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Ver.2 Poison Chapter 5-4 悪役令嬢への道のりは、まだまだ遠いぞ!

今回は――

古城から帰還した、その後のお話です。


戦いは終わりました。


セレスティアも無事。

リゼルたちも帰還。


これで、ようやく一息――


……つけるはずだったのですが。


大広間に待っていたのは、

何故か見るも無惨な姿になったオルディアス、カルガ、マヒーシャ。


そして――

さらに酷い有様のメア。


一体、この数時間で何があったのでしょうか。


もちろん。


今回の問題は、それだけではありません。


メリュジーヌをどうするのか。

彼女が背負うべきものは何なのか。

そして、リゼルは彼女をどう守るのか。


では――


Ver.2 Poison Chapter 5-4

『悪役令嬢への道のりは、まだまだ遠いぞ!』


どうぞ、お楽しみください。

 ヴァルクロア大侯爵邸の大広間は、夜更けにもかかわらず、戦の直前のような緊張に満ちていた。黒大理石の床には青白い魔灯が映り込み、壁際には武装した兵士たちが整然と並んでいる。誰も剣を抜いてはいないが、その沈黙は平穏の証ではない。命令一つで血が流れることを示す、あまりにも冷たい静けさだった。


「リゼルちゃん、お帰りなさい」


 柔らかな声が、大広間へ踏み込んだリゼルを出迎えた。エルミナだった。慈悲深い微笑みを湛えたまま、まるで最初からそこにいたかのように、静かに佇んでいる。


「……姉上」


 リゼルは、儀礼にかなっただけの会釈を返した。声には、温度がない。


(相変わらず、気持ち悪いくらい愛想がいいな。あの女は)


 だが、エルミナの挨拶に続いてリゼルの意識を奪ったのは、母セレスティアの無事を喜ぶ声でも、今回の騒動について事情を問い質す父の声でもなかった。ましてや、メリュジーヌへ向けられる疑念でもない。


 それよりも先に、リゼルは大広間の中央で、思わず足を止めていた。


 何だ、これは。


 父――オルディアス・ノクス・ヴァルクロア。アーシュラ侯爵家当主――カルガ・ザン・アーシュラ。その妻――マヒーシャ・レイ・アーシュラ。三人とも、酷い有様だった。衣服は土と埃にまみれ、ところどころ裂けている。髪は乱れ、顔には疲労が滲み、何より、立っているだけだというのに身体が微かに震えていた。特にカルガなど、腕を組んで堂々と立っているつもりなのだろうが、よく見れば脚がぷるぷると震えている。


「……父上?」


 声をかけながらも、リゼルは半ば呆然としていた。魔界最高位の一角に数えられる大侯爵。戦場においては一切の隙を見せぬと評される男。その男が今、まるで敗残兵のような有様で、こちらを見つめ返している。


「なんだ、リゼル」


 返事だけは、いつもの父だった。声の調子も、姿勢を正そうとする気概も、確かにオルディアス・ノクス・ヴァルクロアのものだ。だが、その虚勢が、震える脚一本で崩れかけていることに、本人だけが気づいていない。


「何があったのです?」


 オルディアスは答えなかった。答えられない、という方が近いのかもしれない。大侯爵としての矜持と、今夜起きたことの間に、埋めようのない溝があるようだった。


「父上?」


「稽古だ」


 絞り出すように、それだけを言う。


「どなたと?」


 オルディアスは答えず、静かに視線を逸らした。その仕草だけで、リゼルは全てを察してしまった。答えたくないのではない。答えられないほど、何かに打ちのめされたのだ。


「何故、目を逸らすのです?」


「逸らしてなどいない」


「逸らしました」


「気のせいだ」


 娘の追及に、父は往生際悪く言い張る。普段の、威厳に満ちたヴァルクロア大侯爵からは、およそ想像もつかない姿だった。


「父上」


「リゼル。世の中にはな」


 オルディアスは、妙に遠い目をした。


「知らぬ方がよいこともある」


 何を悟ったんだ、この人は。


 そう思いながら、リゼルはふと、父のステータスウィンドウへ意識を向けた。


【ステータスウィンドウ】

名前:オルディアス・ノクス・ヴァルクロア

種族:堕天使系高位魔族

身分:ヴァルクロア大侯爵家当主/黒曜領ヴァルクロア領主

年齢:43歳

レベル:3300

生命力:35890

魔力量:74340

筋力:3380

耐久:3460

敏捷:2930

知力:3600

精神:3530

統率:3900

政治:3840

礼法:3800

忠誠適性:4030

主要適性:大貴族統治/貴族軍指揮/領地経営/儀礼魔術/大規模防衛/大貴族戦闘術/高位結界運用

危険度評価:超高

敵対意志:なし

備考:戦闘・軍事・統治・政治・儀礼の全領域において突出した欠点を持たず、極めて高い水準で均衡した能力を有する超均衡型。レベルは僅か数時間で3200から3300へ急伸しており、その要因は不明。


 確認した瞬間、内心で息を呑む。レベル、3,300。前回確認した時よりも、100も跳ね上がっている。生命力も魔力量も、他の数値も、軒並みそれに応じて底上げされていた。数時間前まで、堂々たる大侯爵として立っていた父が、この短時間で一体何をされたというのか。


(父上……この数時間で、何をされたのですか)


 リゼルは隣へ視線を移した。


「カルガ様」


「聞かないでくれ、リゼル嬢」


 いつもの丁寧な物言いが崩れていた。疲労困憊のあまり、口調を取り繕う余裕すら残っていないらしい。


「そのままにしておいてくれ」


 あのカルガが、そんな弱った声を出した。戦いとなれば真っ先に前へ出そうな男が、目を合わせようともしない。隣のマヒーシャに水を向けても、彼女はいつもの優雅な笑みを浮かべようとして失敗するだけだった。口元が引き攣っている。


【ステータスウィンドウ】

名前:カルガ・ザン・アーシュラ

種族:アスラ族

身分:アーシュラ侯爵家 当主

年齢:47歳

レベル:3180

生命力:42330

魔力量:52800

筋力:4490

耐久:4230

敏捷:2170

知力:1500

精神:2040

統率:3300

政治:1910

礼法:1240

忠誠適性:大魔王陛下に対し高い

主要適性:近接格闘/6腕武術/軍指揮/魔獣討伐

危険度評価:高

敵対意志:なし

備考:純粋な打撃・接近戦闘に極めて秀でる。魔力量は種族的に堕天使族ほどの伸びしろを持たないが、それを補って余りある筋力・耐久を誇る。レベルは僅か数時間で3080から3180へ急伸しており、その要因は不明。


「リゼル嬢。世の中にはねぇ……知らない方が幸せなこともあるんだよ……」


 夫婦で、同じ境地へ到達していた。


【ステータスウィンドウ】

名前:マヒーシャ・レイ・アーシュラ

種族:アスラ族

身分:アーシュラ侯爵家 当主夫人

年齢:42歳

レベル:2480

生命力:22990

魔力量:18150

筋力:1450

耐久:1630

敏捷:7020

知力:3150

精神:3510

統率:2180

政治:3750

礼法:4110

忠誠適性:夫と家門に対し高い

主要適性:高速戦闘/隠密/社交儀礼/情報収集

危険度評価:中(直接戦闘)/高(奇襲・逃走能力)

敵対意志:なし

備考:侯爵夫人としての社交能力に優れる一方、敏捷値はアーシュラ家随一。有事の際の護衛・伝令役としても機能しうる。レベルは僅か数時間で2050から2480へ急伸しており、その要因は不明。


(何をされたんだ、この三人は)


 いや――誰にされたのかは、聞かなくても分かる。少し離れた場所で、酒瓶を片手に、まるで自分だけ別の一日を過ごしてきたかのように涼しい顔をしている女がいた。メリッサ・ハウゼン。


