Ver.2 Poison 大型Update
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、Ver.2《Poison》の大型Updateとなります。
メリュジーヌを巡る物語は前話でひとまずの決着を迎えましたが――
その舞台を、少し離れた場所から眺めていた者が一人。
そして物語は、次なる舞台へ。
部屋は、薄暗かった。
照明がないわけではない。机の上には小さなスタンドライト、壁際には淡い間接照明。だが、そのどれもが、人間らしい生活を送るためというより、目の前に並べられたモニターを見るためだけに存在しているような、最低限の明かりだった。光量は絞られ、色温度は低く、長時間画面を見続ける者のためだけに調整された照明だった。
ここは、世界と世界の狭間。
かつて黒瀬真璃亜という一人の女が暮らしていた部屋を、悪神ルキフグスが彼女の魂に残された記憶から再現した――偽物の部屋である。
本棚には、彼女が読み耽った小説や攻略本が、当時のままの順番で並んでいる。机の端には、埃一つ積もらないまま止まった置き時計。寝台のシーツには、誰かが最後に寝転がった時のまま、僅かな皺が残されている。カーテンは半分だけ閉じられ、途中まで遊ばれたゲームソフトが、電源の入らないハードの上に置かれたままだった。読みかけの漫画は、開いたページのまま伏せられている。
窓の向こうには、かつて彼女が見ていたはずの夜景まで、丁寧に再現されていた。遠くの街の光。点滅する信号機。何一つ欠けていない、完璧な模造品だった。
もっとも。
窓を開けても、そこには何もない。
風もない。街もない。夜空さえ、本物ではない。
全ては、悪神が用意した巨大な箱庭の中の書き割りだった。舞台装置としては完璧で、それゆえにこそ、どこまでも虚ろだった。
そして。
そんな曰く付きの部屋を――。
支配しているのは、静寂ではなかった。モニターの駆動音、空調の低い唸り、そして時折り響く缶を傾ける音。生活音のようでいて、そのどれもが不自然なほど規則正しい。誰かが暮らしている部屋というより、誰かが暮らしているように演出された部屋、という方が近かった。それでも、その中心に座る者だけは、心底くつろいでいるように見えた。
「いやぁ~……最高ですねぇ」
悪神ルキフグスは、完全に満喫していた。
場違いなほど場に馴染んだゲーミングチェア――悪神たる者が座るには、あまりにも俗な代物だろうに、当人はそれを疑いもしない様子で、だらしなく身を沈めていた。銀糸のような長い髪は、幾筋も乱れて頬に張り付き、額や首筋には、脂じみた汗の光すら滲んでいる。開けた胸元からは、無数の宝飾具と、儀式めいた紋様の刻まれた鎖が覗いていた。纏う漆黒の法衣は、格式高い神官のそれであるはずなのに、着崩され、皺だらけで、もはや寝間着とほとんど変わらない。
そのゲーミングチェアを限界まで倒し、ほとんど寝転がるような姿勢。片足は机の上に投げ出され、もう片方は椅子からだらしなく垂れている。剥き出しの素足には、薄汚れた跡がこびりついていた。机の上には、空になった缶が三つ、四つと積み重なり、床にも同じような缶が転がっている。さらに床には、食べ散らかした菓子袋や、空になったカップ麺の容器がいくつも散乱していた。
そして、その横では。
見る者が見れば、国一つと引き換えにしてでも欲しがるような神話級の杖が――洗濯物を掛ける棒として使われていた。ハンガーが二つ、三つ、無造作に引っ掛けられている。周囲の壁一面には、幾つものモニターが並び、その一つには、監視対象の一覧らしき文字がずらりと表示されていた。誰の名か、今は誰も気に留めていない。
「引き篭もりって、こんなに素晴らしい文化だったんですねぇ。人類はもっと誇るべきですよぉ」
誰も聞いていない。当然である。この部屋には、ルキフグスしかいない。それでも悪神は、独り言を止める気配もなく、満足そうに缶を傾けた。
「働かない。外に出ない。食べる。飲む。寝る。それからぁ――」
一つずつ、指を折っていく。まるで、それが人生における最も尊い教義であるかのように。
「他人の人生を、画面越しに眺める」
そして、満足そうに頷いた。
「完璧じゃないですかぁ」
神として、何か大切なものを完全に捨てていた。
