Ver.2 Poison Chapter 2-2 5歳児、嫁が二人になりました
5歳の誕生日を迎えたリゼル。
祝いの席を前にしても、本人の関心はどうやら別のところにあるようです。
そして、半年の修行を経たメアにも、大きな変化が――。
ヴァルクロア大侯爵家の朝は、いつもより少しだけ騒がしかった。
夜明け前から使用人たちは廊下を行き交い、銀器を磨き、厨房では祝いの席に並べる料理の仕込みが始まっていた。大広間には赤黒い絨毯が敷かれ、壁にはヴァルクロア家の紋章旗が掲げられている。
今日は、嫡女エルミナ・ノクス・ヴァルクロアの12歳の誕生日であり、同時に、その妹リゼル・ノクス・ヴァルクロアの5歳の誕生日でもある。
7つ年の離れた姉妹が同じ日に生まれた。その事実は、魔界貴族たちにとって格好の賛辞の種だった。
運命。祝福。ヴァルクロア家の繁栄の証。
今日一日だけで、姉妹は飽きるほど同じ言葉を聞かされることになるだろう。
もっとも、その祝福される側の一人は――。
「あぁ……面倒だぁ」
鏡台の前で、心底うんざりした顔をしていた。
リゼルは椅子に座ったまま、ぐったりと肩を落としている。背後では、メア・ナイトが丁寧に主人の髪を梳いていた。
5歳の令嬢らしく華やかに整えられていく姿は、普通ならば微笑ましい。だが鏡に映るリゼルの瞳は、どう見ても自分の誕生日を喜ぶ子供のものではない。
「お嬢様。本日はお誕生日でございます。もう少し楽しそうなお顔を」
「誕生日であることは理解している。理解しているからこそ、面倒だと言っているのだ、メア。そもそも魔族は長命だ。毎年毎年祝うなど、非効率極まりない。10年に一度――いや、100年に一度で十分だろう」
「5歳のお子様が、そのような理由でお誕生日会を嫌がるのは、たぶん魔界でも珍しいかと」
「珍しいならば、私が魔界の慣習を1つ正したということだな」
「まだ正されておりません。本日は盛大に開催されます」
「知っている。だから面倒なのだ」
メアは小さく笑いそうになり、慌てて表情を整えた。去年も似たような愚痴を聞いた。
このお嬢様は、自分が祝われるということに驚くほど興味がない。それよりも勉強、それよりも鍛錬。優先順位が幼い頃から妙なほどはっきりしていた。
「この髪飾りは必要か?」
「必要でございます。奥様が本日のために選ばれたものですから」
「この靴は歩きにくい」
「本日のために誂えられたものです」
「では、本日のために廃棄しよう」
「おやめくださいませ」
リゼルが本気で魔法を使う前に、メアは素早く靴の位置を整えた。
その手が髪を梳き、一房を取り分け、飾りを差し込む。一連の動作に迷いがなく、驚くほど滑らかだった。
(…………速いな)
ほんの僅かな違和感だった。だが、一度気づけば無視できない。以前より遥かに洗練されている。無駄がなく、正確で――。
(こいつ……こんなに速かったか?)
メリッサにメアの稽古を任せてから、およそ半年。強くなっていること自体に不思議はない。
(そういえば最近、直接見ていなかったな)
何となく、リゼルは背後に立つメアの能力値を開いた。
【ステータスウィンドウ】
名前:メア・ナイト
種族:夜魔族(ナイトメア種)
身分:ヴァルクロア大侯爵家 リゼル付き侍女見習い
年齢:14歳
レベル:1,310
生命力:8,240
魔力量:19,800
筋力:790
耐久:710
敏捷:1,310
知力:960
精神:2,520
統率:96
政治:64
礼法:1,390
忠誠適性:測定不能
主要適性:夢界干渉/精神干渉/剣術/短剣術/高速戦闘/侍女作法
危険度評価:中~高(現時点)
敵対意志:なし
備考:全基礎能力に著しい成長を確認。特に近接戦闘能力および敏捷性の伸長が顕著。忠誠適性については引き続き正常な測定値を取得できず。
特殊領域:万魔殿への接続を確認。扉は未開門。――内部測定不能。
(1,310……?)
リゼルの思考が、一瞬止まった。見間違いではない。前に確認した時、メアのレベルは167だった。
(半年だぞ!? なんだ、このインフレは?!)