 訝しむように見つめるリゼルへ、メリッサが首を傾げてみせた。


「なんじゃ、嬢ちゃん」


「いえ」


「言いたいことがありそうじゃが?」


「ありません」


「ファファファ」


 絶対、この人だ。


「お、親父殿?! お袋殿まで?! どうしたんだよ?!」


 リゼルの横から、ルドラが声を上げた。父と母の惨状を目にして、さすがのルドラも面食らったらしい。すぐさま二人のもとへ歩み寄る。


「誰と戦った!?」


「稽古だ」


 その一言だけでは到底納得できず、ルドラは食い下がった。だが、何をどう聞いても、カルガは「聞くな」の一点張りで、理由を語ろうとしなかった。


「とと様! かか様!」


 その横を、小さな影が駆け抜けた。ドゥルガーだ。四本の腕を広げたまま、両親のもとへ飛んでいく。


「どうしたの!? いっぱい戦った!?」


 質問がおかしい。


「まあ……そんなところだよ」


 マヒーシャが、娘の頭を撫でた。


「いいなぁ!」


「よくねぇ。ちっともよくねぇ」


 カルガが即座に否定する。それでも「強くなった?」と重ねて問われると、カルガとマヒーシャは顔を見合わせた。


「まあ……なった」


「やったぁ!」


「だから何でお前が喜ぶんだ!」


「だって強くなるの楽しいじゃん!」


 カルガが、じっと娘を見た。


「お前は本当に俺の娘だな……」


「うん!」


「褒めてねぇぞ」


「えへへ!」


 そんな家族のやり取りを見ながら、リゼルはほんの少しだけ笑った。セレスティアも無事。ルドラも、ドゥルガーも、ここにいる。あの古城で起きたことを思えば、こうして馬鹿馬鹿しい会話をしていられること自体が、十分すぎるほどありがたい。


 だが――まだ一人、いる。


 リゼルの視線が、大広間の隅へ向いた。


「――メア?」


 跪いている少女がいた。


「お嬢様……」


 そこで初めて、リゼルの顔から笑みが消えた。


 メア・ナイト。オルディアスたちより、さらに酷い。肩が上下している。息も整っていない。腕にも、脚にも、ほとんど力が残っていないのだろう。膝をついているというより、立っていられないから、そうしている。そんな状態に見えた。


 それなのに、リゼルの姿を見つけるなり、メアは背筋を伸ばした。


「お嬢様、この度は――」


「待て。まず顔を上げろ」


 しかし、メアは頭を下げた。


「この度は、お力になれず……誠に申し訳ございませんでした」


「メア」


「わたくしが……もっと強ければ、お嬢様のお傍にいることができました。お嬢様が危険な場所へ向かわれる時も、わたくしがお傍で――」


「メア。顔を上げろ」


「ですが――」


「顔を上げろ」


 今度は、命令だった。


「……はい」


 ゆっくり、顔が上がる。目が合った。


「私を見ろ。何を謝っている?」


「お前は、お前にできることをしていた。私がいない間も、ずっとな。私はそれを知っている。だから」


 リゼルは、メアの前へしゃがみ込んだ。手は置かない。ただ、じっとメアを見据える。


「頑張った、とは言ってやらん」


「……お嬢様?」


「その様を見ろ。頑張った結果がこれなら、頑張り方が悪い。次は、もっと効率よく強くなれ」


 突き放すような物言いだった。だが、その言葉の合間、リゼルの視線はメアの傷一つ一つを確かめるように動いていた。メアには、それが分かった。呆れたように、それでいて確かに案じている目だと。


「次は、今よりマシになれ。私も強くなる。お前も勝手についてこい。それで十分だ」


「……はい。お嬢様」


 ようやく、メアがほんの僅かに笑った。


「それと、今は休め」


「ですが、まだわたくしは――」


「命令だ」


 リゼルは、腕を組んだ。


「お前が今そのざまで倒れたら、明日、誰が私の着替えや身の回りの世話をする? 不慣れな者に任せてミスを乱発されるくらいなら、今のうちに休んで、明日きちんと動ける身体に戻しておけ。それが一番効率がいい」


 言い方こそ、あくまで実務的だった。だが、メアには分かってしまった。それは「明日も自分がお嬢様の傍にいて当然だ」という、リゼルにとって疑いようのない前提の上で語られている言葉だった。心配だとも、無理をするなとも、一言も言われていない。それでも、胸の奥が温かくなる。


「……はい。かしこまりました」


「よろしい」


 メアは命令に従い、大広間の隅に用意された椅子へ腰を下ろした。


 そこで、リゼルは改めてメアを見た。


 いや――待て。何か、おかしい。


 もう一度、確認する。見間違いではない。


【ステータスウィンドウ】


名前:メア・ナイト

種族:夜魔族

身分:ヴァルクロア大侯爵家 リゼル付き侍女見習い

年齢:14歳

レベル:1,810


生命力:11,540

魔力量:23,760


筋力:1,420

耐久:1,280

敏捷:2,360

知力:1,250

精神:3,280


統率:120

政治:80

礼法:1,810


忠誠適性:測定不能


主要適性:夢界干渉/精神干渉/剣術/短剣術/高速戦闘/侍女作法


危険度評価:中~高(現時点)

敵対意志:なし


備考:全基礎能力に著しい成長を確認。特に近接戦闘に直結する筋力・耐久・敏捷の伸長が顕著で、剣士としての地力が急速に底上げされている。忠誠適性については引き続き正常な測定値を取得できず。レベルは僅か数時間で1,310から1,810へ、500もの急伸を記録。


特殊領域:万魔殿への接続を確認。扉は未開門。――内部測定不能。


 今朝、1,310だったものが、今は1,810。数時間だ。一日ですらない。それなのに、500もの伸び。


「お嬢様?」


「……いや、何でもない」


(我が嫁のメアが、廃人プレイヤーになってしまった)


 笑えない。これを、数時間で。そして、メアだけではない。カルガも、マヒーシャも、以前より明らかに強くなっている。どちらのステータスも既に確認済みだ。


 カルガは100、マヒーシャに至っては400以上。たった数時間で、これほどの伸び幅を叩き出せる稽古など、まともなものであるはずがない。


 リゼルの視線が、ゆっくりメリッサへ動く。


「……何でもありません」


「そうか?」


「はい」


「ファファファ」


(やっぱ怖ぇよ、この人)


 リゼルは、考えるのをやめた。世の中には、知らない方がよいこともある。なるほど、父の言葉が少しだけ理解できた。


「リゼル」


 呼ばれ、振り返る。オルディアスの目が、変わっていた。先ほどまで疲れ切っていた男ではない。ヴァルクロア大侯爵家、その当主の目だった。


「メリュジーヌ・リュシエンヌ・ノクタール嬢。こちらへ」


「――はい」


 名前を呼ばれ、メリュジーヌの肩が僅かに動いた。一歩、前へ。歩く。静かに、背筋を伸ばし、視線を落としすぎず、かといって周囲を探るようにも動かさない。指先、肩、顎、歩幅。全て、整っている。


 リゼルは、それを横目で見た。


(よし)


 まだ完璧ではない。だが、あの古城で散々叩き込んだ成果は、きちんと出ている。少なくとも、数刻前まで、この少女はこんな歩き方をしていなかった。人が動けば目が追った。扉があれば位置を確かめた。誰かが近づけば、その手元を見る。そして本人すら気づかぬうちに、いつでも殺せる位置へ身体を置いていた。それを、リゼルが一つずつ潰した。


 メリュジーヌが、リゼルの横へ立つ。その向こう、ノクタール侯爵が娘を見ている。その視線に、メリュジーヌの身体がほんの僅か強張った。


「メル」


「……はい?」


 小声で。


「前を見ろ。父親の顔色を窺うな。背筋。肩。……力が入っている」


 ふっ、と小さく息を吐く。


「そうだ」


 メリュジーヌの肩から、僅かに力が抜けた。


「リゼル。何をしている?」


「確認です。成果です。お気になさらず」


「気になる」


「後ほど説明いたします」


 オルディアスが、眉間を押さえる。


「お前は、私の知らないところで、一体どれだけのことをしてきた?」


「それについても」


 リゼルは、にこりと笑った。


「後ほど」


 カルガが、肩を震わせる。


「カルガ、今、笑っただろう」


「笑ってねぇ。疲れて顔が痙攣しただけだ」


 オルディアスは、追及を諦めた。


「ともかく、リゼル。お前から説明してもらおう」


「承知いたしました」


「今回、私の妻が何故連れ去られたのか。何が目的だったのか。そして――お前へ毒杯を運んだ者が、何故今、お前の隣に立っている?」


 空気が変わった。先ほどまでの、僅かな笑い。家族のやり取り。それらが消える。大広間にいる者たちの視線が、一斉にメリュジーヌへ向いた。


 メリュジーヌは動かない。ただ、僅かに指先が震えた。リゼルだけが、それに気づいた。


 ゼノヴィアは壁際で腕を組んだまま、露骨にメリュジーヌを睨んでいる。ミラベルも、表情こそ穏やかだが目は厳しい。二人とも、エルミナ専属としてこの屋敷に仕える身であり、セレスティアやリゼルの指揮下にはない。メアも、疲れ切った身体のまま、主人の横に立つ少女を静かに見ている。その少し後ろには、エルミナの姿もあった。穏やかに微笑んでいる。カルガとマヒーシャは、口を挟まない。これはヴァルクロア家とノクタール家、そしてメリュジーヌ自身の問題だ。だからこそ、勝手に答えを出さない。セレスティアも黙っている。今回、直接連れ去られた本人である彼女が、今のところメリュジーヌへ怒りをぶつけていない。


