Ver.3 Arrow Chapter 1-3 王都の善人たち
今回は、人間界――アルディネア王国王都のお話です。
魔界から見れば敵国。
ですが、そこに暮らしているのは、家族を想い、友人を気遣い、誰かの無事を喜ぶ、ごく普通の人々でもあります。
そして、その「普通」のすぐ隣には、彼らにとって当たり前となっている別の現実も存在しています。
Ver.3 Arrow Chapter 1-3 王都の善人たち
どうぞお楽しみください。
朝――。
人間界、アルディネア王国王都エルディナ。
午前六時を告げる鐘より先に、街は目を覚ましていた。
石造りの古い建物の隙間を縫うように、市電が走っている。架線から電力を受けた車体が、朝靄の残る大通りを滑るように進んでいく。窓の中では、既に一日を始めた通勤客たちが新聞を広げ、あるいは舟を漕いでいた。
その頭上を、一隻の飛空艇がゆっくりと横切った。低く響く動力音が、石畳の谷間にまで反響する。船腹には王国の紋章。さらに高い空には、小型の軍用艇が二隻、編隊を組んで巡回している。
地上では、自動車の警笛。荷馬車の車輪が石畳を叩く音。交差点に設置された信号機が赤から青へ切り替わると、待っていた人々が一斉に道路を渡り始めた。
背広姿の男。法衣をまとった法術師。腰に剣を提げた騎士。肩から自動小銃を吊った兵士。買い物籠を抱えた婦人。学校へ向かう子供たち。
古い石造建築と、新しい鉄骨建築。尖塔と、通信塔。馬車と、自動車。剣と、銃。王侯貴族と、大企業。すべてが同じ街の中にあった。
王都中央駅では、長距離列車がゆっくりとホームへ滑り込んでいる。巨大な時計の下を何百人もの人々が行き交い、構内放送が次の列車の到着を告げていた。ホームの端では、荷役の男たちが額に汗を滲ませながら荷を担いでいる。節くれ立った腕と低い背丈――ドワーフの姿だった。少し離れた工廠の一角では、飛空艇の整備にあたる者たちの中にも、幾人かドワーフが交じっている。手先の器用さと機械への強さから、こうした現場ではよく見かける種族だった。
商店街では、次々と店の扉が開く。電器店のショーウィンドウには、冷蔵庫やラジオ、テレビが並んでいる。そのうちの一台から、女性報道官の声が流れていた。
『――続いて、魔界戦線における戦況です』
通勤途中だった何人かが足を止める。誰かが立ち止まれば、その隣もつられて立ち止まる。朝の街角では、そうした小さな連鎖がよく起きた。
画面が切り替わった。焼け焦げた森林。破壊された家屋。木々の間を進む装甲車。王国旗を掲げる兵士たち。
『昨日未明、王国軍魔界派遣部隊ならびにレギア騎士団は、《ワールドホール》を通じ魔界へ展開、作戦目標を達成したと発表しました』
世界と世界の狭間に、不定期に口を開く巨大な穴――《ワールドホール》。《アビス・ゲート》のような移動魔法とは根本から異なり、《ワールドホール》は軍勢すら丸ごと呑み込む規模の裂け目だった。出現の場所も時期も定まらない。それでも王国は、長年の観測と法術演算によって、その出現をある程度の確度で予測する術を確立していた。今回の作戦も、その予測に賭けた奇襲だった。
「おお」
新聞を抱えた老人が声を漏らした。皺の刻まれた顔に、安堵とも満足ともつかない色が浮かぶ。この手の報道を、彼はもう何十年も見てきたのだろう。
『軍当局によりますと、ダークエルフの集落および複数の敵戦闘拠点を制圧。現在も残存勢力の掃討作戦が継続されています』
「やっとか」
老人の隣にいた男が新聞を畳む。折り目に沿って几帳面に整え、脇に挟んだ。
「最近、魔界の連中は調子に乗っていたからな」
男は忌々しげに舌を鳴らした。
「まったくだ」
別の男が頷いた。
「害虫は巣ごと潰さなきゃ駄目だ」
誰も声を潜めなかった。周囲にいた者たちも、特に反応しない。それは、この街では取り立てて珍しい言葉ではなかった。
すぐ横を歩いていた母親が、幼い息子の手を引いていく。信号の変わり目を待つ間、子供が何気なく口を開いた。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「魔族って、本当に人を食べるの?」
母親は困ったように笑った。
「悪いことをした子は、食べられちゃうかもしれないわね」
「じゃあ僕、ちゃんとする!」
「ふふ。そうしなさい」
