Ver.3 Arrow Chapter 3-3 無価値な王子
今回は少し短めの幕間。
王城の地下牢に囚われた、レザードのお話です。
誰も来ない牢獄で、彼が何を思っていたのか。
どうぞ最後までお付き合いください。
配膳の時間を、レザードは足音で覚えていた。廊下の奥にある重い扉が開き、台車の車輪が石床の継ぎ目を越えるたび、かたん、かたんと乾いた音を立てる。やがて鉄格子の前で止まり、その下に設けられた小さな配膳口から、木椀が押し込まれる。中身は決まって、薄い粥か、硬いパンが一切れだけだった。
粥はいつも冷めかけていて、匙を立てればすぐ椀の底に触れた。それでも、食事は毎日運ばれてきた。見回りの足音と台車の音だけが、窓の小さな牢の中で、時の流れを教えてくれる。日の光の傾き方より、その足音のほうがずっと正確な時計だった。
今日は、そのどちらも聞こえなかった。
レザードは壁に背を預け、配膳口を見つめていた。鉄板の端には昨日の粥が一滴、乾いて白く残っている。そこへ新しい椀が押し込まれるのを、朝からずっと待っていた。高い位置に穿たれた窓から、細い光が差し込んでいる。その光は先ほどまでレザードの膝にかかっていたが、今は石床を離れ、向かいの壁へ移っていた。もう、昼を過ぎている。
最初は、配膳が遅れているだけだと思った。兵士たちにも仕事がある。捕虜一人の食事など、後回しにされることもあるだろう。そう自分に言い聞かせ、光がわずかに動くのを、ただ眺めていた。
けれど、廊下の扉さえ開かない。代わりに、遠くで何かを引きずる音がした。誰かが短く叫び、別の誰かが激しく咳き込む。慌ただしい足音が幾つも重なったかと思うと、不意に途絶える。しばらくして鐘が鳴ったが、その音も数えるほどで止んでしまった。牢の中からは、何が起きているのか分からない。
レザードは耳を澄ませた。声が聞こえるたび、そこから言葉を拾おうとする。だが厚い扉に遮られ、意味を結ぶ前に消えていく。兵士を呼ぼうか、と考えた。何と声をかければいいだろう。食事を忘れていませんか。それとも、外で何かあったのですか。頭の中で言葉を選んでいる間に、また静けさが戻ってしまう。呼びかける機会は、いつもこうして通り過ぎていった。
空腹は、すでに感じていた。腹の底が重く縮み、ときおり鈍く痛む。水差しにはまだ水が残っている。レザードは立ち上がってひと口だけ飲み、残りの量を確かめてから栓を戻した。水差しを置いた手を、そのまましばらく見つめる。
捕らえられたとき、弓も矢も取り上げられた。背に弓の重みはなく、腰にも矢筒はない。長く使ってきたものが身体から消えた感覚には、何日経っても慣れなかった。物音がするたび、指が弦を探すように動く。そこには何もなく、空の手が止まるだけだった。
魔法なら使える。
力そのものを奪われたわけではない。レザードは掌へ意識を向け、魔力を集めようとした。指先の内側に、かすかな熱が生まれる。次の瞬間、壁に刻まれた結界の紋様が鈍く光った。集めかけた魔力は術になる前に散らされ、熱もすぐに消える。何度試しても、結果は同じだった。ここにいる限り、扉を開くことも、外へ声を届けることも、魔法ではできない。
レザードは掌を閉じた。弓矢があれば。そんな考えが浮かんで、すぐに消える。あったとしても、この石壁の向こうを射抜けるわけではない。それでも、何かを握っていられたなら、配膳口を見て待つだけの時間は、少し違ったものになったかもしれなかった。
配膳口の前へ戻っても、何も変わっていない。
「……僕の分は、なくなったのでしょうか」
声に出してみる。返事はない。声は狭い牢の壁に反射して、思ったより大きく響いてから、静かに消えていった。
