Ver.0 TUTORIAL 1.2 悪神
この物語の主人公は、この話で死にます。
ですが、それは終わりではありません。
すべては、ここから始まります。
黒瀬真璃亜は、死んだ。
その終わり方は、あまりにも唐突で、あまりにも呆気なく、そして、あまりにも彼女の人生に相応しかった。誰にも惜しまれず、誰にも抱き留められず、誰かの人生に深い傷を残すことさえなく、ただ夜の道路に投げ出されるようにして終わった。物語の主人公が死の間際に与えられるような美しい独白もなければ、走馬灯もなかった。あるのは、視界を灼くヘッドライトと、鼓膜を裂くようなブレーキ音と、誰かが上げた短い悲鳴だけだった。
自分の身体が宙に浮いた感覚があった。けれど、それは自由などではない。むしろ、あの一瞬こそ、真璃亜はこの世界の冷たい法則に最も正しく捕まっていた。重力、速度、質量、衝撃。人間がいくら苦しもうと、泣こうと、祈ろうと、ただ数式のように結果だけを出す無慈悲な法則。それが彼女の肉体を跳ね上げ、回転させ、どこか硬いものへ叩きつけた。
視界が回った。空と地面が入れ替わり、街灯が白い線となって流れ、濡れたアスファルトが黒い鏡のように迫った。最後に見たものが何だったのか、彼女には分からなかった。車体だったのか、道路だったのか、あるいは自分を見下ろす誰かの恐怖に歪んだ顔だったのか。どれでもよかった。どれであっても、彼女の人生の結末としては、大差がなかった。
痛みは、あったのだと思う。ただ、覚えていない。痛みを痛みとして理解するより先に、黒瀬真璃亜という意識は、深い暗闇の底へ落ちていった。
そして、次に目を開けた時。彼女は、見知らぬ場所に立っていた。
そこには空がなかった。いや、正確に言えば、空のようなものは存在した。頭上には果てしない広がりがあり、紫と黒を混ぜたような濁った光が、ゆっくりと脈打つように漂っていた。だが、それは地球の空ではない。星もない。月もない。雲もない。夜空と呼ぶには生々しく、宇宙と呼ぶには湿りすぎている。まるで、巨大な獣の腹の内側から、まだ見ぬ外界を見上げているようだった。
神の墓場。あるいは、地獄へ落ちる前に魂を吊るしておくための、悪趣味な待合室。真璃亜の脳裏に浮かんだのは、そんな言葉だった。
遥か頭上には、黒い月のような穴が開いていた。中心は底なしの闇で、縁だけが濃い紫に発光している。その穴からは無数の鎖が垂れ下がり、鎖の先には人影のようなものが吊るされていた。人間なのか、魂なのか、罪の成れの果てなのか、真璃亜には分からない。ただ、それらは時折、風もないのに揺れ、喉の奥を潰されたような音を漏らしていた。声と呼ぶには弱すぎた。祈りと呼ぶには汚すぎた。悲鳴と呼ぶには、もう諦めすぎていた。
周囲には、壊れた塔が浮かんでいた。逆さまになった塔。横倒しになった塔。半ばで折れた塔。柱だけを残し、壁を失った塔。いずれも古い神殿めいた荘厳さを持っていたが、その装飾はどこか歪んでいた。聖堂のようにも見える。処刑場のようにも見える。祈りを捧げるための場所でありながら、そこで膝を折った者が救われるとは到底思えない。
足元には、黒い水面が広がっていた。水というより、闇を液体にしたものだった。真璃亜がわずかに足を動かすと、ちゃぷ、と小さな音が鳴った。その音だけが、妙に現実的だった。波紋が広がり、水面に彼女自身の姿が映る。
黒いスーツ。血と泥で汚れた白いシャツ。裂けた袖。片方のレンズが割れた眼鏡。乱れた黒髪。頬には擦り傷があり、唇の端には乾いた血がこびりついていた。胸元にも、腹にも、袖にも、黒ずんだ血が残っている。死んだはずなのに、事故の痕跡だけは魂にまで焼き付いているらしい。
惨めだった。あまりにも惨めだった。生きている間も惨めだった。死んでからも惨めだった。会社で頭を下げ、上司の機嫌を取り、同僚の視線に耐え、休日にも仕事のことを考え、好きだったものに縋りつき、それでも最後は夜の道路で壊れた人形のように転がった。世界は最後の最後まで、彼女の尊厳を踏み忘れなかった。
