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Ver.2 Poison Chapter 4-1 友達だから

毒杯によって、静かな夜は一変しました。


目を覚ましたリゼルが、まず確かめたいこと。

それは、自分を傷つけたかもしれない少女のことでした。


今回も、お時間がございましたら最後までお付き合いいただけますと幸いです。

 リゼルが意識を取り戻した時、最初に視界へ入ったのは、見慣れた深紫色の天蓋だった。壁へ埋め込まれた魔石灯が柔らかな光を放ち、黒檀の四柱から垂れる薄布を淡く照らしている。誕生日の朝には隅々まで美しく整えられていた寝室も、今は寝台脇の小卓に水差しや薬湯、治療に使われた薬草や布が並び、華やかな祝いの日とは思えない有様になっていた。焚かれた薬草の匂いが、まだ室内にわずかに残っている。


 窓の外に見える空は、すでに深い夜の色へ変わっている。星の位置から察するに、随分と長く眠っていたらしい。屋敷はしんと静まり返り、遠くで誰かが小走りに廊下を行き交う気配だけが、かすかに壁越しに伝わってきた。


「…………」


 身体を起こそうとして、リゼルは途中でやめた。胸の奥に、鈍い痛みが残っている。呼吸をするたびに、肋の内側を鈍器で押されているような重さがあった。毒そのものは、すでにほとんど問題にならない。リゼルの身体に残っている痛みは、宴席で飲み干した猛毒によるものではなく、その直後、自分自身の魔力で内臓を傷つけたことによるものだった。


 メリュジーヌを、その場で殺させないため。毒杯を飲まされた被害者という立場を確実なものにし、自分が後の処遇へ口を挟める余地を残すため。そのために血を吐き、意識を失うところまで演じた。後悔はないが、五歳の身体には少々乱暴だったらしい。今こうして横になっているだけで分かる。内臓というものは、演技のためだからと容赦してはくれない。


(……やり過ぎたか)


「……リゼル?」


 掠れた声がした。リゼルは、ゆっくりと顔を向ける。首を回すだけの動作にも、思いのほか力が要った。


「……母上」


 寝台のすぐ傍に、セレスティアがいた。いつもなら柔らかな微笑みを絶やさず、どれほど多くの貴族に囲まれても大侯爵夫人としての気品を崩さない母の目元が、今は赤く腫れている。淡い髪にも僅かな乱れが残り、娘が眠っている間、身支度を整えることさえ頭に入らなかったことが見て取れた。着替えもしていないのだろう、宴席で纏っていたドレスの裾には、走り回った跡らしい皺が幾つも刻まれている。そして、リゼルの右手は、セレスティアの両手に包み込まれていた。指の一本一本まで確かめるように、しっかりと。


「リゼル……!」


 娘の声を聞いた瞬間、セレスティアの瞳から、堪えていた涙が溢れた。椅子から立ち上がり、起き上がろうとした娘の身体をそのまま胸へ抱き寄せる。細い腕へ思いのほか強い力が入り、リゼルの頬が母の胸元へ埋まった。震える鼓動の速さが、布越しにも伝わってくる。


「よかった……」


「母上」


「本当に……よかった……」


 震える指が、娘の髪を何度も撫でる。何度も、何度も。まるで、その感触を確かめなければ、まだ夢の続きにいるのではないかと疑っているかのようだった。何が起きたのかも、誰が毒を用意したのかも、どうして娘があの杯を飲んだのかも。今のセレスティアは、何一つ尋ねなかった。大侯爵夫人として事件を追及するよりも先に、血を吐いて倒れた五歳の娘が、もう一度目を開いてくれた。ただ、それだけを喜んでいた。


 リゼルは、しばらく母の腕の中にいた。柔らかな香の匂いと、微かに乱れた鼓動と、離すまいとする腕の強さ。そのどれもが、演技ではない本物の感情だと分かるからこそ、リゼルはしばらく身動きを止めていた。


