Ver.3 Arrow Chapter EX 手遅れの会談
数日前――大魔王府
パンデモニウム全魔界の頂点。幾万もの尖塔が天を穿ち、夜よりも濃い瘴気の雲海を見下ろす大魔王府は、その威容だけで、訪れる者すべての心胆を凍らせるだけの格を備えていた。七魔公、大侯爵、侯爵級――魔界のあらゆる貴種が跪き、忠誠を誓う頂点。その最奥、大魔王の私室にだけは、しかし、今宵、少しばかり場違いな沈黙が流れていた。
白を基調とした広大な室内。天井から垂れ下がる巨大な魔晶灯が、抑えた光でその空間を満たしている。壁一面を覆う古い書棚には、この世界の理そのものを書き換えかねない禁書の類まで、まるで日用品のように無造作に押し込まれていた。各地から献上された宝物や美術品も同様である。竜の逆鱗を削り出した燭台、滅んだ古代王国の王冠――そうした一つ一つが、本来ならば一国の宝物庫を丸ごと満たすほどの価値を持つというのに、この部屋では、ただの調度品として棚の隅に埃を被っていた。
その中央、巨大な執務机の前で、大魔王ドラコーは――ものすごく嫌そうな顔をしていた。
「…………」
白い指先で摘まんでいるのは、大樹と弓を組み合わせた紋章の封蝋が施された一通の書簡。ダークエルフ独立国家、グリムロア王家の印章であった。頭上に戴く紅い双角と、金糸で編まれた宝冠が、魔晶灯の光を鈍く弾いている。全属性の魔法を修め、時や次元にすら干渉するとされる、この魔界に並び立つ者なき統治の頂点――その名にふさわしい荘厳な気配が、本来ならば、その小柄な身体の奥から滲み出ているはずだった。
だが、今この瞬間だけは、その気配は綺麗に鳴りを潜めている。
ドラコーは一度読み、もう一度読み、さらに三度目を読んで、盛大に頬を膨らませた。
「……やだ」
その傍ら、書類の束を抱えた一人の少年が、困ったように紫の瞳を細める。柔らかな金髪、頭上から覗く丸みを帯びた獣耳、腰の辺りから伸びる長い獅子の尾――まだ少年と呼ぶに相応しい愛らしい顔立ちでありながら、身に纏う衣装は、大魔王府最高位の文官にのみ許されたものだった。
大尚書――リチャード。齢十七にして大魔王ドラコー直属の政務官という重責を担う、若き俊英である。この主に仕えて日は浅くないだけあって、その表情には、既にある種の諦観すら滲んでいた。
「陛下」
「やだ」
「まだ何も申し上げておりません」
「でも、どうせ『会ってください』って言うんでしょ」
リチャードは、溜め息を堪えるように一拍置いてから答えた。長い付き合いの中で培われた、主の思考回路を先回りする癖が、今日ばかりは裏目に出たらしい。
「申し上げようとしていたのは、まさにそれでございます」
「ほらぁ!」
ドラコーは書簡を机の上へ放り出した。羊皮紙が軽い音を立てて執務机の端まで滑っていく。その手つきの荒さは、この一通の紙切れが、彼女にとってどれほど鬱陶しい存在であるかを雄弁に物語っていた。
「めんどくせー! 会いたくねぇーー!」
大魔王の発言としては、あまりにも威厳がなかった。魔界に君臨する支配者の声というより、駄々を捏ねる幼子の声そのものである。リチャードは慣れた様子で眼を伏せる。こうしたやり取りは、着任してからというもの、数え切れないほど繰り返されてきたものだった。
「お気持ちは分かりますが」
「分かってくれる!?」
ドラコーが、僅かに身を乗り出した。金色の瞳が、期待に輝く。だが、リチャードの返答は、その期待をあっさりと裏切るものだった。
「理解することと、認めることは別問題でございます」
「リチャードのそういうところ嫌い!」
「光栄でございます」
「褒めてない!」
ドラコーが机をぺしぺし叩く。子供が駄々を捏ねているようにしか見えない仕草だった。一万七千年以上を生きる大魔王が見せる姿としては、あまりにも似つかわしくない。頭上の双角と宝冠、その荘厳な佇まいと、今の子供じみた仕草との落差だけで、この場に立ち会った者は誰しも眩暈を覚えることだろう。
