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Ver.2 Poison Chapter 4-2 夜遊び

ようやく手を取り合った、リゼルとメリュジーヌ。


けれど、その夜は二人をこのまま帰してはくれないようです。


五歳の大侯爵令嬢、初めての「夜遊び」。


少々騒がしい夜になりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。

 地上へ戻った頃には、屋敷の中から宴の余韻は完全に消えていた。廊下を行き交う使用人たちは声を潜め、護衛の兵士たちは普段より多く配置されている。リゼルの隣にはメリュジーヌ。その後ろにメアとカルガが続く。やがて、寝室の前へ辿り着いた。


「母上。戻りました」


 扉を開ける。セレスティアは、すぐに立ち上がった。


「リゼル」


 最初に娘を見る。頭、顔、胸元、足。どこにも新しい怪我がないことを確かめるように視線を巡らせた後、ようやくその隣へ立つ少女に気づいた。


「……メリュジーヌ嬢」


 メリュジーヌの身体が、僅かに強張った。


「失礼いたします。この度は――」


「顔を上げて」


 セレスティアの声は穏やかだった。メリュジーヌは、ゆっくりと顔を上げる。その瞬間、セレスティアの目が細くなった。


「頬を怪我しているわね。座って」


「ですが」


「治療だけよ。痛むでしょう?」


 メリュジーヌは戸惑いながら椅子へ腰掛けた。セレスティアは小卓から清潔な布と薬を取り、少女の前へ膝をつく。


「少し沁みるかもしれないわ」


 薬を含ませた布が頬へ触れた。


「っ……」


「ごめんなさい」


 メリュジーヌは、じっとセレスティアの顔を見ていた。


「どうしたの?」


「……何故ですか。私は、貴女の娘を……リゼルを傷つけたかもしれない」


「そうね」


 薬を塗り終え、今度は薄い布を当てる。


「でも、貴女も誰かの娘でしょう? それと、怪我をしている子を放っておく理由は別よ。今は、それだけでいいでしょう?」


 メリュジーヌは返事をしなかった。ただ、視線を落とした。


「ありがとうございます」


 小さな声。それだけ。セレスティアは笑みを深めた。


「どういたしまして」


 その様子を、マヒーシャは少し離れた場所から静かに見ていた。


「リゼル嬢」


 カルガが口を開いた。


「ここから先は、私も聞かせていただいてよろしいですかな」


「はい。もちろんでございます」


 リゼルはメリュジーヌの正面へ椅子を引いた。


「お話をしましょう」


 メアは主人の右後ろに控え、カルガは少し離れた位置へ立つ。セレスティアとマヒーシャもそのまま部屋に残った。


「最初に、毒杯について聞きます。貴女は、あの中身が猛毒だと知っていましたか?」


「……いいえ」


「では、何だと聞いていました?」


 メリュジーヌの指が、膝の上できゅっと握られた。


「眠らせるだけだと、聞いていました」


「誰を?」


「……オルディアス大侯爵様を」


「何のために?」


「分かりません。聞いていません」


 カルガの表情が変わる。


「メリュジーヌ嬢。断るって選択肢は、やっぱりなかったのか」


「……はい」


「メリュジーヌ様」


 リゼルが少しだけ声を落とした。


「言えば……」


「はい」


「母が」


 声が止まる。セレスティアの手も止まった。


「お母様が?」


 メリュジーヌの瞳が揺れる。その時だった。


 最初の揺れは小さかった。窓硝子がカタリと鳴り、卓上の茶器が僅かに震えた。誰もが、風のせいだと思っていた。二度目の振動では床そのものが低く唸り、水差しの水面へ幾重もの波紋が広がった。壁に掛けられた燭台の炎が、不自然に揺らめく。


「地震……?」


 セレスティアが呟く。


「違う」


 カルガが窓の外を見た。その横顔から、僅かに血の気が引いていく。何かを察したような、獣が牙を剥く直前の緊張が滲んでいた。三度目の衝撃は、それまでとは比較にならなかった。重い轟音と共に屋敷全体が大きく揺れ、天井から細かな塵が降る。窓硝子の一枚が、耐えきれず縦に亀裂を走らせた。


