Ver.2 Poison Chapter 2-1 夜に潜む蛇
メアの中に見出された、《万魔殿》へと至る可能性。
その一方で、リゼルの知らない場所でも物語は動き始めていた。
静かな夜。
誰にも気づかれぬように、闇の中を進む一つの影。
まだリゼルは、その存在を知らない。
けれど――蛇はすでに、すぐ近くまで来ている。
月明かりさえ、雲に喰われていた。
魔界の夜。分厚い雲が空を覆い尽くし、星の一つも見えない。
その闇の中に、ひっそりと建つ一つの屋敷があった。
大侯爵家ほどではない。けれど、広大な庭園を抱え、外周を高い石壁で囲い、正門から本館へ至る道の両側には、魔晶石を用いた街灯が等間隔に並んでいる。紛れもなく、上級貴族の邸宅だった。
その家は――オルディアスの派閥に属している。
古くからではない。現当主になってから急速にオルディアスへ接近し、現在では会合にも頻繁に顔を出していた。魔界の貴族社会では、強者の周囲に人が集まる。ごく当たり前のことだった。
だからこそ――狙われた。
深夜。本館の執務室には、まだ灯りが残っていた。
「……ふぅ」
机に向かっていた男が、疲れたように背もたれへ身体を預ける。
積み上げられた書類。封蝋の施された書簡。そして、机の隅には、一通の招待状が置かれていた。数日後に開かれる、オルディアスの娘の誕生日を祝う宴。男もまた、その席へ招かれている。
「まったく……」
愚痴を漏らしながら、それでも男の口元は僅かに緩んでいた。招待されるということ自体が、現在の自分の立場を示している。出席する。顔を売る。関係を深める。そして――自らの家を、さらに上へ押し上げる。
「さて……もう少しだけ――」
男が書類へ手を伸ばした。
その時だった。
――カツン。
小さな音がした。男の手が止まる。
「……?」
窓へ目を向ける。何もない。夜の庭園、風に揺れる木々、巡回する衛兵の姿が遠くに見えるだけだった。
「気のせいか」
視線を戻す。
――カツン。
まただ。今度は、はっきりと窓の方から聞こえた。
「誰だ?」
椅子から立ち上がる。腰へ手を伸ばし、壁に立て掛けてあった剣を取ろうとして――止まった。
窓の向こう。何かがいた。
小さい。子供ほどの背丈。黒い外套に全身を包み、深く被った頭巾の下から、何本もの細長い影が覗いている。
「…………」
どうやって、ここまで。衛兵は。結界は。疑問が頭を駆け巡る。
だが、それより先に、窓の外の小さな影が――動いた。右手が、ゆっくりと持ち上がる。握られていたのは、一本の鞭。黒く、細く、金属とも革とも判別できない、不気味な光沢を帯びていた。
「侵入者――ッ!」
男が叫ぶ。同時に、鞭が振るわれた。
――パァンッ!!
