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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.0 TUTORIAL 1.1 Fall to Darkness

皆様、『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、誠にありがとうございます。


今回から舞台は現実世界へと移ります。


魔界で絶大な力を誇るリゼル。


その正体である一人の女性の現実を、どうぞご覧ください。

幕間 午前2時のログアウト


『ログアウトしました』


 その文字が、視界いっぱいに表示された瞬間、魔界の城は消えた。赤い月も、黒曜石の尖塔も、美しいメイドも、忠実な仲間たちも、大魔王陛下の玉座も、すべて光の粒になって視界の奥へ吸い込まれていく。


 黒瀬真璃亜は、震える指でヘッドマウントディスプレイを持ち上げた。密閉されていた顔の輪郭に、部屋の冷たい空気が触れる。汗ばんだ前髪が額に張りついていた。ゴーグルを外すと、視界に映るのは魔界ではなく、暗い6畳のワンルームだった。


 ゲーミングチェアの座面には、真璃亜の体温がそのまま沈み込んでいた。何時間座り続けていたのか、腰から下の感覚がほとんどない。傍らのデスクでは、タワー型のゲーミングPCが低い駆動音を立てながら、内部のファンライトだけを静かに明滅させている。正面のモニターには、ログアウト直後の魔界の残像――暗転しきる寸前の玉座の間が、まだ淡く映っていた。


 デジタル時計の数字だけが、午前2時という現実の時間を無慈悲に告げていた。


 部屋は暗い。いや、暗いというより、生活そのものが疲弊に沈んでいるような部屋だった。ベッド、衣類ラック、ローテーブル、会社用ノートパソコン、ゲーミングPCとモニター一式。


 6畳ほどの空間に、生活と仕事と逃避が押し込まれている。床には脱ぎ捨てたストッキングが片方だけ落ちていた。ローテーブルの上は、もっと惨めだった。空になったコンビニ弁当の容器が2つ重なり、その隙間に飲みかけの栄養ドリンクの瓶が挟まっている。冷めきったコーヒーの紙コップには、白い膜が張っていた。半分だけ食べたサラダチキンの封は開けっ放しで、乾いて縮んでいる。剥き出しのまま転がる爪切り、読まれないまま溜まった郵便物、皺だらけの給与明細。生活のすべてが、そこに雑に積まれていた。


 ここはゴミ屋敷ではない。真璃亜は、そういうだらしなさを本来は嫌う女だった。物の位置を揃え、書類を分類し、不要なものは捨てる。タスクを洗い出し、優先順位を決め、締切から逆算する。そういうことができる女だった。だが、できることと、やれることは違う。疲れ果てた人間は、床に落ちたストッキングを拾うことすらできなくなる。汚れていく部屋は、彼女の怠惰ではなく、彼女の体力が現実に回収され尽くした証拠だった。


 黒瀬真璃亜、29歳。株式会社グロリアス・メディアリンク第二企画制作部所属。大手広告代理店系列の下請け企画会社。聞こえは悪くない。名刺を出せば、それなりに働いている人間に見える。


 白嶺大学政治経済学部を首席級で卒業し、政治学、経済学、国際政治、財政、統治機構、戦争経済、プロパガンダ論、組織論、行政学を学んだ女だった。本来なら、もっと違う場所にいてもよかった。もっと違う評価を受けてもよかった。――そう思うことすら、もう真璃亜には疲れていた。


 自分は優秀だ。その自覚はある。だが、自分が優秀であることを声に出すと、現実はそれを傲慢と呼ぶ。では黙って働けばどうなるか。都合よく使われる。自分は無能ではない。だが、有能であることは幸福の保証ではない。有能であることは、むしろこの世界では「より多く奪っても壊れにくい」という意味でしかないのかもしれなかった。


 真璃亜は、ヘッドセットを膝の上に置いたまま、正面のモニターに残る残像を見つめる。先ほどまで、自分はリゼル・ノクス・ヴァルクロアだった。魔界側プレイヤー。大魔王陛下の配下。人間界の聖都市を落とし、聖教会の補給線を断ち、人間側プレイヤーの主力パーティを何度も壊滅させたトッププレイヤー。そして、彼女には仲間がいた。