「セレス! 窓から離れて!!」


 マヒーシャの声だった。メアは何も言われずとも、すでにリゼルの前へ出て剣を抜いていた。切っ先が、微かな灯りを反射して鈍く光る。


 次の瞬間。外から巨大な何かが、寝室の外壁へ激突した。凄まじい轟音が響き、石材と木片、窓硝子が一斉に室内へ吹き飛んだ。壁の一部が完全に崩れ落ち、夜空が剥き出しになる。粉塵が渦を巻き、視界の半分を白く霞ませた。


 その向こう。巨大な影が蠢いていた。


「……何だ、あれは」


 八つの巨大な首。それぞれが蛇のように長くうねり、屋敷の壁面へ食らいつくほどの巨体を夜闇の中に晒している。そのうちの一頭が、崩れた壁の隙間を割り広げるようにして、鎌首を室内へ滑り込ませた。


 その一頭が、大きく口を開けてメアへ襲いかかった。


「――っ!」


 メアの剣が閃く。首の一本が、根元から綺麗に斬り落とされた。断末魔の唸りを上げながら、巨体が床へ落ちる。


 だが。


「……え?」


 切断面から、黒紫の魔力が噴き上がった。見る間に新たな肉が盛り上がり、瞬く間に元と同じ首が形を取り戻していく。まるで、何事もなかったかのように。


「ふふふ……」


 笑い声がした。メリュジーヌだった。椅子から静かに立ち上がっている。腫れた頬も、震えていた指も、今はもう見る影がない。先ほどまでの怯えた令嬢の声ではなかった。震えも、怯えもない。凪いだ水面のように、冷え切った声だった。


「それではダメよ。私の可愛い魔鞭ヒュドラーは、八つの首を同時に切らないと」


「……お前の、だと?」


「ええ。可愛いでしょう?」


 メリュジーヌは、微笑んだ。腫れた頬のまま、それでも綺麗に弧を描く笑みだった。


「あの鞭は、八本の首をほぼ同時に落とさない限り、際限なく再生を続ける」


 崩れた壁の向こうから、黒紫の霧が這うように流れ込んできた。霧の中から、複数の人影が姿を現す。黒い頭巾に、黒い外套。頭巾の額には、鈍く光る十字の紋章。裾には、同じ紋様がもう一つ縫い込まれている。彼らは迷わずメリュジーヌの背後へ回り込み、揃って片膝をついた。


「モルテ・ネラ、参上いたしました」


「ご命令を」


 顔の見えない声が、静かに重なる。その光景に、部屋の空気が一段と冷えた。


「……メリュジーヌ嬢」


 カルガの声が低くなる。


「はい」


「あれは、貴女の仲間か」


「同じ根から出た者たち、というだけです」


 メリュジーヌは、感情の抜け落ちた顔でそう答えた。カルガは、それ以上何も聞かなかった。代わりに、腰を落とし、両手の拳を打ち合わせる。


「話は、それで十分だ」


 声色が、変わっていた。先ほどまでの理知的な尋問官の声ではない。もっと荒々しく、もっと直情的な、戦士としての地声だった。


「面白ぇ。久しぶりに骨のある獲物じゃねぇか! なぁ、母ちゃん?!」


 カルガが妻を呼ぶ。


「あんた! 何匹いける!?」


 マヒーシャの声も、負けじと勇ましい。四本の腕がゆっくりと構えられる。


「全部俺がぶっ殺してやる!!」


「そしたらセレスを守り切れないよ!」


「チッ!」


 カルガが舌打ちする。素早く視線を巡らせ、部屋の隅に立つリゼルを見た。


「すまねーリゼル嬢! ちょいと二匹受け持ってくれ!」


「は、はぁ……か、かしこまりました!!」


(さすがは戦闘民族サ◯ヤ……じゃない!アスラ族だ! マヒーシャ様まで、性格変わっているぞ!)


