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Ver.2 Poison Chapter 1-2 腐葉土と焼き鳥と泣く大魔王

メアの才能を伸ばすため、キュマイラが推薦した一人の人物。


その名を聞いただけで、大魔王ドラコーは全力で拒絶する。


それでも話は進み――ついにヴァルクロア大侯爵家へ、その人物が姿を現す。


土と樹木を思わせる異様な気配を纏う女。


彼女こそ、メアの新たな師となる存在。


そして――キュマイラとは、どうやら非常に仲が悪い。

魔界の大樹海。


 パンデモニウムの地図にすら、正確には載っていない、その深奥。人里から遥かに離れ、獣道すら途絶えて久しい、深い、深い森。木々は幾千年もの歳月を経て、天を覆い尽くすほどに生い茂り、真昼でさえ、その梢の隙間からしか陽光は差し込まない。


 この森そのものが――1人の女の支配領域だった。


 その最奥。ひときわ巨大な大樹が聳え立っていた。幹の太さだけで、城の一角を優に凌ぐ。その根の1本1本が、まるで大地そのものと一体化しているかのように、深く、深く、地中へと食い込んでいる。長い、長い年月を、この場所で静かに過ごしてきた、その風格。


 その根元に――1人の緑色の女が寝転がっていた。


 手には酒瓶。瓶の口から直に酒を呷りながら、木漏れ日を浴びている。全身を覆う、蔦のような髪。植木のような、古樹然とした、その角。くすんだ緑の古式衣装。金銀財宝の類は一切、身につけていない。そのあまりにも飄々とした佇まいからは――この女の真の実力を窺い知ることは、到底できなかった。


 その女の名は――メリッサ・ハウゼン。


 トレント族の伝説的存在。その生きた年月は――あの大魔王ドラコーすら遥かに凌ぐ。この大地に根を張る、あらゆる生命の始まりに最も近い場所にいる者。魔界そのものが、まだ今の姿を成す遥か以前から――この女は、すでにこの大地の上に存在していたという。


 大地の上で起きることのすべてを知っている。誰が何を企み、誰が誰を裏切り、誰がどこで何をしているのか。それらはすべて、この女の知るところだった。魔界中に張り巡らされた無数の根――その1本1本が、この女にとっては目であり、耳であり、そして時に、意志を持つ手足そのものでもあった。


 だが、善人というわけでは決してない。自らに不利益がない限り――どのような悪業も、大抵は見逃される。それが、この女の流儀だった。もっとも、それは絶対の法則ではない。気まぐれ1つで、街も、城も、時には国そのものすらも――大地震1つで容易く滅ぼしてしまう。それもまた、この女の流儀だった。誰も、この女のその日の機嫌を正確に読むことはできない。


 あらゆる魔法。あらゆるスキル。剣術も、武術も――この女にとっては、すべて暇潰しの延長線上に過ぎなかった。それでいて、そのどれもが頂点に極まっている。かつて、この女に剣の教えを乞うた者は数え切れない。魔界の名だたる英雄たちの中にも――その若かりし日、この大樹の下で汗を流した者が少なくないという。


 だからこそ――魔界に生きるあらゆる存在から、この女は「先生」と呼ばれていた。


 もっとも、例外はある。


 天翼族――キュマイラを含む、あの空を統べる一族だけは、この女に決して敬意を示さなかった。大地に根を下ろさぬ者たち。この女の支配の及ばぬ唯一の存在。天と地。その決して交わることのない2つの領域。そこに横たわる確執の深さは――もはや誰にも、正確には測ることができないほどだった。


   *   *   *


 その日。大樹海の静寂を破ったのは――1つの足音だった。いや、正確には2つ。1つは、あまりにも軽やかで迷いのない足取り。もう1つは、それに付き従うような、しかし確かな重みを伴った足音。踏みしめる下草の擦れる音までもが――どこか、その足取りの持ち主の性格を雄弁に物語っているかのようだった。


「なんじゃ?」


 メリッサは、目を開けることもせず、そう口を開いた。片手に酒瓶を緩く握ったまま。訪問者が誰であるか――その足音だけで、すでに見抜いていたのだろう。長きに渡り、この大地そのものと生きてきたこの女にとって、些細な気配の違いすら見逃すことはない。