リチャードは、改めて書簡へ目を向けた。乱れた文字の端々から、送り主の苛立ちが透けて見える気がした。彼が内容を要約して報告しようと息を吸うのを、目ざとく察したドラコーが、すかさず先手を打つ。
「報告、しなくていいよぉ」
「陛下がすでにお読みになったことは、重々承知しております。ですが、正式に言葉として奏上せぬ限り、政務としては受理されたことになりません」
「うぅ……」
建前だと分かっていても、こう淡々と正論を返されては、駄々をこねる余地もない。リチャードは咳払いを一つ挟むと、手元の書簡へ視線を落とし、改めて読み上げた。
「グリムロア大王ラシュカーン・モル・グリムロア陛下より――人間界へ拉致された末王子レザード殿下について、ヴァルクロア大侯爵令嬢リゼル・ノクス・ヴァルクロアが、救出に動く構えを見せている、との一文が記されております」
ドラコーの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「動く構えっていうか、完全にその気だろうねぇ……リゼル」
言ってから、ドラコーは僅かに首を傾げた。
「でもさぁ、よく考えたら変じゃない? リゼル、なんでレザードなんて子のこと知ってるの。他国の、しかも王家の内輪の話でしょ」
「私も、そこは些か気になっております。年齢的にも、社交界へ出ている年ではございませんし」
「まさか、勝手に忍び込んで盗み聞きでもしたんじゃ……いや、リゼルならやりかねないけど」
ドラコーは、書簡を指先でとんとんと叩きながら、しばし考え込む素振りを見せた。だが、答えの出るはずもない疑問を、いつまでも抱えていられる性分でもない。
「まぁ、いいや。後で本人に聞こう」
あっさりと結論を放棄すると、話を先へ進めるよう、リチャードへ視線で促した。
「そして、グリムロア王家としては、レザード殿下を既に死亡した者として扱う。したがって、リゼル嬢が救出に赴こうとも、王家は一切関知しない、とのことです」
「冷たいよねぇ」
ドラコーが頬杖をついた。窓の外、遥か下方に広がる瘴気の雲海を、気だるげに眺めやる。世界を凍らせるほどの威圧を放てる瞳が、今はただ、気の抜けた色を湛えているだけだった。
「あの子、昔からそういうところあったけどさぁ」
数千年単位の付き合いを語るような口調だった。実際、ドラコーにとっては、その程度の時間など大したものではない。彼女が見てきた歴史の中では、グリムロア王家の代替わりすら、瞬きの間の出来事に過ぎなかった。
「加えて――ヴァルクロア大侯爵オルディアス閣下に対しても、グリムロア側から一切干渉しないことを、大魔王陛下から確約していただきたい、とのことです」
「……面倒くせー」
「さらに、会談を希望されています」
ドラコーの顔が凍った。
「…………いつ?」
「十日後」
「急すぎない!?」
「私もそう思います」
「断ろう」
「断るのであれば、相応の理由が必要です」
ドラコーは少し考えた後、急に胸元を押さえた。演技がかった動作は、あまりにも分かりやすかった。
「朕、突然……具合が……」
「陛下」
「うっ……!」
「陛下が病床に伏せられたという布告を出せば、大魔王府だけでは済みません。七魔公、大侯爵、侯爵、各属国、独立勢力、軍部、神殿、商会――魔界中が動きます」
「…………」
リチャードは、追い打ちをかけるように問いを重ねた。
「最後に陛下が本当に病床へ伏せられたのは、いつです?」
ドラコーは目を逸らした。天井の魔晶灯へ、わざとらしく視線を送る。
「……一万年くらい前です」
「では、その仮病は使えません」
「えぇぇ!?」
ドラコーが机へ突っ伏した。長い金髪が、崩れるように卓上へ広がる。あらゆる手札を封じられ、もはや駄々を捏ねる以外に手立てがなくなったらしい。
「嫌だよぉー! あの子、昔から気難しいところあったけどさぁ! ここ三千年くらいで変な仕上がりになってきたんだもん!」
「本人の前では絶対に仰らないでくださいね」