壁一面に並ぶモニターの一つ一つには、それぞれ別の景色が映されている。ある画面は屋敷の廊下を、別の画面は寝室を、また別の画面は誰も気づかぬ物陰までを、余すところなく捉えていた。角度も、距離も、まるで最初からそこにカメラがあったかのように自然で、それでいて絶対に人の手では実現し得ない視点だった。この箱庭の主だけが持つ、覗き見の特権だった。
正面のモニターには、ヴァルクロア大侯爵邸が映し出されている。リゼル。メリュジーヌ。オルディアス。セレスティア。エルミナ。ルドラ。ドゥルガー。メア。そしてメリッサ。それぞれが、それぞれの表情で、今宵という一夜の終わりに立っていた。
長かった一連の騒動も、ようやく一つの区切りを迎えようとしていた。
ルキフグスは、机の脇に転がっていた小さな魔導ケトルを手に取った。台座に置くだけで湯が沸くという、便利な代物である。そのまま台座へ置く。
ほどなくして、小さな沸騰音が響いた。
「はい、では」
机に置きっぱなしだったカップ麺の蓋を、半分だけ剥がす。そこへ、沸いた湯を無造作に注いだ。湯気が、ふわりと立ち上った。
「三分、待つとか面倒臭いので」
律儀に時間を計るつもりは、最初からないらしい。モニターへ視線を戻したまま、放置する。適当な間を置いて、思い出したように蓋を完全に剥がし、割り箸で麺を軽くほぐした。
「いやぁ……」
ずるりと、一口。
悪神という尊大な肩書きと、目の前の光景との落差は、もはや誰の目にも明らかだった。
「Poison。なかなか盛り沢山な大型Updateでしたねぇ」
ずるずる。
「母親誘拐」
ずるっ。
「暗殺者ギルド」
ずぞぞ。
「毒殺未遂」
ずるり。
「精神干渉」
ずるっ。
「大魔王府のお金まで、どこかへ消えていると」
そして。
「最後は、自分を殺そうとした暗殺者の女の子を、お友達としてお持ち帰り」
ルキフグスが、肩を揺らした。声には、心底面白がっているような響きがあった。
「リゼルさん、本当にプレイスタイルが独特ですよねぇ」
画面の中では、メリュジーヌが笑っていた。少し前まで、誰かに命じられることしか知らなかった少女。明日の予定など必要なかった少女。それが今では、来週の約束をしている。その変化の落差を、ルキフグスは何度も画面を巻き戻しては眺めていた。
「しかもぉ」
ルキフグスは、モニターへ頬杖をついた。指先が、画面の端をなぞる。
「『君はもう、私のものだ』ですかぁ」
一拍。
「重いですねぇ」
お前が言うな。
そう突っ込む者は、残念ながらこの部屋にはいなかった。
「本人としては、ずいぶん真面目なつもりなのでしょうけどぉ」
にたり。口の端が、いっそう吊り上がる。
「人を囲い込む才能だけは、最初から妙に高いんですよねぇ、リゼルさん」
モニターの中。メリュジーヌと繋がれたリゼルの手。ルキフグスは、それを眺めて、少しだけ目を細めた。愉快そうな、それでいてどこか値踏みするような眼差しだった。
「ま」
まだ少し残っていた麺を啜り、ルキフグスは缶を手に取った。傾け、一口。喉を鳴らす音が、やけに満足げに響く。
「これで、Poisonも一区切りですかねぇ」
まだ少し残ったカップ麺と、程よく冷えたビール。モニターの中では、他人の人生が一つの節目を迎えている。全てが、あまりにも都合よく噛み合っていた。
「いやぁ……幸せですねぇ」
もう一口。
「これですよぉ」
ゲーミングチェアへ、さらに深く身を沈める。
「引き篭もりって、本当に素晴らしいですねぇ」
まさに、至福の絶頂だった。
「さて」
机の隅へ手を伸ばした。
「次は――」
その時だった。
ぴんぽーん。
部屋に、妙に軽い呼び出し音が響いた。安っぽい電子音が、この浮世離れした空間には不釣り合いなほど、間の抜けた響き方をした。
「…………」
ルキフグスは、動きを止めた。缶を持ったまま、微動だにしない。
ぴんぽーん。
「……今ですかぁ?」
ルキフグスは、カップ麺の容器と、缶ビールを見比べた。麺は、今ならまだ伸びていない。ビールも、まだ十分に冷えている。どちらも、今この瞬間が一番いい状態だった。
そして、もう一度。
ぴんぽーん。
「……はぁぁぁぁぁ……」
世界の終わりでも告げられたかのような、深い溜息だった。魂の抜けたような、あまりにも長い溜息。
「何でぇ……こういう時だけぇ……自分で行かなきゃいけないんですかねぇ……」
誰に文句を言っているのか分からない。この曰く付きの箱庭には、彼以外の使用人など、最初から一人もいないというのに。