「……ご心配をおかけしました」


「そんなことはいいの」


 セレスティアは、すぐに首を横へ振った。


「貴女が目を覚ましてくれた。それだけで……今は、それだけでいいのよ」


 その時だった。


「セレス」


「お気持ちは分かりますけれど、リゼル嬢はお目覚めになったばかりですわ。あまり強く抱き締めては、お身体に障ります」


 セレスティアが、ようやく腕の力を緩めた。リゼルは母の肩越しに、その声の主を見る。


「マヒーシャ様……」


 窓際に置かれた長椅子に、マヒーシャが腰掛けていた。アーシュラ侯爵夫人として宴席へ出席していた時の装いのまま、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。四本の腕も無造作に遊ばせることなく、一組は膝の上へ、もう一組は茶器の傍へ添えられていた。窓の外から差し込む月明かりが、その横顔を静かに照らしている。いつもの落ち着いた佇まいは崩していないが、その目元には隠しきれない疲労が残っている。あの騒ぎの直後から、こうしてずっとセレスティアの傍に付き添い続けていたのだろう。長椅子の傍らには、口をつけた様子のない冷めた茶器が一つ、静かに置かれたままだった。


「お目覚めになられて、本当に安心いたしました」


 マヒーシャは、リゼルへ柔らかく微笑んだ。


「ご気分はいかがですか?」


「少し胸が痛みますが、大丈夫です」


「でしたら、無理に起き上がらず、もう少しお休みくださいませ」


「マヒーシャ様まで、ご心配をおかけしました」


「お気になさらないでください」


 微笑みは、そのままだった。


「セレスティアとは幼い頃からの付き合いですもの。このような時に、一人でいさせる方が難しゅうございます」


「お嬢様……」


 今度は、すぐ近くから別の声がした。リゼルが視線を移す。


「メア」


「……はい」


 メアが立っていた。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。それでも侍女服だけはきちんと整え、主人の前へ立つ者としての姿勢を保っていた。指先だけが、まだ僅かに震えている。


「ご無事で……本当に……」


 そこで声が詰まった。


「メア」


「はい……」


「泣くな」


「はい……」


「私は生きている」


「はい……!」


「なら、それでいい」


 答えながら、涙が一粒、また一粒とこぼれ落ちる。堪えようとすればするほど、次から次へと溢れてくるらしい。リゼルは困ったように息を吐いた。そして、メアが目元を拭おうと腕を動かした時、カチャリ、と小さな硬質音がした。金属同士が擦れるような、聞き慣れない音だった。


「…………」


 リゼルの視線が、メアの腰元へ落ちた。鞘は、一つではない。左右の腰へ、それぞれ一振りずつ。計二振りの剣が下げられていた。


「メア」


「はい」


「その腰の物は何だ」


「剣でございます」


「それは見れば分かる。二振りもな」


「失礼いたしました」


 鞘に収められた二振り。宴席へ向かう前には、確かになかったものだ。飾り気のない、実戦向けの拵え。侍女服の淡い色合いの中で、それだけが異様に馴染まず、それでいて妙にしっくりと収まっているようにも見えた。


「何故、帯刀している」


 問いを受けた瞬間、メアの表情が変わった。涙を堪えていた少女の顔から、静かな決意だけが残る。それまでの弱々しさが嘘だったかのように、背筋がすっと伸びた。


「もう二度と、お嬢様のお傍で丸腰ではおりません」


 メアの指が、腰の鞘へそっと触れる。


「お嬢様が血を吐かれた時も。倒れられた時も。私は……お名前をお呼びすることしかできませんでした。ですから、決めました。これより先、お嬢様のお傍に控える時は、必ず剣を帯びます」


「屋敷の中でも?」


「はい」


「食事の時も?」


「はい」


「入浴中は?」


「脱衣所へ置きます」


「寝る時は?」


「枕元へ置きます」


「…………」


 リゼルは、少し黙った。数ヶ月前、折れた木剣を握り、老樹の前で何度倒されても立ち上がった少女。あの頃はまだ、震える手で木剣を構えるだけで精一杯だった。その腰へ、今は本物の剣がある。しかも二振りも。


(私の嫁が、常時武装するようになってしまった)


 もう一度、剣を見る。鞘の艶、柄の握り込まれ具合。すでに何度も抜き差しを繰り返した跡が見て取れた。


(ヤベェ)


「お嬢様?」


「いや。何でもない」


 リゼルは小さく咳払いした。マヒーシャが、そこで再び口を開いた。


「良い心掛けだと思います。ですが、剣は持っているだけで主人を守ってくれるものではありません。抜くべき時と、抜いてはならない時。その判断も含めて身につけなければなりませんよ」


