かに揺れた。全身を焼くような熱と、筋肉の奥へ食い込む激痛が、ガレスの動きを確実に鈍らせている。
それでも、戦士としての意地だけで、一歩を踏み込んだ。
「《剛烈破城斬》ッ!」
大剣が振り下ろされる。轟音。石床が砕け、大きな亀裂が通路いっぱいへ走った。飛び散った石片が壁を叩き、法導灯の一つが衝撃で弾ける。かつて城門すら叩き割った、ガレスの必殺技だった。
だが、アーネストはほんの一歩だけ横へ動いただけだった。
「……遅い」
ガレスが顔を上げた時には、もうアーネストは懐へ入っていた。
「昔のお前なら、もっと速かった」
剣が前へ突き出される。刃は鎧の隙間へ入り込み、そのまま胸を深く貫いた。
「がっ……!」
巨体が大きく震える。ガレスの手から大剣が落ち、重い金属音が地下通路へ響いた。彼は信じられないものを見るように、自分の胸から伸びる刃を見る。そして、アーネストの肩へ手を置いた。
「……娘のために」
血が口元から垂れる。
「俺たちまで……殺すのか……」
アーネストの目が、ほんの僅かだけ揺れた。ガレス。友だった。死にかけた自分を背負って逃げてくれたこともある。酒を飲み、笑い、喧嘩もした。それでも。
「殺す」
アーネストの声は、驚くほど静かだった。
「娘を攫った奴は、誰だろうと殺す」
刃を引き抜く。ガレスの身体が前へ崩れ落ちる。アーネストは、もうその身体を支えなかった。
◇◇◇
「この……!」
ローウェンが弓を引いた。一本、二本、三本。震える指の間に三本の矢を挟み、同時に弦へ掛ける。腕は寒さでもないのに小刻みに震え、額から流れた汗が眉を伝って顎の先から滴った。それでも彼女は狙いを外さなかった。長年かけて磨いてきた技術だけが、崩れかけた身体をまだ支えている。矢じりに法気が集まり始め、薄紫の光が三つの切っ先へ収束していく。ローウェンの喉の奥では、抑え込んだ咳の気配が絶えず疼いていた。それを吐き出せば狙いが逸れる。分かっていたから、彼女は歯を食いしばり、その衝動をひたすら飲み込み続けた。
「《三連・天穿牙》!」
弦が鳴り、三条の光が同時に放たれた。空気を裂く鋭い音が三重に重なり、通路の壁に反響する。アーネストは最初の一射を剣で弾き、火花が散った。二射目には身体を僅かに捻ることで、掠りもせずにやり過ごす。だが三射目だけは、防ぐには近すぎた。肩口の布地だけを浅く裂いて、光は後方の壁へ突き刺さる。傷には至らない、紙一重の一撃だった。それでも彼の足取りは、一瞬たりとも乱れなかった。
「当たった……!」
ローウェンの顔に、束の間の喜びが浮かんだ。かつての仲間に矢を向けているという現実を、その一瞬だけは忘れられたのかもしれない。だが、その喜びは長く続かなかった。込み上げてきたものを堪えきれず、彼女の表情が急速に歪んでいく。
「げほっ……!」
膝が崩れるように折れ、両膝が石床へ叩きつけられた。片手で胸を強く押さえ、もう片方の手を床につく。激しい咳が幾度も喉の奥から突き上げ、そのたびに肩が大きく波打った。息を吸おうとしても、肺そのものが空気を拒んでいるかのように痛む。頭の中で警鐘が鳴り響いていたが、身体はその警告よりも早く悲鳴を上げていた。
「なんで……」
ようやく咳の波が収まると、ローウェンは荒い呼吸のまま顔を上げた。滲んだ視界の向こうに、傷一つ増えていないアーネストの姿がある。その事実が、悔しさよりも先に理解を超えた恐怖として彼女の中へ流れ込んできた。
「なんで……あんただけ平気なのよ……」
声の途中で、また咳が割り込んだ。今度は唾液と一緒に、赤く濁ったものが唇の端から糸を引いて床へ落ちる。それを見た瞬間、ローウェンの手が微かに震えを強めた。自分の身体の中で、何かが確実に壊れ始めている。頭では分かっていても、認めたくなかった。
「街中……みんな苦しんでる……私たちだって、朝から……!」
声を絞り出すたび、胸の奥がぎしぎしと軋むように痛んだ。それでも彼女は諦めなかった。落ちた弓を震える指で拾い上げ、震える手で矢筒から一本を抜き出す。矢を番える指先すら、もう思うように動かない。それでも、彼女はやめなかった。
「なのに……なんで勇者だけ!」
