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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.0 Interlude2 Log out

皆様、『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、誠にありがとうございます。


戦いには終わりがあります。


そして、勝者にも帰る場所があり、迎えてくれる者がいます。


今回は、戦場を離れたリゼルのひとときをお届けいたします。

 次に映し出されたのは、魔界の城だった。


 黒曜石の尖塔が幾本も夜空を突き刺し、血のように赤い月が、その頂きを照らしている。空を裂く暗雲は絶えず形を変え、月光を呑んでは吐き出すように、城全体の輪郭を明滅させていた。稜線の彼方には黒い山脈が連なり、その向こうにさらに濃い闇が沈んでいる。城下には魔族たちの灯火が星のように揺れ、大小さまざまな明かりが、まるで別の夜空を地上に映したかのように広がっていた。


 城壁の外周を巡る見張り塔の灯りも、いつもより数が多い。今夜だけは、警戒よりも祝賀の意味合いが強いのだろう。塔の上で誰かが角笛を吹き鳴らす音が、遠く風に乗って響いてきた。


 どこか遠くで、鐘の音が鳴る。勝利を告げる鐘だ。低く長い音が城壁を伝い、風に乗って夜気を震わせる。この城のどこかで、誰かが今夜の戦果を祝っているのだろう。酒杯を打ち鳴らす音も、笑い声も、松明を掲げた行進の足音も、確かにあるはずだった。凱旋を待つ民衆が、城門前の広場に集まっているという話も聞いた。魔族の子供たちが、勝利の歌を口ずさみながら通りを駆けているという報せも、以前受け取ったことがある。だが、その喧騒はリゼルのいる高層階までは届かない。届いたところで、彼女がそこに加わることもない。


 勝利は、報告されるべきものであって、浮かれるべきものではなかった。


 黒紫の光が転送の間で弾け、リゼルの姿が浮かび上がる。焦げた鎧の匂いと、乾いた血の気配が、光の残滓と共に部屋へ広がった。控えていた門番たちが、無言のまま深く頭を垂れる。牛のような太い角を持つミノタウロス族の巨躯が、扉の両脇に立ちはだかるように控えていた。誰も言葉を発さない。発する必要がないことを、この城の誰もが知っていた。


「――お帰りなさいませ」


 一人の門番だけが、辛うじてそう声を絞り出した。額から突き出た角はまだ細く、体格も先輩たちに比べて一回り小さい、若いミノタウロス族の兵だった。緊張のせいか、声が僅かに震えている。リゼルはそちらへ視線を向けることもなく、ただ小さく頷いた。それだけで、若い門番の肩から力が抜けるのが分かった。


 リゼルはそれきり一瞥をくれることもなく、回廊の奥へと歩みを進めていた。壁に並ぶ燭台の灯りが、通り過ぎるたびに小さく揺れた。足音は静かだった。戦場であれほどの惨劇を成した少女の足取りとは思えないほど、規則正しく、乱れがない。


 長い階段を上り、幾つもの扉の前を通り過ぎる。すれ違う使用人たちが、壁際に寄って頭を垂れた。緑がかった肌をしたゴブリン族の文官が、深夜の帳簿を抱えたまま道を空ける。巡回中のオーク族の夜警も、太い槍を壁に立てかけて頭を下げた。誰も声をかけない。声をかけていい相手ではないことを、皆が理解している。


 途中、洗濯物を抱えたハーピー族の下働きの少女とすれ違った。背に生えた小さな羽根が、緊張で僅かに震えている。少女は慌てて壁に張り付き、抱えていた布の山を落としそうになる。リゼルはそれを一瞥もせず通り過ぎたが、少女はしばらくその場から動けずにいた。


 三階の渡り廊下を進んでいると、向かいから一人のリザードマン族の伝令が息を切らせて駆けてきた。リゼルの姿を認めた瞬間、伝令はその場に片膝をつく。


「リゼル様。北方国境の哨戒隊より、定時報告が届いております」


「内容は」


「異常なし、とのことです」


「そうか。ご苦労」


 それだけを言って、リゼルは再び歩き出す。伝令はその背に向けて深く頭を垂れたまま、しばらく顔を上げなかった。定時報告一つを届けるために、この時間まで待機していたのだろう。誰も、勝利の余韻に浮かれてなどいない。この城全体が、大魔王陛下の御世を支えるための歯車として、今夜も静かに回り続けている。それがヴァルクロア家の――いや、この魔界という世界そのものの在り方だった。


