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Ver.0 TUTORIAL Chapter 2-1 午前2時のログアウト


『ログアウトしました』


 その文字が、視界いっぱいに表示された瞬間、魔界の城は消えた。赤い月も、黒曜石の尖塔も、美しいメイドも、忠実な仲間たちも、大魔王陛下の玉座も、すべて光の粒になって視界の奥へ吸い込まれていく。


 黒瀬真璃亜は、震える指でヘッドマウントディスプレイを持ち上げた。密閉されていた顔の輪郭に、部屋の冷たい空気が触れる。汗ばんだ前髪が額に張りついていた。ゴーグルを外すと、視界に映るのは魔界ではなく、暗い6畳のワンルームだった。


 ゲーミングチェアの座面には、真璃亜の体温がそのまま沈み込んでいた。何時間座り続けていたのか、腰から下の感覚がほとんどない。傍らのデスクでは、タワー型のゲーミングPCが低い駆動音を立てながら、内部のファンライトだけを静かに明滅させている。正面のモニターには、ログアウト直後の魔界の残像――暗転しきる寸前の玉座の間が、まだ淡く映っていた。


 デジタル時計の数字だけが、午前2時という現実の時間を無慈悲に告げていた。


 部屋は暗い。いや、暗いというより、生活そのものが疲弊に沈んでいるような部屋だった。ベッド、衣類ラック、ローテーブル、会社用ノートパソコン、ゲーミングPCとモニター一式。


 6畳ほどの空間に、生活と仕事と逃避が押し込まれている。床には脱ぎ捨てたストッキングが片方だけ落ちていた。ローテーブルの上は、もっと惨めだった。空になったコンビニ弁当の容器が2つ重なり、その隙間に飲みかけの栄養ドリンクの瓶が挟まっている。冷めきったコーヒーの紙コップには、白い膜が張っていた。半分だけ食べたサラダチキンの封は開けっ放しで、乾いて縮んでいる。剥き出しのまま転がる爪切り、読まれないまま溜まった郵便物、皺だらけの給与明細。生活のすべてが、そこに雑に積まれていた。


 ここはゴミ屋敷ではない。真璃亜は、そういうだらしなさを本来は嫌う女だった。物の位置を揃え、書類を分類し、不要なものは捨てる。タスクを洗い出し、優先順位を決め、締切から逆算する。そういうことができる女だった。だが、できることと、やれることは違う。疲れ果てた人間は、床に落ちたストッキングを拾うことすらできなくなる。汚れていく部屋は、彼女の怠惰ではなく、彼女の体力が現実に回収され尽くした証拠だった。


 黒瀬真璃亜、29歳。株式会社グロリアス・メディアリンク第二企画制作部所属。大手広告代理店系列の下請け企画会社。聞こえは悪くない。名刺を出せば、それなりに働いている人間に見える。


 白嶺大学政治経済学部を首席級で卒業し、政治学、経済学、国際政治、財政、統治機構、戦争経済、プロパガンダ論、組織論、行政学を学んだ女だった。本来なら、もっと違う場所にいてもよかった。もっと違う評価を受けてもよかった。――そう思うことすら、もう真璃亜には疲れていた。


 自分は優秀だ。その自覚はある。だが、自分が優秀であることを声に出すと、現実はそれを傲慢と呼ぶ。では黙って働けばどうなるか。都合よく使われる。自分は無能ではない。だが、有能であることは幸福の保証ではない。有能であることは、むしろこの世界では「より多く奪っても壊れにくい」という意味でしかないのかもしれなかった。


 真璃亜は、ヘッドセットを膝の上に置いたまま、正面のモニターに残る残像を見つめる。先ほどまで、自分はリゼル・ノクス・ヴァルクロアだった。魔界側プレイヤー。大魔王陛下の配下。人間界の聖都市を落とし、聖教会の補給線を断ち、人間側プレイヤーの主力パーティを何度も壊滅させたトッププレイヤー。そして、彼女には仲間がいた。


 兎耳の少女も、蛇髪の女も、6腕の魔人も、ダークエルフの少年も、吸血鬼の青年も、城で待つ美しいメイドも、ただの動く人形ではなかった。少なくとも、黒瀬真璃亜はそう思っていた。


 この時代の人工知能技術は、かつてのゲームとは比べものにならないほど発展していた。パンデモニウム・オンラインに登場する高位NPCたちは、決められた台詞を読み上げるだけではない。会話を記憶し、状況を判断し、冗談を返し、疑い、怒り、心配し、時には命令の裏にある意図まで読んだ。彼らは、自分たちを生命体だと思っている。空腹を知り、疲労を知り、誇りを知り、怒りを知り、恐怖を知り、忠義を知っている。こちらが話しかければ答える。命令すれば理由を問う。いつもと違う口調で話せば、すぐに違和感を覚える。