真璃亜は、笑おうとした。だが、笑えなかった。泣こうとも思わなかった。怒ろうとも思わなかった。恐怖すら、遠かった。ただ疲れていた。生きていた時から続く重く濁った疲労が、死後の魂にまで染み込んでいる。死んだなら、もうそれでいい。地獄に落ちるなら落ちればいい。裁かれるなら裁かれればいい。消えるなら消えればいい。もう仕事も、上司も、同僚も、幸福そうな誰かも、自分の醜さも、世界への憎しみも、全部どうでもよかった。
その時だった。
「はいはいはーい! お疲れ様でしたぁ!!」
ぱちぱちぱちぱち、と軽薄な拍手が響いた。その音は、この紫黒の世界にあまりにも似合わなかった。死者の領域、魂の狭間、神々の管轄外のような場所に、まるで場違いな司会者が乱入してきたような声だった。真璃亜は、ゆっくりと顔を上げる。
そこに、男がいた。黒い衣をまとった、異様な男だった。
肌は白い。病的な白ではない。死体の白でもない。まるで冷たい石を人の形に削り、そこに悪意だけを流し込んだような白だった。長い白髪が紫の闇の中で淡く光り、恐ろしく整った顔には、柔らかな笑みが浮かんでいる。神父のようにも見える。法王のようにも見える。だが、その整い方には、人間らしい温度が一切なかった。
笑みは柔らかい。声も柔らかい。姿勢も丁寧だ。だが、真璃亜は直感した。これは優しさではない。これは礼儀ですらない。獲物を解体する前に、白い布を敷くような丁寧さだった。
男の背後には、巨大な円環が浮かんでいた。魔法陣にも見える。後光にも見える。だが、それは聖者の光輪ではなかった。円環の内側には無数の文字が刻まれ、ゆっくりと回転している。真璃亜には読めない。けれど、本能で分かる。それは祈りではない。契約だ。祝福ではない。呪いだ。
男は片手に杖を持っていた。杖の先端には蜘蛛の巣のような円形の飾りがあり、その中心に紫の石が嵌め込まれている。その石から細い光の線が伸び、空間全体に張り巡らされていた。まるで、この場所そのものが男の杖に吊られているようだった。
男は、両手を広げた。芝居がかった動きに、身にまとう黒衣の裾が大きく舞う。まるで、ここが舞台の中央であることを疑ってすらいない仕草だった。
「黒瀬真璃亜さん! いやぁ、すごい! すごいですよあなた! 本当に、ここまで綺麗に救いのない人
生を歩き切るとは! 悪神である私も、思わず拍手してしまいました!」
真璃亜は、しばらく何も言えなかった。自分の名前を呼ばれたことよりも、目の前の存在の声色が不快だった。知らない男に人生を覗かれていた気持ち悪さ。死んだ直後の魂に向けられるには、あまりにも無神経な明るさ。慰めではない。哀れみでもない。これは鑑賞だ。人の苦痛を、完成度の高い芝居でも見終えたかのように称賛している。
「努力して、耐えて、我慢して、削られて、踏みつけられて、最後は嫉妬に負けて少女を突き飛ばそうとして、自分が轢かれて死亡! うーん、見事! 実に見事です! ここまで救いがないと、逆に美しいですねぇ。芸術点、高いですよぉ!」
真璃亜は、男を睨んだ。
「……誰」
「おっとぉ、第一声がそれですか! いいですねぇ、冷静! 普通なら『ここはどこ?』とか『私は死んだの?』とか聞くところですが、まず相手の身元確認! 社会人経験が出ていますねぇ!」
「答えて」
「私はルキフグス。分かりやすく言えば、悪神です」
「悪神?」
「はい、悪神! 悪意を育て、絶望を観察し、熟したところを収穫する、とっても地道な農業系悪神ですねぇ!」
「……気持ち悪い」
「よく言われます! 褒め言葉として頂戴しますね!」
ルキフグスは、心底嬉しそうに笑い、杖の先端で自分の頬を突いてみせた。真璃亜は、思わず眉をひそめる。神と名乗るには軽すぎる。悪魔と呼ぶには明るすぎる。恐ろしいはずなのに、腹が立つ。威圧されているのではない。馬鹿にされているのだと、すぐに分かった。それも、ただ見下されているのではない。彼女の苦しみも、怒りも、死も、全部を理解した上で、娯楽として扱われている。その感じが、どうしようもなく不快だった。
