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Ver.2 Poison Chapter 3-3 毒杯

 舞踏を終えてから、しばらくの時間が過ぎていた。


 楽団は次の曲を奏で、大広間には再び祝いの席らしい賑わいが戻っている。磨き上げられた黒曜石の床を、色鮮やかな正装に身を包んだ貴族たちが行き交い、長卓には次々と料理や菓子が運び込まれていた。魔晶石の灯りが天井から柔らかく降り注ぎ、談笑の声、グラスの触れ合う音、遠くで奏でられる弦楽器の旋律が幾重にも重なり合って、この一夜だけの華やかな空気を作り上げている。誰もが、ただの祝宴だと思っていた。少なくとも、あと数分の間は。


 リゼルは広間の端で、メアから受け取った果実水を口にしていた。冷たい果実の甘みが喉を滑り落ちていく、ただそれだけの、何でもない時間だった。


 視線の先には、メリュジーヌ。


 先ほど一曲を踊り終えたばかりの蛇の姫は、父であるノクタール侯爵から少し離れた場所に立っている。蛇髪の一房が、彼女の緊張をそのまま映すように、ゆっくりと揺れていた。


「一考、いたします……か」


「はい」


「まあ、断られたわけではない」


「左様でございますね」


「ならば待つとしよう」


 リゼルはあっさりと結論を出し、果実水をもう一口飲んだ。グラスの中で氷が小さく音を立てる。


「急ぐ必要もないからな」


「はい」


 メアも静かに頷いた。その横顔には、今日一日で随分と板についた侍女としての落ち着きが滲んでいる。半年前ならば、こうして主人の隣に立つだけで肩へ力が入っていたはずだった。


「お前も、少し落ち着いてきたな」


「お嬢様のおかげでございます」


「まあ、悪くない成長だ」


 リゼルはそう言って、満足げにメアを見上げた。メアは小さく微笑み、それ以上何も言わず、いつものように半歩後ろへ控え直した。


 談笑、乾杯、笑い声。祝宴はいつも通りの調子で続いている。


 その時、一人の給仕がメリュジーヌの前で足を止めた。銀盆の上には、二つの酒杯が載っている。硝子の表面に、シャンデリアの光が細かく砕けて映り込んでいた。


 給仕は恭しく一礼し、二つの杯を差し出した。


「ノクタール侯爵様と、オルディアス大侯爵様へ」


「……ありがとうございます」


 メリュジーヌは小さく頷いた。


 右手に一杯。左手に一杯。どちらも見た目には同じ魔界果実酒であり、赤紫色の酒が灯りを受けて静かに揺れている。メリュジーヌは二つの杯を受け取ると、そのまま踵を返し、ゆっくりと大広間を歩き始めた。


 向かった先では、ノクタール侯爵とオルディアスが歓談していた。


 楽団の奏でる音楽に紛れ、その足音はほとんど誰の耳にも届かない。祝いの席で、娘が父親へ酒を運ぶ。それだけならば、誰が見ても不自然なところなど何一つなかった。


「…………」


 リゼルの視線が、何気なく二つの杯へ向いた。


 左。


【ブラッドベリー酒】

品質:A

状態:正常


 右。


【ブラッドベリー酒】

品質:A

【状態異常】

猛毒 Lv7

発症時間:15秒

推定致死率:99.2%


「…………」


 リゼルの手が、果実水を持ったまま止まった。


 もう一度、右の杯を見る。表示は変わらない。見間違いでも、誤認でもない。毒。それも、並の魔族ならば口にした時点で、ほぼ助からないほどの猛毒だった。


 そして、メリュジーヌが向かっている先には二人いる。


 ノクタール侯爵。


 その隣には――オルディアス。


(……父上か)