「ずいぶんと来るのが遅かったのぉ、ドラちゃん?」


「は、ははははは」


 ドラコーは、引き攣った笑みを浮かべた。全魔界の頂点に立つ者とは、到底思えぬほどの、この狼狽ぶり。玉座の間では決して見せることのない、その表情。1万年以上もの永きに渡り、この魔界の頂点に君臨してきた、その絶対的な支配者が――ただの1人の女の前でだけ、こうもあっさりと素の顔を晒してしまう。


「お久しぶり――先生」


「随分と、わしのとこに来たくないと――ほざいておったのぉ? ドラちゃん」


 その一言に、ドラコーの表情が瞬時に凍りついた。額に、じわりと汗が滲む。


「あ、いや、それは……その……! 公務が立て込んでいて……その、先生に会う暇なんて無いくらい、忙しくて……!」


「ほぉ?」


 メリッサは、ゆっくりと身を起こした。木漏れ日が、その緑の髪を淡く照らす。長い、長い年月を生きてきた、その双眸には――あらゆる嘘を見透かすかのような深い光が宿っていた。その視線を真正面から受け止められる者は――この魔界広しといえど、数えるほどしか存在しないだろう。


「わしに、焼き鳥を馳走してくれるのかのぉ?」


 その一言に――キュマイラの眉間に深い皺が寄った。翼の羽根の1枚1枚が僅かに逆立つ。長年繰り返されてきた、この皮肉に――今なお、これほどまでに鮮烈に反応してしまう。それもまた、この女帝の1つの人間らしさなのかもしれない。


「あ、先生!」


 ドラコーが慌てて、小声で囁く。


「それ、マイラに言っちゃ絶対ダメなやつ」


「久しいのぉ」


 キュマイラは、そう静かに、しかし確かな怒気を込めて言い放った。その声だけで、周囲の木々の葉が僅かに揺れたように見えた。


「歩く腐葉土」


「ほほぉ?」


 メリッサの口元が僅かに歪んだ。愉快そうに、それでいて、どこか挑発的に。長年、この手の罵り合いを繰り返してきた、その余裕すら――この女には確かに備わっていた。


「わしを腐葉土と呼ぶか。この焼き鳥娘が」


「ならば、控え目に言ってやろう」


 キュマイラの瞳が鋭く細まる。


「貴様は――歩く植木鉢じゃ」


「植木鉢とは、また随分と小さくまとめたものじゃな」


 メリッサは、そう余裕たっぷりに笑ってみせた。


「妾に、その減らず口がいつまで叩けるかのぉ?」


「減らず口かどうかは――実際に試してみれば分かることじゃろう」


 次の瞬間。メリッサの手に木刀が握られていた。同時に、キュマイラの周囲に揺らめく炎が纏われる。大樹海の空気が一瞬にして張り詰めた。周囲の木々すら、その圧に身を竦めているかのようだった。遠くの梢に止まっていた小鳥たちが、一斉に飛び立っていく。その羽ばたきの音だけが、緊迫したこの場の空気の中に――やけに大きく響いていた。


「待ぁって!」


 ドラコーが、両者の間へ慌てて割り込んだ。その勢いのまま、大地が小さく抉れた。


「待って待って! 先生も、マイラも――今日は喧嘩しないで! 大魔王の命令です!!」


「ドラちゃん」


 メリッサは、木刀を構えたまま、そう告げた。その視線は、なおもキュマイラを捉えて離さない。


「忘れたのか? それ、わしは――適用外じゃぞ?」


「はん!」


 キュマイラが鼻を鳴らした。


「脳みそまで腐敗しておる老害は――礼儀さえ腐り果てたようじゃのぉ?」


「なんだと!」


 メリッサの目が細まる。木刀を持つ指先に、僅かに力がこもった。


「やるか、焼き鳥娘!」


「今日こそ、この見苦しい樹海を焼いて、レジャーランドでもブッ立ててやるわ!」


「面白い。そこまで言うなら――貴様のその自慢の翼、丸焦げにしてやろうかのぉ?」


「できるものならば――やってみるがよい!」


「もーやめてよー! 2人とも!」


 ドラコーの悲痛な叫びが、大樹海に木霊した。それから、しばらくの間。メリッサとキュマイラの応酬は――止まらなかった。老害だ、焼き鳥娘だと、幾度も、幾度も罵倒が飛び交う。その度に、木刀の切っ先と炎の揺らめきとが、危うい距離で幾度も交差した。木の葉が、その余波でひらひらと幾枚も宙を舞う。


 その間に挟まれた大魔王ドラコーは、ただただ両者の間を行ったり来たりしながら、涙目で仲裁を続けていた。額の汗は、もはや玉のように大きくなっている。全魔界を統べる絶対者としての威厳など――今のこの姿からは、到底想像もつかない。