捕まえた当初、彼らは自分から何かを聞き出したかったのかもしれない。あるいは、身柄を取引に使うつもりだったのか。レザードには知らされていない。ただ、牢は与えられ、食事も運ばれてきた。相手にとって、自分を生かしておく理由があるのだと思っていた。
ラシュカーン・モル・グリムロア大王の末子。
レザードの名を知らない者でも、その肩書きを聞けば顔を変えた。捕らえた者たちも、彼が誰の息子なのかは知っている。だからこそ、こんな牢に閉じ込め、鍵をかけ、毎日食事を運んでいたのだろう。だが今日は、椀一つ来ない。王子という名札にも、もう手間をかける価値がなくなったのか。
「……敵にさえ、無価値ですか」
口元がわずかに動いた。自分を笑ったつもりだったが、うまく笑えたかどうかは分からない。
レザードは昔から、笑うタイミングを決めるのが苦手だった。誰かが冗談を言い、周りが声を上げる。その意味を考えて、「僕も笑っていいのかな」と迷う。答えを出す頃には、皆もう次の話をしている。何か言おうとしても会話へ入れず、黙っているうちに、静かな子だと言われるようになった。今は、待ってくれる相手も、先へ進む会話もない。それでも、自分を笑うまでに一拍かかった。
扉の向こうで、また物音がした。今度は重いものが倒れたような響きだった。続いて人の声が上がる。助けを呼んでいるようにも聞こえたが、複数の足音に紛れ、すぐに遠ざかっていった。レザードは顔を上げた。
牢の外で、何かが起きている。
見回りも配膳も来ない理由が、それなのかもしれない。だが扉の向こうを見ることはできず、いくら考えても答えは出なかった。窓からの光が、少しずつ薄くなっていく。
レザードはもう一度、水差しに目を向けた。立ち上がろうとして、膝にうまく力が入らないことに気付く。長く同じ姿勢でいたせいだろう。そう思い、片手を床について身体を支えた。石が、妙に冷たかった。それなのに、額には汗が滲んでいる。
「……困りましたね」
ひどく小さな声だった。誰かに聞かせるためではなく、自分の状態を、自分自身に言い聞かせるための声だった。
食事が一度抜けただけで、ここまで身体が重くなるはずはない。息を吸うと、胸の奥にざらついたものが触れた。喉がむず痒い。口元へ手を当てたが、乾いた咳が一つ、牢の壁に跳ね返った。扉の向こうでも、誰かが咳をしていた。
レザードはその音の意味を考えようとした。兵士たちも具合が悪いのだろうか。だから、誰もここへ来ないのだろうか。思考がうまくまとまらない。いつもなら聞き分けられる遠くの足音さえ、水の底から響いてくるようだった。
「明日は……」
食事が来るでしょうか。
そう続けようとして、言葉が途切れた。胸が重く、次の息を吸うのに時間がかかる。レザードは壁に背を預け直した。身体が熱い。汗で湿った衣服の下を、寒気がゆっくりと這い上がってくる。
誰かが来たら、まず外で何があったのか尋ねよう。言葉を胸の中で用意する。尋ねる機会が来たとき、会話に遅れないように。
だが、配膳口は夜になっても開かなかった。
昨日の粥の白い跡が残る鉄板の前で、グリムロアの末王子は、もう一度咳をした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
誰にも必要とされず、自分自身を「無価値」だと思い続けてきたレザード。
食事は来ない。
見回りも来ない。
そして最後に残されていた水を口にした彼の身体にも、王都を蝕む異変が静かに忍び寄ります。
誰も来ない牢獄。
誰にも知られない地下深く。
レザードは、このまま「無価値な王子」として消えてしまうのでしょうか。
そして地上では――。
大切な娘を奪われた一人の父親が、剣を手に立ち上がります。
次回、
Ver.3 Arrow Chapter 4-1
「血に染まる同窓会」