 兎耳の少女も、蛇髪の女も、6腕の魔人も、ダークエルフの少年も、吸血鬼の青年も、城で待つ美しいメイドも、ただの動く人形ではなかった。少なくとも、黒瀬真璃亜はそう思っていた。


 この時代の人工知能技術は、かつてのゲームとは比べものにならないほど発展していた。パンデモニウム・オンラインに登場する高位NPCたちは、決められた台詞を読み上げるだけではない。会話を記憶し、状況を判断し、冗談を返し、疑い、怒り、心配し、時には命令の裏にある意図まで読んだ。彼らは、自分たちを生命体だと思っている。空腹を知り、疲労を知り、誇りを知り、怒りを知り、恐怖を知り、忠義を知っている。こちらが話しかければ答える。命令すれば理由を問う。いつもと違う口調で話せば、すぐに違和感を覚える。


 もしもリゼルが突然、現実の会社の愚痴など話そうものなら、彼らは困惑するだろう。もしも黒瀬真璃亜の口調で彼らに話しかければ、きっと誰かが言う。

 ――リゼル様、喋り方が変です、と。

 ――お前、本当にリゼルか、と。


 そのくらいには、この世界の人工知能は進んでいた。だからこそ、真璃亜はプレイヤー同士のチームやギルドに入らなかった。リアルの人間と関わる必要などなかった。彼女には、画面の向こうに仲間がいた。会話を返し、戦場で背を預け、勝利を喜び、敗北を悔しがる存在がいた。黒瀬真璃亜は、ソロプレイヤーだった。だが、孤独ではなかった。少なくとも、この世界の中では。


 画面右上には、イベント結果が表示されている。

『エルディア王都攻略戦 魔界側勝利』

『個人貢献度ランキング 1位』

『人間側主力プレイヤー撃破数 27』

『勇者パーティ撃破補助達成』

『聖教会補給線破壊達成』

『魔界貴族勲功値 最高評価』


 数字は美しかった。少なくとも、この世界の数字は。


 現実の会社にも数字はある。売上。粗利。広告効果。クリック率。成約率。工数。人件費。だが、そこに真璃亜の疲労は入らない。誰のミスを誰が拾ったのか。誰が火種を消したのか。誰が会議前に資料の矛盾に気づいたのか。誰がクライアントの不機嫌を読み、言葉を差し替え、炎上を防いだのか。そういう数字は存在しない。現実の数字は、彼女から奪うためにある。ゲームの数字は、彼女の働きを証明するためにある。その差は、真璃亜にとってあまりにも大きかった。


 画面に、先ほどの報奨ログが残っていた。

『リゼル・ノクス・ヴァルクロア。エルディア王都攻略における汝の功績、見事である』

『よくやった。君の働きは、朕が見ている』


 彼女――大魔王ドラコー陛下の言葉。


 ただのイベント台詞だった。条件を満たした魔界側上位プレイヤーに流れる、ボイス付きの報奨演出。シナリオライターが書いた言葉。声優が収録した音声。開発者が設定したフラグ。大魔王ドラコー陛下が、真璃亜の生活を知っているわけではない。部屋の汚さを知っているわけではない。会社で彼女が受け流した不快な言葉を知っているわけではない。上司の責任転嫁も、後輩の甘えも、同僚たちの薄い嘲笑も知らない。


 そんなことは、分かっている。分かっている。分かっているのに。


「……ありがとうございます、陛下」


 声は小さかった。部屋の壁に吸い込まれるような声だった。誰にも聞こえない。聞かれる必要もない。これは会話ではない。祈りだった。真璃亜は、いつの頃からか、そう思うようになっていた。自分はゲームをしているだけではない。大魔王ドラコー陛下の御前に仕えているのだと。


 最初はただの逃避だった。疲れた身体でログインし、現実とは違う美しい魔界を歩き、人間側プレイヤーを倒し、イベント報酬を得る。それだけだった。だが、いつの間にか、真璃亜の中で現実とゲームの重さが逆転していた。