「いやぁ、それにしても良かったですよ。あなたの魂、本当に良い。恨み、嫉妬、屈辱、自己嫌悪、世界への呪い、他人の幸福への殺意。全部いい具合に混ざっています。あと一歩。あと一歩で、たいへん美味しい悪意になります」
「黙って」
「黙りませぇん。ここで黙ったら、悪神の名折れですから」
即答だった。真璃亜の目に、殺意が宿る。生きている間なら、こんな目をすれば誰かに咎められただろう。社会人として、女として、まともな人間として、そんな顔をするなと言われただろう。だが、ここにはもう会社もない。上司もいない。常識もない。だったら、睨むくらいは許されてもいいはずだった。
「……殺すよ」
「死んだばかりの魂が悪神を殺す宣言! 素晴らしい! 気概がありますねぇ! ただし嘘はついていませんよ」
その一言だけで、ルキフグスの声から熱が消えた。黒い水面の波紋が止まった。吊られていた魂たちが、ぴたりと動きを止めた。背後の円環が、音もなく回転を速める。真璃亜は、息を呑んだ。目の前の男は軽薄で、不快で、腹立たしくて、冗談ばかり言っている。けれど、それは表面だけだ。この男は、本当に人間の外側にいる。彼女の怒りも、殺意も、恨みも、届かない場所にいる。今の一瞬だけで、それが分かった。
ルキフグスは、すぐに笑顔へ戻った。切り替えの早さそのものが、彼という存在の底知れなさを物語っていた。
「さてさてさぁてぇ~。では本題に入りまっしょう! あなたの魂、本来なら地球側の神や魔王の管轄です。死後に裁かれ、どこかへ送られる予定でした。天国か、地獄か、それとも別の場所か。まあ、正直そこは私の知ったことではありません。ですが!」
ルキフグスは、両腕を広げた。
「私が横取りしました!」
真璃亜は、眉を寄せた。
「横取り?」
「はい、横取り! 盗みとも言いますね! いやぁ、怒られるでしょうねぇ、地球側の神々や魔王から。
『それはうちの魂だぞ』って。ですが仕方ありません。あなたの魂が良かったんです。見つけてしまった以上、収穫候補として確保しないわけにはいきませんでした」
「意味が分からない」
「でしょうねぇ。死んだ直後に悪神から魂の所有権トークをされても、普通は困りますよねぇ」
「うるさい」
「おや、まだ反抗心がある。いいですねぇ」
ルキフグスは杖を軽く振った。足元の黒い水面に、映像が浮かび上がる。会社のデスク。山積みの書類。鳴り続ける電話。灰島の怒鳴り声。鷹宮の不快な手。森下の冷たい視線。深夜のコンビニの光。疲れ切った自分の顔。それらが黒い水面に浮かび、歪み、沈んでいく。真璃亜は反射的に視線を逸らそうとした。だが、逸らせなかった。水面に映る過去は、ただの映像ではない。魂に焼き付いた記憶そのものだった。忘れようとしても忘れられず、見たくなくても見えてしまう、人生の汚れた断片だった。
「ブラック企業で擦り潰され、上司に壊され、同僚に見下され、好きだった世界はサービス終了寸前。最後には、眩しい青春を歩いている少女を見て、ついに我慢の糸が切れた」
ルキフグスは、楽しそうに指を鳴らした。
「そして死亡! いやぁ、フルコースですねぇ! 前菜が労働、主菜が絶望、デザートが事故死! お飲み物は自己嫌悪でよろしいですかぁ?」
「黙って」
「おかわりもございますよ?」
「黙ってって言ってるでしょ!」
真璃亜の声が跳ねた。その瞬間、黒い水面が大きく揺れた。映像が乱れ、会社の光景が崩れていく。真璃亜自身も驚いていた。自分にまだ、こんな声を出す力が残っていたのかと。
ルキフグスは嬉しそうに目を細めた。
「いいですねぇ。怒りが残っています。諦めたふりをして、まだ燃えるものがある。そうでなくては困ります。何もかも枯れ切った魂では、育てがいがありませんから」
「育てる?」
「ええ。あなたの中にある悪意の芽を、私の世界で育てていただきたいのです」
