Ver.3 Arrow Chapter 3-2 いつもと同じ、最後の朝
昨日と同じ街、いつもと同じ朝。
けれど、その日常を支えていたものは、もう静かに崩れ始めています。
今回は、クラリスと王都の人々が迎える朝のお話です。
王都の朝は、いつもと同じように始まった。
東の空から差し込んだ淡い陽光が、石造りの建物の屋根を一つずつ照らし、まだ眠気の残る大通りへ長い影を落としていく。電線を伝う街灯が一つずつ消えていき、代わりに工場地帯の煙突から立ち上る白い蒸気が、朝の空気を静かに揺らしていた。歯車を軋ませながら市電が鐘を鳴らして交差点を曲がり、内燃機関の低い駆動音を響かせる自動車が、その後ろへ列を作っていく。頭上では、プロペラを回す小型飛空艇が低い雲の向こうを横切っていた。魔界のように魔力で動く道具はここにはない。この国の文明を支えているのは、あくまで歯車と蒸気、そして電気の力だった。パン屋では焼き立てのパンが棚へ並び、新聞売りの少年は輪転機で刷られたばかりの束を抱えて走り回り、商人たちは眠そうな顔で店先の扉を開けていく。
王都の外れ、崩れかけた建物が身を寄せ合うように立ち並ぶ一角でも、朝は変わらず訪れていた。半魔の奴隷や、身寄りのないホームレスの魔族たちが、路地の隙間からのそりと這い出し、今日も変わらぬ物乞いや荷運びの仕事へと向かっていく。人間より劣ると蔑まれ、まともな治療も、まともな食事も与えられない者たちだったが、それなのに、その足取りは、なぜか誰よりも軽かった。誰も、その軽さの意味に気付いてはいなかった。
街の姿は時代ごとに変わっても、朝が来ることだけは、何百年も変わらなかった。昨日までと、何も変わらないはずの朝。ただ一つ、街のあちらこちらで、咳の音が聞こえ始めていたことを除けば。
◇◇◇
「お母さん、おはようございます!」
クラリス・グレイスは、階段を勢いよく駆け下りながら、家の奥へ声を投げた。
朝の光が少女の淡い茶色の髪へ差し込み、その輪郭を柔らかく照らし出す。王立第一学院の制服を身につけ、鞄を肩へ掛けたその姿は、昨日までと何一つ変わっていない。階段を駆け下りる足取りにも重さはなく、顔色も健康そのものだった。だが、家の奥から聞こえてきた、リディアのものにしては珍しく億劫そうな身動きの音に、クラリスは玄関へ向かう足を止めた。
「お母さん?」
返事は、すぐには来なかった。廊下の奥、寝室の扉はまだ閉じたままだった。普段なら、この時間にはもう台所から鍋のかたかたと鳴る音や、リディアの鼻歌が聞こえてくる。今日はそのどちらもなく、家の中はしんと静まり返っていた。クラリスは鞄の紐を握りしめたまま、しばらくその場から動けずにいた。
しばらくしてから、寝室の方角から、弱々しい声だけが返ってくる。いつもの朝なら、とっくに台所に立っている時間だった。食卓には朝食が並び、クラリスが寝癖を直さず降りてくれば、それを笑いながら注意する――そんな当たり前の光景が、今日はなかった。
「……大丈夫。少し、身体が重いだけだから」
クラリスは玄関から数歩戻り、廊下の奥を心配そうに覗き込んだ。だが、学校へ行く時間は迫っている。リディアの声も、寝込むほどではないと言い聞かせるような調子だった。季節の変わり目なのかもしれない、最近は朝晩が少し冷える――そんな程度の理由を、自分自身へ納得させるように胸の中で並べていく。それでも、胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。
「本当に無理しないでね。帰ったら私、夕飯作るから!」
寝室の向こうから、かすかな笑い声がした。クラリスはそれを聞いて、ようやく少しだけ表情を緩める。料理は得意だと言い切れるほどではない。以前、焦がした鍋を父に黙って捨てようとして見つかったこともある。それでもリディアを休ませるくらいなら、自分にも何かできるはずだった。
「ええ。お願いするわ」
たったそれだけの返事だった。声は掠れていて、いつもより低い。それでも、娘を送り出そうとする気遣いだけは、しっかりと伝わってきた。クラリスは閉じたままの寝室の扉をもう一度だけ見つめ、それから小さく頷くと、再び玄関へ向かい、扉を開けた。
