Ver.2 Poison Chapter 5-2 やりたい放題の暴れん坊兄妹
前回――
リゼルが《大罪魔法・憤怒――サタンの果実》で、古城の前庭を地獄へと変えました。
そして本人は、メリュジーヌを追って城の奥へ。
では――
前庭に残された二人は?
ルドラとドゥルガー。
目の前には、まだまだ大勢の敵。
「いっぱい?」
「いっぱいだ」
「やった!」
どうやら、こちらはこちらで心配する必要はなさそうです。
むしろ――
心配するべきなのは、彼らを相手にしなければならない方でしょう。
今回は、そんなアーシュラ家の暴れん坊兄妹のお話。
それでは――
Ver.2 Poison Chapter 5-2
『やりたい放題の暴れん坊兄妹』
どうぞ、お楽しみください。
前庭に残されたルドラとドゥルガーは、迫り来るモルテ・ネラの構成員たちを相手に、なおも戦い続けていた。
ほんの少し前まで、そこは古城の威容を正面から望むために整えられた広大な前庭だった。黒灰色の石を規則正しく敷き詰めた舗装路、その左右に並ぶ石柱、長い年月を経てなお形を保っていた彫像、城壁に沿って植えられた魔界特有の黒い葉をつける低木。かつてこの城を築いた者が、訪れる者へ己の権勢を見せつけるために整えた場所だったのだろう。しかし今では、その面影を探す方が難しかった。
前庭の至るところに、つい先ほど《大罪魔法・憤怒――サタンの果実》が穿った巨大な焦痕が残されている。石畳は単に煤けたという程度ではなく、爆心に近い場所では石そのものが一度溶解し、急速に冷やされた表面が黒い硝子のような光沢を帯びていた。別の場所では地面が大きく抉れ、吹き飛ばされた岩塊が数十メートル先の城壁へ突き刺さっている。正門脇にあった見張り塔に至っては上半分が消失し、残された断面だけが赤熱したまま、夜気に触れて白い蒸気を噴き上げていた。
城そのものも、まだ《サタンの果実》から解放されてはいなかった。城壁には無数の亀裂が走り、窓という窓から黒煙が吐き出され、熱に耐えきれなくなった石材が時折ぱきりと音を立てて剥がれ落ちる。半壊した石柱が低く軋み、しばらく耐えた末に轟音とともに倒壊すると、巻き上げられた灰の中から赤い火の粉が夜空へ舞い上がった。魔法そのものは既に終わっている。それでも古城だけが、今なおあの一撃を受け続けているかのように、燃え、軋み、少しずつ崩れ続けていた。
数分前、この場所の上空を埋め尽くしていたのは、無数の赤黒い果実だった。林檎にも似た形をしていながら、その表皮は濡れた臓器のように艶めき、血管にも似た筋を浮かべ、一つ一つが心臓のように脈動していた。膨張し、収縮し、また膨らむ。その果実に次々と亀裂が走った時、内側から漏れ出したのは果汁ではなく、太陽の欠片でも閉じ込めたかのような灼熱の光だった。そして熟した果実が枝から離れるように、あまりにも自然に地上へ落ちてきた。その一つ一つが爆ぜるたびに地面を穿ち、城壁を削り、夜空を赤く染め上げた。その結果が、今ルドラとドゥルガーの目の前に広がっている。
だが、本当に異様なのは破壊の規模ではなかった。焦土と化した一帯のすぐ隣に、ほとんど無傷の区画が残されている。城壁の一部が溶け落ちているにもかかわらず、その延長線上にある建物だけは不自然なほど綺麗な形を保っていた。偶然ではない。そこにはセレスティアの魔力反応があった。リゼルは空を埋め尽くすほどの《サタンの果実》を生み出しながら、その落下地点を選別し、母のいる区画だけを正確に外していたのである。
圧倒的な魔力に任せ、周囲の全てを吹き飛ばしたのならば、まだ単純な暴力として理解できる。だが、あれほどの破壊を引き起こしながら、壊してよい場所と壊してはいけない場所を明確に分けている。怒りに任せた暴発ではない。敵を焼き払いながらも、術者の頭は最後まで冷静だった。その事実を理解できる者ほど、前庭に残された不自然な境界線に寒気を覚えただろう。
