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Ver.3 Arrow Chapter 1-4 静かな朝、静かな陰謀

今回は、少し静かな朝から始まります。


いつもの通学路。

いつもの友人たち。

いつもの学院。


けれど、その何気ない日常のすぐ傍では、

クラリスの知らないところで、いくつもの思惑が静かに動き始めていました。


Ver.3 Arrow Chapter 1-4 静かな朝、静かな陰謀


どうぞお楽しみください。

 朝の光が、まだ低い角度から石畳を照らしていた。


 石造りの古い建物の隙間を縫うように、市電が走っている。架線から電力を受けた車体が、朝靄の残る大通りを滑るように進んでいく。その頭上を、一隻の小型飛空艇がゆっくりと横切った。低く響く動力音が、まだ眠たげな街並みに反響する。


 グレイス家の玄関を出た瞬間から、クラリスの朝は静かに賑やかだった。この通りを歩くだけで、何人もの顔見知りに声をかけられる。それが当たり前になりすぎて、もはや意識することすらなかった。


「クラリスちゃん、おはよう!」


 隣家のバルコニーから、洗濯物を干していた主婦が声をかけてくる。朝の光を浴びて白く輝くシーツを、片手で器用にさばきながらだった。ミセス・ホーガンは、この通り随一のお喋り好きとして知られている。彼女に捕まれば、五分は立ち話を覚悟しなければならない。


「おはようございます、ミセス・ホーガン!」


 クラリスは足を止めず、それでもきちんと振り返って挨拶を返す。この街では、それが礼儀だった。


「お父さん、無事に帰ってきたんだって? 昨日、井戸端で聞いたわよ。もう街中の噂よ、あなた知ってた?」


 ミセス・ホーガンの声には、隠しきれない親しみと、それ以上に噂話そのものへの純粋な喜びがあった。この通り沿いの誰にとっても、アーネストの無事な帰還は、他人事ではないらしい。井戸端という井戸端を、既に一巡りした情報なのだろう。


「うん、昨日の朝、帰ってきた」


「よかったわねぇ。今度またうちの人が瓶詰め持っていくから。今年のは去年より甘いのよ、自信作なんだから」


 瓶詰めというのは、ミセス・ホーガンの夫、トーマス・ホーガンが趣味で作っている果実のジャムのことだった。毎年、季節の変わり目になると、決まってグレイス家の玄関先に置かれている。もはや季節の便りのようなものだった。


「ありがとう!」


 クラリスは手を振って、通りを進んでいく。自動車の警笛が遠くで鳴り、荷馬車の車輪が石畳を叩く音がそれに混じった。古い石造建築の合間に、新しい鉄骨と硝子の商店が挟まる。剣を提げた騎士と、自動小銃を担いだ兵士が同じ歩道ですれ違っていく。この街では、そのどちらも見慣れた光景だった。


 少し進むと、朝刊を配り終えたばかりの少年とすれ違った。肩から下げた鞄はもう軽そうで、配達の仕事もそろそろ終わりに近いのだろう。トビーは、ミセス・ホーガンとは対照的に、必要最低限の言葉しか使わない。それでいて、その短さの中に妙な自信が滲んでいる少年だった。


「クラリスちゃんだ。おはよう」


「おはよう、トビー。今日もう配り終わったの?」


「あと二軒! 早起きは得意なんだ」


 トビーは自慢げに胸を張った。まだ十歳になったばかりだというのに、既に一人前の仕事人のような顔つきをしている。稼いだ小遣いで何を買うか、いつも頭の中で計算しているような目つきだった。


「すごいね」


「すごいだろ!」


 トビーは得意げに胸を張り、自転車のベルを鳴らしながら走り去っていった。ベルの音が、朝の静かな通りに小さく響いて消える。振り返りもしない、あの潔さも、この少年らしかった。


 街角の花屋では、店主の老婦人――マーサ・ベルクが店先の水やりをしていた。じょうろから零れる水が、並べられた鉢の間を柔らかく濡らしていく。マーサは、ミセス・ホーガンともトビーとも違う。声を張り上げることはなく、いつも少し謎めいた微笑みを浮かべながら、思わせぶりな一言を残していくタイプだった。


「あら、クラリスちゃん。おはよう」


「おはようございます」


 クラリスは、店先に並ぶ花々を横目に見ながら足を止めた。この店の前を通るたび、何かしら声をかけられる。それも、この道のりの楽しみの一つだった。


「今日も学院? 偉いわねぇ、こんな時間から」


「みんな行ってるよ、これくらい」


「あなたのお父さんが小さい頃なんて、もっと寝坊助だったのよ」


 マーサは、思い出し笑いを堪えるような顔をしていた。この街で長く商売を続けてきた者だけが知る、勇者の少年時代の記憶だった。ミセス・ホーガンなら洗いざらい話してしまうところを、マーサは決して全部を語らない。