 リゼルは手にしていた果実水を、近くの卓へ置いた。グラスの底が大理石を打ち、小さな音を立てる。


「メア」


「はい、お嬢様」


「少し、行ってくる」


「はい」


 それだけ告げて、リゼルは歩き出した。


 途中、こちらへ挨拶を向けてきた貴族へ笑顔で会釈を返しながら、メリュジーヌとの距離を縮めていく。表情はいつも通り。歩調も変えない。五歳の大侯爵令嬢が、先ほど一緒に踊った少女を見つけて、また声を掛けに行く――傍目には、それ以上の意味などなかった。


「メリュジーヌ様」


「……リゼル様」


 黒い蛇髪が揺れ、メリュジーヌが振り返った。


 その瞬間、リゼルの目は、彼女の顔ではなく右手を見ていた。赤紫色の酒が入った杯。先ほど表示された猛毒は、間違いなくそちらに入っている。


「リゼル様、こちらはお酒――」


 右手から、杯が消えた。


「――え?」


 メリュジーヌの指が、空を掴んでいる。


 何かをされたことだけは分かった。だが、いつ、どの瞬間に抜き取られたのかが分からない。メリュジーヌの金色の瞳が、自分の右手から、すぐ隣へ動いた。


「メリュジーヌ様、ありがとうございます♪ 私の分まで、飲み物をご用意してくださったのですね」


 リゼルが両手で杯を持ち、嬉しそうに笑っていた。


「……リゼル様?」


 メリュジーヌの顔から、僅かに血の気が引いた。


「お待ちください」


「どうかなさいましたか?」


「そちらは、リゼル様へお持ちしたものではございません」


「まあ。そうでしたか」


「はい。ですから――」


「リゼル?」


 オルディアスの声が飛んできた。


 すでに娘の姿に気づいている。ノクタール侯爵も会話を止め、こちらへ目を向けていた。メリュジーヌの声が僅かに大きくなったことで、周囲にいた貴族たちも、何事かと少しずつ視線を向け始めている。


「父上」


 リゼルは、いつもの可愛らしい笑みを浮かべた。


「メリュジーヌ様から、お飲み物をいただきました」


「リゼル様!」


 メリュジーヌの声が、思わず大きくなる。


 リゼルは小さく首を傾げた。


「違いましたか?」


「……そちらは、リゼル様がお飲みになられるものではございません」


 それ以上は言わない。


 メリュジーヌの金色の瞳が、リゼルの手にある杯から離れない。伸ばしかけた指が、ほんの僅かに震えている。だが、この場で杯を強引に奪い返すことも、その中身について口にすることもできないのか、唇だけが僅かに動き、それ以上の言葉は出てこなかった。


 リゼルは、その視線を受けながらオルディアスの前まで歩いた。


「父上」


「何だ?」


「せっかくですので、皆様で乾杯いたしませんか?」


「乾杯?」


「はい」


 オルディアスが娘の手元へ目を向けた。杯の中身が、灯りを受けて赤黒く揺れている。


「お前、それは、ブラッ――」


 リゼルはオルディアスの言葉を最後まで聞くことなく、毒杯を高く掲げた。


 満面の笑顔。声も、いつもより少しだけ大きい。周囲の者たちへ聞かせるように、ノクタール侯爵へも、オルディアスへも、そして少し離れた場所にいる貴族たちへも届くように。


「ノクタール侯爵家と我がヴァルクロア大侯爵家の末永い友情を祈願して――」


「リゼル様……!」


 メリュジーヌが一歩を踏み出した。伸ばしかけた手が、間に合わない。


「乾杯!!」


「リゼル様!!」


 メリュジーヌが叫ぶ。だが、リゼルは気にすることなく杯の縁を口元にーー。


 一息に呷った。


「――ゴボオッ!?」


「リゼル!?」


 身体が大きく折れる。


「グハァッ!!」


 リゼルの口から、苦しげな声が漏れる。


「なっ……!?」


 周囲の貴族の誰かが、悲鳴のような声を上げた。


「ウゲエッ!!」


 喉元を押さえ、よろめく。酒杯が小さな手から離れ、黒曜石の床へ落ちた。甲高い音が響き渡り、周囲の会話をすべて呑み込んだ。


 楽団の演奏が止まる。大広間を満たしていた談笑も、一瞬で消えた。数百人の視線が、たった一人の少女へ集中する。


 その中で、いち早く動いたのはカルガだった。六本の腕が同時に強張り、瞬時に周囲へ鋭い視線を走らせる。武人としての本能が、まず敵の有無を探っていた。隣のマヒーシャも、咄嗟にセレスティアの傍へ寄ろうとする。だが、母よりも先に、オルディアス自身が娘の許へ駆けていた。