もっとも、その術者であるリゼルは既にこの場にはいない。メリュジーヌを求め、たった一人で城の奥へと進んでいる。残されたのは《サタンの果実》が刻みつけた傷跡と、まだ燃え続ける古城、そしてその惨状を前にしても平然としている二人のアスラ族だけだった。
ころころと、焼けた石畳の上を何かが転がった。小さな黒い塊だった。表面は完全に炭化し、先ほどまで空を埋め尽くしていた果実の残滓なのか、それとも爆発に巻き込まれた何かなのか、もはや判別することもできない。それは石畳の傾斜に沿って転がり、やがてドゥルガーの足元で止まった。
「ん?」
ドゥルガーは一度だけ足元へ視線を落としたが、それ以上の興味は示さなかった。そのまま一歩を踏み出すと、炭化した塊が靴底の下でぱきりと砕け、わずかな火の粉となって散っていく。
「もっと出てこないかなー」
つい先ほどまで空を覆っていた《サタンの果実》も、彼女にとっては既に終わった出来事だった。隣を歩くルドラも同じらしく、崩れた瓦礫を無造作に蹴り飛ばす。それが《バアルの投擲》で吹き飛んだ正門の残骸なのか、《サタンの果実》によって崩れ落ちた城壁の一部なのか、もはや見分けることすらできなかった。
「おいおい、随分と脆い門じゃねぇか。こんなので客を迎えるつもりだったのかよ」
ルドラの口元には獰猛な笑みが浮かび、ドゥルガーの顔には屈託のない、それでいて恐ろしいほどの高揚があった。二人にとって、この地獄のような光景は恐怖の対象ではない。何しろ、この惨状を作り出した張本人は自分たちの仲間である。だから二人が気にしているのは、焼け落ちた城でも、溶けた石畳でもない。この先に、まだ自分たちと戦える相手が残っているかどうか。それだけだった。
一方、城を占拠していたモルテ・ネラの構成員たちにとっては、何もかもが想定外だった。彼らが待っていたのは、オルディアス・ノクス・ヴァルクロアである。堕天使族の大侯爵にして、ヴァルクロア家の当主。軍勢を率いて来るか、腹心を差し向けるか、あるいは妻を奪われた怒りに駆られ、本人が直接この城へ踏み込んで来るか。いずれにせよ、その中心にオルディアスが存在することだけは疑っていなかった。
そのための準備もしていた。侵入経路を絞り込み、毒と呪詛を配置し、対堕天使族用の拘束術式まで用意した。城内の構造を利用して敵を分断し、戦力を削り、最後には逃げ道そのものを塞ぐ。さらには、オルディアスという男の性格まで調べ上げていた。何を大切にし、何に怒り、何を奪われれば冷静さを失うのか。大侯爵という立場にある男を、一人の夫として動かすには何を餌にすればいいのか。全ては、オルディアス本人をこの古城という狩場へ引きずり込み、確実に仕留めるためだった。
だからこそ、正門を跡形もなく吹き飛ばし、堂々と踏み込んできた三人を見た瞬間、彼らは一瞬だけ理解を拒んだ。小さな堕天使族の少女と、二人のアスラ族。オルディアスではない。大侯爵家の軍勢でもない。しかも、そのうち最も幼く見える少女が、空を埋め尽くすほどの《サタンの果実》を降らせたかと思えば、二人を残して一人で城内へ消えていった。
誰なのか。何故ここにいるのか。何を目的としているのか。疑問はいくつもあったが、考えている時間はなかった。今夜、この古城を占有しているのはモルテ・ネラであり、守る側は彼らである。そしてルドラとドゥルガーは、正面から乗り込んできた明確な敵だった。
正門脇の城壁上にいた見張りが、ようやく我に返った。
「迎撃しろ! 残った二人を殺せ!」
弩兵が毒針を仕込んだ短弩を構え、影使いたちが壁面の闇へ溶けるように左右へ散った。混乱から立ち直ってしまえば、動きは速い。暗殺者の集団らしく、それぞれが自分の役割を理解しており、指示を待たずとも互いの死角を補い合う。正面から短弩で回避方向を限定し、逃げた先へ影使いを潜ませ、さらに後方から呪縛術を重ねる。まともな侵入者なら、その一呼吸の間に身動きを封じられ、喉か心臓のどちらかを奪われていただろう。
