Ver.3 Arrow Chapter 1-2 廃棄物に、所有権を主張なさるおつもりで?
レザードの行方を巡り、グリムロア王家から協力を求められたヴァルクロア家。
オルディアスとリゼルは、ダークエルフ王国――グリムロアへと向かいます。
今回もお付き合いいただけましたら幸いです。
ダークエルフ王国――グリムロア。
魔界東方、その深い森のさらに奥。
地図の上では、確かに魔界の内側に存在している。
だが――その国は、魔界ではない。
◇◇◇
「独立国家、ということですか」
「ああ」
馬車の中。窓の外を眺めながら尋ねたリゼルへ、オルディアスは短く答えた。
「大魔王府の直接統治を受けていない。法も、税も、軍も、王家が独自に定めている」
「七魔公の管轄にも?」
「入らん」
「……そうですか」
リゼルは再び窓へ視線を戻した。森の中を貫く街道。一定間隔で配置された兵。黒銀の旗。そこに刻まれているのは、大魔王ドラコーを示す紋章ではない。巨大な樹木と弓――グリムロア王家の紋章だった。
(魔界に在りながら、魔界に非ず……か)
前世にも似たような国はあった。
巨大な国家、あるいはその勢力圏の中にありながら、独自の主権を維持する小国家。法も違えば、統治者も違う。自前の軍を持ち、自国のことは自国で決める。長い歴史の中で、それを周囲にも認めさせてきた。そこまでは理解できる。
「ですが父上」
「なんだ」
「有事の際には、大魔王陛下の庇護を受けるのでしょう?」
「ああ」
「…………」
リゼルは黙った。
「何が言いたい」
「いいえ。何も」
「そうか」
「はい」
オルディアスは、それ以上聞かなかった。
だが。
(庇護は受ける。だが、臣下ではない。命令も受けない。自国の法も軍も手放さない)
なるほど。実に都合がいい。
少し離れた席では、メアがそんな主人の横顔を静かに見ていた。何も言わない。ただ、いつでも動けるよう荷の位置だけを確かめている。
馬車の御者台では、案内の文官が、ちらちらと車内を気にしていた。まだ若い部類の官吏らしく、大侯爵家の一行を案内するという大役に、朝からずっと肩が強張ったままだった。もっとも、車内で交わされている会話の物騒さまでは、この時はまだ知らない。
◇◇◇
国境を越えてから、その反感は強くなる一方だった。
魔族とは、まるで違う。血統、古い掟、王族の序列、閉鎖的な慣習。どれもこれも、このグリムロアでは異様なまでに重い。
グリムロアの王都へ入り、王城へ近づくほど、それは露骨になっていった。誰の子として生まれたのか。王家から何親等離れているのか。母親がどの家系なのか。何代前に、どの血が混じったのか。それだけで立つ場所が変わる。座る席が変わる。頭を下げる深さまで変わる。
(面倒臭い国だ)
王城へ入った時など、さらに酷かった。
オルディアス・ノクス・ヴァルクロア。魔界屈指の大貴族。大侯爵。その名を知らぬ者など、魔界ではほとんどいない。ここでも、その名は当然のように知られていた。だが、知っていることと、畏れることは別らしい。
「ヴァルクロア大侯爵。大王様がお待ちです」
案内に立った古参の近衛の女は、無駄のない所作、抑揚のない声だった。だが、その目だけは、他国の大貴族一行を隅々まで観察していた。礼はある。失礼でもない。しかし――畏れがない。媚びもない。名だけは知っていても、それに膝を折る気は最初からないのだろう。
(なるほど)
リゼルは静かに歩きながら、内心で呟いた。
(私は、こいつらが嫌いらしい)
◇◇◇
謁見の間。
最も高い場所に王。その左右へ、王位継承順位に従って王族が並ぶ。その一段下。さらに、その一段下。血の濃さ。生まれ。序列。誰が誰より上なのか。一目で分かるように、全てが配置されている。
王のすぐ右側、玉座に最も近い場所には、王太子――レザードの異母兄、ジグマール・モル・グリムロアが立っていた。その隣には王子エドモンド・モル・グリムロア。