背後の円環がゆっくりと光った。真璃亜の足元の黒い水面に、種のようなものが映る。それは植物の種にも見えたし、黒い心臓にも見えた。脈打つたびに、恨み、嫉妬、怒り、惨めさ、殺意、世界への呪いが絡まり合い、黒い芽となって伸びていく。醜い。吐き気がする。だが、ルキフグスはそれを見て、うっとりと笑った。杖の先で円環を指でなぞる仕草は、まるで丹精込めた盆栽を愛でる庭師のようだった。
「私はね、黒瀬真璃亜さん。悪意の芽を育てたいのです。人間が苦しみ、歪み、壊れ、最後に綺麗事を捨てる瞬間ほど美しいものはありません。あなたが悪として生き、支配し、奪い、壊し、恨みを忘れず、世界へ爪痕を残す。その果てに実った悪意を、私は収穫する。それが私の力になる」
「……どうでもいい」
「はい?」
「どうでもいいって言ったの。悪意とか、魂とか、収穫とか、勝手にすれば。私はもう疲れた。何もしたくない。転生とか、救済とか、復讐とか、そういうのもいらない。早く終わらせて」
ルキフグスは、杖の先で自分の肩をとんとんと叩いた。困ったような顔をしているが、その目の奥にはまだ余裕がある。まるで、用意していた本命の餌をまだ出していないだけだと言わんばかりだった。
「うーん。困りましたねぇ。せっかく地球側から魂を横取りしてきたというのに、ご本人がやる気ゼロ。これは悪神としても困ります。返品は面倒ですし、地球側に怒られますし」
「勝手に怒られてれば」
「辛辣ですねぇ。好きですよ、そういうところ」
「私は嫌い」
「でしょうねぇ」
ルキフグスは、傷ついた様子もなく笑った。そして、声の調子を変えた。
「では、別の話題にしましょう」
杖の先端に嵌め込まれた紫の石が光った。黒い水面が、大きく揺れる。そこに文字が浮かび上がった。
――Pandemonium Online
真璃亜の呼吸が止まった。それまで死後の世界も、悪神も、魂の横取りも、何もかも遠いもののように聞いていた彼女の意識が、その文字列だけで一気に現実へ引き戻された。身体があるなら心臓が跳ねたはずだった。血があるなら冷たくなったはずだった。唇が、震えた。
「……なんで」
「おっとぉ? 今、反応しましたねぇ?」
「なんで、それを知ってるの」
「パンデモニウム」
ルキフグスは、わざとゆっくりその名を口にした。真璃亜の顔色が変わった。
「おお! いい反応! やる気ゼロだった魂が、一気に再起動しましたねぇ! 素晴らしい! やはり餌は選ばないと!」
「餌って言わないで」
「餌でしょう? あなたにとって、これ以上の餌がありますか?」
黒い水面の映像が切り替わる。白い玉座。深く、神聖で、異様なほど美しい白。魔界において、その色を許された唯一の存在。玉座に座る大魔王。大魔王ドラコー陛下。真璃亜の世界が、そこにいた。
「……ドラコー、陛下」
声が震えた。呼び慣れた名のはずだった。画面の前で何度も呟いた名だった。イベントのたびに、報酬を受け取るたびに、称号を授けられるたびに、彼女はその名を見てきた。けれど、死後の狭間でその姿を見せられた瞬間、真璃亜の中に残っていた疲労も、諦めも、無気力も、すべて吹き飛んだ。
彼女にとって、現実は救いではなかった。会社は彼女を削った。上司は彼女を踏んだ。同僚は彼女を見下した。誰も褒めなかった。誰も認めなかった。けれど、パンデモニウムだけは違った。大魔王ドラコー陛下だけは違った。画面の向こうの存在であろうと、プログラムであろうと、彼女の努力に報酬を与え、称号を与え、勝利を讃えた。
くだらない、と誰かは笑うだろう。たかがゲームだ、と誰かは言うだろう。だが、黒瀬真璃亜にとっては、違った。それだけが、彼女の人生で唯一、報われた場所だった。
「はい出ました! 大魔王ドラコー陛下!」
ルキフグスは、まるで舞台の幕が上がったように声を張った。
「あなたが人生の大半を捧げた存在! あなたの努力を数字で報い、称号で報い、物語で報いてくれた、現実より遥かに優しい魔界の王! いやぁ、美しいですねぇ。現実には救われなかった女が、画面の向こうの大魔王に救われる。とても歪で、とても甘美です!」
「やめて」
「おや?」
「やめて」
水面の端に、カウントダウンが映る。サービス終了まで。七分三十八秒。真璃亜の唇が震えた。