リチャードが、静かに釘を刺す。これまで幾度となく両陛下の遣り取りを間近で見てきた自分にも分かる、間違っても本人へ聞かせてはいけない類の愚痴だった。
「可愛くなくなった!」
「陛下」
窘めるような声に、ドラコーはなおも食い下がった。
「大魔王は可愛くない子には会わなくてもいいのです!」
「そんな規則はございません」
「今作る!」
「却下です」
あまりにも即座の却下に、ドラコーは唇を尖らせ、子供のように地団駄を踏んだ。
「リチャードのばか!」
「はいはい」
リチャードは、慣れきった様子で聞き流しながら、書類を整えた。積み上げた紙の束を、一分の狂いもなく、角を揃えて机上へ置き直していく。その手際の良さは、こうした癇癪への対応にも、既に一種の様式美すら感じさせるほどだった。
ドラコーは、そんな彼をじっと見つめていた。そして突然、こう言った。
「リチャードは、そのまま可愛く育っておくれよ? 朕がおばあちゃんになっても、いい子いい子してあげるから」
リチャードは数秒、無言になった。手にした書類の角が、僅かに歪む。
「その頃には、私は間違いなく墓の下におります」
「…………」
ドラコーの顔が曇った。この魔界に君臨する者の瞳に、束の間、年相応――いや、年齢など優に十七千年を超えているはずの彼女には無縁のはずの、ただの寂しさに似た色が過ぎった。
「そういう悲しいこと言わないで」
「陛下が言わせたのでしょう」
その時だった。
ばぁん! 私室の扉が、勢いよく開いた。蝶番が軋み、壁際に置かれた花瓶が、震動でかたりと音を立てる。
「ドラコー! ドラコー!」
長い紫髪を揺らしながら、大股で入ってきたのはハイシャオだった。淡い鱗に覆われた白磁のような肌に、引き締まった見事な体躯。腰から伸びる獅子の尾が、苛立たしげに、あるいは興奮したように、大きく揺れている。その足取りには、この城の主に対する遠慮というものが、欠片も見当たらない。大魔王の寵姫として、強者と見れば誰彼構わず牙を剥かずにはいられない――彼女だけが持つ、あまりにも直情径行な流儀だった。
「なんか文官どもが面白いもの持って慌てていたぞ!」
「えっ!?」
ドラコーが飛び起きる。椅子が、けたたましい音を立てて床を滑った。
「ラシュカーンから!? やっぱり行くのやめましたって!?」
「違う」
ハイシャオが、一通の書簡をひらひら振った。
「ドラコーのお気に入りからだ。リゼルとかいう小娘」
一瞬、時間が止まった。
「…………え?」
次の瞬間、ドラコーは椅子から立ち上がった。その拍子に、机上の書簡がばさりと崩れ落ちる。
「リゼルが朕にお手紙ぃ!? 見せて見せて!」
「陛下! お待ちください!」
リチャードの顔色が変わった。
「龍姫様。そのリゼルとは――ヴァルクロア大侯爵閣下の御令嬢、リゼル・ノクス・ヴァルクロア嬢ですか?」
「ああ。そうらしい」
ハイシャオは悪びれない。逞しい腕を組み、事も無げに肩を竦める。
「文官どもが困っていたから、俺が預かってやった。すごく喜んでたぞ」
「それは喜んでいたのではなく、龍姫様に逆らえなかっただけでは……」
「同じだろう」
「全く違います」
リチャードが頭を抱えた。大魔王の寵姫を相手に、こうして真正面から意見できる者は、この大魔王府にもそう多くはない。彼の若さゆえの向こう見ずか、それとも既にこの職務に殉じる覚悟でも決めているのか、少なくともこの瞬間だけは、その判断がつかなかった。
「陛下、これは非常にまずいのでは。オルディアス閣下を飛び越しております」
リチャードの声音が、完全に大尚書へ戻った。
「官職もない。正式な宮廷出仕歴もない。それどころか、デビュタントすら終えていない大侯爵家の幼い令嬢が、家長を経由せず、直接大魔王陛下へ上奏文を提出するなど――」
封蝋の割れる音がした。
ぱき。
リチャードが固まった。ドラコーは、既に封筒を開けていた。細く白い指先が、封蝋の破片を無造作に卓上へ払い落としている。世界の秩序も、外交の慣例も、彼女の前ではこの程度の重さしか持たないらしい。