 内心で盛大に突っ込みながらも、リゼルは即座に頷いていた。断るという選択肢が、そもそも存在しない空気だった。その時、マヒーシャの姿が、リゼルの目にも映らない速さでメアの傍を掠めた。


「ちょっと借りるよ、メアさん」


 気づいた時には、メアの腰から予備の剣が消えていた。


「……えっ」


 メアが自分の腰へ手をやり、抜かれたことにようやく気づく。


「悪いね。あんたの得物、ちょうどいい長さだったからさ」


 姉御肌の口調のまま、マヒーシャは奪った剣を四本目の腕へ握らせた。三本の腕と一振りの剣。それだけで、彼女の戦闘態勢が完成する。


「マヒーシャ様……」


「文句は後で聞くよ」


 ヒュドラの一頭が大口を開けた。喉奥へ魔力が凝縮される。


「来るぞ!」


 カルガの声。その瞬間、戦いが始まった。


「うねうねうぜぇんだよ! さっさとくたばれやぁ!!」


 カルガの拳が、ヒュドラの首の一本を粉砕した。だが、すぐにまた新たな肉が盛り上がり、何事もなかったかのように牙を剥く。


「チッ! いくら輪切りにしても、すぐに復活してくるわね!」


 マヒーシャの剣――奪ったメアの予備剣が、別の首を両断する。だが、それも瞬時に再生していく。その光景に、二人の苛立ちが加速していく。ヒュドラの切断面から噴き出した黒紫の体液が、マヒーシャの頬を掠めた瞬間。


「この野郎! 俺のマーシャに汚ねぇ体液付けてんじゃねぇ! ぶっ殺してやる!」


 カルガの巨躯が、地を蹴った。


「――《羅刹天獄》!」


 咆哮と共に、周囲一帯へ凄まじい重圧がのしかかった。ヒュドラの数本の首が、見えない巨大な手に握り潰されるように歪む。次の瞬間、その圧が反転し、爆発的な力で押し潰された肉塊が四方へ弾き飛ばされた。


「まだだ! 《無間地獄》!」


 カルガを中心に、超高密度の魔力圧が展開される。押し潰し、次いで爆発的に弾き飛ばす。二連続の圧殺技に、ヒュドラの巨体が大きくよろめいた。


(うわぁ……カルガ閣下、天井に穴空けたぞ。すげー)


 リゼルは、自分の担当する二本の首を淡々と処理しながら、場違いなほど冷静にそう思っていた。周囲があまりにも熱狂的すぎて、逆に頭の芯だけが冷めていく。マヒーシャもまた、負けじと剣を振るう。


「《鬼哭一閃》!」


 轟音と共に、床が一直線に裂けた。斬撃は男たちの間を駆け抜け、その遥か後方――ヒュドラの巨大な首まで両断した。


(マヒーシャ様……なんかウナギみたいにヒドラをおろしているなぁ。エグいわぁー)


「まだいけるかい、カルガ!」


「上等だ! 《鬼神大獄殺》!」


 カルガ自身から放たれた膨大な魔力が大気を押し潰し、その反動で周囲数十メートルを丸ごと吹き飛ばした。壁の残骸がさらに砕け散り、庭園の一部まで巻き込まれる。


(あ、カルガ閣下……超必殺技っぽいの出して壁をぶち抜いたぁ。明日から私はどこで寝よう?)


「《天魔豪衝》!」


 六本の腕を大きく広げた瞬間、全方位へ魔力圧が大爆発した。王道ではあるが、それだけに重い一撃だった。


(あ。あれは、父上が外遊先で買ってきてくださった魔水晶の工芸品だ……粉々だな)


「そっちがそのつもりなら――《修羅・哭月》!」


 マヒーシャの剣から放たれた巨大な弧状の斬撃が、崩れた壁の外まで届き、ヒュドラの首をまとめて薙ぎ払った。


(マヒーシャ様……なんであんな楽しげなんだ? ディもこうなるのかなぁ? なんか嫌だぞ、私の嫁が殺戮兵器なんて)


 二人とも、貴族らしい上品さも、普段の落ち着いた話し方も、今はもうどこにもない。ただ、目の前の敵を叩き潰すことだけに没頭する、根っからの戦闘民族の顔だった。カルガの戦い方は圧殺と爆砕を軸にした力任せの猛攻で、どこかルドラの荒々しさに通じるものがある。マヒーシャの方は一撃の間合いと切れ味に特化しており、ドゥルガーが将来こうなるのではと思わせる鋭さだった。そのあまりのハイテンションぶりに、リゼルだけが逆に冷静だった。