危うく声に出すところだった。
「お嬢様?」
「…………なんでもない。続けろ」
「はい」
生命力、魔力量、筋力、耐久、敏捷、知力、精神――どれも以前とは比較にならない。特に敏捷は著しく伸び、おまけに主要適性には「剣術」「短剣術」「高速戦闘」の文字まで新たに並んでいる。
(完全に剣士として形になり始めているではないか)
「メア。最近、稽古はどうだ?」
「とても楽しいです。以前より、メリッサ先生の剣が見えるようになりました」
「ほう」
「もっとも、見えるだけでございます。避けようとすると、その先へ剣がございますので。最近は、避けた先に剣があることを前提に、そのさらに先へ動く練習をしております」
「…………なるほど?」
何を言っているのかは理解できる。だが、14歳の侍女見習いとの会話として正しいのかが分からない。
「それから先生に、『考えてから動くでない。動きながら考えよ』と。それができたら、『次は考える前に斬れ』とも」
何かがおかしい。いや、成果は出ている。出すぎている。
「まあ……強くなっているのなら、何よりだ」
「ありがとうございます」
メアが嬉しそうに笑った。その笑顔は、いつもと変わらない。
ただし――レベル1,310。敏捷1,310。剣術。短剣術。高速戦闘。そして、まだ開かぬ《万魔殿》の扉。
(…………面白い。もっと行け、メア)
その時だった。
――コン、コン。
「リゼル。入るぞ」
当主――オルディアス・ノクス・ヴァルクロアだった。
祝いの日だからか、普段より格式を意識した装いである。娘の姿を見るなり、父親らしく僅かに表情を緩め――そのあまりの仏頂面に、すぐ眉を寄せた。
「…………リゼル。なぜ、処刑執行を待つ罪人のような顔をしている」
「誕生日会と処刑に、そこまで大きな違いがあるでしょうか。拘束され、大勢の前に立たされ、逃げることも許されず、長時間苦痛を与えられる」
「客人から祝われるだけだ!」
「見方の違いです」
「今からでも中止という選択肢は」
「ない」
「まだ最後まで言っておりません」
「最後まで聞いても駄目だ」
二人のやり取りは険悪ではない。むしろ、互いに遠慮がないからこそ、こうなる。
オルディアスは小さくため息を吐き、ふと視線をリゼルの背後――メアへ向けた。
身のこなし、呼吸、立ち姿。纏っている空気そのものが、以前とは違う。オルディアスほどの者から見れば、隠しようがなかった。
その姿に、以前メリッサと交わした会話が蘇る。
『あの娘――《万魔殿》の才能があるぞ、オルディアス』
『……何ですって!?』
『まだ扉は開いとらん。じゃが、ありゃ間違いないのぉ』
万魔殿。オルディアス自身、力を求め、剣を振るい、数え切れぬ戦場を越え、大侯爵の座にまで上り詰めても、至ることのなかった領域だ。
(私ですら至らなかった高みに、このメイドが……か)
その視線の動きに、真っ先に気づいたのはリゼルだった。
「父上。先ほどからメアばかり見ておられますが」
「余計なことを考えるな」
「まだ何も申し上げておりません」
「だからこそ先に言った」
リゼルは父親と、背後のメアを見比べた。
「もしもメアをお手付きになさりたいのでしたら、諦めてください。コレは私の嫁です」
「は?」
オルディアスの顔が固まり、メアの手から櫛が落ちかけた。
「お嬢様ぁ……! メアは一生、お嬢様のモノでございます……!」
「うむ」
「うむ、ではない!!」
思わず頷きかけたオルディアスは、すぐに我へ返った。
「待て、リゼル。お前、以前ドゥルガー嬢のことも『嫁』だと言っていなかったか?」
「はい。ディも私の嫁です」
「増えているではないか!!」
「何か問題でも?」
「問題しかない!」
リゼルは、なぜ父がそこまで取り乱しているのか分からないとでも言いたげに首を傾げた。
「メアとディ。これで私は二人の嫁持ちになりました」
「5歳の幼女が何を誇らしげに報告している!」
「となると、今後は扶養すべき家族が増えることになります」
「待て。父の話をサラッと受け流すな!」
「二人の嫁を養うには、それ相応の収入が必要です。父上、報酬の高い政務がございましたら、今後は優先的に私へ回してください」
「お前が嫁を増やした結果を、なぜ父が政務で面倒を見なければならんのだ!!」