 現実では、どれだけ努力しても誰も見ない。パンデモニウムでは、戦果が残る。現実では、無能な者が上に立つ。パンデモニウムでは、強い者と功ある者が玉座の近くへ進む。現実では、善意や協調性という言葉が搾取の道具になる。パンデモニウムでは、支配も殺戮も征服も、綺麗事に隠されない。


 どちらが正しいのか。真璃亜には、もう分からなかった。いや、分からないふりをしているだけだった。彼女の心は、とうの昔に答えを出していた。人間の世界より、魔界の方がよほど誠実だ。少なくとも、奪う者が奪うと宣言しているだけ、魔界の方がましだった。


 ログアウト後の画面が暗くなる。真璃亜は、しばらく動かなかった。


 眠らなければならない。朝は5時起きだった。睡眠時間は3時間もない。いや、実際には3時間も眠れない。シャワーを浴び、明日の資料を確認し、会社用のデータをクラウドに上げ、メールを返し、服を準備して、それから横になる。眠れる時間は、おそらく2時間弱。それでも、行かなければならない。行かなければ、仕事が崩れる。仕事が崩れれば、責任は真璃亜に来る。そういう世界だった。


「……寝なきゃ」


 呟きは、自分に対する命令だった。願望ではない。命令。真璃亜はいつも、自分を命令で動かしていた。起きろ。行け。謝れ。直せ。笑え。流せ。耐えろ。眠れ。そしてまた起きろ。自分の身体を、そうやって使役していた。


 しかし、パソコンを落とそうとした瞬間、画面右下に通知が出た。


『重要なお知らせ』


 真璃亜は、それを見た。眠気で鈍った頭は、最初、それを特別なものだとは判断しなかった。どうせアップデート告知だろう。新イベントかもしれない。人間界側の追加ストーリーかもしれない。魔界側のバランス調整かもしれない。課金パックの販売告知かもしれない。真璃亜は無意識にクリックした。


 白い告知画面が開いた。最初の一文を読んだ瞬間、世界の音が消えた。


『パンデモニウム・オンライン サービス終了のお知らせ』


 最初、意味が分からなかった。文字は読める。単語も理解できる。サービス。終了。お知らせ。それなのに、文章として頭に入ってこなかった。真璃亜は、もう一度読んだ。同じだった。見間違いではなかった。


 冷蔵庫の駆動音が遠のく。外を走る深夜の車の音が消える。パソコンのファンの音すら、分厚い膜の向こう側へ押しやられたように聞こえなくなる。真璃亜は、ただ画面を見ていた。長年のご愛顧。運営継続が困難。サービス終了日時。未使用有償ポイントの扱い。今後のスケジュール。


 そして――最後までお楽しみください。という無慈悲な心なき定型文。


「最後まで……?」


 真璃亜の唇が震えた。


「終わるって言っておいて、最後まで楽しめって……?」


 最後まで楽しめる者が、どれだけいるというのか。終わると告げられた世界を、どう楽しめばいいのか。


 大魔王ドラコー陛下の玉座が消える。


 リゼルとして立てる御前が消える。


 人間側プレイヤーを叩き潰し、魔界側に勝利を捧げる戦場が消える。


 兎耳の少女も、

 蛇髪の女も、

 6腕の魔人も、

 ダークエルフの少年も、

 吸血鬼の青年も、

 城で待つ美しいメイドも、


全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部


消える。


 真璃亜が現実よりも正しいと信じた世界が、消える。


「……なんで」


 声が漏れた。怒りではなかった。怒りになる前の声だった。意味を理解できない者の声だった。


「なんで……なんで、そうやって……」


 真璃亜は画面に手を伸ばしかけた。触れたところで何も変わらない。そんなことは分かっていた。だが、指先は震えていた。


 現実で何を奪われても、ここだけは残っていた。会社で踏みにじられても。誰にも労われなくても。努力が誰かの手柄にされても。帰宅して、ログインして、魔界側の戦場に立てば、彼女はリゼルだった。大魔王ドラコー陛下の御前に立てた。仲間たちがいた。自室に帰れば、メイドが待っていた。


