Ver.3 Arrow Chapter 2-2 魔弓ザミエル
前回。
父・オルディアスによって幽閉され、さらに監視役としてメアまで付けられてしまったリゼル。
果たして、メアは本当に主人を監視する側へ回ったのか。
そして。
幽閉された程度で、リゼルが素直に諦めるはずもなく――。
夜。
幽閉部屋には、燭台の灯り一つだけが揺れていた。窓の外は、既に完全な闇に沈んでいる。リゼルは、その灯りの下で、壁に刻まれた結界術式をじっと睨みつけていた。この数刻、ずっとこの調子だった。
術式の癖は、既にかなり掴めてきている。だが、力任せに突破するには、まだいくつかの手順が足りなかった。父が本気で張った結界は、六歳の魔力量だけで押し通せるほど甘くはない。
窓には、太い鉄格子と、幾重もの封印が施されていたはずだった。それでも、外から一つの影が、音もなく忍び寄ってきた。
こつり。
硝子を叩く、小さな音。
リゼルが振り向くと、窓の外に、見慣れた顔があった。メリュジーヌである。夜闇に紛れるような濃色の外套を纏い、身のこなしには、かつて暗殺者として生きていた頃の名残が確かに滲んでいる。足音一つ立てず、影から影へ渡ってきたのだろう。屋根の上を、まるで猫のように音もなく移動してきた形跡が、外套の裾に薄っすらと付いた埃から窺えた。
「リゼルちゃん」
小声で呼びかけながら、メリュジーヌは、まず窓に施された封印の紋様へ指を這わせた。だが、その手応えは、思いのほか脆かった。既に何者かの手で、術式の一部が緩められている。
(メアさん、先にひと仕事済ませてくれていたようですわね)
オルディアスが本気で張った上級結界を、外側から一人でこじ開けるなど、いくら元暗殺者とはいえ、そう容易くできることではない。内側からの小さな協力があってこそだった。
メリュジーヌは、封印の緩んだ窓枠へ指を滑らせ、音を立てぬよう硝子戸を押し開いた。
残るは、太い鉄格子だけだった。メリュジーヌは、指先に紫がかった毒液を滲ませる。メドゥーサ族の血に流れる、腐食・溶解系の毒である。それを、格子の一本へそっと垂らした。じゅわり、という小さな音と共に、白い煙が立ち上る。数瞬のうちに、鉄格子の一本が、飴のように溶け落ちていった。
「無事でございますわね?」
メリュジーヌは、溶けた隙間から、身を滑り込ませながら問いかけた。
「メル」
リゼルは、思わず笑みを零した。この状況で、こんなにも安堵の色を浮かべるのは珍しいことだった。
「来ると思っていた」
短い一言だったが、その声には、確かな親しみが滲んでいた。
「当然ですわ。友のピンチに駆けつけぬメリュジーヌ・リュシエンヌ・ノクタールなど、名折れというものです」
窓枠を跨ぎ、メリュジーヌが部屋の中へ完全に滑り込んでくる。その所作には、一切の無駄がなかった。着地の音すら、ほとんど聞こえない。
「まったく、大王だのグリムロアだの、随分と大層な話に首を突っ込んでいらっしゃるようで」
メアから、事の大筋だけは既に聞かされていたらしい。
メリュジーヌは、そう言いながら、部屋の中を興味深そうに見回した。結界の紋様に目を留め、僅かに眉を寄せる。
「随分と、本気の結界ですこと。大侯爵様、相当お怒りだったのでは?」
その問いに、リゼルは少し間を置いた。父の顔を思い浮かべているのか、視線が僅かに宙をさまよう。
「怒っていた、というより……」
リゼルは、少し考えてから答えた。
「本気で心配していた、というのが正しいだろうな」
その言葉には、僅かな苦さが滲んでいた。
「あら」
メリュジーヌが、意外そうに片眉を上げる。
「それで、脱出の算段は?」
メリュジーヌは、話を本題へ戻すように、部屋の中を見回した。
「その前に、一つやることがある」
リゼルは、既に部屋の扉へ向かって歩き出していた。その足取りに、迷いはない。
「やること、とは?」
メリュジーヌが、怪訝そうに尋ねる。
「行けば分かる」