 リゼルにしても、ゼノヴィアやミラベルに対して、特別に親しみを抱いているわけではなかった。忠義は認めている。腕も、それなりに信頼している。だが、それだけだ。友と呼べる相手ではない。だからこそ、この二人が向ける敵意にも、身内可愛さの延長線上にある甘さは一切なかった。


 ルドラが、そんな大人たちを一度見回し、それからメリュジーヌの斜め前へ、ほんの少しだけ位置を変えた。ドゥルガーもそれを見て、意味を理解したのか理解していないのか、反対側へとことこ移動する。


「ルドラさん……?」


「何だよ」


「いえ……」


「なら前向いてろ」


 メリュジーヌが戸惑い気味に問うと、ドゥルガーも反対側から答える。


「メルちゃん、一人だと寂しいかなって。だからここ!」


 メリュジーヌの唇が、僅かに震える。


「……ありがとうございますわ」


「うん!」


 リゼルは、その様子を黙って見ていた。


「父上。少々長い話になります。途中、私の推測も含まれます。それから、私が、この子を庇っていることを、最初から隠すつもりはありません。私はメルを助けるつもりで、これから話します」


 オルディアスは、数秒娘を見た。


「つまり、中立ではない」


「全く」


 リゼルは、メリュジーヌの手を取った。


 少し離れた場所で、エルミナの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。ゼノヴィアやミラベルの時とは、また違う種類の翳りだった。誰かに守られているメリュジーヌを、じっと見つめている。


「むしろ、全力で、こちら側です」


「リ、リゼルちゃん……! 皆様の前で……!」


「何か問題が?」


「ありますわ! 全部ですわ!」


「元気になったな」


「誰のせいですの!?」


「私だ」


「そうですわ!!」


 ほんの一瞬、セレスティアの口元が緩んだ。マヒーシャも、小さく息を吐く。だが、オルディアスは笑わない。


「リゼル。ならば、なおさら私を納得させろ。お前がその娘を助けるために、何を見て、何を知り、何を根拠として、そこまで言っているのか。最初から全て話せ」


「承知いたしました」


 リゼルは、静かに息を吸った。一度、目を閉じる。思い出す。ベルルカリス領。山中の古城。母を守るため、残ったルドラ。そして城内に残った自分、ドゥルガー、メリュジーヌ。戦いが終わった後も、まだ何も終わっていなかった。


「まず、古城で私たちが何を見つけたのか。そこから話しましょう」



◇    ◇    ◇


 ベルルカリス領、山間部に残された古城。かつてベルルカリス伯爵家の支城として使われていた場所である。つい先ほどまで激しい戦闘が行われていた城内には、その痕跡が生々しく残されていた。壁は砕け、床には幾筋もの亀裂が走り、倒れた家具や瓦礫が廊下の至るところに散乱している。あれほど騒がしかった城が、今は不気味なほどに静まり返っていた。


 その一室で、リゼルは大きな机の前へ腰掛けていた。机の上には書類が山のように積まれている。一枚手に取っては読み、要不要を判断し、不要なものはくしゃりと丸めて後ろへ、使えるものは右側の山へ、危険なものはその場で炎に包んで灰にする。その動きに、迷いは一切なかった。まるで長年この作業だけを続けてきたかのような、機械的で正確な選別だった。


「ちょっと待って! さっきから何してるのよ、あんた!? 聞いてる!?」


 書類の山越しに、メリュジーヌが苛立ちを隠しもせず声を上げた。だが、リゼルの反応は素っ気なかった。言葉遣いが崩れる度に、令嬢らしい言い回しへ即座にやり直させる。それだけだった。


 最初のうちこそ、メリュジーヌは何度も食ってかかった。乱暴な口調を咎められては言い直し、悔しさに任せて声を荒らげては、また咎められる。何度目かの応酬の末、彼女はとうとう「もう嫌ですわ!!」と叫び、リゼルはそれをにこりと受け止めた。


「それだ。今のは悪くない」


 褒められているのか、からかわれているのか判然としない評価に、メリュジーヌは両手をぎゅっと握り締めた。指の関節が白くなるほどの力だった。それでも、リゼルの指摘は止まらない。表情、眉間の皺、声の大きさ。指摘される度に、メリュジーヌの纏う空気は、僅かずつ、しかし確実に作り替えられていった。


「わたくしは最初から侯爵令嬢ですわ!!」


「暗殺者の方が板についている」


「喧嘩を売っておりますの!?」


「事実だ」


 メリュジーヌが、ぷるぷると震えた。全身から怒気を漏らしながら、それでも声だけは、リゼルの指摘通りに抑え込もうとしている。その様子だけで、既に何かが変わり始めていることが分かった。


 リゼルは、何事もなかったように次の書類を取った。


「勘違いするなよ、メル。私は、君の言葉遣いだけを直しているわけではない」


 背筋、肩、顎、指先、歩幅、呼吸、視線、表情。それら一つ一つを、リゼルは容赦なく列挙していく。そして、部屋へ入った瞬間に出入口を確認する癖。誰かが近づけば手を見る癖。身体の向きが変われば間合いを測る癖。人と話している最中も、相手の急所を無意識に探す癖。


 リゼルの指先が、自分の首へ、胸へ、脇腹へと動いた。


「相手の急所を、無意識に探している。違うか?」


 メリュジーヌは答えなかった。答えられなかった、と言う方が正しい。壁を背負う位置取り、死角を減らす立ち方、逃げ道を確保する歩き方。誰かが急に動けば右手が動く癖まで、リゼルは一つ一つ言い当てていく。指摘されるたび、メリュジーヌは自分の身体が、いかに長年の任務によって作り替えられてきたかを思い知らされた。


「そんなこと、簡単にできるわけ……」


「簡単だとは言っていない。だから、私が叩き込む」


 リゼルは、メリュジーヌの目を見た。


「いいか、メル。君がどこかの夜会へ出たとする。誰も君を警戒しない。誰も君を恐れない。誰も、君が暗殺者だとは思わない。――なんと美しい侯爵令嬢なのだろう。そう思わせろ。優雅に笑え。美しく歩け。完璧に礼をしろ。そして、その裏側に何を隠していようが、誰にも悟らせるな」


 リゼルは、片手をゆっくり広げた。


「それができれば、君は誰かに使われるだけの暗殺者ではなくなる。君の技術を、君自身が使える。誰を守るか。誰と戦うか。誰を殺すか。全部、君が決めればいい」


「……あたしが?」


 メリュジーヌは、小さく息を吐いた。今まで、誰かの命令で何度その手を使ったのか。何度、毒を、刃を、誰かへ向けたのか。自分の手を見つめる横顔には、これまでにない色があった。


 リゼルは、それからも容赦なく続けた。背筋。肩。顎。視線。笑え、と言われて浮かべた笑みには「怖い」と一言だけ返された。何度目かの練習で、メリュジーヌはとうとう自棄気味にこう言い放った。


「リゼルちゃん。一度、死んでいただけませんこと?」


「よろしい! 素晴らしいぞ!」


「内容を聞いております!?」


「令嬢らしくなってきた!」


「褒められている気がいたしませんわ!!」


 そこへ、どたどたと足音を立ててドゥルガーが戻ってきた。四本の腕、その全てが塞がっている。書類、金貨、銀貨、宝石、小箱、装飾品。さらには、何に使うのかさっぱり分からない妙な置物まで抱えていた。それらを机の上へどさりと積む。


