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Ver.3 Arrow Chapter 2-3 人間界、初日から無法地帯

人間界へ到着したリゼル、メア、メリュジーヌ。


目的はもちろん――レザード救出。


……なのですが。


見たことのない街並み。


見たことのない乗り物。


そして、そこかしこから漂ってくる美味しそうな匂い。


観光。


食べ歩き。


そして、ちょっとした盗み食い。


え?


レザード?


……忘れておりませんよ?


たぶん。


今回は、人間界初日から自由すぎる三人のお話です。

 次に瞼を開けた時、三人は、既に見知らぬ石畳の上に立っていた。


 背後を振り返ると、先ほどの裂け目は、既に閉じかけている。細く残った裂け目の光が、やがて、ふつりと消えていった。


「今の穴は、じきに完全に閉じる」


 リゼルは、その消えゆく光を一瞥しながら、静かに告げた。


「だが、慌てる必要はない。《ワールドホール》の出現には、ある程度の周期がある。同じ場所、あるいはこの近辺に、数日のうちにもう一度開く。その時刻や傾向も、大体の見当はついている」


 メリュジーヌが、閉じきった空間を、名残惜しそうに見つめていた。帰り道そのものが消えてしまったような心許なさが、その横顔に滲んでいる。


「本当でございますの?」


 その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。人間界へ渡ったばかりだというのに、既に帰る術を失いかけているのではないかという、当然の懸念だった。


「これまでの経験から積み上げた予測だ。外れたことはない」


 リゼルの声には、一切の迷いがなかった。黒瀬真璃亜として過ごした歳月の中で、幾度となく確かめてきた法則だった。


「とはいえ、悠長にしていられる時間は、そう長くないと思っておいた方がいい」


 その言葉に、メアとメリュジーヌは、揃って頷いた。帰る手段があると分かっただけで、幾分か、肩の力が抜けたようだった。それでも、初めて踏み入るこの世界に対する緊張までは、消えてはいなかった。


     ◇◇◇


 リゼルにとって、黒瀬真璃亜として死んでから、これが初めての人間界だった。


 目の前に広がる光景に、まず言葉を失ったのは、メアとメリュジーヌの二人だった。


「…………?」


 二人揃って、同じ表情を浮かべている。理解が追いつかない、というよりも、理解する必要のある情報が多すぎて、脳が処理を拒んでいるような顔つきだった。


 石畳の大通りを、腰に剣を差した騎士が歩いている。それだけならば、まだ理解の範疇だった。だが、その横を、肩に自動小銃を担いだ兵士が平然と行き過ぎていく。城壁の上には、黒々とした大砲の砲身が幾つも並び、さらにその上空を、巨大な飛空艇がゆっくりと横切っていった。低い動力音が、夜の静寂に不釣り合いなほど大きく轟いている。


 法術師らしき一団が、《法気》を体内で巡らせながら、術式の訓練を行っている。掌の周囲に淡い光の術式が幾重にも展開され、複雑な文様を描いていた。兵士の一人が、手にした通信機へ何事か話しかけていた。そのすぐ隣を、ごく普通の馬車が、のんびりと車輪を鳴らして走っている。


 さらに遠くの建物からは、テレビの画面らしき明かりが漏れ、大通りには自動車が行き交っていた。地面の下から、車両の走行音が微かに響いてくる――電車という乗り物が、地下を走っているのだろう。街灯の光が、規則正しい間隔で通りを照らし、その根元には、見たこともない機械の箱がいくつも据え付けられている。


 むろん、三人の姿は、誰にも見咎められることはない。リゼルが展開しているのは、姿を隠すだけの隠密魔法ではなかった。気配そのものを覆い隠す隠密魔法に加え、視界へ入った者の意識から「見た」という認知そのものを逸らす認識阻害魔法――その二重掛けである。リゼル自身が意図して解除しない限り、たとえ真横を通り過ぎても、誰の目にも留まらない。魔力の流れさえ覆い隠されているため、通常の法術による探知や、一般的な探知装置程度では捉えられない。三人は、まるで幽霊のように、この異質な文明の只中を、ゆっくりと歩き進んでいった。