 ――よくやった。君の働きは、朕が見ている。


 その一言があった。それだけで、まだ会社へ行けた。それだけで、まだ自分を殺さずに済んでいた。


「私から……それまで奪うの」


 画面の中で、大魔王ドラコー陛下は変わらず玉座に座している。彼女は何も知らない。ドラコー陛下が終わらせるわけではない。この世界を閉じるのは運営会社だ。人間だ。売上だ。維持費だ。ユーザー数だ。費用対効果だ。現実の都合だ。


 また現実だった。


 いつもそうだ。現実は、真璃亜から何かを奪う時だけ、やけに正当な顔をする。仕方がない。社会だから。仕事だから。数字だから。運営継続が困難だから。そう言えば、奪われる側は黙るしかない。黙って納得しろと言われる。黙って受け入れろと言われる。黙って次へ行けと言われる。


 真璃亜の中で、何かがひび割れた。音はしなかった。だが、確かに折れた。長い間、現実と自分をつなぎ止めていた最後の細い糸が、静かに切れた。大魔王ドラコー陛下がいる世界を、現実が消す。自分を見てくれる仲間たちを、現実が消す。人間の世界が、また奪う。


「……ふざけるな」


 かすれた声だった。誰に向けたものか、真璃亜自身にも分からない。運営か。会社か。上司か。同僚か。後輩か。それとも、自分以外のすべての人間か。


 午前2時12分。真璃亜はパソコンを落とさなかった。画面の中の玉座を開いたまま、左のノートパソコンで会社の資料を修正し始めた。右のモニターには、大魔王ドラコー陛下。左の画面には、明日の会議資料。真璃亜は無言でキーボードを叩いた。


 眠気はなかった。眠れなかった。ただ、何かが死んでいく感覚だけがあった。自分ではない。まだ、自分は生きている。死んでいくのは、祈りだった。


 午前5時。アラームが鳴った。


 真璃亜は、ベッドではなく机に突っ伏していた。首が痛い。背中が重い。目の奥が熱い。口の中には、冷めたコーヒーの苦味がこびりついていた。数分間、自分がどこにいるのか分からなかった。


 モニターには、まだ大魔王ドラコー陛下の玉座が映っている。その横で、会社の資料は完成していた。自分が最後に保存した記憶がない。だが、資料は整っていた。タイトルの表記揺れも、数字のズレも、灰島が会議で突っ込まれそうな箇所も、すべて修正されている。


 無意識でも仕事ができる。真璃亜は、それを滑稽だと思った。壊れかけていても、仕事だけはできる。悲しくても、怒っていても、絶望していても、仕事だけは終わっている。この能力が自分を救ったことなど一度もないのに、それでも自分は仕事を終わらせている。


「……馬鹿みたい」


 声は枯れていた。起きなければならない。会社へ行かなければならない。風呂に入り、顔を洗い、化粧で隈を隠し、ブラウスを替え、スーツを着る。鏡の中の自分は、死に損ないのような顔をしていた。真璃亜は笑ってみた。口元が少し歪んだだけだった。それで十分だと思った。会社では、本当に笑っている必要などない。笑っているように見えればいい。


 会社に着くと、世界はいつも通りだった。パンデモニウム・オンラインのサービス終了が告知されても。真璃亜の世界が終わると宣告されても。山手線は混んでいた。駅員は淡々とアナウンスをしていた。コンビニでは新商品のポップが揺れていた。オフィスビルのエレベーターは、今日も無機質な音を立てて開閉した。


 誰も知らない。誰も気にしない。誰にとっても、真璃亜の世界が終わることなど意味がない。それが、ひどく不思議だった。自分の中では世界が終わったのに、外側の世界は何一つ止まらない。ならば、自分の世界とは何だったのか。誰にも影響を与えず、誰にも惜しまれず、誰にも気づかれずに終わるもの。それは本当に世界と呼べるのか。