「え、そうなの?」


「有名な話よ。今度お父さんに聞いてごらんなさい。きっと嫌そうな顔するから、それも楽しみになさいな」


 マーサはそう言って、悪戯っぽく笑った。クラリスは、想像もつかない父の姿を頭の中で思い描きながら、その場を後にした。


「クラリスー!」


 角を曲がったところで、聞き慣れた声が飛んでくる。フィオナだった。通学鞄を肩にかけ、いつもの場所で待っていてくれる。朝日を背にしたその立ち姿を見るだけで、今日も一日が始まるのだと実感できた。


「待たせた?」


「ちょっとだけ」


「ごめんごめん、ミセス・ホーガンに捕まってて」


「あー、あの人長いもんね」


 フィオナは苦笑いを浮かべた。この通り沿いの誰もが話し好きなことを、二人とも、もう何年も前から知っている。


 二人は並んで歩き出す。八百屋の店先では、店主のオスカー・ベネットが野菜の山を積み直していた。木箱に並べられた野菜が、朝の光を受けて艶やかに輝いている。オスカーは、無口で不愛想に見えて、実のところ誰よりも面倒見がいいことを、街の誰もが知っていた。


「おはよう、クラリスちゃん。フィオナちゃんも」


「おはようございます!」


 二人揃って頭を下げる。それだけで、オスカーの顔がふっと緩んだ。


「今日も元気だねぇ。二人とも、林檎持ってきな」


「いいの?」


「いいよ、勇者様の娘さんにはいつもお世話になってるんだから。それに、傷物だから捨てるところだったんだ、遠慮すんな」


 言葉こそぶっきらぼうだったが、オスカーが差し出した林檎に、傷らしい傷は見当たらなかった。


「ありがとうございます!」


 クラリスは林檎を鞄へしまいながら、また一つ、この街への感謝を積み重ねていくような気がした。


 道の途中、電器店のショーウィンドウには、冷蔵庫やラジオ、テレビが並んでいる。まだ開店前の店内で、誰かが試しに点けたままにしているテレビの画面が、無音のまま朝の光を反射していた。クラリスはいつも通り、それを気に留めもせず通り過ぎる。


 少し先の角では、顔なじみの郵便配達人――ニール・カーターが自転車を停めて配達物を振り分けている。革の鞄からはみ出した手紙の束が、朝の風に僅かに揺れていた。ニールは、いつも早口で、要件を一気に詰め込んで喋る癖があった。


「お、学院か。行ってらっしゃい」


「行ってきまーす」


 クラリスは歩き出しかけて、ふと呼び止められた。ニールの声が、少しだけ照れくさそうな調子に変わる。


「そうだ、クラリスちゃん。お父さんに、いつもありがとうって伝えといてくれ。うちの弟のサム、魔物討伐で世話になったらしくてな。命の恩人だって、本人が言ってた」


 ニールの顔には、照れくさそうな、それでいて深い感謝の色があった。


「伝えとくね!」


 この街の人々にとって、クラリスは「あの勇者様の娘」であると同時に、単に「クラリスちゃん」だった。両方の呼び名が、当たり前のように同居していた。誰もが少しずつ、彼女の父親に何かしらの恩を感じている。それが、この街を歩くだけで肌に伝わってくる空気だった。だが、その恩の示し方は、ミセス・ホーガンの噂話であったり、マーサの思わせぶりな微笑みであったり、オスカーの不器用な優しさであったりと、人によってまるで違う形をしていた。


「ねえ、昨日の宿題やった?」


 フィオナが、もらった林檎を鞄にしまいながら尋ねる。鞄の口を閉めるのに苦労している様子が、どこか可笑しかった。


「やったよ、一応」


「一応?」


「答え合ってるかは知らない」


 クラリスは肩を竦めた。宿題の中身は既に頭から半分抜け落ちている。


「私も全然自信ない。三問目、絶対おかしいと思うんだよね」


「あー、あの法気保存の計算?」


「そうそれ! 公式間違えてる気しかしない」


 フィオナは眉を寄せ、本気で悩んでいるような顔をした。


「先生に聞く?」


「聞いたらまた長い説明されるじゃん」


 フィオナは、うんざりした顔で手を振った。過去に一度、質問しただけで延々と講釈を受けた記憶があるのだろう。


「それはそう」


 二人は顔を見合わせて笑った。この手のやり取りは、もう何度目か分からない。


「あ、そうだ。今度の休み、街の外れに新しくできたお店、行かない? お菓子屋さん」


「行く行く! エマも誘おうよ」


「もう誘ってある。土曜日、噴水前集合ね」


 フィオナは、既に予定を組み終えていたらしい。手際の良さに、クラリスは思わず笑ってしまった。


「了解」


 二人の足取りは、何の憂いもなかった。朝の光の中を、他愛のない話をしながら並んで歩く。それだけで、今日という一日は十分に満たされているように思えた。


 王立第一学院。石造りの正門をくぐると、白い校舎が朝日を受けて輝いていた。芝生の中庭では、既に登校した生徒たちが三々五々に集まり、他愛のない話に花を咲かせている。エマが噴水の縁に座って手を振っていた。水しぶきが朝日を受けて、小さな虹を作っている。


「おはよー、二人とも」


 三人は、そのまま連れ立って校舎へ入っていく。廊下に響く上履きの音。開け放たれた窓から入る風。掲示板を確認する当番の生徒。何もかもが、いつも通りだった。この当たり前の光景こそが、クラリスにとっての日常そのものだった。