 リゼルの正面でも、割り当てられた二本の首が同時にうねりを上げた。


「――邪魔だ」


 無詠唱の魔力弾が二発、迷いなく撃ち出される。首が一本、また一本と千切れ飛び、黒紫の血が壁へ飛び散った。もっとも、これで終わりではないことは分かっている。案の定、切断面から新たな肉が盛り上がり始めていた。


(面倒な。だが、頭数が減った分だけ、他が楽になる)


 リゼルは短く息を吐き、次の攻撃へ意識を戻した。


「侵入者!」


 カルガが振り返る。崩れた壁から、複数の黒装束が次々と室内へ入り込んでくる。だが、彼らはヒュドラを援護しようとはしなかった。真っ直ぐ、セレスティアへ。


「危ねぇ、セレス!」


 カルガが叫んだ。貴族としての取り繕いなど、もうどこにもない。幼馴染を呼ぶような、飾らない声だった。


「セレス、あたしの後ろに隠れてな!」


 マヒーシャがセレスティアの前へ回り込み、四本の腕を広げる。二人の連携に迷いはなかった。貴族としての作法ではなく、幼い頃から積み重ねてきた呼吸そのものだった。黒装束の一人がセレスティアへ手を伸ばす。マヒーシャの拳がそれを迎撃し、男の身体が宙を舞った。


「うおおおおおッ!」


 カルガも吼えながら、次々と迫る黒装束を叩き伏せていく。二人がかりであれば、この程度の数に押される道理はなかった。


 だが。ヒュドラの一頭が、その隙を縫うように鎌首をもたげた。カルガとマヒーシャの意識が、目の前の黒装束へ集中しているその瞬間。


「――っ!」


 巨大な首が、セレスティアの身体をあっさりと絡め取った。


「セレス!」


 マヒーシャが振り返る。遅い。二人の連携が崩れた、たった一呼吸の隙を、ヒュドラは正確に突いていた。その瞬間、マヒーシャの顔が変わった。穏やかさも、優しさも、侯爵夫人としての冷静さも、全てが吹き飛んだ。


「その汚い首を、セレスから離せ!!」


 怒声と同時に床を踏み抜く。四本の腕が一斉に振るわれ、進路を塞いだ黒装束がまとめて吹き飛ばされた。


「離せぇぇぇぇ!!」


 踏み込む。あと一歩。その拳が届く直前。別のヒュドラの首が横から割り込み、薙ぎ払った。


「くっ!」


 マヒーシャは両腕を交差させて受ける。巨体と巨力の衝突に床が砕け、マヒーシャの身体が数メートル後方まで押し流された。その僅かな時間。セレスティアを絡め取ったヒュドラの首が、じりじりと崩れた壁の外へ引いていく。


「やめろ、メリュジーヌ様。お前の目的は私なのだろう?」


 リゼルの声は低かった。メリュジーヌは一瞬、きょとんとした顔をした。そして、笑った。


「私の目的がリゼル様? あはははははっ! 貴女ってどうしてそこまで自意識過剰なの?」


「……何だと?」


「今夜の招待状は、貴女ではなく貴女のお父様宛てですの」


 その言葉に、リゼルの表情がわずかに変わった。自分ではない。狙いは父。ならば、母を攫う理由は明白だった。オルディアス・ノクス・ヴァルクロアを動かすための餌。その事実が、リゼルの胸の奥に冷たい怒りを沈めていく。


「リゼル様。貴女のお父様に伝えておいて」


 メリュジーヌは微笑んだ。


「ここから南西にあるベルルカリス領の打ち捨てられた古城で、お待ち申し上げます。お一人でお越しくださいませ。なお、招待状は一枚しかご用意はございません、とね」


「メリュジーヌ……!」


「ありがとう、リゼル様。貴女は、本当に優しい方ですわ。毒を渡したかもしれない相手を庇い、愚かにも同じ部屋へ招き入れ、最後まで友達などと呼んでくださった。……でも、そういうところが、少しだけ滑稽で、少しだけ哀れです」


 その間にも、セレスティアを絡め取ったヒュドラの首は、じりじりと崩れた壁の外へ後退を続けていた。首の付け根、その真下に当たる床へ、一人の黒装束が何かを投げ込む。光が走る。魔法陣が、セレスティアの真下でゆっくりと広がり始めた。