その時はまだ知らなかった。それが――母親と交わす、最後の穏やかな朝の会話になることを。
◇◇◇
王都の街路へ出て、クラリスはすぐに異変へ気付いた。
いつもなら行列のできるパン屋の前に、今日は人がほとんどいない。店主らしい男が椅子へ腰掛け、額へ布を当てていた。その隣では、商品を運んでいた若い店員が荷箱を地面へ置き、壁へ手をついたまま荒い息を吐いている。通りを行き交うはずの市電の音も、心なしか少なかった。歯車の軋む音も、架線が弾く火花の音も、いつもより弱々しい。数分おきに行き交うはずの車両が、今日はなかなか姿を見せない。停留所には、待ちくたびれた顔の人々が列を作り、時折、腕時計や壁の時計を苛立たしげに見上げている。空を仰いでも、いつもなら何隻も浮かんでいるはずの小型飛空艇の姿が、今日は一隻も見当たらなかった。プロペラの音がしない空は、妙に広く、そして静かだった。
さらに先、市電の停留所でも、一人の女性がベンチへ座り込み、何度も咳き込んでいた。その隣のベンチでは、老齢の男が肩で息をしながら杖にすがっている。誰も彼らを笑わない。誰も彼らを気に留める余裕もない。それぞれが自分の足元だけを見つめ、重い身体を引きずるようにして歩いていた。
「……風邪、流行ってるのかな」
クラリスは歩きながら、眉をひそめた。昨日まで、こんな光景ではなかった。一人や二人なら珍しくない。しかし、通りを一本進むたびに、具合の悪そうな人間が目につく。店の開店時間を過ぎているのに、扉が閉まったままの店もあった。道端では、荷車の御者が頭痛を訴えて座り込み、騎士が水筒を渡している。
にもかかわらず、クラリス自身の身体は、不思議なくらい軽かった。
その少し先、路地の入り口では、荷運びをしている半魔の奴隷が一人、平然とした顔で大きな木箱を積み上げていた。人間の店員たちが次々と座り込んでいく中、その奴隷だけは息一つ乱していない。誰もそれを気に留める余裕すらなかった。クラリス自身も、その光景を一瞬だけ視界に入れ、しかしすぐに忘れてしまう程度の違和感でしかなかった。
「私だけ元気……?」
思わず、自分の両手を見る。いつもと同じ水を飲み、いつもと同じものを食べて暮らしてきた。街の人々と何ら変わらない生活を送っている。それなのに、熱もない。咳も出ない。身体の重さもない。むしろ、ここ数日、妙な感覚があった。走れば以前より速く走れる。階段を駆け上がっても息が上がらない。法術実技の授業では、教師に指示された以上の法気が、勝手に身体の中を巡ってしまうことさえあった。
「……なんなんだろう」
答えは出ない。だが、その疑問を押し流すように、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「クラリスー!」
振り返ると、フィオナが大きく手を振りながら駆けてきた。その少し後ろを、エマが急ぎ足で追いかけている。だが、二人とも普段とは少し様子が違った。フィオナは額に汗を浮かべ、エマも何度か小さく咳をしている。
「待ってよ、速いって!」
クラリスは思わず駆け寄った。フィオナが膝へ手をつき、数度大きく息を吸う。その呼吸には、ほんの短い距離を走っただけとは思えないほどの疲労が混じっていた。
「ご、ごめん……なんか今日、身体重くてさ」
エマも自分の胸元へ手を添えた。
「私も。朝から頭痛いし……学院、休もうかと思ったんだけど」
クラリスの表情から笑みが消える。リディアだけではない。街の人々だけでもない。親友二人まで、同じような症状を訴えている。
「二人とも、本当に大丈夫?」
フィオナは無理に笑った。いつもの彼女なら、この程度で弱音など吐かない。むしろ熱があろうと学院へ来て、教師に怒られる側の人間だった。そのフィオナが、今は息を整えるだけで精一杯になっている。
「大丈夫、大丈夫。こんなの寝れば治るって」
だが、その直後。
「けほっ……けほっ!」