そして。最上段。黒い玉座へ、一人の男が腰掛けていた。
長い銀髪、黒い肌、年齢を読み取ることのできない顔立ち、細い瞳。ダークエルフ王家を統べる者、ラシュカーン・モル・グリムロア。この国では、ただの王とは呼ばれない。
――大王。
「御無沙汰しております、大王様」
オルディアスが胸へ手を当て、頭を下げる。リゼルもその隣で、静かに一礼した。表情に愛想はない。だが、無礼もない。当たり前の礼節を、必要な分だけ差し出しているに過ぎなかった。少し後方には、メアが控えている。
「リゼル・ノクス・ヴァルクロアと申します。大王様にお目通り叶いましたこと、恐縮に存じます」
「うむ」
大王は、それだけ言った。玉座から動く気配もない。挨拶の返礼一つに、これほど重みの違いが出るものかと、リゼルは内心で僅かに苦笑した。
大王の視線が、初めてリゼルへ真っ直ぐ向いた。
「それが、お前の次女か」
「はい」
値踏みするような眼差しだった。だが、それはリゼル自身へ向けられたものというより、ヴァルクロア大侯爵家という看板の付属品を確かめる、事務的な視線に近い。少なくとも、この時点ではまだ。
大王の傍らに控えた側近が、同行者の名と身分を記した書付を手にしたまま控えていた。訪問に先立ち、あらかじめ報告させるのは、この手の謁見では当然の作法である。大王は、その紙面を一度も見ていない。だが、既に頭へ入れているのだろう。
「六歳だったな」
「左様でございます」
「ふむ」
大王はリゼルを上から下まで眺めた。玉座の高みから見下ろすその目には、興味というより、値札を確かめるような冷たさがあった。このグリムロアでは、血の器としての価値以外、何を見られることもないのかもしれない。
「話に聞くより、小さい」
「六歳ですので」
あくまで平然と返す。この程度の値踏みなど、慣れたものだった。愛想笑い一つ、浮かべる気にもならない。
「まあよい」
大王は、興味を失ったように視線を外した。まるで、届いた贈答品の目録に、さっと目を通しただけとでも言うように。
だが。
(つまらん御方だ)
その一瞥だけで、リゼルは既に一つの見立てを立てていた。この男は、他者を序列と用途でしか見ていない。一人の少女としてでも、客人としてでもなく、有用か無用か、それだけを瞬時に測っている。
その物差しに、レザードもまた当てはめられ、そして弾かれたのだろう。
「レザードの件だ」
空気が、目に見えて張り詰めた。ここまでの世間話めいた遣り取りとは、明確に温度が違う。
「先日、我が屋敷へ使者が参りました」
「聞いている」
「殿下の行方についても、可能な限り――」
「必要ない」
あまりにも短い一言だった。まるで、天候の話でも切り上げるかのような、あっさりとした拒絶。
「大王様?」
「使者を出した時点では、所在確認を行う方針だった」
大王は、僅かに間を置いて続けた。
「だが、あの者を送り出した後、そちらの一行がこちらへ向かっている間に、王族と重臣による協議が行われた。その結果、方針を変えた。今は、レザードの捜索は必要ないと判断している」
誰も驚かなかった。左右に並ぶ王族たちの誰一人として、表情を動かさない。まるで、既に聞かされていた結論を、今更確認しただけであるかのように。
「レザードは――死んだものとする」
静寂が、謁見の間を満たした。
リゼルは瞬きすらしなかった。だが、その内心では、既に幾つもの計算が渦を巻き始めている。
「殿下は、生け捕りにされたとの報告です」
「知っている。生きている可能性は高いだろう。それでもだ」
大王は、動じる様子もなく続けた。
「レザードは死んだものとする」
「大王様の仰る通りです」
ジグマールが、間髪入れずに言い放つ。まるで、父の言葉を補強することこそが自分の役目だとでも言うように。
「そもそも、レザードなど王位継承順位も低い。あれ一人が生きようが死のうが、国政に何ら影響はございません」