「書類は私が取捨選択する。それ以外の戦利品は――三人で山分けだ」


 リゼルは、当然のように言い、その大量の金品をメリュジーヌの前へ押しやった。


「わたくしには、いただく理由がありませんもの」


「あるぞ。むしろ、君が一番ある」


 退職金。慰謝料。未払い賃金。危険手当。リゼルは次々とそれらしい名目を並べ立て、金貨袋を、宝石を、机の上へ積み上げていく。メリュジーヌが困惑してどれだけ拒もうと、リゼルは「権利だからだ」の一点張りで押し切った。途中、ドゥルガーが差し出した宝石を、メリュジーヌは少し迷った末に「……いいえ、いただきますわ」と受け取った。それは、メリュジーヌが自分の意思で手を伸ばした、最初の一歩だった。


「これは施しではない。君が働いた分だ。だから、堂々と受け取れ」


 書類の選別と、令嬢教育と、金品の山分けが、同時進行で続いていく。背筋、肩、視線、出口を見るな。メリュジーヌが一つ直せば、リゼルはすぐに次を指摘する。その合間にも、ドゥルガーが次々と荷物を運び込んでくる。


 そんな中、ドゥルガーが差し出した一枚を、リゼルは何気なく受け取った。


 目を落とす。


 止まった。


「リゼル?」


 一行、二行、三行。もう一度、最初から読む。


 大魔王府。予算拠出。物資調達。軍備。領内整備。救済。幾つもの項目。その横に、金額。


 おかしい。拠出額と実支出が合わない。少しではない。次の欄、さらに次。複数の名義、複数の経路。何度も何度も迂回している。そして、消えている。大魔王府から、魔界のために拠出された莫大な金が。


「リゼルちゃん? どうなさったんですの?」


 メリュジーヌが横から近づき、肩越しに書類を覗く。その瞬間、彼女の顔色も変わった。


「この数字……大魔王府から出された額と、実際に使われた額が……合っておりませんわ」


 さらに下を指す。


「それに、この送金先……リゼルちゃん、これ……わたくしたちが、持っていていいものですの……?」


 びしっ、と机に細い亀裂が走った。リゼルは何もしていない。ただ、書類を持っているだけだ。それなのに、机の上、一枚、二枚、紙の端がふわりと浮く。金貨が、かたかたと震える。黒紫の、僅かな魔力がリゼルの身体から漏れていた。本人が意識して放ったものではない。怒りが、制御よりほんの一瞬先に、魔力へ伝わっていた。


「……大魔王府より賜ったものを、己が懐へ入れたか。大魔王ドラコー陛下が、魔界のために用意されたものを、己が欲のために掠め取ったか」


 目を閉じる。吸う。吐く。


「……ふぅ。すまん。少し、腹が立った」


「少し……?」


「少しだ」


 黒紫の魔力が消え、浮いていた紙も金貨も机へ戻った。リゼルは、もう一度書類へ目を落とす。


「大魔王ドラコー陛下からの大恩を、仇で返す。頭の足りないケダモノめ。必ずや――滅ぼしてやらんとな」


 メリュジーヌは黙った。誰が、何処まで関わっているのか。リゼルが今、断定していない。ならば、自分も余計な推測を口にすべきではない。


 一方のドゥルガーは、その深刻さをまるで理解していなかった。


「いっぱい字があった!」


 嬉しそうに報告するドゥルガーへ、リゼルは満面の笑みで答えた。


「素晴らしいよ、ディ。愛している」


「あたしもリゼルのこと愛してる!」


 メリュジーヌは、そんな二人を見て、心底困惑した顔をしていた。


「何なの……この方達……」


 その混乱すら、リゼルにとっては令嬢教育の材料だった。「やり直し」の一声で、メリュジーヌはまた大きく息を吸い、言い直させられる羽目になる。


 やがて、リゼルは書類を丁寧に折り畳み、懐へ大切に仕舞った。


「ふふふ……」


 急に笑い出したリゼルに、メリュジーヌが怯えたように後ずさる。だが、リゼルは構わず立ち上がった。


(ついにだ。ついに彼女へ繋がるフラグをぶっ立ててやったぞ)


「これから、忙しくなるぞ、メル」


 話し方、立ち方、歩き方、笑い方、そして礼法。全部、叩き込む。覚悟しろ、と告げるリゼルの声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。


「悪役令嬢への道のりは、まだまだ遠いぞ!」


「さっきからおっしゃっているその悪役令嬢ってなんですの!?」


 そして、リゼルによる悪役令嬢教育は続いた。カーテシーの回数は、口答えの数だけ際限なく増えていき、最後にはドゥルガーが数取り役として動員される始末だった。テーブルマナーなど、何百回やり直しを喰らわされたか、もはや記憶にない。


 メリュジーヌが、既に自分は貴族家の令嬢としての教育を施されていると主張しても、リゼルは容赦しなかった。今まで叩き込まれてきた暗殺者としての目線、振る舞い、本能、表情、体の重心の置き方。その全てを、一つ一つ塗り替えていく。それは、メリュジーヌの10年間を否定する教育――否、調教だった。


◇    ◇    ◇


 ――そして、現在。ヴァルクロア大侯爵邸、大広間。


 リゼルは、ゆっくりと目を開いた。


「古城では、戦闘が終わった後も、城内を調べました。そこで、幾つか非常に興味深いものを見つけています」


「興味深いもの?」


「はい。それについては、後ほど。父上、先に――メル自身についてお話しさせてください」


 オルディアスは、一度リゼルを、そしてメリュジーヌを見た。


「分かった。ただし、リゼル。お前がその娘を助けたいことと、その娘が何をしたのかは、分けて話せ」


「承知しています」


「ならば聞こう。何が起きた。何をされた。何を命じられた。そして、何処からがメリュジーヌ嬢自身の意思だった?」


 メリュジーヌの指先が、僅かに震えた。リゼルは、それを見てから、静かに口を開いた。


 まず語られたのは、暗殺者ギルド《モルテ・ネラ》のことだった。メルは長期間に渡ってその支配下に置かれていた、とリゼルは告げる。精神への干渉、命令の強制、そして本人の意思決定そのものを阻害する行為。


「つまり、洗脳されていたと?」


「簡潔に申し上げるなら、そういうことになります」


「証明できるか?」


「現時点では、完全にはできません」


 オルディアスの問いは、容赦がなかった。何故証明できないものを事実であるかのように話すのか。どこまでが強制で、どこからが本人の意思なのか。リゼルは、その一つ一つに「分かりません」と正直に答えるしかなかった。だが、引かなかった。


「今の二つの問いに、私が適当な答えを返す方が、父上を侮っています。分からないものは分かりません。だから、調べるのです。本人の意思と、外部から与えられた命令を、今の段階で完全に切り分けられない。だからこそ、切り分ける前に――処刑するな」


 静寂が落ちた。リゼルは、一度目を伏せる。


「失礼。処分を――保留していただきたい」


 オルディアスは、すぐには返事をしなかった。無罪放免を求めているのではない。責任がないと認定しろと言っているわけでもない。処分の保留。その間、誰が彼女を管理するのかと問われ、リゼルは「ヴァルクロア家が」と即答した。その即答そのものが問題だ、とオルディアスは指摘する。


 精神への干渉が残っていたら。再びセレスティアを狙ったら。再び、お前へ毒を盛ったら。その時、誰が責任を取るのか。リゼルは、その問いへ具体的に答えた。行動範囲を把握し、《モルテ・ネラ》との接触経路を調べ、命令系統、連絡手段、精神干渉の方法、解除の可否。それらを確認するまでは、自由に放置するつもりはない、と。


「メリュジーヌ嬢は、それを受け入れるのか?」


 リゼルは、今度は答えなかった。メリュジーヌを見る。


「メル。君が答えろ」


 メリュジーヌは、オルディアスへ向き直った。


「ヴァルクロア大侯爵閣下。わたくしは、受け入れますわ」


 監視されても。行動を制限されても。話したくないことまで聞かれる可能性があっても。それでも、と彼女は静かに続けた。


「わたくし自身、分からないからですわ。どこまでがわたくしだったのか。どこまでがわたくしではなかったのか。ですから、知りとうございます。わたくしが何をしたのか。何をさせられたのか。そして――これから、どうすればよいのか」