「なんなのですの、この国……」


 メリュジーヌが、掠れた声で呟いた。これまで彼女が見てきた魔界の地域では、剣と魔法だけで戦場が完結していた。それだけに、これほどまでに異質な文明が入り混じった光景は、彼女の理解の限界を軽々と超えていた。目の前を通り過ぎていく自動車の一台一台に、思わず視線が吸い寄せられてしまう。


「あの、馬も魔獣も引いていないのに走っている鉄の箱……一体、何なんですの……?」


 メリュジーヌは、呆然としたまま、自動車の流れを目で追い続けていた。


「それに、この明るさ……夜だというのに、まるで真昼のようですわ」


 街灯の光が、隙間なく通りを照らし出している。魔界の夜といえば、月明かりと篝火だけが頼りの、深い闇に沈んだ景色が当たり前だった。それだけに、この人工的なまでの明るさは、彼女の目にひどく異様なものとして映っていた。


「……こんなにも見たこともない道具ばかりが、当たり前の顔をして転がっている場所は、初めてですわ」


 そう呟きかけたところで、メリュジーヌの視線が、ふと一点で止まった。巡回中らしき兵士の一人が、腰に、見慣れない黒い塊を下げている。


「あちらの、兵隊らしき殿方が腰から下げていらっしゃる、水筒のようなものは……一体、何なのでしょう?」


「あれは銃だな」


 リゼルが、事も無げに答えた。


「じゅう?」


 メリュジーヌが、聞き慣れぬ響きを、舌の上で確かめるように繰り返す。


「下等生物どもが、我々魔族と戦っても勝てはしない。特に、無能な連中はな。だから、脆弱な下等生物でも兵隊さんごっこができるように、供給されている道具だ」


「お嬢様。脅威の程は、いかがなのでしょうか」


 メアが、静かに問いを重ねた。


「下級魔族が弓を放つよりは、マシ程度だな。我々が相手なら、少しくすぐったいくらいのものだ」


「あらあら、そんなもので国を守ろうだなんて……ふふ、うふふふふ」


 メリュジーヌは、堪えきれないとばかりに肩を震わせた。背に流れる蛇髪の一房一房までもが、笑いを堪えるように、くねくねと揺れている。


 メアも、いつもの無表情を崩さなかった。だが、その喉の奥から、一瞬だけ「くっ」という小さな音が漏れたのを、リゼルは聞き逃さなかった。


 その声には、驚嘆と、僅かな戸惑いが半々に混じっていた。


「文明水準が……分かりません」


 メアもまた、珍しく戸惑いの色を隠せずにいた。普段、どんな状況でも冷静さを崩さない彼女が、僅かに眉を寄せている。飛空艇の影が頭上を過ぎるたび、その視線が、無意識のうちに空へと引き寄せられていた。


「これは、もはや一つの文明として分類すること自体が、間違っているのかもしれません」


「だろうな」


 だが。


 その隣で、ただ一人、リゼルだけが、まるで見慣れた景色を眺めるように、涼しい顔をしていた。周囲の喧騒も、二人の困惑も、まるで意に介した様子がない。


「ああ。人間界はこういうところだ」


 あっさりとそう告げると、リゼルは、周囲の街並みへ、もう一度視線を巡らせた。城壁の配置、巡回する兵の数、王城らしき建物の位置――目に映るものすべてを、静かに記憶へ刻んでいく。物見遊山のような足取りの裏で、リゼルは既に、王都の地理と警備の厚みを頭の中へ描き始めていた。レザードが囚われているとすれば、恐らくはあの城のどこかだろう。まずは、この街の構造を掴むことが先決だった。