「兄上の仰る通りです」
エドモンドが、薄く笑いながら頷いた。
「むしろ、死んだものと定めてしまえば王族内の序列も一つ整理される」
「理由を、お聞かせ願えますか」
「十万年前」
大王が背もたれへ身体を預ける。その口調は、まるで暗誦するかのように滑らかだった。何百回、何千回と繰り返されてきた言葉なのだろう。
「我らは、人間界を追われた」
その場にいるダークエルフたちの表情が、僅かに変わった。怒りでも悲しみでもない。あまりにも長く受け継がれ、既に個人の感情ではなくなった記憶――それが、今も確かにこの国の骨格を成していることが分かる、静かな変化だった。
「森を焼かれた。土地を奪われた。追われ、殺され、生き残った者だけが魔界へ辿り着いた。以来、我らが守ってきた掟がある。再び人間界へ、大軍を入れない」
「我らが軍を人間界へ進めれば、向こうが何と受け取ると思う」
「魔界からの侵攻」
オルディアスが、即座に答える。
「そうだ」
大王が頷く。
「王族一人のために軍を動かす。その前例を一度でも作れば、次も同じことになる」
大王は左右に並ぶ王族たちへ視線を向けた。まるで、この場に居並ぶ全員へ突きつけるように。
「王子が攫われたから。王女が殺されたから。王族が辱められたから。その度に、我らは十万年前へ戻るのか?」
誰も答えない。答えられるはずもなかった。
「国とは、そういうものではない。王族とは、国の上に立つ者ではない」
一拍。
「国を残すために使われる者だ」
リゼルは黙って聞いていた。国家を守るという一点だけを見るなら、一理ある。オルディアスの横顔にも、その判断を理解しながらなお、割り切れぬものが僅かに滲んでいた。
それでも。
「大王様」
静かな声が、謁見の間へ落ちた。敬意など欠片も込めていない、事務的な確認の口調だった。
「なんだ、娘」
「一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「申せ」
「レザード殿下が現在も御存命である可能性を承知なさった上で――死んだものとする、と?」
「ああ。王族に生まれた以上、その程度は覚悟している」
「本人が?」
「必要ない。王族の生死は、本人だけのものではない」
リゼルの口元が、ほんの僅かに歪んだ。笑みと呼ぶには冷たすぎる、氷の形をしたそれだった。その変化に気づいたのは、この場でオルディアスただ一人だった。
「なるほど。むしろ、大変勉強になります」
声音は淡々としていた。感情を排した、教師が生徒の誤りを指摘するような響き。だからこそ、オルディアスの背筋に、冷たいものが走った。まずい。娘が、完全に頭へ来ている。
「これは、正統な王統と継承権に支配の正当性を求める――いわゆるレジティミズムですね」
「……何?」
ジグマールが眉を寄せた。聞き慣れぬ響きに、明らかに戸惑っている。
「正統な血筋によって受け継がれた王権こそが、支配の正しさの根拠になるという考え方です。もっとも、その正統性さえ揺るがなければ王族個人の意思や生死は些末――というくだりは、レジティミズムそのものというより、この王家独自の解釈でしょうが」
「……つまり、何が言いたい」
「ですが、それだけならば、まだ話は単純です」
リゼルは続ける。淀みない口調は、まるで教師が生徒へ諭すかのようだった。
「先ほどの大王様のお言葉には、もう一つ別の思想も混ざっておりました」
「別の、とは」
「国家の存続という目的のためならば、個人の情や道義は後回しにしてよいという考え方。マキャベリズムと呼ばれる考え方に近しいものです。君主は必要とあらば非情になるべきである、と」
謁見の間の空気が、明らかに困惑し始めていた。案内の文官は扉の脇で、聞いたこともない単語を必死に頭の中で繰り返している。古参の近衛でさえ、僅かに眉根を寄せていた。
