Ver.3 Arrow Chapter 3-1 静かに死にゆく街
レザード救出へ向けて動き出したリゼルたち。
その頃、王都の人々はまだ、いつもと同じ明日が来ると信じています。
王都北区
王都北区。夜の街並みから少し離れた場所に、巨大な石造建築が黒々と横たわっていた。高い外壁に囲まれ、幾本もの塔が夜空を突き刺すように立ち並び、等間隔に灯された法導灯が敷地全体を淡く照らし出している。敷地の奥からは、昼夜を問わず稼働し続ける法導機関の低い振動音が、途切れることなく響いていた。
王都で暮らす人々にとって、そこは決して華やかな場所ではない。王城でもなければ、市場でもない。劇場でも、神殿でもない。けれど、毎朝、当然のように水が手に入る。喉が渇けば飲める。料理にも、洗濯にも、身体を洗うことにも使える。王都に暮らす無数の人々の日常を、誰にも意識されることなく静かに支えている場所――それが、王都北区給水施設だった。
その正門の前に、三人の少女が立っていた。
◇◇◇
「――《シャドウ・ヴェール》」
リゼルの細い指先から、淡い黒色の魔力が広がった。それは夜気へ溶け込むように三人の身体を包み込み、瞬く間にその輪郭を曖昧にしていく。続けて、間を置かず二つ目の呪が紡がれた。
「《ミスリード・アイ》」
空気が、僅かに揺れた。姿を消す魔法ではない。三人は確かにそこにいるし、見ようと思えば、その姿を見ることもできる。しかし、見たはずなのに、意識へ残らない。視界に入っても、人間の脳がそれを重要な存在として認識しないのだ。そして最後に三つ目の呪が続く。
「《マナ・サイレンス》」
今度は、少なくとも目には何も起こらなかった。けれど、直前まで三人の身体から滲み出していた魔力の気配が、綺麗さっぱり消え失せている。
リゼルは自分の両手を眺め、満足そうに頷いた。
「よし」
その横で、メアが深々と頭を下げる。膝を折り、頭を垂れるその所作には、寸分の乱れもなかった。
「お見事でございます、お嬢様」
感嘆と敬意が、そのまま声になったような言葉だった。
「三つ同時は久しぶりだな。多少は魔力を食うが、この程度なら問題ない」
リゼルは、自分の掌をなおも眺めながら、事も無げに答える。並の魔術師であれば一つ紡ぐだけでも息を切らすような呪を、三重に重ねてなお、その顔には疲労の色一つ浮かんでいなかった。
メリュジーヌが口元へ指を添え、くすりと笑みを零した。
「あらぁ。これでは潜入というより、お散歩ですわねぇ」
冗談めかした声音の奥に、この程度の警戒などまるで意味を成さない、という含みが滲んでいる。
「そうだな」
リゼルは正門を見据えると、小さく肩を竦めてみせた。
「では、散歩しようか」
塀を越える必要もない。屋根から忍び込む必要もない。三人は、正面から、あまりにも普通に、その敷地の中へと足を踏み入れていった。
◇◇◇
門には、警備員が二人いた。一人は大きく欠伸を漏らし、もう一人は手元の記録板をぼんやりと眺めている。三人は、その真正面を悠々と通り過ぎていく。数歩、十数歩と歩を進めたところで、リゼルはわざわざ足を止め、警備員の顔を覗き込んでみせた。男の視線が、一瞬だけリゼルへ向く。目が、合った。
「…………」
しかし警備員は、何事もなかったかのように、すぐに視線を戻してしまう。
「交代まだかよ」
欠伸をしていた方の警備員が、気だるげに壁へ寄りかかりながら零した。夜番の退屈さを持て余しているのが、その声色だけで分かる。もう片方は、記録板から視線を上げもせずに応じた。
「あと一時間」
「なげぇな」
壁に背を預けたまま、大きく伸びをする。骨が鳴るような音がした。夜はまだ長い。三人の少女が、その真横をすでに通り過ぎていることになど、二人はまるで気付いていない。
「昨日お前、寝坊しただろ」
記録板の男が、思い出したようにそう切り出した。責めるというより、からかうような口調だった。
「それは昨日の俺だ」
悪びれもせず、あっさりとした返し。
「今日のお前も昨日と同じ顔してるぞ」
からかいはさらに続く。記録板の男の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「俺の顔は毎日同じだろ」
隣の男が、たまらず吹き出した。何気ないやり取りが、夜の警備の退屈を紛らわせているらしい。リゼルは、そんな二人の脇を歩きながら、小さく笑う。
「便利だな」
誰にも見咎められることなく通り過ぎていく自分たちの姿を、いまだに面白がっているらしい。
「お嬢様の魔法でございますので」
メアが、当然のように答える。功績を誇るでもなく、ただ事実を述べただけの声だった。
「褒めても何も出ないぞ?」
リゼルは、からかうように片眉を上げる。
「では、嫁として当然の評価を申し上げただけでございます」
メアは表情ひとつ変えず、そう言い切った。
リゼルがメアを見る。呆れとも、面白がっているとも取れる目つきだった。
「そこに嫁を入れる必要はあるのか?」
「ございます」
即答だった。迷いも、間もない。メリュジーヌが肩を揺らして笑う。
「あらぁ。相変わらず強いですわねぇ」
感心したような、面白がっているような声だった。
「何がだ?」
「嫁圧ですわぁ」
メリュジーヌは、くすくすと笑いながら付け加える。
「そんな圧力の単位は知らないぞ」
◇◇◇
施設内部は、冷たい石造りの通路が奥へと続いていた。壁際には無数の法導管が這うように走り、一定間隔で置かれた法導灯が、静かな廊下をぼんやりと照らしている。遠くから、ごうん、ごうんと、巨大な何かが動き続ける低い音が響いてきた。まるで建物そのものが、生きているかのようだった。
先頭を歩くメアが、不意に足を止める。
「お嬢様」
メアの声が、ふと低く落ちた。歩調はそのままに、しかし視線だけが、通路の先へと据えられている。
「ん?」
リゼルは、その僅かな変化だけで、彼女が何かを察知したのだと悟った。
「前方。三名」
感情を交えない、戦闘要員としての簡潔な報告だった。
「気付いているよ」
リゼルは軽く応じた。すでに気配を捉えていたことを、隠す様子もない。
「失礼いたしました」
メアが、僅かに目を伏せる。主がとうに把握している事柄を、わざわざ言葉にしてしまったことを、恥じているようだった。
「いや」
リゼルは微笑んだ。
「報告は続けてくれ。お前の目と耳は信用している」
たとえ自分がすでに気付いていたとしても、それとこれとは話が別だ――そう言いたげな声だった。
「はい」
ほんの少しだけ、メアの表情が柔らかくなった。