     ◇◇◇


 一時限目は、法術実技だった。


 王立第一学院の訓練場は、校舎の裏手に広がる広々とした一角にある。芝生の一部が硬く踏み固められ、的や標的用の人形が等間隔に並べられていた。クラリスたちは既に更衣を済ませ、動きやすい実技用の服に着替えている。


「今日は基礎の法気循環から。列に並んで」


 実技担当の教師、コリン・ウェイドの号令が、朝の空気に響いた。クラリスは、フィオナやエマと共に列の中程へ並ぶ。


 訓練場は校庭の一部であり、周囲を遮るものは低い生垣だけだった。正門から続く車道も、その生垣越しに見通せる。


 クラリスは、両手を軽く広げ、教えられた通りに法気を巡らせる型を取っていた。掌の周りに、薄い光の膜が生まれる。まだ拙く、安定しない光だった。


「クラリス、肩の力を抜いて」


「あ、はい」


 コリンの指摘に、クラリスは慌てて姿勢を直す。周囲の生徒たちも、それぞれの型に集中していた。


 その時。


 正門の向こうに、見慣れない車列が滑り込んできた。黒く磨き上げられた大型車が一台。護衛らしい車両が前後に二台。それだけならば、この学院にも時折現れる光景だった。名家の子女が通うこの学院には、貴族の送迎など珍しくもない。訓練場で型を取っていた生徒の何人かも、一瞬だけ視線をやって、すぐに集中を戻していた。


 だが、様子が違った。校長のハロルド・クレインと、女性教頭のセシリア・モーガンが、玄関先から小走りに駆け出してくる。二人とも、普段の落ち着いた物腰などかなぐり捨てたような早足だった。セシリアの靴が石畳に滑り、危うく転びそうになった。その様子を、クラリスは訓練場の端から、はっきりと見つめていた。


 車が停まる。後部座席のドアが、僅かに開いた。だが、誰も降りてはこない。開いた隙間の奥に、微かな人影が見えるだけだった。


 だが、次の瞬間、クラリスは自分の目を疑った。あの、いつも威厳たっぷりに朝礼で長話をする校長先生――ハロルドが、スーツ姿のまま、地面へ跪いた。その隣で、セシリアも同じように、スカートのまま膝を折る。丁寧に手入れされた芝生の際、石畳の継ぎ目の上に、二人分の膝が迷いなく沈んでいく。


 石畳の上に、二つの人影が深く頭を垂れている。この学院において校長と教頭は、生徒からも保護者からも一目置かれる絶対的な存在だった。その二人が、これほどまでに従順な姿を晒す相手など、そうそういない。まるで、その場が突然、別の場所へすり替わったかのような光景だった。


 車の窓は開いていた。だが、クラリスの位置からは、その中に誰がいるのかまでは見えない。カーテンの陰から漏れる、ほんの僅かな気配だけが感じ取れた。


(……何、あれ)


 説明のつかない感覚が、胸の奥をすっと撫でた。嫌な予感、というほど明確なものではない。もっと曖昧な、何か大きなものの気配を遠くに感じた時の、あの落ち着かなさに似ていた。訓練場のざわめきも、コリンの号令も、その一瞬だけ、やけに遠く感じられた。


「クラリス」


「へ?」


「クラリス・グレイス」


 コリンの声で、我に返る。周囲の視線が、既に自分へ集まっていることに気づいた。


「はい!」


 勢いよく振り向いたせいで、掌に広げていた光の膜が、ふっと霧散した。周囲の生徒たちの視線が集まる。誰かがくすくすと笑う声も聞こえた。


「……何でもありません、今のは事故です」


 クラリスは、頬が赤くなるのを感じながら言い訳を絞り出した。


「よそ見をしていると型が乱れるぞ。もう一度、最初から」


「え、えーと……」


 クラリスは、慌てて両手を構え直した。車列の光景は、コリンの再度の号令によって、意識の外へ押し出されていく。それでも、胸の奥に残った小さな違和感だけは、そう簡単には消えなかった。もっとも、それが誰の訪問だったのかを、クラリスが知ることは、この日一日、決してなかった。


     ◇◇◇


「窓を閉めさせろ」


 短い一言だった。エルディオ・レイン侯爵は、後部座席の窓越しに、訓練場の方角へ視線をやる。生垣の向こう、実技の列に並ぶ生徒たちの中に、こちらを見つめる小さな人影があった。


 薄茶色の髪。細身の体つき。距離があり、細部までは見て取れない。だが、その背格好と佇まいだけで、侯爵には十分だった。健康診断の折に撮られた、ごく普通の記録写真を、何度も眺めてきた記憶がある。実物を目にするのは今日が初めてだが、遠目であっても見誤ることはない。


 その視線には、単なる確認以上のものが滲んでいた。長く生きた者だけが持つ、値踏みするような眼差しだった。侯爵は、資料の上の数字と、今目の前にいる少女とを、静かに重ね合わせていた。