「転移が始まっています! お止めしなければ!」


 メアが叫び、駆け出す。しかし、その進路へ別の黒装束が立ち塞がった。


 一方。メリュジーヌもまた、異変に気づいていた。自分を連れ戻すはずの一団の中に、明らかに毛色の違う一人がいる。声をかけてきたのは、その男だった。手首には、小さな回収用の護符が仕込まれている。起動すれば、ほぼ一瞬で持ち主ごと転移する代物だった。


「蛇姫」


 メリュジーヌの表情が凍った。


「……何故」


 答えず、男の指が護符へ触れる。問答をする気など、最初からないらしい。


「母は……母は、無事なのですか」


「知る必要はない。お前も回収する」


 男の腕が伸びる。メリュジーヌは避けた。だが、背後から別の腕が身体を掴んだ。


「離して!」


「メリュジーヌ様!」


 リゼルが走る。


「お嬢様!」


 メアが主人を止めた。メリュジーヌの蛇髪が男の腕へ噛みつく。それでも拘束は解けない。苛立った男の拳が、少女の頬を殴りつけた。


「やめろ!」


 その拳が振り下ろされたのとほぼ同時に、男が護符を強く握り込んだ。足元に、光の輪が瞬時に浮かび上がる。そしてもう一方――セレスティアの真下でも、じわじわと広がっていた魔法陣が、ちょうど完成を迎えようとしていた。


「母上!」


「リゼル!」


 手が伸びる。届かない。


「リゼル! 自分を守って!」


 二筋の光が、ほぼ同時に弾けた。そして、二人の姿が、それぞれ別々に消えていった。


「――母上!!」


 残ったのは、崩れた壁と、夜風と、まだ完全には消えきらないヒュドラの咆哮だけだった。マヒーシャは、消えた魔法陣の痕跡を見つめたまま動かなかった。握り締めた拳から、血が滲んでいる。


「マヒーシャ」


 カルガが近づく。


「……セレスが連れていかれた……私の目の前で……」


「あぁ……だが、取り返しに行くぜ。この借りは100億倍返しだ」


 カルガは笑顔で呟き、拳と拳を叩き合わせる。だが、その目は笑っていなかった。友を連れ去られたことへの憎悪が、ぐつぐつと煮立っていた。


 マヒーシャが顔を上げた。その瞳には、燃えるような怒りがある。


「必ず、取り戻します」


 リゼルは二人を見ながら、強く歯を噛んだ。母。メリュジーヌ。二人とも連れ去られた。


「……父上を狙っている」


「恐らくな」


「母上は餌」


「メリュジーヌ嬢は使い捨てだろう。本人も知らされていなかった」


 その瞬間。廊下から、複数の足音が近づいた。


「リゼル!」


 オルディアスが寝室へ飛び込んでくる。エルミナ、ゼノヴィア、ミラベル、兵士たちも続く。崩れた寝室を見た瞬間、オルディアスの顔色が変わった。


「何があった! セレスティアは!?」


「母上は……攫われました。メリュジーヌ様も。同じ連中に」


 オルディアスの顔から、みるみる血の気が引いていく。カルガの口添えを容れ、メリュジーヌをこの部屋へ連れてくることを許したのは、他ならぬ自分自身だった。その判断が、こんな結果を招いた。


「私が……許可を、出したというのに」


 絞り出すような呟きだった。後悔とも自責ともつかない響きが滲んでいる。拳が固く握られ、その爪が掌へ食い込んだ。誰かにぶつける先のない怒りを、自分自身へ向けるしかないようだった。


