Ver.2 Poison Chapter 1-1 甘き菓子と、禁忌の外法
大魔王城の最奥、限られた者だけが立ち入ることを許された庭園。
ドラコーの膝で寛ぐ龍族の少女――ハイシャオ。
そこへ届けられたのは、アーシュラ侯爵家からの献上品だった。
その名は――チョコレートケーキ。
甘く穏やかな時間の中、キュマイラは先日の武闘会について語り始める。
そして話題は、あの禁忌の外法へ――。
大魔王城、最奥。
その庭園に足を踏み入れることを許されるのは――大魔王ドラコー自らが認めた、ごく僅かな者だけだった。幾重にも施された結界が、この一角だけを、外の世界から、静かに、隔てている。何人たりとも、無断で越えることのできぬ境界。城の他のどの一角よりも静謐で――そして、どの一角よりも危険な場所でもあった。パンデモニウム全魔界を統べる、絶対的な支配者の、素顔が晒される場所。それゆえに、この庭に足を踏み入れることを許された者の数は、片手で数えるほどにも満たない。
その境界の奥に広がるのは、白亜のガゼボと、四季を問わず咲き誇る花々だった。魔法によって、季節そのものすら、捻じ曲げられた、この庭園。冬も、夏も、秋の気配すらも――ここには、存在しない。ただ、永遠の、春だけが、続いている。噴水の水音が絶え間なく響き、時折、風に乗って花の香りが漂ってくる。その、あまりにも、穏やかな空気は――この庭の主が、この魔界における、絶対的な、頂点であることを、忘れさせるほどだった。
その白亜のガゼボ。中央に置かれた、深紅の革張りの豪奢なロングソファーに腰掛けるのは――この魔界、パンデモニウムの絶対的な頂点。
大魔王ドラコー。
1万年以上の永きに渡り、この魔界のすべてを統べてきた絶対の支配者。その佇まいだけで、この庭園の空気そのものが、常人には耐えがたいほどの重みを帯びていた。玉座の間に君臨する時とは、また違う、しかし、確かに同じ、絶対者としての、圧倒的な存在感。
ただし。
今、その絶対的支配者の膝には――1人の少女が、さも当然のように頭を預けていた。まるで、この、途方もない重みを持つ膝が、ただの、柔らかな枕であるかのように。
「ん……ドラコー」
「んー?」
「もう少し、右だ」
「ここ?」
「もうちょっと上」
「ここかな?」
「そこ」
ドラコーの細い指が、少女の長い髪を梳くように、ゆっくりと頭を撫でる。その、あまりにも慣れた手つきには、幾度も、幾度も、この、同じやり取りを、繰り返してきた者だけが持つ、確かな親密さが、滲んでいた。
「ん……」
少女は、満足そうに目を細めた。
「そこ、気持ちいいぞ」
「ふふっ。シャオは、ここを撫でられるの好きだねぇ」
「うん」
龍族――ハイシャオ。長く流れる髪。金色に輝く双眸。頭部から後方へ伸びる、黒き龍角。それらの、1つ1つが、彼女の、龍族としての、確かな血脈を物語っている。黒、赤、金を基調とした豪奢な衣装に身を包む、その姿は――絶世の美少女と呼ぶに、何の不足もない。だが、その容貌から連想されるような、可憐な姫君らしい言葉遣いなど――欠片もない。一人称は、俺。大魔王ドラコーを、ただ、ドラコーと呼ぶ。相手が七魔公であろうと、敬語など使わない。それを咎める者も、この庭園にはいなかった。
ハイシャオは、大魔王直属の寵姫。ドラコーのすぐ傍らに在ることを許された、龍族の少女だった。その特権は、この魔界において――他の何者にも、決して、与えられることのない、絶対的な、地位そのものだった。
その向かい側。椅子へと腰を下ろしているのは――七魔公が筆頭、妖鳳公キュマイラ。深紅と漆黒とを織り交ぜたような、豪奢な翼を静かに畳み、茶器を片手に、目の前の光景を何とも言えぬ表情で眺めている。その、優雅な、所作の1つ1つには、大空を統べる女帝としての、確かな品格が、宿っていた。
(主従というよりも――まるで、愛玩動物のようじゃな)
もちろん。それを口に出すほど、キュマイラも愚かではない。この場において、そのような、軽率な発言が、どのような、結末を招くか――この、老練な女帝は、誰よりも、よく知っていた。
「大魔王殿」
「なに、マイラ?」
「お主――少々、甘やかし過ぎではないかえ?」
「そう?」
ドラコーが首を傾げる。
「俺は、そうは思わないぞ」
ハイシャオが、ドラコーの膝に寝転がったまま口を挟んだ。
「ドラコーは、俺をもっと甘やかしていい」
「ほらぁ。本人も、こう言ってるし」
「本人に聞いて、どうするのじゃ……」
キュマイラが深い溜息を吐いた――その時だった。凜とした、それでいて気品を失わぬ女の声が、白亜のガゼボへ響いた。