やがて、通路の先に三人の職員が現れる。一人は書類束を抱え、一人は工具箱を提げ、もう一人は飲み物らしきカップを手にしていた。
「だから、今日終わったら飲みに行こうぜ」
「無理だって。明日朝早い」
「またかよ」
「じゃあお前代わってくれる?」
「絶対やだ」
「なら諦めろ」
「薄情な奴だなぁ」
三人は笑いながら、リゼルたちの真横を通り過ぎていく。誰も、振り返らなかった。メリュジーヌが歩きながら、ぽつりと呟く。
「普通の方々ですのねぇ」
メリュジーヌが、去っていく職員たちの背中を目で追いながら、しみじみと呟いた。何気ない口調の裏に、観察者としての冷静な視線が透けている。
「そうだな」
リゼルも短く同意した。特別な力も、特別な立場も持たない、ただの人間たち――そういう者たちが、この施設の日常を支えている。
「兵士でもありませんわ」
メリュジーヌが、さらに付け加える。腰にも、手にも、武器らしきものは何一つ見当たらなかった。
「そうだな」
「研究者でも」
白衣の類も、専門的な道具も持っていない。ただ、書類と工具箱と、飲み物のカップだけだった。
「たぶん違うだろう」
リゼルの返事は、いつもより少しだけ緩やかだった。彼らの正体を詮索することに、さほど意味はないと分かっているからだろう。
「ただ働いているだけ」
メリュジーヌが、結論のようにそう締めくくった。
リゼルは一度だけ背後を振り返った。職員たちは、もうこちらなど見ていない。ただの通路の空気のように、意識の外へ消えている。ただ働いているだけの者たちらしく、余計な詮索心も、警戒心も持ち合わせていないようだった。
「そうみたいだな」
リゼルの声には、憐憫でも嘲りでもない、ただの事実確認のような響きしかなかった。自分たちがどれほど堂々と歩いていようと、この施設で働く者たちの意識には、欠片も引っかからない。それが、リゼルの操る認識阻害魔法の効力を、何よりも雄弁に物語っていた。
メリュジーヌが笑った。喉の奥で転がすような、くすくすとした笑いだった。
「可哀想ですわねぇ」
自分たちの姿を見ることも、記憶に留めることもできない――そんな彼らを気の毒がるような口ぶりでありながら、その声にはどこか愉快そうな響きが滲んでいる。
リゼルも、釣られるように笑う。
「そうかな?」
◇◇◇
さらに奥、重厚な扉の向こうで、三人の視界が一気に開けた。
「……ほう」
リゼルが足を止める。眼下、遥か下に、巨大な水面が広がっていた。室内だというのに、まるで湖のような光景である。法導灯から落ちる光が、広大な水面に細長く反射し、揺れている。波はほとんどなく、透明で、澄んでいて、どこまでも清らかに見えた。
リゼルは手すりへ両手を置き、眼下を覗き込む。
「ずいぶん大きいな」
メアが隣へ並んだ。眼下に広がる水量を、しばし黙って見下ろす。
「これほどの規模であれば、王都のかなり広い範囲を支えているのでしょう」
「なるほど」
メリュジーヌは、水ではなく、周囲の設備や法具、天井や通路――そして最後に、リゼル自身へと視線を移していく。
「リゼルちゃん」
メリュジーヌが、ふと真顔になって声をかけた。それまでの間延びした空気とは、少し違う響きだった。
「なんだ?」
リゼルも、その変化を察して視線を向ける。
「少々問題がございますの」
「ほう?」
興味深そうに、リゼルが先を促した。
「わたくしの毒なのですけれどぉ」
「うん」
「生成中は、どうしても魔力を外へ出す必要がございますの」
「それが?」
まだ話の要点が見えず、リゼルは首を僅かに傾げた。
メリュジーヌが困ったように眉を下げた。
「今、リゼルちゃんが使っております隠密魔法、認識阻害魔法、それから魔力感知無効化魔法」
指折り数えるように、三つの魔法の名を並べていく。
「ああ」
「相性が悪いですわぁ」
「どの程度?」
リゼルは、あっさりと本題を尋ねた。
「非常に」
「簡潔だな」
その端的すぎる返答に、リゼルは思わず苦笑を漏らす。
「だってぇ」
メリュジーヌは、少し頬を膨らませる。言葉を飾る余裕もないほど、事は深刻らしい。
「リゼルちゃんの魔力量が高過ぎますの」
「私のせいか?」
リゼルが、心外だとばかりに眉を上げた。
「そうですわぁ」
「ひどいな」
「わたくしが毒を生成しようとしても、毒へ込める魔力までリゼルちゃんの魔法に押さえ込まれてしまいますの」
リゼルは数秒、考え込む。原因が自分にあると分かった以上、対処もまた自分の役目だろう。
「つまり?」
「解除してくださいまし」
メリュジーヌは、あっさりとそう告げた。遠慮も、駆け引きもない、率直な要求だった。
「分かった」
リゼルの返答は、迷いなく即座だった。
「早いですわねぇ」
メリュジーヌが、少し驚いたように目を丸くする。
「必要なんだろ?」
「必要ですわ」
「なら解除する」
理屈は単純だった。必要ならば与える。それだけのことだ。
メアが一歩前へ出る。護衛としての役目を、誰に言われるでもなく引き受ける構えだった。
「では、解除中の警戒は私が」
「頼む」
「御意」
リゼルが、ぱちん、と指を鳴らした。その瞬間、三人を覆っていた魔法が消える。存在も、姿も、そして魔力も――すべてが、一斉に世界へ戻った。
メリュジーヌがにっこりと笑う。
「では――始めますわねぇ」
◇◇◇
メリュジーヌが床へ膝をつく。両手を前へ突き出すと、たちまち魔力が集まり始めた。紫、黒、そして腐った苔のような緑――三色の魔力が絡み合いながら螺旋を描き、圧縮され、小さな、禍々しい球体へと変わっていく。瓶でもなければ、粉末でも、液体でもない。メリュジーヌ自身の魔力によって生成される、この世界にしか存在しない魔力性の呪毒だった。
リゼルは腕を組んで、その様子を見ていた。
「時間は?」
リゼルが、静かに問いかけた。眼下に広がる巨大な水面と、床に膝をついたまま両手を掲げ続けるメリュジーヌの横顔とを、交互に見比べるような視線だった。焦りは感じられない。ただ、経過を確かめる者の、落ち着いた声音である。
「もう少しですわぁ」
メリュジーヌの返事は、集中を乱された様子もなく、いつもの甘い調子のままだった。両手の間で渦を巻く紫と黒と緑の光が、答えに合わせるように、ほんの僅かに強さを増す。生成の工程は、まだ途中らしい。
「焦らなくていい」
リゼルはそう告げると、再び水面へ視線を戻した。急かして質を落とすくらいなら、多少の時間などいくらでもくれてやる――そういう態度が、その一言だけで十分に伝わってくる。
「ありがとうございますの」