 もっとも、その真面目な思考は、長くは続かなかった。通りの向こうにある屋台へ、視線が吸い寄せられる。香ばしい匂いが、こちらまで漂ってきていた。油の焼ける音と、湯気の立ち上る様子が、遠目にもはっきりと見て取れた。屋台の主人が、鉄板の上で手際よく丸い生地を回転させている。その光景に、リゼルの瞳が、あからさまに輝きを増した。


「せっかくだ。偵察がてら、そこの店から美味そうな屋台飯を掻っ払ってやろう」


「お、お嬢様!」


 メアが、珍しく声を上げた。丸く焼き上げられていく生地の連なりを見て、何か恐ろしい生物の卵と勘違いしたらしい。その顔には、僅かな警戒の色すら浮かんでいる。


「そんな、クラーケンが蠢いているような球体を、お口にされては危のうございます」


「安心しろ、たこ焼きだ」


「タコヤキ……?」


 メアが、繰り返し呟く。舌に馴染まぬ響きだったのだろう、その視線は、まだ半信半疑のまま鉄板へ注がれていた。やがて、その視線の先には、屋台の隣に並ぶ、また別の奇妙な飲み物があった。半透明のカップの底に、黒々とした粒が沈んでいる。


「あ、アレはなんですの?」


 メリュジーヌが、指を差しながら尋ねる。


「なんか、魔物の小さな卵を、人間たちは嬉しそうに啜っておりますの?」


「アレはタピオカミルクティーだ」


 リゼルは、既にその方向へ足を向けていた。かつての記憶が、体を勝手に突き動かしているようだった。


「美味いから、掻っ払っておけ」


「本当に、掻っ払ってよろしいんですの……?」


 メリュジーヌが、恐る恐る確認する。かつて暗殺者として生きてきた彼女ですら、こうも堂々とした窃盗には、僅かな躊躇いを覚えるらしい。


「二重の隠密魔法があるだろう。この程度の警備なら、私が自分から解かん限り見つからん。魔力だって、普通の探知では拾えん」


「そういう問題では――」


「細かいことを気にするな。行くぞ」


 メアとメリュジーヌは、顔を見合わせた。何を言っても無駄だと悟ったのだろう、二人揃って深く息を吐き、主人の後を追いかけていく。


 屋台の主人が、たこ焼きの鉄板から視線を上げ、片付けたばかりのはずの皿の数を数え直していた。


「あれ……? 数、足りねぇような……」


 首を傾げながら、もう一度数える。それでも合わない。首を捻ったまま、結局は自分の数え間違いだろうと結論づけ、次の客の注文へと向き直った。誰も、目の前を掠め取られたことに気づく者はいなかった。


 タピオカミルクティーの屋台でも、同じような光景が繰り返されていた。店主が、並べたばかりのカップの列を見つめ、指を折りながら数を確認している。


「一個……減ってる? いや、まさか……」


 困惑した顔のまま、仕込みの数を間違えたのかと、店の隅の在庫箱を覗き込む。当然、答えは出ない。パニックには程遠い、ただの小さな困惑として、それはやがて忘れられていくのだろう。


 少し離れた路地の陰。三人は、そこへ腰を落ち着けた。石畳の隙間から、夜露に濡れた雑草が僅かに顔を覗かせている。掻っ払ってきたたこ焼きの包みが、リゼルの手の中で、まだ湯気を立てていた。


「ほ、ほふっ……」


 リゼルは、一つ摘まんで口へ放り込んだ瞬間、思わず変な声を漏らした。頬の内側で転がしながら、はふはふと熱を逃がすように息を吐く。眉が、僅かに寄っていた。それでも、飲み込む手は止まらない。


「あづっ……熱っ……でも、美味い……」


 行儀の悪い食べ方だった。だが、その様子には、確かな懐かしさが滲んでいる。かつて、狭い一人暮らしの部屋で、似たような熱さと格闘しながら食べた記憶が、微かに蘇っているのかもしれなかった。