「閣下」


 護衛のロイ・ハーディが、慌てて窓を上げる。硝子が閉まる僅かな間に、ハロルドとセシリアが、まだ跪いたまま身を固くしているのが見えた。石畳の冷たさが、二人の膝から容赦なく体温を奪っているに違いない。


「もういい、立たせろ」


 その一言で、二人はようやく解放された。硝子越しに見えるハロルドの顔は、安堵と緊張とが入り混じった、なんとも言えない表情をしていた。この国において、ハイエルフの大貴族――とりわけレイン侯爵ほどの家格を相手にすれば、粗相一つが後々どう響くか分からない。跪くことに、二人が一瞬の躊躇もしなかったのは、そのためだった。


 車が正門を離れる。向かいの席には、グレアム・バルトが座っていた。軍服の襟を正しながら、窓の外の校舎を一瞥する。その目には、僅かな呆れの色があった。


「本当にここへ寄る必要がありましたか」


「本人を一度、この目で見ておきたかっただけだよ」


 侯爵は、悪びれもせず答えた。窓の外を流れる景色を、興味深そうに眺めながら。


「校長たちが跪くとは思わなかったんですか」


「思ったよ。だから、面白かった」


 グレアムは長く息を吐いた。この男の「面白い」は、大抵ろくなものではない。何十年もの付き合いの中で、嫌というほど思い知らされてきたことだった。


「それで、話の続きだ」


 侯爵は、机代わりの膝の上に手を組んだ。指先が、上品な仕草で組み合わされる。


「勇者の方は、魔界からいつ戻る」


「もう戻っている。昨日確認済みです」


「早いね」


 侯爵の眉が、僅かに上がった。


「魔界から戻った後、レザード捕縛の報を受け、こちらから王宮へ呼び出しました」


「レザードとかいう、あの王子か」


「はい。レザード・モル・グリムロア」


 グレアムが頷く。


「魔界東方。ダークエルフの独立国家――グリムロア。その末王子です」


「グリムロア」


 侯爵は、その国名を口の中で転がすように繰り返した。


「十万年前から、大魔王府の直接統治を受けていない国だったね」


「はい」


「法も」


「独自です」


「税も」


「王家が定めています」


「軍も?」


「王家独自の軍です。七魔公の管轄にも入りません」


 矢継ぎ早の問答が続いた。侯爵は一つ聞くたびに、頭の中の地図へその答えを書き加えていくような素振りだった。やがて、細かな確認が一通り終わると、侯爵は小さく笑った。


「魔界にありながら、大魔王府の直接統治には属さない。随分と面倒な国だ」


「あなたがそれを言いますか」


「私は面倒ではないよ」


「その評価をする権利は、あなた以外の人間にあると思いますがね」


 侯爵は、聞かなかったことにしたらしい。窓の外へ視線を流したまま、話題を先へ進める。


「父親は」


 グレアムの声が、ほんの僅かに低くなる。


「大王ラシュカーン・モル・グリムロア」


「まだ存命だったか」


「ダークエルフですからね」


「人間基準で考えれば、十分すぎるほど長生きだ」


「あなたが言っても説得力がありません」


 グレアムが僅かに肩を竦める。侯爵は気に留める様子もなかった。


「どんな男だ」


「人間界側の記録では、徹底して国家を優先する人物です」


「家族より?」


「その傾向が強い、という程度です。断定はできません」


「息子より?」


「同様です。少なくとも、末子一人のために易々と軍を動かす人物ではないだろう、というのが現時点での見立てです」


 侯爵の目に、少しだけ興味が宿った。


「つまり」


 細い指が、膝を軽く叩く。


「末の息子一人のために、国を動かすような父親ではない、と」


「そう推定しているだけです。実際にどう判断するかは、大王本人しか分からない」


「冷たい父親だね」


「国家元首として見れば、合理的とも言えます。とはいえ、それが正しい人物評とは限りません」


「君はそういう言い方をするから嫌われるんだよ、グレアム」


「あなたにだけは言われたくありません」


 侯爵は、小さく笑った。


「しかし、面白い」


「何がです」


「その大王が、本当に息子を捨てられるのか」


 グレアムは、すぐには答えなかった。人間界が持つグリムロアの情報は、決して多くない。魔界そのものが、詳細な情報を得ることの難しい土地である。ましてやグリムロアは、大魔王府の直接統治すら受けていない閉鎖的な独立国家。軍の規模、王家内部の力関係、大王ラシュカーンが末子レザードを実際にどう評価しているのか――人間界側が掴んでいるものの大半は、古い記録と、断片的な諜報情報に過ぎなかった。断定できることなど、実のところ、ほとんど何もない。