「失礼いたします、御前様。大魔王陛下」
庭園の小径から歩み寄ってくる、1人の女。白銀を基調とした巨大な翼。優雅な衣装。一分の隙すらない所作。その、翼の羽根の1枚1枚までもが、まるで、精緻な、彫刻のように、整然と、並んでいた。
天翼族――マルファス。天翼族の侯爵家、その長女。本来であれば、高位貴族家へ嫁ぎ、家門を支えることを求められる身であった。血統も、資質も、その名門に相応しい、非の打ち所のないもの。だが、彼女自身が望んだ幸福は、そこにはなかった。妖鳳公キュマイラの寵姫として、その御側に侍ること。それこそが、マルファス自身が選び取った、何よりの誉れだった。栄華を捨て、忠誠を選んだ、その、確かな覚悟が――今、この、優雅な足取りの、1歩1歩に、滲んでいる。
その両手には、大きな銀盆。さらに、その上には――金銀と、色とりどりの宝石によって惜しげもなく装飾された、豪奢なフードドームが載せられている。その、あまりにも過剰な装飾は、まるで、中身よりも、その蓋そのものの方が、価値があるのではないか――そう思わせるほどだった。
「マルファス」
「はい、御前様」
マルファスが、柔らかく微笑む。キュマイラは、そのフードドームを指した。
「なんじゃ、それは?」
「先ほど、アーシュラ侯爵閣下より届きました――大魔王陛下への献上品にございます」
「カルガから?」
ドラコーも、ハイシャオの頭を撫でながら、興味深そうに身を乗り出す。
「へぇー。朕に?」
「はい、大魔王陛下。御前様にも、是非ご賞味いただきたいとの言伝を預かっておりますわ」
「それで――中身は、なんじゃ?」
「はい」
マルファスは、僅かに間を置いた。その、一瞬の沈黙にすら、この、慎重な女の、生真面目な性分が、表れている。
「『チョコレートケーキ』――なる菓子にございます」
「ちょこれいと……けぇき?」
キュマイラが怪訝そうに眉を寄せる。
「なんじゃ、その珍妙な名は」
「わたくしも、初めて耳にいたしましたわ」
「朕も知らないなぁ」
ドラコーも首を傾げた。
「ケーキっていうくらいだから――リゼルのショートケーキみたいなものなのかな?」
「では、御前様。こちら――お開けしても宜しいでしょうか?」
「うむ」
マルファスが、フードドームの取っ手へ指を添える。すっ――と、静かに、金銀宝石に彩られた蓋が持ち上げられた。その瞬間、ふわり――と、濃厚な甘い香りが、ガゼボいっぱいに広がった。噴水の水音すら、その、甘やかな香気の前には、一瞬、掻き消されたかのようだった。
「……甘い」
ドラコーの膝の上で。ハイシャオの鼻が、ぴくり、と動いた。その、僅かな仕草だけで、彼女の、あの、無邪気な、寛いだ様子とは――また違う、龍族としての、鋭敏な、五感が、垣間見える。
「甘い匂いがする」
「分かるの?」
「俺を、誰だと思ってる」
ハイシャオが、ドラコーの膝から僅かに顔を上げた。そこに現れたものは――黒。深い焦げ茶から、ほとんど漆黒にも見える、艶やかな菓子が皿の上へ鎮座していた。その、あまりにも不気味な色艶に、3人の視線が、思わず、そこへ、吸い寄せられる。
「……黒いね」
「黒いのぉ」
キュマイラが、まじまじと覗き込む。
「本当に、これは菓子なのかえ?」
「アーシュラ侯爵閣下からは、そのように伺っておりますわ」
だが。ハイシャオは、もう完全に――チョコレートケーキへ釘付けになっていた。あの、警戒めいた、視線は、もはや、どこにもない。
「ドラコー、ドラコー」
くい、くい、と。ドラコーの衣服を引く。
「この、ちよこれいとけぇき。俺も食べたいぞ!」
「ふふっ。いいよ、シャオ」
ドラコーの頬が、嬉しそうに緩む。
「朕が食べさせてあげる」
ドラコーはフォークを手に取ると、チョコレートケーキへ、そっと刃先を入れた。しっとりとした、生地の感触が、フォークの先から、伝わってくる。一口分を切り分け。フォークへ刺して――ハイシャオの口元へ運ぶ。
「はい、あーん」
「あーん」
ぱくっ。もぐ。もぐ。金色の瞳が、僅かに大きくなった。その、僅かな変化を、ドラコーは、決して、見逃さない。
「どう? 美味しいかい、シャオ?」
「うん!」
ハイシャオは、大きく頷いた。
「ちょっと苦いけど――すごく美味しいぞ!」
「そっかぁ。良かったぁ」
ドラコーは満足そうに笑うと、そのまま、ハイシャオの頭を優しく撫でた。その、あまりにも、慈しみに満ちた仕草。だが、その瞬間。ドラコーの瞳が――怪しく光った。
「シャオ――隙あり!!」
ばっ! ドラコーの手が、ハイシャオの胸元へ伸びる。だが。
ペシリッ!