メリュジーヌの声に、ほんの僅かな安堵が滲んだ。集中を要する作業の最中、主人からの余計な急かしがないというのは、それだけでありがたいことらしい。
「失敗される方が困るからな」
だが、続くリゼルの言葉には、思いやりというより実利の色が濃かった。優しさではなく、あくまで合理性による判断だと、わざわざ言い添えたようなものである。
「あらぁ。そちらですの?」
メリュジーヌが、手を止めることなく、面白そうに片眉を上げた。労いの言葉かと思いきや、蓋を開けてみれば単なる打算だったという、ある種の肩透かし。だが、それを咎める響きは、どこにもない。
「もちろん」
リゼルは悪びれる様子もなく即答した。
「正直ですわねぇ」
メリュジーヌがくすりと笑う。その笑みには、呆れよりも、むしろ好ましく思っているような色が混じっていた。
リゼルは再び眼下を眺めた。眼下に広がる水面は、相変わらず何事もないかのように静かで、澄んでいる。あと少しで、その清らかな見た目の裏側に、恐ろしい呪毒が忍び込むことになる。そう思うと、覗き込む視線にも、どこか楽しげな色が差した。
「しかし」
少し考える。
「これ、本当に普通の浄化では消えないんだろうな?」
万が一にも人間側の対策で無効化されるようでは、せっかくの仕込みが台無しになる。リゼルにとって、そこは念を押しておくべき重要な一点だった。
「消えませんわ」
メリュジーヌは、魔力を練りながら、迷いなく答えた。作業に集中しながらも、こうした問いへは即座に反応できるあたり、彼女にとって毒の理屈は、いちいち考えるまでもない基礎知識のようなものらしい。
「普通の毒とは違いますもの」
「ふむ」
リゼルは短く相槌を打ち、続きを促した。
「水の中へ何かが混ざっているわけではございませんの」
「では?」
「水そのものへ、魔力的な呪毒として溶け込みますの」
リゼルの眉が上がる。混ぜ物ではなく、水そのものの性質を変質させる――その一言だけで、この呪毒がいかに厄介な代物であるかが窺えた。
「つまり、見た目は?」
「ただの水ですわぁ」
「調べても?」
「少なくとも、普通の水としてしか見えませんの」
メリュジーヌは、どこか自慢げに、そう付け加えた。どれだけ検査されようと、見た目にも、成分にも、異常などどこにも現れない――その完成度の高さこそが、彼女の腕の見せ所だと言わんばかりだった。
「なるほどな」
リゼルの口元が、僅かに上がった。
「性格が悪い」
「褒め言葉ですの?」
「もちろん」
「あらぁ❤︎」
◇◇◇
リゼルは、何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ。そうだ」
空間収納へ手を突っ込む。ずしり、と重みのある大きな木箱が一つ、続けてもう一つ、さらに、さらに――次々と引き出されていく。メリュジーヌの視線が、完全にその木箱へ釘付けになった。
「……リゼルちゃん?」
「続けていいぞ」
「いや、その……」
リゼルが一つ、蓋を開ける。中には、整然と並べられた小瓶。その一本一本の中で、淡い金色の液体がぼんやりと輝いていた。メリュジーヌが硬直する。
「え」
その横に、さらに同じ箱。そして、また同じ箱。メアが淡々と数を確認していく。
「お嬢様」
メアは、木箱を一つずつ数えながら、淡々と口を開いた。
「うん」
「千本は超えております」
「千二百くらいだったかな」
リゼルは、なんでもないことのように答える。桁違いの数字を口にしているという自覚は、その口調のどこにも見当たらなかった。
「り」
メリュジーヌが、ようやく口を開く。声は、まだ半分うわずったままだった。
「り?」
「り、リゼルちゃん」
「なんだ?」
「こ、これ……」
「エリクサーだぞ?」
リゼルは、当たり前のことを聞かれたとでも言うように、あっさり答えた。
「それは分かりますの!」
珍しく、声が裏返っていた。木箱の中身が何であるかは、見れば一目瞭然である。メリュジーヌが問いたかったのは、そんなことではないらしい。
「これ……いくらくらいになりますの?」
リゼルは少し考える。
「君のクソ父上であるノクタール侯爵閣下の年収三年分くらいだな」
「…………」
メリュジーヌが、言葉を失った。
「まぁ」
リゼルは平然としたまま。
「必要経費だ」
まるで消耗品の値札でも見るような、あっさりとした口ぶりだった。
メリュジーヌが毒を練りながら、じぃぃっとリゼルを見つめる。値段への驚きは、いつの間にか別の疑念へと変わっているらしかった。
「……リゼルちゃんって、本当に六歳ですの?」
「六歳だぞ?」
リゼルは、心底不思議そうに首を傾げた。
「そういう問題ではございませんの」
メリュジーヌは、呆れたように、それでいてどこか諦めたようにため息をつく。この手の話を真面目に問い詰めたところで、まともな答えが返ってこないことは、付き合いの中で嫌というほど分かっているのだろう。
「何がだ?」
リゼルは、本気で分からないという顔をしていた。
「あと」
メリュジーヌが、話題を切り替えるように、もう一つ付け加える。
「うん」
「クソ父上でも、一応はわたくしの父上なんですからぁ」
少し拗ねたような、それでいて律儀な物言いだった。侮辱そのものを否定するわけではない、というあたりが、彼女らしいところでもある。
「そうだな」
リゼルは、あっさりと頷いた。認めるところは、あっさり認めるらしい。
「本人を前には言わないでくださいまし」
念を押すように、メリュジーヌが付け加える。
「すまんな、メル」
リゼルは、あっさりと謝った。悪気があったわけではない、とでも言いたげな声だった。
「分かってくだされば――」
メリュジーヌが、ほっと胸を撫で下ろしかけた、その矢先。
「私の仲間に侮辱を与えた者は、たぶん一生クソのまんまだ」
「…………」
メリュジーヌの口が、半開きになる。謝罪の言葉かと思えば、蓋を開けてみれば、まるで謝る気の欠片もない発言だった。
「……謝る気ありませんわね?」
「あるぞ?」
「どこにですのぉ?」
「メルに対しては」
クソ父上に対しては謝るつもりなど毛頭ない、という区別だけは、はっきりしているらしい。
「もぅ」
困ったような、呆れたような、けれどどこか嬉しそうな笑顔だった。
「リゼルちゃんったら、優しいのだか、恐ろしいのだか……」
その時。
「あらぁ?」
メリュジーヌが、ふと顔を上げた。足音が近付いてくる。
◇◇◇
「おい!」
怒鳴り声が響いた。通路の奥に、警備員が一人立っている。こちらを完全に見据えていた。先ほどまでの、誰にも意識されない静寂が嘘のような、鋭い声だった。