 オルディアスは、メリュジーヌをじっと見た。しばらく、何も言わない。そこへ、柔らかな声が割って入った。


「あなた。私からもよろしいでしょうか」


 セレスティアが、一歩前へ出る。連れ去られた本人として、その事実は忘れていないし、無かったことになったとも思っていない。それでも、自分を理由に今ここで結論を急いでほしくはない――そう告げる声は、あくまで穏やかだった。


「私は、こうして帰ってきています。ですから、何があったのか、誰が何をしたのか、それをきちんと調べてからでも、遅くはないのではありませんか? ただし」


 メリュジーヌへ視線を戻す。


「あなたを、今すぐ許した、という意味ではありません。それは、分かってくださいね」


「……はい。ありがとうございます」


 メリュジーヌは、深く頭を下げた。マヒーシャが、戻ってきたセレスティアの背中へ、そっと手を添える。


「お母様、お怪我は」


 エルミナが、静かに歩み寄って尋ねた。セレスティアが「ええ、大丈夫よ」と微笑むと、エルミナもまた、慈悲深い笑みでそれに応えた。


 リゼルは、その様子を見てから父へ向き直った。まだ納得はしていない、とオルディアスは言う。精神への干渉が確認されたなら、それを理由に彼女の行動の全てを強制だったと断定するつもりか、と。


「断定は致しません。メルにも意思があるからです。何もかも、全て、最初から最後まで誰かに操られていただけ。そうしてしまえば、今度はこの子自身を消してしまう」


「リゼルちゃん……」


「メルが、自分で選んだこともあるでしょう。自分で考えたことも。自分で決めたことも。あるはずです。だから、調べる必要がある。どこまでが強制だったのか。どこからが本人だったのか。その線引きを、私たちはまだ知らない。知らないのに、全部まとめて罪人。そう決めるのは、早すぎます」


「では、お前の目的を改めて言え」


「3つあります」


 リゼルは、指を一本立てた。


「第一。《モルテ・ネラ》について、メルが持っている情報を全て調べる」


 二本目。


「第二。実行者だけを処分して、その背後にいる者を逃がさない。命令した者、組織を動かした者、利益を得た者、全て引きずり出します」


 三本目。そこで、リゼルはほんの少し笑った。


「第三。私が、メルを友と認めています」


 オルディアスの眉間に皺が寄った。最後だけ私情だと指摘されても、リゼルは悪びれなかった。


「父上。私は、メルを助けたい。だから助けます。これは政治的な理由ではありません。損得でもありません。私がそうしたい。ただそれだけです」


「それで、大侯爵家を巻き込むのか?」


「はい。ですが、ただで巻き込むほど私は親不孝ではありません」


 その言い方に嫌な予感しかしない、とオルディアスが呟けば、リゼルは「奇遇ですね。メルにも、よく言われます」と涼しい顔で返す。名指しされたメリュジーヌが慌てて抗議するのを、リゼルは「事実だからだ」の一言で切り捨てた。ほんの少し、空気が緩む。だが、リゼルはすぐにメリュジーヌへ視線を戻し、表情を改めた。


「それと、一つだけ、ここではっきりさせておきます。母上が攫われた。それは、なかったことにはなりません。私へ毒杯が運ばれた。それも、なかったことにはならない。そこへ、メルの手が関わった。それも消えません。けれど」


 リゼルは、その手を握った。


「メルが、自ら望んで母上を攫った。メルが、自ら望んで私を殺そうとした。その一点については」


 リゼルは笑った。


「なかったことにするということだよ」


 メリュジーヌが、息を止めた。


「起きたことを消すんじゃない。君を、勝手に悪人にする物語を、私が認めないだけだ」


「リゼルちゃん……」


「だから」


 リゼルは、父へ向き直った。


「調べましょう。全部。その上で、メルが負うべきものがあるなら、その時に改めて考えればいい。ですが――」


 静かな声が、大広間へ割って入った。


「待ちな」


 壁際。ゼノヴィアが、背を離した。視線は、真っ直ぐメリュジーヌへ向いている。


「言わせてもらうぞ、旦那様。洗脳だの被害者だの……さっきから都合のいい話ばっかじゃねぇか」


 隣のミラベルが低く制するのも聞かず、ゼノヴィアは続けた。操られていたかもしれない。本人の意思じゃなかったかもしれない。調べなきゃ分からない。それも全部分かっている、と。それでも、奥様が攫われたと聞かされ、リゼルお嬢様まで殺されかけたと聞かされた側が、今日から仲良くしましょうなど、できるわけがない――言葉自体は、それなりに筋が通っていた。だが、リゼルにとっては、その筋の通り方すらどうでもよかった。元々、反りの合わない二人だ。気にかけてやる義理も、機嫌を取ってやる気も、端から持ち合わせていない。


 少し離れた場所で、エルミナは相変わらず穏やかに微笑んでいた。今こうして穏やかにしていられるのも、結局は自分が無事だからなのだろう。リゼルは覚えている。あの毒杯の夜、血を吐いて崩れ落ちた自分を見た瞬間、この姉がどうなったかを。目が真っ赤に染まり、涙の代わりに血の雫を流し、自分の唇を歯で噛み千切りながら「殺じでやるぅ……!!」とメリュジーヌの名を呪い、ゼノヴィアへ半殺しを命じた、あの化け物じみた絶叫を。


 今、その狂気は、いつもの微笑みの下へ完璧に仕舞い込まれている。だが、消えたわけではない。ただ、リゼルが元気にしている限り、表に出てこないだけだ。


(心底、気持ちが悪い)


 リゼルにとって、他の何よりも、その普段の穏やかな笑顔こそがたまらなく不快だった。その下に何が眠っているかを、誰よりも知っているからだ。


「私も」


 ミラベルが、静かに口を開いた。ゼノヴィアほど強い言葉を使うつもりはないが、不安がないと言えば嘘になる。メリュジーヌが被害を受けていた可能性を調査すること自体に異論はないが、今後、このお屋敷へ出入りさせるのであれば、奥様やリゼルお嬢様、ここで働く者たちの安全についても考えてほしい――その懇願にも似た訴えを、リゼルは黙って聞いた。彼女たちは、古城で何があったのか、そこでリゼルとメリュジーヌが何を話したのか、知らない。ならば警戒する。当たり前だ。


「ゼノヴィア。ミラベル。君たちの懸念は、理解した。だが」


 リゼルの声が、僅かに冷たくなる。


「――その目はやめろ。メルを見る目だ。私は、君たちが警戒することを責めてはいない。疑問を持つことも、反対することも構わない。だが」


 メリュジーヌの前へ、半歩出る。


「私の友を、最初から害意だけで測るな」


 ゼノヴィアも、退かなかった。「そりゃ無理ってもんだろ」と言いかけたその言葉を、別の声が遮った。


「やんのかよ? メイドのねぇちゃんたち」


 全員が、そちらを見る。ルドラだった。腕を組み、ゼノヴィアとミラベルを真っ直ぐ見ている。詳しいことは分からない、でも、リゼルが友達だと言っているなら、そいつに喧嘩を売るのは自分にも売っているのと同じだ――そう言い放つルドラに、ゼノヴィアのこめかみが、ぴくりと動いた。


「ふん! 大貴族のお坊ちゃんが威勢がいいじゃねぇか?!」


 ゼノヴィアが一歩前へ出る。


「刻むぞ!!」


「やめなさいゼノ! 相手は侯爵閣下の御令息よ!」


 ミラベルが、慌ててゼノヴィアの腕を掴んだ。


「知るかよ! 喧嘩売ってきたのはこの野郎だ!!」


 ドゥルガーも目を輝かせて便乗し、両者の間に一触即発の空気が生まれる。カルガが額を押さえ、マヒーシャが呆れたように息子を見た。


 そんな、どうしようもない空気の中で。


「はい! そこまでだよ二人とも」


 明るい声とともに、ミラベルの身体が固まった。いつの間に回り込んだのか、背後にドゥルガーが立ち、二本の剣を左右からミラベルの首筋へぴたりと添えていた。にこにこと笑ったまま、「やめないとこのお花のお姉さんの首――落とすよ?」と告げる、その落差が誰よりも恐ろしかった。