簡潔な返事に、メリュジーヌは軽く肩を竦めた。この少女が「行けば分かる」と言う時は、大抵、後になって驚かされる羽目になる。それを、この一年でよく学んでいた。
だが。
扉に手をかけようとした、その瞬間だった。
ぎ、ぎ、ぎ。
不気味な軋みと共に、扉が独りでに開いていく。廊下の暗闇から、静かな気配が滲み出てくる。
その向こうに立っていたのは、メアだった。
「お嬢様」
感情の読めない声が、静かに響く。
「どちらへ行かれるのでございますか?」
メリュジーヌが、弾かれたように身構えた。手にした鞭――魔鞭ヒュドラーが、しなやかに空を打つ。長年の稼業で染み付いた反射が、有無を言わさず身体を動かしていた。
「リゼルちゃん、ここはわたくしが時間を稼ぎますので、リゼルちゃんは早く《ワールドホール》の出現ポイントへ――」
だが、メアは動かなかった。腰に下げた剣に、指一本触れようとしない。ただ、静かにこちらを見据えているだけだった。その静けさが、かえって不気味だった。
「お嬢様」
メアが続ける。
「お夜食のご用意、お着替えのご用意、すべて完了しております」
あまりにも場違いな台詞だった。
「……は?」
メリュジーヌが、間の抜けた声を漏らした。構えていた鞭が、だらりと下がる。
「メリュジーヌ様の分も合わせて、ご用意しておりますので、ご安心くださいませ」
言葉と共に、メアの視線が、部屋の隅に置かれた小さな包みへ向けられた。よく見れば、そこには確かに、二人分の旅装束と、包み紙に包まれた食料が、几帳面に並べられていた。
リゼルは、しばし沈黙した。それから、恐る恐る問いかける。
「メア。お前は私を裏切ったのではないんだな?」
半信半疑の、それでいて縋るような声だった。
「当然でございます」
メアの答えは、迷いがなかった。
「お嬢様を裏切らないといけないのであれば、腹を割いて内臓をぶち撒けます」
その言葉の物騒さに、メリュジーヌが小さく息を呑んだ。
リゼルは、内心で密かに震え上がった。
(怖いぞ、私の嫁一号……なんか、メリッサ先生から稽古をつけて頂いて以来、こいつ、笑わなくなったし)
「そ、そうか。私はお前を信じていたぞ」
声が、僅かに上擦っていた。
「嫁ですので、当然です」
メアは、表情一つ変えずに即答した。
「ん、じゃあ、なんであの時、私をラグビーボールみたいに抱え上げて、ゴールにぶち込むみたいに幽閉部屋へ放り込んだ?」
リゼルは、先ほどの扱いを思い出し、僅かに頬を膨らませた。
「らぐびぃぼぉる、とやらが何なのかは存じ上げませんが」
メアは、僅かに首を傾げながら答えた。
「お館様を信用させるためです」
その平然とした返しに、リゼルは思わず言葉を失った。
「主人を監視すると御命令を受けた以上、私が本気でお嬢様を閉じ込めたように見せなければ、お館様の目を欺けません。あの一連の行動は、すべて計算のうちにございます」
澱みのない説明だった。まるで、事前に何度も練習してきたかのような口ぶりだった。
「なるほど……徹底しているな」
リゼルは、感心と呆れの入り混じった声で呟いた。
メリュジーヌが、僅かに唇を尖らせた。
「大侯爵閣下への造反は死刑よぉ、メアさん? 分かっていらっしゃいますの?」
物騒な指摘だったが、メアの表情は少しも揺るがない。
「ご心配には及びません」
メアは、そこで初めて、懐から小さな道具を取り出した。銀色の、掌に収まる程度の小さな機械である。
「お館様のお言葉は、しかと録音済みです」
その一言に、メリュジーヌが目を丸くした。
「お館様は『一人で抜け出すような真似をさせるな』とだけ仰いました。私が同行する以上、お嬢様は一人ではございません。この録音が、その何よりの証拠にございます」
あまりにも堂々とした屁理屈に、メリュジーヌは呆気にとられた顔をした。
「メアさん……それ、なにかしらぁ?」
覗き込むようにして、その小さな道具を見つめた。
「お嬢様考案の《ぼいすれこぉだぁ》です」
リゼルが、得意げに補足した。