母子はそのまま人混みの中へ消えていった。この街の多くの者にとって、魔界にまつわるものは皆、同じ箱に収まっていた。
ほどなくして。
大通りの片側を歩いていた者たちが、自然と道を空け始める。誰に命じられたわけでもない。そういう習慣が、この街には染みついていた。
三台の黒塗りの大型自動車。車体側面には、王国法術省の紋章と、アルメリア家の徽章が並んで刻まれていた。先頭車両の左右には、白銀の鎧を纏った騎士たちが騎乗し、徐行する車列に付き従っている。
「あれ、アルメリア侯爵家じゃないか?」
通行人の一人が、車列の紋章を目を細めて確かめる。
「本当だ」
人々が立ち止まる。そして、頭を下げた。誰も指図していないのに、その動作だけは驚くほど揃っていた。
ハイエルフの大貴族。
この国において、その肩書きは単なる身分を意味しない。政治。司法。法術。銀行。教育。大企業。官僚組織。国の中枢の多くに、彼らは深く食い込んでいた。エルフもまた、この国では上級市民として遇されている。
車列が通り過ぎる。人々は顔を上げ、再び歩き始めた。
その直後だった。
ぴしり。
革の鞭が鳴る。
「歩け!」
道端で、少年がよろめいた。黒い肌。長く尖った耳。粗末な布一枚だけを身につけた、ダークエルフの少年だった。首には金属製の輪。鎖の先を、一人の男が握っている。
「止まるな!」
少年が、よろめきながらも足を前へ出す。裸足の足裏が、冷たい石畳を踏みしめていた。
「……申し訳……ありません」
声は掠れ、消え入りそうだった。それでも男の苛立ちは収まらない。
「喋るな!」
再び鞭が振るわれた。少年の肩が跳ねる。この国において、ダークエルフは奴隷としての扱いを受けている。
通行人は、その邪魔にならないように避けて歩く。誰も足を止めない。誰も目を合わせない。
向かい側には奴隷商の店があった。店先。一人の少女が立たされている。十歳にも届かない。人間とほとんど変わらない顔立ち。ただし。髪の間から、小さな角が二本だけ覗いていた。
魔族と人間の混血。この国の法において、人としての権利をほとんど認められていない。
首から札を下げている。
混血種。雌。健康。基礎教育なし。所有登録済。
少女は俯いていた。泣いてはいない。泣き疲れたのか。それとも、最初から泣くことを諦めたのか。
その少し先、荷物運びの一団の中に、獣人の男が交じっていた。狼のような耳と尾を持つ、逞しい体つきの男である。奴隷ではない。自由民としての籍を持っている。だが、その男が就ける仕事は限られていた。荷役、清掃、工場労働。法が禁じているわけではない。それでも、いつの間にか、そういうものとして定着している。
その前を、一人の男が通り過ぎる。
「アーネスト様!」
声が飛んだ。男が足を止める。四十五歳。くすんだ金髪。鍛えられた大柄な体。濃紺の外套。腰には剣。右腿には拳銃。頬には古い傷が一本。
アーネスト・グレイス。
アルディネア王国の勇者。
「お帰りなさい!」
誰かが声を張り上げ、それに釣られるように次々と声が重なっていく。
「魔界から戻られたんですね!」
「勇者様!」
あっという間に人が集まる。アーネストは困ったように笑った。
「いやいや。勇者様はやめてください。朝から恥ずかしい」
「何をおっしゃいます」
花屋の老婦人が笑う。
「うちの孫なんて、あなたの記事を毎回切り抜いてるんですよ」
「それは困ったな」
アーネストは頬を掻いた。
「もう少し格好のいい写真を載せてもらわないと」
周囲に笑いが起きる。
「アーネストさん!」
今度はパン屋から声がした。ふくよかな中年女性が、小麦粉のついた両手を前掛けで拭きながら走ってくる。
「マルタさん」
パン屋の女将が、息を切らせながら駆け寄ってくる。
「やっぱり帰ってたんだねぇ」
マルタ・ヘインズ。夫を魔物討伐で亡くし、一人息子がいる。その息子は今、第七機装旅団に所属していた。
マルタの笑顔が、少しだけ曇る。
「うちの子は……」
アーネストの表情も変わった。
「生きています」
「……本当?」
マルタの声が、微かに震えていた。
「ええ」
アーネストは頷く。
「昨日、確認しました。第四整備中隊にいました。腕を少し怪我していましたが、自分で歩けています」
「そう……」
マルタは胸元を押さえた。
「よかった……」
「本人からも、そのうち手紙が届くと思います」
「ありがとう、アーネストさん」
「いえ」
