Ver.0 Prologue BAD END
本作は魔族側を主人公としたダークファンタジーです。
プロローグでは、勇者一行と人間側にとって非常に救いのない展開を描かせて頂きました。
苦手な方もおられるかと思いますが、少しでも皆さんのお暇な時間のお相手になれれば
嬉しく思います。
それでは、『パンデモニウム・リベリオン』をお楽しみくださいませ。
エルディア王国の王城は、もはや王城ではなかった。
かつて白亜の聖都と謳われた王都は、黒煙に沈んでいる。城壁は崩れ、鐘楼は折れ、聖堂の窓は内側から赤く燃えていた。
大通りには逃げ遅れた馬車と、主を失った旗と、誰のものとも知れぬ武具が転がっている。踏み潰された果物。割れた陶器。荷台に残された木馬。戸口に脱げたままの子供靴。昨日まで確かに在った生活の跡だけが、灰の中に取り残されていた。
朝を告げる鐘の音は、もう聞こえない。パンを焼く匂いも、広場を駆ける子供の声も、神へ捧げる祈りの呟きも、すべて煙の向こうへ消えてしまった。この国が永遠に続くとまでは、誰も思っていなかっただろう。それでも、明日また朝が来ることだけは、疑ってすらいなかったはずだ。
だが今、ここにあるのは炎の音だけだ。
空は赤い。夕焼けではない。王都そのものが燃えているのだ。照り返しが雲を染め、血のような光が大地へ降っている。
崩れた城壁の向こうで、黒い軍旗が揺れていた。翻るたびに浮かぶ異形の紋章を、王国の騎士たちは初め嘲笑った。魔族の蛮族旗だと。だが今、生き残っている者の中に、あの旗を笑える者は一人もいない。
その赤い空の下を、6人の若者が王城の奥へと駆けていく。
「止まるな!」
先頭を走る少年が叫んだ。
勇者アルト。王国に選ばれし聖剣の担い手。まだ少年の面影を残す顔に、煤と血がこびりついている。肩の鎧は割れ、額の傷は片目の上で乾いていた。
呼吸は乱れ、足取りは重い。ここへ至るまでに、彼は何度も膝をつきかけ、その度に仲間へ支えられ、その度に死者の名を喉の奥へ呑み込んできた。
それでも、走っている。
彼が止まれば、王国の希望そのものが止まってしまう。
背後には5人の仲間がいた。
聖女エリシア。白い法衣は焼け焦げ、裾は赤黒く汚れている。だが手にした祈りの杖だけは、まだ淡い光を保っていた。
彼女はこれまで何度も傷口を塞ぎ、何度も倒れた兵へ祈りを注いできた。それでも、救えた者より救えなかった者のほうが、ずっと多い。
信仰を失ったわけではない。ただ、祈るたびに増えていく「救えなかった顔」の重みが、静かに胸を圧していた。仲間を誰一人欠けさせたくない――その一心が、今の彼女を支えている。
魔術師ノイン。王立魔術院最年少の秀才。片方の眼鏡は割れ、唇は青ざめていたが、目だけはまだ敵の術式を追っていた。
恐ろしくないわけがない。それでも彼は恐怖のまま観察し、記録し続ける。魔族の術式は王国の体系のどこにも当てはまらない。だからこそ書き残さねばならない。もし誰かがこの戦を生き延びるなら、必ず役に立つ。
感情より理屈を優先する性分ゆえ、仲間と少し距離を感じる時もあった。それでも彼にとって、この5人は研究対象ではなく、守るべき者たちだった。
重騎士ガルド。近衛騎士団の若き盾。大盾はすでに歪んでいる。それでも仲間の前に立つため、重い鎧を引きずるように走っていた。
全身に痛みがある。骨の軋む感覚がある。だが弱音は一度も口にしない。盾は苦痛を語らない。ただ前に立てばいい。
エリシアへ向ける想いは誰の目にも明らかで、それを本人も承知していた。だからこそ最後まで彼女の盾でいることが、彼の在り方だった。
弓姫リュシア。エルフの王国一の弓手。矢筒に残る矢は少ない。だがその一本一本が、未来へ繋ぐ最後の手立てだった。
燃える王都を見ながら、彼女は森を思い出していた。枝葉を漏れる朝日。湿った土の匂い。小鳥の声。帰れるなら、もう二度と戦場には立ちたくない。
王都育ちの仲間たちとは価値観の違いを感じる時もあったが、共に戦う中で家族に似た絆を抱いていた。心の奥には、戦いよりも故郷を望む切実な願いが、今もくすぶっている。
斥候フィン。下町育ちの少年。冗談ばかり口にし、危機の中でも笑ってみせる彼の顔からさえ、今は血の気が引いていた。
逃げるのが得意だ。隠れるのが得意だ。生き残るのが得意だ。だが今日だけは、逃げてはいけないと知っていた。
本当は誰よりも死が怖いし、英雄になどなりたくもない。ただ、仲間を置いて自分だけ生き延びる未来だけは、どうしても選べなかった。
彼らは、王国最後の希望だった。
外門は落ちた。内門も落ちた。騎士団本部も、聖堂区も、貴族街も、すべて魔族軍に踏みにじられた。
逃げ道はない。援軍もない。各地へ放った伝令は戻らず、空を飛んだ鷹も黒い炎に焼かれた。地下水路から逃がそうとした王族の一部も、既に捕らえられたという報せが入っている。
隠し通路も、秘密の礼拝堂も、王家の避難経路も、まるで最初から知られていたかのように塞がれていた。
だが、まだ終わってはいない。
王城の最奥、玉座の間に、この侵略軍を率いる魔王がいる。その首を落とせば、まだ人は立ち上がれる。軍勢が瓦解すれば、各地の生存者を集めて反撃できる。王都は焼けても、王国の名は残せる。民は死んでも、未来だけは残せる。
勇者たちは、そう信じていた。
信じるしか、なかった。
「アルト、右です!」
エリシアの声が飛ぶ。
崩れた柱の影から黒鎧の魔族兵が躍り出た。アルトは振り返らず、聖剣を横に薙いだ。
「《ライトニングセイバー》!」
紫電が奔り、魔族兵は雷撃に貫かれて壁へ叩きつけられて沈黙する。焦げた鎧の匂いが立ち上り、石壁に亀裂が走った。黒鎧の破片が、火花を散らしながら床を転がった。アルトは足を止めない。止めれば、胸の底に蟠る恐怖が追いついてくる。
「やっぱすげぇな、勇者様!」
フィンが息を切らしながら笑う。
「この戦争が終わったら、王都の酒場で語ってやるんだ。『俺は勇者様と魔王城へ突っ込んだ男だ』ってな」
「ここは魔王城じゃない。王城だ」
ノインが訂正する。
「細けぇな。今はもう似たようなもんだろ」
「縁起でもないこと言わないで」
矢を番えながらリュシアが睨む。