ルキフグスは、手にしていた缶ビールを名残惜しそうに机へ置いた。まだ麺の残るカップにも、ちらりと視線を落とす。それでも、すぐには立たない。
玄関までは、ものの数歩の距離しかない。それすら分かっていながら、その数歩が、途方もなく遠いもののように感じられていた。動くという行為そのものが、既に苦行なのだ。
「…………」
数秒。
「よいしょ」
ようやく立ち上がる。その声には、悪神としての威厳など欠片もなかった。背中を丸め、片足を引きずるような、いかにも面倒臭そうな足取りで玄関へ向かう。
「はぁ……遠い……」
実際には、数歩しかない。それでも、その一歩一歩が、まるで長旅であるかのように重かった。
「引き篭もりに玄関まで来させるとか、酷くないですかぁ……」
ぶつぶつ文句を言いながら、ようやく扉を開ける。
「はぁい……」
扉の向こうには、人型をした黒い靄が立っていた。輪郭は絶えず揺らめき、煙のように滲んでは、また像を結び直す。顔と呼べる部分に、目鼻はない。ただ、二つの光点だけが、闇の奥でぼんやりと灯っていた。制服らしき濃紺の作業着には、三角形と目を象った紋章が、幾つも縫い付けられている。肩から下げた鞄にも、同じ紋章。そして、頭には、宅配業者らしい帽子が――こちらにも同じ紋章が刺繍されている――律儀に被せられていた。全身を包む靄は、まるで濡れた墨のように、輪郭の端からとろりと滴り落ちているように見える。
その両腕には、紐でしっかりと結わえられた木箱が抱えられていた。側面には、掠れた文字で「狭間の悪神様行き」と記されている。
「ルキフグスさーん。お届けものでーす」
「どうもぉ……」
声まで完全にやる気がない。
「こちら、シャングリラからのお届け物になりまーす」
「そこ置いといてもらっていいですかぁ……」
「受領印お願いしまーす」
「…………」
ルキフグスが、ものすごく嫌そうな顔をした。表情らしい表情のない顔のはずなのに、うんざりした気配だけは、はっきりと伝わってくる。
「そこだけ妙に現実的なんですよねぇ……」
差し出された黒い板へ、渋々指を押しつける。紫色の魔法陣が、一瞬だけ浮かんだ。
――受領完了。
「ありがとうございましたー」
「はぁい……」
荷物を抱える。扉を閉める。そして、数歩しかない机まで戻る途中で、また一度。
「はぁぁぁぁぁ……」
盛大に溜息を吐いた。
「宅配って、受け取る側も結構な重労働なんですねぇ……」
もちろん。そんなわけはなかった。
箱の表面には、うっすらと霜のようなものが張っていた。世界の狭間を渡ってきた証だろうか。指先で触れると、ひやりとした感触が伝わり、それでいて箱自体は不思議と軽い。中身の重さなど最初から存在しないかのような、奇妙な手触りだった。
ルキフグスは、箱を机の上へ置いた。箱には、大きく文字が書かれている。
SHANGRI-LA
「時間も、空間も、世界も関係なく即日配送」
しみじみと頷く。
「企業努力が恐ろしいですねぇ」
段ボールを開けるために、机の横へ手を伸ばす。そして、その辺に転がっていた、どう見ても世界を滅ぼせそうな神槍の穂先で、ガムテープを切った。刃先が紙の繊維を滑らかに裂いていく様は、あまりにも場違いに丁寧だった。扱いが雑にも程がある。
「さぁて」
箱を開く。中に入っていたのは――一つのゲームソフト。
その前に、机の上の缶へ手を伸ばす。一口。
「……少しぬるくなりましたねぇ」
それだけ呟くと、すぐに興味は手元のパッケージへ戻った。
黒を基調としたパッケージ。中央には、一人の少女。淡い白金の髪。血紅の瞳。小さな角。背には、堕天使の翼。リゼル・ノクス・ヴァルクロア。
その背後には、深い森。霧。巨大な樹木。そして――無数の矢。
パッケージ上部には、大きく文字が刻まれていた。
PANDEMONIUM REBELLION
そして、その下。
Ver.3 Arrow
「おぉ」
ルキフグスが、少しだけ目を輝かせた。
「来ましたねぇ」
すぐには開けない。表を見る。裏返す。横を見る。また表へ戻す。まるで、新しいおもちゃを目の前にした子供のような手つきだった。
「ふむふむ」
妙に楽しそうだった。
パッケージ裏には、鬱蒼とした森が描かれている。空を覆うほど巨大な樹木。霧の向こうに見える城壁。弓を構える無数のダークエルフ。その中を歩く――リゼルと、オルディアス。
「あぁ……」