 いったい、この不毛な応酬が――どれほど続いたのだろうか。太陽の位置すら、僅かに傾いたように感じられるほどの長さだった。


 そして、ようやく――両者の応酬が一段落した、その隙を突いて。


「ね! ねー、先生!!」


 ドラコーは、藁にも縋る思いで、そう切り出した。


「万魔殿を持っているかもしれない子の――お世話、してみない?」


「……ドラちゃん」


 メリッサの動きが、ぴたりと止まった。木刀を握る、その手が僅かに緩む。


「今――なんと言うた?」


「はん!」


 キュマイラが、勝ち誇ったように笑う。その口元に、確かな意地悪さが滲んでいた。


「惚けて、耳まで遠くなったのかえ、この老害は?」


「やっぱり、貴様は――殺す!」


「もー!」


 ドラコーが、再び両者の間に飛び込んだ。


「お願いだから、話、聞いてよぉ、先生! あと、マイラも――先生を挑発しないで!」


 そのドタバタとしたやり取りの果てに――ようやく、メリッサは木刀を下ろした。酒瓶を傾けながら、僅かに目を細める。その瞳の奥に、先ほどまでの闘気とは、また違う確かな興味の色が灯っていた。


「万魔殿、か」


 その声には――先ほどまでのからかいの色とは、また違う確かな興味が滲んでいた。


「ふん……面白い話じゃ」


 だが、メリッサは、すぐには頷かなかった。酒瓶を地面へ置くと――にやり、と意地の悪い笑みを浮かべる。その笑みの奥には――すでに何か、次の企みの種が確かに宿っているようだった。


「じゃが、その前に――1つ、頼みがあるんじゃがのぉ」


「な、なに、先生?」


 ドラコーが僅かに身構えた。長年の付き合いから――この老獪な女の、こういった前置きの後には――大抵、ろくでもない要求が待っていることを知っているのだろう。


「わしが1年、放置しておる、あの果樹園の――雑草、全部むしってこい」


「え?」


 ドラコーの動きが止まった。その表情から、みるみるうちに血の気が引いていく。


「あ、あぁ! それなら、すぐに大魔王府で対応するよ! 人員、たっぷり手配して――」


「は?」


 メリッサの目が細まった。その僅かな視線の変化だけで――ドラコーは、既に逃げ場を失っていた。


「ドラちゃん。わしは――お主にやれと言うておるのじゃが?」


「えー!!」


 ドラコーの悲鳴が、大樹海に木霊した。


「先生の果樹園って――この樹海の1割はあるじゃん!」


「そうかぁ」


 メリッサは、そうあっさりと頷くと、再び酒瓶を手に取った。


「嫌かぁ」


「い、いや、嫌とかじゃなくて……!」


「大魔王じゃからのぉ」


 メリッサは、そう続けながら、僅かに視線を逸らした。


「公務も忙しかろう」


「そ、そうそう!!」


 ドラコーは、そのあまりにも都合の良い逃げ道に――勢いよく飛びついた。


「そうなんだよ! 公務が本当に忙しくて――!」


「ならば」


 メリッサは、そう言うと、ゆっくりと大樹の根元へと身を横たえた。


「わしは、ふて寝をする」


「え……」


「老人のささやかな頼みも聞けない大魔王とは――話などっ、しとぉないわ」


 目を閉じたまま、そう告げる。そのあまりにもあからさまな態度に――ドラコーの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。


「え! 待って、待って!!」


 ドラコーは、慌ててその場にしゃがみ込んだ。


「先生、それだと――万魔殿の子に会えないよ!!」


 だが、メリッサは答えない。ただ、規則正しい寝息のような音だけが――その口元から漏れていた。あまりにも分かりやすい嘘寝だった。目蓋の端が僅かに震えていることにすら――誰の目にも明らかだった。


「せ、先生ぇ……!」


 ドラコーは、なおも、その緑色の肩を揺さぶり続けた。だが、メリッサは――頑として目を開けようとはしなかった。そのあまりにも頑なな態度は――まるで大樹そのものが根を張ったまま微動だにしない、その姿と重なって見えるほどだった。


「マイラぁ……どうしよう……」


 ドラコーは、そう涙目でキュマイラを振り返った。だが、キュマイラもまた、腕を組んだまま静かに目を逸らす。


「妾に聞くでない。お主が蒔いた種じゃろうが」


「そんなぁ!」


 ドラコーは、なおもしばらくの間、メリッサの肩を揺さぶり続けた。だが、その緑色の女は――大樹に深く根を下ろしたかのように、微動だにしない。時折、風が吹き抜けるたびに――その蔦のような髪だけが、緩やかに揺れるだけだった。