「私、帰ったら森に戻るわ。弓術の道場を開くの。獣の足跡の読み方、風の向き、弓の引き方――戦なんて知らなくていい子たちに教えるの」
「僕は魔術院に戻る」
割れた眼鏡を押さえ、ノインが言った。
「今日見た術式を、全部解析する。侵攻術式、転移妨害、黒炎の構成、重力干渉――記録して、二度とこんな侵攻を許さないための礎にする」
「俺は、まず3日寝る」
フィンが即答した。
「飯食って、風呂入って、また寝る。それから酒場だ。奢りは誰かに頼みたいところだな」
「あなたらしいですね」
エリシアが苦笑する。
ガルドが、ひしゃげた盾を抱え直した。
「俺は、エリシアに求婚する」
その場が、一瞬止まった。
「……は?」
振り返るエリシア。
「何を、こんな時に――」
「こんな時だからだ」
ガルドは笑った。
「終わったら結婚してくれ。畑を耕して、飯を食って、子供に昔話を聞かせる。そういう暮らしをしよう」
「馬鹿です。聖女に畑を耕せと言うんですか」
「俺が耕す。お前は祈ってろ」
「それでは生活になりません」
「なら、一緒に考えよう」
少し照れたように笑って、彼は付け加えた。
「――帰れたらな」
エリシアは唇を噛み、震える息を吐いた。
「……帰れたら、お返事します」
「期待していい返事か?」
「帰れたら、です!」
皆が笑った。
笑える状況ではない。仲間は幾人も死んだ。王都は燃えている。民の悲鳴は今も遠くで続いている。それでも笑った。笑わなければ、前へ進めなかったからだ。
最後の大階段が見えた。その先に、玉座の間へ続く巨大な扉がある。聖銀と黄金で飾られた王国の象徴。だが今、その表面には黒い魔力が絡みついていた。刻まれた王家の紋章は、内側から腐り落ちるように黒ずんでいる。聖銀は輝きを失い、黄金は煤にまみれ、かつて神聖だった場所は、もはや禍々しい異界への門にしか見えなかった。
「――ここから先だ」
アルトが言った。
誰も冗談を言わなかった。ノインは杖を握り、エリシアは祈りを胸に、リュシアは矢を番え、ガルドは盾を構え、フィンは短剣を抜く。
「俺たちはここまで来た」
アルトが低く言う。
「死んだ仲間のために。逃げられなかった民のために。これから生まれる子供たちのために」
聖剣が白く輝いた。
「魔王を、討つ」
5人が頷いた。
扉が開いた。内側から。音もなく。まるで、彼らを招き入れるように。
玉座の間は、広すぎるほど広かった。だが、その広さを埋めていたのは、黄金でも絨毯でもなかった。
最初に目に入ったのは、玉座の左右に立てられた2本の槍だった。その穂先に、王妃だったものが掲げられている。開いたままの目は虚空を見つめ、長い髪だけが、かつての気品を辛うじて留めていた。
「う……」
フィンが口を押さえた。
柱という柱には、近衛騎士たちの亡骸が打ち付けられていた。もはや誰の姿だったのかも分からない。壁には、王族の紋章を象るように、何かが几帳面に並べられていた。まるで作品を仕上げるかのような、悪趣味な几帳面さだった。
そして玉座――エルディア王が座っていたはずのその椅子には、王だったものが縫い付けられていた。まるで玉座に「座らされ続けている」ことこそが、最大の見せしめであるかのように。直視できる状態ではなかった。
高い天井、黄金の柱、青い絨毯、歴代王の肖像画――そのすべてが、血にまみれて穢されている。肖像画は引き裂かれ、絨毯は焼け焦げ、柱の一本は半ば砕けていた。王旗は引きずり下ろされ、代わりに黒い軍旗が掲げられている。初代国王の肖像は、顔の部分だけが黒く焼き潰されていた。
「な……に、これ……」
エリシアの声が震えた。
王国の心臓部は、すでに敵の遊び場に――そして、悪趣味な見せしめの舞台に変えられていた。
中央には、巨大な魔法陣が刻まれている。
いや――床そのものが、魔法陣へと変質していた。抉れた絨毯、黒く焦げた床材の上に、幾重もの円環と古代文字が浮かんでいる。文字は炎のように揺らめきながら、同時に氷のような冷気を放っていた。
ノインが、それを見た瞬間に息を呑む。
「……違う」
「何がだ」
アルトが聖剣を構えたまま問う。
「これは転移陣じゃない。召喚陣でもない。空間座標の固定、重力場の圧縮、魔力炉の展開――さらに、王城そのものを供物にした術式だ」
「供物?」
フィンの声が裏返った。
答える前に、玉座の間が鳴動した。
室内だというのに暴風が吹き荒れる。窓は閉じている。それでも風は生まれ、柱を打ち、肖像画を引き裂いた。赤黒い稲妻が天井から落ち、雷鳴が王城の腹の中で轟く。黄金の燭台が弾け飛んだ。
魔法陣の中央から、暗黒の光柱が立ち上る。
光なのに暗い。闇なのに眩しい。目でなく、魂を直接焼くような柱だった。
「来る……!」
リュシアが弦を引き絞る。
だが、それは前触れに過ぎなかった。
光柱を中心に、床の魔法陣がさらに幾重もの同心円を描き始める。円環の一つ一つに刻まれた古代文字が、まるで意志を持つように発光し、輪が回転するたびに音を立てて軋んだ。天井が――本物の石造りの天井が、あり得ないことに音もなく透けていく。その向こうに現れたのは、王都の夜空ではなかった。星のない、赤黒い渦を巻く異界の空だった。
5つの小さな光の柱が、中央の大柱を囲むように、外周の円環から次々と立ち上る。まるで従者たちが先触れとして先に降臨し、主のために道を空けるかのように。1つ目の光は雷のように轟き、2つ目の光は毒の香りを孕んで揺らめき、3つ目の光は音もなく静かに満ち、4つ目の光は血の色に染まり、5つ目の光は月明かりのように淡く優しかった。
そして最後に、中央の大柱が――一際強く輝きを増した。
まるで太陽が黒く塗り潰されるように、光柱の中心に完全な暗闇の球が生まれ、渦を巻きながら収縮していく。玉座の間全体が軋み、床の石材がひび割れ、壁の亀裂から黒い瘴気が滲み出した。稲妻でも轟音でもない、もっと根源的な圧力――存在そのものの重みが、空間を押し潰していく。
暗闇の球が弾けた。
その中心から、黒い羽根が幾枚も舞い散る。羽根の一枚一枚が触れた床は、瞬時に凍りつくように色を失っていった。
そして、音も、風も、雷も、一拍だけ途切れる。
次の瞬間、魔法陣の中央には、6つの影が立っていた。