乾いた咳が続いた。クラリスは反射的に背中へ手を伸ばす。右手でフィオナの背を支え、もう片方の手で、こぼれ落ちそうになった鞄を咄嗟に受け止めた。エマも慌てて反対側から肩を貸す。二人がかりで支えなければ、その場に座り込んでしまいそうな咳き込み方だった。手のひら越しに伝わってきた身体は、妙に熱かった。
「熱あるじゃない!」
フィオナは困ったように笑った。
「だから言ったじゃん。ちょっと調子悪いって」
クラリスは何も言えなかった。通りを見渡せば、咳をする人、座り込む人、額を押さえる人。物陰でうずくまり、動かなくなっている人影さえあった。通りすがりの誰かが慌てて駆け寄り、名を呼んでいる。救護班らしき腕章をつけた者たちが、担架を担いで走っていくのが遠目に見えた。いつもなら子供の声や物売りの掛け声で賑わっているはずの通りが、今日はどこか静かで、重かった。
そして、その中で一人だけ、何の異常もない自分。胸の奥で、何かが静かに脈打った。
◇◇◇
王立第一学院。その正門をくぐった瞬間、クラリスはさらに異常な光景を目にすることになった。
普段なら生徒で埋め尽くされる中庭が、今日は明らかに閑散としていた。登校している生徒そのものが少ない。来ている者たちも、ベンチへ座り込んだり、友人に肩を借りたりしている。噴水のそばに置かれたベンチの一つでは、上級生らしい男子生徒が膝の間へ顔を埋め、荒い呼吸を繰り返していた。彼のそばに立つ友人も、心配そうな顔をしながら自分自身の頭を押さえている。校舎の窓からは、何度も咳の音が聞こえてきた。
「……これ、絶対おかしいよ」
エマが小さく呟いた。誰も反論しなかった。三人は顔を見合わせ、そのまま教室へ向かう。廊下ですれ違う教師まで顔色が悪い。何人かは授業用の書類を抱えながら、壁へ手をついて歩いていた。事務員が水差しを配って回っているが、受け取る手も震えているように見えた。
そして教室へ入った瞬間、クラリスは足を止めた。
「……少なっ」
席の半分近くが空いていた。いつもなら朝から騒がしい教室が、まるで休日のように静まり返っている。残った生徒たちも元気がない。机へ突っ伏している者、額へ濡れた布を当てている者、咳をこらえている者。窓際の席では、一人の少女が友人の肩を借りて保健室へ向かおうとしているところだった。昨日までの学院ではなかった。
「欠席、多すぎない?」
フィオナが自分の席へ座りながら言った。クラリスも鞄を机へ置く。だが座る前に、窓の外へ視線を向けた。
学院の正門へ、一台、さらに一台と、黒塗りの車両が静かに入ってくる。
「……また?」
クラリスは眉をひそめた。以前にも見た車列だった。学院の生徒が使うようなものではない。教師でもない。磨き上げられた黒い車体。窓は暗く、中の人間の顔は見えない。精密に調整された内燃機関のおかげか、エンジン音さえほとんど立てず、まるで滑るように正門を通り抜けていく。やがて車列は、校舎正面へ止まった。
「クラリス?」
エマが声をかける。だがクラリスは窓から目を離せなかった。車両から降りてきたのは、軍服姿の男たち。そしてその後ろに、上質な衣服を身につけた者たちが続いた。
「……何、あれ」
胸の奥で、先ほどまでとは違う種類の嫌な予感が膨らんでいった。
◇◇◇
同じ頃、王都の別の場所を、アーネストは一人歩いていた。
勇者。かつて王国を救った英雄。その肩書きは、今でも人々の間で特別な意味を持っている。通りを歩けば声を掛けられることも珍しくない。子供たちから手を振られ、商人から商品を押しつけられそうになることすらあった。だが今日は、誰も彼に気付かない。それどころではなかった。
「……どうなっている」
アーネストは低く呟いた。道端に人が倒れている。一人ではない。向こうでも、さらにその先でも。騎士たちが担架を運んでいる。治療院の前には長い列ができていた。法術師たちが患者を次々と治療しているが、治療院の奥からは絶えず新しい患者が運び出されてくる。いつも街を行き交っているはずの荷馬車も、内燃機関の駆動音を響かせる自動車も、今日は数えるほどしか見当たらない。工場地帯からいつも立ち上っているはずの蒸気の柱さえ、今日はどこか細く、頼りなかった。頭上を見上げても、プロペラの音一つ聞こえず、飛空艇の一隻すら飛んでいなかった。歯車と蒸気と電気だけで動いてきたこの国の文明そのものが、今、少しずつ止まりかけている。まるで、街全体が呼吸を止めかけているようだった。