「幸せ家族経営というものです」
「都合のいい時だけ家族という言葉を使うな!」
メアの肩が震えている。
「メア、笑っているな」
「感極まっております。まさかお嬢様より『嫁』と仰っていただける日が来ようとは……」
「そこに感激するな! お前も訂正しろ!」
「訂正する必要がございましょうか?」
「ある!!」
即答だった。
リゼルは父親とメアを交互に見比べ、少し考えるように顎へ指を添えた。
「しかし父上。ディもメアも、将来的には私の傍に置く予定です。ならば、嫁という表現でも大きな間違いではないでしょう」
「大間違いだ! そもそもドゥルガー嬢はアーシュラ侯爵家の令嬢だぞ! 勝手に嫁にするな!」
「アーシュラ侯爵閣下には、チョコレートケーキという新しい収入源の提供を行い、結納は済ませてあると認識いたします」
「認識するな!! あれは商談だ!!」
「ですが、先方には利益を。こちらにはディを。互いに得るものがある以上、実質的には同じでは?」
「全然違う!! 侯爵家との事業提携を、娘の結納に変換するな!」
「では、まだ正式な婚姻契約書が不足しているということですね」
「そういう意味ではない!」
「承知いたしました。では後ほど私が作成を――」
「作るな!!」
オルディアスの怒声が部屋に響いた。メアは今度こそ堪えきれず、口元を押さえて笑っている。
「父上は随分と形式に厳しいのですね」
「形式以前の問題だ!」
「ですが、チョコレートケーキ事業は今後も利益を生みます。嫁入りに際して、アーシュラ侯爵家側にも継続的な収入がある。条件としては悪くないでしょう」
「なぜ5歳の娘から、侯爵令嬢の嫁入り条件を事業収益込みで説明されねばならんのだ!」
「婚姻には経済基盤も重要です」
「妙なところだけ現実的になるな!」
オルディアスは額を押さえ、深く息を吐いた。
(私は朝から何をしているのだ……)
娘の戯言に付き合っているだけのはずなのに、話はいつの間にか侯爵令嬢との婚姻、結納、事業収益、さらには政務報酬の要求にまで発展していた。しかも当のメアは、訂正するどころか満更でもない顔をしている。
「……とにかくだ、リゼル」
「はい」
「ドゥルガー嬢は、お前の嫁ではない」
「現時点では、という意味ですね」
「違う!!」
「では、今はメアだけが嫁確定です」
「勝手に確定させるな!」
再び怒声が響き、メアは今度こそ本当に嬉しそうに笑っていた。
「……もういい。私は下で客人の出迎えがある。身支度が終わったら来い」
「体調不良になった場合は?」
「自力で喋れるなら来い」
吐き捨てるように言い、オルディアスは扉へ向かった。
「まったく。父上は朝から騒がしいな」
「お嬢様が原因かと存じます」
メアは再び主人の髪を整え始める。
ちょうどオルディアスが扉に手を掛けたところで、メアは本日の招待客について口を開いた。
「そういえば、お嬢様。アーシュラ侯爵閣下と奥方様は、予定通りお越しになります」
「うむ」
「ですが、ルドラ様は本日、お越しになれません。王立学園への入学を見据えた勉学と修練がございますので」
「…………そうか。まあ、仕方あるまい」
昨年、散々殴り合った相手である。だが、勉学ならば仕方ない。
(よし。勉強しろ、ルドラ。死ぬほど勉強してこい)
「ディは来るのだろう?」
「ドゥルガー様も、本日はご欠席でございます」
「ディも……。会いたかったのだがな」
残念そうに呟いたリゼルは、少しの間だけ黙り込んだ。
ならば仕方ない。今度会った時にでも土産を渡してやればいい――そう考えかけて、ふと先ほどの会話を思い出す。
「…………待て」
「はい?」
「嫁が旦那の誕生日に来ないというのか……」
リゼルの表情が、にわかに深刻なものへ変わった。
「これはもしや――倦怠期というやつか……?」
「お嬢様?」
メアが目を瞬かせる。
そして、もう部屋を出ようとしていたはずのオルディアスの肩が、ぴくりと動いた。
「まだ結婚すらしておらんわ!!」
振り返った父親の怒声が、再び部屋に響き渡った。
「父上。まだいらしたのですか」
「今まさに出ていくところだったのだ! お前が妙なことを言うから戻ったのだ!」
「なるほど。しかし、これは看過できません」
「何がだ!」