「てへっ。ごめん、リチャード。話長かったから先に開けちゃった」
「陛下ぁ!!」
ドラコーは気にせず読み始めた。
最初は、嬉しそうだった。
「ふふん」
頬が緩む。
「ちゃんと『至尊にして至高なる大魔王ドラコー陛下』って書いてる。可愛い」
だが、読み進めるうちに、その表情は少しずつ変わっていった。
「…………ん? ……んん?」
口元から笑みが消えていく。
「…………は?」
リチャードとハイシャオが顔を見合わせる。二人の間に、言葉にならない緊張が走った。ドラコーの目が、紙面を猛烈な速度で往復している。頭上の双角の先が、僅かに震えているようにすら見えた。
そこには、千年間ヴァルクロア大侯爵家へ預けられてきた魔弓の一時的な貸与を願う旨。見捨てられたグリムロア末王子レザードを救出するため、人間界へ赴く旨。同行者として侍女メア・ナイト、そしてノクタール侯爵家令嬢メリュジーヌを伴う旨。救出に際しては、人間界より相応の献上品を持ち帰る旨。そして、最後の一文。
ドラコーの手が止まった。
「…………」
口が、ゆっくりと開いていく。
「陛下?」
リチャードが恐る恐る呼びかける。
「リゼル嬢は……何と?」
ドラコーの目に、じわりと涙が溜まった。頬を伝う雫が、一万七千年を生きた大魔王の顔を、たちまち外見相応の少女のそれへと変えてしまう。
「ど、どどどど……どーしよぉぉぉぉ!!」
「陛下!?」
「リゼルがぁぁぁ!」
ぼろぼろと涙が零れた。
「うぇぇぇん!」
「泣かないでください陛下!」
リチャードが慌てて駆け寄る。差し出した手巾は、しかし、涙の勢いに全く追いつかなかった。
ハイシャオは、その横から上奏文を覗き込んだ。長い紫髪が、リチャードの肩先を掠める。
「ほう。やっぱりすごいぞ、リゼル」
楽しそうだった。獰猛な獣が獲物を見定めるような、あるいは同族を見つけたような、そんな目の輝きだった。
「何がです!?」
「俺を殺せるか、やはり試してやろう」
「大侯爵家の御令嬢に何をなさるおつもりですか!」
「弱ければそこまでの話だろう」
「そういう問題ではありません!」
ハイシャオは最後まで読み切ると、さらりと一言呟いた。
「なるほど。処断されるのか」
「シャオぉぉぉぉ!!」
ドラコーがさらに泣いた。
「龍姫様! 陛下を泣かせないでください!」
「だが本人がそう書いているぞ」
「だからといって声に出さないでください!」
リチャードは頭を抱えた。指の隙間から漏れる溜め息が、この状況の全てを物語っていた。
上奏文の末尾には、此度の独断専行はリゼル・ノクス・ヴァルクロア一人の責任であること、父オルディアス、侍女メア、同行者メリュジーヌ、その他一切へ責任を波及させぬことを願うこと、そして帰還後、自らに科される処断の日取りを教示願いたいこと、たとえその処断がいかなるものであろうとも一切甘んじて受け入れる所存であること――そう記されていた。六歳の少女が書いたとは到底思えない、覚悟だけが淡々と綴られた文面だった。稚拙な字の癖の一つ一つが、それでいて、これを書いた本人の年齢を否応なく思い出させる。
「リチャードぉぉ! 止めてぇぇぇ!」
「至急オルディアス閣下をお呼びします!」
リチャードは、既に踵を返しかけていた。泣きじゃくる主人を横目に、その頭の中では、既に幾つもの手配が組み上がり始めている。
◇◇◇
数日後、昼過ぎ。大魔王府の謁見の間。普段なら七魔公たちの王座が並ぶ巨大な広間も、今は静まり返っていた。七つの席は全て空席。最上段にはただ一つ、大魔王ドラコーだけが玉座に座している。その姿は、私室で見せた取り乱しようが嘘のように、静かで、荘厳で、この魔界の頂点にふさわしい威容を取り戻していた。その左右にリチャード、そしてハイシャオ。
広間中央には、オルディアス・ヴァルクロアが立っていた。正確には、辛うじて立っていた。
「…………」