「盗み食いですわよねぇ? これ」


 メリュジーヌが、たこ焼きの包みを覗き込みながら、ジト目で呟いた。


「否」


 リゼルは、間髪を入れずに首を振った。


「これは、敵勢力の兵糧を減らしている戦略的行動だ」


「敵勢力とは、あの屋台の店主のことですの……?」


「戦は、まず後方の兵站を絶つところから始まる」


 あまりにも堂々とした理屈だった。メリュジーヌは、何か言い返そうとして、結局は諦めたように肩を竦めた。この主人に真面目な議論を挑むこと自体が、既に無駄な労力だと悟っているらしい。


 夜風が、路地の奥へと吹き抜けていく。遠くの大通りから届く喧騒だけが、三人のいる薄闇との境目を、僅かに揺らしていた。


「お嬢様」


 メアが、無表情のまま、静かに問いかけた。その声音には、次なる任務を待つ兵士のような、妙な律儀さが滲んでいる。


「次は何を盗って参りましょうか」


 その問いには、一切の迷いも、罪悪感も見当たらなかった。既に、盗みの実行部隊として完全に馴染んでいる。


「じゃあ」


 リゼルは、少し考えるように視線を巡らせ、通りの先の一角を指差した。炭火の匂いと、香ばしい脂の焼ける音が、そちらの方角から漂ってきていた。


「あそこの店で焼かれている鶏肉の串焼き、五本。それと、隣に置いてある、氷水に浸された冷え冷えのビールを頼む」


「びぃる、でございますか」


 メアが、僅かに首を傾げる。聞き慣れぬ響きを、舌の上で確かめるように繰り返した。


「なんですか、びぃるとは」


「酒だ」


 リゼルは、実に得意げに言い放った。


「焼き鳥とビールの相性は、最強だぞ!」


 しばしの沈黙が落ちた。夜風だけが、二人の間を静かに通り抜けていく。


「……お嬢様」


 メアの声が、いつもより一段低くなった。感情の乏しいその瞳に、初めて、はっきりとした色が浮かんでいる。


「ご自身が、おいくつか分からなくなってしまわれましたか」


 その表情は、これまで見せてきたどの無表情よりも冷ややかで、なおかつ、どこか底知れぬ圧を伴っていた。感情を殺しているはずのメアの顔に、こうもはっきりと「怖い」と感じさせる何かが滲むのは、珍しいことだった。


「……さぁせんしたぁ……」


 リゼルは、あっさりと白旗を揚げた。六歳の少女らしい、しおしおとした声だった。それでも、腕を組んだまま、僅かに唇を尖らせている。誰の目にも分かる、不貞腐れた態度だった。


「別に、味だけでも知っておきたかっただけだ……」


 小さく零された呟きは、誰にも拾われることなく、夜風に流れていった。


 結局、串焼きだけを掻っ払ってくることで妥協が成立した。ビールの件は、リゼルの中で早々にお預けとなったらしい。


 その隙に、メリュジーヌは、屋台の一つに並んでいた見慣れぬ菓子へ、既に手を伸ばしていた。薄く伸ばした生地で、何かをくるりと巻き込んだ品である。焼きたての甘い香りが、路地の入り口まで漂ってきていた。


「リゼルちゃん、リゼルちゃん」


 メリュジーヌが、頬を紅潮させながら、こちらへ駆け寄ってきた。両手で大事そうに抱えたそれを、興奮気味に突き出してくる。


「このクレープとやら、めちゃくちゃ美味ですわぁ! もちもちの生地の中に、リゼルちゃん考案のショートケーキみたいな味がしますの!」


「……はっ」


 リゼルの動きが、その一言で、ぴたりと止まった。


(や、やべぇ……)


 脳裏を、冷たいものが駆け抜けていく。


(私の特許が、ただのパクりだってバレてしまう……!)