 そんな中、エルミナだけは、ただ静かに微笑んでいた。


「ドゥルガー!」


 マヒーシャの声が飛ぶ。だが、リゼルが「ディ」と短く呼ぶと、剣はすっと同時に離れた。傷はない。ミラベルがゆっくり息を吐くのを見届け、ドゥルガーはとてとてとリゼルの隣へ戻っていく。


 ゼノヴィアが、ドゥルガーを見て、次にルドラ、そして最後にリゼルを見た。そこで初めて、口を閉じる。リゼルは何もしていない。声を荒らげてもいない。ただ、見ているだけだった。


「外野は黙っていろ。私の友を害意で測るな。次に同じ目を向けたら――私はお前たちを敵と見なす」


 静まり返った広間に、オルディアスの重い息だけが響いた。使用人を脅すなと咎められても、リゼルは「事前通告です」と譲らない。


「お父様」


 静かな声が、その場に落ちた。エルミナだった。口数は少ない。だが、それだけに、口を開いた時の重さが違う。


「本当に決めなければならないのは、ゼノやミラの気持ちの整理ではなく、この子をどこまで信じるか、ということではありませんか」


 誰もが薄々感じていながら、口に出すのを避けていたことだった。オルディアスは、僅かに眉を寄せただけで、何も言い返さなかった。


「ゼノヴィア、ミラベル。二人の懸念はもっともだ。私も、そこを無視してメリュジーヌ嬢を受け入れるつもりはない。だが、この馬鹿娘の話も、最後まで聞く」


 馬鹿娘、と呼ばれて聞き返すリゼルに、オルディアスは「聞き間違いだ」ととぼける。カルガが吹き出し、「お前ら親子やっぱ似てんな」と笑った。


 その僅かに緩んだ空気の中、リゼルは静かに切り出した。


「先ほど申し上げましたね。古城で、興味深いものを見つけたと」


「……ああ」


 リゼルは懐から、古城で回収した紙束を取り出し、オルディアスへ渡した。一枚、二枚、三枚と目を通すうちに、オルディアスの表情が変わっていく。


「大魔王府……予算額。こちらは、実際の支出記録か?」


「そのようです」


 比較すれば、合わない。少しではない。さらに紙を捲れば、毎年、同じような欠損がある。カルガが横から覗き込み、その顔から笑みが消えた。マヒーシャも数行に目を走らせ、「……酷いね」と呟く。名義、取引先、送金記録。実態そのものが疑わしいものが幾つもあり、同じ処理が複数年に渡って繰り返されている――リゼルの説明を聞きながら、オルディアスはもう一度、最初から読み直した。ゆっくりと、一枚、また一枚。


 そして。


 ある一行で、その指が止まった。


 オルディアスの顔から、血の気が引いた。大侯爵として、どれほどの修羅場をくぐってきたか分からない男が、今、あからさまに蒼白になっている。


「父上?」


 オルディアスは答えなかった。紙を握る手に、僅かに力が入る。カルガが横から覗き込み、同じように表情を凍りつかせた。喉の奥で、何かを飲み込むような音がする。マヒーシャも、その一文を目にした瞬間、扇を持つ指先を震わせた。ノクタール侯爵も、恐る恐る覗き込み、膝から崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪えている。額には、脂汗が滲んでいた。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 記録に並ぶ名義。送金先。幾重にも迂回された金の流れ。どれも、単なる一伯爵家の横領では済まないことを示していた。ベルルカリス伯爵家と《モルテ・ネラ》。そのさらに奥に、何かがいる。だが、まだ正体までは見えない。それでも、この書類が危険な代物であることだけは、内容を理解した者たちには十分すぎるほど伝わっていた。


 だが、その渦中で、たった一人だけ。


 リゼルは、涼しい顔をしていた。周囲の絶望的な空気など、少しも意に介していない。むしろ、退屈な報告書でも眺めるかのような、あまりにも平坦な目だった。


「……リゼル」


 オルディアスの声は、これまでにないほど低かった。何処でこれを見つけたのか、と問われ、リゼルは「古城の、同じ場所からです」とだけ答える。


「この書類は、大魔王府に提出致します」


「待て!! 誰が関わっているか分からん。提出先も、経路も、慎重に選べ」


 オルディアスの声が、広間に響いた。今までの、どんな怒声よりも大きかった。


「はて? 待てとは、どういうことですか、父上?」


 書類を預かると言うオルディアスへ、リゼルは「父上がお持ちになって、どうなさるおつもりで?」と切り返す。預かる、という言葉の裏にある焦りを、リゼルは見逃さなかった。この書類の内容が無防備に外へ出れば、ヴァルクロア家だけでは済まない。ノクタール家も、アーシュラ家も、いや――この魔界そのものが揺れる。


「承知しております」


 リゼルは、あっさりと頷いた。


「ですから、父上」


 にこりと笑う。


「ならば、メルは私の管理下ということでよろしいですね?」


 広間が、しんと静まった。脅しているのではないか、と言いかけたオルディアスへ、リゼルは両手を胸の前で合わせ、あまりにも無邪気に告げた。


「これは、可愛い5歳の娘からの、お誕生日プレゼントのお願いです」


 もう一度、繰り返す。


「私の誕生日、お祝いくださいますよね?」


 オルディアスは、長く、長く息を吐いた。


「……好きにしろ」


 その一言だけを絞り出し、書類へ視線を戻す。偶発的な誤記ではない、と告げるリゼルの言葉に、《モルテ・ネラ》の拠点にこの資料があったという事実が重なる。つまり、この娘を調べる価値は精神干渉の有無だけではない。金の流れ。組織。そして、その背後。


 オルディアスは黙った。リゼルも急かさない。大魔王府から、魔界のために支出されたはずの金が、途中で消えている。誰かが掠め取っている。古城で初めてこの数字を見た時、胸の奥から湧き上がったものを、リゼルは今でも覚えている。


(大魔王府より賜ったものを、己が懐へ入れた。大魔王ドラコー陛下が魔界のために用意されたものを、己が欲のために掠め取った。大魔王ドラコー陛下からの大恩を仇で返す、頭の足りないケダモノめ。必ず――必ずや滅ぼしてやらんとな)


 だが、怒りとは別に、もう一つ、リゼルには引っ掛かるものがあった。書類の並び。数字の癖。処理の仕方。隠し方。そして、不自然に繋がっていく金の流れ。前世――黒瀬真璃亜だった頃、現実の職場で、嫌というほど書類を整理し、数字を追い、発注と支払いを突き合わせてきた。だから分かる。この先には、いる。まだ顔は見えない。だが確実に、誰かがいる。


(ついにだ。ついに彼女へ繋がるフラグをぶっ立ててやったぞ)


 リゼルの口元が、ほんの僅かに上がった。その笑みを、父はすぐに見咎めたが、「笑っておりません」ととぼけられるだけだった。


 やがて、オルディアスがドゥルガーへ、この書類の内容を理解しているかと尋ねた。


「えっと………………」


 黙り込む娘に、オルディアスは首を振った。


「いや、よい。さすがはカルガの娘だ」


「おい、どういう意味だ?!」


 カルガが噛みつく横で、ドゥルガーだけが嬉しそうにしていた。


「とと様と一緒ってこと?」


 マヒーシャが、顔を覆った。


 僅かに緩んだ空気の中、リゼルは父を見る。


「父上。この書類の価値は」


「ある。極めて大きい。精査が必要だ。これだけで、何者かの罪を断定することはできん。だが、調べる理由には十分すぎる」


 オルディアスは、メリュジーヌを見た。この資料があった場所、組織、人間関係、金の流れ。それらを知る可能性がある者を、今ここで処分するのは得策ではない――そう結論づける父の顔に、リゼルは「勝ちました」と書いてあると茶化してみせた。


「父上。この書類と、メルの身柄を引き換え。そういうことで、よろしいですよね?」


「言い方が悪い。取引ではない。この資料によって、メリュジーヌ嬢を生かしたまま調査する、合理的な理由が生まれた」


 オルディアスは、メリュジーヌへ向き直る。精神干渉、命令系統、《モルテ・ネラ》との関係、そして自分自身の意思で行ったこと。その全てを調査し、結果次第で処分を改めて判断する。それまでは、メリュジーヌ嬢の処遇は当面ヴァルクロア家の監督下に置く――生活の場はノクタール家に残したまま、行動と接触を逐一把握する形で、ただし。