普段の、あの堂々たる大侯爵の姿は、そこにはなかった。顔色は死人のように青く、髪は乱れている。衣服こそ整えてきたものの、目の下には濃い影が落ちていた。背に負うはずの威厳ある翼すら、今は力なく萎れているように見える。大魔王府からは再三の召喚が送られていたものの、応答はなく、ついには大魔王府から治療師たちが遣わされた。メリュジーヌによる香の影響を中和され、当のオルディアス本人が目を覚ましたのは、つい数刻前のことだった。目覚めた彼が聞かされたのは、幽閉していた娘が消え、侍女も消え、ノクタール侯爵令嬢も消え、宝物庫から《ザミエル》も消え、ついでに床も消えた、というあまりにも現実離れした報告だった。
「な……な、なな……」
何度口を開いても、謝罪の言葉すら出てこない。膝が、今にも崩れ落ちそうなほど、細かく震えている。
玉座のドラコーが、少し困ったように眉を下げた。
「オルディアス……顔色悪いよ?」
「申し訳……ございません……」
「まだ何も責めてないよ」
「申し訳……ございません……!」
床へ額がつきそうなほど頭を下げるオルディアスに、ドラコーは困った様子で言葉を続けようとした。
「いや、だから……」
その時、謁見の間の巨大な扉が開いた。大魔王府の文官が、半ば転げ込むように入ってくる。息が上がり、額には玉のような汗が浮かんでいた。
「へ、陛下! グ、グリムロア大王――ラシュカーン・モル・グリムロア陛下が、既に大魔王府領内へ!」
ドラコーの顔が固まった。
「…………は?」
リチャードの眉が跳ね上がる。
「無許可ですか!?」
「は、はい!」
「ラシュカーン陛下ともあろう御方が……! 大魔王府領への許可なき入域は、外交慣例上――」
玉座から、ドラコーの声が飛んだ。
「いいよ。通してあげて」
リチャードが振り返る。
「陛下?」
ドラコーは深々と息を吐いた。長い金髪が、溜め息と共に僅かに揺れる。
「……どうせ来ると思った」
◇◇◇
やがて、広間へ、ゆっくりと足音が響いた。二つ分の、規則正しい靴音だった。深い緑、黒、古金――重厚な王装を身に纏い、長い銀髪を背へ流したダークエルフの王。頭上には、幾つもの尖った意匠が絡み合う王冠。黒い肌に、細く鋭い瞳。何千年生きているのか、その顔から正確な年齢を読み取ることは難しい。だが、見るからに、気難しい。手にした細身の杖の先端で、緑の宝玉が鈍く光っていた。
グリムロア大王、ラシュカーン・モル・グリムロア。
その半歩後ろに付き従うのは、灰色がかった外套を纏った、痩身の初老のダークエルフだった。目立った装飾こそないものの、佇まいの端々に、長年王に仕えてきた者だけが持つ隙のなさが滲んでいる。両手は腹の前で静かに重ねられ、一分の乱れもない佇まいを保っていた。
臣下ではない。故に、跪くこともない。侍従たちが慌ただしく、玉座の下方へ豪奢な貴賓用椅子を運び込む。ラシュカーンは当然のように腰を下ろした。老従者は、その斜め後ろへ、音もなく控える位置についている。
「久しいな、大魔王」
「…………」
ドラコーの眉間に皺が寄る。
「十日後じゃなかった?」
「予定が空いた」
「嘘つけ」
「何か?」
「なんでもないですぅ」
ラシュカーンが細い目をさらに細める。
「相変わらず品位がないな」
「相変わらず面倒くさいねぇ」
「老いて幼児退行でも始まったか」
ドラコーのこめかみに青筋が浮かんだ。
「君さぁ、そういうところだよ?」
「意味が分からんな」
「そういうところぉ!」
リチャードが無言で額を押さえた。背後に控える老従者もまた、主に負けず劣らずの無表情を保ちながら、微かに視線を天井へ逸らしていた。この不毛な応酬には、既に慣れきっているらしい。
オルディアスはそれどころではない。自分の娘が行方不明、大魔王から呼び出し、そこへグリムロア大王本人――胃が既に限界だった。
ラシュカーンはオルディアスへ一瞥だけ向ける。冷たく、値踏みするような視線だった。
「娘が随分と派手に動いたらしいな」
「…………っ」
オルディアスの肩が跳ねた。
「ラシュカーン」
ドラコーの声が、少し低くなる。
「今はやめてあげて」