 真璃亜は、エレベーターの壁に映った自分の顔を見た。灰色の顔。隈を隠しきれていない目。整えたはずなのに疲れて見える髪。この人間は誰だろうと思った。黒瀬真璃亜。会社員。29歳。たぶん、まだ生きている。だが、生きているということが、もう何の価値なのか分からなかった。


「黒瀬、昨日の資料、直しておいたか?」


 出社してすぐ、灰島義隆が言った。挨拶はない。目も合わない。灰島にとって真璃亜は、名前のある人間ではなく、仕事を処理する機能だった。


「はい。共有フォルダに上げています」


「遅いんだよ。朝イチで確認したかったんだから、昨日のうちにメールしろ」


 昨日のうち。真璃亜は昨日の23時48分に資料を完成させていた。灰島の指示変更が22時過ぎだったからだ。共有フォルダにも上げた。チャットにも通知した。灰島が見ていないだけだった。それを言うことはできた。言えば、少なくとも事実は訂正できる。だが、事実を訂正することと、状況が改善することは別だった。灰島は自分の非を認めない。認める必要がない場所にいるからだ。この世界では、上にいる者は間違えない。下にいる者が、間違えたことにされるだけだ。


「申し訳ありません」


 真璃亜は頭を下げた。謝罪は便利だった。自分が悪くなくても使える。場を収められる。相手の感情を鎮められる。自分の尊厳を少し削るだけで、その場が進む。削られた尊厳は戻らない。だが、会社はそんなものを在庫管理しない。


「あと、森下の担当分も見といてくれ。あいつ、まだ数字弱いから」


 少し離れた席で、森下奈緒がこちらを見ていた。申し訳なさそうな顔をしている。眉を下げ、唇を軽く噛み、守られる側の表情を作っている。だが、その目は笑っていた。


「黒瀬先輩、すみません。またお願いします」


 甘えた声だった。きっと森下は、自分のことを悪人だとは思っていない。彼女はただ、自分にできないことをできる人にお願いしているだけ。自分はまだ若く、未熟で、周囲に助けてもらうべき存在だと思っているだけ。それが許される顔と声と立場を持っているだけ。


 真璃亜は薄く微笑んだ。


「分かりました」


 分かりました。いつもそうだ。対応します。直します。確認します。先方に謝罪します。代わりに出ます。私がやります。その言葉を積み上げた結果、真璃亜の背中には、誰のものとも知れない仕事が山のように乗っていた。それでも、彼女は処理できた。できてしまった。仕事ができない方が、まだ救われたのかもしれない。できなければ、誰も彼女に押しつけなかった。できなければ、期待されなかった。できなければ、壊れる前に見限られた。だが、真璃亜はできた。だから、仕事は彼女のところへ来た。壊れない限り、さらに積まれた。有能さは、救いではなかった。有能さは、この世界では「まだ奪える」という札だった。


「黒瀬さん、今日も顔色悪いね」


 鷹宮修一が隣に立った。近い。必要以上に近い。真璃亜は、椅子を引きたかった。距離を取りたかった。だが、それをすれば、過剰反応だと言われる。感じが悪いと言われる。女のくせに自意識過剰だと笑われる。だから動かなかった。


「大丈夫です」


「無理しちゃ駄目だよ。女の子なんだからさ。何かあったら俺に相談して?」


 相談。その言葉の下にある、べたついた気配。親切の形をした侵入。優しさの皮をかぶった支配。真璃亜は笑顔を作った。


「ありがとうございます」


「今度さ、飲みにでも行こうよ。仕事の相談、乗るから」


「予定を確認しておきます」


「またそれ? 黒瀬さん、いつも予定確認って言って逃げるよね」


 鷹宮は笑っていた。冗談のつもりなのだろう。相手を追い詰めている自覚などない。むしろ、自分は場を和ませていると思っているのかもしれない。真璃亜は、吐き気を押し込めた。