「撃て!」
毒針が一斉に放たれた。
ルドラは避けなかった。足元に転がっていた瓦礫の破片を拾い上げると、それを武器のように横薙ぎに振るった。乾いた音が連続し、異なる角度から飛来した毒針が次々と弾き落とされていく。弩兵たちが目を見開いたのは、ほんの一瞬だった。その一瞬でルドラは地を蹴り、踏み砕かれた石畳を背後へ撒き散らしながら、正門脇の城壁上まで一息で跳び上がっていた。
見張りの一人が短剣へ手を伸ばした時には、もう遅い。横から叩き込まれた拳が顔面を捉え、男の身体は石壁へ激突した。鈍い音とともに跳ね返り、そのまま城壁の内側へ落下していく。ルドラはその行方を確認すらしなかった。あの一撃で立ち上がれるかどうかなど、殴った本人が一番よく分かっている。
「次」
喉の奥から、獣じみた低い笑い声が漏れた。
同時に、別の影がドゥルガーの背後で膨らんだ。二人の刺客が闇から飛び出し、左右から短剣を突き出す。完全な死角からの攻撃だったが、ドゥルガーは振り返ろうともしない。
「見えてるよ、そんなの」
四本ある腕のうち、後方へ回された二本だけが動いた。一方の拳甲が短剣を持つ手首を弾き飛ばし、もう一方の拳が腹部へ深々と沈む。身体を折った刺客へ追撃するより先に、もう一人の短剣が首筋へ迫ったが、ドゥルガーはわずかに頭を傾けるだけで刃を外し、そのまま肘を後方へ突き出した。
鈍い衝撃音とともに、二人の刺客がほぼ同時に崩れ落ちる。そこで初めて、ドゥルガーは振り返った。
「ね? 見えてたでしょ?」
にこりと笑った少女へ、返事をする者はいなかった。
迎撃班は、その時になってようやく理解し始めていた。これは暗殺対象ではない。自分たちが普段相手にしている、隙を探し、急所を突き、毒を入れれば倒れる類の敵ではなかった。戦場へ放り込まれた暴力そのものが、二人がかりで正面から押し寄せてきている。それでも彼らはモルテ・ネラの実行部隊である。恐怖を覚えた程度で逃げ出すような者たちではない。
「囲め! 正面から当たるな! 二人を分断しろ!」
毒刃、影縫い、呪縛糸、短距離転移。様々な技能を持つ構成員たちが、廊下や塔、階段、外郭から次々と前庭へ集まってきた。彼らは決して弱くない。一人一人が長年にわたり殺人技術を磨き、正面から戦うことを避けながら格上すら仕留めてきた専門家である。動きを封じ、視界を奪い、意識を別方向へ向けさせ、その一瞬だけ生まれた死角へ刃を滑り込ませる。殺すという一点だけを考えれば、極めて合理的な戦い方だった。
だが、ルドラには通じなかった。
「うぜぇな」
腕へ巻きついた呪縛糸が、筋肉の膨張とともに軋み始める。術者は慌てて魔力を注ぎ込み拘束を強化したが、次の瞬間には糸そのものが引き千切られていた。ルドラは腕に残った糸を掴むと、そのまま逆方向へ力任せに引く。術者の身体が宙を舞い、悲鳴を上げながらルドラの間合いへ引きずり込まれたところへ、拳が容赦なく叩き込まれた。
背後へ短距離転移してきた刺客には、振り返りざまの肘。正面から魔法弾を撃ち込まれれば、倒れていた守備役から奪った大盾を拾い上げて受け止め、その大盾ごと相手へ叩き返す。最初に持ち込んだグレートソードは数人をまとめて薙ぎ倒したところで刃が歪んだが、ルドラは惜しむ様子もなく捨てた。次に拾ったのは、倒れた敵が持っていた大斧だった。
大斧を振るう。壊れれば捨てる。槍が落ちていれば拾い、突くより投げた方が早いと判断すれば、そのまま投擲する。槍が折れれば盾を持ち、盾さえ邪魔になれば放り捨てて拳を使う。ルドラにとって、武器とは愛着を持つものではなかった。目の前にあり、敵を倒す役に立つなら使う。ただそれだけである。石も、盾も、敵の武器も、必要なら敵自身すら利用する。彼にとって戦場に存在するものは、武器か、これから武器になるものか。そのどちらかしかない。