「オルディアス」


 カルガが、その肩へ静かに手を置いた。


「今、お前が自分を責めたところで、セレスは戻ってこねぇ」


「……分かっている」


 オルディアスは目を閉じた。数秒。それだけで、握りしめていた拳から、僅かに力が抜けた。


「……すまない」


「では、父上」


 リゼルは、それだけ聞くと即座に居住まいを正した。


「リゼルは五歳の身なれど、今宵これより――夜遊び、して参ります」


「は?」


 オルディアスの声が、間抜けに裏返った。


「お嬢様」


 メアが前へ出た。


「私をお連れください」


「駄目だ」


 リゼルの返事は早かった。


「お前はまだ弱い。邪魔だ」


 メアの顔が、殴られたように強張った。だが、何も言い返さなかった。事実だと、本人が一番よく分かっていた。


「なぁ! リゼル嬢!」


 カルガが割って入った。


「確か、アビスゲートが使えたろ? ウチのルドラとディを使ってくれ!」


「そうだねぇ」


 マヒーシャも頷く。


「あの二人、リゼル嬢に強くなってるとこ見せたいって、前々から言ってたんだ。ちょうどいい機会さ。使っておくれ」


「カルガ、マヒーシャ」


 オルディアスが険しい声を出す。


「リゼルを煽るのはやめてくれ。これはうちの問題だ」


「なに言ってんのさ、オルディアス!」


 マヒーシャの声が跳ねた。


「セレスが攫われたんだよ! あんた、それでも男かい!?」


「そうだぜ、オルディアス」


 カルガも追い打ちをかける。


「すっかり貴族ボケしちまったな。昔のお前は、セレスが口説かれただけで相手を半殺しにしたっていうのによぉ」


「ほほぉ」


 リゼルが、にんまりと笑った。


「父上ぇ?」


「今はそんなことを話している場合かぁ!!」


 オルディアスの怒声が響いた。だが、その耳と首筋は、僅かに赤くなっていた。


「リゼル」


 オルディアスは、大きく息を吐いてから、改めて娘を見た。


「カルガとマーシャがこんなことを言っているが、貴様は屋敷で待機だ。セレスは私が助けに行く」


「では、早い者勝ちということで」


「な……んだと、貴様?」


「父上。ルドラとディに手伝って貰えますので、カルガ閣下への謝礼は父上持ちでお願いします。あぁ、それと」


 リゼルは、指を一本立てた。


「母上を先に助けた方が、次の報酬の高いご公務は総取り、ということでお願いします」


「勝手なことを言うな! お前は――」


 オルディアスの抗議は、最後まで届かなかった。


「ふはははははっ!!」


 リゼルは高らかに笑った。


「これでメルもご公務も、私のものだ! あーはっはっはっはっ!!」


 高笑いのまま、リゼルは足元へ紫の魔法陣を展開した。アビスゲート。渦を巻く光の向こうに、夜の闇よりなお深い座標が繋がっていく。


「では、行かせていただきます」


「待て、リゼル! 私も――」


 オルディアスが魔法陣へ足を踏み入れようとする。


「あ、父上」


 リゼルが片手を上げて制した。


「このアビスゲートは、定員一名です。本日分のチケットは完売しておりますので、ご乗車になれません」


「な――ふざけるな! そんな理屈があるか!」


「理屈です。父上のお名前では、この便にはご予約が入っておりません」


「リゼルぅぅぅ!!」


 オルディアスが魔法陣へ突っ込もうとした、その瞬間。背後から伸びた六本の腕が、オルディアスの胴体をがっちりと羽交い締めにした。


「まぁまぁ、オルディアス。ここは若いのに任せてやろうや」


「カルガ! 放せ!」


「放さねぇよ。リゼル嬢!」


 カルガは、羽交い締めにしたままオルディアスごと大きく笑った。


「ウチの闘技場をぶっ壊した時みたいに、派手にやってこいや!」


「カルガ閣下、マヒーシャ様。必ずこのお礼は――」


「いらないよ、そんなもの」


 マヒーシャが、けらけらと笑いながら手を振った。


「セレスを取り戻してくれるってだけで、十分すぎるお釣りさ」


「ぐぬぬぬぬ……! き、貴様らぁ! どっちの味方だ!?」


 オルディアスが羽交い締めのまま吼える。カルガとマヒーシャは、顔を見合わせ、揃って声を張り上げた。


「「リゼル!!」」


 リゼルは魔法陣の中心へ立ち、最後にもう一度笑った。


「では、行ってくる」


「お嬢様……わたし……」


「そんな顔をするな。お前はルドラとディのメシの支度をしていろ。手伝ってもらったのに、そのまま家に返すわけにはいかないからな」


 魔法陣の光が、一段と強く輝き始めた。リゼルの輪郭が、少しずつ光に溶けていく。その光景を目にした瞬間、メアの中で堪えていた何かが切れた。


「お嬢様ぁああああああ!!」


 崩れ落ちるように膝をつく。両手で顔を覆い、声を上げて泣いている。置いていかれる悲しみと、それでも笑って送り出さねばならない立場との板挟みに、涙腺が完全に決壊していた。