「すみません」


「いや、謝らなくていいけどさ。もうちょっと肩の力抜きなよ。黒瀬さん、真面目すぎるんだって」


 真面目すぎる。その言葉で片づけられることが、真璃亜にはたまらなく不快だった。責任を押しつけられているから真面目に見えるだけだ。誰かのミスを拾っているから余裕がないだけだ。仕事を終わらせなければ怒られるから、必死でやっているだけだ。それを、真面目すぎる、と呼ぶ。楽な言葉だった。相手の苦しみを理解せずに済む、便利な言葉だった。


 脳裏に、午前2時の玉座が浮かぶ。


 ――よくやった。君の働きは、朕が見ている。


 この世界では、誰も見ていない。真璃亜はそう思った。


 昼休み。真璃亜は食欲がなかった。休憩スペースで、森下奈緒が同僚たちと笑っていた。


「黒瀬先輩って、ほんとすごいですよね。私なんか全然駄目でぇ。でも先輩がいると安心っていうか」


 その声は、明るかった。自分の未熟さを可愛らしさに変える者の声だった。周囲の同僚が笑う。


「森下さんは愛嬌あるからいいんだよ。黒瀬さんは仕事マシーンって感じだし」


「分かる。頼れるけど、ちょっと怖いよね」


「完璧すぎる人って、逆に近寄りがたいっていうか」


「黒瀬さん、絶対家でも仕事してそう」


「というか、家でもパソコン開いてそうじゃない?」


「ありそう。寝る時も資料チェックしてそう」


 笑い声。軽い言葉。悪意と呼ぶには薄い。だからこそ、余計に汚かった。彼女たちは、真璃亜を殺そうとしているわけではない。傷つけようと強く思っているわけでもない。ただ、真璃亜を人間として扱っていないだけだ。便利なもの。怖いもの。頼れるもの。仕事マシーン。


 真璃亜は、紙コップのコーヒーを持ったまま、廊下の角で足を止めていた。その場に出ていって、何かを言うこともできた。私は機械ではありません、と。私にも疲労があります、と。私にも感情があります、と。けれど、それを言って何になる。言えば、彼女たちは困った顔をするだろう。そんなつもりじゃなかったんです、と言うだろう。黒瀬さん、疲れてるんですよ、と言うだろう。そして、真璃亜が空気を悪くしたことになる。この世界では、傷つけた者より、傷ついたことを表明した者の方が面倒な人間になる。


 真璃亜は、その場を離れた。トイレの個室に入り、蓋を閉めた便座に座る。スマホを開く。無意識に、パンデモニウム・オンラインの公式サイトを開いた。サービス終了のお知らせ。見間違いではなかった。何度読んでも、同じだった。終わる。大魔王ドラコー陛下の世界が終わる。


「……嫌だ」


 小さな声が漏れた。


「嫌だ……嫌だ、嫌だ、嫌だ……」


 涙は出なかった。涙を流せる者は、まだ自分の悲しみを誰かに差し出す余力がある。真璃亜には、もうそれすら残っていなかった。胸の奥にあるのは、悲しみではなかった。そこにあるのは、黒い熱だった。


「人間なんて……」


 そこまで考えて、真璃亜は止まった。止めたのではない。その先にある言葉があまりにも黒かったから、ほんの一瞬だけ理性が踏みとどまった。だが、消えたわけではなかった。その言葉は、喉の奥に残った。飲み込めない棘のように。


 夜。会社を出た時、真璃亜の足元はふらついていた。睡眠不足。過労。空腹。頭痛。それらが一つずつではなく、絡み合って身体の内側から彼女を削っていた。それでも、鞄の中には持ち帰り資料が入っている。今日中に確認しなければならない。明日の朝、灰島が使う資料だ。森下のミスも直さなければならない。


 スマホが震えた。鷹宮からだった。


『今日きつそうだったね。俺でよければ癒すよ笑』


 真璃亜は通知を消した。返信はしない。返信しなければ、明日また何か言われるだろう。だが、今はもう、その程度の未来にまで気を配る力がなかった。


 夜の街は明るかった。駅前の大型ビジョンでは、アイドルの新曲広告が流れている。カップルが笑っている。学生たちがコンビニの前で騒いでいる。会社員たちが居酒屋へ向かっている。誰もが疲れているのだろう。誰もが何かしら抱えているのだろう。そんなことは分かっている。分かっているが、もう他人の事情を思いやる余裕など残っていなかった。