戦場そのものが、ルドラの道具箱だった。
その隣で戦うドゥルガーの戦い方は、兄とはまるで異なっていた。彼女は二本の三日月剣と、残る二腕に装着したアビスタイトの拳甲を同時に操る。四本の腕はそれぞれが独立しているようでありながら、動きそのものは一つの流れとして繋がっていた。右上腕の刃を受け止めた相手へ、左下腕の拳が飛ぶ。その拳を警戒して身を引けば、空いた空間へ左上腕の三日月剣が滑り込み、さらに死角から右下腕が追撃する。
一人の刺客が、二本の三日月剣を交差させるようにしてどうにか受け止めた。金属同士が噛み合い、甲高い音が響く。男の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。剣を止めた。そう思ったのだろう。
「残念❤︎」
ドゥルガーには、まだ二本ある。
空いていた腕の一つが、アビスタイトの拳甲ごと男の顎を跳ね上げた。身体が宙へ浮いたところへ、もう一方の拳が叩き込まれ、そのまま石壁まで吹き飛ばされる。
「なんだこいつ……!」
「四本あるんだから、四本使うでしょ?」
ドゥルガーは本気で不思議そうな顔をしていた。彼女にしてみれば、四本の腕を持っているのだから四本とも使うのは当たり前である。相手が二本の腕を前提に間合いを測り、二本の武器を止めたことで安心する理由の方が理解できない。
そこから先は、一方的だった。二刀を防げば拳が来る。拳を警戒すれば刃が来る。一方向へ意識を向ければ、残った腕が別方向から襲いかかる。四本の腕が作り出す攻撃の連鎖には、人型の敵を相手にすることで染みついた常識が通用しない。しかもドゥルガー自身は、その異常な攻防をまるで遊びのように楽しんでいた。
踏み込み、旋回し、斬り、殴る。その全てが一つの流れとして続いていく。血飛沫の中を少女だけが軽やかに進み、その姿だけを見れば舞踏の一連の型を思わせるほど滑らかだった。しかし、彼女が通り過ぎた後に倒れている者たちが、その優雅さとは正反対の現実を示していた。
「もう終わり? 張り合いないなぁ」
ドゥルガーは周囲を見回した。頬にも四本の腕にも返り血が付着しているが、気にする素振りすらない。むしろ、新しい敵が現れないことの方が不満らしい。
「おい!」
ルドラが城の奥へ向かって吼えた。
「どうした、モルテ・ネラ! 暗殺者ってのは、正面から来られるとそんなに弱ぇのか!」
声が石造りの廊下を駆け抜け、幾重にも反響しながら城の奥深くまで届いていった。挑発はすぐに効果を表した。廊下の奥から複数の足音が聞こえ始め、塔からも新たな人影が降りてくる。10人、20人。それだけではない。別の区画からも騒ぎを聞きつけた構成員たちが集まり始めていた。
「来た来た」
ルドラの口角が上がる。
「いっぱい?」
「いっぱいだ」
「やった!」
ドゥルガーは心底嬉しそうに笑った。
二人は敵を倒していた。同時に、敵を集めていた。騒ぎを大きくし、派手に暴れ、城内へ声を響かせることで、モルテ・ネラの注意を正面へ集中させる。リゼルから細かく命じられたわけではない。何人引きつけろとも、どの経路を封鎖しろとも言われていない。それでもルドラとドゥルガーは、戦場の中で自分たちが何をすべきなのかを本能的に理解していた。
自分たちが暴れれば、敵が集まる。その分だけ、リゼルの前から敵が消える。それで十分だった。兄妹として長く戦ってきた経験なのか、戦士として身についた勘なのか、それともリゼルという一人の友を知っているからこそ成立する信頼なのか。二人にとって、その違いを考える必要すらない。
「兄ぃ」
「あ?」
「リゼル、大丈夫かな?」
ルドラは一瞬だけ黙り、やがて鼻で笑った。
「逆だろ」
「ん?」
「あいつに見つかった奴の心配してやれ」
ドゥルガーはきょとんと目を丸くした後、意味を理解したらしい。
「あはは! それもそっか!」