 途中、一枚の大きな窓の前を通り過ぎた。眼下に広がる城下町には、まだ祝勝の灯りが揺れている。誰かが花火のようなものを打ち上げたのか、遠くの空に一瞬だけ紫の光が弾けた。続けてもう一発、今度は赤い光が夜空に咲く。リゼルはそちらへ目をやることもなく、ただ歩みを進めた。


(あれも、大魔王陛下の御世が続くからこそ許される火だ。私が今日、それを一つ守った)


 その事実だけが、彼女にとっての勝利の意味だった。人間の国が一つ消えたことも、勇者と呼ばれた者たちが六人死んだことも、彼女にとっては副次的な結果に過ぎない。重要なのは、大魔王陛下の治める世界が、今日もまた一日長く続くという、ただそれだけの事実だった。


 ようやく最上階近くの一角――リゼル・ノクス・ヴァルクロアの私室へと辿り着く。


 そこは戦場とは別世界だった。


 黒を基調とした重厚な内装。深紅の絨毯が足音を吸い込む。壁には魔界貴族の紋章が刻まれ、窓の外には赤い月が浮かんでいる。飾られた武具も、魔導書も、調度品も、すべてがリゼルという少女のために整えられていた。棚に並ぶ書物の背表紙は、戦術書から古代魔法体系の研究書まで、几帳面に分類されている。分類の基準は、著者の名でも刊行年でもなく、リゼル自身が編み出した独自の索引方式によるものだった。誰に見せるためでもない、彼女だけの秩序。


 壁際の武具は、実戦で使われた形跡のあるものばかりで、飾りのためだけに置かれたものは一つもなかった。刃こぼれの残る短剣、柄に幾つも傷の刻まれた杖――そのどれもが、彼女がこれまで踏んできた戦場の記録でもあった。


 部屋の奥、窓際の執務机には、まだ目を通していない書類が几帳面に積まれている。地方の徴税報告、前線からの被害状況、次の軍議の議題――どれも明日には目を通さなければならないものばかりだった。休むと言ったその口で、彼女の視線は無意識にその書類の山へと吸い寄せられる。


 窓辺には小さな棚があり、そこには一通の古い手紙が飾られていた。差出人の名は記されていないが、丸みを帯びた優しい筆跡だけは、誰の目にも一目で分かるものだった。姉、エルミナからの手紙だった。内容はごく他愛のないもの――近況を尋ねる短い文と、彼女らしい柔らかな激励の言葉だけだった。だがリゼルは、それを捨てなかった。


 暖炉には火が入り、橙色の光が壁を舐めるように揺れている。薪の爆ぜる音だけが、この部屋の静けさをかろうじて埋めていた。天井近くの壁には、大魔王陛下の紋章を模した小さな意匠が一つだけ、控えめに刻まれている。誰かに命じられたわけでもなく、リゼル自身がそこに彫らせたものだった。


 扉を押し開ける。軋み一つない、滑らかな音だった。


 部屋の中には、一人の夜魔族のメイドが待っていた。


 黒と紫を基調としたゴシック風のメイド服、皺一つないエプロン。艶やかな濃紫の髪の合間から、小さな角が二本、控えめに覗いている。長く尖った耳と、深い紫の瞳。背に畳まれた蝙蝠のような翼と、足元に静かに垂れた尻尾は、心の緊張が伝わるようにかすかに色を変えていた。


 背筋は伸び、視線はまっすぐ扉の方を向いている。整えられた姿勢のまま、微動だにしない。戦場帰りの主人を迎えるため、彼女はきっと何時間も前からそこに立っていたのだろう。卓上には、すでに温かい飲み物が一杯だけ用意されていた。湯気がまだ細く立ち上っている。蝋燭の灯りが、彼女の輪郭を静かに縁取っていた。


 リゼルが部屋に入ると、メイドは深く一礼する。スカートの裾が、絹擦れの音を立てて広がった。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 その声には、炎も悲鳴も剣戟もなかった。ただ、主人の帰還を待っていた者の声だった。柔らかく、それでいて芯のある声音。


(――この声だけは、陛下の御前とは違う。この部屋の中でしか許されない、ただ一人に対する私の――いや、よそう)