「お前の私物ではない」


「私の友です」


 オルディアスは、疲れ切った顔で首を振った。監視の方法、連絡手段、警備、調査担当。決めることはまだいくらでもある。そこへ、リゼルが「その監視も兼ねて、今後、メルには週に一度、当家へ遊びに来ていただきます」と付け加えると、調査はどうしたと問われても「それはそれです」の一点張りだった。オルディアスは、もう何度目か分からないため息をつき、最後には「好きにしろ」とだけ返した。「約束しろ」と念を押されても、リゼルの返事は最後まで「善処します」のままだった。


 その様子を見ていたカルガが、声を上げて笑った。


「はっはっは! オルディアス! 諦めろ!」


「黙れ」


「お前、娘相手だと本当に苦労してんな!」


「誰の息子が先ほど使用人に喧嘩を売ったと思っている」


 名指しされたルドラが「何で俺様なんだよ!?」と抗議する声を背に、リゼルはゼノヴィアとミラベルへ向き直った。


「今の決定に、納得しろとは言わない。警戒も、必要なら続ければいい。ただし」


 メリュジーヌの手を、もう一度取る。


「この子が何者なのか、決めつけるのは、調査が終わってからにしろ」


 ゼノヴィアは、しばらく黙っていた。分かったよ、と短く応じてから、もし奥様やリゼルお嬢様に何かしたら容赦しない、とメリュジーヌを睨む。メリュジーヌは、その視線から逃げなかった。


「ええ。その時は」


 静かに、頭を下げる。


「好きになさいませ」


 リゼルは少しだけ眉を寄せたが、何も言わなかった。メリュジーヌは今、誰かに言わされて頭を下げているわけではない。自分で選んでいる。なら、それまでリゼルが奪ってはいけない。


「ファファファ」


 その時、大広間の隅から、楽しげな笑い声が響いた。酒瓶を傾けながら、メリッサ・ハウゼンが、ゆっくり立ち上がる。


「ようやく話はまとまったようじゃのぉ」


 その目が、ルドラとドゥルガーへ向いた。


「では、今度は、こちらの番じゃな」


 ルドラが、嫌な予感に顔を引き攣らせた。


◇    ◇    ◇


 メリッサは、酒瓶を片手に、ルドラとドゥルガーを交互に眺めた。


「お主らが、カルガ坊とマヒーシャ嬢ちゃんの倅と娘っ子か」


 ルドラが、正体を訝しみながら父へ視線を送っても、カルガは「婆さんはやめとけ」とだけ言い、理由は教えなかった。


「元気があってよいのぉ。気に入った。今から、稽古を付けてやろう」


「いらねぇ」


 ルドラは即答した。親父殿とお袋殿の惨状を見れば、まともな稽古でないことくらい分かる。だったらなおさら嫌だ、と突っぱねる息子に、メリッサは楽しそうに頷いてみせた。


「ならば、仕方ないのぉ」


 その物分かりの良さに、ルドラの顔が僅かに緩んだ、次の瞬間だった。


 足元で何かがずるりと蠢いた。一本の蔓が、ルドラの足首へ絡みついている。「――あ?」と声を漏らす間もなく、もう一本、さらにもう一本。足、腰、腕。次々と蔓に絡め取られていく。


「何しやがる!!」


「遠慮はいらんぞ」


「遠慮してんじゃねぇ!!」


「ルドラ」


 カルガが、他人事のように呼んだ。


「だから言っただろ。婆さんはやめとけって」


「そこじゃねぇだろ!!」


 ずるずると引きずられていくルドラが助けを求めても、カルガも、駆け寄ろうとしたはずのマヒーシャも動かなかった。震える脚を一瞥し、「俺だって、まだ死にたくねぇ」と呟くカルガの姿が、何よりの答えだった。


 対照的に、ドゥルガーは四本の腕をぱっと上げて喜んだ。


「とと様とかか様の先生と稽古だぁ!!」


「間違いなく、俺たちの娘だな」


 カルガとマヒーシャが、揃って苦笑する。メリッサもまた、満足そうにドゥルガーを見た。


「うむ、お主は見どころがあるのぉ」


 蔓に絡め取られたまま連れていかれるルドラが叫んだ。


「喜んでんじゃねぇ!」


「楽しいよ!」


 ドゥルガーは、笑うだけだった。


 リゼルは、その光景を眺めながら思った。


(仲が良いな)


 たぶん、違う。


 そんな中、メリッサの視線が、もう一人へ向いた。大広間の一角、椅子へ座らされているメアだった。


「お主も、まだまだ元気そうじゃから」


 メリッサが、にたりと笑う。


「稽古の続きじゃ」


 沈黙が、大広間を包んだ。


 リゼルが、メアを見る。ぼろぼろのメアだった。肩は、まだ震えている。脚も、まだ震えている。顔は疲労困憊だ。もう一度、メリッサを見る。


「……メリッサ様、今、何と?」


「稽古の続きじゃ。その嬢ちゃんのな」


「メリッサ様。メアを休ませてください」


 先ほど戻ってきたばかりで、立っているのも辛そうだと訴えても、メリッサは酒瓶をことりと置いただけだった。


「嬢ちゃん、オルディアスだけでなくお主まで甘やかしてどうする?」


「甘やかしているのではありません。使い物にならなくなった侍女ほど非効率なものはない、という話をしています」


「同じじゃよ」


 違う、同じだ、という押し問答を何度か繰り返す羽目になった。業を煮やしたオルディアスまで横槍を入れてくる。


「お前も甘やかされているという意味だぞ」


「今はメアの話です」


 リゼルは聞こえなかったふりで話題を逸らそうとしたが、父にはあっさり見抜かれた。


「逃げたな?」


「お嬢様」


 小さな声。メアが、椅子からゆっくり立ち上がろうとする。


「待て。大丈夫に見えない」


 膝が、僅かに揺れた。それでも、メアは立った。


「わたくしは、もっと強くなりとうございます。今日、わたくしはお嬢様のお傍にいられませんでした」


「それはお前の責任ではない」


「はい。分かっております」


 それでも、とメアは静かに首を振る。


「次は、お傍にいたいのです。お嬢様が、どれほど危険な場所へ向かわれても、お傍でお仕えできるくらい、強くなりとうございます。ですから」


 一礼する。


「お願いいたします」


 リゼルは、しばらくメアを見据えたまま、何も言わなかった。今のざまで、この上さらに叩きのめされて使い物にならなくなったら、明日以降の予定に響く。それだけは避けたい。ただ、それだけの話だ。


「分かった。ただし、無理だと思ったらやめろ。倒れる前に言え。絶対だぞ」


「ありがとうございます」


 メアが、ほんの少し笑った。リゼルは頷き、それからメリッサへ向き直る。


「ならばわたくしにも稽古を!」


 大広間中の視線が、一斉にリゼルへ集まった。だが、メリッサの返事はにべもなかった。


「いらん。お主に稽古はいらん」


「何故です」


「お主は、勝手に強くなる。誰かに型を教えられて、その中で育つ類ではない。放っておいても、自分で見つけ、自分で試し、自分で壊し、また」


 にたりと笑う。


「妙なものを作る」


 理由になっていないと食い下がるリゼルへ、メリッサはぐびりと酒を呷りながら、意味深に付け加えた。


「まさか、あのような魔法まで使えるとはのぉ?」


 リゼルの表情が、止まった。ほんの一瞬、大広間の音が遠くなる。


(――《サタンの果実》)


 あの時、メリッサはいなかった。あの古城から、遠く離れていた。それなのに。


「……メリッサ様。ご覧になっていたのですか?」


「何をじゃ?」


 とぼけた。絶対に、とぼけた。


(この方は――)


 リゼルの背筋を、何かが静かに走った。あんなに離れた場所から《サタンの果実》を見ていた。どうやって。そんな疑問が浮かぶ。だが、何度重ねて尋ねても、「年寄りには、色々あるんじゃよ」とはぐらかされるばかりで、答えは返ってこなかった。この人は、一体何者なのだ。