「マキャベリズム……?」
「いえ、お気になさらず」
薄く笑う。取り合う気配すらない、突き放すような笑みだった。
「つまり、大王様の御決定は、正統な血統による支配という建前と、国家の生存のためなら情を捨てるという実利、その二つを同時に用いておられる、ということです。支配の正統性は血統に求めながら、個々の王族の扱いだけは実利で切り捨てる」
「な……」
ジグマールが言葉に詰まる。何を言われたのか、半分も理解できていないのは明らかだった。だが、明確に馬鹿にされているらしいことだけは伝わっていた。顔に朱が差していく。
「小娘、屁理屈を並べて我らを煙に巻くつもりか!」
「屁理屈ではございません。ただの分類です」
リゼルは涼しい顔のまま続けた。表情一つ、崩れない。冷笑にも似た薄い笑みだけが、口元に張り付いている。
「それに、友と敵を峻別することこそが政治の本質である――そういう友敵理論すら持ち出せそうですが、生憎レザード殿下は敵ですらございません。ただ、切り捨てても構わない身内、というだけのこと」
「その言葉は知らん。だが、お前が何を言いたいかは分かる」
大王は、片眉を上げたまま静かに答えた。理解できていないのはジグマールたちの方であり、自分ではないと、その一言だけで示していた。
「恐れながら、私にもさっぱりでございます」
ジグマールが、悔しさを滲ませながら零した。ジグマールとエドモンドは、反論の糸口すら掴めずにいた。言われている内容を理解する前に、既に置き去りにされている。
「所詮、結果さえ良ければよいのだ」
大王は、そんな息子たちには構わず続けた。難解な言葉遊びなど意に介さぬとばかりに、話を実利へ引き戻す。
「国が生き延びる。それこそが全てだ。小難しい理屈など、後から幾らでもつけられよう」
「ほう」
リゼルは、それを聞いて、口の端だけで笑った。愉快さよりも、獲物を見つけたような、そんな種類の笑みだった。
「国家理性。大いに結構ではございませんか」
「……何?」
「国家の存続そのものが最高の価値であり、それを守るためならば、通常の道徳や情など二の次にしてよい――そういう考え方ですね。私、それ自体は否定いたしません。理屈のための理屈より、よほど正直です」
淡々とした声のまま、リゼルは続けた。
「では、血統も、掟も、伝統も、国家の存続に資する限りにおいて価値を持つ――そう理解してよろしいですね?」
「……そうだ」
大王は、僅かな間を置いて答えた。誤魔化す気はないらしい。むしろ、その問い自体を興味深く受け止めているようだった。
「でしたら伺いますが、レザード殿下を見捨てるという選択は、本当に国家の存続にとって最善なのでしょうか。敵に利用される危険。他国からの評判。王族たちの忠誠心への影響。全て含めた上で、最も国家のためになる一手だと、断言できますか」
「断言などできぬ」
大王は、間を置かずに答えた。
「王の選択に、確実なものなどない。だが、選ばねば国は進まぬ」
その答えには、確かな重みがあった。開き直りでも、逃げでもない。長年、玉座に座り続けてきた者だけが持つ、乾いた実感だった。
「それに、大王様は先ほどから、軍を出すか、レザード殿下を見捨てるか、その二つしか選択肢がないかのように仰っておられますが」
「……何が言いたい」
「戦争をしないことと、何もしないことは、同じではございません。軍を出さないことと、見捨てることも、同じではございません。秘密裏の捜索、情報収集、接触、交渉、第三者を介した働きかけ。国家理性を掲げるのであれば、なおのこと、選べる手立ては幾らでもあったはずですが」
「そして、もう一点」
リゼルは、あくまで平坦な声のまま続けた。休む気配すらない。
「難しい話に聞こえましたら、失礼致しました。ただ、大王様は、その時々で御都合のよろしい原則を持ち出しておられるように見えます、と申し上げたかっただけです」