「はい。肝に銘じます」


 メアが深く頭を下げる。頭を下げた拍子に、また鞘が小さく鳴った。リゼルは、ふと顔を上げた。窓の外の闇を一瞥し、それから改めて室内を見渡す。


「……メリュジーヌ様は?」


 空気が変わった。柔らかだった部屋の温度が、ほんの少しだけ下がったように感じられた。


「どこにいますか」


「リゼル」


 セレスティアが娘の手へ触れた。


「今はまだ、身体を休めた方が――」


「母上。居場所を聞くだけです」


 マヒーシャの眉が僅かに動いた。


「リゼル嬢。お聞きになった後、本当にそのままお休みになりますか?」


「……努力いたします」


「それは、お休みにならない方のお返事ですわね」


 責める声音ではない。ただ、静かに見抜かれただけだった。


「メア」


「……地下の聞き取り室にいらっしゃいます。父上も、ノクタール侯爵も」


「カルガ閣下も?」


「はい」


 マヒーシャが静かに補った。


「主人は、少し前までこちらにおりました。リゼル嬢の容態を確認した後、オルディアス閣下のところへ。毒杯について調べるのであれば、自分も同席した方がよいだろう、と」


「カルガ閣下らしいですね」


「ええ。そういう方ですから」


「他には?」


「エルミナ様も、いらっしゃいます。ゼノヴィアとミラベルを伴われて」


「なっ――!」


 リゼルが勢いよく身体を起こした。その途端、胸の奥へ痛みが走る。


「っ……!」


「リゼル!」


「お嬢様!」


 セレスティアとメアが同時に手を伸ばした。リゼルの脳裏へ、宴席で見た姉の姿が蘇る。自分が血を吐いた瞬間、エルミナの顔から普段の優しい姉が消えた。血の涙。噛み切った唇。メリュジーヌを殺すと口にした声。あの状態の姉を、毒を運んだと疑われているメリュジーヌと同じ部屋に置いている。


(……まずいな)


 リゼルは寝台から足を下ろした。


「行きます」


「待ちなさい、リゼル」


 セレスティアが手首を掴んだ。


「一つだけ、聞かせて。貴女は、メリュジーヌ嬢をどうしたいの?」


「助けます。それから、本人と話をします」


「貴女へ毒を運んだかもしれない子よ」


「承知しております」


「それでも?」


「それでもです」


「……どうして?」


「友達だからです」


 セレスティアが、少しだけ目を丸くした。


「私はね、リゼル。怖いの」


「母上」


「貴女が、また傷つくことが」


 握っている娘の手へ、少しだけ力を込める。


「でも、貴女がその子を助けなかったことを後悔する姿も見たくない。行きなさい。そして、自分の目で確かめてきなさい」


「はい」


「ただし、メア」


「はい」


「リゼルをお願いね」


 メアは深く頭を下げた。


「命に代えましても」


「それは駄目よ。貴女も、ちゃんと戻ってきて」


「……はい。必ず」


 リゼルは寝台から立ち上がった。胸の奥には、まだ僅かな痛みがある。それでも、足は止めない。


「メア」


「はい、お嬢様」


「行くぞ」


「お供いたします」


         ◇


 ヴァルクロア大侯爵邸の地下へ続く階段を下るにつれて、屋敷の華やかさは少しずつ薄れていった。壁を飾っていた絵画や彫刻は途中から姿を消し、足元を覆っていた深い絨毯も、冷たい石床へと変わっている。魔石灯の色までもが、上階の暖かな橙色から、無機質な白へと切り替わっていた。息を吸うたび、微かに黴と鉄錆の匂いが鼻を掠める。


 聞き取り室へ近づくと、扉の向こうから男たちの声が聞こえてきた。


「――おい、いい加減にしろ。何度も聞かせんな。メリュジーヌ嬢が毒物について詳しかったことすら知らなかった、と言うのか?」


 カルガだった。普段の豪快さそのままに、声には苛立ちが滲んでいる。回りくどい言い方を好まず、真正面から突きつけるように言葉を叩きつけていた。


「い、いえ、その、決して存じ上げなかったわけではなく……娘の教育は然るべき者に任せておりましたゆえ、私自身が細部まで把握しておらぬのも、致し方なきことかと……」


「では、日頃、誰と接触していたのかは」


「そちらにつきましても、私の与り知らぬところにて……何分、娘の身の回りのことは乳母や教師の裁量に任せておりましたので、父親といえども全てを見届けることは、なかなかに難しいものでございまして……」