「捕縛の一報を聞いて、勇者はすぐに軍議室へ来ました」


「レギア騎士団長と一緒に尋問へ?」


「はい。軍議の後、二人で牢へ向かいました。今朝、私もその結果報告を受けています」


 グレアムは、懐から一枚の紙を取り出そうとして、思い直したように手を止めた。この場では必要ないと判断したのだろう。


「どんな少年だった」


 侯爵の興味は、いつも唐突だった。何百年も生きてきたはずなのに、その好奇心だけは少しも摩耗していないらしい。


「冷静な奴です。年齢の割には」


「へえ」


 侯爵は、興味深そうに相槌を打った。


「民の数を正確に覚えていました。避難できた数、できなかった数。全部」


「敵兵の数は?」


「関心がないようでした」


 侯爵は、僅かに眉を上げた。長い指が、膝の上で軽く弾む。


「王族らしくないね」


「だからこそ、餌としては使いやすい」


「グレアムらしい言い方だ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めていない」


 侯爵は、口の端だけで笑った。車の振動が、二人の間の沈黙を僅かに埋めていく。


「それで、魔界側は動くと?」


「読めません」


 グレアムは腕を組んだ。


「まず考えられるのは、グリムロア王家です」


「大王ラシュカーンが?」


「末子とはいえ、自らの血族が人間界に捕らえられた。その事実を、どう判断するか」


「君は、動かないと思っている?」


「分かりません」


「さっきは国家を優先する男だと言ったじゃないか」


「国家を優先することと、王子を人間界へ捕虜として残すことが、同じ判断になるとは限りません」


 グレアムは淡々と続けた。


「息子を救うためではなく、王家の威信を守るために軍を動かす可能性もある。逆に、レザード一人を切り捨てる可能性もあります。現時点では、どちらとも判断できません」


「なるほど」


 侯爵は楽しそうに笑う。


「父親として何をするかではなく、大王として何をするか、か」


「そういうことです」


「他には?」


「大魔王府」


 グレアムの表情が、僅かに硬くなった。


「グリムロアが独立国家とはいえ、存在している場所そのものは魔界です。人間界による王族捕縛を、大魔王府がどこまで黙認するかは分からない」


「そして」


「七魔公」


 その名称が出た瞬間、車内の空気が、ほんの少しだけ変わった。


「グリムロア王家、大魔王府、七魔公。どの筋が動くにせよ、こちらから魔界へ追っていくことはできません。《ワールドホール》の再出現を待つしかない」


「気長な話だ」


「あなたにとってはそうでしょうね」


 グレアムの声に、僅かな皮肉が滲んだ。侯爵は気にした様子もない。窓の外の街並みを、変わらぬ穏やかさで眺めていた。


「七魔公が出張ってきたら、どうする」


 侯爵の声が、僅かに低くなった。それまでの軽さが、一段だけ深みを帯びる。


「厄介です」


「厄介、で済むと思うかい」


「思いません」


 グレアムは、率直に認めた。


「あくまで我々の推定に過ぎませんが、勇者一人で相手取れる規模ではない可能性が高い。七魔公のどれか一柱でも本腰を入れれば、王国軍の戦力想定は根本から書き直しになります」


「その通りだ」


 侯爵の声から、遂に軽さが完全に消えた。あくまで柔らかな口調のまま、その内容だけが冷え冷えとした重みを帯びていく。


「では、仮定を積み上げてみようか。魔公の一柱が本気で軍を動かした場合、我が国の防衛線はどこまで持つ」


「これはあくまで軍の仮想演習上の推定値ですが、西部戦線に限定すれば、二週間というのが現在の想定です」


「短いね」


「七魔公の中には、空戦と高速展開を得意とする軍勢も存在するとの報告があります。空路からの奇襲を想定すれば、もっと短い可能性もある。ただし、これも現時点で得られている情報を前提とした推定に過ぎません」


「レギア騎士団の増強は」


「間に合いません。育成期間だけで最低五年はかかる。高い法術適性を持つ者の絶対数自体が足りていない」


「だから、勇者を増やす」


「人工的に、ですか」


「自然発生を待っていては、間に合わないかもしれない。《ワールドホール》が次にいつ、どこへ開くかは、誰にも分からない。魔界の連中が本気を出すまでの猶予は、我々が思っているよりずっと短いかもしれない」


 侯爵は、指先で膝の上を軽く叩いた。まるで、見えない時計の針を刻むような仕草だった。


「あくまで机上の仮定に過ぎないが」


 侯爵は、前置きしてから続けた。


「勇者一人が七魔公の一柱と拮抗する。もう一人が、混乱に乗じて後方を突く敵勢力を収拾する。三人目が、後続の防衛線を維持する。最低でもそれだけの頭数がなければ、この戦争は――始まる前から終わっているかもしれない」


「あくまで、あなたの想定です」


「否定はしないんだね」


「否定できるだけの根拠を、俺は持っていません」


 グレアムは、苦い顔で認めた。


「魔界の戦力を、王国は正確には把握していません」


「そこだよ」


 侯爵は、細い指を一本立てた。


「我々が把握しているのは、あくまで断片だ。ヴァルクロア大侯爵――あの忌々しい男が率いる大侯爵家の軍勢だけを見ても、我が国の把握している数字と、実際の運用能力の間には、埋めがたい隔たりがあるだろうね。これも推測に過ぎないが」