「よし」


 ぱんと、メリッサが手を叩いた。


「では行くぞ」


 嫌がるルドラ、はしゃぐドゥルガー、覚悟を決めたメア。三者三様の反応を尻目に、メリッサはさっさと歩き出す。


「本当に無理はするなよ」


「必ず」


 リゼルとメアの短いやり取りの後、メアは深く一礼して後に続いた。


 蔓に引きずられるルドラの絶叫と、それに構わず両親へ別れを告げるドゥルガーの明るい声が、次第に大広間から遠ざかっていく。


「お袋殿ぉぉぉ!!」


「ルドラ、生きて帰ってきな」


「話が重ぇよ!!」


「ファファファファ!」


 大広間の外へ、騒がしい声が遠ざかっていった。


◇    ◇    ◇


 廊下の向こうから、まだルドラの絶叫が聞こえてくる。遠ざかっていくその騒がしさに、大広間に残った者たちの視線も、自然と扉の向こうへ向いていた。


 そんな中、リゼルだけが、ゆっくり顔を動かした。メリュジーヌではない。父でも、母でもない。一人の男――ノクタール侯爵、メリュジーヌの父を見ている。


 リゼルは、静かに歩いた。一歩、二歩。誰にも気取られぬように、騒ぎに紛れて、その横へ並ぶ。


「ノクタール侯爵閣下」


 にこにこと、あまりにも愛らしい笑顔だった。


「少々、内々のお話があるのですが、お耳を拝借してもよろしいでしょうか?」


「は、はい。もちろんでございます、リゼル嬢」


 ノクタールは、何の疑いもなく応じた。むしろ光栄そうな顔で、自ら上体を折り、耳をリゼルの口元へと寄せていく。


 その瞬間だった。


 リゼルの表情から、笑みが消えた。声も、纏う空気も、氷のように冷たく凍りつく。先ほどまでの愛らしい令嬢は、そこにいなかった。


「おい、ノクタール」


 低い声。ノクタールが、僅かに顔を動かした。


「覚えておけよ。私の大切なメルを、今後妾腹と呼んだり、冷遇したりしてみろ。貴様のことを潰してやる」


 ノクタールの表情が、僅かに強張った。何か言い返そうとする口を、リゼルは遮る。


「それから、今日みたいにメルへ手ぇ上げてみろ」


 リゼルの目が、細くなる。


「4回だ。メルが忘れても、私は忘れない」


 4回。リゼルは見ていた。覚えている。どの手で、どのように、何度、メリュジーヌへ手を上げたのかを。


「分かったか?」


「……リゼル嬢」


 その返事に、リゼルの声が一段と低くなった。


「違うだろぉ、ノクタール」


 先ほどまでの侯爵令嬢としての整った響きは、もうどこにもない。


「リゼル様だ。リゼルさ・ま」


「テメェ、力関係の認知力が馬鹿なのかよ?」


 ノクタールが言葉を失う。それを見て、リゼルは満足そうにほんの少し笑った。


 そして――さっと一歩後ろへ、右足を斜め後方へ。背筋、指先、顎、視線。全て完璧。先ほど古城で、メリュジーヌへ何度も叩き込んだそれと寸分違わぬ、優雅なカーテシーへ、一瞬で切り替える。


「ノクタール侯爵閣下。今後とも、メルと仲良くさせていただきますわ」


 ノクタールの頬が引き攣った。


「……あ、ああ」


 あまりにも素っ気ない返事に、リゼルは口元へ指先を添えて微笑んだ。侯爵閣下ともあろう御方が随分な物言いだと、暗に返事を求める。


「……承知いたしました、リゼル様」


 奥歯を噛みながらも、ノクタールは結局、リゼル様、という呼び方で答えるほかなかった。


「よくできました」


 その一言で、ノクタールは完全に萎縮しきっていた。


「リゼルちゃん?」


 背後から、メリュジーヌの声がした。くるりと振り返った時には、もういつものリゼルだった。


「何をなさっていたのです?」


「何も。お父様と、少し挨拶を」


 メリュジーヌが父を見ても、ノクタールは「……いや、何でもない」と目を逸らすばかりだった。


「ほら」


 リゼルが、メリュジーヌの手を取る。


「送っていくぞ、メル」


「わたくし、あなたのお屋敷で監督されるのではなく、我が家で、ということですのね?」


「そうだ。その代わり、逐一見張らせてもらう」


「見張る、と言われるとかえって恐ろしいですわ……」


 その具体的な段取りとなると、リゼルはすぐさま父へ視線を投げた。面倒事を父へ押しつけるいつもの顔を、リゼルは隠さなかった。オルディアスも、それをあっさり見抜く。


「リゼル。私を見るな」


「大侯爵閣下ですから」


「便利な役職のように言うな!」


 その親子のやり取りを見ていたメリュジーヌは、思わず小さく笑った。


「……ふふっ。いえ、何でもございませんわ。ただ」


 メリュジーヌは、ほんの少し困ったように、それでも嬉しそうに笑った。


「不思議ですわね。今日だけで、何もかも変わってしまったような気がして。今朝まで、わたくしは明日のことなど考えたこともございませんでしたの。必要がなかったのですわ。命じられたことを、命じられた通りにやればよかった。それだけでしたもの」


 リゼルは、何も言わず聞いている。


「けれど、今は」


 メリュジーヌが、顔を上げる。


「来週のことを、考えておりますの」


 少し照れたように。


「週に一度、こちらへ遊びに来てもよろしいのでしょう?」


 リゼルは、瞬きをした。


「もちろんだ。私が決めた。父上も許可した」


「私はまだ詳細を――」


「許可した」


 オルディアスが、黙った。それ以上の反論を諦めた父を横目に、リゼルは「ほら。問題ない」と胸を張る。メリュジーヌが、また笑った。


「では、来週」


「待っている」


 たったそれだけ。来週、また会う。そんな当たり前の約束。けれど、メリュジーヌにとっては、もしかすると初めて、自分の意思で待ち遠しいと思える未来なのかもしれない。


「メル。次に来るまで、今日教えたことを忘れるなよ」


 メリュジーヌの笑顔が、固まった。返事、言葉遣い、やり直し――矢継ぎ早の指摘に何度も言い直させられ、さらにカーテシーを毎日100回と追加されては、さすがに「これは遊びに来るのではなく、稽古に来るのではございませんこと?」と抗議せずにいられなかった。


「気のせいだ」


「絶対に違いますわ!!」


「ふふっ」


 セレスティアが、小さく笑った。


「母上?」


「ごめんなさい。ただ、お友達が増えて、よかったわね、リゼル」


「……はい」


 リゼルは、少しだけ笑った。


「母上。とても、良い友です」


 セレスティアは、メリュジーヌへ柔らかく微笑んだ。


「来週、お待ちしていますね」


 メリュジーヌは、一瞬言葉を失った。彼女は、セレスティアを連れ去った。その事実は消えない。許されたわけでもない。それでも、来週来てもいいと言われた。


「……はい。ありがとうございます」


 メリュジーヌは、深く頭を下げた。


 リゼルは、そんなメリュジーヌを見つめた。暗殺者。侯爵令嬢。操られていた者。罪を犯した者。被害を受けた者。どれも、きっとメリュジーヌの一部なのだろう。だが、そんなものは、今はどうでもいい。リゼルにとって、彼女はメル。それで、十分だった。


 リゼルは、繋いだままのメリュジーヌの手を、少しだけ強く握った。


「リゼルちゃん? どうかなさいまして?」


「いや、何でもない」


 ただ、もう離すつもりがないだけだ。誰かに命令されるだけだった少女。誰かの道具だった少女。誰かに使われることしか知らなかった少女。そんな彼女が、ようやく自分の意思で、こちらへ手を伸ばした。なら、リゼルは、その手を絶対に離さない。


「覚悟しろよ、メル」


 小さく、誰にも聞こえないほどの声で。


「君はもう、私のものだ」


 その言葉は、鎖のようであり、救いのようでもあり、そして呪いであった。


Ver.2《Poison》までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。


ここまで読んでくださった方で、この先のリゼルたちの物語も見届けてみたいと思っていただけましたら、ブックマークしていただけますと、とても励みになります。


次なる物語――Ver.3《Arrow》も、どうぞよろしくお願いいたします。

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