「リゼル!」


 オルディアスが駆け寄った。リゼルは胸元を押さえ、荒く息を吐く。


「父……上……」


 掠れた声を漏らしながら、薄く開いた瞳だけを動かした。ノクタール侯爵。周囲の貴族たち。給仕。誰もが、こちらを見ている。


(……よし)


 メリュジーヌは、動いていなかった。顔色を失い、ただリゼルを見つめている。


「リゼル様……」


 リゼルは胸元を押さえたまま、身体の内側へ魔力を走らせた。肺の奥へ、僅かな衝撃を叩き込む。


「――ごふっ!!」


 鮮血が噴き出した。


「――――!」


 目の前にいたメリュジーヌの頬へ、赤い飛沫が散った。白い肌を血が伝う。メリュジーヌは、避けることさえしなかった。


「……リゼル、様……?」


 その声を聞きながら、リゼルの膝から力が抜けた。


「リゼル!!」


「お嬢様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 メアの絶叫が、大広間を貫いた。人の間を駆け抜け、倒れかけた主人へ飛び込む。


「お嬢様! しっかりしてください!」


 床へ落ちる寸前、メアの両腕がリゼルを抱き止めた。


「リゼル!!」


 セレスティアも駆け寄った。ドレスの裾が床へ広がることも構わず、その場へ膝をつく。


「リゼル……!」


 メアの腕から娘を抱き寄せた。震える指が、血に濡れた頬へ触れる。


「リゼル……リゼル……!」


「母……上……」


「リゼル!」


 僅かな返事を聞いた途端、セレスティアの瞳から涙が溢れた。娘を胸へ抱き締める。頬を撫で、髪を撫で、もう一度その名を呼ぶ。


 メアも、その傍から離れなかった。


「お嬢様……!」


 リゼルの手を握る両手が、震えている。


「メア……」


「はい! ここにおります……! お嬢様、ここにおりますから……!」


 涙が、握った手の上へ落ちた。


 リゼルは薄く目を開け、二人を見た。泣いている。セレスティアも。メアも。母と侍女、それぞれの涙が、同じ一つの命へ向けられている。


(……少し、やりすぎたか)


 その時だった。


「……リゼルちゃん?」


 静かな声だった。


 エルミナ。少し離れた場所に立っていた。まだ、様子を窺うような、いつも通りの優しい声だった。けれど、その瞳は妹の顔だけを見ている。


「リゼルちゃん……?」


 返事はない。


 エルミナの視線が、妹の口元へ落ちる。


 血。


 セレスティアの腕の中で、ぐったりと動かないリゼル。その手を握り、泣いているメア。黒曜石の床に散った、生々しい赤。


「――――」


 エルミナの喉から、声にならない音が漏れた。


 次の瞬間。


「うぎゃあああああああああああああああああああああっ!!」


 大広間の空気が、物理的に震えた。


 楽団の楽器から、誰かの手が滑り落ちた。近くにいた貴族が、耳を塞いで後ずさる。子供のように無防備な絶叫。だが、そこに含まれる感情の密度だけは、子供のものではなかった。