 次の瞬間、紫の光が弾け、リゼルの姿は魔法陣ごと消えていった。後に残ったのは、羽交い締めにされたまま項垂れるオルディアスと、声を上げて泣き続けるメア、そして満足げに笑う夫婦だけだった。


         ◇


「軍を編成しろ。屋敷の封鎖を確認。転移痕跡の追跡班を出せ。ノクタール侯爵は引き続き拘束。ベルルカリス領の古城を洗え!」


 オルディアスの声が、寝室へ響いた。父親としての動揺は、すでに消えていた。兵士たちが一斉に動き始める。


「私も参ります」


 マヒーシャが静かに進み出た。


「セレスティアは、私の幼馴染です。必ず、連れ戻します」


 カルガが妻の隣へ並んだ。


「俺もだ」


「カルガ」


「一人で突っ込むなよ。怒ると昔から周りが見えなくなる」


「今は黙ってください」


「承知した」


 マヒーシャは一度だけ目を閉じ、短く息を整えた。そして、再び前を見る。


「行きます」


 その夜。ヴァルクロア大侯爵邸は、完全に戦時へ移行した。アビスゲートの向こうでは、リゼルが新たな仲間を求めて駆けている。屋敷では、オルディアスが大侯爵家の兵を動かし、攫われた妻を追うための情報を集め始める。マヒーシャとカルガも、セレスティアを取り戻すため武装を整える。


 その中で、メアだけが、動くこともできずに立ち尽くしていた。


 リゼルを追うことも、セレスティアを救いに向かうことも許されない。ただ一人、その場に残されたまま、握った剣を見つめている。


 その時だった。


「なんじゃ、今宵は宴だと聞いて酒でも馳走になろうかと来たんじゃが、随分と派手な催しをしておるようじゃのぉ」


「メリッサ先生!?」


 オルディアスが叫ぶ。メリッサは部屋の惨状を見回した。崩壊した壁、破れた天蓋、焼け残った魔法陣の痕跡、リゼルが飛び去った夜空。さらに、拳を握りしめたままのオルディアスと、剣を抜いたまま立ち尽くすメアを見た。彼女はすぐには何も言わなかった。メリッサの目は、ただ見ていた。壊れた部屋を、逃げた敵を、置いて行かれた者を、残された者の弱さを。それから、ふう、と小さく息を吐く。


「なるほどのぉ」


 それだけで、何かを察したようだった。オルディアスが険しい顔を向ける。


「メリッサ先生、今は――」


「分かっておる」


 メリッサは遮った。


「お主の妻が攫われた。嬢ちゃんは飛び出した。敵は誘いをかけておる。じゃが、今この場で一番みっともない顔をしておるのは、お前さんではない」


 メリッサの視線が、メアへ向いた。メアは息を呑む。


「メア」


「は、はい、メリッサ先生」


「稽古を付けてやろう」


 メアは意味を理解できなかった。今、この場で。セレスティアが攫われ、リゼルが飛び出し、屋敷が戦時体制へ移ろうとしているこの瞬間に、稽古などという言葉が出てくるとは思わなかった。


「今は、それどころでは……」


「それどころじゃ。お主、また嬢ちゃんに置いていかれたじゃろう」


 メアの顔が強張る。その一言は、斬撃より深く刺さった。


「そ、それは……お嬢様が、私を……」


「要らんと見た」


 メリッサは容赦なく言った。


「今のお主では足手まといになる。そう見たから、嬢ちゃんはお主を連れて行かなかった。違うか?」


 メアは答えられなかった。答えられないことが、答えだった。


「私は……お嬢様のおそばに……」


「おりたいだけなら、誰でもできる」


 メリッサは一歩近づいた。


「守りたいなら、力を持て。追いたいなら、足を持て。隣に立ちたいなら、立つだけの理由を持て。泣いておれば嬢ちゃんが振り返ってくれると思うておるなら、その根性ごと叩き直してやる」


