Ver.2 Poison Chapter 1-3 万魔の萌芽
メア・ナイトの前に現れた、新たな師――メリッサ・ハウゼン。
その目的は、ただ剣を教えることではない。
メアの中に眠る、まだ本人さえ知らない可能性。
忠誠だけを胸に、ひたすら主人の傍を目指してきた少女に――。
メリッサは、さらなる高みへの道を示す。
それはやがて、《万魔殿》へと至るかもしれない道。
ヴァルクロア大侯爵邸、正門前。
その日、屋敷の門前には――当主オルディアス、その妻セレスティア、そしてリゼルとメアが、揃って跪いていた。頭上には、雲一つない澄んだ青空が広がっている。柔らかな朝の日差しが、石畳の上に幾つもの影を落としていた。それでいて、この場に漂う緊張感だけは――まるで嵐の前触れのように、重く張り詰めていた。屋敷に仕える使用人たちですら――今日、この日ばかりは、いつもより幾分か遠巻きに様子を窺っている。誰も口を開かない。ただ静かに、その時を待っている。
やがて、約束の刻限が訪れた、その瞬間。彼らの目の前の地面が――突如、隆起した。土が盛り上がり、渦を巻き、まるで大地そのものが意志を持って蠢いているかのように――その中心から、緑色の髪をたなびかせた1人の女が姿を現した。土埃が静かに舞い散り、朝の光を淡く反射していく。庭木の葉々も、その地の震えに僅かに揺れていた。
「ご無沙汰しております」
オルディアスは、深く頭を垂れた。その所作には、大侯爵としての威厳よりもなお深い畏敬の念が滲んでいる。この屋敷において――大侯爵たる彼自身が、こうまで深く頭を垂れる相手は、そう多くはない。
「メリッサ・ハウゼン先生」
「久しいのぉ、オルディアス。壮健……とは、いかんようじゃが?」
「は、ははぁ!」
オルディアスの額に、僅かに汗が滲んだ。
「胃薬が手放せぬ日が、多くございまして」
「ふむ」
メリッサは、そう頷きながら、次にセレスティアへと視線を移す。値踏みするようなその目の動きに――セレスティアは、僅かに背筋を正した。長年、大侯爵夫人として幾多の社交の場を渡り歩いてきた彼女ですら――この老いた女の、その視線の重さには、些かの緊張を覚えずにはいられなかった。
「セレスティアも――よくオルディアスを支えておるようじゃな。じゃが、主らの娘は――少々とヤンチャをしておるようじゃのぉ?」
「先生も、お変わりなく――嬉しく思います」
セレスティアは、そう穏やかに微笑んだ。その言葉の裏に、どれほどの覚悟が込められていたのか――それは、この場にいる誰にも正確には窺い知ることができなかった。娘の今後を、この得体の知れない老いた剣士へと委ねる。その決断の重みだけは、確かに彼女の佇まいの端々に滲んでいた。
* * *
それから、数ヶ月。
屋敷の裏庭には、乾いた打ち合いの音が絶えず響くようになった。朝靄の残る早朝から、日が中天に昇り切るまで。休むことなど許されないとでも言わんばかりの、厳しい稽古だった。季節が幾度か、その装いを変える間も――その稽古の音だけは、決して絶えることがなかった。
「ほれ、立たんか」
メリッサのしゃがれた声が、朝の空気を切り裂く。
最初、この稽古の対象は――リゼルのはずだった。だが、蓋を開けてみれば。
「嬢ちゃんには、剣術の才は無いぞ」
メリッサは、あっさりとそう告げた。木刀の切っ先を、リゼルへと僅かに向けながら。その判断に、迷いは微塵も見られない。
「諦めよ」
「存じております」
リゼルもまた、それをあっさりと認めた。傷ついた様子も、悔しがる様子も微塵もない。むしろ、どこか興味なさげにすら見える、その態度。
「魔法の方が、性に合っておりますので」
そのあまりにもあっさりとしたやり取りに――代わって稽古の的となったのは、メアだった。
朝から、陽が落ちるまで。木剣を握らされ、地に幾度となく叩きつけられる。土埃に塗れ、幾度も膝をつき、それでもメアは立ち上がり続けた。何度、地に伏せることになろうとも――その両の目だけは、決して光を失うことはなかった。その繰り返しの日々の中に――何かが少しずつ変わっていくような、確かな手応えが宿っていく。
その日、稽古の様子を見に庭へ現れたのは――オルディアスだった。木剣を振るうメアの汗だくの姿を、しばらくの間、遠目に眺めていたが――やがて、その足は自然とメリッサの元へと向いていった。
「メリッサ先生」
オルディアスは、そう静かに切り出した。