 誰も、それが十二歳の令嬢の喉から出た声だとは、すぐには信じられなかった。


「お、お前がぁ……!?」


 エルミナの目が、真っ赤に染まっていく。血走った、獣のような目。そして、その目尻から零れ落ちるのは、涙ではなく、赤い雫だった。


 血の涙が、頬を伝っていく。


「お前がぁ、わだじの、リゼルぢゃんをぉ……!!」


 言葉が、もう言葉の形を保てていない。舌が縺れ、涎が唇の端から垂れ、それでも彼女は喋ることをやめなかった。


「ごろず……! ごろず!! ごろじでやるぅ……!!!」


 ぎり、と。


 自分の唇を、自分の歯で噛み千切った。


 赤い血が、顎を伝って滴り落ちる。だが、エルミナはそれにすら気づいていないようだった。血に染まった口元のまま、ただ一点――メリュジーヌだけを見ている。


「エ、エルミナ……」


 オルディアスの声が、みっともないほど震えていた。大侯爵として、幾多の戦場を渡り歩いてきたはずの男が、実の娘の姿に完全に呑まれている。


「ゼノヴィアぁあああああああー!!」


 絶叫が、名を呼んだ。


「ぞのグゾ女を、半殺じにしろぉおおおおおおお!!」


「――は、はい!! エルミナ様!!」


 ゼノヴィアの声が、裏返っていた。


 普段の彼女ならば、こんな敬語は絶対に使わない。だが今、目の前にいる主人の姿に、身体が勝手に恐怖で強張っていた。命令の中身以前に、命令している存在そのものが、もはや知っている「エルミナ様」ではなくなっている。


「――っ!」


 メリュジーヌの身体が、黒曜石の床へ叩き倒される。左手に残っていた杯が飛び、床を滑った。


「てめぇ!!」


 ゼノヴィアが馬乗りになる。その顔は、怒りというより、何かに追い詰められた獣のそれだった。背後では今も、エルミナの壊れた声が響き続けている。「リゼルぢゃん、リゼルぢゃん」と。その声を聞くたびに、ゼノヴィアの拳の震えが増していく。


「てめぇのせいで……!」


 拳が振り下ろされた。骨と肉がぶつかる、鈍い音が響く。


「――っ!」


 メリュジーヌの顔が、真横へ跳ねた。だが、拳は止まらない。


「てめぇのせいで、エルミナ様が……!」


 二発目。三発目。頬が腫れ上がり、切れた皮膚から血が飛び散る。周囲の貴族たちは、もはや目を逸らすことしかできなかった。


 正直、リゼルがどうなろうと、ゼノヴィアの知ったことではなかった。あの生意気なちびのことなど、普段からどうでもいいとすら思っている。


 だが、エルミナは違う。


「あんな……あんなになるまで、エルミナ様を追い詰めやがって……!」


「あ、あぁ……ッ」


 メリュジーヌの喉から、掠れた呻きが漏れる。抵抗はしなかった。できなかった。ただ、殴られるたびに身体が跳ね、黒曜石の床へ再び打ち付けられる。


「メリュジーヌ……!」


 ノクタール侯爵が、思わず一歩を踏み出した。娘の許へ駆け寄ろうとする、その肩へ――背後から、大きな手が触れた。


 カルガだった。六本のうち二本の腕だけを使い、その巨躯からは考えられないほど静かに、しかし決して振り払えない力でノクタール侯爵の肩を押さえている。


「……カルガ殿?」


 カルガは何も言わず、ただ首を横に振った。一度。二度。三度。


「動かれるな、ノクタール侯爵」


 低く、静かな声だった。


「貴殿にもしものことがあれば、オルディアス閣下に災が及ぶ」


 その一言で、ノクタール侯爵の足から力が抜けた。今、自分が飛び出せば、それがどう解釈されるか。侯爵家の当主が、大侯爵家の護衛へ手を出したという事実だけが独り歩きし、この場の均衡そのものを崩しかねない。頭では分かっていた。分かっていたからこそ、動けなかった。


「メリュジーヌ……」


 もう一度、掠れた声でその名を呼ぶことしかできなかった。拳の下で娘が打たれるたび、ノクタール侯爵の顔から、みるみる色が失われていく。それでも、その足はカルガの手に押さえられたまま、動かなかった。