いつ現れたのか、誰にも分からない。歩いてきたのではない。降り立ったのでもない。まるで最初からそこに在ったものを、世界が今になってようやく認識したかのようだった。
最初に目を奪われたのは、黒翼の少女だった。
幼い。王侯貴族の娘だと言われても不思議はない年頃。だが、誰も彼女を子供とは思わなかった。黒紫の軍装。冷たい赤い瞳。背に広がる黒翼。そして、玉座の間そのものを押し潰すような魔力。彼女がそこに立っているだけで、聖銀の装飾が黒ずみ、青い絨毯が色を失っていく。
アルトは一目見て悟った。
あれは、剣を向けるべき敵だ。
だが同時に、もう一つの直感もあった。
あれは、剣が届く相手ではない。
異常なのは、彼女だけではなかった。
赤銅色を帯びた肌の巨躯。6本の腕を持つ魔人。それぞれの腕が違う角度で力を蓄え、立っているだけで城門を殴り砕く兵器のようだった。拳を握るたび、空気が低く鳴る。ガルドは本能的に盾を構え直した。あれは剣で斬る敵ではない。城壁ごと人を潰す暴力そのものだ。
甘い香りがした。花と毒を混ぜたような、戦場に似合わぬ香りだ。エリシアが顔を上げると、美しい妖女が微笑んでいた。黒い帽子の下で、無数の蛇髪が蠢いている。手にした鞭は革でも鎖でもない。8つ首の大蛇の先端をそのまま武器にしたような、禍々しい生きた鞭だった。床に触れるたび、黄金の床材が乾いた音を立てて罅割れていく。
赤い液体を揺らす音がする。夜会服めいた装いの青年が立っていた。戦場に似合わぬ美貌。滑らかな白い肌。炎を映さない赤い瞳。整いすぎた微笑。まるで王国の滅亡すら、晩餐前の余興と言いたげな顔だった。手にした細脚のグラスの中で揺れる赤い液体は、葡萄酒にしては濃すぎる。炎に透けず、闇の中で艶めいていた。彼が微笑んだ瞬間、リュシアは唇の奥に、僅かに長い犬歯を見た。ヴァンパイアだ。
指先が軽く動く。床に落ちていた赤い雫が、重力に逆らって浮かび上がった。糸のように細く伸び、青年の指へ絡みつく。
「血液操作……!」
ノインが青ざめる。
その笑みには、獣の飢えとは違うものがあった。もっと洗練され、もっと厄介で、もっと不快な何か。獲物を喰らうのではなく、味を見て、価値を測り、どこまで搾り取れるか品定めするような笑みだった。
ノインの視界に、黒い弓が映った。銀髪のダークエルフの少年が、それを無言で携えている。あどけなさの残る顔立ちだが、その見た目に惑わされてはいけない。ダークエルフは成長が遅く、外見の年齢と実際の年齢が一致しない。彼が何十年、あるいは何百年を生きてきたのか、ノインには測る術もなかった。表情はない。敵意もない。殺意すら薄い。ただ、こちらを標的として認識しているだけだ。弓身の中央に開いた眼のような器官が、ゆっくりとまばたきをする。矢筒の中の矢は、影を細く固めたように蠢いていた。
リュシアは、その姿を見た瞬間、頬を歪めた。
「……森の裏切り者! 光を厭い、同胞を売り渡した、闇に堕ちた忌むべき血族が、よくもそんな穢らわしい弓を持てたものね!!」
ダークエルフの少年は答えなかった。表情一つ変えず、ただ静かにこちらを見据えるだけだった。
6腕の魔人が愉快そうに口笛を吹く。
「おいおい、口が悪ぃな人間界のエルフってのは? 同胞喧嘩ってやつか?」
赤い液体の入ったグラスを持つヴァンパイアの青年が、くすっと笑いながら口を挟んだ。
「それを言うなら同族嫌悪でしょ? いやー、お前にしてはよく覚えてんじゃん。偉い偉い」
「おい、チャラ男に褒められてもぜんぜん褒められてる気がしねぇぞ!」
凄惨な場に似つかわしくない軽いノリの会話を、6腕の魔人とヴァンパイアの青年は、まるで王都のカフェで駄弁っているかのように交わしていた。
蛇髪の妖女がくすりと笑った。
「あらあらぁ、エルフ種って世間知らずの箱入りさんが多いって聞いたけれど、我らが主の前でそれを言うのは自殺宣言だわぁ」
その軽口をよそに、黒翼の少女の指先が、ぴくりと動いた。
まだ何も言わない。だが、玉座の間の空気が、確かに一段冷えた。
次の瞬間、玉座の間の空気が凍りついた。黒翼の少女――その膨大な魔力が、何の前触れもなく膨れ上がる。石床に亀裂が奔り、燭台の炎が瞬時に消し飛んだ。
「口を慎め、虫が」
低く、静かな声だった。だがその声には、隠しようもない殺意が滲んでいた。
「私の臣下を愚弄することは、私を愚弄することと同義だ。生まれてきたことを後悔させてやるぞ!」
その一言だけで、玉座の間の温度がさらに下がった。リュシアの喉から、掠れた息だけが漏れる。二の句が継げなかった。
「おいおい、そんなにブチ切れるなよ。殺気だけでこいつら死んじまうぜ」
6腕の魔人が、愉快そうに笑う。
「あらあらぁ、本当にお優しいわよねぇ。あなたもそう思うでしょう?」
蛇髪の妖女は嫉妬混じりの感情を交えて、侮辱されたダークエルフの少年に妖しい目線のまま喋りかける。
「……はい……」
ダークエルフの少年は表情を変えずに目線も変わることなく、弓矢に手をかけたまま頷いた。
黒翼の少女は、しばらく無言でリュシアを見据えていたが、やがてふっと魔力を収めた。石床の亀裂から立ち上っていた冷気が、ゆっくりと引いていく。
「今日はお前たちの経験値稼ぎの順番だったな。私が殺してしまっては意味がない」
勇者たちへそれだけ言い放つと、興味を失ったように視線を逸らした。
そして、フィンだけが気づいていた。自分たちの死角に、もう一人。
白い髪、兎の耳、柔らかな微笑。小柄な少女。だがその両手の爪先から、黒い霧が糸のように垂れている。いつ回り込まれたのか、まるで分からない。気配もなかった。足音もなかった。隠れることを生業とするフィンだからこそ、それが分かった。
あれは、隠密ではない。
速度が、認識そのものを置き去りにしている。
6人。たった6人。
だが、玉座の間に立つ勇者たちは理解した。
これは軍ではない。部隊ですらない。
王国を滅ぼすために必要な、最小単位の災厄だった。
「お前が……魔王か」
アルトが聖剣を構える。
黒翼の少女は答えなかった。ただ、彼を見た。人を見る目ではない。床を這う虫を見る目だった。
その沈黙は、言葉よりも重かった。罵倒なら耐えられる。嘲笑なら怒れる。殺意なら剣を握れる。だが彼女の瞳にあったのは、怒りですらない。ただの無関心。勇者という存在を、特別な敵ではなく、処理すべき害虫の一種として見る目だった。
