Ver.0 『パンデモニウム・オンライン<Pandemonium Online>』
完全没入型ネットワークRPG『パンデモニウム・オンライン<Pandemonium Online>』。
2126年、日本の大手ゲームメーカーが満を持して投入した、次世代型のフルダイブMMOである。
フルダイブとは、専用のヘッドセットと神経接続インターフェースを併用し、視覚・聴覚・触覚、時には痛覚に至るまでを脳へ直接投射することで、仮想の世界を「もう一つの現実」として体験させる技術一般を指す言葉だ。
この没入技術の原型が生まれたのは2081年。当初は軍事訓練と医療リハビリの分野で研究されていたもので、導入コストは中小企業の年間予算では手が出ないほど高額だった。それが十数年の間に劇的に簡素化され、一般家庭でも購入できる価格帯まで下がった。
かつては全身を覆う大型カプセルが主流だった没入装置も、今ではゲーミングチェアに座ってヘッドセットを被るだけで済むほど手軽になっている。とはいえ、これほどの体験を成立させるプラットフォームそのものの開発費は依然として莫大だ。観光案内や語学教育、遠隔医療といった実用分野での投資を経て、ようやく本格的な娯楽作品へと転用されるまでには、長い雌伏の時を要している。
このゲームが数あるフルダイブMMOの中でも突出しているのは、「勢力」というシステムの作り込みだ。
世界には大きく三つの陣営が存在する。
一つは魔界。大魔王を頂点に戴く陣営であり、そこに属する「魔族」と一括りにされる種族だけでも、判明しているだけで二百を超える。角を持つ者、翼を持つ者、鱗を持つ者、複数の腕を持つ者――統一性など最初から存在しないと言わんばかりのばらつきを見せる。
強さの傾向すら種族ごとにまるで違う。純粋な腕力に特化した種族もいれば、呪術や魅了といった搦め手を得意とする種族もいる。総じて人間種より高い戦闘値を持つ代わりに、外見や生態面で強い制約を課される者が多いのも特徴だった。
二つ目は人間界。もっとも数の多い陣営であり、純粋な人間種のほか、エルフ、ドワーフ、ホビット、そして機械仕掛けの身体を持つマシーン種までもが同じ旗の下に共存している。
人間種は器用貧乏なぶん潜在的な伸びしろが大きく、エルフは魔法適性に優れ、ドワーフは鍛冶と防御に長け、ホビットは隠密と器用さに秀で、マシーン種は感情パラメータこそ低いものの耐久力と生産効率で他種族を圧倒する。国家という単位も一つではなく、無数の王国、都市国家、共和国、部族連合がひしめき合い、離合集散を繰り返している。
三つ目は天界。天使をはじめ、聖獣、精霊が住まう陣営であり、他の二陣営と比べて数は少ないが、一体あたりの性能は総じて高い。清廉を掲げる一方で、その実態は他の陣営と大差ない政治と権謀術数にまみれている、というのがベテランプレイヤーたちの共通見解だった。
プレイヤーは、この三陣営のどこにでも所属できる。人間として生まれながら魔界へ亡命することも、魔族でありながら人間界の傭兵として雇われることも、システム上は何一つ禁止されていない。
陣営同士の同盟、不可侵条約、宣戦布告による全面戦争――そのすべてが、運営の用意した筋書きではなく、プレイヤー自身の意思によって動いていく。ある王国が魔界の一勢力と手を組み、隣国を挟撃する。今日の同盟国が、明日には裏切りの標的になる。そうした光景も、この世界では珍しくなかった。
種族だけでなく、職業の数もまた膨大だ。戦士系、魔術師系、生産系、支援系を合わせて数百種にのぼり、前提条件さえ満たしていれば一人のキャラクターが複数の職業を渡り歩くことも許されている。剣を振るいながら呪文を唱え、傷を癒しながら罠を仕掛ける――そんな器用貧乏な戦い方も、極めれば立派な個性になった。
さらに、装備や拠点の外見を細部までいじり倒せる制作ツールの存在が、このゲームの人気を決定的なものにしていた。倒した敵からは、性能を数値化した特殊な結晶が手に入る。攻撃力や耐久力、属性付与といったデータの塊だ。