「お前ら!」
腰の武器へ手を伸ばす。その動きに迷いはない。少なくとも、この男の目には、三人の少女がはっきりと映っているらしかった。
「そこで何をして――」
リゼルが、ゆっくりと振り向いた。怒鳴られたことに驚いた様子は、欠片もない。むしろ、ようやく退屈が終わったとでも言いたげな、余裕のある動きだった。
「おや」
にこにこと。
「見つかってしまったか」
声には、緊張の色など一つもなかった。まるで、隠れんぼで見つかった子供のような、軽い調子だった。
「動くな!」
警備員が一歩踏み出す。手にした得物を構え、声を張り上げた。
「何者だ!」
その誰何に、答える義理などないとでも言うように、リゼルは、笑顔のまま。
「こんにちは、下等生物」
「な――」
男が、言葉の意味を理解する間もなかった。
そして。
「死ね」
リゼルの視線が、ほんの一瞬だけ、メアへ向いた。それだけで十分だった。ひゅん、と空気を切る小さな音。次の瞬間、警備員の身体が、ずれる。上半身と下半身が、綺麗に二つに分かたれていた。遅れて、血。ぱた、ぱた、ぱたと、石床へ落ちていく。
メアがゆっくりと右手を下ろした。リゼルは感心したように目を丸くする。
「さすがは私の嫁だ」
メアが一礼する。
「恐れ入ります、お嬢様」
◇◇◇
やがて、メリュジーヌの両手の間で、禍々しい魔力が完全な形となった。紫、黒、緑――三色の光が互いを食らい合いながら、一つに溶け合っている。メリュジーヌが眼下の水へ、そっと両手を伸ばした。そして、歌うような声で、その名を告げる。
「――《インビジブル・ベイン》」
ぽちゃん、と小さな音を立てて、魔力の塊が巨大な水面へ落ちた。次の瞬間、水が変わる。
「……ほう」
リゼルの瞳に映ったのは、毒々しい緑。腐り果てた沼のような色。黒い筋が、どろり、どろりと広がっていく。まるで何千、何万という死体を沈め、そのすべてが水の底で腐敗しているかのような、悍ましい色だった。だが、それも一瞬のこと。次の瞬間には、もう消えていた。透明で、澄んでいて、どこまでも清らかに見えた。最初と、何一つ変わらない。
リゼルは身を乗り出した。
「うまくいったようだな」
「はい」
メリュジーヌが立ち上がる。満足げに、恍惚とした表情で。
「完璧ですわぁ」
「どんな具合だ?」
「もう水そのものへ呪毒が馴染んでおりますの」
「症状は?」
リゼルが、すぐに訊いた。メリュジーヌは嬉しそうに振り返る。
「気になりますの?」
「当然だろう」
リゼルは眼下を見たまま。
「使う以上は仕様を把握しておきたい」
「あらぁ」
メリュジーヌが一本、指を立てた。
「まず最初は、身体が重くなりますの」
「どの程度?」
「本人が『少し疲れておりますのかしらぁ』と思う程度ですわ」
「つまり、まだ異常だとは思わない」
「その通りですの」
二本目。
「それから発熱」
「熱か」
「はい。それから頭痛」
三本目。
「次に咳ですわ」
「咳?」
「最初は軽い咳」
メリュジーヌが自分の胸へ手を当てる。
「それが徐々に酷くなって」
にっこりと。
「息をすること自体が苦しくなりますの」
「呼吸困難か」
「ええ」
「その次は?」
「嘔吐」
リゼルが少し眉を上げた。
「かなり病気らしくなってきたな」
「そう見えるようにしておりますものぉ」
メリュジーヌは、種明かしをするように、悪びれもせず笑ってみせた。病人らしく見えるよう調整すること自体が、彼女にとっては当然の技術であるらしい。誰かを苦しめるための工夫を、まるで料理の隠し味を語るような気軽さで口にする。その落差こそが、彼女という毒使いの本質だった。
「性格が悪いな」
リゼルは、呆れているようで、しかしどこか感心したような声で呟いた。非難ではなく、評価の言葉であることは、その口調だけで十分に伝わってくる。
「あらぁ❤︎」
メリュジーヌの声が、一段跳ね上がった。頬に手を当て、心底嬉しそうに身を捩る。悪人だと言われて赤面する令嬢など、そう多くはいないだろう。
「褒めている」
リゼルが念を押すように付け加える。誤解のないように、という配慮のつもりらしい。
「もちろん分かっておりますわぁ」
メリュジーヌはさらに指を折っていく。指の一本一本に、これから訪れる症状を一つずつ割り当てていくような、丁寧な仕草だった。
「その後、もう一度」
メリュジーヌの声には、まだ続きがあるのだと言いたげな、余裕のある響きがあった。まるで楽しい遠足の予定を数えているような口ぶりで、彼女は次の指を折る。
「もう一度?」
リゼルが、僅かに片眉を上げる。一度熱と頭痛と咳を経由させた後に、さらにもう一段階あるという話の運びに、興味を惹かれたらしい。
「熱が上がりますの」
「どれくらい?」
リゼルは、症状の重さを測るように、具体的な度合いを尋ねた。感覚的な形容ではなく、数字か、それに近い基準を求める問い方だった。
「急激に」
メリュジーヌの声は、相変わらず甘い。人を苦しめる速度を語っているとは思えないほど、軽やかな一言だった。
「そこから全身の痛み」
メリュジーヌは、両手の指をひらひらと動かしながら、まるで痛みそのものを演じるように、大袈裟な仕草を見せた。
「全身?」
リゼルが、確認するように問い返す。
「はい」
メリュジーヌの返事は、迷いなく、そして楽しげだった。
「筋肉?」
「筋肉も」
リゼルの短い問いに、メリュジーヌは即座に頷いて応じる。会話というより、症状の一覧を読み上げているような、機械的なまでの正確さがあった。
「関節?」
「関節も」
同じ調子で、また一つ。人体のパーツを一つずつ確認していくような、容赦のない列挙が続く。
「骨は?」
「骨の奥まで痛むような感覚になりますわねぇ」
メリュジーヌは、自分の腕を軽く叩きながら、まるで他人事のようにそう説明した。骨まで届く痛みを、甘い声でさらりと語ってみせるその様子に、リゼルはわずかに目を細める。
「かなり苦しいな」
「とても❤︎」
メリュジーヌの声に喜色が滲む。苦しいという評価そのものが、彼女には最高の賛辞として響いているらしかった。
「嬉しそうだな」
「毒使いですものぉ」
まるでそれが答えのすべてだと言うように、メリュジーヌは胸を張った。それ以上の説明は要らない、という自信があった。
そして、最後。
「終末段階では」
メリュジーヌがにっこりと笑う。それまでの甘い口調から、ふと温度が抜けたような静かな笑みだった。
「吐血」
静かな声だった。それまでの饒舌さが嘘のように、たった一言だけを置く。
「そして死亡ですわ」