6腕の魔人が、勇者たちを見下ろして鼻を鳴らす。
「これが勇者かよ。城の連中の話とは、随分イメージが違ぇな」
アルトが眉を寄せた。
「城の連中……?」
「おう。お前らの居場所、戦力、逃走経路、王族の隠れ場所――色々聞かせてもらったぜ。人間ってのは最初だけ威勢がいいが、少し締めれば大抵素直になる」
その言葉は、勇者たちの耳にあまりにも冷たく響いた。
「貴様……!」
ガルドが唸る。
蛇髪の妖女が、8つ首の鞭を撫でながら笑った。
「んふふ、可愛らしい勇者様たちねぇ。死に物狂いでここまで来たの? 偉いこと」
彼女はガルドとエリシアを見た。
「あら、大切な相手がいるのねぇ。そういう絆、嫌いじゃないわよ。壊れる時に、とても良い顔になるもの」
「貴様……!」
ヴァンパイアの青年が、愉快そうに笑う。
「女が2人か。聖女に弓使い。悪くない。死地を越えた血は味に深みが出るんだ。恐怖が混じっていれば、なおいい」
「下衆」
リュシアが吐き捨てる。
「褒め言葉として受け取っておくよ。俺たちに、人間の清潔な倫理を期待されても困る」
兎耳の少女が、穏やかに微笑んだ。
「安心してくださいね。ただのお肉をいたぶる趣味はありません。わたしたちのご主人様に無礼がなければ、苦しまないように屠殺して差し上げますね」
その優しさこそが、勇者たちには何よりも恐ろしかった。彼女たちは、人間を憎んでいるのではない。憎む価値すらないものとして扱っている。
「皆、構えろ!」
アルトが叫ぶ。
「恐れるな! 相手がどれほど強くとも、俺たちはここまで来たんだ!」
「そうだ、俺は結婚するまで死ねねぇ!」
ガルドが盾を叩く。
「なら死なないでください!」
エリシアが涙声で叫び、杖を掲げた。
その必死な姿を、魔族の陣営は醒めた目で眺めていた。
黒翼の少女は、微かに哀れむような笑みを浮かべる。
「……死亡フラグ」
ポツリと呟いた。
「しぼうふらぐ? なんだよそれ? 強いのか?」
6腕の魔人が首を傾げる。
黒翼の少女は溜息交じりに答えた。
「戦場では口にしてはならない呪いの言葉だ」
「あらあらあらぁ。呪いならわたくしの方が得意でしてよ?」
蛇髪の妖女が艶やかに笑う。
「今はレクリエーションの時間を楽しんでこい」
ヴァンパイアの青年が、ニヤリと鋭い犬歯を剥き出しにして朗らかに微笑んだ。
「いやぁ、持つべきものは理解ある上司だねぇ」
そんな軽口をよそに、エリシアの杖の先で光が膨れ上がっていく。
「聖域結界!」
白光が広がる。ノインが術式を重ねた。
「絶対障壁!」
額から血が流れる。無理な多重詠唱だ。それでも、やらねば全員死ぬ。
「リュシア!」
「分かってる!」
3本の矢が同時に放たれる。
「三連の矢!」
1本は黒翼の少女へ、1本は蛇髪の妖女へ、1本はヴァンパイアの青年へ。同時にフィンの姿が消える。
「隠形!」
気配を殺し、影に溶け、背後へ回り込む。ガルドは正面から6腕の魔人へ突撃した。
「俺が押さえる! アルト、お前は黒翼を!」
「ああ!」
アルトが黒翼の少女へ駆ける。
「《ドーンブレイク》!」
人類最高の連携だった。王国最後の希望のすべてが、玉座の間で動き出した。
黒翼の少女が、ようやく口を開いた。
「正面の重騎士」
名を呼ばれたわけではない。それでも6腕の魔人は、誰より早く動いた。
「おう」
「3呼吸以上かけるな」
「3呼吸? 見くびりすぎだぜ」
視線が蛇髪の妖女へ流れる。
「聖女の祈りを潰せ。神聖魔法は残すな」
「清らかなものを汚すのは得意よ」
銀髪の弓使いへ。
「魔術師の防御式を射抜け。記録も解析もさせるな」
少年は無言で弓を構えた。沈黙だけで、命令は伝わっていた。
ヴァンパイアの青年へ。
「弓手を無力化しろ。逃がすな」
「味見は?」
「仕事の範囲内なら許す」
兎耳の少女へ。
「斥候から目を離すなよ。あれだけは死角へ入る」
「お任せを! すでに位置は把握しております」
最後に、黒翼の少女は勇者アルトを見た。
「勇者は私が処理する」
処理。討つでも、倒すでもない。
処理。
その言葉に、勇者たちの背筋が冷えた。
最初に壊されたのは、重騎士ガルドだった。
6腕の魔人が笑う。
「おせぇ」
拳が盾に叩き込まれた。
「阿修羅破城拳!」
1撃。ただそれだけで、聖銀の大盾に稲妻のような亀裂が奔り、盾を握るガルドの左腕が、肘の内側からありえない方向へ折れ曲がった。骨が皮膚を突き破る手前で軋み、鈍い音が骨伝いに脳天まで響く。足が床を削り、爪先の骨が潰れる感触が、悲鳴より先に届いた。
「が……ぁ……っ!」
「受けたか。虫にしちゃ硬ぇな」
「舐めるな、化け物……!」
折れた左腕を無視し、ガルドは盾を右腕だけで押し返す。
「金剛盾!」
全身に金色の防御光が走った。城門すら守ると謳われた重騎士の秘技。だが相手は、城門を破る存在ではない。城そのものを玩具のように砕く存在だった。
「じゃあ、ちょっと強めにいくぜ」
6本の腕が同時に動く。
「阿修羅六道葬!」
1撃目が腹へめり込み、ガルドの体がくの字に折れた。
2撃目が肋骨を数本まとめて折る。鎧の内側で鈍い音が響いた。
3撃目が肩を叩き潰す。骨が砕ける音が、ガルド自身の耳にも届くほど鮮明だった。左腕がだらりと垂
れ下がり、二度と持ち上がらない角度で固まる。
4撃目で聖銀の盾が粉々に弾け飛ぶ。破片が頬をかすめ、視界の右側が赤く滲んだ。
5撃目で膝が砕け、立っていたはずの両脚がその場に崩れ落ちた。
そして6撃目――拳がガルドの顔面を正面から捉えた。
鮮血が霧のように噴き出し、巨体が吹き飛んで床へ叩きつけられる。石床に蜘蛛の巣状の亀裂が広がり、その下に赤黒い血だまりがみるみる広がっていく。
それでも一瞬だけ、彼は生きていた。
「ご、ぼ……っ……あ、あ、あああ……ッ!」
喉から零れたのは、もはや言葉にすらならない音だった。折れた顎から血の泡が溢れ、砕けた前歯の破片が、その泡に混じって床へこぼれ落ちる。
「ガルド!」
エリシアが叫ぶ。
ガルドはまだ生きていた。潰れた指先を震わせ、砕けた盾の破片を掴もうとしていた。折れた腕はあらぬ方向へ垂れ下がり、顔の左半分はもう原形をとどめていない。それでも仲間を守る本能だけが、辛うじて彼をこの世に繋ぎ止めていた。