乾いた破裂音。窓硝子が一斉に砕け散った。
吹き込んできた夜風に、書類が舞い上がる。その紙片の中を――黒衣の少女が歩いてきた。走らない。急がない。窓枠を越え、床へ降りる。小さな靴が、硝子片を踏んだ。
しゃり。しゃり。
音だけが、妙に大きく響く。
「何者だ! 誰の差し金だ!?」
答えない。
「ここが誰の屋敷か分かっているのか! 私はオルディアス閣下の――」
少女の腕が動いた。鞭が、床を打つ。
――瞬間。黒い鞭が、脈打った。
「……?」
鞭の表面が――蠢いている。いや、違う。膨らんでいる。少女の手元から猛烈な勢いで膨張し、一本だったはずの鞭が枝分かれし、捻れ、絡まり、太くなる。鱗が生えた。巨大な顎が開いた。牙が並ぶ。一つ、二つ、三つ。さらに増える。
「な……なんだ、それは……」
男の顔から血の気が引いた。天井近くまで持ち上がった、巨大な首。その一本一本が別々の意思を持つかのように蠢き、無数の眼が男を見下ろしていた。部屋が狭い。それでもなお、異形は身体を捻じ込み、壁を軋ませ、天井を削りながら膨れ上がっていく。
「衛兵! 衛兵ッ!!」
叫ぶ。返事はない。
「何をしている! 誰か――!」
そこで、ようやく気づいた。静かすぎる。屋敷が。先ほどまで、窓の向こうには衛兵がいた。使用人も、護衛もいる。それなのに――誰一人、来ない。
少女は、何も言わなかった。ただ、鞭を握った右手を、僅かに前へ出した。それだけだった。
巨大な顎が――開く。
「ま、待て! 金か!? 地位か!? 誰に雇われた!? 倍払う! 三倍でもいい!」
少女は動かない。
「望みを言え! 何でも――」
その瞳だけが、頭巾の奥から男を見ていた。感情がない。怒りも、憎しみも、殺意さえ――見えない。ただ、仕事を終わらせようとしている。そのことが、男には何より恐ろしかった。
「待――」
轟音。巨大な顎が、男を呑み込んだ。
机が吹き飛ぶ。椅子が砕ける。床が抉れる。壁へ血が飛んだ。
それだけだった。
数秒後、異形は縮み始めた。巨大な首が捻れ、絡まり、一本へと収束していく。やがて、少女の手には、再び一本の黒い鞭だけが残った。
静寂。
床に落ちた招待状へ、血が一滴、落ちる。少女は、それを見下ろした。赤く染まった紙面。そこには――オルディアスの名がある。
「…………」
少女は何も言わない。ただ、鞭を仕舞おうとして。
「随分と派手にやったじゃないか」
低く、よく通る声だった。怒鳴るでもなく、囁くでもない。まるで、舞台の上で台詞を紡ぐような声音。
少女の肩が、僅かに強張った。振り返る。扉の方。いつからいたのか。
闇に溶け込むように、その男は立っていた。黒い外套の下から覗くのは、鳥とは無縁の、悪魔的な意匠を纏った漆黒の翼。額から後頭部にかけて、骨質の装甲が皮膚と融合している。肉体と魔体が混ざり合った、異形の貴種。整いすぎた顔立ちの半分は、その骨の甲冑に覆われ、人ならざるものへと変貌していた。赤い瞳だけが、氷のように冷たく澄んでいる。
「もう少し、綺麗に殺せなかったのか。これでは暗殺ではなく、ただの襲撃だ」
男――ヴァルガス・ナーゲルは、静かにそう言った。声に苛立ちはない。出来の悪い部下の仕事を、淡々と評価するだけの口調だった。
少女は、何も言わなかった。言い訳をしても意味がないことを――知っている。
「まあ、いい」
ヴァルガスが壁から身体を離し、ゆっくりと歩いてくる。少女の横を通り過ぎ、肉片と血に汚れた床を、興味なさげに一瞥した。
「オルディアスの犬が一匹減った。それで十分だ」
靴先で、落ちていた招待状を引っ掛ける。拾い上げる。血に濡れた紙を開き――ヴァルガスの口元が、僅かに弧を描いた。
「ちょうどいい。数日後、オルディアスの娘が誕生日を迎えるそうだ。この家も招かれていた」
赤い目が、細くなる。
「お前も行け。ノクタールの名を使えば、入り込む手はいくらでもある」
少女は、黙って聞いていた。
「オルディアスの娘の誕生日会に出ろ。それで――女房を攫ってこい」
少女の瞳が、ほんの僅かに揺れた。殺せ。ではなかった。今までとは違う。
「……殺さないの?」