込み上げる怒りとも、恐怖ともつかない感情に突き動かされ、ローウェンは最後の力を振り絞って弦を引いた。腕の震えが弦にまで伝わり、狙いは大きくぶれている。それでも構わなかった。当たらなくてもいい。ただ、この理不尽さを、目の前の男へぶつけたかった。
「《猟王――」
技の名は、最後まで紡がれなかった。喉の奥から込み上げてきた衝動が、言葉を強引に押し流していく。
「ごぼっ……!」
大量の血が口から溢れ出した。胸元を、握り締めた手を、そして足元の石床を、瞬く間に赤く染めていく。弓が指の力を失い、乾いた音を立てて床へ滑り落ちた。ローウェンは、自分の掌から滴る血を、しばらくの間、ただ呆然と見つめていた。
「なに……これ……」
その声には、もう戦士としての強さはなかった。武器を握っていたはずの手は今や震えるだけで、瞳には初めて、死という現実に怯える一人の女の表情が浮かんでいた。
「セドリック……」
助けを求めるように、彼女は一歩を踏み出そうとした。だが、脚には何の力も残っていなかった。膝から力が抜け、そのまま前のめりに崩れ落ちる。冷たい石の感触が頬に触れても、もう起き上がることはできなかった。
「嫌……」
指先が、力なく床を掻いた。爪の先が石の継ぎ目に引っかかり、それでも止まらない。まるで、ここではないどこかへ這っていこうとするように。
「死にたく……」
その言葉を最後に、声はもう続かなかった。閉じかけた瞳の奥で、何かの光が静かに消えていく。開いたままの唇からは、もう息の音さえ聞こえなかった。
◇◇◇
「ローウェン!」
セドリックが叫んだ。法杖を両手で強く握る。その手も、もう激しく震えていた。それでも、長年積み重ねてきた意地だけで術式を展開する。一つ、二つ、三つ。床に、壁に、天井に、巨大な法術陣が幾重にも浮かび上がった。
「貴様……!」
激しい呼吸が、セドリックの肩を大きく上下させていた。息を吸うたびに喉の奥で笛のような音が鳴り、吐き出す息には湿った血の臭いが混じっている。唇の端からはひと筋の血がこぼれ、顎を伝って法衣の襟元へ染みを作っていった。全身の震えは、もはや怒りによるものか、それとも病によるものか、彼自身にも判別がつかなくなっている。それでも、セドリックは止まらなかった。止まれば、自分がここに立っている意味そのものが崩れてしまう気がした。
「勇者だからと……何をしても許されると思うな!」
その言葉を聞いた瞬間、アーネストの目に、これまでとは違う明確な怒りが宿った。押し殺していた何かが、静かに、しかし確実に沸き立っていく。彼はセドリックの言葉を、かつての仲間の言葉としてではなく、娘を攫った者の言い訳として受け取っていた。
「それを」
剣先を下げたまま、ゆっくりと一歩進む。石床に響く足音だけが、やけに大きく聞こえた。セドリックの肩がびくりと震え、法杖を握る手にさらに力がこもる。
「俺に言うのか」
もう一歩。距離が詰まるごとに、セドリックの荒い呼吸が速くなっていく。逃げ場を探すように視線が泳いだが、その足は根が生えたように動かなかった。
「娘を攫ったお前が」
セドリックの顔が、ぐしゃりと音を立てるように歪んだ。怒りとも、恐怖とも、自己嫌悪ともつかない感情が、その表情の中でせめぎ合っている。
「黙れぇぇぇぇぇ!」
絶叫と共に、法杖が高く掲げられた。周囲に描かれていたすべての法術陣が一斉に輝きを増し、地下通路全体が真昼のような白光に包まれる。壁も、床も、倒れたガレスの亡骸さえも、その光の中で一瞬だけ影を失った。
「《大法術――聖天焦滅光》!」
かつて魔族の部隊すら一撃で焼き払ったという、法術使いセドリックの最大奥義。膨大な法気が渦を巻き、天井近くまで届く光の柱となって収束していく――はずだった。
「ぐっ……!」
だが、光は完成する前に大きく揺れた。緻密に組まれていたはずの術式の一部が音もなく崩れ、消える。支えを失ったように、セドリックの膝が石床へ崩れ落ちた。
「な……」
崩れていく光の柱を見上げ、セドリックの顔に焦りが広がる。自分の身体に何が起きているのか、頭では理解していても、認めることができなかった。
「まだだ……!」
歯を強く食いしばり、震える両腕で床を押す。全身の関節が軋むような痛みを訴える中、彼は無理やり立ち上がった。