「見るな……エリシア……!」
「見るな、ですって。逆に、見せたくなるわよねぇ」
蛇髪の妖女が甘く笑う。
「聖母の抱擁!」
白光がガルドへ降ろうとした瞬間、蛇髪の妖女はただ「見た」。無数の瞳が、その祈りを射抜く。
「ペトリファイング・ゴルゴンアイズ!」
祈りが石になる。杖の先端が灰色に染まり、エリシアの指先にも冷たい石化が這った。
「石化耐性は? あらあらぁ、必須よぉ?」
8つ首の鞭がしなる。
「ヒュドラ・バインド!」
蛇頭がガルドの周囲へ絡みつき、防御術式ごと締め上げる。金色の光が黒く濁った。蛇頭は砕くのではなく、絶望が長く続くように力を加減していた。折れた左腕がぎちぎちと軋み、皮膚の下で骨の断面が擦れ合う音が漏れる。
「やめて……! 彼を、彼を助けて……!」
「いい声。恋は毒より甘いわねぇ」
「エリ……シア……逃げろ……」
血の泡混じりの声だった。
「逃げません! あなたを置いて逃げるくらいなら――」
「そこまで」
黒翼の少女の一言で、蛇鞭が締まった。
最後の一絞り。8つの蛇頭が同時に力を込めた瞬間、ガルドの胸郭が内側から潰れる鈍い音が響いた。喉の奥から血が込み上げ、口の端から零れ落ちる。
目はまだ開いていた。エリシアを見ていた。だが、その瞳から光はもう消えていた。
重騎士ガルドは、聖女エリシアの目の前で、原形をとどめぬ姿となって命を落とした。それでも最後まで、その瞳だけはエリシアの方角を向いていた。
「ガルドおおおおおおっ……!!」
エリシアの絶叫が、玉座の間の壁に反響した。喉が張り裂けんばかりの叫びだった。
1人目。勇者パーティの盾は、折れた。
落ちた盾の破片が、からん、と乾いた音を立てる。あまりにも小さく、あまりにも虚しい音だった。
「遊びすぎるな」
黒翼の少女が静かに言う。
「でも、恋人の前で壊れる声って、教材として優秀なのよぉ」
「教材にするなら記録官を呼べ」
「真面目ねぇ」
「戦場だ。私情で手順を乱すな」
その会話を聞いて、アルトは奥歯を噛んだ。この化け物どもにとって、ガルドの死は悲劇ではない。娯楽であり、教材であり、手順だった。怒りで視界が赤く滲む。だが止まれない。黒翼の少女へ届かなければ、すべての死が無駄になる。
リュシアの矢は、ヴァンパイアの青年の胸元の前で止まっていた。赤い血の針が、空中で受け止めている。
「ふふふ、残念。俺には祝福儀礼が施されていない強いだけの武器は効果がないよ」
「黙れ!」
次の矢は曲がった。空中で角度を変え、背後から首筋を狙う。
「夜梟の一矢!」
だがヴァンパイアの青年は笑う。
「面白いね。でも、君、俺の丁寧な説明聞いてた?」
赤い鎖が床から立ち上がり、リュシアの手首を絡め取った。
「っ……! 離せ!」
「暴れないで。味が濁る」
彼は彼女の背後へ回ると、すぐには噛みつかなかった。まず、鼻先を彼女の髪へ寄せ、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。恐怖の匂い、汗の匂い、森育ちの血の匂い――それを吟味するように、深く、長く。
「ふうん……悪くない。少し土っぽいけど、これはこれで」
指先が、震える彼女の首筋から鎖骨へと、値踏みするようにゆっくり這った。皮膚の薄さ、脈の速さ、血管の位置を確かめる指の動きに、リュシアの背筋が総毛立つ。
「や……触るな……っ」
「静かに。今、一番おいしいところを探してるんだ」
牙が皮膚のすぐ上で止まる。触れるか触れないかの距離で、彼はしばらく動かなかった。まるで最高の一口を前にして、あえて焦らすように。リュシアの呼吸だけが、その静寂の中で異様に大きく響いていた。
そして、牙が2本、皮膚を突き破って沈み込む。薄い皮が裂ける感触と、動脈が裂ける微かな破裂音が同時に響いた。
「それでは、頂きまーす!」
傷口から溢れた血が、彼の唇を伝って顎から滴り落ちる。リュシアの頬から見る間に色が抜け、唇が紫に変わっていく。
指先が痙攣するように震え、膝から下の感覚が消えていく。瞳の奥から光が薄れ、瞼が痙攣した。森へ帰るという夢だけでなく、彼女という存在そのものが、傷口から静かに吸い出されていくようだった。
やがて彼女の身体は、水気を失った果実のように軽くなっていた。膝が折れ、両腕がだらりと垂れ下がる。
最後に、首の傷口からひと筋、赤黒い血が糸を引いて床へ落ちた。
「う〜ん、少し青いね。森の匂いが強い。悪くはないけど、高級品というより季節物かなぁ」
「リュシア!」
ノインが駆け寄ろうとした瞬間、黒い矢が彼の胸を貫いた。
防御術式の内側、魔力の流れが最も薄い一点を、正確に射抜いていた。鏃が背中まで突き抜け、鎧の裏地を裂いて先端を覗かせる。傷口から血が噴き出し、詠唱のために開いていた口から、代わりに血反吐が溢れた。
「まさか……この一瞬で、防御式の穴を見切ったというのか……」
答えはない。下等生物と会話する必要などない――そういう沈黙だった。
「ザミエル・リコシェット!」
放たれた矢は直線に飛ばない。天井へ跳ね、柱の陰を擦り、あり得ない角度で反転する。ノインの思考が計算するより早く、2本目の矢が彼の右手首を貫通した。腱が断たれ、指が力なく開く。
「僕は……まだ解析を……この術式を、魔術院に……」
3本目が杖を握る左手の甲を貫き、床へ縫い留めた。魔術師にとって、杖は命だった。彼の未来そのものだった。杖に伸ばしかけた指先が、力なく床の血だまりへ落ちた。
ノインはまだ意識を保っていた。もう動かない指で、それでも呪文の印を結ぼうとする。だがその指は、すでに力を失って震えることしかできなかった。
4本目が眉間へ吸い込まれた。
衝撃で頭部が仰け反り、割れた眼鏡のレンズが飛び散る。まだ何かを考えようとしていたはずの瞳から、思考の色が急速に抜けていく。
魔術師ノインは、両手を床に縫い留められたまま、それきり動かなくなった。開いたままの口の中で、最後まで紡がれることのなかった呪文の欠片が、血の泡となって零れていた。
2人目。魔導の頂きへの道のりを解析しようとした男は、答えを得る前に沈黙した。
「魔術師の術式記録媒体は破壊済みです」
「よろしい」
「遺体に記憶抽出の痕跡があります」