「さぁさぁ、サービス終了まであと七分三十八秒ですよぉ?」
ルキフグスの声は、楽しげだった。
「貴女のすべてを捧げてきた、すべてを報いてくれた世界が、あと七分三十五秒で終わっちゃいます」
「やめろ」
「よろしいのですかぁ? 大魔王ドラコー陛下、このまま消えちゃいますよ?」
その瞬間。黒瀬真璃亜は、壊れた。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
空間が震えた。紫黒の空が歪み、浮かんでいた塔の残骸が軋む。吊られていた魂たちが一斉に身を縮め、黒い水面が荒れ狂った。それは、ただの声ではなかった。喉から出た悲鳴ではない。魂そのものが引き裂かれる音だった。黒瀬真璃亜という人間が、最後に残していた理性と尊厳と諦めを、全部投げ捨てて叫んだ音だった。
ルキフグスは、一歩、また一歩と後ろへ下がった。
「うわ……うわぁ……」
真璃亜は叫び続けた。
「消さないで! お願い! お願いだから! ドラコー陛下を消さないで! パンデモニウムを消さないで! 私の世界を消さないで! 私から、これ以上奪わないで!」
「いや、長い長い長い長い! 叫びが長い! 魂が割れますよ? 割れたら困るんですよ、私が! 商品価値が下がるでしょうが!」
ルキフグスの言葉は、真璃亜には届いていなかった。彼女は泣いていた。死んだはずなのに、肉体などないはずなのに、涙のようなものが頬を伝っていた。上司に怒鳴られても泣かなかった。鷹宮の手に吐き気を覚えても泣かなかった。森下の視線に心を抉られても、会社のトイレで唇を噛んで耐えた。けれど今は、耐えられなかった。
ドラコー陛下が消える。パンデモニウムが終わる。その事実だけは、耐えられなかった。
「お願いします……お願いします……!」
真璃亜は崩れ落ちた。さっきまでルキフグスを睨み、殺意を向け、悪神など知るかという顔をしていた女が、額を黒い水面に擦りつけた。
「お願いします、ルキフグス様」
「出ました土下座! いやぁ、美しい! 殺意から土下座までが早い! 人間の尊厳、軽いですねぇ!」
「何でもします。私にできることなら何でもします。だから、どうか、大魔王ドラコー陛下を……パンデモニウムを……消さないでください」
「先ほどまでの敵意は?」
「捨てます」
「殺意は?」
「捨てます」
「私を気持ち悪いと言った件は?」
「申し訳ありませんでした」
「謝罪まで早い!」
ルキフグスは、腹を抱えて笑った。その笑い声は不快だった。真璃亜にも、それは分かっていた。だが、どうでもよかった。目の前の悪神がどれほど気持ち悪くても、どれほど自分を見下していても、どれほどこの状況を娯楽として楽しんでいても、今の彼女には関係がなかった。守りたいものがある。それだけで、人間の尊厳など簡単に捨てられる。
「いいですねぇ! いいですよ黒瀬真璃亜さん! 私はそういう、信仰のためなら自分の尊厳を足で踏み潰せる魂、大好きです!」
「お願いします。どうか、ドラコー陛下を」
「はいはいはい。分かりました。では、提案です」
ルキフグスは、急に明るい営業マンのような声になった。契約書を取り出す手つきさえ、まるで保険の勧誘員のように軽やかだった。
「黒瀬真璃亜さん! あなたを、パンデモニウムの世界へ転生させてあげましょう! どう?! どう?! 凄いサプラぁああああイズ!!」
真璃亜の肩が震えた。
「……本当、ですか」
「本当です! ただしゲームではありません! 私が管理し、私が調整し、私が悪意の畑として育てている世界です! そこであなたは、リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして生まれ変わる!」
「リゼル……」
「はい! リゼル・ノクス・ヴァルクロア! 大魔王ドラコー陛下へ仕えるべき魔界の大貴族! あなたが夢見た器! あなたの悪意を育てるにはぴったりの高性能ボディです!」
真璃亜は、震える声で言った。
「私が……リゼルに……」