「父上のような理不尽な物言いをする大人が、いつか現れると思っていたからな。備えあれば憂いなし、というやつだ」
自信に満ちた口調だった。
「まぁ……随分と用意周到ですこと」
メリュジーヌは、半ば呆れたように笑った。この主人の周到さには、いつも驚かされてばかりだった。
メアは、無表情のまま、静かに親指を立てた。
「メア。最近お前、笑わなくなったが、私に何か不満でもあるなら聞こう」
リゼルは、ふと気になったことを尋ねた。この一年ほど、メアの表情から笑みが消えていることが、心の片隅に引っかかっていた。
「お嬢様に不満などございません」
メアは、僅かに視線を伏せた。
「ただ、昨年メリッサ先生より、心を殺せと御指導を頂きましたので。お嬢様にお仕えすることに、今後の我が生涯を捧げます」
重すぎる忠誠だった。
「重いよ!」
リゼルが、思わず叫んだ。
「り、リゼルちゃん。声が大きいわぁ」
メリュジーヌが、慌てて窓の外を気にする。
「ささ、早く逃げましょう。わたくしの、睡眠効果のある呪いを撒き散らすお香の効果は、せいぜい三日くらいですからぁ」
思い出したように、話を先へ進めた。
「三日?」
リゼルが、僅かに眉を上げる。
「夕刻のうちから、少しずつ焚いておきましたの。自宅で寛いでいらっしゃる時は、皆様、警戒というものをなさいませんから。力でねじ伏せるより、よほど確実な手ですわ」
かつての稼業で培った、気取られぬ仕込み方だった。一息に効かせるのではなく、気配を悟られぬ濃度で、じわりと浸透させていく。
「大侯爵様のお部屋や、今夜屋敷にいた使用人の皆様が休む区画には、既に焚いておきましたの。目覚めた頃には、わたくしたち、既に帰ってきているはずですわぁ」
自信たっぷりの説明だった。
「メアは大丈夫なのか? お前もヴァルクロア家の使用人だろう」
リゼルは、ふと気になって尋ねた。
「わたくしを誰だと思っていますの。メアさんには、事前に中和薬をお渡ししておきましたわ。自分が眠っては、任務になりませんもの」
メリュジーヌは、胸を張って答えた。
「なるほど、抜かりないな」
リゼルは、納得したように頷いた。
「それに、リゼルちゃんの御部屋は、あれだけ強固な結界で外気の流入まで遮断されておりましたので。香など、そもそも届きようがございませんでしたわ」
だからこそ、この数刻、リゼルの意識だけは、いつも通り冴えたままだったのだろう。
「さすがはメル。私の仲間だ」
リゼルは、心底感心した様子で頷いた。
「あぁ〜ん、リゼルちゃんに喜んで頂けて、わたくしも嬉しいですわぁ」
メリュジーヌは、頬を紅潮させながら、両手を組んだ。
「なんなら、わたくしも嫁に貰ってくださいまし」
冗談とも本気ともつかない口調だった。
「む」
リゼルは、真剣な顔で頷いた。
「それは素晴らしい提案だな。前向きに検討しよう」
意外なほど真剣な返答だった。
「本当でございますの?!」
メリュジーヌが、思わず身を乗り出す。
「検討はする。確約はしない」
リゼルは、あくまで冷静に線を引いた。
「そこはもう少し、確約に近づけていただけると嬉しいのですけれどぉ」
なおも食い下がろうとするメリュジーヌへ、リゼルは静かに告げる。
「言っておくが、君はメア、それにアーシュラ侯爵家のドゥルガー嬢に次ぐ三番目だ。それでもいいのか、メル?」
間髪を入れぬ即答だった。
「ぜんぜん問題なしですわぁ!」
メリュジーヌは、親指を立て、片目を閉じ、満面の笑みでそう答えた。三番目という順位に、恥じらいの欠片も見当たらない。
メアが、そんな二人のやり取りを、静かに眺めていた。その口元には、相変わらず何の感情も浮かんでいない。だが、その視線だけは、二人から片時も離れることがなかった。
(また一人増えた……)
リゼルの嫁候補は、本人の軽率な了承によって、着々とその数を増やしつつあった。
◇◇◇