そこで初めて、ラシュカーンが黙った。わずかな沈黙が、広間を満たす。
その時だった。再び一人の文官が、謁見の間へ飛び込んできた。
「大尚書閣下!」
「何事です」
文官はリチャードの耳元へ駆け寄り、何事か囁いた。リチャードの顔色が変わった。指先から、握っていた書類がするりと滑り落ちそうになる。
「…………それは、確かなのですか?」
「複数経路より確認済みでございます」
「……陛下」
一枚の報告書が差し出された。ドラコーが受け取り、読む。
「…………」
数秒の沈黙の後、さらに読み進める。
「は? え?」
目が見開かれる。
紙面を追う瞳から、それまでの締まりのない色がすっと消えていく。一万七千年以上を生きてきた大魔王の双眸が、久方ぶりに年齢へ見合う深さを湛えた。被害の規模と、その意味するところを、正確に理解した者だけが浮かべる静けさだった。
「…………あの規模のを、みなご――」
「ふごっ!」
リチャードの手が、ドラコーの口を塞いだ。
「へ、陛下!」
「むぐっ!?」
「それ以上は!」
オルディアスが顔を上げる。青ざめていた頬に、さらに強張った色が加わった。
「へ、陛下!? な、何が!?」
ハイシャオが横から紙面を覗く。
「おお。すごいぞ、リゼル」
楽しそうだった。
「やはり俺が試して――」
「龍姫様、それは後です!」
ラシュカーンが眉を寄せた。老従者もまた、僅かに視線を報告書へ向けている。主人の反応を待つように、微動だにしない佇まいだった。
「何だ。何があった、大魔王」
ドラコーは一瞬だけぽかんとした。次いで、口角が上がった。
「…………ふっ、ふふん」
そして、べー、と舌を出した。
「君には教えてあげないよーだ」
沈黙が落ちた。大魔王府最高権力者と独立国家グリムロア大王。数千年を生きる二人の統治者の外交が、六歳児以下だった。
ラシュカーンの眉間に深い皺が寄る。
「……老害の楽しみなど、たかが知れているわ」
ドラコーの笑顔が固まった。
「…………」
しばしの沈黙の後、ドラコーは急に澄ました顔になった。
「リチャード。悪いけど、すぐ行ってきて」
リチャードは、一瞬だけドラコーの瞳を見た。そこに、先ほどまでのふざけた大魔王はいなかった。
「承知いたしました」
深々と頭を下げる。次いで、ラシュカーンへも正式な礼を取った。
「ラシュカーン陛下。御前を途中退席いたします非礼、お許しください」
「構わん」
リチャードは踵を返した。足早に扉へ向かうその背を、老従者の視線だけが、無言で追いかけていた。
「後の対応は、マイラと相談しておくよ」
「承知しました」
大尚書は足早に謁見の間を去っていった。その背中を見送った後、オルディアスが震える声を絞り出す。
「陛下……な、何が……起こったのでございますか……?」
ドラコーが視線を向けた。
「オルディアス。落ち着いて」
「しかし……!」
ドラコーは微笑んだ。
「大丈夫。リゼルは大丈夫」
「…………」
「朕に任せなさい」
その声は、先ほどまでの子供じみた声ではなかった。柔らかく、静かで、一万七千年以上、この魔界を見下ろしてきた、大魔王の声だった。その一言に、オルディアスの張り詰めていた何かが完全に切れた。
「…………は」
ぐらり。
「オルディアス?」
その巨体が、そのまま前へ傾いだ。
どさっ。
「…………」
謁見の間が静まり返った。ドラコーが瞬きをする。
「……気絶した」
ハイシャオが覗き込む。
「生きているぞ」
「それは分かってるよ」
ドラコーは小さく息を吐いた。
「シャオ。悪いけど、オルディアスを医務室へ運んであげて」
「分かった」
ハイシャオは、ヴァルクロア大侯爵を軽々と担ぎ上げた。190センチはあろうかという長躯を、まるで羽根でも扱うかのような手つきだった。
その光景を、ラシュカーンだけが、細い瞳で静かに見つめていた。老従者もまた、主の視線を追うように、同じ方向へ僅かに首を巡らせている。
ハイシャオの足音が、扉の向こうへ完全に消えるのを待って。