「そうです。リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして生まれ、あなたの成したいことを成しなさい。人間界を赦さないのもよし。魔界で権力を握るのもよし。大魔王ドラコー陛下に気持ち悪いほど忠誠を捧げるのもよし」
「ありがとうございます」
「まだ条件言ってませぇん」
「ありがとうございます、ルキフグス様」
「聞いてます? 黒瀬真璃亜さん、私の話、聞いてます?」
「ありがとうございます」
「駄目だこれ。ドラコー陛下で完全に壊れている」
ルキフグスは、笑いながらも少し引いていた。悪神である彼にとって、狂信も依存も悪意の肥料に過ぎない。だが、それにしても目の前の魂は極端だった。自分の死には投げやりだったくせに、画面の向こうの大魔王の名を出された瞬間、完全に蘇った。いや、蘇ったというより、狂ったという方が正しい。けれど、それがいい。それこそがいい。
ルキフグスは杖を振り、黒い水面に映っていたカウントダウンを停止させた。七分二秒。真璃亜は、はっと顔を上げた。
「ご安心ください。少し止めました。サービス終了までの残り時間を眺めながら契約条件を読むのも、なかなか趣味が悪いですからねぇ。まあ、私は趣味が悪いのですが」
空中に、黒い契約書が現れる。紙ではなかった。魂の薄皮を剥いで作ったような、見るだけで吐き気を催す黒い書だった。表面には文字が浮かび、消え、また浮かぶ。読むことはできない。だが、そこに書かれているものが善意ではないことだけは分かった。
「条件は簡単です!」
ルキフグスは、軽く指を一本立てた。
「一つ! 前世の話、私との契約、パンデモニウム・オンラインがゲームだったこと。これらを誰にも言ってはいけません。軽く言いましたが、本当に死にます。魂を回収します。大魔王ドラコー陛下の御前でも、新しいお父さんとお母さんの前でも、仲間の前でも、泣こうが喚こうが即終了です!」
「分かりました」
そこだけ、ルキフグスの目が笑わなくなった。
「これは冗談ではありません」
声から、温度が消えた。黒い水面が凍りついたように静まる。吊られた魂たちが息を潜める。背後の円環に刻まれた文字が、一斉に真璃亜の方を向いたように見えた。
「黒瀬真璃亜。あなたは転生後、誰にも語れない秘密を抱えて生きることになります。前世も、契約も、パンデモニウムの真相も、私の存在も。どれほど追い詰められようと、どれほど愛する相手に問われようと、口にしてはならない」
真璃亜は、額を水面につけたまま答えた。
「はい」
「言えば、あなたは終わります」
「はい」
「たとえば、大魔王ドラコー陛下に問われても?」
その問いだけは、真璃亜の身体を強く震わせた。ドラコー陛下に問われる。その想像は、彼女の中で恐ろしいほど重かった。前世を隠すことよりも、ルキフグスの存在を隠すことよりも、ドラコー陛下の御前で何かを秘すということが、何よりも痛かった。だが、彼女は答えた。
「……言いません」
「ほう」
「言えば、ドラコー陛下に仕えられなくなるのでしょう。ならば、言いません」
「忠誠のためなら秘密も抱えると?」
「はい」
「その秘密が、あなたの魂を腐らせても?」
「構いません」
「いいですねぇ」
ルキフグスは、満足そうに目を細めた。
「では二つ目! あなたの行動は、私だけが確認できるパラメータで管理されます。善行値と悪行値です! ゲームみたいでしょう? 私、そういうの好きなんですよ! 善行値が高くなりすぎたら、呪いで殺します!」
「待って」
「はい?」
真璃亜は、顔を上げた。その目には恐怖があった。だが、それ以上に明確な拒絶があった。さっきまで土下座し、何でもすると言っていた女の目ではない。そこには、絶対に譲れない線を守ろうとする頑なさがあった。
「私は、大魔王ドラコー陛下や仲間に酷いことはできません。リゼルのお父さんにもお母さんにも、できません。私を支えてくれる者たちに、酷いことはできません。それを強制されるなら、私は契約できません。どうかこのまま死なせてください」
ルキフグスは、ぴたりと止まった。そして、ゆっくりと笑った。