「なぜ――リゼルではなく、メアに稽古を?」
「オルディアス」
メリッサは、静かにそう言った。その瞳には、これまでにない確かな真剣な光が宿っている。それは、これまで幾度となく見せてきた、あの飄々とした老いた女の顔とは――明らかに違う貌だった。
「あの嬢ちゃん――万魔殿の才が、あるやもしれんぞ?」
「な……万魔殿……?」
オルディアスの表情が、瞬時に凍りついた。全身から血の気が一気に引いていくのが――自分でも、はっきりと分かった。
「うむ」
メリッサは、深く頷いた。
「誰にでもあるものではない。ごく一握りの――強者、あるいは天才だけが発動しうる、その者だけの独立した領域。魔力とスキルの狭間に顕現する。発動した者にしか見えず――何人たりとも介入はできん。それを持つこと自体が――途方もない才能と将来性の証明じゃ」
「それが……メアに……?」
オルディアスの声が震えた。夜魔族――主に娼婦の仕事を生業とする、一族の娘。それが、まさか自分でさえ届かなかった天才の領域に――足を踏み入れているというのか。大侯爵として、これまで幾多の才ある者たちを見てきたはずだった。それでも、このあまりにも突然の事実には――すぐには飲み込めない動揺があった。
「まだ、萌芽に過ぎん」
メリッサは、そう続けた。
「どのような宮殿を、あの内に築くのか――それすらも、まだ分からん。じゃが……あの目。あの気配の読み方。ただのメイドの動きではない」
オルディアスは、しばし絶句していた。それから、ゆっくりと視線をリゼルへと向ける。何か、確かめずにはいられなかった。
「リゼル。お前――まさか、知っていたのか?」
「はて、父上?」
リゼルは、僅かに首を傾げてみせた。その表情に、一切の乱れはない。演技であることを疑わせる隙すら、どこにも見当たらなかった。
「何のことでございましょう? アレを雇用なさったのは――父上と母上ではございませんか。赤子の私に、アレを選ぶ能力など――ございませんよ」
そのあまりにも自然な表情と言動。オルディアスは、それ以上追及する言葉を見つけられなかった。この娘が、こうまで堂々としらを切る時――たとえ真実を知っていたとしても、決してそれを暴くことはできない。長年の付き合いの中で、すでにそれを思い知らされていた。
(万魔殿か……)
リゼルは、その内心でそっと呟いていた。父に悟られぬよう、表情の裏へ、その思考を静かに沈める。
(私も、パンデモニウム・オンラインで持っていたが……アレは、ゲームだから使えた領域だ。パンデモニウムが現実となった今――大魔王ドラコー陛下の御身に危機が訪れない限りは、使うまい)
「メアの嬢ちゃん」
メリッサの声が、その場に響いた。オルディアスとのやり取りに区切りをつけるように――視線を、稽古中のメアへと戻す。
「その木剣がへし折れても――あの木を切り倒してこい。今日は、それで終わりにしてやる」
その視線の先には――あの庭の中央に聳え立つ、巨大な大樹があった。何十年、いや、何百年もの歳月を、その幹に刻み込んできたであろう、堂々たる老木だった。その枝葉は、屋敷の屋根さえ優に超えるほどの高さにまで伸びていた。
「メリッサ先生?!」
オルディアスが、思わず声を上げた。予想だにしなかった、その課題の重さに――言葉を失いかける。
「アレは、父が植えた大切な大樹で……!」
「木など」
メリッサは、そうあっさりと切り捨てた。取り合う気配すら、微塵も感じさせない。
「根性あれば、また、たかだか200年程度で、でっかくなるわ」
「せ、先生」
メアは、青ざめた顔で、その大樹を見上げた。首を目一杯逸らさなければ、その頂すら見通せないほどの圧倒的な大きさだった。
「この大樹……お屋敷の柱よりも、太くて大きいのですが……」
「そうじゃのぉ」
メリッサは、悪びれもせず頷いた。まるで、それが何の問題も無いとでも言わんばかりに。
「ならば、この大樹を倒せたら――お主は、破城戦にも参加できるのぉ。精進せい」
メアの顔から、完全に血の気が引いた。オルディアスは、もはや言葉を失っていた。父の遺した大切な木が――たった1本の木剣で切り倒される日が来るかもしれない。そのあまりにも非現実的な光景に、思考が追いつかない。
だが、そんな中――ただ1人。
リゼルだけが、年相応のあまりにも良い笑顔を浮かべていた。このあまりにも理不尽な状況を、心の底から楽しんでいるかのような――そんな無邪気な輝きが、その赤い瞳に宿っている。