「都合がよい、だと……?」
「はい」
リゼルは頷いた。
「大王様は十万年の掟を、ジグマール殿下は王位継承順位を。それぞれ御都合のよろしい物差しを持ち出しておられる。味方であるはずの王族すら、いとも容易く切り捨てる根拠として」
声が、僅かに冷たくなる。それまでの平坦さが、刃のように鋭さへ変わる瞬間だった。
「都合の良い理屈を、その場その場でお使い分けになっているだけではございませんか」
「……」
ジグマールは、奥歯を強く噛んだ。自分たち自身の言葉を一つずつ返され、反論の糸口を失っていた。
「小娘が、我らを愚弄するか!」
エドモンドが、ついに声を荒らげた。
「愚弄ではございません。ただ、御自分たちが何を根拠に物事を決めておられるのか、御本人たちが理解しておられないのではと、心配しているだけです」
「――ッ!」
古参の近衛でさえ、扉の脇で微かに息を呑んでいた。何を言われているのか半分も分からないが、ジグマールとエドモンドが完全に言葉を失っていることだけは、痛いほど伝わってくる。
「もう一つ、大変気になることがございます」
「まだあるのか」
大王の声には、先ほどまでの余裕とはやや異なる響きがあった。面白がる気持ちが消えたわけではない。だが、そこに僅かな苛立ちが混じり始めている。
「先ほど大王様は、『王族とは国を残すために使われる者』と仰いました。つまり、国のために生き、国のために死ぬ義務がある、と」
「当然だ」
ジグマールが即座に答える。
「でしたら、その義務に対して、国は何をお返しになるのでしょう」
「……何?」
「王族が国のために尽くす。ですが、いざその王族が窮地に陥った時、国は救わない。義務は求めるが、保護はしない。それは、契約と呼べるものですか」
「王族の義務とは、そういうものだ」
「一方だけが差し出し、一方だけが受け取る。それを義務と呼ぶのなら、確かにその通りでしょう」
平坦な声のまま、刃だけが鋭くなる。
「ただし、それを見ている次の王族が、果たして本気で国へ尽くそうと思うかどうかは、また別の話ですが」
「――ッ」
ジグマールが、今度は何も言い返せなかった。
「ジグマール殿下は、レザード殿下が生きようが死のうが国政に影響はないと仰いましたね。でしたら、敵は何故、その王子を殺さなかったのでしょう」
空気が変わった。今度は、誰の表情にも困惑ではなく、明確な緊張が浮かぶ。
「生け捕りにした。つまり、敵はレザード殿下にそれだけの価値があると判断した」
冷たい笑みだった。
「少なくともジグマール殿下よりは、敵の方がレザード殿下の価値を高く見積もっているようですね」
「……」
「これは、随分と危険ではございませんか」
ジグマールもエドモンドも、もう何も言わなかった。次々と突きつけられた矛盾のどこから反論すべきか、それすら見失っているようだった。
「……面白い」
不意に、大王が呟いた。
「大王様?」
「六歳の娘に、聞いたこともない言葉で立て続けに言い負かされる。お前たちは、それでよいのか」
「…………」
「違うと思うなら、違う理由を述べよ。それができぬなら黙っておれ」
ジグマールが奥歯を噛む。屈辱に満ちた表情だったが、それ以上言葉を続けることはできなかった。
「……御意」
大王は、再びリゼルを見た。値踏みするような、それでいてどこか興味深そうな眼差しだった。
「リゼル、と言ったな」
「リゼル・ノクス・ヴァルクロアと申します」
「覚えておこう」
「恐れ入ります」
その横で、オルディアスは額を押さえたい衝動を、必死に堪えていた。この一件を、帰ってからどう収めたものか、既に頭を悩ませ始めているようだった。
◇◇◇
その後も幾つかの話が続いた。襲撃された集落。敵兵の装備。飛空艇。国境の警戒。
そして最後に。
「大魔王には、よろしく伝えておけ」
ぴくっ。
リゼルの頬が動いた。ほんの一瞬だった。