 グレアムの眉が、僅かに動いた。


「あの男の名を、あなたの口から聞くとは思いませんでした」


「不愉快な名前ほど、忘れないようにしているんだよ」


 侯爵は、口元だけで笑った。


「魔界の戦力は、我々の想定の何倍あるか分からない。だからこそ、勇者は複数必要になる、というのが私の考えだ」


「それで、《PROJECT:ASCENSION》ですか」


「正式名称はそれだよ。書類上はね」


 侯爵は、軽く肩を竦めた。


「だが、私はもっと相応しい呼び方をしている」


 侯爵の声に、初めて熱に似たものが宿った。


「《救世計画》――《メサイア》。書類上の名は《ASCENSION》のままでいい。だが、計画に関わる者たちの中では、こう呼ばせている」


「名前をつけて満足するのは、あなたの悪い癖です」


「名は力を持つんだよ、グレアム。呼び名一つで、計画に携わる者たちの士気も、覚悟の深さも変わる。《救世》という言葉を冠すれば、これが本当に人類を救うための犠牲なのだと、誰もが迷わず信じられる」


 グレアムは、それ以上何も言わなかった。呼び名の大仰さと、その裏にある冷徹な計算に、僅かな嫌悪が滲んでいるようだった。


「それで、人工勇者計画の方だが」


「まだ話しますか」


「話すよ」


 侯爵は、窓の外へ視線を戻した。街並みが、静かに後ろへ流れていく。行き交う人々の営みが、まるで別世界の出来事のように遠く見えた。


「アーネスト・グレイス。今の勇者は、優秀だ。だが一人しかいない」


「だから研究しているんでしょう」


「一人で戦争を背負わせるのは、非効率だ」


「同意します」


「なら、増やすしかない」


「人工的にか、自然発生を待つかの違いです」


 侯爵は、微かに笑った。その笑みには、どこか捕食者めいた響きがあった。


「両方やればいい」


 グレアムは、それ以上何も言わなかった。窓の外を睨むように見つめたまま、腕を組む。その沈黙が、何よりも雄弁な返答だった。


「法脈拡張理論の方は、どこまで進んでいる」


 侯爵が続ける。話の軸が、政治から再び研究へ戻っていく。


「研究院の見立てでは、法脈の人工拡張そのものは、既存の術式でも不可能ではありません。問題は、その拡張した法脈に聖法気を定着させる段階です」


「拒絶反応か」


「そうです。生体が、外部から注入された聖法気を『異物』と認識する。免疫の暴走に近い現象だと、主任研究官のサイラス・モートンは言っていました」


「反応の型は」


「三種類確認されています。急性型は、投与から数分で心停止。遅延型は、数日かけて法脈そのものが壊死する。そして――慢性型」


「一番厄介そうな響きだ」


「聖法気が定着しかけては拒絶され、を繰り返す。被験者は、その度に激痛を伴う。最終的に、精神が耐えられなくなります」


 グレアムの声には、この報告を口にすること自体への嫌悪が滲んでいた。


「なら、拒絶反応そのものを起こさせない体質を、先に選別すればいい」


 侯爵は、事も無げに言ってのけた。


「それが、クラリスというわけですか」


「彼女に限らない」


 侯爵は、窓の外の景色から目を離さないまま答えた。


「勇者の血縁。あるいは、稀に発現する自然発生型の素体。候補は他にもいる。だが、これほど条件の揃った例は、そうそう出てこない」


「聖環反応まで確認されている、という意味で?」


「学院の定期健康診断と法術適性検査だけで、そこまで拾える。大した仕組みだよ、あれは」


「それもある。だが、もう一つ」


 侯爵は、そこで初めて、僅かに身を乗り出した。


「彼女の場合、学院の定期健康診断、法術適性検査、聖環反応、法脈構造――それらのデータを重ねた研究院の見立てでは、聖法気への拒絶反応を起こしにくい可能性が高いとのことだ。実際に投与してみなければ確かなことは言えないが、少なくとも法脈の柔軟性は並外れているらしい。生まれつき、そういう体質だった――それだけの話だ」