眼下では、水が何も知らないように、静かに揺れていた。リゼルは顎へ手を当てる。並べられた症状のすべてが、この清らかに見える水の中に、すでに仕込まれているのだと思うと、その静けさが逆に恐ろしいものに見えてくる。
「それで、メル」
リゼルは、話題を変えるように、ゆっくりと切り出した。
「はい?」
メリュジーヌが、小首を傾げてリゼルを見る。
「一つ確認したい」
リゼルの声には、それまでの軽い相槌とは違う、確かな重みが乗っていた。
「なんでございましょう?」
メリュジーヌは、素直に先を促した。
「さっきから魔力を持たない者ほど強く効くと言っているが」
リゼルは、これまでの説明を整理するように、一度前提を確認する。
「はい」
「ダークエルフは?」
メリュジーヌが、瞬きをした。今の問いが、これまでの話の筋から一段外れたものだと気付いたらしい。
「レザードのことだ」
リゼルは、あえて名を出して言い直した。誰のことを指しているのか、疑う余地を残さないためだった。
「なるほど」
メリュジーヌは、ようやく話の的が見えたと言うように頷く。
「ダークエルフは魔法を使えるだろう?」
「使えますわぁ」
メリュジーヌは、あっさりと肯定した。当然の事実を確認されただけ、という顔だった。
「しかも、レザードは魔界生まれだ」
リゼルは、条件を一つ、また一つと積み上げていく。
「はい」
「生まれた時から魔界の魔素を吸って育っている」
念を押すように、さらに一つ。
「その通りですの」
リゼルの赤紫の瞳が細くなる。
「では、なぜ効く?」
メリュジーヌは、少しだけ表情を変えた。今度は、本当に毒を研究する者の顔だった。
「そこなのですけれどぉ」
人差し指を立てる。いつもの甘い声のままだったが、その奥には、専門家としての確かな響きが混じっていた。
「《インビジブル・ベイン》が見ておりますのは、単純な魔力量だけではございませんの」
「ほう」
リゼルは、興味を引かれたように短く応じた。
「魔力の質」
「質?」
リゼルが繰り返す。聞き慣れない言い回しに、わずかに眉を寄せていた。
「正確には」
メリュジーヌは、少し言葉を選ぶ。適当な説明で誤魔化すことを、彼女自身が許せないらしい。
「その魔力が、どこから生まれたものなのか、ですわねぇ」
リゼルが腕を組む。
「続けてくれ」
リゼルは、先を促すように短く言った。
「生粋の魔族は、生まれた時から魔界の魔素を受け入れる身体をしておりますの」
「ああ」
「身体そのものが魔力へ適応しておりますし、魔力を生み出す仕組みも魔族として完成しておりますわ」
メリュジーヌの説明は、淀みなく続いた。まるで何度も誰かに語ったことのある知識であるかのように、言葉に迷いがない。
「だが、ダークエルフは違う」
「はい」
メリュジーヌが頷いた。
「ダークエルフの御先祖様方は、もともと人間界の種族ですもの」
十万年前、人間界を追われ、魔界へ辿り着き、過酷な魔素の中で生き延びた者たち。
「長い時間をかけて魔界の環境へ適応し、魔素への耐性を獲得した」
メリュジーヌは、遠い先祖たちの苦労を語るように、少しだけ声を落とした。
「それが今のダークエルフか」
「そうですわぁ」
「なら、もう魔族と変わらないんじゃないのか?」
リゼルは、当然の疑問を口にした。適応した結果が今のダークエルフなら、生粋の魔族との違いなど、もはや意味を持たないのではないか――そういう理屈だった。
「見た目だけなら、そう見えるかもしれませんわねぇ」
メリュジーヌは微笑む。
「ですが、根っこが違いますの」
「根っこ?」
リゼルが繰り返す。
「生粋の魔族が最初から持っているものを」
指先を、くるりと回す。まるで何かを掬い上げるような、優雅な動きだった。
「ダークエルフは、御先祖様たちが後から獲得したのですわ」
「なるほど」
「そして、その適応能力が代々受け継がれている」
リゼルは、頭の中で話を組み立てるように、一つずつ確認していく。
「だから魔法も使える」
「はい」
「魔界の魔素にも耐えられる」
「はい」
メリュジーヌは、いちいち相槌を打つだけで、説明を先へ急がせようとはしなかった。リゼル自身が結論へたどり着くのを、面白そうに見守っているようでもある。
「だが」
リゼルの目が細くなる。
「《インビジブル・ベイン》から見れば、生粋の魔族ではない」
メリュジーヌがにっこりと笑った。
「大正解ですわぁ❤︎」
メリュジーヌは、褒められたとでも言うように、機嫌よく声を弾ませた。
「嫌な毒だな」
「最高でしょう?」
「最高だ」
軽口の応酬のはずなのに、二人の間には、悪意への評価が完全に一致しているという、奇妙な連帯感が漂っていた。二人で、笑い合う。メアが静かに水面を見つめていた。リゼルは、すぐに次を確認する。
「では、レザードは?」
声の調子は変わらないが、リゼルの視線には、それまでよりも一段、真剣な色が乗っていた。
「普通のダークエルフより、かなり遅いですわ」
「理由は?」
「一口にダークエルフと申しましても、色々おりますの」
メリュジーヌは、指を一本立てて前置きした。
「人間界へ渡って、そちらへ根を下ろした方々もいらっしゃいますでしょう?」
「ああ、確かにいるな」
王都にも、人間に紛れて暮らすダークエルフは珍しくない。リゼルは、すぐにその意味を理解した。
「そういう方々は、長い年月を人間界で過ごすうちに、身体に馴染んでいた魔界の魔素が、少しずつ薄れていきますの」
「環境が変われば、身体も変わる、か」
「はい。ですが」
メリュジーヌの声が、わずかに硬さを取り戻す。
「レザード殿は、そのどちらでもございませんの。レザード殿は魔界生まれ、しかもグリムロア育ちでございましょう?」
「ああ」
「お母様のお腹にいた頃から」
メリュジーヌは、ゆっくりと説明する。
「そして生まれ落ちた瞬間から」
「魔界の魔素を取り込んでいる」
「はい」
メリュジーヌの声には、憐憫も嫌悪もなかった。単に、そういう身体だ、と述べているだけだった。
「グリムロアも魔界の中にあるからな」
「そうですの」
ダークエルフ独立国家グリムロア。大魔王府の直接統治を受けず、魔界にありながら魔界ではないとさえ言われる国。けれど、大地も、空気も、魔素も――そこは間違いなく、魔界だった。
「ですので、レザード殿の身体には生まれた時から大量の魔素が馴染んでおりますの」
「それで進行を抑えられる?」
「かなり」
「完全には?」
リゼルの声が、わずかに強くなる。それだけは確かめておきたい、という響きだった。
「無理ですわ」
メリュジーヌは、そこだけははっきりと答えた。