その一言だった。反抗ではない。ただ、命令の意図を確認しただけ。純粋な、業務上の疑問。それだけのつもりだった。
ヴァルガスの足が、止まった。
少女の前で、ゆっくりと膝を折る。目線を合わせるように。骨の意匠に覆われた顔が、すぐ間近まで近づいた。
「誰が、お前に理由を聞いていいと言った?」
声は、変わらず静かだった。だが、その静けさこそが、何よりも恐ろしい。
ヴァルガスの指が、少女の顎を摘まむ。人のものではない、薄い皮膚の下に黒い甲殻を隠した指先。爪の先には、毒と呪詛を纏った鈍い光が滲んでいた。
「……っ」
触れられた場所から、じわりと熱が広がる。焼けるような、それでいて凍りつくような、奇妙な痛み。皮膚の内側に刻まれた契約の紋様が、疼いた。
声にならない呻きが漏れる。膝から力が抜けそうになるのを、辛うじて堪えた。
「勘違いするな」
ヴァルガスが顎を離す。少女は、床へ片手をついた。荒い呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「お前は俺の駒だ。俺が言うことだけ聞いていればいい。殺せと言えば、殺す」
ヴァルガスが、少女の頭巾へそっと触れた。壊れ物を扱うような、優しささえ滲む仕草。だが、その優しさの下に何が潜んでいるかを、少女はよく知っていた。
「攫えと言えば、攫う」
蛇髪の一匹が、微かに威嚇するように鎌首をもたげた。だが――少女が止めた。抵抗させない。それが何を招くのか。もう、知っているから。
「死ねと言えば――死ぬ。それだけの話だ」
ヴァルガスの口元が、僅かに笑みの形を作った。だが、その赤い瞳の奥だけは、少しも笑っていない。
「返事は?」
数秒、沈黙があった。
「……分かった」
「聞こえないな」
「……分かった」
今度は、はっきりとした声だった。
「そうか」
ヴァルガスは満足そうに頷いた。血のついた招待状を、少女の前へそっと差し出す。慈悲深い所作のようにも見えた。
「ならば仕事だ。オルディアスには手を出すな。娘にも手を出すな。女房だけだ」
ヴァルガスは微笑んだ。人の形をした部分だけを見れば、それは驚くほど美しい笑みだった。
「生きたまま連れてこい」
少女は答えなかった。
「分かったな?」
「……分かった」
「よろしい」
ヴァルガスは踵を返す。そして、数歩進んだところで――止まった。
「ああ、それと。余計なことは考えるな」
少女の指先が、ほんの僅かに止まった。
「お前が下手を打てば、ノクタールに残っている者たちがどうなるか――分かっているな?」
「…………」
それだけで、十分だった。
黒い翼が、外套の下で僅かに揺れる。ヴァルガスは優雅な足取りで、部屋を出ていった。足音が廊下の奥へ遠ざかり、やがて完全に消える。
少女だけが残された。
血。肉片。砕けた家具。そして――手の中の招待状。
少女は、床に座り込んだまま、それを見つめていた。顎に触れられた場所が、まだ僅かに疼いている。
けれど。
泣かなかった。
泣くことに意味がないことも。怒ることに意味がないことも。逆らえば、自分ではない誰かがどうなるのかも。もう――知っていた。骨身に染みるほど、何度も、何度も。
だから、ただ。招待状を折り畳み、黒衣の内側へ仕舞う。床に転がっていた鞭――幼い頃から契約を交わした魔鞭ヒュドラーを拾った。
蛇髪の一匹が、心配するように少女の疼く顎へ頭を寄せる。
「……大丈夫」
小さな手が、その頭を撫でた。誰に聞かせるためでもない、自分自身へ言い聞かせるだけの言葉。
それから、少女は立ち上がった。膝の震えを押し殺し、砕けた床を踏みしめて。
何事もなかったように。
次の仕事へ向かう暗殺者として。
――オルディアスの娘の、誕生日へ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに動き始めた、もう一人の物語。
リゼルも、メアも、まだ彼女の存在を知りません。
そして彼女自身もまた、自分が誰と出会い、どこへ辿り着くのかを知らない。
夜に潜んでいた蛇が、少しずつリゼルの世界へ近づいてきます。
次回、「5歳児、嫁が二人になりました」。