つい先ほど、この前庭へ《サタンの果実》を降らせた少女を心配する必要があるのか。少なくともルドラには、その発想自体が馬鹿馬鹿しかった。二人は笑いながら、再び敵の群れへ飛び込んでいった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、城の中層にいたバルゼオン・ディグラードのもとへ、一人の部下が転がり込むように駆け込んできた。
「侵入者です!」
報告を聞いたバルゼオンは、すぐには振り返らなかった。
「オルディアスか」
その声には驚きよりも、むしろ待ち望んでいたものがようやく現れたという確信があった。セレスティアを攫った以上、オルディアスが動くことは分かっていた。そのために攫ったのだから当然である。どれだけ冷静な大侯爵であろうと、妻を敵の手に奪われたまま静観するはずがない。バルゼオンは、その瞬間を10年間待っていた。
「違います!」
「……何?」
「アスラ族が二人! もう一人は――」
部下はそこで言葉に詰まった。報告内容を自分自身でも理解できていないような顔だった。額には玉のような汗が浮かび、呼吸も乱れている。ただ敵が侵入したというだけならば、裏の世界で生きてきた人間がここまで狼狽することはない。
「もう一人は何だ!」
「堕天使族の……幼い少女です!」
バルゼオンが、ゆっくりと振り返った。
「……少女?」
「はい」
「オルディアスは?」
「確認されていません!」
「騎士団は?」
「いません!」
「大侯爵家の兵は!?」
「一兵も!」
バルゼオンは黙った。意味が分からなかった。オルディアス本人が来るなら分かる。騎士団が雪崩れ込んでくるなら分かる。大侯爵家の精鋭が先行して城へ侵入してくるのも想定していた。だが、アスラ族が二人と、幼い堕天使族の少女。その組み合わせだけは、彼がこれまで用意してきたどの想定にも存在しなかった。
しかも、その三人は正門を突破した。いや、突破などという表現では足りない。正門そのものがなくなったのだ。その直後には、空から得体の知れない大魔法が降り注ぎ、古城の一部を焼き払った。轟音は中層にいたバルゼオンのもとまで届き、床さえ揺れた。あれほどの破壊を引き起こした何者かが侵入したことだけは分かっていた。
それが、幼い少女。
その事実だけが、どうしても現実として結びつかない。だからこそ、不気味だった。何十年も裏の世界で生きてきた者の勘が、目の前で起きていることを軽視するなと警告していた。分からないものほど危険である。相手の目的も、力量も、行動原理も分からなければ、次の一手を読むことすらできない。
「ふざけんじゃねぇ……!」
バルゼオンは壁を殴った。拳を受けた石壁が砕け、細かな破片が床へ散る。関節から血が滲んだが、痛みなど意識に入っていなかった。
今日、この夜のためだけに積み上げてきた10年だった。父が処刑されたあの日から、片時も忘れたことはない。金を集め、人を集め、裏社会へ潜り、使える者を選び、使えない者を切り捨てた。情報を買い、裏切りを買い、必要なら命さえ買った。全ては今日という一夜へ辿り着くためだった。
オルディアスについても徹底的に調べた。大侯爵として何を優先するのか。夫として何を守るのか。怒った時にどのような判断をするのか。妻を奪われた時、どれほど冷静でいられるのか。その性格、行動、誇り、その全てを材料にして今日の罠を組み上げた。
セレスティアは餌だった。妻を奪えばオルディアスは来る。来れば、用意した狩場へ誘い込める。いかに強大な大侯爵であろうと、罠を重ね、毒を重ね、戦力を削り続ければ必ず隙は生まれる。その一瞬を突き、父の仇を討つ。それが10年間、バルゼオンが思い描き続けてきた復讐の完成形だった。
それなのに、オルディアスが来るより先に、見知らぬアスラ族の兄妹と、訳の分からない幼い堕天使族の少女が正門を吹き飛ばし、前庭を焼き払い、10年かけて用意した舞台そのものを踏み荒らしている。
「なんでそうなる……!」