「レザード殿は強い魔力を持っておりますし、魔界への適応も非常に高いでしょう」
「うん」
リゼルは、素直に相槌を打った。強い魔力も、高い適応力も、その通りだと認めることに、迷いはないらしい。
「ですけれど」
少しだけ、笑みが薄くなる。メリュジーヌの声から、それまでの弾んだ調子がわずかに引いていく。
「生粋の魔族ではありませんもの」
沈黙が落ちた。その一言だけで、話の行き先が見えてしまったからだろう。リゼルは何も言わず、じっとメリュジーヌの次の言葉を待っている。
「ですので」
メリュジーヌは、指を一本立てる。先ほどまでの症状の指折りとは違い、今度は結論を並べる番だった。
「症状が出るまでが遅い」
最初の一本。声には、まだ余裕がある。
二本目。
「進行も遅い」
わずかに間を置いて、また一本。数え上げる仕草は、変わらず優雅だった。
三本目。
「けれど」
メリュジーヌの表情から、笑みが完全に消える。ここからが本題だと言うように、声の温度が一段落ちた。
最後に。
「放置すれば、ちゃんと死にますわ」
リゼルの眉が、僅かに動いた。予想していた答えではあったはずなのに、はっきりと言葉にされると、それなりに重みを持つらしい。
「……ちゃんと、は要らない」
リゼルの声は、低く、そして真剣だった。冗談を挟む余地のない一言だった。
「あらぁ」
メリュジーヌが、意外そうに目を丸くする。
「私のレザードだぞ」
短い一言に、譲る気のない響きがあった。
「失礼いたしましたわぁ」
メリュジーヌは、素直に頭を下げる。悪気があったわけではないと分かっているのか、その謝罪はあっさりとしていた。
けれど、そのための木箱――千二百本を超えるエリクサーだった。リゼルが、箱を軽く叩く。
「これを持ってきておいて正解だったな」
自分で用意しておきながら、答え合わせをするような口ぶりだった。
「はい」
メリュジーヌは、木箱をちらりと見て頷く。
「症状が出ていても?」
リゼルは、念のため確かめておきたいという顔で、もう一段踏み込んだ問いを重ねた。
「エリクサーでしたら問題ございませんわ」
メリュジーヌは、迷いなく請け合った。
「よし」
リゼルは即答した。
「ならいい」
その声には、安堵と満足が半分ずつ混じっていた。
「ずいぶん慎重ですのねぇ」
メリュジーヌが、少し茶化すように言う。
「当たり前だろう」
リゼルは当然のように言う。
「レザードを助けに来て」
笑う。片方の口の端だけを上げるような、乾いた笑みだった。
「私の作戦でレザードを殺しましたでは、笑い話にもならん」
自分自身の失敗を想像しただけで、多少の苦味が滲んだような声だった。
「確かにそうですわねぇ」
メリュジーヌも、深く同意するように頷く。
「何より」
リゼルが箱を見る。
「私のレザードだぞ?」
その一言には、理屈を超えた、ただの独占欲のような響きがあった。
「あらぁ❤︎」
メリュジーヌの声が、また甘く跳ねる。
すっと、横からメアの視線が刺さる。
「…………」
リゼルは一瞬、硬直した。そして、見なかったことにした。
「そ、それでだ、メル」
リゼルは、わずかに動揺を隠すように、話題を切り替えた。
「はい?」
メリュジーヌが、小首を傾げる。
「治療は?」
「治療?」
メリュジーヌが、意味を測るように問い返す。
「人間側が異変に気付いた場合だ」
リゼルは水面を見る。表情はすでに落ち着きを取り戻していた。
「回復魔法でどうにかできるのか?」
「あぁ」
メリュジーヌが、ぽん、と手を叩く。話の要点にようやく気付いたらしい。
「こちらは人間界でしたわねぇ」
「そうだぞ」
リゼルは、当然のことを確認するように短く答えた。
「でしたら、一般的な回復魔法よりも、法術を使う方が多いでしょうけれどぉ」
メリュジーヌは、人間界の医療事情まで、きちんと把握しているらしかった。
「治る?」
「治りますわぁ」
あっさりとした答えに、リゼルの表情が、わずかに険しくなる。
「……治るのか」
自分の作戦の前提が崩れかねない一言だった。
「はい」
「それでは意味がないだろう」
リゼルの声には、明らかな不満が滲んでいた。
「あらぁ」
メリュジーヌが、くすくすと笑う。慌てる主の反応が、面白くて仕方ないらしい。
「最後まで聞いてくださいまし」
メリュジーヌが、悪戯っぽく人差し指を立てる。焦らすつもりなのか、それとも本当にこれから話す内容が重要なのか、判別のつかない仕草だった。リゼルは、それを咎めるでもなく、静かに次を待つ。
「続けてくれ」
リゼルは、先を促すように短く言った。
「法術で治療すれば」
人差し指を一つ。
「一度は症状が消えますの」
メリュジーヌの声には、まだ余裕があった。まるで、これから明かす仕組みの巧妙さを、あらかじめ楽しんでいるかのような響きだった。
「完全に?」
リゼルが、疑わしげに問い返す。
「見た目には」
その言い方に、含みが滲んでいた。
「どれくらい?」
リゼルは、数字を求めるように、短く問いを重ねた。
「半刻ほど」
リゼルは、沈黙した。あまりに短い猶予に、思わず言葉を失ったらしい。
「……半刻?」
聞き間違いを疑うような、確認の声だった。
「はい」
メリュジーヌの返事は、あっさりとしていた。深刻さなど微塵も感じさせない口調が、逆にリゼルの警戒を強めているようでもある。
「その後は?」
リゼルは、恐る恐る先を尋ねた。
「元通りですわぁ」
「元通り?」
「はい」
「症状が?」
「はい❤︎」
あっさりと嬉しそうに肯定される。リゼルの表情が、じわじわと不満げなものへ変わっていく。
「治っていないじゃないか」
抗議めいた声だった。せっかくの安堵を、あっさりと裏切られた気分らしい。
「あらぁ」
メリュジーヌが不思議そうに首を傾げる。
「半刻は元気ですわよ?」
悪びれもせず、そう言い切った。
「詐欺みたいな言い方をするな」
半ば呆れたような声だった。丁寧に説明されればされるほど、質の悪さが増していくように感じられる。
「だってぇ」
メリュジーヌは楽しそうだった。
「この呪毒は、身体だけを蝕んでいるわけではございませんもの」
メリュジーヌの声の温度が、わずかに変わった。単なる自慢ではなく、今度こそ本題に触れるという合図らしい。
「ほう?」
リゼルの眉が、興味深そうに上がった。
「法術で傷んだ身体を治す」
「うん」
「熱も」
「うん」
「咳も」
「うん」
「痛みも」
「うん」
リゼルは、一つずつ短く相槌を打っていく。話の全体像が見えるまでは、口を挟まないつもりらしい。
「全部、一度は消せますの」