「メア」
リゼルは、そう朗らかに声をかけた。
「頑張れぇ。お前が、メリッサ先生の課題をクリアしないと――主人である私も、後ろ指を刺されて、評価はダダ下がりだぞぉー」
「お嬢様……」
メアは、そう呟くと――その目つきが僅かに変わった。恐怖でも、絶望でもない。あの日、リゼルのために何でもすると誓った、あの決意。それを今、このあまりにも理不尽な課題を前に――ただ静かに思い出していた。
(ならば――やるだけだ)
メアは、木剣を握り直した。手のひらに、じんわりと汗が滲む。それでも、その握りに迷いはなかった。
* * *
陽は、とうに沈んでいた。
庭の中央、あの巨大な大樹の周囲だけが、篝火の揺らめく光に照らされている。夜風が時折その炎を揺らし、周囲の闇を一層深く際立たせていた。乾いた木剣の音は――まだ止んでいなかった。
カン。
カン。
カン。
単調なその響きだけが、夜の静寂に繰り返し木霊する。
メアの手にある木剣は、すでに先端が無残にへし折れていた。それでも、彼女は止まらない。折れた切っ先を、幾度も幾度も大樹の幹へと叩きつけ続けている。汗が幾筋も頬を伝い、息は荒く乱れていた。それでも、その瞳の光だけは――未だ消えていない。むしろ、時が経つにつれ、その光は、いっそう鋭さを増しているようにすら見えた。
その様子を、少し離れた場所から――リゼルは、ただじっと見つめていた。
用意された椅子には、一度も腰を下ろさない。差し出された軽食にも、一切手をつけない。ただ両の腕を組み、篝火の揺らめきを、その赤い瞳に映しながら――主従の誓いを果たそうとするメアの姿を、見守り続けていた。その佇まいには、4歳の幼子には到底似つかわしくない、確かな重みが宿っていた。
「――リゼルちゃん」
その時、庭の入り口から涼やかな声が響いた。
姉、エルミナだった。傍らには、いつものようにゼノヴィアを伴っている。柔らかな衣擦れの音と共に、姉はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。手には、温かな羽織り物を携えている。その口元には、常と変わらぬ穏やかな微笑み。慈悲深い女神のような、その佇まい。
リゼルは、視界の端でその姉の姿を捉えながら――内心で、そっと意識を研ぎ澄ませた。
(相変わらず、読めんな)
万魔殿を持つリゼルの目にすら――この姉のステータスだけは、決して映らない。何を隠しているのか。あるいは、そもそも隠すべき何かなどないのか。それすらも判然としない、特異な存在だった。
表情も、言葉遣いも、感情の起伏すら――魔界の住人とは到底思えぬほどの人格者。誰に対しても分け隔てなく注がれる、恐ろしいほどの博愛。それでいて、ことリゼルに対する慈しみだけは――ひときわ強い。
(だからこそ、気味が悪い)
魔界において、この慈悲深さは――異常だった。
「まだ、こんなところにいたのね。お夕食のお時間よ。一緒に、いかが?」
「姉上」
リゼルは、視線をメアへと向けたまま、そう答えた。振り返ることすらしない。
「お誘い、痛み入ります。ですが――今宵は、遠慮させていただきます」
「あら」
エルミナは、その穏やかな微笑みを崩さぬまま、静かにそう応じた。動揺も、落胆も、そこには微塵も見られない。ただ、変わらぬ慈愛だけが、その声に滲んでいる。
「無理をしないでね。夜も随分と冷えてきたわ」
「お心遣い、感謝いたします」
リゼルの返答は、あくまでも丁重だった。だが、その視線が一瞬たりとも大樹から逸れることはなかった。
その頑なな態度に――ゼノヴィアが、苛立ちを隠せずに口を挟んだ。腕を組んだまま、大樹の方を忌々しげに睨みつける。
「なぁ」
ゼノヴィアは、顎を大樹の方へとしゃくり、そう切り出した。
「あんな枝みたいなもんで――あんなデッカい木を、どうにかできるとでも思ってんのかよ?」
「黙っていろ、ゼノヴィア」
リゼルの声が、瞬時に冷えた。氷のように鋭い響きだった。
「また、躾られたいのか?」
「うるせぇ、クソガキ!」
ゼノヴィアの声が、大きく跳ね上がった。日頃、抑え込んでいた苛立ちが、一気に噴き出したかのようだった。
「従者が貧弱で馬鹿なら――主人のあんたはもっと、頭がイカれてるぜ!!」
そのあまりにも直接的な罵倒。
庭の空気が、瞬時に凍りついた。篝火の炎すら、その一言に怯んだかのように、僅かに揺れる。
その刹那。
どごぉん――!