怒鳴るというより、絞り出すような声だった。
その時、遠くで轟音が響いた。床が僅かに揺れ、何かが壁へ叩きつけられた音が続く。さらに悲鳴が上がり、その向こうから――。
「どうしたモルテ・ネラァァァ!! 暗殺者ってのは、正面から来られるとそんなに弱ぇのか!」
石造りの廊下を幾重にも反響しながら、ルドラの声が微かに届いてきた。バルゼオンの頬が引き攣った。
「……ふざけんじゃねぇ」
まだ終わってはいない。10年かけた計画が、こんな訳の分からない横槍で終わってたまるものか。オルディアスは来る。必ず来る。そのための餌は、まだこちらの手の中にある。ならば、まず状況を立て直さなければならない。
セレスティアを拘束している部屋を確認し、必要なら配置を変更する。正面の戦力がアスラ族の二人へ吸われている以上、別の区画から人員を回す必要もある。予定していた手順からは大きく外れたが、使える駒がなくなったわけではない。
「ヒュドラーも、まだ使える。メリュジーヌも……まだ使える」
バルゼオンは踵を返し、セレスティアを拘束している部屋へ向かって走り出した。背中の翼を大きく広げ、長い石造りの廊下を一直線に駆け抜けていく。その間にも、遠くから何度も轟音が響いていた。壁が崩れる音、構成員たちの悲鳴、そして時折混じるルドラとドゥルガーの楽しそうな笑い声。前庭へ向かった戦力は次々と二人へ吸い寄せられ、城内の配置は、バルゼオンが描いていたものとは全く異なる形へ変わり始めていた。
バルゼオンは舌打ちを一つ残し、そのまま廊下の角を曲がって姿を消した。
◇ ◇ ◇
その頃、古城のさらに奥では、小さな足音が一定の間隔で石床を叩いていた。前庭から響いてくる戦闘の音は、厚い石壁と長い廊下に遮られ、ここまで来る頃には遠雷のように低くくぐもっている。それでも時折、床を伝って微かな振動が足元まで届いた。
その音の中を、リゼル・ノクス・ヴァルクロアは一人で歩いていた。
5歳という幼い身体には、正門へ辿り着く以前からの傷が残っている。寝間着姿のまま飛び出してきたため、戦場へ赴く者らしい装備など何一つ身につけていない。頬には痣が残り、口元には乾きかけた血の跡がこびりついている。それでも足取りに迷いはなく、赤紫の瞳だけが暗い廊下の先を真っ直ぐに見据えていた。
前庭で何人倒れたのか。ルドラとドゥルガーが何人を相手にしているのか。自分が放った《サタンの果実》によって、古城がどれほど壊れたのか。そんなものに足を止める理由はなかった。リゼルが今、この城の奥へ向かっている理由は一つしかない。
やがて少女は、歩きながら小さく口を開いた。
「待っていろ、メリュジーヌ」
返事はない。当然だった。どれほど耳を澄ませても聞こえてくるのは、自分の足音と、遠くから伝わる戦闘の残響だけ。それでもリゼルは歩みを緩めることなく、暗闇のさらに向こうへ赤紫の瞳を向けた。
「今、私が行く」
小さな影は、そのまま古城の奥深くへと消えていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
リゼルがいなくなった前庭で――
存分に暴れていただきました。
ルドラとドゥルガー。
敵が多い?
囲まれている?
そんなもの、この兄妹にとっては問題ですらありません。
むしろ――
「いっぱい?」
「いっぱいだ」
「やった!」
……増えれば増えるほど喜びます。
さて。
そんな暴れん坊兄妹に前庭を任せ、城の奥へと向かったリゼル。
その先で待っているのは――
一人、燃える夜空を見つめるメリュジーヌ。
裏切った少女と。
それでも彼女を友達だと言い張る少女。
そして今日は――リゼルの誕生日。
まだ、メリュジーヌからプレゼントを貰っていません。
次回――
Ver.2 Poison Chapter 5-3
『バースデープレゼントは君がいい』
リゼルが欲しいものは、もう決まっています。