メリュジーヌは、まるで自分の仕事の成果を一つずつ確認するように、満足げな声で言い切った。
「だが?」
リゼルは、そこに続きがあると見抜いているような声で、先を促した。
メリュジーヌが眼下の水を見る。
「身体へ残っている呪毒までは、それだけでは消えませんの」
「なるほど」
リゼルの声に、ようやく理解の色が浮かぶ。
「ですので」
にっこりと。
「治ったと思った頃には、また戻ってまいりますわぁ」
リゼルの口元が、ゆっくりと上がっていく。
「医者や神官はどう思う?」
リゼルは、この呪毒が現場でどう受け止められるかを、具体的に確かめておきたいようだった。
「最初は効いていると思うでしょうねぇ」
メリュジーヌの声には、確信が滲んでいた。現場の医者や神官が、どんな顔をして治療にあたるのか、すでに想像がついているらしい。
「患者も?」
「当然」
メリュジーヌの返事には、迷いがなかった。半刻もの間、実際に症状が消えるのだから、患者本人が疑う理由もない。
「そして半刻後」
「また発熱」
「頭痛」
「咳」
「嘔吐」
メリュジーヌは、先ほど数え上げた症状を、もう一度そのまま繰り返してみせる。
「そして、どんどん悪化」
メリュジーヌがにっこりと笑う。
「その通りですわぁ」
リゼルが、くふっと小さく笑った。
「いいな」
短く、しかし満足そうな一言だった。
「お気に召しました?」
「ああ」
リゼルは眼下のどこまでも透明な水を見る。何度見ても、そこに恐ろしい呪毒が仕込まれているとは思えない。その落差こそが、この作戦の完成度を物語っていた。
「実に性格が悪い」
リゼルの声には、非難よりも、むしろ純粋な感心の色が濃かった。
「ありがとうございますわぁ❤︎」
メリュジーヌは、心からの賛辞として受け取ったらしい。
「最高の褒め言葉だよ、メル」
「まぁ❤︎」
リゼルは少し笑って。
「素晴らしいよ、メル」
なぜかもう一度、同じ調子で繰り返す。悪戯心が抑えられないらしい。
「はい?」
突然の重ねての褒め言葉に、メリュジーヌが目を丸くする。
「愛している❤︎」
メリュジーヌの顔が、ぱぁっと輝いた。
「あぁ〜ん❤︎」
両頬へ手を当てる。
「わたくしもリゼルちゃんを愛しておりますわぁ❤︎」
沈黙が落ちた。じぃぃぃぃぃ、と、リゼルへ向けられる視線があった。
「…………」
横から、メアが無表情のまま、じぃぃぃぃぃと見つめている。声は一つもないのに、その視線だけで十分すぎるほどの圧があった。
「な」
リゼルの頬が、僅かに引きつった。何を言われるでもないのに、その視線の圧だけで、嫌な予感がひたひたと込み上げてくる。長年の付き合いが、こういう時の予兆だけは正確に教えてくれるらしい。
「なんだメア?」
リゼルは、あえて何事もないような声で応じた。だが、視線だけは、わずかに探るような色を帯びている。
「いえ」
メアの返事は短く、それだけにどこか不気味だった。否定の言葉のはずなのに、少しも否定のようには聞こえない。むしろ、何かを黙って蓄えているような静けさがあった。
「何か言いたそうだぞ?」
リゼルは、探りを入れるように、わざと踏み込んだ問いを重ねる。逃げ道を塞ぐような口ぶりだった。
「いえ」
答えは、変わらず短い。だが、その短さこそが、何よりも雄弁だった。
「目が言っている」
メアが一歩、近付く。表情はいつもと変わらないはずなのに、その一歩には、明確な圧があった。ただ距離を詰めるだけの動作が、なぜかこれほどの緊張を連れてくる。リゼルは、逃げ場を探すように、視線をわずかに横へ滑らせた。
「お嬢様」
その一言だけで、すでに何かが始まっていた。リゼルは、逃げ場を探すより先に、応じてしまっていた。
「は、はい」
声が、思わず裏返る。普段の余裕は、どこにも見当たらなかった。
「私は?」
リゼルは、完全に停止した。メリュジーヌが口元を押さえる。笑いをこらえているのか、それとも、この先の展開を見届けたい気持ちの方が大きいのか、判別のつかない仕草だった。
「あらぁ」
メリュジーヌが、笑いをこらえるように声を漏らす。主従の間に流れる、いつもとは違う種類の緊張が、彼女にとってはこの上ない見物らしかった。
「わ、分かっているだろう?」
リゼルの声が、珍しく上滑りしていた。堂々とした態度を保とうとしているのに、うまくいっていないことは、誰の目にも明らかだった。
「確認でございます」
メアは、表情を一つも変えずにそう返す。冗談を言っている顔ではない。それどころか、これまでのどの発言よりも真剣な響きがあった。
「お、お前は」
リゼルの視線が泳ぐ。逃げ場のない問いを前に、答えを探して視線だけが右往左往していた。
「私の第一嫁だろう?」
絞り出すようにそう答えた。まるで、正解かどうかも分からない試験の答案を出すような声だった。
メアが、即座に応じた。
「それを聞いて安心いたしました」
安心した、と言いながら、その声にも表情にも、緩みらしいものは一つも見当たらなかった。むしろ、確認が取れたことへの、静かな満足だけがあった。
「怖い」
リゼルが、思わずそう零す。
「何か?」
「何でもない」
これ以上この話題に触れるのは危険だと、本能的に察したらしい。リゼルは、素早く話を切り上げ、視線をあえて水面へ逃がした。
◇◇◇
数秒後、メアは何事もなかったように、いつもの侍女の顔へ戻っていた。先ほどまでの、あの圧のある空気など、初めから存在しなかったかのようだった。
「それで、お嬢様」
メアの声が、すっかり平静を取り戻している。
「うん?」
リゼルは、まだ半分だけ水面を眺めながら応じた。
「この後は、いかがなさいますか?」
話を仕事へ戻すその切り替えの早さに、リゼルはわずかに救われたような顔をした。
「この後?」
リゼルが、聞き返す。
「この国が滅びるまで、待たれますか?」
メアの問いは、あまりにも淡々としていた。まるで、明日の天気でも尋ねるような口調だった。滅亡という言葉の重さと、その声の軽さの落差が、いつものメアらしさをよく表していた。
リゼルが笑う。
「まさか」
手すりへ軽く肘を乗せた。
「レザードの囚われている場所は王城だと分かったんだ」
眼下、透明な水を見つめたまま続ける。声には、これから起こることへの確信めいた落ち着きがあった。
「焦ることはない」
毒はすでに水へ溶け込み、あとは時間が仕事をしてくれる。急ぐ理由など、もうどこにもなかった。むしろ、じっくりと事が進むのを眺める余裕さえ、その声には滲んでいた。
メリュジーヌの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「では!」