リゼルは真剣な顔で腕を組んだ。
「既に結納を済ませているというのに、旦那の誕生日を欠席する。これは夫婦関係の危機を予兆しているのでは?」
「だから結納は済んでおらん!! チョコレートケーキの話は商談だと言っただろう!」
「父上。形式論に拘っていては、夫婦の危機を見逃します」
「存在しない夫婦の危機を心配するな!」
「やはり、ディは一日も早くヴァルクロア大侯爵家の嫁として迎えなければなりません」
「なぜ、その結論になる!?」
「離れて暮らしているから、心まで離れるのです。同じ屋敷で暮らせば解決します」
「アーシュラ侯爵家の令嬢を、お前の倦怠期対策で連れてくるな!!」
「では父上から、アーシュラ侯爵閣下へ正式に打診を」
「せん!!」
「嫁入り道具はこちらで用意いたします」
「話を進めるな!!」
オルディアスの額に青筋が浮かび始める。
対するリゼルは至って真剣だった。
「しかし父上。先ほども申し上げた通り、私は既に二人の嫁を扶養する立場です。家庭の円満を維持するのも、旦那としての責務でしょう」
「5歳の幼女が家庭の円満を語るな!」
「なるほど……」
リゼルは何かを考えるように顎へ手を添えた。
「私も反省すべきなのかもしれません。最近、ディに十分な愛情表現ができていなかった可能性があります」
「何を反省している!?」
「次に会った時には、もっと優しくしてやろう」
「お前たちはただの友人だ!!」
「父上。それはディが聞いたら傷つきます」
「なぜ私が悪いことになっている!?」
メアは完全に笑いを堪えていた。肩を震わせながらも、主人の髪を整える手だけは止まらない。
「メア」
「は、はい……」
「お前は誕生日に来てくれるよな?」
「もちろんでございます。嫁として、いついかなる時もお嬢様のお傍に」
「うむ。やはりメアは良い嫁だ」
「光栄でございます」
「お前まで乗るなぁ!!」
とうとうオルディアスの絶叫が屋敷中へ響き渡った。
しばらく肩で息をした後、大侯爵は額を押さえた。
「……もういい。私は行く。今度こそ行く。頼むから、私が部屋を出た後に勝手に婚姻を増やすなよ」
「善処します」
「善処ではなく約束しろ!」
今度こそ、オルディアスは扉を閉めた。
しばらくして。
「……父上は朝から騒がしいな」
「お嬢様が原因でございます」
「二度目だぞ、そのツッコミ」
「必要でしたので」
メアは涼しい顔で答えた。
ルドラも来ない。ディも来ない。随分と退屈な一日になりそうだった。
もっとも、まだ一人いる。今日という面倒極まりない行事を耐え抜くうえで、一番会いたかった相手が。
「で、だ――ソーマ様はいつ頃いらっしゃる?」
「…………お嬢様。そのことでございますが、ソーマ様も、本日はお越しになれません」
「…………今、なんと言った?」
恐ろしく静かな声が漏れた。
「ソーマ様も、本日はご欠席なさると――」
「私の誕生日に来てくださらない……だと?」
俯いていたリゼルの肩が、ぷるぷると震え始める。
「やめだ、やめだ! ソーマ様の来ない誕生日会なんて、やっても意味がない! はい! 中止!!」
「お、お嬢様!?」
「客は追い返せ!」
「できません!」
「体調不良ということにしろ!」
「先ほどまでお元気でいらっしゃったではありませんか!」
「急病だ、今なった! 誕生日会に出たくない病だ」
「ただの仮病でございます!」
「では、私が死んだと伝えろ」
「明日、生き返るおつもりですか!?」
メアは必死だった。
「ルドラはいない。ディもいない。しかもソーマ様までいらっしゃらない。ならば私があの会場へ行く理由など――」
「ございます。お嬢様のお誕生日会でございます」
「理不尽だ!」
そして、メアはふと気づいた。
ルドラが来ないと聞いた時、リゼルは納得した。ディが来ないと聞いた時は残念がり、ついには倦怠期だの嫁入りだのと騒ぎ始めた。
だが、ソーマが来ないと知った瞬間――誕生日会そのものを消滅させようとした。
「……ソーマ様がお越しになることを、随分と楽しみにしておられたのだな、と」
「…………別に。そういうわけではない」
「私は何も申し上げておりませんが」
「顔が言っている!」
その声は、今度こそ階下へ向かっていたオルディアスの耳にも届いていた。何より、「中止」という娘の怒声を聞き逃せるはずもない。