「なるほどな。十歳の娘が何をしているのか、父親であるお前は何一つ分かっちゃいなかった、ってわけだ」


「い、いえ、それは些か語弊がございまして……」


「事実確認だ。俺たちが知りたいのは、オルディアス閣下へ猛毒が運ばれた経緯、それだけだ」


 リゼルは扉の前で足を止めた。冷たい石壁に手をつき、僅かに息を整える。感情的になっているであろうオルディアスに代わり、カルガがノクタール侯爵の証言を一つずつ整理しているらしい。回りくどい言葉遣いはノクタール侯爵の方で、それを荒っぽく切り崩していくのがカルガの役目になっていた。扉一枚を隔てているだけなのに、その向こうの空気の重さが、ここまで伝わってくる。


 扉の左右に立つ兵士が、そこでようやくリゼルへ気づいた。松明の灯りに照らされた顔が、驚愕に強張る。


「リ、リゼル様!?」


「開けろ」


「ですが、お身体が――」


「目は覚めた」


「それは見れば分かりますが……」


 兵士が困ったようにメアを見る。メアは主人の後ろに立ったまま、静かに首を横へ振った。止めても無駄。それだけは、よく伝わったらしい。


「……承知いたしました」


 重い扉が、軋んだ音を立てて開く。中へ足を踏み入れた瞬間、室内にいた者たちの視線が一斉にリゼルへ向いた。長机、居並ぶ椅子、壁際に控える兵士たち。祝いの席とは何もかもが異なる、殺伐とした空気が肌を刺す。


 その中で、最初に動いたのはエルミナだった。


「……リゼルちゃん」


 椅子から立ち上がる。だが、すぐには駆け寄ってこなかった。赤く腫れた瞳が、入口に立つ妹をじっと見つめている。血を吐いて倒れた姿ではない。自分の足で立ち、自分を見て、呼吸をしている。その一つ一つを確かめるように見つめた後、ようやくゆっくりと歩き出した。


「姉上」


「……ええ」


 エルミナはリゼルの前へ来ると、その頬へそっと手を添えた。


「起きたのね」


「はい」


「そう……よかった」


 エルミナが微笑んだ。それだけだった。けれど、目尻から一筋だけ涙が落ちた。


「ご心配をおかけしました」


「いいの。リゼルちゃんが生きていてくれたから。それだけでいいわ」


 柔らかな声だった。宴席で見せた狂乱など、最初から存在しなかったかのような穏やかさだった。ただ、リゼルには分かった。エルミナの視線が、自分の肩越しへ一度だけ流れたことに。部屋の奥。メリュジーヌ。ほんの一瞬。それだけで、姉が何を考えているのか理解できた。


「……姉上」


「なあに、リゼルちゃん」


「メリュジーヌ様と、お話をしたいのですが」


「ええ。いいわよ」


 あまりにも簡単な返事だった。リゼルが僅かに眉を寄せる。


「よろしいのですか? 姉上は、メリュジーヌ様を殺したいのでは?」


「ええ」


 即答だった。エルミナは笑っていた。いつもと変わらない、柔らかな微笑みだった。


「今でも殺したいわ。リゼルちゃんに毒を飲ませたもの。首を落としても足りないくらい」


 声には怒気すらない。ただ、自分の本心を口にしている。


「でも」


 エルミナの指が、妹の頬をそっと撫でた。


「リゼルちゃんは、あの子を生かしておきたいのでしょう? なら、生かしておいてあげる」


 まるで、メリュジーヌの生死など、最初から自分の掌の上にあるかのような言い方だった。許す、ではない。信じる、でもない。事情を酌んだわけですらない。リゼルが望んだから。ただ、それだけ。


「姉上は今も、あの子を殺したいと思っておられるのでしょう。それでも、ただ私が望むというだけで、その気持ちごと呑み込んでしまわれるのですか」


「もちろん。だって、リゼルちゃんが大切にしたいのでしょう? それなら、十分じゃない」


 柔らかな声だった。微笑みも、妹の頬を撫でる指も、そこに込められた愛情も、何一つ偽物ではない。だからこそ、リゼルは、この女が嫌いだった。


(……気持ち悪い)


 メリュジーヌを許したわけではない。殺意が消えたわけでもない。今でも殺したい、首を落としても足りない。そう言い切った直後に、リゼルが望むからという、ただそれだけの理由で生かしておいて「あげる」。メリュジーヌ本人が何を望んでいるかも、何故毒杯を運んだのかも、そこにどんな事情があるのかも。今のエルミナには、どうでもいいのだ。判断の中心にあるのは、いつだってリゼルだけ。


(……本当に、嫌いだ)