メリュジーヌの声には、隠す気もない期待が滲んでいた。
「ん?」
リゼルが、身構えるように片眉を上げる。この流れの先に、何が来るかを薄々察していたらしい。
「また掻っ払いショッピングですの!?」
メリュジーヌの声には、隠しきれない期待が滲んでいた。
メアがほんの少しだけ、首を傾げる。
「メリュジーヌ様」
メアの声は、いつもと変わらず平坦だった。だが、その呼びかけには、これから何かを検証しようとする者の気配があった。
「はい?」
メリュジーヌが、無邪気にそちらを向く。
「掻っ払いとショッピングは、同時には成立しないのではございませんか?」
メアは、いたって真面目な顔でそう指摘した。
「あらぁ?」
メリュジーヌが、心底不思議そうに聞き返す。今まで自分が口にしていた言葉に、そんな矛盾があったとは思ってもいなかったらしい。
「商品を選んで持ち帰る、という意味では同じかもしれませんが」
メアなりに、律儀に言葉の定義を検証しているらしかった。誰も求めていない厳密さを、まっすぐに差し出してくる。
リゼルが二人を見た。
「君たちは何を真面目に議論しているのだ?」
「「へ?」」
二人が、同時に声を上げる。まるで、今初めてその滑稽さに気付いたような反応だった。
「欲しい物があれば」
リゼルは、あまりにも当然のように続けた。
「持って帰ればいいだろう」
メリュジーヌが瞬きする。今のやり取りの馬鹿らしさなど、もう頭から消えてしまったらしい。
「よろしいんですの?」
メリュジーヌが、まだ半信半疑といった顔で問いかけた。
「何が?」
リゼルが、逆に問い返す。
「全部」
メリュジーヌが、木箱の山を思い出したのか、そう問いを重ねる。
「人間の店だぞ?」
リゼルの返事には、遠慮のかけらもなかった。
一拍置いて、メリュジーヌがぱっと笑った。
「さすがリゼルちゃんですわぁ❤︎」
メアも静かに頷く。
「合理的でございます」
メアの短い賛辞には、皮肉も追従もなく、ただ純粋な同意だけがあった。
「だろ?」
二人からの賛同を、当然の評価として受け取っているらしい。
リゼルは満足そうに笑った。
「まぁ」
少し間を置いて。
「それは後だ」
メリュジーヌが「?」という顔をする。メアも同様に、僅かに首を傾げた。リゼルの表情が、悪戯を思いついた子供のそれへと変わっていく。
「今から仕事だぞ?」
「「へ?」」
完全に声が重なった。買い物の話から一転して飛び出した単語に、二人とも思考が追いつかないらしい。
「お嬢様」
メアが、確認するように一歩前へ出た。
「なんだ?」
リゼルは、依然として涼しい顔のままだった。
「今から、でございますか?」
念を押すように、もう一度同じ問いを重ねる。聞き間違いであってほしい、というような響きだった。
「もちろん」
リゼルの答えには、一片の迷いもなかった。
メリュジーヌが頬を膨らませる。
「リゼルちゃん」
メリュジーヌが、なおも頬を膨らませたまま、名前を呼んだ。まだ諦めていないらしい。
「なんだ?」
リゼルは、涼しい顔のまま応じた。
「もう夜中ですわよ?」
メリュジーヌは、これ以上ないほど当然の事実を突きつけるように言った。まるで、それを言えばリゼルの気が変わるはずだ、と信じているような口ぶりだった。
「知っている」
あっさりとした返事に、驚いた様子は欠片もなかった。
「では?」
メリュジーヌが、答えを求めるように詰め寄る。
リゼルはにっこりと笑った。悪戯を仕掛ける寸前の子供と、そっくりの表情だった。
「久しぶりの徹夜仕事だぞ!」
「……」
「……」
二人は、しばし言葉を失った。
腕を上げ、楽しそうに続ける。
「二日間は寝られると思うなよ!」
リゼルの声は、まるで褒美の予告でもするような、楽しげな響きだった。
「え」
メリュジーヌの声が、一段低く落ちる。聞いた内容を、もう一度頭の中で確認しているような間だった。
「えぇぇぇぇ!?」
メリュジーヌが、悲鳴のような声を上げた。リゼルは愉快そうに笑う。つい先ほど、一つの王都を静かに死へ向かわせる呪毒を、水へ放った少女とは到底思えない。もう、そんなことなど忘れたかのように、楽しそうに、次の予定を考えている。
「それに」
リゼルが振り返った。
「メルの話だと、二日もすれば王都はまともに動けなくなるんだろ?」
話を仕事の方向へ引き戻すように、あえて話題を変える。
「ええ」
メリュジーヌは微笑む。徹夜の話などもう気にしていない、というくらいの切り替えの早さだった。
「魔力をほとんど持たない方々から先に倒れますもの」
その口調は、まるで自分の作品の出来を語るような、誇らしげなものだった。
「兵站も」
「行政も」
「店も」
「治療する側も」
メリュジーヌが、指を折るように一つずつ挙げていく。この王都を支える機能のすべてが、順番に倒れていくのだと言うように。挙げるたびに、その声はどこか楽しげに弾んでいた。
メアが静かに言った。
「街そのものが、徐々に機能しなくなるということでございますね」
メアの言葉は静かだったが、そこに込められた確信の重さは、決して軽くはなかった。
「そういうことだ」
リゼルは、簡潔にそう肯定した。細かい説明を加える必要はない、というくらいに、話の筋はすでに三人の間で共有されていた。
リゼルがにっこりと笑う。
「なら、それまでに済ませる仕事は山ほどある」
小さな拳をぐっと握る。目の前に積み上げられた仕事の量を思うと、うんざりするどころか、逆に張り切っているような握り方だった。
「すべては!」
三人の背後には、清らかな水が、何事もなかったように広がっている。
「偉大なる大魔王ドラコー陛下の御為だ!」
メアが、即座に応じた。迷いも、間もない、完璧な即答だった。
「御意」
メリュジーヌは少し遅れて、それでも楽しそうに続く。
「もぅ……仕方ありませんわねぇ」
三人は、歩き出した。背後に残された巨大な水面は、何も変わっていない。透明で、澄んでいて、どこまでも清らかに見えた。そして、その水は、何も知らない王都へ向けて、静かに、静かに、送り出され続けていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
三人が楽しげに次の仕事を語る、その背後で、王都の日常はすでに変わり始めています。
けれど、街の人々はまだ何も知りません。
次回、Ver.3 Arrow Chapter 3-2「いつもと同じ、最後の朝」。
引き続きよろしくお願いいたします。