 リゼルは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。それは他の誰の前でも見せない仕草だった。


「戻った」


「王都攻略戦の勝利、おめでとうございます」


 メイドの声には、確かな喜びが滲んでいた。だがリゼルは、それを咎めるように短く応じる。


「まだ正式な報告は済んでいない。祝うのは、陛下へ勝利を捧げてからだ」


「……失礼いたしました」


 メイドは目を伏せる。萎縮の色はない。長年この受け答えを繰り返してきた者だけが持つ、落ち着いた所作だった。それでも、伏せた睫毛の下でほんの一瞬、何かをこらえるような気配があった。


「責めてはいない」


 リゼルはそう言って、卓上の湯気に一瞥をくれた。


「これは?」


「香草茶でございます。お休みになる前に、温まって、気を落ち着けていただければと」


「いらない。手間だ」


「せっかく淹れましたので、冷める前にどうぞ」


 メイドは引かなかった。それは命令に逆らう態度ではなく、ただ淡々と、当然の提案を繰り返しているだけだった。リゼルは小さく息を吐き、湯気の立つ器に手を伸ばした。一口含む。ハーブの香りが鼻を抜けた。


「……悪くない」


「よろしゅうございました」


 メイドの口元が、僅かに緩んだ。


「手袋を」


「ああ」


 リゼルは手袋を外した。血の乾いた匂いが微かに漂う。指の関節にこびりついた汚れが、暖炉の光を受けて赤黒く見えた。メイドは自然な動作でそれを受け取った。表情一つ変えず、まるで日々の当たり前の作業であるかのように。言葉を交わさずとも、次に何をすべきか理解しているようだった。


「お召し替えを」


「ああ」


 軍服の留め具に手をかける。だが指先には、まだ戦場の緊張が僅かに残っていて、思うように動かない。留め具の一つが、いつもより硬く感じられた。


「お手伝いいたします」


「頼む」


 メイドが一歩近づく。慣れた手つきで留め具を外していく。軍服が脱がされていく。煤と血の匂いをまとった衣装が、丁寧に畳まれていく。メイドは急がない。だが無駄もない。腕の角度、翼の位置、疲労の具合まで読み取るように、正確に主人の身支度を整えていく。


「今日の戦、随分と長くかかったのですね」


「勇者どもが手間取らせた。大した相手ではなかったが」


「六人でいらしたと伺いました」


「ああ。全員、片付けた」


 その言葉に、メイドは僅かに目を伏せた。同情でも、憐憫でもない。ただ、その事実の重みを一度受け止めるような、静かな沈黙だった。


「陛下は、お喜びになられたでしょうか」


「正式な報告は明朝だ」


「そうでしたか」


「だが……」


 リゼルは僅かに言葉を止めた。


「お気に召すとは思う。あの方は、私の働きを軽んじたことは一度もない」


 その声には、いつもの淡々とした調子とは違う、微かな温度があった。メイドはそれを聞き逃さなかったが、あえて何も言わず、ただ小さく頷いた。


「お疲れではありませんか」


「疲れるほどの敵ではなかった」


「ですが、お嬢様は長時間戦場におられました」


「問題ない」


「お嬢様はいつも、問題があっても問題ないとおっしゃいます」


 リゼルの目が、わずかに細くなった。


「口答えか?」


「心配です」


 メイドは、まっすぐにそう言った。その眼差しに揺らぎはなかった。リゼルは少し黙った。窓の外で赤い月が雲に隠れる。暖炉の薪が、パチリと小さく爆ぜる。戦場では一切揺れなかったリゼルの表情が、この部屋ではほんのわずかに緩む。


(このメイドだけは、私を一人の少女として扱う。……この部屋の中でだけなら、それも悪くない)