プレイヤーはそれを好みの外装に組み込み、世界に一つしかない武具を生み出す。ネット上では、腕利きの職人が自作データを競って公開し合い、こだわりの一振りを求めて奔走するプレイヤーが後を絶たなかった。
戦争には、もちろん実利がある。
プレイヤーは、敵対勢力の領土を制圧し、資源を奪い、国民を捕虜として連行し、宝物庫に眠る金銀財宝や、代々受け継がれてきた秘宝、名のある武具を掠奪することができる。奪ったものをそのまま懐に収めてもいいが、賢いプレイヤーはそうしない。仕える王、大統領、大臣、族長、あるいは大魔王その人へ献上するのだ。
献上された側は、その功績に応じて褒賞を下賜する。特別に調整された装備。市場には出回らない稀少アイテム。時には、称号と共に固有の魔法やスキルそのものが授けられることさえある。
ある人間国家の騎士は、隣接する魔界領の砦を落とした戦功によって、王家秘蔵の聖剣を下賜されたという逸話が残っている。数字の上では、奪った資源をそのまま換金する方が得な場面すらあるというのに、多くのプレイヤーがあえて主君へ献上する道を選ぶ。損得だけでは測れない忠誠が、演出ではなくシステムの根幹に組み込まれていたのだ。
レベルデザインもまた、他のタイトルとは一線を画していた。
プレイヤーキャラクターが到達できる最高レベルは、10,000。この数字だけを見れば大したことがないと思うかもしれない。だが、レベル1から100までに要する時間と、レベル9,900から10,000までに要する時間とでは、指数関数的という言葉では生ぬるいほどの開きがある。廃人と呼ばれるヘビーユーザーでさえ、天井であるレベル10,000へ到達するには、年単位の歳月を要するというのが定説だった。
さらに厄介なのは、イベントで出現するボスモンスターや、特定の陣営が国家の守護者として据えている存在の中には、プレイヤーの到達限界であるレベル10,000を平然と超えてくる者が珍しくないという事実だ。国境の要塞に鎮座する古龍、聖教会の最奥に安置された守護天使、魔界の深部で眠る古の魔王――そうした「格上」との遭遇は、時にプレイヤー一人の努力では決して埋まらない絶望的な壁として立ちはだかる。
だが、このゲームが「強さがすべてではない」と繰り返し謳う理由は、まさにそこにある。レベル1000にも満たない外交官系プレイヤーが、巧みな交渉と情報網だけで一国の命運を左右した例もある。生産職に特化したプレイヤーが供給網を握ることで、戦闘力とは無縁の場所から戦局そのものを動かした例もある。数値の高さだけでは測れない価値が、この世界には無数に転がっていた。
戦って倒した相手も、ただ消えてなくなるわけではない。討伐したモンスターや敵兵の亡骸からは、素材や特殊なデータが手に入ることがある。
屍を素材に武具や拠点を強化する生産職もいれば、亡骸そのものを使役下に置く召喚職もいる。魔界に属するプレイヤーの中には、戦場に転がる骸から従者を生み出す者も珍しくなかった。
開発元が公式サイトに掲げる有名な一文がある。
『強さは、選択の結果でしかない。何を選び、誰と生きるか――それこそが、この世界の本当のステータスだ』
華美な戦闘エフェクトや際限のないインフレだけがこのゲームの魅力ではない、という開発陣なりの矜持がそこには滲んでいた。誰かに忠誠を誓う者もいれば、誰にも属さず一人で旅を続ける者もいる。奪うことに情熱を注ぐ者もいれば、作ることだけに人生を費やす者もいる。正解は一つに定められていない。
そんな懐の深さが評判を呼び、『パンデモニウム・オンライン』はサービス開始からわずか数年で、フルダイブMMOの代名詞と呼ばれるまでの地位を築き上げていた。
攻略掲示板は日々更新され、有名プレイヤーの戦記は動画配信で語り継がれ、企業案件めいたコラボイベントすら組まれるほどの規模へと膨れ上がっていく。誰もが、自分だけの遊び方と、自分だけの居場所をこの世界に探していた。それは、現実では決して手に入らない何かの代替品だったのかもしれない。