「昨日まで……こんなことは」
アーネストは一人の男へ駆け寄った。男は壁へ背を預け、荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か?」
男がゆっくり顔を上げた。勇者の顔を認識した瞬間だけ、わずかに目が見開かれる。
「ゆ……勇者、様……?」
アーネストは男の肩へ手を添えた。身体が熱い。異常な発熱だった。
「いつからだ?」
男は苦しそうに息を吸う。答えようとした直後、激しい咳に襲われた。胸を押さえ、身体を丸める。その咳が治まるまで、アーネストは黙って背中を支えていた。
「……朝、から……です。最初は、ちょっと疲れてるだけだと……」
その言葉に、アーネストの表情が変わった。
「最初は身体が重かったのか?」
男が頷いた。
「はい……それから、熱が……」
アーネストは立ち上がり、周囲を見た。同じ症状。同じ朝。同じ街。偶然ではない。少し離れた路地の奥では、身なりのみすぼらしい半魔の男が、崩れかけた壁にもたれて座り込む人間たちの間を、平然とした足取りで通り抜けていくのが見えた。誰も彼を気にしていない。だがアーネストの目には、その一瞬の光景が、妙に引っかかって残った。
「……病気?」
口にして、自分で否定した。あまりにも一斉すぎる。王都全域で、同じ朝に、同じような症状が出始めている。
「いや……」
何かが起きている。英雄として幾度も戦場を経験してきた男の直感が、そう告げていた。
◇◇◇
昼を過ぎる頃、王立第一学院では、授業そのものが成立しなくなりつつあった。
「今日は……ここまでに、しましょう」
コリン・ウェイドが教壇へ手をついた。普段は快活な教師だったが、今日は顔色が悪く、額には汗が浮かんでいる。授業中にも何度か咳をしており、法術実技など行える状態ではなかった。教科書を持つ手も、わずかに震えている。
「先生、本当に大丈夫ですか?」
クラリスが立ち上がった。教室の視線が一斉に集まる。だが、コリンは苦笑して手を振った。
「教師が生徒に心配されてどうする。大丈夫だよ、クラリス」
その声にも力がない。クラリスは唇を噛んだ。周囲を見渡せば、フィオナは机へ突っ伏し、エマも頬杖をついて目を閉じている。元気なのは――。
「……私だけ」
口から、無意識に言葉が漏れた。その瞬間、教室の扉が開いた。全員の視線が向く。立っていたのは教頭のセシリア・モーガンだった。
「クラリス・グレイスさん」
名を呼ばれた。クラリスは目を瞬かせる。
「はい?」
セシリアの表情は硬かった。普段の学院生活では見たことのない、妙に緊張した顔だった。背後には軍服姿の男が二人。そのさらに奥には、見知らぬ職員らしき者たちが待っている。誰も口を開かず、ただクラリスの動きだけを見ていた。
「校長室へ来てください」
教室がざわついた。クラリスも困惑する。
「私、ですか?」
セシリアは頷いた。
「ええ」
短い返答だった。理由の説明はない。クラリスは一瞬、フィオナとエマを見る。
「何かやったの?」
フィオナが机へ伏せたまま、小声で笑った。いつもの軽口、それだけで、クラリスは少し安心した。
「やってないよ!」
エマも弱々しく笑う。
「クラリスなら分からないよ?」
「エマまで!?」
ほんの一瞬、いつもの三人に戻った。クラリスは頬を膨らませ、それから鞄を置いたまま教室を出る。その背中へ。
「クラリス」
フィオナが呼びかけた。クラリスが振り返る。フィオナは少し苦しそうに、それでも笑っていた。
「早く戻ってきてね」
クラリスも笑う。
「もちろん!」
それが、クラリスが学院で親友へ向けた、最後の明るい笑顔になった。
◇◇◇