 もしもリゼルが突然、現実の会社の愚痴など話そうものなら、彼らは困惑するだろう。もしも黒瀬真璃亜の口調で彼らに話しかければ、きっと誰かが言う。

 ――リゼル様、喋り方が変です、と。

 ――お前、本当にリゼルか、と。


 そのくらいには、この世界の人工知能は進んでいた。だからこそ、真璃亜はプレイヤー同士のチームやギルドに入らなかった。リアルの人間と関わる必要などなかった。彼女には、画面の向こうに仲間がいた。会話を返し、戦場で背を預け、勝利を喜び、敗北を悔しがる存在がいた。黒瀬真璃亜は、ソロプレイヤーだった。だが、孤独ではなかった。少なくとも、この世界の中では。


 画面右上には、イベント結果が表示されている。

『エルディア王都攻略戦 魔界側勝利』

『個人貢献度ランキング 1位』

『人間側主力プレイヤー撃破数 27』

『勇者パーティ撃破補助達成』

『聖教会補給線破壊達成』

『魔界貴族勲功値 最高評価』


 数字は美しかった。少なくとも、この世界の数字は。


 現実の会社にも数字はある。売上。粗利。広告効果。クリック率。成約率。工数。人件費。だが、そこに真璃亜の疲労は入らない。誰のミスを誰が拾ったのか。誰が火種を消したのか。誰が会議前に資料の矛盾に気づいたのか。誰がクライアントの不機嫌を読み、言葉を差し替え、炎上を防いだのか。そういう数字は存在しない。現実の数字は、彼女から奪うためにある。ゲームの数字は、彼女の働きを証明するためにある。その差は、真璃亜にとってあまりにも大きかった。


 画面に、先ほどの報奨ログが残っていた。

『リゼル・ノクス・ヴァルクロア。エルディア王都攻略における汝の功績、見事である』

『よくやった。君の働きは、朕が見ている』


 彼女――大魔王ドラコー陛下の言葉。


 ただのイベント台詞だった。条件を満たした魔界側上位プレイヤーに流れる、ボイス付きの報奨演出。シナリオライターが書いた言葉。声優が収録した音声。開発者が設定したフラグ。大魔王ドラコー陛下が、真璃亜の生活を知っているわけではない。部屋の汚さを知っているわけではない。会社で彼女が受け流した不快な言葉を知っているわけではない。上司の責任転嫁も、後輩の甘えも、同僚たちの薄い嘲笑も知らない。


 そんなことは、分かっている。分かっている。分かっているのに。


「……ありがとうございます、陛下」


 声は小さかった。部屋の壁に吸い込まれるような声だった。誰にも聞こえない。聞かれる必要もない。これは会話ではない。祈りだった。真璃亜は、いつの頃からか、そう思うようになっていた。自分はゲームをしているだけではない。大魔王ドラコー陛下の御前に仕えているのだと。


 最初はただの逃避だった。疲れた身体でログインし、現実とは違う美しい魔界を歩き、人間側プレイヤーを倒し、イベント報酬を得る。それだけだった。だが、いつの間にか、真璃亜の中で現実とゲームの重さが逆転していた。


 現実では、どれだけ努力しても誰も見ない。パンデモニウムでは、戦果が残る。現実では、無能な者が上に立つ。パンデモニウムでは、強い者と功ある者が玉座の近くへ進む。現実では、善意や協調性という言葉が搾取の道具になる。パンデモニウムでは、支配も殺戮も征服も、綺麗事に隠されない。


 どちらが正しいのか。真璃亜には、もう分からなかった。いや、分からないふりをしているだけだった。彼女の心は、とうの昔に答えを出していた。人間の世界より、魔界の方がよほど誠実だ。少なくとも、奪う者が奪うと宣言しているだけ、魔界の方がましだった。


 ログアウト後の画面が暗くなる。真璃亜は、しばらく動かなかった。


 眠らなければならない。朝は5時起きだった。睡眠時間は3時間もない。いや、実際には3時間も眠れない。シャワーを浴び、明日の資料を確認し、会社用のデータをクラウドに上げ、メールを返し、服を準備して、それから横になる。眠れる時間は、おそらく2時間弱。それでも、行かなければならない。行かなければ、仕事が崩れる。仕事が崩れれば、責任は真璃亜に来る。そういう世界だった。