「てめぇのせいで、エルミナ様が悲しんでいるだろうがよぉ! このクソ外道が!!」


 四発目。ゼノヴィアの拳の皮膚も、いつの間にか裂けていた。自分の血なのか、相手の血なのか、もう見分けがつかない。


 周囲の誰も、止めなかった。オルディアスでさえ、動けなかった。ノクタール侯爵もまた、カルガの手に肩を押さえられたまま、動くことを許されなかった。背後では今も、エルミナの壊れた声が響き続けている。その声が、拳を振るう理由そのものだった。


「ゼノ」


 ようやく、ミラベルの声が響いた。だが、その声にも、いつもの冷静さはなかった。彼女の視線もまた、殴打の先ではなく、エルミナの方へ半分向いている。


「……ゼノ、いい加減にして。エルミナ様が、これ以上……」


「うるせぇ! こいつのせいで、エルミナ様があんなになったんだぞ!」


 拳が、また振り下ろされる。五発目。メリュジーヌの意識が、僅かに濁り始めていた。


「ゼノ!!」


 もう一度、今度こそ強く呼びながら、ミラベルがその腕へ飛びついた。渾身の力で引き剥がそうとする。


「離せ、ミラ!」


「殺したらエルミナ様がもっと苦しむでしょう!」


「こいつがエルミナ様を――!」


「分かってる! 分かってるから、これ以上は駄目!」


 二人の間で、しばし力がせめぎ合った。ゼノヴィアの拳は、まだ完全には収まっていない。荒い呼吸だけが、二人分重なって響く。その向こうでは、変わらずエルミナの声が繰り返されていた。


「……チッ!」


 ようやく、ゼノヴィアの拳が止まった。肩を上下させながら、床へ押さえつけたメリュジーヌを睨みつける。その目にはまだ、収まりきらない怒りが燻っていた。


 メリュジーヌは反撃しなかった。何度も殴られた顔から血を流しながら、それでも、その向こうで起きている光景から目を逸らさなかった。


 エルミナが、セレスティアを突き飛ばすようにして押しのけていた。


「――え……?」


 セレスティアが、思わずよろめく。実の母を押しのけたことにすら、エルミナは気づいていない。両腕を伸ばし、リゼルの身体をひったくるように抱き寄せる。


「リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん」


 血に濡れた口元のまま、その名を繰り返す。


「リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん」


 止まらない。まるで、その名を呼び続けることだけが、今のエルミナを世界に繋ぎ止めている唯一の縄であるかのように。


「リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん、リゼルぢゃん」


 セレスティアは、それ以上何も言えなかった。押しのけられた驚きよりも、目の前の光景そのものへの恐怖が、それを上回っていた。


 よろめいたセレスティアの肩を、マヒーシャがそっと支えた。


「大丈夫、セレス?」


「マーシャ……どうしよう?! リゼルが……リゼルが……うぅう……」


 セレスティアは、そのままマヒーシャの胸へ縋りついて泣いた。長年の友人として、これほど取り乱した彼女を見るのは初めてだった。マヒーシャはかける言葉が見つからず、ただその背をそっと撫で、抱き締めることしかできない。


 一方、床に押さえつけられたままのメリュジーヌの内側では、まったく別の混乱が渦を巻いていた。


(……眠るだけと、言われたのに)


 殺すつもりなど、なかった。少なくとも、自分はそのつもりで杯を運んだ。


(それとも――最初から、私は知らされていなかっただけなのか)


 組織にとって、駒の一つが何を思おうと関係ない。命じられたことを、命じられた通りに。それだけが、これまでの自分の全てだった。


(使い捨てに……されたのか、私は)


 その考えが浮かんだ瞬間、腹の底が冷えるのを感じた。恐怖でも、後悔でもない。もっと静かで、もっと据わりの悪い感情だった。


 そして今、目の前には、狂気を纏った大侯爵家の長女が立っている。


「メリュジーヌ」


 ノクタール侯爵の声が落ちた。


「……お父様」


 ノクタール侯爵は、娘の傍へ転がった酒杯を見た。顔から、先ほどまでの笑みは完全に消えている。オルディアスもまた、二つの杯へ視線を落とした。その背後では、まだ「リゼルぢゃん、リゼルぢゃん」という声が途切れずに続いている。大侯爵としての顔を保つために、オルディアスはその声から意識を引き剥がすようにして、口を開いた。