「俺は……勇者パーティーの法術使いだ……!」
崩れた術式の欠片をかき集めるように、震える指先で印を結び直す。額から流れ落ちる汗が、目に染みて視界を曇らせていた。
「撃てる……!」
法杖の先端が、小刻みに揺れている。握る手にどれだけ力を込めても、その震えは収まらなかった。
「俺は……まだ……!」
絞り出すような声とともに、消えかけていた光が、再びゆっくりと集まり始める。わずかに残った意地と誇りだけが、その光を繋ぎ止めていた。
「《聖天……焦滅――」
技名を紡ぎ切る、その寸前だった。セドリックの身体が、糸が切れた人形のように激しく痙攣する。
「ごぼっ――!」
大量の血が口から噴き出し、白い法衣を、握り締めた法杖を、そして足元の石床までも瞬く間に真っ赤へ染め上げた。組み上がりかけていた法術陣は、一つ、また一つと、抵抗する間もなく音もなく消えていった。
「……え?」
セドリックは、自分の血にまみれた両手を、信じられないものを見るように見つめた。指の間を伝う赤い液体が、法導灯の光を鈍く弾いている。
「嘘……だろ……」
声が、みるみる力を失っていく。喉の奥から込み上げる血の味に、彼はようやく自分の身体が限界を迎えていることを悟った。
「俺は……英雄だったんだぞ……」
誇らしかったはずのその言葉が、今はひどく虚しく響いた。力を失った指から、法杖が滑り落ち、乾いた音を立てて床を転がる。
「こんな……病気で……?」
再び血を吐く。喉の奥から込み上げるそれを止める術はなかった。霞んでいく視界の中で、彼はアーネストの姿を捉えようとする。かつて共に戦場を駆けた、友の姿を。
「アーネスト……」
唇が、力なく震えた。何を伝えたいのか、自分でも分からなくなっていた。ただ、目の前にいるのが、まだ仲間だった頃の男であってほしいと、そう願うような響きだけがそこにあった。
「助け……」
最後の言葉は、とうとう形にならなかった。膝から力が抜け、身体が前へ大きく傾ぐ。冷たい石床へ、セドリックはそのまま倒れ込んだ。もう指一本、動かなかった。
◇◇◇
地下通路に、重い静寂が戻った。
アーネストは、しばらく何も言わなかった。ガレス、ローウェン、セドリック――三人とも、死んだ。過去が次々と頭を過ぎった。酒場。野営地。遠征。戦場。笑い声。傷だらけになりながら勝利を喜んだ夜。あの頃、誰が、こんな最後を想像しただろう。そして、そのうち一人は、自分自身が殺した。
アーネストは目を閉じた。ほんの数秒、それだけ。やがて目を開き、剣についた血を振り払う。そして、奥へ向かって歩き出した。
「……クラリス」
国でもない。勇者でもない。昔の仲間でもない。今の彼に残っているものは、娘だけだった。
◇◇◇
白い部屋の扉を蹴破ると、その場に残っていたのは、拘束具に繋がれたままのクラリスだけだった。研究員も兵士も、すでに逃げ去ったあとらしい。床には割れた硝子器具と、こぼれた薬液が広がり、机の上の書類は慌ただしく持ち出されたのか、半分ほどが散乱したままになっていた。
アーネストは剣を放り出すように鞘へ収め、駆け寄る。
「クラリス!」
名前を呼ばれ、俯いていたクラリスの顔がゆっくりと持ち上がった。焦点の合わない目が、しばらく宙をさまよう。だがそこに映る人影が誰なのかを認識した瞬間、その表情は一気に崩れた。
「お父……さん……」
声にならない声だった。震える唇から、掠れた言葉がようやくこぼれる。アーネストは手首の革帯を、力任せに引き千切った。金具が壊れ、細い術式の光が音もなく消えていく。腕に刺さったままの針を、彼は一本ずつ、できる限り丁寧に抜いていった。五本すべてを抜き終える頃には、彼の指先も、クラリスの腕から滲む血で赤く染まっていた。そのたびにクラリスの身体がびくりと震え、小さな呻きが漏れる。
腕には数え切れないほどの内出血の痕が残り、点々と青黒く変色していた。針を刺された箇所は特に腫れ上がり、皮膚の下にまで血が滲んでいる。首筋には測定用の法具を固定していた跡が赤黒く残り、拘束具が食い込んでいた手首と足首には、皮が擦り切れて薄く血が滲んだ帯状の傷があった。爪の先には引っ掻いたような傷までできており、頬にも涙と一緒に流れたのか、乾いた血の筋が一本残っている。それがこの数時間の間に、この部屋の中で何をされていたかを、何よりも雄弁に語っていた。