 やがて。


「……分かったよ」


 ドラコーは、そう力なく呟いた。がっくりと肩を落とす。


「雑草、むしればいいんでしょ、雑草……」


「うむ」


 その一言だけで――メリッサの片目が、すっと開いた。あまりにも分かりやすい寝たふりの終わり方だった。


「素直でよろしい」


「絶対、寝たふりだったよね、今の……」


「さて、何のことかのぉ」


 メリッサは、そう涼しい顔で身を起こした。


   *   *   *


 こうして――大魔王ドラコー自らが、その豪奢な法衣の袖をまくり上げるという、前代未聞の光景が、大樹海の片隅に繰り広げられることとなった。あの玉座の間で、幾多の貴族たちを平伏させてきた、その指先が――今は、ただ1本の雑草を地面から引き抜くことに費やされている。このあまりにも皮肉な光景を目にする者がいれば――誰もが、その目を疑うことだろう。


「うぅ……なんで、朕が……」


 広大な果樹園。そのあちこちに、伸び放題に生い茂った雑草の群れを見渡しながら――ドラコーは、そう深く、深く、ため息を吐いた。木々の間から覗く果実の幾つかは、その雑草に埋もれかけて、すでにその姿すら見えなくなっている。


「これ、本当に1年、放置してたの?」


「していた」


 メリッサは、木陰に腰を下ろしたまま、そうあっさりと答えた。その手には、いつの間にか新しい酒瓶が握られている。


「ちなみに、監督はするの?」


「するとも」


 メリッサは、そう言うと酒瓶を傾けた。その口調には、微塵の罪悪感も感じられない。


「わしが、こうして見ておらねば――お主、絶対途中でサボるじゃろう?」


「し、しないよ! たぶん!」


「たぶん、が怪しいのぉ」


 キュマイラは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。翼を休めるように、木の枝に腰掛けながら。その視線の先には――土にまみれながら悪戦苦闘する、大魔王のあまりにも滑稽な姿があった。


(大魔王が、雑草むしり、か……)


 誰が想像できただろうか。パンデモニウム全魔界の絶対的頂点が、こうして額に汗を浮かべながら、雑草と格闘している光景を。他のいかなる貴族も、臣民も――決して、この光景を目にすることは許されない。この一角だけが、あの絶対者の素顔を映し出す唯一の場所だった。だが、そのあまりにも奇妙な光景にすら――どこか微笑ましさすら感じてしまう。それが、この大魔王という存在の不思議なところだった。


「先生」


 ドラコーは、雑草を1つ引き抜きながら、そう尋ねた。


「これ、いつまでやればいいの?」


「終わるまでじゃ」


「終わりが見えないんだけど!」


「根性でなんとかせい」


「先生の言い方、絶対キュマイラと同じだよ!」


「誰が似ておるか!」


 キュマイラの抗議が、木の枝の上から飛んできた。


 それから、しばらくの間。ドラコーの悪戦苦闘は続いた。汗だくになりながら、雑草を次々と引き抜いていく。指先は、すでに土で真っ黒に汚れていた。豪奢な法衣の裾にも、幾つもの泥の跡が刻まれていく。そのあまりにも地道な作業に――絶対者としての威厳など、もはや欠片も残っていなかった。


「あ、そうそう」


 メリッサは、ふと思い出したように、そう口を開いた。


「あの万魔殿の子――名は、何と言うたかのぉ?」


「メア、だよ」


 ドラコーは、雑草を引き抜く手を止めることなく、そう答えた。


「リゼルのメイド」


「メア、か」


 メリッサは、そう呟くと――僅かに目を細めた。その瞳の奥に、これまでにない確かな興味の色が灯る。長年、この大樹の下であらゆる才を見極めてきた、この老練な剣士のその目が――今、確かに何かを捉えていた。


