Ver.0 Interlude game over
皆様、『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、本当にありがとうございます。
ファンタジー作品では「勇者は必ず勝つ」「魔王は最後に敗れる」という物語が数多くあります。
ですが、本作はその常識とは異なる視点から描く物語です。
勇者にも敗北はあり、魔族にも譲れない正義がある。
そんな世界を、一人でも多くの方に楽しんでいただければ嬉しく思います。
最後の勇者が倒れた。それは、英雄譚の終わりにしては、あまりにも軽い音だった。聖剣が石畳を叩き、澄んだ、どこか間の抜けた金属音を立てる。カラン、と。ただそれだけの音で、一つの時代が終わった。
白銀の鎧は煤に汚れ、胸当てにはいくつもの亀裂が走っていた。王国の民が希望と呼び、神官たちが聖なる者と崇め、兵士たちが最後の盾と信じた青年は、血の混じった息を一つ吐いたきり、もう二度と立ち上がらなかった。開いたままの瞳は、赤く染まった空を映していたが、その光を認識することはもうない。
彼の背後には、燃える王都があった。
エルディア王国。
かつて白亜の聖都と謳われた都は、すでに聖都ではなかった。大聖堂の尖塔は根元から折れ、王城の旗は黒煙の中で焼け落ち、通りには逃げ遅れた馬車と、主を失った武具と、祈ることさえ許されなかった者たちの残骸が散らばっている。どこかで崩れる音がした。石造りの建物が、悲鳴のような轟音とともに沈んでいく。
空は赤かった。夕焼けではない。王都そのものが燃えている。炎の照り返しが雲を染め、血のような光が大地へ降り注いでいた。灰が雪のように舞い落ちる。それは静かで、美しくて、そして残酷なほど無感動だった。
その赤い空の下に、黒翼の少女が立っていた。少女は勇者の亡骸を見下ろしていた。そこに喜びはない。怒りもない。憎しみの名残すらない。ただ、終わらせるべきものを終わらせた者の、冷えた静けさだけがあった。
風が黒い翼の羽根を一枚、攫っていく。それだけが、この場に残った唯一の「動き」だった。
(――終わった、か。これほどの物語の結末が、こんなにも呆気ないとはな)
「リ、リゼル様……終わりました! 城内のお肉の処理は完了しました!」
兎耳の少女が、血に濡れた手袋を胸元で握りしめながら報告する。声は震えていた。恐怖ではなく、興奮と安堵が入り混じった震えだった。
その言葉に、リゼルは一瞬だけ視線を寄越した。称賛でも咎めでもない、ただ確認するだけの目だった。少女はそれだけで満足そうに耳を立てる。
蛇髪の女が、焦げた風の中で愉悦を隠さず微笑んだ。
指先で自分の髪――正確には髪の形をした蛇たち――を撫でながら、勇者の亡骸を興味深そうに一瞥する。
「ふふ。人間にしては、なかなか粘った方じゃない? 最後の最後まで希望なんてものに縋って……見ていて退屈はしなかったわ。ねえ、あなたもそう思わない?」
六腕の魔人が、物足りなさそうに肩を鳴らした。六本の腕のうち二本を組み、残りで武器の血を払っている。
「勇者の国の1つっつうから、もっと他にも骨のある奴らがいるかと思ったけどなぁ。拍子抜けもいいところだぜ」
「あらぁ、あなた、初撃でほとんど終わらせてしまったじゃない。オモチャはもっと丁寧に扱いなさいな」
「……オモチャにするほど愛着持てねぇよ」
ダークエルフの少年が、そんなやり取りには目もくれず、遠くの塔を見上げていた。矢筒に指をかけたまま、視線だけが冷静に周囲を走査している。
「西塔の魔術師部隊も沈黙しました。再詠唱の気配なし。王都防衛網、完全に崩壊です」
吸血鬼の青年が、舞踏会の終わりを告げる司会者のように、穏やかに片手を広げた。マントの裾が灰の舞う風に揺れる。
「これで王都攻略戦は終了だね。魔界側の完全勝利。まあ――」