三人は、そのまま屋敷の奥深く、ヴァルクロア家宝物庫へと向かった。深夜の廊下は、しんと静まり返っている。灯火の落ちた回廊を、足音を殺しながら進んでいく様は、まるで盗賊の一団のようだった。時折、遠くから寝息のような音が聞こえてくる。メリュジーヌの香の効果は、既に屋敷の大半へ行き渡っているらしい。
「にしても、こんな夜更けに宝物庫へ忍び込むなんて、随分と本格的な泥棒稼業ですわねぇ」
メリュジーヌが、囁くような声で笑った。
「泥棒ではない。正当な持ち出しだ」
リゼルは、きっぱりと言い切った。
「持ち主に許可を取っていない時点で、それは立派な泥棒ですわよ」
メリュジーヌが、してやったりという顔で言い返した。
「持ち主というならば、既にご本人からご許可を頂いている」
リゼルは、あくまで平然と答えた。
「持ち主? ご本人?」
メリュジーヌが、怪訝そうに眉を寄せる。
「どなた様なのかしらぁ?」
好奇心を隠しもせず、身を乗り出す。
「魔弓ザミエルのご所有者は」
そう言いかけた、その瞬間だった。
リゼルは、その場に、深々と跪いた。傍らのメアも、寸分違わぬ動作で、同時に膝を折る。あまりにも自然な、それでいて完璧に揃った、反射のような動きだった。
「大魔王ドラコー陛下だ」
跪いたままの姿勢で、リゼルは静かにそう告げた。
その御名を聞いた瞬間、メリュジーヌの背筋が、びくりと跳ねた。魔界に生きる者にとって、その名は、軽々しく聞き流せるものではない。
「だ、大魔王陛下……!?」
弾かれたように、メリュジーヌも慌てて膝を折りかける。だが、二人が既に頭を垂れ終えているのを見て、動きが中途半端に止まった。跪くべきか、突っ立っているべきか、判断がつかないまま、なんとも珍妙な中腰の姿勢で固まっている。
「ちょっ……この中途半端な格好のまま置いていかないでくださいまし……!」
叫ぶメリュジーヌをよそに、リゼルとメアは、ゆっくりと立ち上がった。まるで、今の跪拝が当然の作法であるとでも言うように、二人とも顔色一つ変えていない。
「陛下御自身が所有される宝具について、正式に話していたのでな。その場だけは、最低限の礼儀を尽くしたまでだ」
リゼルは、何でもないことのように答えた。
「そ、そういうものなのですの……?」
メリュジーヌは、まだ中腰の余韻を引きずったまま、恐る恐る尋ねた。
「そういうものだ。行くぞ」
軽口を叩き合いながらも、三人の足取りに迷いはなかった。何度も屋敷を歩き回ったリゼルにとって、この道のりは既に身体へ染み付いている。
宝物庫の最奥。埃一つ許さぬ厳重な保管室の中央に、一つの箱が置かれていた。分厚い扉には、幾重もの封印術式が施されている。だが、警備の兵も、番をする使用人も、今夜ばかりは皆、香の効果でぐっすりと眠りについていた。この屋敷で生まれ育ったリゼルは、宝物庫までの経路だけでなく、ヴァルクロア家の者が用いる封印の解除手順も知っていた。
緑色の、古びた木箱。
千年もの間、大魔王ドラコーからヴァルクロア家へ預けられてきた、由緒正しき宝具の保管箱である。表面に刻まれた紋様は、既に半分近くが摩耗し、判読すら難しくなっていた。それでも、そこに込められた魔力の重みだけは、肌でひしひしと感じ取れる。
その蓋を開けた瞬間、リゼルの動きが止まった。
魔弓。
漆黒の弓身に、赤い紋様が幾重にも刻まれている。ただそこに置かれているだけなのに、見る者を威圧するような、確かな存在感があった。
弓身の中程、瘤のように盛り上がった部分に、眼球そのものとしか思えない宝石が三つ、埋め込まれている。木箱の蓋が開き、燭台の光が差し込むと、その三つの瞳がゆっくりと開いた。
「――!」
メリュジーヌが、思わず息を呑んで一歩後ずさった。
「な、なんですの、この弓……! 瞬きを……!」
三つの瞳は、それぞれ僅かに異なる速さで瞬いている。まるで、久方ぶりに目覚めた獣が、周囲の様子を確かめているかのようだった。
「知っている。驚くようなことでもない」
リゼルだけが、平然とその瞳を見つめ返していた。
黒瀬真璃亜は、知っている。