 メアの唇が震えた。オルディアスが一歩前へ出る。


「メリッサ先生。今、メアにそこまで言う必要は――」


「ある」


 メリッサは即答した。


「オルディアス。お主の過保護が招いた結果がこれじゃ。リゼルの嬢ちゃんも、そこのメイドも、お前さんが守れる範囲に閉じ込めようとした。じゃが、敵はその外から来た。ならば今必要なのは、慰めではない」


 メリッサの目が鋭くなる。


「鍛え直しじゃ」


 当のメアは、まだ膝をついたまま、声を上げて泣き続けていた。剣を握った手も震え、涙は止まる気配がない。崩れた壁の外から吹き込む夜風が、その涙を冷たく攫っていく。その姿を見つめるメリッサの眉が、僅かに苛立たしげに寄った。慰めを与えるつもりも、これ以上待つつもりもないらしい。


 次の瞬間、メリッサの足が動いた。蹴り。ただそれだけだった。だが、メアの身体は一直線に吹き飛び、ヒュドラが穿った壁の穴から外へ叩き出された。


「メア!」


 オルディアスが叫ぶ。メリッサは振り返らない。


「安心せい。死なん程度には手加減しておる」


「そういう問題ではありません!」


「ならば何の問題じゃ? あのままここで泣かせておけば強くなるのか? リゼルの嬢ちゃんが戻るまで待って、また置いていかれましたと泣かせるのか?」


 オルディアスは言葉に詰まった。


 その隙に、メリッサの視線が、ふらりと横へ逸れた。深刻な沈黙も、緊迫した空気も、彼女にとっては大した意味を持たないらしい。視線の先には、オルディアス、カルガ、マヒーシャの三人が並んでいた。


「それにのぉ、さっきから主ら、あたかも他人事のようにあの小娘を語っておるが、お前たちも今から再教育じゃ」


「「「は?」」」


 三人の声が、見事なまでに重なった。オルディアスは目を見開き、カルガは六本の腕を思わず組み替え、マヒーシャは半歩後ずさった。歴戦の武人たちが、たった一人の老女の一言でここまで動揺する光景は、そう見られるものではない。


「メリッサ先生、今はそれどころでは――」


 オルディアスが言い終えるより早く、空気が変わった。


 メリッサの身体から、目に見えるほど濃密な魔力が噴き上がった。空気そのものが押し潰されるように軋み、床の埃が渦を巻いて舞い上がる。込められているのは、稽古という言葉には到底そぐわない、正真正銘の殺気だった。


「さぁ、お前たち四人。嬢ちゃんが戻るまで、たっぷり稽古じゃ」


 三人が言葉を失っている間に、メリッサの足元から幾筋もの太い蔦が這い出した。信じられない速さで伸び上がり、オルディアス、カルガ、マヒーシャの胴を、それぞれ容赦なく締め上げる。


「な――」


「なんじゃこりゃあああ!」


「ちょっ、ま――」


 三者三様の悲鳴が重なった。だが、蔦は聞く耳を持たない。そのまま三人の胴へがっちりと絡みつくと、その端をメリッサが自らの手で束にして握った。


「行くぞ」


 たったそれだけの一言と共に、メリッサの足が地を蹴る。


 六本の腕を持つカルガの巨躯も、四本腕のマヒーシャも、大侯爵たるオルディアスでさえも、まるで荷車に繋がれた家畜のように、為す術もなく引きずられていく。踵が石床を削り、悲鳴混じりの抗議が尾を引いた。


 メリッサはそのまま崩れた壁の穴を潜り抜け、三人を引きずったまま屋敷の外へと飛び出していく。


 そして、メリッサ・ハウゼンによる地獄の稽古が始まった。


 同じ夜。同じ闇の下で。


 リゼルは、生まれて初めての「夜遊び」へと駆けていった。


 残された四人は、それとはまるで違う『夜遊び』へ、問答無用で付き合わされることになった。


 ――ヴァルクロア大侯爵邸の長い夜は、まだ始まったばかりだった。

お読みいただき、ありがとうございました。


五歳の大侯爵令嬢、初めての「夜遊び」。

その夜は、まだ始まったばかりです。


母を奪われ、そしてメリュジーヌも連れ去られた夜。

リゼルもまた、二人を取り戻すために動き出します。


その先で待っているものは――。


次話

Ver.2 Poison Chapter 4-3 『招待状のない少女』


引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。

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