広大な謁見の間には、大魔王ドラコーと、グリムロア大王ラシュカーン、そしてその背後に控える老従者だけが残された。玉座の高みから見下ろすドラコーの手には、まだあの報告書が握られたままだった。魔晶灯の光を受けて、彼女の頭上の双角が、静かに、鈍く輝いている。
「ドラコー」
ラシュカーンが、静かに口を開いた。先ほどまでの、皮肉とも軽口ともつかぬ調子とは、明らかに違う響きだった。
「レザードは、もう要らぬ。それでいい」
「…………」
「これ以上、余計な真似はするな。ヴァルクロアの小娘にも、そう伝えておけ」
あまりにも一方的な物言いだった。ドラコーは、報告書を握る指先に、僅かに力を込めた。
「はぁ?」
玉座の上で、片眉が跳ね上がる。
「いやいやいや、待って待って。そもそも最初にレザード君の件をこっちへ持ち込んできたの、そっちじゃん?」
「情勢は変わった」
ラシュカーンは、眉一つ動かさなかった。
「オルディアスが娘を止めきれなかった。おおかた――あの小娘に振り回されたのであろうな」
その一言に。
謁見の間の空気が、目に見えて変わった。
ドラコーの表情から、それまで浮かんでいた、どこか幼い苛立ちの色が、すっと消えていく。代わりに浮かんだのは、これまでこの場のどこにも見られなかった、静かな、しかし底の見えない冷たさだった。魔晶灯の光が、一瞬だけ揺らいだように、老従者には見えた。数千年を生きてきた老従者の身体が、本能的に強張った。本物の、頂点の気配だった。
「……ラシュカーン」
声が、低くなる。
「朕の子たちを、悪く言うと」
一拍。
「殺すよ?」
冗談めかした語尾。だが、そこに乗った圧は、冗談などでは到底片付けられないものだった。老従者の肩が、僅かに強張る。長年この王に付き従ってきた彼をして、こうも露骨に警戒を露わにするのは、珍しいことだった。
ラシュカーンは、しかし、眉一つ動かさなかった。数千年を独立国家の頂点として君臨してきた男の矜持が、そう易々と揺らぐはずもない。
「……相変わらず、身内には甘いな」
「甘くて悪い? 朕の可愛い子たちだもん」
ドラコーは、それだけ言うと、すぐにいつもの調子を取り戻した。だが、先ほどの冷たさの残滓は、まだ空気の底に沈んだままだった。
やがて、その口元に、ゆっくりと笑みが広がっていく。超がつくほどのドヤ顔だった。
「隠居をオススメするよ、ラシュカーン」
「何?」
「レザード君を散々見下していた、不出来な息子たちと一緒にね」
ラシュカーンの細い瞳が、初めて、僅かに見開かれた。
「なんだと? レザードが、なんだというのだ。あれは――駄作だ」
「はいはい」
ドラコーは、気の抜けた声で応じた。
「君、本当に呆けてしまったのかなぁ? まだ一万年くらいしか生きてないのに」
「老害に言われたくないな」
「まぁいいや」
ドラコーは、報告書を握った指先を、ゆっくりと持ち上げた。玉座の肘掛けに頬杖をつき、心底残念そうに――それでいて、どこか楽しげに、その名を呼ぶ。
「ラシュカーン。残念だけどね」
「……何だ」
「全部、手遅れだよ」
ラシュカーンの眉間に、初めて明確な動揺が刻まれた。
「手遅れ、だと?」
「だってさぁーー」
【補足:今回の時系列について】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回のお話では、いくつかの出来事を時系列どおりではなく、あえて前後させて描写しております。
少々分かりにくい部分もあるかと思いますので、今回の出来事について、時系列を簡単に補足させていただきます。
まず、リゼルはダークエルフ側からの知らせによって、レザードが人間界で捕虜となっていることを知りました。
しかし、この状況はリゼルが知っているゲーム本来の展開とは異なります。
本来の展開では、レザードが《ザミエル》と関わる以前に、人間側の捕虜となるような出来事は存在していませんでした。
つまりリゼルにとっても、
「この先、何が起こるのか分からない」
という、明確な異常事態です。
