Ver.0 TUTORIAL 2.1 リゼル・ノクス・ヴァルクロア
暗い。
最初に、そう思った。
だが、それは死の暗さではなかった。黒瀬真璃亜が最後に見た、あの夜のアスファルトの黒ではない。トラックの前照灯に切り裂かれ、血と雨と後悔で濡れた視界の暗転でもない。ましてや、あの世と地獄の狭間で見た、魂の底を覗き込むような紫黒の闇でもなかった。
ここにある闇は、温かかった。
閉ざされている。狭い。身体は丸められ、自由はほとんどない。音はすべて水の向こうから響いてくるように歪み、意味を持つ前に柔らかく崩れていく。それでも、その闇の中心には確かな音があった。深く、力強く、途切れることのない鼓動。
母の鼓動だ。
そう理解した瞬間、わたしの意識は奇妙な沈黙に包まれた。
母。黒瀬真璃亜として生きていた時、わたしはその言葉にどれほどの意味を残していただろうか。日々は仕事に削られ、眠るためだけに帰る部屋は牢獄に似ていた。誰かに守られているという感覚など、とうに失っていた。
人は生きていくために働くのではなく、働くために生かされるのだと、あの会社は毎日わたしに教えてくれた。泣く暇も、怒る資格も、休む権利も、尊厳すらも、少しずつ削られていった。その果てに残ったのは、誰かの幸福を見ただけで殺意に似たものを覚えるほど腐った、惨めな女だった。
だが今、わたしは守られている。
まだ何もしていない。誰の役にも立っていない。命じられた仕事を片づけてもいない。成果も出していない。忠義も示していない。価値を証明していない。それなのに、この身体は母の胎内で守られている。
不思議だ。理解はできる。生物として当然の仕組みだ。胎児が母体に守られているなど、前世の知識としては分かっている。だが、知識として知っていることと、実際にその内側にいることは違う。
ここは、温かい。腹立たしいほどに、優しい。
閉じた闇の中で、わたしはゆっくりと思考を整えた。
わたしは、黒瀬真璃亜ではない。あの名は終わった。人間界で擦り切れ、踏みにじられ、最後には愚かな殺意にまで堕ちた女の名だ。わたしは彼女を否定しない。あれはわたしだった。あの屈辱も、怒りも、羨望も、醜い衝動も、すべてわたしのものだ。
けれど、もう戻らない。
わたしは、リゼル・ノクス・ヴァルクロア。その名は、まだ誰にも呼ばれていないはずなのに、魂の奥に刻まれていた。まるで、この世界に生まれる前から決まっていた役職のように。あるいは、あの悪神が契約の印として刻んだ名のように。
リゼル。ヴァルクロア大侯爵家の令嬢。魔界の貴族。大魔王ドラコー陛下に仕えるべき者。人間を守る聖女ではない。世界を救う勇者ではない。涙で誰かを癒す天使でもない。
わたしは悪として生きる。魔族として生きる。魔界の秩序の中で高みに登り、ドラコー陛下の御為に力を磨く。前世で奪われ続けたわたしの時間も、尊厳も、知識も、憎悪も、今度はすべて武器になる。
遠くで声がした。膜越しの声。低く、落ち着いた男の声だった。意味は明確には聞き取れない。けれど、その声は命令に慣れている。誰かに確認を取るための声ではなく、誰かに動くよう告げるための声。周囲の空気が、その声に従って流れているのが分かる。
父か。
そう思った。
声の近くで、別の音がする。衣擦れ。複数の足音。女たちの短いやり取り。焦りを隠した礼儀正しい声。金属器具のかすかな音。扉が開き、閉じる気配。母の鼓動が少し速くなる。
時が近いのだろう。
わたしは身体を動かそうとする。だが、動かない。いや、動いてはいるのだろう。けれど、自分の意思で腕を伸ばす、脚を踏み出す、拳を握るといった動きではない。わたしの身体はまだ胎児であり、世界へ出るための準備をしているだけだ。自由を得るには、まだ一つ境界を越えなければならない。
母の鼓動が、また強く鳴った。外側で誰かが言った。言葉はまだ曖昧だが、声の緊張だけは分かる。
産まれる。
わたしは、その言葉を理解した。
ついに来た。
不思議と恐怖はなかった。前世で死を経験したからかもしれない。あるいは、あの悪神と対面した後では、誕生など恐れる対象ではないのかもしれない。むしろ、胸の奥にあるのは期待だった。
見たい。この世界を。パンデモニウムを。ゲームの画面ではなく、現実として存在する魔界を。大魔王ドラコー陛下が統べる世界を。この身体で、この目で、この魂で確かめたい。
わたしは、母の胎内で最後の闇を抱きしめるように思考を閉じた。
さあ。始めよう。黒瀬真璃亜の終わりの先にある、リゼル・ノクス・ヴァルクロアの生を。