マルタは何度も頷いた。そして、小さく頭を下げる。
「……あの子を、お願いね」
アーネストは、すぐには答えなかった。軽々しく約束もしなかった。真っ直ぐに彼女を見る。
「できる限りのことをします」
それだけだった。マルタは微笑んだ。
「うん」
◇◇◇
「ただいま」
「遅い」
自宅へ入った瞬間。十二歳の少女が腕を組んで立っていた。
クラリス・グレイス。アーネストの一人娘。腰まである薄茶色の髪は、ところどころ寝癖で跳ねている。
「え」
「お父さん、昨日帰るって言った」
「帰ったじゃないか」
「朝に」
「朝も帰宅には違いない」
「お母さーん!」
「待て。話し合おう」
「リディアー!」
「なぜ妻を呼ぶ!」
奥から足音がする。
「あなた」
「はい」
反射的に姿勢を正した。
リディア・グレイス。四十二歳。かつて王立法術医として働き、現在も街の施療院で患者を診ている。
「座って」
「はい」
「食べて」
「はい」
「そのあと寝る」
「はい」
「返事だけはいいわね」
「勇者だからな」
「関係ないでしょう」
クラリスが吹き出す。
「お父さん、弱い」
「クラリス」
アーネストは娘へ向き直った。
「父さんはな、王国でもかなり強い方なんだぞ」
「でもお母さんに勝てない」
「世の中には、戦ってはいけない相手というものがいる」
「聞こえてるわよ」
「聞かせています」
「あなた」
「すみません」
朝食の卓。焼きたてのパン。卵。ソーセージ。果物。紅茶。壁際では、ラジオが小さな音で朝のニュースを読み上げていた。冷蔵庫の低い駆動音。窓の向こうから、市電の走る音が聞こえる。
「そうだ、お父さん」
「ん?」
「見てて」
クラリスが人差し指を立てた。テーブルの上に置かれていたスプーンが、ふわりと浮かぶ。
「……クラリス」
「まだだよ」
スプーンの周囲に、小さな光輪が生まれた。淡い光が重なり、三重の術式を形成していく。詠唱はなかった。
アーネストの眉が僅かに動く。
「誰に教わった」
「本に書いてあった」
「どの本だ」
「お父さんの部屋」
「勝手に入ったな?」
「お母さんはいいって」
アーネストが妻を見る。
「リディア」
「見られたくないなら、鍵くらいかけなさい」
「そこなのか」
クラリスが笑う。
「ねえ、すごい?」
アーネストは娘を見る。
「ああ」
そして笑った。
「すごいよ」
「やった!」
少女が両手を上げる。その姿を見ながら、アーネストの胸の奥に、別の感情が生まれていた。
早すぎる。
自分が勇者適性を明確に示したのは、十五歳だった。クラリスはまだ十二歳。しかも、無詠唱。才能だけなら、自分を超える可能性すらある。
だからこそ。
戦場へなど行かせたくない。剣を握らせたくない。銃声も。血の臭いも。死んでいく人間の声も。何も知らないままでいてほしい。
自分たちの世代で終わらせる。魔界との戦争を。娘が勇者として戦わなくてもいい世界にする。
そのためなら――。
アーネストは、何度でも戦うつもりだった。
その時。机の上に置いてあった携帯電話が鳴った。
「携帯!」
クラリスが目を輝かせる。一般家庭では、まず所有することのできない高額な通信端末。王国の通信塔と法術中継網の両方へ接続可能な、国家指定品だった。
アーネストが画面を確認する。
「セルジャンだ」
「朝から?」
「嫌な予感しかしないな」
通話を取る。
「もしもし」
『起きていたか』
「今から寝るところだった」
『諦めろ』
「切るぞ」
『魔界で捕らえた捕虜が、本当にグリムロア王家の者だと確認が取れた』
アーネストの顔から笑みが消える。
「……誰だ」
『グリムロア王家の王子だ』
「王族?」
『レザード・モル・グリムロア。大王ラシュカーンの息子で間違いない』
一瞬。アーネストが黙った。
「……王子か」
『王宮へ来てくれ』
「分かった」
通話を切る。クラリスが父親を見上げていた。
「仕事?」
「ああ」
「また?」
「ごめんな」
「……帰ってくる?」
アーネストは娘の頭に手を置いた。
「夕飯までには」
「絶対?」
「努力する」
「それ絶対じゃないやつ」
「鋭いな」
「勇者の娘だから」
「なるほど」
二人が笑う。リディアだけが、小さく息を吐いた。
◇◇◇
王宮《黎明宮》。軍議室。
長大な卓の中央には、《ワールドホール》出現地点周辺の地図が広げられていた。壁面には大型投影装置。戦況図。部隊配置。損耗率。補給線。捕虜情報。複数の資料が次々と表示されている。