 姉から向けられる愛情そのものに、嘘はない。むしろ、嘘がないからこそ嫌悪する。あまりにも一方的で、あまりにも身勝手で、相手の何もかもを呑み込んで、それでもなお愛していると微笑む、この姉が。リゼルは、どうしようもなく嫌いだった。


「分かりました。ありがとうございます、姉上」


「ええ。どういたしまして、リゼルちゃん」


 エルミナは嬉しそうに微笑んだ。リゼルも、同じように微笑み返した。


「リゼル」


 低い声がした。父、オルディアスだった。長机の奥へ腰掛けている。普段ならば何者を前にしても揺らがない男の顔にも、疲労がはっきりと残っていた。


「姉との話は済んだか」


「はい」


「なら、部屋へ戻れ」


「嫌です」


「……」


「先ほど申し上げました通り、メリュジーヌ様と話をするためです」


「ならん」


「母上からは許可をいただいております」


「セレスティアが?」


「はい」


 オルディアスの眉間の皺が、さらに深くなった。


「何を考えているんだ、あいつは……」


 カルガが小さく咳払いした。


「オルディアス閣下。リゼル嬢も、この件の当事者です。何より、こうしてご本人が来てしまわれた以上、部屋へ戻れと言って素直にお戻りになるとも思えません」


「カルガ殿。どちらの味方だ」


「話を前へ進める者の味方です」


 オルディアスは長く息を吐いた。その間に、リゼルはようやくメリュジーヌを正面から見た。部屋の端の椅子へ座っている。手枷はない。けれど、両脇には兵士が控え、逃げることは許されていない。蛇髪も宴席で見た時とは違い、どの蛇も身を縮め、頭を低くしていた。


「メリュジーヌ様」


「……リゼル様」


「お身体に変わりは?」


「…………」


 メリュジーヌが目を見開いた。


「私の?」


「はい」


「……それを、貴女が聞くのですか? 貴女は、私が持っていた杯を飲んで、倒れたのですよ」


「些細なことです」


「血も……」


「吐きましたね。ですが、今は私の方が元気そうですので」


 メリュジーヌは何も言えなくなった。


「何を悠長なことを!」


 ノクタール侯爵の声が飛んだ。額に脂汗を浮かべ、目だけがぎらぎらと血走っている。


「リゼル嬢。その娘にお気遣いなど必要ございません! 我が侯爵家の名に泥を塗った愚か者です! 妾腹の分際で――」


「父上……」


 メリュジーヌが小さく呼んだ。縋るような、それでいてすでに何かを諦めているような声だった。その声が、逆にノクタール侯爵の癇に障ったらしい。


「黙れ!」


 椅子を蹴るように立ち上がり、メリュジーヌの頬を張った。乾いた音が響く。室内の空気が、一瞬で凍りついた。


「言い訳の一つもできぬのか、この恥さらしが!」


 二発目。蛇髪が怯えたように縮こまる。それでもメリュジーヌは声を上げない。泣かない。ただ唇を噛み、床の一点を見ている。長年、これが日常だったとでも言うように、その姿勢には奇妙な慣れがあった。


「何だその目は! 貴様が儂を見る資格などあるものか!」


 三発目。頬が赤く腫れ上がっていく。それでもメリュジーヌは、声一つ上げなかった。訴えることも、庇うことも、逃げることさえしない。ただ黙って、次を待つように俯いている。カルガが動こうとする。だが、机を回り込む一瞬が間に合わない。


「所詮は妾腹の子だ! 侯爵家の血が少し混じっているだけで――」


 四発目。口の端が僅かに切れ、赤い筋が顎を伝った。血の匂いが、狭い部屋の中にまで届くようだった。その瞬間、リゼルの中で何かが焼き切れた。頭の奥で、細い糸がぷつりと切れるような感覚があった。