「……寝なきゃ」


 呟きは、自分に対する命令だった。願望ではない。命令。真璃亜はいつも、自分を命令で動かしていた。起きろ。行け。謝れ。直せ。笑え。流せ。耐えろ。眠れ。そしてまた起きろ。自分の身体を、そうやって使役していた。


 しかし、パソコンを落とそうとした瞬間、画面右下に通知が出た。


『重要なお知らせ』


 真璃亜は、それを見た。眠気で鈍った頭は、最初、それを特別なものだとは判断しなかった。どうせアップデート告知だろう。新イベントかもしれない。人間界側の追加ストーリーかもしれない。魔界側のバランス調整かもしれない。課金パックの販売告知かもしれない。真璃亜は無意識にクリックした。


 白い告知画面が開いた。最初の一文を読んだ瞬間、世界の音が消えた。


『パンデモニウム・オンライン サービス終了のお知らせ』


 最初、意味が分からなかった。文字は読める。単語も理解できる。サービス。終了。お知らせ。それなのに、文章として頭に入ってこなかった。真璃亜は、もう一度読んだ。同じだった。見間違いではなかった。


 冷蔵庫の駆動音が遠のく。外を走る深夜の車の音が消える。パソコンのファンの音すら、分厚い膜の向こう側へ押しやられたように聞こえなくなる。真璃亜は、ただ画面を見ていた。長年のご愛顧。運営継続が困難。サービス終了日時。未使用有償ポイントの扱い。今後のスケジュール。


 そして――最後までお楽しみください。という無慈悲な心なき定型文。


「最後まで……?」


 真璃亜の唇が震えた。


「終わるって言っておいて、最後まで楽しめって……?」


 最後まで楽しめる者が、どれだけいるというのか。終わると告げられた世界を、どう楽しめばいいのか。


 大魔王ドラコー陛下の玉座が消える。


 リゼルとして立てる御前が消える。


 人間側プレイヤーを叩き潰し、魔界側に勝利を捧げる戦場が消える。


 兎耳の少女も、

 蛇髪の女も、

 6腕の魔人も、

 ダークエルフの少年も、

 吸血鬼の青年も、

 城で待つ美しいメイドも、


全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部


消える。


 真璃亜が現実よりも正しいと信じた世界が、消える。


「……なんで」


 声が漏れた。怒りではなかった。怒りになる前の声だった。意味を理解できない者の声だった。


「なんで……なんで、そうやって……」


 真璃亜は画面に手を伸ばしかけた。触れたところで何も変わらない。そんなことは分かっていた。だが、指先は震えていた。


 現実で何を奪われても、ここだけは残っていた。会社で踏みにじられても。誰にも労われなくても。努力が誰かの手柄にされても。帰宅して、ログインして、魔界側の戦場に立てば、彼女はリゼルだった。大魔王ドラコー陛下の御前に立てた。仲間たちがいた。自室に帰れば、メイドが待っていた。


 ――よくやった。君の働きは、朕が見ている。


 その一言があった。それだけで、まだ会社へ行けた。それだけで、まだ自分を殺さずに済んでいた。


「私から……それまで奪うの」


 画面の中で、大魔王ドラコー陛下は変わらず玉座に座している。彼女は何も知らない。ドラコー陛下が終わらせるわけではない。この世界を閉じるのは運営会社だ。人間だ。売上だ。維持費だ。ユーザー数だ。費用対効果だ。現実の都合だ。


 また現実だった。


 いつもそうだ。現実は、真璃亜から何かを奪う時だけ、やけに正当な顔をする。仕方がない。社会だから。仕事だから。数字だから。運営継続が困難だから。そう言えば、奪われる側は黙るしかない。黙って納得しろと言われる。黙って受け入れろと言われる。黙って次へ行けと言われる。


 真璃亜の中で、何かがひび割れた。音はしなかった。だが、確かに折れた。長い間、現実と自分をつなぎ止めていた最後の細い糸が、静かに切れた。大魔王ドラコー陛下がいる世界を、現実が消す。自分を見てくれる仲間たちを、現実が消す。人間の世界が、また奪う。


「……ふざけるな」


 かすれた声だった。誰に向けたものか、真璃亜自身にも分からない。運営か。会社か。上司か。同僚か。後輩か。それとも、自分以外のすべての人間か。


 午前2時12分。真璃亜はパソコンを落とさなかった。画面の中の玉座を開いたまま、左のノートパソコンで会社の資料を修正し始めた。右のモニターには、大魔王ドラコー陛下。左の画面には、明日の会議資料。真璃亜は無言でキーボードを叩いた。


 眠気はなかった。眠れなかった。ただ、何かが死んでいく感覚だけがあった。自分ではない。まだ、自分は生きている。死んでいくのは、祈りだった。


 

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