上座には国王レオハルト三世。その右手に、法術省長官セレディオ・ルーン・アルメリア侯爵が座していた。内務大臣バルド・ケイン。第七機装旅団長ガレス・レムリク大佐。レギア騎士団長セルジャン・アルディス。そして、勇者アーネスト。アーネストは前日まで別の戦区に部隊を率いて展開しており、レザード捕縛の詳細をまだ耳にしていなかった。
「今回の戦闘全体で、王国軍戦死四十二」
ガレスが報告書を卓へ置く。分厚い紙束が、乾いた音を立てた。
「重傷者六十八。装甲車、戦車、軽装甲車にも損害が出ている」
セルジャンが資料を見る。
「騎士団は戦死十一。重傷十九」
「合計五十三」
ガレスの口元が歪む。
「安くはない代償だ」
壁面の映像が切り替わる。荒れ果てた森林。転覆した装甲車。砲身を破壊された戦車。大地には、何本もの深い亀裂。その向こう。一人の少年が映っていた。細身。黒い肌。長く尖った耳。淡い銀紫色の髪。
「こいつが?」
アーネストが尋ねる。
「ああ」
ガレスが答えた。
「レザード・モル・グリムロア」
セレディオ侯爵が鼻で笑う。
「ダークエルフが王子?」
長い指先で卓を叩いた。
「猿が王冠を被っているようなものですな」
誰も笑わなかった。だが、その場で咎める者もいなかった。
国王が資料をめくる。
「捕縛時の状況は」
ガレスが答える。
「逃げませんでした」
「逃げられなかったのではなく?」
「違います」
セルジャンが口を挟む。
「こちらの動きを見ていました」
「何?」
「包囲が完成するまでの時間を使って、周辺住民を森の奥へ逃がしていたようです」
ガレスが不快そうに顔をしかめる。
「だから何だ」
「確認された事実を話している」
「ダークエルフの非戦闘員など、いずれ敵になる」
「子供もか」
「セルジャン」
国王の低い声。騎士団長が口を閉じる。
内務大臣バルドが眼鏡を上げた。
「問題は、この捕虜が王族であることです」
「身代金か?」
アーネストが尋ねる。
「それでは価値を使い切れておりません」
老政治家は静かに答えた。
「利用します」
「どうやって」
「王国がレザード王子を拘束したことを、公にする」
セルジャンが眉を寄せる。
「……餌にするのか」
「反応を見ます」
バルドの指が地図上のグリムロアへ置かれる。
「王子一人のために、グリムロア王国が人間界へ軍を送り込むのか」
指が動く。
「七魔公が動くのか」
さらに。
「大魔王府が反応するのか」
そして。
「誰も動かないのか」
軍議室が静かになった。
「反応だけでも、得られる情報は多い」
バルドは続ける。
「グリムロア王国と大魔王府の距離。七魔公との関係。動員速度。介入の条件。政治的な優先順位」
アーネストが腕を組む。
「囮というわけか」
「否定はしません」
セルジャンが低い声を出す。
「相手は少年だぞ」
ガレスが即座に反応した。五十三という数字は、彼にとってただの数字ではなかった。
「こちらは五十三人死んでいる」
「年齢の話をしている」
「戦場に立った時点で兵士だ」
「自分から戦争を始めたとは限らない」
「だからどうした」
二人の視線がぶつかる。
セルジャンがアーネストを見る。
「お前はどう思う」
アーネストは少し黙った。そして。
「五十三人」
「……ああ」
「こちらは五十三人死んだ」
卓上の資料へ目を落とす。
「年齢は関係ない」
「アーネスト」
「それに」
一拍。
「ダークエルフだ」
セルジャンは何も言わなかった。
「利用できるなら利用するべきだ」
◇◇◇
王都中央拘禁施設《黒鉄牢》。地下深部。
鋼鉄扉。電気錠。法術錠。二重結界。魔力感知装置。術式阻害装置。天井には監視装置。通路には一定間隔で、武装兵が配置されている。
その最深部。一人の少年がいた。
両手。両足。首。さらに、魔力の流れそのものを阻害する拘束具。椅子へ固定されている。
それでも。背筋は伸びていた。
レザード・モル・グリムロア。
鋼鉄扉が開いた。入ってきたのは三人。看守が一人、扉の外から声をかける。
「勇者殿、こちらです」
レザードが顔を上げる。紫色の瞳。怯えは見えない。三人のうち一人――胸元に見慣れぬ徽章をつけた男の顔を、静かに見据えた。今の一言で、誰であるかは知れた。
「起きているな」
アーネストが言う。
「はい」
短い返事。丁寧だった。
「何人殺した」
レザードは一度だけ瞬きをした。