「人の話はよく聞いてください」
軽い声だった。けれど、その奥に細い刃のような冷たさがあった。
「私は、あなたに身内を虐げろとは言っていません。善行値が高くなりすぎるな、と言っているのです。悪行値が十分に高ければ、多少の善行など誤差です! 人間の国を滅ぼす! 王侯貴族を処刑する! 反逆者を粛清する! 敵対者を踏み潰す! 支配する! 奪う! 燃やす! そういう悪行値がしっかり積まれていれば、仲間に優しくしたり、夜魔族のメイドに甘かったり、大魔王ドラコー陛下へ気持ち悪いほど忠誠を捧げたりしても、私は問題にしません!」
「気持ち悪いほど……」
「事実でしょう?」
「……はい」
「認めるんですねぇ。ヒクわー」
だが、楽しそうだった。
「よろしいですか、黒瀬真璃亜さん。悪人にも身内への優しさくらいあります。身内に優しいから善人、などという雑な判定はしません。私は悪神ですので、そのあたりは公平です。むしろ、愛がある悪意の方がよく熟します。守りたいものがある者ほど、守らないものを簡単に踏める。愛する者を救うためなら、愛さない者を燃やせる。いやぁ、人間という素材は本当に素晴らしいですねぇ」
真璃亜は、黙った。ルキフグスは最低だった。だが、言っていることは分かった。自分は人間界を救いたいわけではない。人類の平和を願っているわけでもない。大魔王ドラコー陛下の世界を守りたい。それだけだ。そのために、愛さないものを踏み潰せと言われるなら、それは彼女にとって受け入れがたい条件ではなかった。
「三つ目! あなたは、人類の守護者になってはなりません!」
「なりません。大魔王ドラコー陛下と仲間たち。魔界のためならば幾らでも踏み潰してみせます」
「かつて自分が人間だったとしても?」
「未練はありません」
「人間を救いたいとは?」
「滅ぼしてやります」
「素晴らしい! あなたは被害者です。ですが、被害者であることと、善良であることは同じではありません。そこを勘違いしなかった点だけは、私は高く評価しています」
真璃亜は、何も言わなかった。
「あなたは救われたかったのではありません。あなたを踏みつけた連中が、自分より下へ落ちるところを見たかった。あなたは世界を愛したかったのではありません。愛せる世界だけを残し、憎い世界を燃やしたかった。ええ、ええ、分かりますとも。人間らしくて、たいへん結構です」
真璃亜の拳が震えた。否定できなかった。自分は善人ではなかった。可哀想な被害者ではあったかもしれない。だが、可哀想だから善い人間だとは限らない。苦しんだから清らかになるわけではない。むしろ、彼女の中に溜まったものは、そんな綺麗なものではなかった。だから、ルキフグスの言葉は不快だった。不快で、不愉快で、腹立たしくて。そして、正しかった。
「だから、黒瀬真璃亜さん」
ルキフグスは、契約書を彼女の前に滑らせた。
「今度は、あなたが世界を選びなさい。愛するか。支配するか。赦すか。滅ぼすか。ただし、私の前で綺麗事だけはおやめなさい」
真璃亜は、ゆっくり顔を上げた。
「私は、人間界を赦しません。私は、大魔王ドラコー陛下に仕えます。私は、ドラコー陛下の世界を守ります」
「正確には、ドラコー陛下の世界を守るために、人間界を支配し、利用し、潰し、蹂躙する、ですね」
「はい」
「素直でよろしい」
契約書には、二つの名前を書く欄があった。
一つ目。黒瀬真璃亜。
二つ目。リゼル・ノクス・ヴァルクロア。
「では、署名を」
「どうすれば」
「名前を刻めばよいのです。血でも、魂でも、後悔でも、お好きなもので」
真璃亜は、自分の指先を見た。肉体はない。血もない。だが、指先から黒い雫が落ちた。魂から滲み出た、黒い液体。それが契約書に触れた瞬間、文字が刻まれた。黒瀬真璃亜。続けて。リゼル・ノクス・ヴァルクロア。
その名が刻まれた瞬間、契約書が燃えた。黒い炎だった。熱はない。けれど、魂の奥に焼き印を押されるような痛みが走った。真璃亜は歯を食いしばる。痛い。だが、耐えられる。会社で耐えた痛みよりも、人生で味わった屈辱よりも、この痛みには意味がある。大魔王ドラコー陛下の世界へ行けるという意味がある。ならば、耐えられる。