(貴様――)
横から視線。オルディアスだった。何も言わない。だが、その目だけが告げている。
――今度こそ、黙っていろ。
オルディアスが、静かに一礼した。
「承知いたしました、大王様。大魔王陛下にも、しかとお伝えいたします」
――陛下。
その一語だけを、リゼルの耳が正確に拾った。
(流石です、父上)
少しだけ、溜飲が下がった。
「下がってよい」
大王が、億劫そうに手を振った。
「御前、失礼致します」
オルディアスが一礼し、身を翻す。リゼルもそれに倣い、一礼してから父の後に続いた。二歩、三歩。謁見の間の出口へ向けて、確かに歩き出していた。
だが。
「――ああ、それと今一つ」
数歩進んだところで、リゼルは足を止めた。既に退出の許しを得た後にもかかわらず、半身だけを玉座へ向け直す。意図的な無礼だった。その顔には、これまでのどの表情とも違う、恐ろしく冷たい笑みが浮かんでいた。
「そこまでレザード殿下を要らぬと仰せならば、わたくしが頂いてもよろしゅうございますよねぇ」
謁見の間が、凍りついた。
「――何?」
大王の声が、初めて僅かに揺れた。
「リゼル!」
オルディアスが、弾かれたように娘を見る。父の顔からも、完全に血の気が引いていた。今の今まで、これほど狼狽したオルディアスを、リゼルはただの一度も見たことがなかった。
「死者として扱うことと、王家の血を他家へ譲ることは別だ」
大王の声が、僅かに低くなる。血統至上のグリムロアらしい、揺るがぬ拒絶だった。
「あら」
リゼルは、小首を傾げた。
「死者として切り捨てる権利も、生きて戻った際の所有権も、どちらも王家のものだと仰るのですね」
「……」
「価値がない。国政にも影響しない。死者として切り捨てる。皆様、そういう扱いをなさっておられましたよねぇ?」
リゼルの声は、あくまで静かだった。だからこそ、その場の誰もが動けなかった。
「でしたら、他家が拾って何が悪いのでしょう。廃棄物に、所有権を主張なさるおつもりで?」
「――ッ、貴様……!」
ジグマールが色を成して立ち上がりかけるが、大王は片手でそれを制した。
それ以上、何も言わない。
これ以上答えれば、王家の論理そのものと、王家の所有意識との矛盾へ、自ら踏み込むことになる。それを察しているからこその沈黙だった。
「では、御機嫌よう」
くす、と。
冷たい笑い声だけを、謁見の間へ置き去りにして。
リゼルは、オルディアスよりも先に、優雅な足取りで扉を潜っていった。
◇◇◇
謁見の間を出る。重い大扉が背後で閉ざされた。
石造りの長い回廊を、オルディアスとリゼルが並んで歩く。メアはその半歩後ろ。
「リゼル」
「はい、父上」
「今のは何だ」
問い詰めるような声だった。
「何、とは?」
「レジ……何とかいう言葉だ」
「レジティミズムです」
「名称を聞いているのではない。何故あんな小難しい言葉を並べた」
「分かりやすくお伝えしたつもりですが」
「あの王子たちには分かっておらんかったぞ」
オルディアスの声には、疲労と呆れが半々に滲んでいた。
「それは困りましたね」
リゼルは、抑揚のない声で答えた。
「困った顔をしていない」
「困っております、心の底から」
「顔に書いてある」
「何がでしょう」
「『分からせるつもりなど最初からなかった』と」
「さあ」
「図星だろう」
リゼルは答えなかった。それが答えだった。
「お前は本当に……」
オルディアスは長く息を吐いた。
後ろを歩くメアが、僅かに顔を伏せる。何も言わないが、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「リゼル」
「はい」
「人間界へ行くな」
「心得ております」
「メア」
「はい、お館様」
「こいつから目を離すな」
「承知いたしました」
「メア?」
「はい、お嬢様」
「何故即答した」
「お館様からの御命令ですので」