「誰かが仕組んだような言い方をするから、気味が悪いんですよ」


「誰も仕組んじゃいない。ただの偶然だ。もっとも、偶然を利用するのが、我々の仕事だがね」


「候補、ですか」


 グレアムの声に、初めて明確な不快感が滲んだ。


「言葉を選べ、閣下」


 グレアムの声が、初めて明確な怒気を帯びた。長年の付き合いの中でも、滅多に見せない類の硬さだった。


「選んでいるよ。とても丁寧にね」


 侯爵は悪びれる様子もなかった。むしろ、グレアムの反応そのものを興味深く観察しているような目つきだった。


「それで、犠牲の見積もりは」


 侯爵は、話をあっさりと本題へ引き戻した。感情の応酬など、最初から意に介していないかのように。


「……まだ出していません」


 グレアムは、僅かに視線を逸らしながら答えた。答えたくない、という以上に、答えを見たくないという色が滲んでいた。


「出せ」


 短い、有無を言わせぬ一言だった。窓の外を流れる景色が、その沈黙をいっそう重くしていく。


「あなたが十一人と聞いて『方法が間違ってる』と言ったのを、俺は覚えていますよ」


 グレアムは、皮肉を込めて切り返した。侯爵の言葉尻を、忘れていないぞという意思表示だった。


「間違っていたのは事実だからだ」


 侯爵の声は、あくまで穏やかだった。その平静さこそが、この男の恐ろしさだった。


「正しい方法なら、犠牲は必要ない。だが、まだ正しい方法へ辿り着いていない以上、犠牲は前提として組み込むしかない」


 窓の外を、街路樹の影が幾つも通り過ぎていった。車内には、二人分の呼吸だけが、やけにはっきりと聞こえていた。


「何人までなら、あなたにとって『許容範囲』なんですか」


 グレアムの声には、既に答えを予感しているような諦めが混じっていた。


「面白い質問だね」


 侯爵は、僅かに目を細めた。楽しんでいるというより、真剣にその問いへ向き合うような表情だった。


「百人死のうが、二百人死のうが、最終的に一人でも完成品が生まれれば、その計画は成功だ。魔界の脅威に対抗できる勇者を、意図的に量産できる。その一点さえ達成できれば、途中経過の数字など、後世の誰も気にしない。人類全体が生き延びるためなら、それは安すぎる代償だとすら思っている」


 その声には、悪意も、愉悦も滲んでいなかった。むしろ、確信に満ちた静けさがあった。この男は、自分が正しいことをしていると、心の底から信じている。だからこそ、グレアムにとっては、どんな悪意よりも恐ろしかった。


 グレアムの拳が、膝の上で固く握られる。爪が、掌へ食い込むほどの強さだった。


「あなたにとっては、そうでしょうね」


 グレアムの声は、低く、抑えられていた。感情を抑え込むことにかけては、長年の軍人経験がものを言っていた。


「俺は違う。死んだ十一人には、それぞれ家族がいた。親がいた。あなたにとっては統計の端数でも、俺にとっては違う」


 その一言一言に、確かな重みがあった。それでいて、グレアムは同じ口で、レザードを餌に使う作戦には反対していない。戦場へ既に立った者同士が命を賭けるのと、まだ何も知らない子供を実験台へ乗せるのとでは、この男の中で話が違った。その一線だけは、決して譲らなかった。


「だから君は軍人止まりなんだよ」


 侯爵は、あっさりとそう返した。まるで、グレアムの怒りそのものが、ただの興味深い観察対象であるかのように。


「褒め言葉として受け取っておきます」


 グレアムは、皮肉だけを込めて言い返した。表情は、少しも和らいでいない。


「褒めていない」


 今度は、侯爵がグレアムの台詞をそのまま返した。二人の間に、皮肉めいた沈黙が落ちる。車輪の音だけが、しばらくその沈黙を埋めていった。


「アーネストは、娘に何も気づいていないんだろう?」


 侯爵が、ふと思い出したように話題を変える。声の軽さは、それまでの重い応酬など無かったかのようだった。


「気づいていたら、あなたはもう生きていませんよ」


 グレアムは、即座にそう答えた。冗談めかした響きは、そこには一切なかった。


「怖いことを言う」


 侯爵は、僅かに眉を上げた。愉快そうな、それでいてどこか値踏みするような表情だった。


「事実です」


 グレアムの声には、一切の誇張がなかった。それが、この会話の中でただ一つ、心底本気だと分かる一言だった。車は、王宮へ向かう大通りを静かに走り続けていた。窓の外を、何も知らない街の日常が、変わらぬ速度で通り過ぎていく。


     ◇◇◇


 その夜。グレイス家の食卓には、いつも通りの湯気が立っていた。焼いた白身魚、温野菜、パンとスープ。ラジオが、小さな音で夕方のニュースを読み上げている。台所の窓からは、夕暮れの残照が僅かに差し込んでいた。リディアの淹れた紅茶の匂いが、部屋のどこかから漂ってくる。


「今日は魚にしてみたの。市場で新鮮なのが安かったから」


「美味そうだ」


 アーネストは、早速フォークを手に取った。長旅から戻ったばかりの身には、家庭の食事の匂いだけで安堵が広がるようだった。


「実技試験、いつだっけ」


 クラリスが、皿の端に残った野菜を突きながら尋ねる。


「来週よ。ちゃんと復習してる?」


「してるしてる」


 クラリスは、目を逸らしながら答えた。


「怪しいわね」


 リディアが、目を細めて娘を見る。母親らしい、見透かすような視線だった。


「そういえば、お父さん」


 クラリスが、フォークを止めて口を開いた。皿の上の白身魚を突きながら、思い出したように。


「なんだ?」


 アーネストが顔を上げる。パンを千切る手を、そのまま止めた。


「今日、学院にすごい車が来たの」


「車?」


 アーネストの声に、ほんの僅かな緊張が滲んだ。それでも、表情には出さないよう努めているようだった。フォークを持つ指先だけが、僅かに強張っている。


「うん。校長先生と教頭先生が、外に出て土下座みたいにしてた」


「土下座?」


 リディアも手を止めた。スープを掬うスプーンが、空中で止まったままだった。


「地面に跪いてた。スーツとスカートのままで」


 クラリスは、そのまま昼間の記憶を辿るように続けた。話しながら、あの時の妙な感覚が、また少しだけ蘇ってくるようだった。


「誰が乗ってたのかは分かんなかった。窓、閉められちゃったし」


 アーネストとリディアが、一瞬だけ視線を交わした。テーブルの上を挟んで交わされた、ほんの一瞬の目配せだった。娘には、その意味までは読み取れなかった。


「黒い車? 護衛が二台くらいついてた?」


 アーネストが、努めて何気ない調子で尋ねる。だが、その質問の的確さは、単なる世間話にしては具体的すぎた。かつて王宮の行事で、レイン侯爵の車列を遠目に見たことが一度だけある。あの独特の車体の艶と、護衛車両の配置は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。