「面白い。実に面白い」


「先生、まだ会ってもいないのに?」


「会わずとも、分かることはあるものじゃ」


 メリッサは、そう意味深に笑った。


「万魔殿の萌芽を宿す者――その気配は、遠く離れていても、この大地を通せば――僅かに感じ取れるものよ」


「え、そうなの!?」


 ドラコーは、思わず手を止めて振り返った。その瞳には、隠しきれない驚きの色が浮かんでいる。


「じゃあ、先生、もうメアのこと分かってるの?」


「いいや」


 メリッサは、そうあっさりと首を振った。


「まだ、萌芽に過ぎん。芽吹くかどうかは――これから次第じゃ」


「へぇ……」


 ドラコーは、そう感心したように頷くと――再び雑草を引き抜く作業に戻った。


「それにしても」


 キュマイラが、木の枝の上から、そう口を挟んだ。


「珍しいのぉ、老害。お主が、そこまで興味を示すとは」


「珍しい、とは心外じゃな」


 メリッサは、そう酒瓶を傾けながら答えた。


「わしとて、面白いものには興味を持つ」


「面白いもの、ねぇ」


 キュマイラは、そう僅かに口元を緩めた。その表情には――からかいとも、期待ともつかない複雑な色が滲んでいる。


「ならば、しっかりとその才を――育ててやるがよい」


「言われずとも、そうするわい」


 メリッサは、そう不敵に笑った。その笑みの奥に――すでに、これから始まる、あの過酷な稽古の片鱗が――僅かに覗いていた。この老練な剣士が、そのように笑う時――それは決まって、誰かの運命が大きく動き出す前触れでもあった。


   *   *   *


 日が傾き始める頃。太陽の光が次第に橙色を帯び始め、大樹海の木々の隙間からも、その柔らかな光が僅かに差し込むようになっていた。ようやく、果樹園の雑草は――そのすべてが取り除かれていた。


「お、終わった……」


 ドラコーは、その場にへたり込みながら、そう呟いた。その豪奢な法衣は、土埃ですっかり汚れている。それでも、その表情には――どこか達成感めいた清々しさすら感じられた。


「うむ、上出来じゃ」


 メリッサは、その様子を満足げに眺めながら頷いた。


「思ったより、根性あるではないか」


「褒めても、何も出ないよ……」


 ドラコーは、そう力なく答えた。だが、その表情には――やり遂げた、という確かな達成感も僅かに滲んでいる。


「じゃあ、先生」


 ドラコーは、そう居住まいを正しながら切り出した。土で汚れた両手を、それでも丁寧に揃えて。


「約束、守ってくれるよね?」


「約束?」


「メアのこと」


「あぁ」


 メリッサは、そう頷くと――ゆっくりと立ち上がった。その瞳には――もはや先ほどまでのからかいの色はなかった。代わりに宿っていたのは――幾多の強者を育て上げてきた、師としての確かな真剣な光。


「良かろう。その童――しっかりと鍛えてやろう」


「本当!?」


「わしが、二言を口にしたことがあったかえ?」


「ないけど! でも、なんか不安になるんだもん!」


「失礼な奴じゃな」


 メリッサは、そう苦笑すると――視線を遠く、屋敷のある方角へと向けた。その視線の先には――まだ、この場からは遥かに遠いヴァルクロアの大地が、静かに横たわっているはずだった。


「よかろう。ならば――近いうちに、そちらへ赴くとしよう」


「うん! お願いします、先生!」


 ドラコーは、そう深々と頭を下げた。全魔界の絶対的頂点が――この老いた女に対してだけは、決して崩すことのない、その姿勢。それこそが――この2人の間に横たわる、長い、長い年月と確かな信頼の証だった。


 キュマイラは、その様子を木の枝の上から静かに見つめていた。


(さて――どうなるかのぉ)


 あの萌芽を宿すメイドの少女。そして、それをこれから育て上げようとする、この伝説の剣士。その先に何が待っているのか――今はまだ、誰にも分からない。だが、この大樹海に渦巻く僅かな予感だけが――確かにキュマイラの胸の内にも、静かに宿り続けていた。


 だが、確かなことが――1つだけあった。


 この日を境に――あの屋敷の静かな日常は、大きくその姿を変えていくことになる。


 夕焼けに染まる大樹海。橙と深紅とが混じり合う、その空の下で――3人の影は、しばらくの間、静かにその場に佇み続けていた。木々の梢の隙間からこぼれ落ちる、最後の陽光だけが――その3人の姿を静かに照らし出していた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


ついに登場した、メリッサ・ハウゼン。


大魔王すら嫌がる人物ですが、その実力は本物です。


そしてキュマイラとは、顔を合わせれば**「腐葉土」「焼き鳥」**。


……仲良くする気は、双方まったくなさそうです。


そんなメリッサの目に、メア・ナイトはどう映るのでしょうか。


次回、「万魔の萌芽」。

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