数秒後、扉が再び開いた。
「先ほどから何を騒いでいる!」
戻ってきたオルディアスだった。
「父上。ソーマ様がお越しになりません」
「…………それは知っている。先ほど早馬で報せが届いていた」
「なぜ、もっと早く教えてくださらなかったのですか」
「今まさに、伝えに来たところだ」
オルディアスは眉を寄せた。
「待て、リゼル。ルドラ殿もドゥルガー殿も来ないというのに、なぜソーマ殿のことだけ、そこまで父に抗議するのだ?」
「ディの欠席については、既に夫婦間の問題として処理中です」
「処理するな!!」
「…………我がヴァルクロア大侯爵家の未来に関わる有事です」
「ソーマ殿の件まで何がだ!」
「おぉ! そうだ。私がアビスゲートでソーマ様を連れに行けば良いのでは」
「やめろ! 他領に正式な手続きを経ずに侵入するなど、外交問題だぞ!」
「大丈夫です、父上! アーシュラ侯爵領の領土安全保障省の長官であるガルーダ殿には、多額のわい……政務活動費の資金提供を行なっております。つまり、顔パスです」
「リゼル貴様! 今、賄賂と言おうとしたな! 他領の高官に賄賂など払うな! この馬鹿娘が!!」
オルディアスは大きく息を吐いた。
「……もう良い。話を逸らすな。誕生日会は予定通り行う」
「姉上がおられます。主役は姉上だけでも十分華やかでしょう」
「お前も主役だ」
「では私の等身大人形を――」
「人形も幻影も録音も全部駄目だ!」
「先読みは卑怯です」
「お前が毎年似たようなことを言うからだ!」
父娘はしばし睨み合った。先に目を逸らしたのは、オルディアスだった。
「それにな、リゼル」
少しだけ声音が柔らかくなる。
「何度も言うが、今日はお前だけの誕生日ではない。エルミナも同じ誕生日なのだ。ならば、自分だけ逃げようとするな」
リゼルは少しだけ視線を落とした。分かっている。今日は自分の誕生日であると同時に、姉の誕生日でもある。
姉――エルミナ・ノクス・ヴァルクロア。
決して好きな相手ではない。正直に言えば、苦手意識――嫌悪に近いものすら抱いている。
表面上、エルミナは自分に対して優しい。年の離れた妹だからなのか、何かと気にかけてもくれる。だが、リゼルはその優しさを、どうしても素直に受け取れずにいた。
(何度見ても、ステータスが読めんのだよな……)
12年間、このヴァルクロア家で育ってきた実の姉だ。得体の知れない魔族でもない。
それなのに、リゼルが能力を覗こうとすると――読めない。何かに阻まれるように、あるいは最初から見せることそのものを拒絶されているかのように。
(あのステータスの読めない女と、一日中一緒……)
「…………」
ぞわっ、と背中を何とも言えないものが走った。
エルミナが怖いわけではない。だが、理解できない。解析できない。予測できない。その三つが揃えば、リゼルにとっては十分に警戒すべき対象だった。
相手が実の姉であろうと、その点だけは変わらない。
「…………リゼル? 何を考えている」
「いえ。姉上と一日行動を共にするのは、なかなか体力を使いそうだと思っただけです」
「エルミナは、お前が思っている以上に今日を楽しみにしているぞ。お前と一緒に祝われることを」
「…………姉上が?」
リゼルは僅かに目を伏せた。
意外だった。自分はこれまで、エルミナの誘いを何度も断っている。悪意があったわけではない。ただ、その時間があるなら別のことをしたかった。それだけだ。
(それでも、か)
「せめて今日は、姉を祝ってやれ」
それを言われると弱い。リゼルは誕生日会そのものが嫌なのであって、姉の誕生日までどうでもいいと思っているわけではない。
(まあ……仕方ないか。それに今日一日、エルミナと一緒にいれば、何か分かるかもしれない。なぜ、自分には姉のステータスが読めないのか)
「…………承知いたしました。本日の誕生日会には出席いたします」
「うむ」
「ただし、途中退席については――」
「最後までいろ」
「…………横暴だ」
「聞こえているぞ」
リゼルは不満げに唇を尖らせた。そして、ちらりとメアを見る。
「そういえば、メア――」
「お嬢様」
先に塞がれた。