(これは……)
『パンデモニウム・オンライン』において、この弓は、たった一人の仲間の得物だった。
レザードの武器。
(これは、あいつの弓だ)
理由など、上手く説明できない。分からない。だが、確信だけがあった。胸の奥から込み上げてくる、抗いがたい衝動のようなものだった。
(それにしても……)
ふと、リゼルの脳裏を、小さな疑問がよぎった。ゲームの中では、あいつの手にあったはずの弓だ。それが、何故、千年もの間ヴァルクロア家に預けられていたのか。大魔王ドラコーは、何を思ってこれをここへ託したのか。
考えても、答えは出ない。今は、それより優先すべきことがある。
「これを、持ち上げるぞ」
リゼルが、両手を伸ばした瞬間だった。
三つの瞳が、すっと細くなる。値踏みするような――いや、値踏みする価値すらないとでも言いたげな、冷ややかな眼差しだった。
魔弓は、びくとも動かなかった。まるで、地面と一体化しているかのような、圧倒的な重さだった。
「……む?」
メアが加勢する。両手をかけ、力を込める。その瞬間、中央の瞳が、すいと横を向いた。まるで、視界に入れる価値すらないとでも言うように。だが、それでも動かない。メリュジーヌまで加わり、三人がかりで持ち上げようとした。それでも、ザミエルはその場から一寸たりとも動こうとしなかった。
「重い……というより、これ、拒絶されているのではございません?」
メリュジーヌが、息を切らしながら零した。額に、うっすらと汗が滲んでいる。
その視線の先で、三つの瞳のうち二つが、ゆっくりと閉じていった。気に入らない相手は、視界にすら入れない――そう言わんばかりの態度だった。
「なるほど」
リゼルは、額の汗を拭いながら、静かに呟いた。
「この場からは、動くつもりがないのだな」
その言葉に、閉じていたはずの瞳が、僅かに開いた。まるで、こちらの言い分を聞いてやってもいい、とでも言うように。
「え?」
メリュジーヌが、怪訝そうな顔をする。
「ならば」
リゼルの赤紫の瞳に、不敵な光が宿った。
「床ごと、持って行けばいい」
その一言に、ザミエルの三つの瞳が、一斉にかっと見開かれた。今の今まで気だるげに閉じていた瞳が、これ以上ないほど大きく開かれている。明らかな驚愕の色だった。
「へ? リゼルちゃん?!」
メリュジーヌの悲鳴じみた声が、宝物庫に響く。
「メア」
リゼルは、短くその名を呼んだ。
「はい、お嬢様」
メアは、一切の躊躇なく応じた。腰から下げた剣を、鞘から静かに抜き放つ。刀身が、灯りを反射して鈍く光った。
両足を静かに踏み替え、腰を落とす。剣先が、一度だけ小さく円を描いた。
「――ハウゼン流五輪術、炎武・紅葉落とし」
低く紡がれたその名と同時に、刀身が紅蓮の炎を纏った。渦を巻くように立ち上る炎が、切っ先から柄まで、瞬く間に覆い尽くしていく。
次の瞬間。
刃が一閃した。
燃え盛る剣閃が、木箱を中心に、その周囲の床へ円を描くように駆け抜けた。石材の焼き切れる音と共に、周囲へ火の粉が飛び散った。木箱にもザミエルにも、刃も炎も一切触れていない。箱を載せた部分の床材だけが、一枚の巨大な円盤のように綺麗に切り離される。切り離された床材は、断面を赤熱させたまま、箱を乗せた状態で、そこにそのまま留まっていた。土埃どころか、余熱の白煙だけが、宝物庫の中に薄く立ち込めている。あまりにも見事な、そして派手すぎる手際だった。
「え……?! えぇ……?!」
メリュジーヌが、口を開けたまま固まっている。目の前で起きていることが、まだ信じられないようだった。
「あとは、収納魔法にぶち込んでおけばいいだけだ」
リゼルは、事も無げに手をかざした。目の前に、小さな黒い渦が生まれる。まるで、ミニチュアの深淵のような、光すら呑み込みそうな漆黒の穴だった。
リゼルは、箱を載せたまま切り離された円形の床材へそっと手を添え、その床材ごと黒い渦の中へ押し込んだ。手荒な真似こそしているものの、この一動作だけは、妙に丁寧だった。何しろ、陛下御自身の御物である。持ち出し方が多少強引であろうとも、粗末に扱ってよい理由にはならない。