廊下を歩く。セシリアが前、クラリスが中央、その後ろを軍服姿の男たちがついてくる。妙だった。校長室へ呼ばれただけなら、こんな人数はいらない。足音はぴったりと揃い、まるで逃げ道を塞ぐように、クラリスの左右をわずかに囲むような並びで進んでいく。
「教頭先生」
セシリアの肩が僅かに動いた。
「なんでしょう」
クラリスは歩きながら首を傾げる。
「私、何かしました?」
セシリアは答えなかった。足音だけが廊下へ響く。一歩、また一歩と、沈黙だけが積み重なっていく。
「……先生?」
ようやく、セシリアが口を開いた。
「あなたは、何も悪くありません」
クラリスは立ち止まりかけた。言葉の意味が分からなかった。
「だったら、なんで――」
セシリアは振り返らない。ただ前を向いたまま。
「ごめんなさい」
クラリスの足が止まった。その瞬間、背後から腕を掴まれた。
「え?」
振り返ると、軍服姿の男だった。
「ちょ、ちょっと!」
反対側の腕も掴まれる。
「離してください!」
クラリスが身体を捻った。だが男たちは離さない。両側から腕を固定され、爪先立ちになるほどの力で引きずられていく。
「教頭先生!」
セシリアは振り返った。顔色が青ざめていた。目を合わせることすらできないように、視線を僅かに逸らしている。
「先生!」
クラリスの声が廊下へ響いた。
「何なんですか!? 私、何もしてない!」
セシリアの唇が震える。何かを言おうとして、結局、何も言えなかった。
「クラリスさん……」
ただ、もう一度。
「……ごめんなさい」
それだけだった。
◇◇◇
クラリスは連れて行かれた。校長室ではなく、裏口。校舎正面に止まっていた車列とは別に、裏口にはすでに一台の黒塗りの車両が回されていた。
「嫌っ!」
クラリスが足を踏ん張る。だが、男たちは両腕を掴んだまま進む。踵が石畳を擦り、鞄を置いてきたことにさえ気付く余裕がなかった。
「放して!」
胸の奥が熱くなる。突然、男の腕が僅かに弾かれた。
「っ!?」
クラリス自身が一番驚いた。何をしたのか分からない。ただ、身体の奥から何かが溢れた。法気――学院で学んでいるものとは比べものにならないほど濃い力が、一瞬だけ全身を走り抜けた。
「この子……!」
軍服の男たちの顔色が変わる。クラリスは自分の手を見る。
「な、に……今の……」
もう一度同じ力を出そうとしても、身体の奥は静かなままだった。恐怖に強張った今のクラリスには、どうすればあの力が出るのかさえ分からない。
だが、考える時間は与えられなかった。別の男が後方から押さえ込む。
「対象の覚醒反応を確認」
聞き慣れない言葉に、クラリスの顔から血の気が引く。
「覚醒……?」
黒塗りの車両の扉が開く。その暗い車内が、まるで巨大な獣の口のように見えた。
「嫌……」
初めて、恐怖が、はっきりと形になった。
「お父さん……」
幼い頃、怖い夢を見た夜も、転んで膝を擦りむいた時も、困ったことがあれば必ず助けてくれた。王国の勇者。クラリスにとっては、ただ一人の父親だった。
「お父さん……!」
少女の声が、学院の裏庭へ響く。
「お父さん――っ!!」
扉が閉まった。黒塗りの車列が、ゆっくりと王立第一学院を離れていった。
◇◇◇
夕刻、アーネストが自宅の扉を開けた時、家の中は異様なほど静かだった。窓の外はすでに薄暗く、通りには街灯がぽつぽつと灯り始めている。いつもなら仕事帰りの人々や、走り抜ける自動車の音で賑わう時間だったが、今日はその音がほとんど聞こえない。
「ただいま」
返事がない。靴を脱ぎ、奥へ進む。食卓には、朝食の並んだ様子もなく、水の入ったグラスが一つ、手をつけられないまま置かれているだけだった。台所にも人影がない。
「……おい?」
胸騒ぎを覚えながら寝室へ向かい、扉を開ける。妻のリディアはベッドへ横たわっていた。
「おい!」
アーネストは駆け寄り、額へ手を当てた。焼けるような熱さだった。息も浅く、声をかけてもすぐには反応が返ってこない。ただの疲れではないことは、触れた瞬間に分かった。
「どうした!?」
リディアが薄く目を開ける。声を出すだけでも、辛そうだった。
「あなた……」
アーネストは水を取り、身体を起こした。