「本日はメリッサ先生より、私との稽古はお休みにしてよい、と仰せつかっております。お嬢様のお誕生日なのだから、一日お世話に専念するように、と」
「いやいやいや、待て。それは駄目だろう。私の誕生日なんかより、お前の稽古の方が100億……いや、1兆倍は大切だろう」
「リゼル、お前、何を言っているのだ?」
「事実を申し上げました。メアは今、極めて重要な成長期にあります。私を祝うためにその成長を止めるなど、本末転倒でしょう」
リゼルにとっては、極めて合理的な主張だった。
だが、オルディアスにとっては、5歳の娘が自分の誕生日より侍女の稽古の方が1兆倍大切だと言い出しただけだった。
「メア。メリッサ先生のところへ行って、『やはりお願いします』と言ってこい」
「嫌でございます。本日はお嬢様のお傍におります。奥様より、そう申しつけられておりますので」
「母上ぇ……!」
とうとうリゼルが天井を仰いだ。
オルディアスは、何とも言えない顔で娘を見た。
誕生日会には出たくない。ソーマの欠席には誕生日会そのものを消滅させようとする。姉の誕生日と言われれば渋々ながら出席を受け入れ、かと思えば侍女の稽古が休みと知れば、自分の誕生日より1兆倍大切だと抗議する。
さらに今朝だけで、嫁が二人に増え、そのうち一人とは既に倦怠期らしい。
(我が娘ながら……どういう価値基準をしているのだ)
ただ、メアは嬉しそうだった。困ったように笑いながらも、隠しようのない喜びが滲んでいる。
自分の成長を、主人がそれほど大切に思ってくれている。それだけで十分だった。
「とにかくだ、リゼル。お前は誕生日会に出席する。メアもお前に付き添う。稽古は休みだ」
「………………はい」
「なぜ最後だけ返事が遅い」
「気のせいです。父上、そろそろ会場のお時間では?」
リゼルは答えず、鏡台へ向き直る。頬杖をつこうとしたところを、すかさずメアに止められた。
「お嬢様。せっかく整えたお衣装が崩れてしまいます」
「もう崩してしまえば、出席できないのではないか?」
「お着替えをご用意いたします」
「お前、最近私への対処が上手くなったな」
「お褒めいただき、光栄でございます」
「褒めていない」
メアは小さく笑った。
オルディアスは、まだ部屋の入口に立ったままだった。今度こそ話を切り上げて出ていくつもりだったが、ふと何かを思い出したように足を止める。
「そういえば、リゼル」
「まだ何かございますか」
「最後に、もう一つだけ伝えておかねばならん」
オルディアスの声が、僅かに改まった。
「本日は、ヴァルクロア派閥のノクタール侯爵と、その令嬢メリュジーヌ嬢も来る。アーシュラ侯爵と並ぶ、我がヴァルクロア派閥の重鎮だ。必ず挨拶しなさい」
「…………」
その名を聞いた瞬間、リゼルの動きが止まった。
(メルが来る……?)
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。胸の奥から、忘れていたはずの何かが一気に込み上げてくる。
(やっと――やっと、メルに会える……)
「お嬢様?」
メアが不思議そうに覗き込む。
だが、リゼルは答えられなかった。目の奥がじわりと熱くなり、堪えようとした時にはもう遅かった。
ぽろり、と一筋の涙が頬を伝う。
「お、お嬢様!?」
「り、リゼル!? なぜ泣いている!」
メアとオルディアスが、揃って驚愕の声を上げた。
「…………っ」
リゼルは慌てて袖で目元を拭い、平静を装う。
「……いえ。ノクタール侯爵ほどの重鎮が、我が家の誕生日会にわざわざ足をお運びくださることの、その、あまりの光栄さに……少々、涙腺が緩んだだけです」
「そ、そうか……」
オルディアスは半信半疑ながらも、そう答えるしかなかった。
メアは何も言わない。ただ、鏡越しにリゼルの顔をじっと見つめていた。今の涙が、ノクタール侯爵への感激だけで説明できるものではない。それくらいは分かる。
(確か、パンデモニウム・オンラインでは、メルは20歳だった)
リゼルは俯いたまま、必死に思考を巡らせる。
(私と出会うのは、本来もっと後――10年ほど先のはずだ。なら、メルは今……10歳か)
再び目頭が熱くなりかけたが、今度は堪えた。
(会える。今日、会えるのだ。予定より遥かに早く、この目で――メルに会える……!)