彼は肩をすくめ、崩れゆく大聖堂を一瞥した。
「順当な結末かな。人間たちには少し気の毒だけれど」
「気の毒、ね」
蛇髪の女が笑う。
「あなたがそれを言うと、皮肉にしか聞こえないわよ」
「これは本心さ。俺は優しいからねぇ」
「優しいねぇ……城下に見える人間の串刺しのオブジェはわたくしの目の錯覚かしらぁ?」
「ああ、あれは俺の趣味だよ。見せしめには丁度いいと思ってね」
彼らは、王国から見れば悪だった。人間から見れば、怪物だった。勇者を殺し、王国を焼き、民を蹂躙した魔界の使徒。だが、彼らの誰一人として、自分たちを悪だとは思っていなかった。人間が魔族を討つ時、それを正義と呼ぶように。魔族が人間を滅ぼす時、それは彼らにとって自然な秩序だった。
命の重さなど、立場で変わる。祈りの価値など、支配者で変わる。正義など、勝った側の言語にすぎない。魔族はその事実を隠さない。綺麗事で包まない。征服すると決めたなら征服する。滅ぼすと決めたなら滅ぼす。それは残酷であると同時に、ある種の誠実さでもあった。
黒翼の少女――リゼル・ノクス・ヴァルクロアは、燃える王都の向こうを見た。彼女が見ているのは、勇者ではなかった。王国でもない。人間の命でもない。もっと遠く、もっと高く。この世界のどこにも存在しないはずの、ただ一つの玉座。彼女のすべての基準であり、すべての忠義が帰る場所。
(この光景も、この勝利も――いずれ陛下の御前に捧げるためのものだ。それ以外に、何の意味がある)
「リゼル様」
兎耳の少女が、少し緊張した声で言った。長い耳がぴくりと動く。
「王城地下に、お肉の反応があります。たぶん偉いお肉です。それと、聖教会の中にもお肉の反応があります」
リゼルはしばらく答えなかった。炎を見ていた。崩れていく王城を見ていた。空へ上っていく黒煙を見ていた。だが、その瞳の奥には、王都の破滅とは別のものが映っていた。誰にも見せない、誰にも見せるつもりのない、静かな光だった。
やがて、リゼルは静かに言った。
「後の処理は、お前たちに任せる」
兎耳の少女が、ぱっと顔を上げる。垂れていた耳が、期待に跳ねるように立った。
「は、はい! 地下の確認は私たちで行います!」
「王族の扱いは?」
六腕の魔人が問う。腕組みの一つを解き、もう一本の腕で顎を撫でながら。
「命令、要るか?」
畳みかけるように、六腕の魔人が続けた。リゼルは、わずかに目を細めた。夕闇よりも深い紫の瞳が、束の間、六腕の魔人を射抜く。
「必要ない。判断は任せる。だが――」
リゼルは短く答えた。一拍。静寂が、その場にいる全員の呼吸を止めた。
「陛下の御前に敗者の泣き声を届けるな」
その言葉だけで、全員が意味を理解した。蛇髪の女が、楽しげに笑う。喉の奥から、くつくつと笑い声がこぼれた。
「あら、優しいのね。泣き喚く暇も与えず、陛下のお耳に届く前に終わらせてあげようだなんて」
「違う」
リゼルは冷たく返した。感情の色がまるでない、平坦な声だった。
「陛下の御耳を汚す価値もないというだけだ」
吸血鬼の青年が、くつくつと笑った。
「なるほど。実に君らしい」
「褒めているつもりか」
「もちろん」
ダークエルフの少年は、そんなやり取りに構わず、淡々と矢筒を整えていた。矢の本数を数え、傷んだものを一本一本抜き取っていく。その手つきに迷いはない。
「では、地下区画の封鎖を優先します。脱出経路は僕が押さえます」
「頼むわ。私は司祭たちの方を魅るわね」
蛇髪の女が、指先で自分の唇をなぞりながら微笑む。
「神に祈る時間くらいはあげてもいいかしら?」
「祈りで何か変わるなら、勇者は死んでねぇよ」
六腕の魔人が鼻を鳴らした。武器を鞘に収める、鈍く重い音が響く。
「そうね」
蛇髪の女は、あっさりと頷いた。悪意も同情もない、ただの事実確認のような相槌だった。