「屋敷から誰も出すな!」


 低い声が、大広間へ響いた。兵士たちが一斉に動く。


「誰一人、この屋敷から出ることを禁じる! 厨房、酒蔵、使用人控室を封鎖。宴席へ出された飲食物と食器は、全てそのまま残せ」


「はっ!」


「今日、この場に入った給仕を全員集めろ。臨時で雇われた者も、一人残らずだ」


「承知いたしました!」


「オルディアス閣下」


 カルガが、静かに歩み寄った。手は、まだノクタール侯爵の肩から離していない。


「ノクタール殿は別室にて、私が拘束しておきましょう。よろしいですかな?」


「あ、あぁ……すまない、カルガ殿。頼めるか?」


「お任せを」


「オルディアス閣下…… わ、わたしは何も……」


 ノクタール侯爵が、震える声で言いかけた。だが、オルディアスはそれを遮った。


「ノクタール。話はあとだ。今はカルガ殿と共に行け」


「は……ははぁ!」


 ノクタール侯爵は、深く項垂れたまま頷いた。カルガに促され、大広間の奥へと連れられていく。派閥の要である二家の当主が、こうして即座に連携する。それだけで、大広間に漂う緊張が、僅かながらも実務的なものへ変わっていく。


 命令を発する声には、揺るぎがなかった。だが、その拳は、いつの間にか固く握りしめられている。実の娘の壊れた声を聞きながら、それでも大侯爵として振る舞い続けなければならない。その痛みを、誰も口にはしなかった。


 大扉が閉ざされた。続いて、脇へ通じる扉にも兵士が立つ。重々しい音が幾つも重なり、祝いの席は完全に外界から切り離された。それでも、「リゼルぢゃん」という声だけは、その静寂の中で、なおも響き続けていた。


「メリュジーヌ嬢も拘束する」


 オルディアスの視線が、床の少女へ向いた。


「殺すな」


「……はい」


 ゼノヴィアが立ち上がった。メリュジーヌの腕を掴み、床から引き起こす。


「立て」


「……っ」


 殴られた頬を腫らしながら、メリュジーヌが立ち上がった。その身体が僅かによろめく。


「ゼノ」


 ミラベルが横から腕を支えた。


「もう殴らないで」


「分かってるよ、ミラ」


 ゼノヴィアは吐き捨てるように答えた。それ以上、拳を上げることはなかった。


 その視線の先では、エルミナがまだリゼルを抱いたまま、その名を呼び続けていた。狂気の熱そのものは変わらない。だが、繰り返す声だけは、いつの間にか小さな嗚咽に変わっていた。


「お嬢様……?」


 メアの声が聞こえる。


 リゼルは、エルミナの腕の中から薄く目を開けた。霞み始めた視界の向こうで、メリュジーヌが連れていかれようとしている。腫れ上がった頬。あちこちから滲む血。まともに歩けているのが不思議なほどの有様。その腕を掴んでいる、ゼノヴィア。


 リゼルの眉間に、僅かに皺が寄った。


(このクソ猫……私の友達に何してくれてんだ……)


 そして、そのすぐ近くには、自分を抱き締めたまま、まだ壊れた声で名前を呼び続ける姉がいる。


(姉上……あれは、まずいな……)


 もっとも、今の身体では、それを止める力は残っていない。


「お嬢様……!」


 メアの声が、少しずつ遠ざかっていく。


「リゼルぢゃん……」


 エルミナの腕が、リゼルをさらに強く抱き締めた。


 視界が暗くなる。最後まで聞こえていたのは、連れていかれるメリュジーヌの足音と、耳元で繰り返される、壊れたままの自分の名前だった。


 そして――。


 リゼルの意識は、途切れた。

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