あたりに、凄まじい爆音が轟いた。大樹の幹に、最後の一撃を叩き込んだ、その音だった。地面が僅かに震えるほどの衝撃だった。
誰もが、一斉にその音のした方角――大樹の根元へと視線を向ける。
そこには――メアがいた。
先端こそ無残に折れているものの――刀身の大半は、まだその形を保ったままの木剣。それを両手にしっかりと握り直しながら。荒い息を整えることもなく、ただ静かに――ゼノヴィアを見つめていた。
その表情には、もはや先ほどまでの必死さは――欠片も残っていなかった。
まるで、何かを悟りきったかのような。凪いだ水面のような。明鏡止水――その言葉が、これほど似合う顔を、この場にいる誰も見たことがなかった。夜の闇の中、篝火の光だけが、その静謐な横顔を照らし出している。それは、これまでのメアからは到底想像もつかない――全く異なる貌だった。
「ゼノヴィア」
メアの声は、静かだった。それでいて――その静けさこそが、何よりも恐ろしかった。
「それ以上、お嬢様を侮辱するならば――私が、命懸けでお相手して差し上げます」
その一言と共に。
まるで、刃そのものが飛来したかのような鋭い殺気が――メアから放たれた。ゼノヴィアの頬を鋭く掠める。空気そのものが、一瞬張り詰めたかのような圧だった。
メアは、そのまま木剣を静かに構えた。折れた切っ先を、真っ直ぐゼノヴィアへと向ける。両の足が僅かに開き、重心が低く沈む。素人の構えではない。まるで、幾度も繰り返してきたかのような、自然な戦闘の体勢だった。
そして――ほんの一瞬。
ゼノヴィアと対峙するメアの手に握られた、あの折れた木剣の上に――幻のように、漆黒の刃が重なって見えた。柄を握り直した覚えなどない。それでいて、確かにその輪郭は、そこにあった。瞬きの間に――その幻影は、跡形もなく消えていた。
「――っ」
ゼノヴィアの肩が、僅かに震えた。だが、それも一瞬。すぐに獰猛な笑みが、その口元に浮かぶ。獣のような好戦的な光が、その瞳に宿った。
「面白ぇ」
ゼノヴィアは、そう低く唸るように言った。
「てめぇは、礼儀を知らねぇみたいだから――顔に、消えねぇ恐怖を刻んでやる!」
その両手の甲から――鋭く長い爪が、幾本も音を立てて飛び出した。夜の篝火に、その爪の鋭利な輪郭が鈍く光る。
「ゼノ」
エルミナは、静かにそう声をかけた。その声にも、表情にも――先ほどまでと変わらぬ穏やかさが宿っている。
「やめておきなさい」
「メア」
リゼルもまた、静かにそう声をかけた。その口調は、あくまでも平然としていた。
「盛りのついた猫に、ムキになるな」
そのあまりにも辛辣な一言に――ゼノヴィアの顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「てめぇ……!」
だが、その怒りを上回るように――メアの殺気は、いっそう鋭さを増していた。折れた木剣をなおも握りしめたまま、ゼノヴィアから視線を逸らさない。
一触即発の空気。
庭の緊張が、限界まで張り詰めた――その時だった。
「ふぁーあ!」
場違いなほど、間の抜けた欠伸の声が響いた。緊迫した空気を、まるで意にも介さぬような、あまりにも脱力した響きだった。
「なんじゃ、ようやく終わったのか?」
メリッサだった。彼女は、いつの間にか大樹の裏手から姿を現していた。全身から気だるさを纏いながら、大きく伸びをする。
「ならば、屋敷の中で――酒の飲み直しじゃなぁ」
そのあまりにも緊張感のない登場に――張り詰めていた空気が、僅かに揺らいだ。ゼノヴィアの爪すら、一瞬その勢いを失いかける。
「メリッサ様」
エルミナは、静かに礼をしようと一歩前へ出た。丁重に頭を垂れかける。
「本日は――」
だが。
メリッサは、まるでそこに誰もいないかのように――エルミナの姿を完全に素通りしていった。視線すら、一度も向けられることはなかった。まるで、初めからそこに何も存在していないかのような――そんな徹底した無視だった。