「うん、そう! なんで分かるの?」


「……いや、この街で貴族の視察といえば、大体そんな感じだろう」


 言ってから、我ながら苦しい誤魔化しだと思った。だが、他に言いようがなかった。アーネストは、それ以上踏み込まれる前に、皿の上の魚を無言のまま切り分けた。


「かもね。何だか、変な感じがしたんだよね」


「変な感じ?」


「うまく言えないけど……ちょっと、ぞわっとした」


 クラリスは、腕をさすりながら言った。特別な力の話ではない。ただ、校長たちがあれほど畏まる相手など見たことがなかった、その異様さへの、ごく素直な直感だった。


「そういう時は、あんまり気にしすぎない方がいいわよ」


 リディアが、努めて軽い調子で口を挟んだ。だが、その手が、テーブルの下でアーネストの膝へそっと触れているのを、クラリスは気づかなかった。


「うん、まあね」


 クラリスは、そう言ってスープを一口飲んだ。それ以上の追及もなく、話題はすぐに別のことへ移っていく。


「そういえば、次の実技試験――」


 いつも通りの夕食が、いつも通りに続いていった。皿の触れ合う音、他愛のない会話、時折混じる笑い声。何も変わらない、いつもの家族の夕暮れだった。


     ◇◇◇


 食後。クラリスが自室へ上がっていった後、リディアは、洗い物の手を止めることなく、静かに口を開いた。


「あなた」


「分かってる」


 アーネストは、短く答えた。水音だけが、しばらく台所に響く。


「レイン侯爵?」


 リディアの声が、僅かに硬くなった。


「他に、あの街であんな車を出す人間を知らない」


 アーネストの声は、低く落ちていた。娘の前では決して見せない類の硬さだった。


「あの人が、わざわざ学院まで来る理由なんて」


 リディアは、皿を拭く手を止めた。


「……ないと思いたいけどな」


 アーネストは、それ以上言葉を継がなかった。窓の外の暗闇を、しばらく黙って見つめていた。


 今日、王宮で、グリムロアの末王子、レザード・モル・グリムロアを巡る話を聞いたばかりだった。魔界東方に存在する、ダークエルフの独立国家。十万年前から大魔王府の直接統治を受けず、自らの法と軍を持ち続ける国。そして、その頂点に立つ大王、ラシュカーン・モル・グリムロア。


 王国軍は、捕らえたレザードを交渉材料にできる可能性を考えている。大王が動くのか、大魔王府が動くのか、あるいは七魔公の誰かが姿を現すのか。何も分からない。ただ一つ、アーネストにも分かっていることがあった。人間界は今、自分たちが理解している以上に大きな何かへ、手を伸ばそうとしている。


 そして、そんな時期に、エルディオ・レイン侯爵が、よりにもよって、娘の通う学院へ現れた。アーネストとリディアは、その事実の重さを、娘に悟られないよう、いつもの夕食の下でひっそりと抱えている。クラリス自身は、今日の出来事を、ただの奇妙な一幕としか捉えていない。二人の間に横たわる情報の差が、この家の食卓を、静かに、それでいて確かに歪めていた。


「偶然だと思う?」


 リディアが、小さく尋ねた。アーネストは答えなかった。答えないことそのものが、十分な返事だった。


     ◇◇◇


 二階では、クラリスがベッドに寝転がり、今日あった他愛のない出来事を思い返していた。フィオナにもらった話。エマとの約束。土曜日のお菓子屋。法術実技の授業。コリン先生に見咎められて、型を崩してしまったこと。そして、校庭へ入ってきた、不思議な黒い車。


 けれど、眠気は、そんな小さな疑問すら簡単に押し流していく。


「……土曜日、何食べようかな」


 それが、眠りへ落ちる直前の、最後の考えだった。


 窓の外は、既にすっかり暗くなっている。星が一つ、二つと、静かな夜空で瞬いていた。


 クラリスは、まだ何も知らない。父が今日、グリムロアという国の末王子と向き合っていたことも。その父親である大王ラシュカーンが、遠く魔界でどのような判断を下そうとしているのかも。エルディオ・レイン侯爵が、なぜ自分の学院へ姿を見せたのかも。


 そして、自分という一人の少女を巡って、軍が、研究者が、貴族が、国家が、少しずつ、静かに、動き始めていることも。


 ――まだ。何一つ、知らなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


クラリスの知らないところで、少しずつ何かが動き始めています。


まだ平穏な日常。


けれど――その裏側では。


次回


Ver.3 Arrow Chapter 2-1

『幽閉令嬢は諦めない』


次回も、どうぞよろしくお願いいたします。

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