拘束から解放された瞬間、クラリスの中で抑えていたものが一気に決壊した。
「怖かった……っ、痛かった……ずっと、痛かったよぉ……!」
子供のような泣き声だった。国民から称えられる勇者の娘という立場も、気丈に振る舞っていた誇りも、そこにはもうなかった。ただ、痛みと恐怖に押し潰されそうになっていた、十四歳の少女がいるだけだった。アーネストは娘の身体をそっと抱き上げ、その小さな背中を、壊れ物にでも触れるように腕で包んだ。
「もう大丈夫だ」
声が、僅かに震えていた。
「もう、大丈夫だから」
自分自身に言い聞かせるような響きだった。クラリスは父の胸へ顔を押し付け、声を上げて泣いた。その嗚咽は、崩れかけた研究室の壁に反響し、しばらく鳴り止まなかった。
崩れた壁の向こうには、上階へと続く階段が覗いていた。爆発で天井の一部が崩落し、そこから伸びる亀裂を伝って、地上の夜気がかすかに流れ込んでいる。アーネストは娘を抱えたまま立ち上がり、その空気の方角――地上へと続く階段へ、迷いなく足を向けた。
◇◇◇
地上へ出ると、そこにはもう一つの、別種の崩壊が広がっていた。
夜の帳が下りた王都の大通りには、点々と人が倒れていた。歩道に座り込んだまま動かない老人。荷物を抱えたまま道端にうずくまる女。誰かがその傍らで肩を揺すっているが、揺すられている本人はぴくりとも反応しない。等間隔に並んでいたはずの街灯の半分は消え、残る半分もか細く明滅している。いつもなら賑わっているはずの露店は、シャッターを下ろしたまま闇に沈み、通りを行き交う車の数もまばらだった。信号だけが律儀に色を変え続け、誰もいない交差点を無意味に照らしている。
クラリスを抱いたアーネストは、その光景を一つ一つ目に焼き付けながら、足早に路地を進んだ。
「お父さん……街のみんなも……」
クラリスが小さく呟いた。答える言葉を、アーネストは持たなかった。ただ、娘を抱く腕に、僅かに力を込めるだけだった。
自宅へ続く通りに差し掛かった頃には、遠くから乾いた咳の音が絶え間なく聞こえていた。いつもなら開いているはずの雑貨屋も、パン屋も、扉に板を打ち付けて閉ざされている。まるで街全体が、ゆっくりと呼吸を止めていくようだった。
◇◇◇
見慣れた我が家の扉を開けたとき、家の中は不自然なほど静まり返っていた。
「リディア! 帰ったぞ!」
声を張り上げても、返事はない。玄関の明かりも点いていない。アーネストはクラリスをそっと床へ下ろし、靴を脱ぐのももどかしく、廊下の奥へと進んだ。
「母さん……?」
クラリスの声が、不安げに揺れる。
居間にも、台所にも、人の姿はなかった。テーブルの上には、冷めきったスープの入った器が、手つかずのまま置かれている。アーネストの足は、自然と寝室の扉の前で止まった。
扉に手をかける前、ほんの一瞬だけ、動きが止まった。
それから、静かに扉を開ける。
ベッドの上、リディアは横たわっていた。眠っているようにも見えた。だが、部屋に踏み込んだ瞬間、アーネストにはすぐに分かった。呼吸の音がしない。胸が上下していない。枕元には、口元を拭ったと思われる血の染みたハンカチが落ちていた。
アーネストは、ゆっくりとベッドの傍らへ膝をついた。妻の手を取る。すでに、その手からは温もりが失われかけていた。
言葉は、出てこなかった。
叫ぶことも、泣くこともなく、アーネストはただ、妻の手を握ったまま、長い間そこに座り込んでいた。かつて幾多の魔物と戦い、絶望的な戦場ですら折れなかった男が、その瞬間だけは、完全に凍りついたように動きを止めていた。
戸口に、クラリスが立っていた。
中を覗き込もうとして、アーネストの背中越しに見えたものだけで、彼女はすべてを悟った。声を上げることも、駆け寄ることもしなかった。ただ、両手で口元を覆い、その場に立ち尽くしたまま、大粒の涙をこぼした。
「……お母さん」
小さな呟きだけが、静まり返った部屋に落ちた。
アーネストは振り返らなかった。振り返れば、自分がどんな顔をしているのか、娘に見せてしまう気がした。それだけは、したくなかった。