そのためリゼルは、レザードの救出を最優先と判断しました。
そして、ラシュカーン大王と面会するよりも前の段階で、大魔王ドラコー陛下へ上奏文を送っています。
ここで少し重要なのが、
「本文中で手紙を読まれた順番」と、
「実際に手紙が出された順番」は異なる、
という点です。
実際の順番は、
リゼルが大魔王ドラコー陛下へ上奏文を送る
↓
その後、リゼルがラシュカーン大王と面会する
↓
ラシュカーン大王も、大魔王府へ書簡を送る
↓
大魔王府には、ラシュカーン大王の書簡が先に到着する
↓
その後、リゼルの上奏文が届く
という流れになります。
そのため本編では、
「ラシュカーン大王の書簡」
↓
「リゼルの上奏文」
という順番で登場していますが、リゼルの上奏文そのものは、それより前に出されています。
また、普段のリゼルであれば、大魔王ドラコー陛下の御許可を何よりも優先します。
今回も、その考えが変わったわけではありません。
ただし今回は、ゲーム本来の展開から外れた出来事が発生し、レザードの生死すら保証できない状況となっていました。
そのためリゼルは、
「大魔王陛下からの御返答を待ってから行動する」
という時間すら惜しいと判断しています。
つまり、ドラコー陛下の御許可を必要としていないのではなく、
「許可を待つことができないほど、一刻を争う状況だった」
ということになります。
だからこそ上奏文の最後には、
今回の独断専行については、父オルディアス、メア、メリュジーヌ、その他の者へ責任を負わせず、すべてリゼル自身が負うこと。
そして帰還後、自らにどのような処断が下されようとも、それを甘んじて受け入れること。
その覚悟が記されています。
リゼル自身も、自分が大魔王陛下の御許可を待たずに行動していることを理解しています。
それでもなお、レザードを救出することを優先しました。
一方、大魔王府側も何もしていなかったわけではありません。
リゼルの上奏文を確認したリチャードは、直ちにオルディアスを召喚しようとしています。
しかし、その頃のオルディアスはメリュジーヌの香によって眠らされており、大魔王府から再三召喚されても応答することができませんでした。
そのため大魔王府から治療師たちが遣わされ、香の影響を中和。
オルディアスがようやく目を覚ました頃には、リゼル、メア、メリュジーヌ、そして《ザミエル》はすでに姿を消した後でした。
そして、その間にもリゼルたちは止まりません。
大魔王府、オルディアス、ラシュカーン大王――それぞれが状況を把握し、対応しようとしている間にも、リゼルたちは人間界へ向けて行動を続けています。
ですので、今回の出来事は、
「大魔王府の対応が遅かった」
というよりも、
「リゼルの行動が、それ以上に早かった」
という形になります。
そして数日後。
大魔王府へ、人間界で起きた出来事についての報告が届いた時には――
ドラコー陛下の言葉どおり、
「全部、手遅れ」
になっていた。
というのが、今回のお話の時系列になります。
少々複雑な構成となりましたので、読者の方々に混乱を与えてしまいましたら申し訳ございません。
今回、あえて出来事を完全な時系列順には並べず、大魔王府側から見た
「気付いた時には、すでにリゼルが遥か先まで進んでいた」
という状況を描く形にしております。
ここまで長い物語を追いかけてくださっている皆様には、本当に感謝しております。
レザード編も、いよいよ大きく動き始めました。
この先、リゼルたちが人間界で何をしたのか。
そして、ドラコー陛下がラシュカーン大王へ告げた、
「全部、手遅れだよ」
その言葉の意味についても、引き続き見届けていただけましたら幸いです。
いつも『パンデモニウム・リベリオン』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
これからも最後まで丁寧に物語を描いてまいりますので、今後ともお付き合いいただけましたら嬉しいです。