「数えていません」
ガレスの顔が歪む。
「貴様――」
「敵兵を数えていません」
「同じことだ!」
「違います」
「僕は、逃がせた民を数えていました」
セルジャンが少年を見る。
「東集落か」
「はい」
「何人いた」
「百四十三名」
「逃がせたのは」
「百二十七名です」
「あの時点では、残り十六名の避難を確認できていませんでした」
「覚えているのか」
「はい」
「敵兵の数は覚えていないのに?」
敵兵の数には関心を示さない一方で、民の数だけは克明に記憶している。
「必要がありませんでしたので」
ガレスが一歩前へ出る。
「五十三人だ」
「今回の戦闘全体で、王国兵と騎士は五十三人死んだ」
「そうですか」
「そうですか、だと?」
「はい」
「命を何だと思っている!」
レザードの紫色の瞳が、僅かに細くなった。
「その質問を」
「あなたからされるとは思いませんでした」
「……何?」
「いえ」
「失礼いたしました」
ガレスのこめかみに血管が浮く。
「この――」
「ガレス」
アーネストが止める。
「話が進まない」
勇者は少年の正面に立った。
「君がグリムロア王家の者だと、正式に確認が取れた」
「そうですか」
「驚かないのか」
「名乗った通りでしたので」
「君には、まだ使い道がある」
「餌にするおつもりですか」
「さあな」
「助けは来ると思うか」
セルジャンが尋ねる。
「来ないでしょう」
レザードは少し間を置いた。
「僕一人のために、父上がグリムロア王国の軍を人間界へ送り込むとは思えません」
「父親でもか」
「僕一人のために国を危険へ晒す方ではありませんので」
「大魔王府は」
「僕一人のために、父上が大魔王府へ介入を求めるとは思いません」
「七魔公は」
「僕一人のために動くとも思いません」
「随分と割り切っているんだな」
「そう考えるしかありませんので」
「父上は、父である前に王です」
静かな牢に、声が響く。
「王が一人の息子を救うために兵を動かせば、その結果として死ぬ民がいます」
「だから見捨てられて当然だと?」
「国家として判断するなら、そうなるでしょう」
レザードの手が僅かに動いた。拘束具の鎖が小さく鳴る。
「なら話せ」
「魔界の情報を渡せば、扱いは変わるかもしれない」
「お断りします」
「死ぬかもしれないぞ」
「死にたくはありません」
強がりではなかった。死は怖い。それでも、答えは変わらなかった。
「それでも?」
「それでもです」
ガレスが鼻を鳴らす。
「随分と立派な王子様だ」
「王子だからではありません」
「何?」
「僕が話せば」
レザードは、僅かに間を置いてから続けた。
「逃げ延びた民まで、危険に晒すことになります」
そして、静かに数字を並べ始める。
「東集落百四十三名。避難確認、百二十七名。残り十六名」
ガレスが苛立った声を出す。
「いつまでその数字を――」
「忘れないためです」
レザードは、短くそれだけ答えた。
ガレスが口を閉じる。
アーネストは、暫く少年の顔を見ていた。
「勇者というものを、少し勘違いしていたようです」
「どう勘違いした」
「もっと、話の通じる方だと思っていました」
「ダークエルフにどう思われようと、どうでもいい」
「そうですか」
「なら、お互い様ですね」
沈黙。
アーネストが踵を返す。
「今日はここまでだ」
三人が牢から出ていく。鋼鉄扉が閉じる。重い金属音。電気錠。法術錠。次々と封鎖されていく。
やがて。牢内から、彼らの足音も消えた。
レザードは一人になった。
両手。両足。首。魔力。すべてを封じられている。出口はない。
父も。グリムロア王家も。大魔王府も。七魔公も。自分一人のために動くことはないだろうと、レザードは考えていた。
それでいい。それが正しい。自分一人のために、多くの者が死ぬべきではない。
そう判断していたのは、他ならぬレザード自身だった。
少年は静かに瞼を閉じた。何も言わなかった。
石の壁の向こう、遠く地上では、街の朝がいつも通りに続いていた。市電が走り、焼きたてのパンの香りが漂い、子供たちが学校へ駆けていく。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない通学路。
けれど、ほんの少しだけ。
何かが、静かに動き始めていました。
Ver.3 Arrow Chapter 1-4 静かな朝、静かな陰謀