 この人間界に、自分が考案したはずの菓子と瓜二つの品が、既に堂々と屋台で売られている。この事実を深く追及されれば、自分の「発明」の出自そのものが疑われかねない。


「そ、そうか。似たようなものは、世界のどこにでもあるものだ」


 努めて平静を装いながら、リゼルはさりげなく話題を逸らそうとした。額に、僅かに汗が浮かんでいる。


「よし」


 やや強引に、リゼルは声を張った。


「お前たち! 腹も膨れただろうから、食べ終わったら次は街歩きと、買い物だ!」


「あら、まぁ」


 メリュジーヌが、両手を頬に添え、嬉しそうに声を上げた。目を輝かせ、既に一歩を踏み出している。


「リゼルちゃんとお買い物! とても楽しみですわぁ」


「あぁ! まぁ、金は払わんがな!」


 リゼルは、胸を張って、実に堂々とそう言い切った。


「それは、もはやお買い物ではなく、窃盗ですわよね……?」


 メリュジーヌの至極まっとうな指摘は、リゼルの上機嫌な足取りに、あっさりとかき消されていった。


 夜風が、路地の隙間を吹き抜けていく。喧騒に満ちた通りを眺めながら、三人は、しばし言葉もなく、それぞれの戦利品を味わい続けた。潜入も、偵察も、レザードの救出も、ほんの束の間だけ、頭の隅へ追いやられている。三人にとって、それは思いがけず訪れた小さな休息だった。


「それにしても」


 落ち着きを取り戻したメリュジーヌが、通りを行き交う人々を眺めながら呟いた。行き交う馬車や自動車、頭上を過ぎる飛空艇――その一つ一つに、まだ物珍しそうな視線を向けている。


「アレはなんですの? あの、四角い箱から、動く絵が映っておりますけれど」


「テレビだ」


「では、あちらの、馬も魔獣も引いていないのに、自力で走っている鉄の箱は?」


「自動車」


「地面の下から、時折響く音は?」


「電車だ。地下を走っている」


 メアも、負けじと問いを重ねていく。普段の寡黙さが嘘のように、その視線は、通りの隅々にまで注がれていた。


「あちらの塔の先端で、点滅している赤い光は」


「通信塔だ。あれで遠くの相手とも話ができる」


 次々と繰り出される質問に、リゼルは淀みなく答えていった。まるで、この街の案内人であるかのような、あまりにも自然な受け答えだった。


 メリュジーヌが、ふと、不思議そうな顔でリゼルを見つめた。


「リゼルちゃんは、何故そんなに、この国のことにお詳しいんですの……?」


 あまりにも当然の疑問だった。


 リゼルの頬が、一瞬だけ、僅かに引き攣った。


「む……」


 だが、それも一瞬のことだった。すぐに、開き直ったように胸を張る。


「むしろ、なんで君たちがそんなに人間界のことを知らないのか、私は疑問に思うぞ? 敵を知らずに戦いには勝てん!!」


「「おぉ!!」」


 メアとメリュジーヌが、揃って感嘆の声を上げた。追及すべきところを、勢いだけで押し切られたらしい。二人とも、なんとなく納得した顔をしている。


(あっぶねぇ……調子乗りすぎた……)


 内心で冷や汗をかきながら、リゼルは、何食わぬ顔で串焼きの残りを口へ放り込んだ。


 夜の街を、堂々と練り歩く、魔界からやって来た三人。


 その正体は、大侯爵令嬢と、その仲間たちだった。誰にも気取られぬまま、彼女たちは、人間界へ降り立ったその夜から、実に自由気ままに、人間界の食文化を強奪していくのだった。


 串焼きの店主も、クレープ屋台の店主も、いつの間にか減っている品数に首を傾げながら、まさか魔界から来た令嬢一行に掻っ払われているとは、夢にも思わないのだった。


 だが、楽しげに街を歩きながらも、リゼルは時折、王城の方角へ視線を向けていた。


     ◇◇◇


 そのまま雑踏を抜けようとした、その時だった。


 向かいから歩いてきた、薄茶色の髪を風になびかせた一人の少女が、不意に足を止めた。きょとんとした顔で、こちらの方角へ視線を彷徨わせている。


「あれ……?」


 小さな声だった。それでも、その一言に、三人は思わず振り返った。


 少女は、明らかに、何かを探していた。眉を寄せ、首を僅かに傾げながら、視線をゆっくりと動かしていく。だが、その瞳が捉えているのは、リゼルたちの姿ではない。ただの何もない空間――路上の一角を、不思議そうに見つめているだけだった。