渦の中へ吸い込まれていく寸前、三つの瞳が、もう一度大きく見開かれた。まさかこんな扱いを受けるとは想像もしていなかった、とでも言いたげな、あからさまな動揺だった。
ずぽん、という軽い音と共に、箱は渦の中へ消えていく。跡には、綺麗にくり抜かれた床の穴だけが残された。
「……もう、何も驚きませんわ」
メリュジーヌは、遠い目をしながら、そう呟いた。その表情には、既に諦観に近いものが浮かんでいる。
◇◇◇
準備は整った。
同行するのは、メアとメリュジーヌの二人だけ。ルドラとドゥルガーは、今回は連れていかない。
「あぁ、あの方たちは、少し賑やかですから、潜入には不向きですわよねぇ」
メリュジーヌが、既に面識のある二人を思い浮かべながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。あの二人が同行すれば、静かな潜入行など、あっという間に大立ち回りへ発展しかねない。
「その通りだ」
リゼルは、素直に頷いた。
「今回は、あくまで隠密行動だ。目立つことは避けたい」
真顔でそう告げた。
「隠密行動と言いつつ、床ごと宝具を持ち去った令嬢が何を仰いますの」
メリュジーヌの突っ込みに、リゼルは僅かに視線を逸らした。
「あれは、仕方のない犠牲だ」
悪びれる様子もなく、そう言い切った。
「屋敷への犠牲ですわね、それ」
リゼルは、右手をそっと空中へかざした。次の瞬間、足元に、淡い青紫の魔法陣が浮かび上がる。《アビス・ゲート》――魔界の内側、既知の座標へのみ、瞬時に転移できる魔法だった。世界そのものを越える力までは、この魔法にはない。あくまで、この一歩を稼ぐための移動手段に過ぎなかった。幾重にも重なる魔法陣の紋様が、静かに回転を始める。
「行くぞ」
その一言と共に、三人の姿は、屋敷の宝物庫から掻き消えた。
次に足が地面についた時、そこは既に、《ワールドホール》の出現予測地点として、あらかじめ割り出しておいた場所だった。
夜風が、三人の髪を静かに揺らす。目の前には、何の変哲もない荒野が広がっていた。だが、その空気の質だけは、明らかにこれまでとは違う何かを孕んでいる。
「……ここが」
メリュジーヌが、周囲を見渡しながら呟いた。
「あぁ。予測地点だ」
リゼルは、静かに頷くと、暗闇の向こうを見据えた。その赤紫の瞳には、既に迷いというものがなかった。
黒瀬真璃亜だった頃の記憶――幾度となく繰り返したゲームの知識が、この荒野の空気の揺らぎ方から、出現の兆しを読み取っていた。
「そろそろだ」
その一言と同時だった。
荒野の一角、何もなかったはずの空間が、音もなく歪み始める。まるで、世界の布地そのものが、裂けていくかのような光景だった。裂け目は瞬く間に広がり、やがて、人の身丈を優に超える巨大な穴へと成長していく。その奥には、こことは全く異なる景色――煌々とした光と、遠く響く喧騒の気配が、確かに揺らめいていた。
「……とんでもない代物ですわね」
メリュジーヌが、思わず息を呑んだ。
「行くぞ。長くは開いていない」
リゼルを先頭に、三人は、その裂け目へと足を踏み入れた。
視界が、一瞬だけ真っ白に染まる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
メア。
やはりメアでした。
お館様の命令も守る。
お嬢様への忠誠も守る。
その結果が、あの理屈です。
そして今回、ついに登場しました。
魔弓。
長い間ヴァルクロア家に預けられていた宝具が、これからどのように物語へ関わってくるのか。
そしてリゼル、メア、メリュジーヌの三人は――ついに魔界の外へ。
――次回
Ver.3 Arrow Chapter 2-3
『人間界、初日から無法地帯』
次回も、どうぞよろしくお願いいたします。