「はい、契約成立です!」
ルキフグスは、両手を広げた。
「おめでとうございます、黒瀬真璃亜さん! あなたは本日より、救われなかった女から、誰も救わない魔界令嬢へ転職です!」
真璃亜は、土下座したまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ルキフグス様。私は、必ず大魔王ドラコー陛下に仕えます。私は、必ずパンデモニウムを終わらせません。私は、人間界を赦しません」
「はいはい。頑張ってください。その意気です。最高ですねぇ」
ルキフグスは、にたりと笑った。
「では、行きましょう。リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして。愛するものを守るために、愛さないものを踏み潰す人生へ」
その瞬間だけ、彼の声から軽さが消えた。紫黒の空間が、静まり返った。
「黒瀬真璃亜」
名を呼ばれた瞬間、真璃亜の魂が震えた。
「あなたは救われなかった。誰もあなたを選ばなかった。だから今度は、あなたが世界を選びなさい。あなたは人間として死にました。ですが、善人としては死んでいない。悪人としても、まだ未完成です」
ルキフグスの瞳は笑っていなかった。彼は、静かに告げる。
「行きなさい。リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして。あなたの悪意を育てなさい。あなたの忠誠を示し
なさい。あなたの愛する世界のために、愛さない世界を踏みにじりなさい」
真璃亜は、涙を流した。死んだはずなのに。肉体などないはずなのに。それでも、涙が零れた。
「はい」
その返事は、誓いだった。祈りだった。狂信だった。
(大魔王ドラコー陛下。私は、必ずあなたの御前に参ります。私は、必ずあなたに仕えます。私は、あなたの世界を終わらせない。たとえそのために、どれほどの血を流すことになっても。たとえそのために、どれほどの国を踏みにじることになっても。たとえそのために、私が人間だったすべてを捨てることになっても。あなたは、私の希望です――)
黒い門が開いた。魔法陣ではない。召喚陣でもない。魂を別の世界へ落とす、転生の穴。その向こうに、魔界の夜があった。赤黒い雲。遠くにそびえる城。空を裂く稲光。真璃亜が画面越しに何度も見た、けれど決して触れられなかった世界。その世界が、今、彼女を待っている。
真璃亜の魂が、ゆっくりと吸い込まれていく。消える寸前。ルキフグスは、またいつもの軽い声に戻った。
「いってらっしゃいませぇ! 第二の人生です! 今度は踏まれる側ではなく、踏む側で頑張ってくださいねぇ!」
黒瀬真璃亜は消えた。あとには、ルキフグスだけが残った。彼はしばらく無言だった。やがて、ぽつりと言う。
「いやぁ……ヒクわー。最高にヒクわー」
肩を震わせ、笑っていた。彼は背後の円環をゆっくり回転させた。黒い水面に、まだ生まれていない少女の名が浮かぶ。リゼル・ノクス・ヴァルクロア。
「救われなかった女が、誰も救わない物語を始める。いいですねぇ。実にいい。これは大豊作の予感です」
彼は、楽しげに笑った。
「さあ、育ちなさい。リゼル・ノクス・ヴァルクロア。あなたの悪意がどれほど美味しく熟すのか、私、最後まで観ていますからね」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「もちろん、助けませんけど」
紫黒の狭間に、悪神の軽い笑い声だけが残った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
数ある作品の中から『パンデモニウ・リベリオン』を読んでくださることに、心より感謝申し上げます。
ここから物語は大きく動き始めます。
リゼル誕生までの軌跡を、温かく見守っていただけましたら幸いです。