ルキフグスの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「次は、面倒臭いステージですねぇ。リゼルさん」
楽しそうだった。むしろ、心底楽しそうだった。
「Poisonみたいに」
右手を持ち上げる。
「敵のお城へ乗り込んでぇ」
左手。
「どかーん」
両手。
「ばーん」
そして、首を横へ振った。
「全部吹き飛ばして終わりぃ」
一拍。
「――とは、いきませんよぉ?」
パッケージの裏側を、指先で軽く叩く。爪の先が、印刷された森の絵の上を辿っていく。
外部からの干渉を嫌う民。古い血統。古い掟。高い自尊心。そして、魔界でありながら、魔界そのものから距離を置く土地。
大魔王府の威光さえ、思うようには届かない土地。力を見せれば話が早い――そんな場所でもない。血統も、地位も、これまでリゼルが武器としてきたものが、そのまま通用するとは限らない。ルキフグスにとって、それこそが今回の見物の醍醐味だった。
「お父様が大侯爵だからって、簡単には通用しません」
くすくす。
「ヴァルクロア家の名前もぉ」
くすくす。
「権力もぉ」
くすくす。
「それどころか」
少しだけ声が低くなる。
「大魔王陛下のお名前さえ、万能の通行証にはなりませんからねぇ」
ルキフグスは、パッケージを眺めながら楽しげに笑った。
「嫌でしょうねぇ、オルディアスさん」
くすくす。
「行きたくないでしょうねぇ」
さらに、くすくす。
「でも、行くんでしょうねぇ」
パッケージを裏返す。
「ご苦労様ですぅ」
完全に他人事だった。同情の欠片もない、あまりにも軽い労いだった。
そして。
「それに――」
パッケージに描かれた森へ視線を落とす。
「ここでは、貴女のお得意の派手な魔法も、そう簡単には使えませんからねぇ」
《大罪魔法》。圧倒的な魔力。敵を正面から消し飛ばす暴力。それらを使えば。
「攻略対象ごと、国がなくなっちゃいますからぁ」
ルキフグスが笑った。
「森林国家全部焼き払って『攻略完了です』とか言われたら、さすがの私も困りますよぉ」
もちろん。彼が困る理由など、ろくなものではない。
「力」
一つ。
「身分」
二つ。
「家柄」
三つ。
「そして、大魔王陛下への忠誠」
四つ。
「リゼルさんが今まで頼りにしてきたものが、どこまで通用しますかねぇ」
ルキフグスは、楽しそうに目を細めた。
「力押しのできない場所で」
パッケージを、机の上へ置く。
「どう攻略するのか」
にたり。
「楽しみです」
少し間を置いて。
「まあ」
肩を竦めた。
「どうせ、また私の想定とは違うことを始めるのでしょうけどぉ」
悪神は、それすら楽しみにしているようだった。むしろ、想定を裏切られることこそが、この観劇の醍醐味だとでも言うように。
これまでの全ての物語がそうだった。用意した舞台も、配置した駒も、いつの間にか主役の一存で塗り替えられていく。それが不快だったことは、一度としてない。むしろ、台本通りに進む退屈さよりも、そちらの方がよほど見応えがあるのだと、ルキフグスは知っていた。
「さてさて」
透明な包装フィルムへ指を掛ける。
びりっ。
「では」
包装を剥がす。
「そろそろ、始めましょうか」
ケースを開く。中には、一枚の黒いディスク。中央に、小さく刻まれている。
Ver.3 Arrow
ルキフグスは、それを指先で摘まんだ。円盤の縁が、間接照明を受けて薄く光る。
「次の主役さんにも」
ディスクを眺める。
「そろそろ、ご登場いただきましょう」
パソコンへ向き直る。ディスクトレイが開く。そこへ、黒いディスクを載せる。
「では」
指先で、軽く押す。トレイが閉じる。かちり。
ほんの一瞬。部屋の照明が落ちた。モニターも暗転する。空調の音すら、一拍だけ止まったように感じられた。
「…………」
ルキフグスは、ゲーミングチェアへ深く座り直した。
ぱっと。画面中央に文字が浮かぶ。
NOW LOADING……
「そうそう」
ルキフグスが頷く。
「こういうのでいいんですよぉ」
読み込みを示す小さな輪が、ゆっくり回る。やがて。暗転。そして――。
風の音。
ざぁぁぁ……。
最初に映ったのは、森だった。あまりにも巨大な樹木。枝葉が月光を遮り、地上まで届く光は僅かしかない。深い霧が、地表を這うように立ち込めている。苔に覆われた地面は、踏みしめる音すら吸い込んでしまいそうなほど、湿り気を帯びていた。