「焼け」
勇者たちは、その会話の意味を完全には理解できなかった。だがノインの死すら、情報管理の一部として処理されていることだけは分かった。
彼らは戦っているのではない。処分されている。
ヴァンパイアの青年の足元で、リュシアがまだ息をしていた。彼は耳元で囁く。
「君の夢は少し青かったが、悪くなかった。壊す価値はあったよ」
「……森に……帰り……」
「ブラッドサイレンス!」
赤い鎖が首の傷口へ突き刺さり、体内に残ったわずかな血までも根こそぎ吸い上げた。萎びた果実のように頬が窪んでいく。
彼女の身体は最後に一度、大きく痙攣し――それきり、動かなくなった。
弓姫リュシアは、血の一滴も残さぬまま死んだ。抜け殻となった身体は、生前の面影をほとんど残していなかった。
3人目。森へ帰る夢は、玉座の間の冷たい床へ落ちた。
「リュシア……ノイン……ガルド……!」
アルトの声が震える。それでも彼は黒翼の少女へ向かって走り続けた。
フィンはまだ息を殺して潜んでいた。影に潜み、玉座の背後へ回っている。あと3歩。短剣には聖水を塗ってある。心臓が無理なら喉。喉が無理なら翼の付け根。どこでもいい、一撃だけでも入れる。
(俺は肉を食うんだ。宿屋で寝るんだ。3日は起きないんだ。酒場で笑って、この悪夢を嘘みたいに語るんだ)
あと一歩。
その時、目の前に兎耳の少女がいた。
「こんにちは」
フィンの全身が凍る。
「そこ、危ないですよ。あと半歩進んでいたら、あの方の魔力圏に触れて、脚から潰れていました」
「いつから……」
「最初からです。あなた、隠れるのが上手ですね。お肉にしては」
「どけ!」
短剣が影を纏う。
「影牙!」
だが少女の姿がぶれた。1人が2人に、2人が4人に。
「ラビットファントム!」
次の瞬間、フィンの身体は宙へ跳ね上げられていた。下から顎を蹴り上げられたのだ。天井が見え、床が見え、少女の微笑が見える。
「空中は不慣れでしょう? ムーンリッパー!」
黒い爪閃が走り、短剣が砕け、逃走用の魔道具が裂け、影へ潜る術式が断ち切られた。爪の先端が彼の右足の付け根を掠め、腱を断ち切る。着地と共に、フィンの右脚は自分の意志では二度と動かなくなった。少女は一撃で殺さない。ただ、生き残るためのすべてを奪った。
「これでおしまいです。安心してください。痛いのは一瞬だけです」
「嫌だ……死にたくな――」
その一言を最後まで言わせなかった。4本の爪が、フィンの喉元から鎖骨の下まで一息に薙いだ。
鮮血が噴水のように噴き上がり、天井近くまで飛び散った赤い飛沫が、王旗の残骸に降り注いだ。彼の身体は声を失い、両手だけが自分の喉を掻きむしろうとしたが、指の隙間からも血が溢れ出るばかりだった。
膝から崩れ落ちながらも、彼の目はまだ何かを――生きようとする何かを、探すように泳いでいた。
斥候フィンは、自分の血だまりの中に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
4人目。誰よりも生き残ることに長けた少年は、逃げ道を奪われて消えた。
「斥候、処理完了です」
「見事だ」
その一言で、兎耳の少女の耳がわずかに震える。
「も、もったいないお言葉です」
先ほどまで命を奪っていた少女が、褒められただけで頬を赤らめている。勇者たちには、それがいっそう恐ろしかった。彼女は悪意で殺したのではない。憎しみでもない。褒められたいから、命令を果たした。それだけに見えた。
だからこそ、邪悪だった。
残ったのは、アルトとエリシアだけ。
エリシアはガルドの亡骸の傍らで膝をつき、震える手で祈っていた。
「神よ……どうか……」
「まだ祈るの?」
蛇髪の妖女が背後から髪へ触れる。
「触らないで! あなたたちは悪魔です! 必ず裁かれます!」
「あなたの神様、さっきから何もしてくれないじゃない」
「裁きの光輪!」
白い輪が妖女を囲む。だが妖女は目を細めるだけだった。
「ペトリファイ・キス!」
光輪が石化し、がらんと乾いた音を立てて砕ける。それは、エリシアの信仰そのものが無造作に踏みにじられた音だった。
グラスを愉快そうに揺らしながらヴァンパイアの青年は前に立つ。
「聖女の血は、きっと澄んでいるんだろうね」
「近づくな!」
「怖い?」
「怖くありません!」
声が震えていた。
「嘘。怖いって顔に書いてあるわぁ」
鞭が杖を絡め取る。
「ヒュドラ・カルネヴァーレ!」
8つの蛇頭が周囲を取り囲む。祈りの姿勢すら封じるために。
「みんなを返して!」
「人間は面白いね。奪われる側になると、すぐに数で正義を語る」
「あなたたちは、命を何だと思って……!」
「資源」
黒翼の少女が答える。
「兵として使える者は兵。労働力として使える者は労働力。情報を持つ者は情報源。抵抗する者は障害。未来に災禍を生みうる血筋は、芽のうちに摘む」
「そんなものが、命だと言うのですか!」
「お前たちが何と呼ぼうと構わん。虫ケラが自分の命に名前を付けたところで、虫ケラであることは変わらない」
「悪魔……」
「悪魔ではない。大魔王様の臣下だ」
その声には、怒りではなく誇りがあった。エリシアには理解できない。理解できないまま、彼女の言葉は悲鳴に変わっていく。
「ガルド……助けて……」
彼女が最後に呼んだのは、神ではなかった。死んだ恋人の名だった。
「助けに来られるといいねぇ。レッド・レクイエム!」
床から漆黒がかった赤――巨大な血の杭がせり上がる。凝縮された血液が刃のように尖り、エリシアの胸の中心を正確に貫いた。
貫かれた瞬間、彼女の身体は宙に浮き上がり、両足が力なく垂れ下がった。
悲鳴を上げる間もなく、彼女の身体から力が抜けていく。杭に貫かれたまま、指先だけが虚空を掻き、届くはずのない何かを掴もうとしていた。
噴き出した血が、宙で止まった。
ヴァンパイアの青年が指先を軽く動かすと、飛び散った血の粒が、まるで意志を持つように一点へ集まっていく。糸のように伸び、絡み合い、やがて小さな一粒へと凝縮されていった。
彼はそれを指先で摘み上げ、口の中へ放り込む。飴玉のように舌の上でコロコロと転がしながら、うっとりと目を細めた。
「うん、澄んでる。とても澄んでいるよ……美味しいぃいいいいいいいいっ!!」