先ほどまで、面倒だ面倒だと繰り返していた無気力な表情は、もうどこにもなかった。リゼルの瞳には、隠しきれない昂揚が宿っている。
「父上」
「な、なんだ」
「ノクタール侯爵とメリュジーヌ嬢を、私がアビスゲートで迎えに行って参ります」
「は?」
「座標を教えてください」
「駄目に決まっているだろう!! そもそもノクタール侯爵は、とうに自領を発っている。座標を知ったところで、もぬけの殻に飛ぶだけだぞ!」
「…………」
さすがのリゼルも、その正論には言葉を失った。
「…………仕方ありません。正面玄関で、大人しくお待ちすることにします」
渋々といった様子ではあったが、それでもどこか口元が緩んでいる。メアは、それを見逃さなかった。
(本当に嬉しいのだな……)
誰が来ようと動じず、誰が来なかろうと理屈でねじ伏せようとするお嬢様が、これほど分かりやすく浮き足立っている。
ソーマの時とはまた種類の違う、隠しようのない喜びようだった。
「父上」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「正面玄関には、いつ頃出れば宜しいでしょうか」
「客人の到着に合わせれば良い。追ってメアに知らせよう」
「…………分かりました」
オルディアスは、どこか釈然としない顔をしながらも頷いた。
ソーマの欠席には誕生日会そのものを中止しようとした娘が、今度は少なくとも自分の知る限り面識のないはずの令嬢の来訪に、涙まで流している。
(この娘は、いったい何を知っているのだ……)
その疑問は、今日この日だけでは解けそうになかった。
こうして、リゼル・ノクス・ヴァルクロアの5歳の誕生日は、本人の心からの不満と、父の断固たる却下と、侍女の容赦のない先回りによって幕を開けた。
ルドラはいない。ディもいない。ソーマもいない。メアの稽古もない。誕生日会から逃げることもできない。そして今日は一日中、12歳の誕生日を迎えた姉――ステータスの読めない、あの姉と共に過ごさなければならない。
とはいえ、今考えても答えは出ない。
「…………まあ、いい」
今日一日、一緒にいるのだ。嫌でも観察する時間はある。そして何より、今は別の楽しみができた。
それでも、誕生日会そのものが面倒であるという事実だけは何一つ変わっていなかった。ほとんど罰ゲームだった。
ただ、この朝。リゼルが何気なく覗いた一枚のステータスウィンドウには、レベル1,310という数字が刻まれていた。半年前のおよそ8倍。急速に研ぎ澄まされつつある剣術。そして、未だ開くことのない《万魔殿》へと続く扉。
その扉の向こうに何があるのか、今のリゼルは知らない。オルディアスも知らない。メリッサでさえ、その先までは見通せない。
ただ一つ、メア・ナイトという少女が、周囲の予想を遥かに超える速度で、まだ誰も名を知らない領域へと近づいている。それだけは、確かだった。
そして――この時点では、まだ誰も知らない。
この退屈で面倒な誕生日会が、リゼルにとって3人目の仲間を得る日になることを。
同じ誕生日を祝われる姉が、なぜ自分の目に何一つとしてその内側を見せないのか。その違和感が、遥か先の未来まで消えることのないものになることも。
そして、ヴァルクロア大侯爵家の華やかな祝いの席へ紛れ込んだ暗殺者たちが、よりにもよって今日、よりにもよってこの屋敷で、その成長の意味を――誰よりも早く、自らの身体で思い知らされることになることを。
5歳にして、嫁が二人になりました。
メアの成長、そしてドゥルガーに続く二人目の「嫁」。
そんなリゼルの誕生日に、次なる出会いが近づいてきます。
次回、蛇の姫は、まだ主を知らない