空気そのものが、余所者を拒んでいるようだった。木々の隙間を縫って落ちる光の筋は、まるで見張りの視線のように動かない。この森が、単なる自然の産物ではなく、長い年月をかけて磨き上げられた要塞そのものであることを、その静けさだけで物語っていた。
聞こえるのは、風と、遠くで鳴く、正体の分からない生き物の声だけだった。そして、ぎり、と弓弦が引き絞られる音が、その静寂に割り込んだ。ルキフグスの口元が、ゆっくり上がった。
画面の中。一人の少年がいた。黒い肌。尖った耳。細身の身体。手には、一張の弓。ダークエルフの少年だった。少年は、一言も発しない。ただ、森の遥か奥、何かを見つめている。その目には、迷いも、恐れもない。ただ、狩人としての静けさだけがあった。
矢を番え、弦を引く。ぎり――。そして、指を離した。ひゅん――。矢が、闇の中へ消える。直後、遥か彼方で、何かが倒れる音がした。乾いた、それでいて確かな重みのある音だった。少年は、もう見ていない。次の矢を、既に取り出している。
「…………」
ルキフグスは、頬杖をついた。
「なるほどなるほどぉ」
少年が、二本目の矢を番える。ぎり――、ひゅん――。射られた矢が、また闇へ消えていく。その一連の動きを、ルキフグスは興味深そうに眺めていた。
「貴方が、今回のお相手ですか」
悪神は、独り言のように語りかけた。当然、画面の中の少年には届かない。それでも、楽しげに手を振ってみせる。
「いやぁ、大変ですねぇ」
三本目の矢が、弦の軋む音とともに放たれた。
「もうすぐ、とんでもなく面倒臭いお嬢さんが、そちらへ向かいますよぉ」
ひゅん――。矢は、また森の闇へ消えた。ルキフグスは、缶ビールを一口。
「貴方の国の常識が、どこまで通用するのか。リゼルさんの常識が、どこまで通用するのか。そして」
モニターへ視線を戻す。
「どちらが、どちらを変えるのか」
少年が、静かに弓を下ろした。風が吹く。髪が、僅かに揺れる。その背後、霧の向こう、森のさらに奥には――巨大な城壁が、外の世界を拒絶するかのように、静かに、そして圧倒的に、そこに存在していた。
「ふふっ」
ルキフグスは笑った。
「これは確かに、面倒臭そうですねぇ」
だが。その声は、嬉しそうだった。誰よりも、これから起きることを楽しみにしている声だった。
少年はまだ知らない。やがて、この国へ、一人の大侯爵令嬢がやって来ることを。大魔王への忠誠を、何より優先し。敵と認めた者には容赦なく。友と認めた者には、本人の意思さえ置き去りにするほど手を差し伸べ。そして。何より――。自分が正しいと思った道を、絶対に曲げない少女が。この森へ足を踏み入れることを。
これまで幾つもの舞台を見届けてきたルキフグスにとってすら、あの少女の歩みは、いまだに読み切れないものだった。力で押し切れない場所に立たされた時、彼女が選ぶのは、いつも予想の少し先を行く一手だ。今度は、それがどんな形を取るのか。
ルキフグスは、ゲーミングチェアへ深く沈み込んだ。
「では」
画面の中、少年が、再び矢を番える。ぎり――。悪神は、笑った。
「よろしくお願いしますよぉ」
ルキフグスは、画面の中のダークエルフの少年へ、愉快そうに目を細めた。
その指が、弓弦から離れる。ひゅん――。一本の矢が、深い森の闇を、真っ直ぐに切り裂いていった。
⸻
――Ending & Restart
――Next : Ver.3 Arrow
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて――
Ver.2《Poison》、完結です。
メリュジーヌという少女を巡る物語に、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
そして。
休む間もなく、物語は次の舞台へ。
次章――
Ver.3《Arrow》。
これまでのリゼルが頼ってきた、
力。
身分。
家柄。
そして、大魔王陛下のお名前。
それらが、これまでと同じようには通用しない場所へ向かいます。
深い森。
閉ざされた国。
そして――一人のダークエルフ。
次なる物語の主役は、すでに弓を手にしています。
ちなみに。
神話級の杖を物干し竿にし、世界を滅ぼせそうな神槍で段ボールを開封する悪神については――
どうか温かい目で見守っていただけましたら幸いです。
次回より、
Ver.3《Arrow》――開幕です。
引き続き、『パンデモニウム・リベリオン』をよろしくお願いいたします。