エリシアの唇からは、もう言葉は出なかった。開いたままの喉から、ひゅう、と空気の漏れる音だけが続き、やがてそれも途絶えた。石化しかけた指先が、動かなくなったガルドの亡骸へ向けて、最後まで伸ばされたままだった。
聖女エリシアは、胸を抉られたまま死んだ。
5人目。神に祈った聖女は、最後に恋人の名を呼んで消えた。
アルトは、そのすべてを見ていた。見せられていた。
「貴様らあああああッ!」
聖剣の光が膨れ上がる。
「《ジャッジメントスラッシュ》!」
床が沈み、黒い魔力が襲う。だが聖剣の光がそれを斬った。黒翼の少女の眉が、わずかに動く。
6腕の魔人が口笛を吹いた。
「お、やるじゃねぇか。虫のくせに」
「手を出すな」
黒翼の少女が言う。
「これは私への一撃だ。私が受ける」
周囲の魔族たちが、命令ではなく、それだけで動きを止めた。
聖剣が振り下ろされる。黒翼の少女は避けなかった。
「冥翼!」
聖剣と翼がぶつかる。金属音ではない。世界が軋むような音だった。
「ぐ……っ!」
それでも剣を離さない。
「届いた……!」
聖剣の光が、頬をわずかに掠める。白い肌に細い傷が走り、赤い血が一滴、床へ落ちた。
玉座の間の空気が変わる。配下たちの目が、一斉に勇者へ向いた。
だが黒翼の少女だけは、表情を変えない。指で頬の血を拭い、勇者を見た。
「褒めてやる。下等生物にしては、よく届いた」
「俺は……お前を倒す!」
「お前ごときでは役不足だ。お前は私に傷をつけたのではない。私が、それを許しただけだ」
アルトが再び聖剣を振るう。黒翼の少女が、少し目を細めた。退屈そうに。
「飽きた」
その言葉と同時に、玉座の間の中央に、黒い十字架が現れた。神聖な意匠ではない。表面には魔界文字が刻まれ、周囲には赤黒い雷が走り、床から無数の鎖が伸びる。
「ネザー・プリズン!」
鎖がアルトへ絡む。斬っても斬っても、鎖は尽きない。腕を縛り、足を縛り、十字架へ引きずり上げる。
「が、ああああああああッ!」
勇者アルトは、黒い十字架に縛りつけられた。
「聖人みてぇだな」魔人が笑う。
「勇者様の最期にはお似合いねぇ」妖女が笑う。
「持ち帰ろうぜ? 魔界のブラックマーケットなら勇者の剥製は高く売れるぜ?」ヴァンパイアの青年が笑う。
アルトは十字架の上から、黒翼の少女を睨んだ。
「俺たちは……負けない……いつか必ず、お前たちを滅ぼす者が現れる! 人間は何度でも立ち上がる!」
黒翼の少女は、そこで初めて笑った。
冷たい笑みではない。狂気に近い、侮蔑の笑いだった。
「くく……あはははははははは!」
玉座の間に、少女の笑い声が響く。
「何が可笑しい!」
「可笑しいに決まっているだろう。この程度で魔族を滅ぼす? 私ごときに成す術もない貴様らが、大魔王様に届くと本気で思っていたのか?」
赤い瞳が細くなる。
「貴様ら人間は、虫ケラのくせに夢だけは大きいな」
「俺は……必ず……」
「必ず、だと? あはは! よく言えたものだ! 仲間を守れず、国を守れず、民を守れず、聖剣すら手放した敗残者が、十字架に縛られながら未来を語るか!」
アルトの顔が歪む。怒りではない。屈辱だった。
「理解しろ、勇者。お前は英雄ではない。王国最後の希望でもない。お前は――処理対象だ」
足元から、黒い処刑杭が浮かび上がる。表面に赤い文字が脈打ち、先端が勇者の胸元へ向いた。
その巨大な切っ先を目の当たりにした瞬間、アルトの膝ががくがくと震え、生温かいものが太腿を伝って床へ滴り落ちた。十字架に磔にされたまま、彼は理性を失ったように喚き出す。
「や、やめ……やめてください……! 俺が悪かった……! すみません、すみませんでした……! 命だけは、命だけはお助けを……! なんでもします、なんでもしますから……!」
先ほどまで「必ず滅ぼす」と吠えていた男とは思えない、惨めな命乞いだった。
その醜態に、6腕の魔人が腹を抱えて笑い出す。
「ぶはっ、はっはっは! さっきまでの威勢はどこ行ったんだよ!」
蛇髪の妖女も、目に涙を浮かべて笑い転げた。
「あらあらぁ、漏らしちゃったの? 可愛いこと!」
グラスを揺らしながらヴァンパイアの青年は笑いを堪えきれず肩を揺らす。
「これはこれで、ご馳走の味が台無しだ。台無しだが……悪くない見世物だよ」
禍々しい弓を抱くダークエルフの少年は無言のまま、冷たい瞳で観察を続ける。兎耳の少女は両手で口を押さえ、肩を震わせている。
その哄笑の中、黒翼の少女だけは眉一つ動かさなかった。
「台無しだな」
ただ一言、切り捨てるように言う。
「答えはNOだ。私に傷をつけたことは褒めてやる。だが、大魔王様に届くと本気で思っていたことは重罪だ」
「終焉ノ杭ーー!」
黒い杭が、聖剣を構えたままのアルトの胸を貫いた。剣を握る手ごとその身体を押し通し、そのまま背後の十字架へと縫い付ける。
「が――あ、ああああああああッ!」
鎖がさらに締まり、玉座の間にアルトの絶叫が反響する。折れた聖剣の刀身が力なく傾き、赤黒い血だまりが十字架の根元へ広がっていく。
だが、それも長くは続かなかった。
やがて絶叫は掠れ、途切れ、聖剣の光が完全に消える。十字架も、鎖も、杭も、魔力の粒子となって溶けていった。支えを失った身体が、力なく崩れ落ちる。
床に残ったのは、動かなくなった、王国最後の勇者だったものだけだ。
6人目。王国最後の勇者は、大魔王に会うことすらできずに終わった。
玉座の間に、静寂が戻る。
勝利の静けさではない。処理が終わった後の、退屈な静けさだった。
黒翼の少女は、倒れた勇者たちを一瞥した。興味はない。敵ではなく、障害物だった。
6腕の魔人が首を鳴らす。
「今回も弱っちかったな。このまま他の国まで潰しに行くか?」
「気を緩めるな。有象無象ばかりとは限らん」
「へいへい。相変わらず真面目だなぁ、リゼル」
そこで、初めてその名が出た。
リゼル。
王国最後の勇者たちを処理した黒翼の少女。この王城を陥落させ、王都の逃げ道を潰し、王族の避難経路を把握し、勇者たちの到着を玉座の間で待ち構えていた、魔族軍の指揮官だった。
「真面目ではない。必要な警戒だ」
「そういうところが真面目だって言ってんだよ」
蛇髪の妖女が、退屈そうに鞭を撫でる。