「飲めるか?」
リディアはほんの少しだけ口をつけた。だが、すぐに咳き込む。
「クラリス……まだ、帰ってないの」
アーネストの動きが止まった。
「何?」
窓を見る。もう夕方だった。学院の授業が終わってから、十分すぎる時間が経っている。
「友達と寄り道じゃないのか?」
リディアは弱々しく首を振る。
「連絡も……ないわ」
アーネストは立ち上がった。胸騒ぎが、一気に膨れ上がる。
「学院へ連絡する」
その時、壁際に据えられた通信端末が鳴った。鋭いベルの音が、静まり返った家の中に異様なほど大きく響く。アーネストはすぐに取った。
「俺だ」
相手は、古くからの仲間だった。声が低く、普段とは違う。
『アーネスト』
「どうした」
一瞬、向こうで息を呑む音がした。
『クラリスのことで話がある』
アーネストの顔から、表情が消えた。
「……何を知っている」
数秒の沈黙があった。それだけの間が、異様に長かった。
『エルディオ・レイン侯爵だ』
アーネストの瞳が細くなる。
『クラリスは侯爵の命令で、研究施設へ移送された』
「……何?」
声が低くなる。勇者として幾千の敵を前にしてきた男の声ではなかった。一人の父親の声だった。
「今、なんと言った」
『研究施設だ』
アーネストの拳が震えた。電話を握る手に力が入る。
「なぜだ」
返事がない。
「なぜ、俺の娘が研究施設にいる」
『……勇者の血を調べるためだ』
その一言で、何かが切れた。アーネストは目を閉じた。リディアが苦しそうに横たわっている。街では人が倒れていた。そして娘は、知らない場所へ連れ去られた。
「場所を教えろ」
『アーネスト、待て』
「場所を教えろ」
『落ち着け。相手は侯爵家だけじゃない。軍も、研究機関も――』
「そんなことは聞いていない」
声は静かだった。怒鳴ってはいない。だからこそ、電話の向こうの男は、言葉を失った。
「俺は今、娘がいる場所を聞いている」
長い沈黙のあと、やがて住所が告げられた。アーネストは一度だけ復唱した。
「分かった」
『待て、アーネスト! 一人で行くな! 俺たちも――』
「必要ない」
通話を切ろうとして、アーネストの指が止まる。
「……一つ聞く」
『なんだ』
アーネストは目を細めた。
「お前は、どうしてそんなに詳しい?」
電話の向こうが、完全に沈黙した。その一瞬で、戦場を生き抜いてきた勇者には、十分だった。
「……そうか」
『アーネスト、違う。これは――』
「あとで聞く」
『待て!』
「生きていたらな」
通話が切れた。アーネストは静かに通信端末を置いた。その顔から、迷いが消えていた。寝室ではリディアが苦しそうに眠っている。街では何千、何万もの人間が倒れ始めている。そして、たった一人の娘が、国のどこかで、助けを待っている。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの名残さえ消え、完全な夜に沈んでいた。
「クラリス」
アーネストは壁へ掛けてあった剣へ手を伸ばした。かつて、この国を守るために振るった剣。人々から勇者と呼ばれる理由になった剣。その柄を、今度は、娘を奪った侯爵と、それに与する者たちへ立ち向かうために握り締める。
「待っていろ」
鞘に納めたままの剣を腰へ佩くと、金具が鈍く鳴った。
「父さんが行く」
その夜、王国の勇者は、初めて、娘を奪った王国の権力者たちを敵として見た。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
昨日までと変わらないはずだった朝。
けれど王都では、人々が次々と倒れ始め、クラリスの日常にも、少しずつ異変が忍び寄ってきました。
そして――王都で起きていることを、まだ何も知らない者がもう一人。
華やかな王城の、そのさらに地下。
誰からも忘れられた牢獄で、一人の少年が今日も配膳の足音を待っています。
次回、
Ver.3 Arrow
幕間「無価値な王子」
誰も来ない。
食事も来ない。
残されていたのは、一杯の水だけ。
次回もよろしくお願いいたします!