「私の侍女だろう」
「左様でございます」
「…………」
しばらく、無言の足音だけが回廊に響いた。やがて、オルディアスが、思い出したように――いや、ずっと堪えていたのだろう、低い声で切り出した。
「リゼル」
「はい」
「最後のあれは、何のつもりだ」
「あれ、とは?」
「『頂いてもよろしゅうございますよね』だ」
「言葉通りでございます」
「本気か」
「もちろんでございます」
リゼルは、あっさりと頷いた。
「レザード殿は才あるお方です、父上。これほど若く才あるお方を、老害と化したグリムロアに置いておくくらいなら、我々ヴァルクロア家、もしくは大魔王府で頂戴しておく方が、大魔王ドラコー陛下の御為にもなると愚考致します」
「……お前は」
オルディアスが、額を押さえる。
「他国の王族を、堂々と横取り宣言するな」
「王家御自身が、死んだものとして切り捨てると明言なさいましたので。ならば、拾う者がいても不都合はございません」
「そういう問題ではない」
「では、どういう問題でございましょう」
「外交上の問題だ! あの場で大王様の面子を潰すような真似を――」
「潰したのは、王家御自身の理屈でございます。わたくしは、それをそのまま指摘しただけです」
「屁理屈を並べる時だけ、妙に理路整然としているな、お前は」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていない」
オルディアスは、長く息を吐いた。
「あの様子では、大王様も本気でお前の言葉を捨て置きはしまい。厄介事を、また一つ増やしたな」
「善処致します」
「その返事を、私は一度も信用したことがない」
「初めてでございます」
「余計に信用できん」
リゼルは小さく息を吐いた。オルディアスは、もっと深く息を吐いた。
そして再び歩き出す。その半歩後ろ、メアを伴ってリゼルも歩く。
――レザードは死んだものとする。
大王の言葉が頭の中で繰り返される。十万年前。迫害。追放。生存のための掟。国家。王族。政治。外交。歴史。全て分かる。全て理解できる。理屈も、大王の立場も、軍を動かせない理由も。
だから。
(それが、どうした)
レザードは生きている。少なくとも、まだ死んだという報告はない。ならば。王家が。国が。十万年の掟が。彼を死んだものとして扱うというのなら。
(好きにすればいい)
リゼルの足が、ほんの僅かに止まった。数歩先で、オルディアスも振り返る。
「どうした」
「いいえ」
リゼルは、いつもの笑顔を浮かべた。
「何でもありません、父上」
リゼルは、父の隣まで歩み寄った。
「参りましょう」
そう告げて、再び歩き出す。その紫紅の瞳に、迷いはなかった。
王家がレザードを死んだものとするなら。それでいい。国が見捨てるなら。勝手にすればいい。十万年の掟とやらを守りたいのなら。死ぬまで守っていればいい。
私は。
生きているものとして扱う。
ただ、それだけだ。
そして――。
(待っていろ、レザード)
人間界。まだ見ぬその場所へ、リゼルは思考を向ける。
(迎えに行く)
それは相談ではない。許可を求めるものでもない。まして、王家の決定など。
リゼル・ノクス・ヴァルクロアには、最初から何の関係もなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、グリムロア王家とリゼルの価値観が、はっきりとぶつかる回となりました。
国を守るために切り捨てる者。
そして、切り捨てられた者を「ならば私が拾う」と言い切る者。
どちらにも、それぞれの理屈があります。
ですが、リゼルにとって大切なのは、ただ一つ。
レザードが、まだ生きているということ。
そして彼女は――もう、決めています。
次回、物語は人間界へ。
Ver.3 Arrow Chapter 1-3 王都の善人たち
どうぞお楽しみください。