◇◇◇
どれだけの時間、そうしていただろうか。
居間の隅で、点けっぱなしだった受像機が、不意に甲高い警告音を鳴らした。緊急放送への切り替えを告げる音だった。アーネストは妻の手をそっと布団の中へ戻し、重い足取りで居間へ戻る。
画面には、いつも見慣れた報道局の女性キャスターが映っていた。だが、その表情はどこかこわばり、背後の壁には「緊急」の赤い文字が明滅している。
『――繰り返しお伝えします。本日夜、王立医術研究院第三分室に何者かが侵入し、施設を破壊、複数の兵士および研究員を殺害する事件が発生しました』
画面が切り替わり、崩れた建物の外観と、担架で運ばれる負傷者の映像が流れる。字幕には、被害状況を示す数字が無機質に並んでいた。
『国王陛下の名において、実行犯は勇者アーネスト・グレイスであると断定され、ただちに指名手配が発令されました』
クラリスが息を呑む音が聞こえた。
画面いっぱいに、大きく引き伸ばされたアーネストの顔写真が映し出される。かつて凱旋の際に撮られたものだろう、笑顔の写真の下に、赤い太字で「指名手配」の文字が重ねられていた。
『繰り返します。勇者アーネスト・グレイスは、国家に対する重大な反逆行為を行った罪により、指名手配されました。目撃情報のある方は、最寄りの衛兵詰所まで――』
アーネストは、受像機の電源を静かに切った。画面が暗く沈み、居間には彼自身の顔だけが、ガラスの表面にぼんやりと映り込んでいた。
昨日まで、国の英雄と呼ばれていた。街を歩けば子供たちが駆け寄り、老人たちが頭を下げた。その同じ国が、たった一夜で、彼を反逆者だと断じていた。皮肉にも思わなかった。ただ、ひどく乾いた気持ちで、その放送を見終えただけだった。
「お父さん……これから、どうなるの……」
クラリスの声は、涙でひどく掠れていた。アーネストは娘の前に膝をつき、その両肩へそっと手を置いた。
「これからのことは、俺が何とかする」
声には、迷いがなかった。だが、その奥には、隠しきれない疲労と痛みが滲んでいた。
「だから、お前は俺から離れるな。いいな」
クラリスは、何も言わずに頷いた。
アーネストは立ち上がり、寝室へ戻ってもう一度だけ、リディアの顔を見た。安らかとは言い難い、それでも穏やかさの残る横顔だった。彼は毛布をそっと整え、深く一礼してから、静かに扉を閉めた。
旅支度に使えるものを、鞄一つにまとめる。金目のものよりも、水と、乾いた食料と、クラリスの上着を優先して詰め込んだ。壁に掛けられた家族の写真を一枚だけ外し、それも鞄の中へしまう。
もう、この家には戻れないかもしれない。
その予感を振り払うように、アーネストは玄関の扉を開けた。夜の闇の向こうから、遠くサイレンの音が響いている。クラリスの手を強く握り、彼は迷いのない足取りで、闇の中へと踏み出した。
国でもない。勇者でもない。昔の仲間でもない。今の彼に残っているものは、娘だけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
娘を取り戻すため、ついに動き出した勇者アーネスト。
かつて共に戦い、命を預け合った仲間たちであっても――その先にクラリスがいる以上、彼が足を止める理由にはなりませんでした。
王国の勇者として生きてきたアーネスト。
そして、その勇者の娘として何も知らずに暮らしてきたクラリス。
二人にとって当たり前だった日常は、もう以前と同じ形には戻りません。
クラリスを巡って動き始めた者たち。
少しずつ死んでいく王都。
そして、娘を取り戻すためならば、これまで守ってきたものさえ敵に回しかねないアーネスト。
この父娘の物語がどこへ辿り着くのか。
引き続き見届けていただければ嬉しいです。
そして次回――。
物語は、もう一人の少年のもとへ。
誰からも必要とされないまま、王城の地下牢で倒れたレザード。
自分には何の価値もない。
誰も迎えになど来ない。
そう思っていた彼の前に――。
次回、
Ver.3 Arrow Chapter 4-2
「私が君を欲しかったからだ」
「……どうして……?」
その問いに対する答えは、もう決まっています。
次回もよろしくお願いいたします!