「王国の勇者がこの程度なら、残りも大したことないのではなくて?」
「油断は無能のすることだ」
「あぁ〜ん!リゼルちゃんのイ・ケ・ズ♡」
グラスを揺らしたあと、内容液を口に含んで喉を通らせてからヴァンパイアの青年は呟く。
「それにしても、頬を傷つけられるとはねぇ。正直、少し驚いたよ」
「たまたまだ」
「そのたまたまでも、結果は結果です」
ダークエルフの少年が、床の聖剣へ視線を落とす。
「聖剣の残骸は回収します。人間側に再利用される可能性があります」
「任せる」
兎耳の少女は、リゼルの頬の傷を見つめたまま、耳をかすかに震わせていた。
「リゼル様。治療を」
「不要だ」
「ですが」
「不要と言った」
少女は唇を噛み、深く頭を下げる。
「……はい」
リゼルは玉座の間を見渡した。汚れた王旗、焼けた絨毯、砕けた柱、倒れた勇者、滅びかけの王国――
そのすべてが、彼女にとっては報告書の一項目にすぎない。
その視線が、玉座に磔にされたままの国王の亡骸で止まった。すでに崩れ始めたその身体から漂う異臭が、焼け焦げた絨毯の匂いに混じっている。槍の穂先に晒された王妃も、力を失って萎れた花のように傾いていた。
「期待はずれな国だった」
感想は、それだけだった。憐憫もなければ、嫌悪すらない。ただの評価だった。
「後始末は?」
6腕の魔人が、顎で王の亡骸を示す。
「選別も片付ける価値もない。軍を再編成して、まず王都を焼き払え」
「皆殺しで構わねぇな?」
「あぁ、構わない」
リゼルは即座に言った。
「女は子を産み、子は勇者になるかもしれない。僅かな可能性すら、大魔王様には不敬だ」
「素敵な理屈ねぇ。未来そのものを毒で枯らすみたい」
「王族、貴族、騎士階級は?」
「血筋ごと消せ。ただし財務記録、土地台帳、徴税記録、商会名簿は焼くな。支配には情報が要る」
「さすがリゼルちゃん。殺すときでも帳簿は大事ってわけだ」
「当然だ。無能な虐殺は資源を損なう」
リゼルの言葉に、6腕の魔人は頭をポリポリと掻きながら、困った表情を浮かべて呟いた。
「俺はそういう細けぇの苦手なんだよなぁ」
「適材適所だよ。だからこそお前には前線を任せられる」
「お、おぉ! さすがは俺様たちの大将だぜ! 話が早ぇ」
6腕の魔人は、豪快に「わーはっはっはっ!」と笑った。
ダークエルフの少年が静かに言う。
「逃亡路は3つ。北門地下水路、聖堂区の旧巡礼道、西方貴族街の隠し馬車道。すでに矢を置いていま
す」
「よろしい。誰も逃がすな」
兎耳の少女が一歩前に出た。
「リゼル様。王城内にまだ生存反応があります。地下礼拝堂に、小さいお肉と古いお肉が数十個。おそらく聖職者が隠しています」
エリシアの亡骸の傍らで、わずかな光が揺れていた。まるで死んだ聖女の祈りが、まだ何かを守ろうとしているかのように。
リゼルは、それを見た。
「屠殺しろ」
迷いは、なかった。
「はい」
魔族にとって、それは残酷ではない。当然の判断だった。敵の未来を残さない。主の支配に仇なす芽を摘む。大魔王様の御為。それが彼女たちの倫理だった。
だが人間がその場に残っていたなら、こう思っただろう。
冷酷。残忍。非道。怪物。狂っている、と。可憐な姿をした兎耳の少女でさえ、邪悪な悪魔にしか見えなかったはずだ。
リゼルは玉座へ近づいた。かつてエルディア王が座り、民に祝福され、神に誓い、王国を守ると宣言した場所。
彼女はそこに座らなかった。ただ、見下ろした。
「この椅子は使うに値しないな」
リゼルは、玉座に縫い付けられたままの王の骸へ、静かに指先を向けた。
「ヘル・ブレイズ」
その一言と共に、漆黒の炎が生まれた。光を発さず、闇そのものを煮詰めたような黒い炎が、玉座を、そこに磔にされた王の亡骸を、瞬く間に包み込んでいく。骨まで焼き尽くすはずのその炎に、肉の焼ける匂いすら残らなかった。灰すら黒く染まり、跡形もなく崩れ落ちていく。
僅か数呼吸の後には、玉座も、王だったものも、この世から消えていた。
「じゃあ、この城は?」
「灰すら残すな。何もかも、なかったことにする」
「ずいぶん几帳面ねぇ。証拠隠滅ってやつ?」
蛇髪の妖女が、興味深そうに鞭を弄ぶ。
「証拠ではない。未練だ。人間はいつも、燃え残りに希望を見出す。燃え残りごと絶てば、希望も残らない」
「なるほどねぇ。効率的なこと」
リゼルは黒い軍旗を見上げた。その目に、初めてわずかな熱が宿る。
「偉大なる大魔王様の御世に、不要な国名を残す価値はない」
部下たちが、一斉に頭を垂れた。
6腕の魔人も、蛇髪の妖女も、ダークエルフの弓使いの少年も、ヴァンパイアの青年も、兎耳の少女も。全員が、目の前の幼い少女にではなく、その少女が仰ぐ絶対の主へ、敬意を示していた。
「大魔王様の御為に」
リゼルが言い、5人が続く。
「大魔王様の御為に」
その夜、エルディア王国は世界の地図から消えた。
誰も王を救えなかった。誰も民を救えなかった。勇者も、聖女も、盾も、弓も、魔術も、斥候も――何一つ届かなかった。
人間たちは、後にその夜を幾つもの名で呼んだ。
王都焼失の夜。白亜聖都陥落。黒翼の災厄。エルディアの終焉。王国最後の勇者たちの敗北。
だが、どの名も正しくはなかった。
あの夜に起きたことは、もっと単純だった。
人間の王国が一つ、魔族に滅ぼされた。希望と呼ばれた勇者たちは敗れた。祈りは砕かれ、歴史は焼かれ、未来は踏み潰された。
そして人間界は、まだ知らない。
あの夜、王国を滅ぼした黒翼の少女が、いずれどれほど深く、人間界の歴史へ名を刻むことになるのかを。
勇者とは、希望の名ではない。
魔族にとっては、ただ早めに処理すべき害虫の名でしかないのだと。
その夜、人間界はまだ知らなかった。
自分たちが本当に恐れるべきものは、大魔王ではない。
大魔王のためならば世界の片側すら平然と軽んじる、黒翼の臣下なのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
プロローグは本作の世界観を示すため、あえて救いのない内容となっています。
次回からは物語の本編へと進みますので、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