 横断歩道の前で、信号が赤になった。真璃亜は立ち止まる。


 少し前に、女子高生がいた。制服姿。明るい髪留め。柔らかく笑う横顔。隣には、彼氏らしき青年がいる。真璃亜は、なぜかその2人を知っていた。久遠蓮司。天羽陽菜乃。街頭広告か、SNSか、ニュースサイトか、どこかで目にした名前だった。アイドル女子高生。若く、明るく、未来があり、誰かに愛され、世界から祝福されているように見える少女。


 陽菜乃が笑った。蓮司が何かを言った。陽菜乃は肩を揺らして笑い、信号待ちの白線の内側で、軽く跳ねるように足を動かした。


 その姿を見た瞬間、真璃亜の中で何かが静かに切れた。羨ましい、ではなかった。妬ましい、でも足りなかった。もっと深い。もっと汚い。もっと救いのない感情だった。


 私の世界は終わる。陛下の玉座は消える。リゼルとして立つ場所はなくなる。なのに、この子には明日がある。この子は笑っている。この子は誰かに大切にされている。この子は奪われない。


 真璃亜の視界が狭くなった。周囲の音が遠くなる。横断歩道。赤信号。車道。大型トラックのライト。信号が変わるまで、あと数秒。真璃亜は、陽菜乃の背中を見ていた。


 あの背中を少し押せば。事故に見える。誰も、自分を疑わないかもしれない。そんな考えが浮かんだ。浮かんだ時点で、真璃亜はもう戻れなかった。救われなかったから、救わない。奪われたから、奪う。自分から大魔王ドラコー陛下を奪う現実に、せめて一つでも傷をつける。


 真璃亜は一歩、前に出た。手を伸ばす。陽菜乃の背中が近づく。


 その時、蓮司が陽菜乃の手を引いた。


「危ない、陽菜乃。ちょっと前に出すぎ」


「え? あ、ごめん」


 陽菜乃が半歩、後ろへ下がった。真璃亜の指先は、空を切った。勢いだけが残った。睡眠不足の身体は、踏みとどまれなかった。ヒールが白線の端を滑る。鞄が肩から落ちる。真璃亜の身体が、車道へ傾いた。


 目の前に、白い光が広がった。クラクション。誰かの悲鳴。ブレーキ音。


 真璃亜は、最後に思った。


 ああ。失敗した。


 衝撃。世界が反転した。地面が近づいたのか、空が落ちたのか分からなかった。痛みは、遅れて来た。強烈で、しかしどこか遠い痛みだった。


 真璃亜は、道路の上に倒れていた。人々が騒いでいる。誰かが救急車と叫んでいる。陽菜乃が泣きそうな顔でこちらを見ている。蓮司が彼女を庇うように抱いている。真璃亜は、その光景をぼんやり見ていた。


 殺せなかった。奪えなかった。最後まで、自分は何も成せなかった。会社でも。現実でも。人間としても。


 視界の端に、スマホが落ちていた。画面は割れていた。だが、まだ光っている。真璃亜は、かすかに目を動かした。そこには、パンデモニウム・オンラインの公式サイトが映っていた。サービス終了のお知らせ。割れたガラスの向こうで、その文字が滲んでいる。


 けれど、真璃亜の目には別のものが見えていた。白き玉座。大魔王ドラコー陛下。その姿だけが、最後まで美しかった。


 真璃亜は、指を伸ばそうとした。動かなかった。届かない。最初から、届くはずなどなかったのかもしれない。モニターの向こうの玉座にも。自分を見てくれる世界にも。救われる側にも。明日にも。何一つ。


 それでも、真璃亜は唇を動かした。血の味がした。


「……陛下……」


 声になったかどうかは分からない。黒瀬真璃亜の人生は、そこで終わろうとしていた。誰にも惜しまれず。誰にも理解されず。誰にも裁かれず。ただ、救われなかった女として。そして、最後の最後に、救われる側の人間を殺そうとして失敗した加害者として。