 沈黙が落ちる。だが息苦しい沈黙ではなかった。メイドは軍服を丁寧に衣装掛けへ運び、代わりに夜着を手に戻ってくる。動作の一つ一つに、迷いも無駄もない。


 その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします。至急の書状をお届けに上がりました」


 扉の向こうから、別の使用人の声が届く。メイドは一瞬リゼルを見遣り、目配せを受けてから扉を開けた。差し出された書状を受け取り、丁寧に一礼して扉を閉める。


「北方国境からの追加報告のようです。お目通しになりますか」


「……内容は」


「先ほどの定時報告と同じく、異常なしとの記載です。ただ、念のためお嬢様のお目にかけるようにと」


 リゼルは手を差し出しかけ、しかし途中で止めた。


「明日でいい。今夜は」


 そこで言葉を切り、小さく付け加える。


「今夜くらいは、後回しにしても構わないだろう」


 メイドは僅かに目を見開いた。それから、書状を静かに卓上へ置いた。


「かしこまりました。明朝、真っ先にお渡しいたします」


「明日の予定はどうなっている」


「朝一番に、七魔公の筆頭閣下への正式な戦果報告がございます。その後、軍の再編成に関する会議が昼過ぎまで。夕刻には――」


「分かった。もういい」


 リゼルは軽く手を上げて遮った。


「今、それを聞きたいわけではない」


「失礼いたしました。お休みになる前に、余計なことを申しました」


「……いや」


 リゼルは小さくかぶりを振った。


「明日でいい、という意味だ。今は、それでいい」


 メイドは一瞬、意外そうに瞬きをした。それから、静かに微笑む。


「かしこまりました」


「湯の準備もいらない。今日は休む」


 メイドの目元から、僅かに緊張が解けた。


「はい。それがよろしいかと存じます」


「お前も休め」


「私は、お嬢様がお休みになられてから」


「命令だ」


 メイドは一瞬目を伏せ、静かに微笑んだ。


「かしこまりました」


「……無理はするな」


 ぽつりと零れたその一言に、メイドは一瞬、驚いたように顔を上げた。だがすぐに、いつもの穏やかな表情に戻る。


「もったいないお言葉です」


「もったいない、か」


 リゼルは小さく鼻を鳴らした。


「お前はいつもそう言う」


「本心でございますので」


 その短いやり取りに、リゼルは僅かに口の端を緩めた。他の誰にも見せない、ほんの小さな綻びだった。


 リゼルは寝室へ向かう。扉の前で、メイドが深く一礼した。


「おやすみなさいませ、お嬢様」


「ああ」


 寝室の扉が閉じる。静寂が落ちる。


 豪奢な寝台に、リゼルは腰を下ろした。天蓋からは黒いレースの布が垂れ、窓辺には赤い月光が差し込んでいる。部屋の隅には、使われることのない鏡台が置かれていた。化粧台の上には、埃こそないものの、使い込まれた形跡もない小瓶がいくつか並んでいる。誰かに贈られたものか、あるいは形だけ揃えられたものか。リゼル自身、それらを手に取った記憶はほとんどなかった。


 寝台脇の小卓には、一冊の古い手記が置かれている。幼い頃から書き続けている、彼女だけの記録帳だった。今日の戦果も、いずれそこに一行だけ書き加えられるのだろう。多くを語らず、ただ事実だけを。


 戦場の名残はもうない。王都の炎も、勇者の死も、臣下たちの声も、遠ざかっていく。窓の外の赤い月だけが、薄く部屋を照らしていた。


 リゼルは、今日という一日を、静かに数え直す。落とした国は一つ。処理した勇者は六人。得た戦功は、また一つ陛下の御世を盤石にするための礎となる。それでいい。それだけでよかった。


 ふと、脳裏に浮かんだのは、玉座の間で最後に見た光景だった。剣を失い、命乞いをした勇者の顔。信仰を裏切られ、恋人の名を呼びながら死んだ聖女の顔。誰一人として、彼女の前で立っていられなかった。


(弱かった。ただ、それだけのことだ)


 感傷はない。憐憫もない。ただ、淡々とした事実の確認だけがあった。彼女にとって、それ以上でもそれ以下でもない出来事だった。


 窓辺の手紙に、リゼルは一瞬だけ視線を向けた。姉は今頃、何をしているだろうか。そんな益体もない考えが、ほんの一瞬だけ頭を過ぎる。だがすぐに、その考えを頭の隅へ押しやった。今は関係のないことだ。


(また一つ、陛下に捧げるものが増えた)


 リゼルはゆっくりと目を閉じる。


 そして、世界が暗転した。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


勝利の夜、人間界では悲しみが広がる一方で、魔界では静かに夜が更けていきます。


同じ出来事でも、立場が違えば見える景色も変わる――。


『パンデモニウ・リベリオン』では、そんなもう一つの世界を描いていきます。

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