リゼルは、その一連のやり取りを黙って聞いていた。口を挟むまでもない。彼らの軽さは能力の証でもある。恐怖も躊躇もなく命を刈り取れるからこそ、彼らは戦場でこれほど軽口を叩ける。それを冷淡と呼ぶのは、剣を握ったことのない者の理屈だ。
「私は一度、城に帰還する」
リゼルが告げると、兎耳の少女が少しだけ寂しそうに耳を伏せた。
「もう、お休みになられるのですか?」
「そうだ。長居しすぎた」
「そ、そうですよね。今日は大きな戦いでしたから。リゼル様も、ちゃんと休まないと駄目です」
その言い方は、臣下というより、心配する友人に近かった。少女は自分の失言に気づいたのか、ハッと口元を押さえる。リゼルはわずかに目を細める。
「私に休めと命じるつもりか?」
「えっ!? ち、違います! 命令なんて、そんな! ただ、その……リゼル様が倒れたら困ります!」
兎耳の少女は、両手をぶんぶんと振りながら弁明した。その慌てぶりに、場の空気がわずかに緩む。蛇髪の女が、横から茶々を入れる。
「あら、可愛いこと言うじゃない。リゼルちゃん、心配されてるわよ?」
「黙れ」
「ふふ、怖い怖い。でも本当のことでしょう?」
吸血鬼の青年が穏やかに笑った。
「では、後始末はこちらで。君は城で報告の準備でもしているといい」
彼は一歩前に出て、片手を胸に当てる。芝居がかった、けれど不思議と様になる仕草だった。
「大魔王陛下に、最上の勝利報告を捧げるのだろう?」
リゼルは、その言葉にだけ反応した。冷えていた瞳の奥に、わずかな熱が灯る。それは炎の照り返しとは違う、もっと内側から滲むような光だった。
「当然だ」
その声は、先ほどまでよりもずっと低く、ずっと静かだった。
「この勝利は、陛下へ捧げるためのものだ」
(陛下……私が剣を振るうのも、命令を下すのも、勝利を積み上げるのも、すべては陛下の御世を盤石に
するためだ。それ以外の理由など、私には要らない。要るはずがない。――ただ、早くお顔を見たいと思う自分を、少しだけ滑稽だとも思うが)
その声の余韻が消えるまで、誰も口を開かなかった。燃え崩れる王城の音だけが、遠く低く響いていた。
彼らは、それ以上何も言わなかった。冗談も皮肉も消えた。魔族である彼らでさえ、その瞬間のリゼルにだけは茶化してはならない何かを感じ取っていた。空気が、一瞬だけ張り詰める。
「では――」
六腕の魔人が、短く頭を下げた。
「地下は任されたぜ」
「私も」
蛇髪の女が、優雅に一礼する。
「僕も」
ダークエルフの少年が、静かに頷く。
「行っておいで」
吸血鬼の青年が、最後にそう言った。
リゼルは黒翼を広げる。バサリ、と大きく空気を打つ音。漆黒の羽根が、燃える王都の光を弾いて、一瞬だけ紫紺に輝いた。転移魔法陣が足元に展開した。幾何学模様が地面を這うように広がり、黒紫の光が渦を巻く。王都の炎が、その光に裂かれていく。崩れた王城も、倒れ伏した勇者も、血に濡れた石畳も、遠ざかっていく。
最後に兎耳の少女が、大きく手を振った。
「お、おやすみなさいませ! リゼル様!」
リゼルは振り返らない。ただ、淡々と言った。
「油断するな。勝利の後こそ、最もくだらない事故が起きる」
「は、はい!」
その返事を最後に、視界が暗転した。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
勇者と魔王の物語は、数え切れないほど描かれてきました。
だからこそ私は、「もし勇者が敗れたら、その先の世界はどうなるのか」という視点から、この作品を書き始めました。
『パンデモニウ・リベリオン』は、勇者を否定する物語ではありません。
善悪や立場だけでは語れない、それぞれの信念や生き様を描く物語です。
これからもリゼルたちの歩む物語を、温かく見守っていただけましたら幸いです。
今後とも『パンデモニウ・リベリオン』を、どうぞよろしくお願い申し上げます。