 夜の交差点に、赤い光が回り始める。遠くでサイレンが鳴っていた。真璃亜の意識は、沈んでいく。深く。暗く。現実の底よりも、さらに下へ。


 その時だった。


『いやぁ、いやいやいやいや!』


 耳元で、場違いなほど陽気な声が聞こえた。人が死にかけている場所に、まるで似合わない声だった。軽く、弾み、楽しげで、今にも手を叩いて笑い出しそうな声だった。


『これは傑作ですねぇ! 実にいい! 実に素晴らしい!』


 誰だ。真璃亜はそう問おうとした。だが、声は出なかった。肺がうまく動かない。喉が血で詰まっている。指先も、唇も、もう自分のものではないようだった。


『救われなかった女が、救われている女を突き落とそうとして、自分だけ落ちる。いやぁ、見事です。美しいほどに惨めで、惨めなほどに醜い。ですが、ええ、ええ、その醜さがいいんですよぉ』


 ふざけるな。真璃亜は、そう思った。誰かが笑っている。自分の死を。自分の失敗を。自分の悪意を。自分のどうしようもなさを。楽しそうに、嬉しそうに、愛おしそうに笑っている。


『おやおや、怒っていますか? いいですねぇ。その怒りも悪くありません。最後まで救われず、最後まで何者にもなれず、最後の最後に罪人にすらなりきれなかった。そのくせ、まだ怒れる。まだ憎める。まだ奪いたがっている』


 声は笑っていた。


『いいですよぉ。あなた、とてもいい』


 真璃亜の視界が暗くなる。割れたスマホの光が遠ざかる。世界の音が消えていく。


『見ていましたよ。黒瀬真璃亜さん』


 見ていた。その言葉に、真璃亜の意識がかすかに震えた。


『誰も見ていなかったあなたを。誰にも褒められなかったあなたを。誰にも救われなかったあなたを。そ

して、最後の最後に救われる側を道連れにしようとした、どうしようもなく人間らしい悪意を』


 声は、あまりにも陽気だった。あまりにも不愉快だった。あまりにも、こちらの底を覗き込んでいた。


『欲しかったのでしょう? あの玉座の近くに立つ資格が。大魔王ドラコー陛下の御前に跪く人生が。リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして認められる世界が』


 真璃亜は、否定できなかった。できるはずがなかった。それだけが欲しかった。ただ、それだけが。


『ならば、行きましょうか』


 闇が近づく。現実の音が消えていく。サイレンも、悲鳴も、街のざわめきも、すべて遠くなる。


『大丈夫。ここで終わりではありませんよぉ。あなたの悪意も、祈りも、忠義も、嫉妬も、ぜぇんぶ無駄にはいたしません』


 声が、楽しそうに弾んだ。


『ようこそ、哀れで醜く、そして実に見込みのある魂よ』


 黒瀬真璃亜は、最後の力で目を開けようとした。だが、もう何も見えなかった。白き玉座の光だけが、闇の奥に残っていた。


『さあ、始めましょう』


 ムカつくほど陽気な声が、最後に囁いた。


『あなたが焦がれた、最低で最高の魔界を』


 黒瀬真璃亜は、その夜、死んだ。誰にも惜しまれず。誰にも理解されず。誰にも裁かれず。ただ、救われなかった女として。そして、最後の最後に、救われる側の人間を殺そうとして失敗した加害者として。


 だが、闇の奥では、何かがまだ笑っていた。悪意を愛し、絶望を嗤い、祈りすら契約の材料に変える何かが。


 その笑い声だけを残して――場面は、暗転する。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


魔界では誰もが畏れる存在。


しかし現実では、ごく普通の一人の社会人。


この大きな落差こそ、『パンデモニウ・リベリオン』の始まりです。


ここから黒瀬真璃亜が、どのように”リゼル”へと至るのか。


その過程を見届けていただけましたら幸いです。

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