「――っ!」


 床を蹴る音が、遅れて響いた。病み上がりの五歳児とは思えない速度で、リゼルがノクタール侯爵の懐へ飛び込んでいた。


「リゼル嬢!?」


 カルガの声が飛ぶ。だが、遅い。リゼルの拳が、ノクタール侯爵の顔面へ深々とめり込んだ。


「ぐぉっ!?」


 侯爵の身体が吹き飛び、背後の壁へ叩きつけられる。石壁に亀裂が走り、崩れた漆喰が肩へ降りかかった。ずるずると、そのまま床へ滑り落ちる。


「妾腹が、何だ」


 リゼルは倒れた侯爵へ、もう一歩踏み込んだ。拳を振りかぶる。


「母親が誰であろうと、メリュジーヌ様の価値に何の関係がある」


 二撃目を放とうとした、その拳を、大きな手が後ろから掴んだ。


「リゼル嬢」


 カルガだった。


「お気持ちは分かります。だが、それ以上はなりません」


「離してください」


「いいえ」


 カルガの声は、静かだったが揺るがなかった。


「これ以上殴れば、貴女が罪に問われます。ノクタール侯爵がどれほどの恥さらしであろうと、それは変わりません」


「リゼル!」


 オルディアスの声も飛んだ。リゼルは、しばらく荒い息を吐いたまま、床に倒れた侯爵を睨みつけていた。やがて、ゆっくりと拳を下ろす。


「……分かりました」


 カルガの手が離れる。リゼルは、腹を押さえて呻くノクタール侯爵を見下ろした。


「私の友達に、何をしてくれている?」


 声は静かだった。


「り、リゼル嬢……!」


「妾腹が、何だ! 母親が誰であろうと、メリュジーヌ様の価値に何の関係がある?! ないだろう!!」


 リゼルはメリュジーヌへ一度だけ視線を向け、もう一度ノクタール侯爵を見る。


「二度と我が友への侮辱は許さない。次はないぞ、侯爵!」


「……はい」


「リゼル!」


 今度こそ、オルディアスの声が飛んだ。有無を言わせぬ、大侯爵としての一喝だった。


「勝手に殴るな。ここがどういう場か、忘れたわけではあるまい」


「以後、気をつけます」


 その声には、悪びれた様子も、反省の色もほとんどなかった。それでも、これ以上の追及は無駄だと悟ったのか、オルディアスは短く息を吐くに留めた。


 それだけ答え、リゼルは、もう一度メリュジーヌへ向き直った。


「メリュジーヌ様。場所を変えましょう」


「え?」


「私の部屋で、お話をしたい」


 オルディアスが即座に口を開く。


「ならん」


「母上からは許可をいただいております」


「だからといって――」


「オルディアス閣下」


 カルガが割って入った。


「私も同行いたしましょう。マヒーシャがセレスティア殿のお傍におります。私も立ち会えば、リゼル嬢とメリュジーヌ嬢が二人きりになることもありません」


 オルディアスは、しばらく考えた。


「……分かった。ただし、カルガ殿から離れるな。メアも常に傍にいろ。何かあれば、すぐに戻れ。走るな。飛ぶな」


「父上」


「何だ」


「注文が多いです」


「誰のせいだ!」


 リゼルはメリュジーヌへ手を差し出した。


「では、行きましょうか」


「待ちな」


 ゼノヴィアだった。壁際から一歩、前へ出る。


「そいつを連れてくのか」


「そうだ」


「毒杯を運んだ、疑われてる奴だぞ」


「疑われている、というだけだ」


 ゼノヴィアの目がメリュジーヌへ向き、その足が一歩踏み出した。瞬間、銀色の光が、その喉元へ走った。


「…………あ?」


 剣先が、ゼノヴィアの喉寸前で止まっている。メアだった。リゼルの半歩後ろに立ったまま、視線すらゼノヴィアへ向けていない。


「動けば切れますよ、クソ猫」


 ゼノヴィアの身体が止まった。


「ゼノ」


 ミラベルが静かに声を掛けた。


「動かないで。本気よ」


 ゼノヴィアは舌打ちしたが、動かなかった。


「ほう……」


 カルガが目を細める。ほんの数刻前とは、明らかに違う。宴席では、リゼルが血を吐き、倒れていく姿を前に、名前を呼ぶことしかできなかった少女。その少女が今、主人の行く手を阻もうとした相手へ、躊躇なく剣を抜いている。


「メア」


「はい、お嬢様」


「斬るなよ」


「承知しております」


 剣を引き、静かに鞘へ納めた。リゼルは、改めてメリュジーヌへ手を差し出す。


「行きましょう」


 メリュジーヌは、その小さな手を見つめた。


「リゼル様は……やはり、不思議な方ですね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めておりません」


「知っています」


 メリュジーヌは、ほんの僅かに困ったような顔をした。そして、差し出された手へ、自分の手をそっと重ねた。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「友達になってくださいませんか」と差し出した手を、今度はもう一度。


メリュジーヌは、その手を取りました。


けれど――毒杯を巡る夜は、まだ終わっていません。


次話、

Ver.2 Poison Chapter 4-2 夜遊び

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