 二重の隠密魔法は、正しく機能している。姿は見えない。気配も断たれている。魔力の揺らぎすら、外へは漏れていないはずだった。


 それでも、少女の視線は、まるで見えない糸に引かれるように、リゼルの立つ場所へと吸い寄せられていく。周囲の喧騒が、その一角だけ、僅かに遠のいたような錯覚さえあった。


「……リ、リゼルちゃん?」


 メリュジーヌが、声を潜めて囁いた。その顔から、いつもの余裕が僅かに削げ落ちている。


「あの女、まさかとは思いますけれど……わたくしたち、見られてはいませんの?」


 冗談めかした口調ではなかった。かつて影に生きた者だけが持つ、あの独特の勘――誰かの視線に射抜かれた時特有の、肌が粟立つような感覚。それが、メリュジーヌの中で、確信に近い形で疼いていた。


 メアの手が、腰の剣へ、音もなく伸びる。柄に指がかかるまで、瞬きほどの間もなかった。研ぎ澄まされた反射だけが、その一動作を支配していた。


 だが。


 リゼルが、無言で片手を上げた。


 それだけで、メアの動きは、ぴたりと止まった。抜きかけた剣は、鞘の中へ、静かに戻されていく。主人の意図を、問うまでもなく理解したのだろう。二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。


 少女は、なおもしばらく、その場で立ち尽くしていた。空を仰ぐように、あるいは何かの気配を探るように、視線をゆっくりと巡らせている。だが。


「クラリス〜! 何やってんの、置いてくよー!」


 少し離れた場所から、友人らしき声が飛んだ。少女は、はっと我に返ったように振り向くと、


「あ、待って〜!」


 と声を上げ、小さく首を傾げたまま、そのまま雑踏の向こうへ駆け去っていった。軽やかな足音が、次第に喧騒の中へ紛れて消えていく。


 その後ろ姿を、リゼルは、しばし黙って見送った。


「クラリス……」


 誰にともなく、その名を呟く。赤紫の瞳に浮かんでいたのは、警戒でも、興味でもない、ただ乾いた無関心だった。


「ふん。虫の名前など、覚えていても意味がないな」


 吐き捨てるように言い放つと、リゼルは、あっさりと前を向いた。


「いくぞ、お前たち」


 その足取りに、もはや迷いはない。メアとメリュジーヌも、顔を見合わせてから、無言でその後に続いた。


     ◇◇◇


「メアぁ」


 しばらく歩いたところで、リゼルが、上目遣いに問いかけた。未練がましい響きが、その声にありありと滲んでいる。


「やっぱり、ビールだめぇ……?」


「だめです」


 メアは、間髪入れず、にべもなく答えた。その口調には、一切の交渉の余地がなかった。


「ジュースで我慢してください」


 そう言うが早いか、いつの間にか掻っ払っていたらしい、紙のコップを一つ差し出してくる。中には、鮮やかな橙色の液体――オレンジジュースが、なみなみと注がれていた。


「ちぇーっ! ケチ」


 リゼルは、唇を尖らせながらも、大人しくそのコップを受け取った。ストローに口をつけ、ごくごくと飲み始める。不満そうな表情とは裏腹に、その飲みっぷりには、一切の迷いがなかった。


 だが、その赤紫の瞳が一瞬だけ向いた先には、夜の王城がある。


(待っていろ、レザード)


 今夜の目的だけは、忘れていなかった。


お読みいただき、ありがとうございます。


レザード救出のため、人間界へやって来たリゼルたち。


初日から食べ歩きに夢中の三人でしたが、街では、後に大きな意味を持つ出会いもありました。


リゼルが「覚えていても意味がない」と言ったあの名前。どうぞ、覚えておいてください。


次回もよろしくお願いいたします。

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