「……え?」
エルミナの伸ばしかけた言葉が、宙に浮いたまま消えていく。差し出しかけた、その丁重な礼も、行き場を失った。
メリッサは、そのまま悠然とした足取りで、屋敷の方へと歩いていく。その背中に、一切の迷いはなかった。
「メア」
リゼルが、そう短く呼んだ。
「行くぞ」
「はい、お嬢様」
メアは、折れた木剣を片手に提げたまま――リゼルの後に続いた。その足取りに、迷いはなかった。ゼノヴィアの方を、一度も振り返ることなく。
2人の背中が、篝火の光の向こうへと消えていく。
後には、エルミナとゼノヴィアだけが――取り残された。
* * *
「……なんだよ、ありゃ」
最初に口を開いたのは、ゼノヴィアだった。
まだ、両手の爪は収まっていない。だが、その怒りの矛先は――もはや行き場を失っていた。ぶつけるべき相手は、すでに目の前から去ってしまっている。
「完全に無視しやがった……あの婆さん」
「……ゼノ」
エルミナは、しばし無言のまま、庭に立ち尽くしていた。
その視線の先には――先ほどまでメリッサが通り過ぎていった、その軌跡だけが残されている。挨拶すら返されなかった。名すら呼ばれなかった。まるで、初めから存在すら認識されていないかのような――そんな無視だった。
「あんなの、ただの失礼な老いぼれじゃねぇか」
ゼノヴィアは、そう吐き捨てるように言った。だが、その声には――隠しきれない動揺が混じっていた。
「エルミナ様に、挨拶もしねぇなんて……」
「ゼノ」
エルミナの声は、静かだった。
だが、その静けさには――先ほどのメアのそれとは、また違う種類の重みがあった。
「あの方は……あの、大魔王ドラコー陛下すら『先生』とお呼びする方よ」
「……は?」
ゼノヴィアが、思わず間の抜けた声を漏らした。
「大魔王、陛下が……?」
「ええ」
エルミナは、静かに頷いた。その口元には、やはり変わらぬ穏やかな微笑みが浮かんだままだった。
「私たちが無視されたのではないの、ゼノ。おそらく――あの方の目には、私たちの存在そのものが映っていなかった。それだけのことよ」
その言葉の意味を、正確に理解できたのかどうか。ゼノヴィアは、しばし黙り込んだまま、篝火の炎を見つめていた。
「……なんだよ、それ」
やがて、絞り出すようにそう呟く。
「じゃあ、あのメイドは……あんな化け物みたいな婆さんに――これから鍛えられ続けるってことか」
「そう、みたいね」
エルミナは、そう答えながら、ふと視線を大樹へと向けた。その口元の微笑みだけは――やはり一貫して崩れない。
幾筋もの深い傷跡。折れた木剣の切っ先が、幾つも幹に突き刺さったまま残されている。その痕の1つ1つが――今宵、リゼルちゃんのメイドが、どれほどの時間をこの大樹に費やしてきたのかを、雄弁に物語っていた。
「リゼルちゃんも……あんなに長い時間、見守っていたのね」
その声音は、あくまでも穏やかなままだった。だが、その言葉の裏に――妹の、あの底知れなさへの静かな思いが、確かに滲んでいる。
そして、その傍らに、これから育っていくかもしれない、あのメイドの万魔殿。
エルミナは、しばらくの間――ただ変わらぬ微笑みを湛えたまま、その傷だらけの大樹を見つめ続けていた。夜風が静かに、その銀の髪をなびかせる。庭の隅々に、まだ篝火の揺らめく光だけが――変わらず静かに灯り続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
メリッサによって見出された、メアの新たな可能性。
今はまだ小さな萌芽に過ぎません。
けれど、主人であるリゼルのためなら、メアはどこまでも進んでいくでしょう。
その先に何が待っているのか――。
次回、「夜に潜む蛇」。