「痛っ!」
触れるよりも早く。ハイシャオが、ドラコーの手の甲を容赦なく叩き落とした。その、反応速度の速さこそが、龍族としての、彼女の、本来の実力を、僅かに、覗かせていた。
「痛いなぁ、シャオ……」
「ドラコー」
「なに?」
「キモい」
「酷くない!?」
ドラコーの悲鳴が、庭園へ響いた。
「だってさぁ。ケーキは食べたら減るけれど――おっぱいは揉んでも減らないから、イイじゃないかさぁ」
「意味が分からない」
「一回だけ!」
「嫌だ」
「シャオぉー!」
「うるさい」
ぴしゃり、と冷たく切り捨てながらも、ハイシャオはドラコーの膝から降りない。むしろ、少しだけ頭の位置を直して、再びドラコーの太腿へ頬を預けた。その、あっさりとした、切り替えの早さもまた、彼女らしい、態度だった。
「…………」
キュマイラは、無言でその様子を眺めていた。
(やはり――主従というよりも、まるで愛玩動物のようじゃな)
そして、ふと。傍らへ控える、マルファスを見る。
「御前様?」
「いや、なんでもない」
「御前様がお望みでしたら――わたくしも、御膝をお借りして構いませんのですよ?」
「前言を撤回する」
「まあ、酷うございますわ」
ドラコーが吹き出した。
「あははは! マイラも同じじゃん! 似たもの主従だよ!」
「お主らと一緒にするでない!」
ようやく、マルファスがチョコレートケーキを切り分け、キュマイラの前へ、そっと差し出した。その、丁寧な手つきには、寵姫としての、彼女の、確かな誇りが、滲んでいる。
「御前様も、如何でございます?」
「うむ」
キュマイラは一口、それを口へ運ぶ。
「ふむ……」
しばし、その味を確かめる。舌の上で、甘さと、苦さとが、複雑に、絡み合っていく、その感触を――丁寧に、味わうように。
「ちと、ショートケーキに比べて――苦味が潜んでおるが。これは、これで悪くはないな」
「んー!」
ドラコーもまた、自分の分を口へ入れた。
「甘さの奥に、この苦さがあるから――余計に癖になる感じ!」
そう言って、ドラコーは満足げにフォークを置いた。キュマイラもまた、その余韻を味わうように、しばし目を閉じていたが――やがて、ふと瞼を開く。記憶の糸を、静かに、辿るような、その表情だった。
「しかし――アーシュラから、となると」
「ん?」
「この菓子――あの童が絡んでおるな?」
「せいかーい!」
ドラコーは朗らかに笑った。
「オルディアスにお願いして――リゼルをアーシュラ領に連れて行かせたら、アーシュラの料理人にリゼルが教えたんだって」
「その話なら、妾も後で聞いたが――元々、リゼルはアーシュラの料理人に、ショートケーキを教えようとしておったらしい」
「うん、そうみたい」
「じゃが、気候も違えば、職人の技量も違う。同じようには作れなんだ。そこで、アーシュラでしか採れぬ木の実を使い――別の菓子として完成させたものが、このチョコレートケーキ、というわけじゃ」
「うわぁ……!」
ドラコーの瞳が、きらきらと輝く。
「リゼル、やっぱりすごいなぁ!」
「ただし」
キュマイラが、僅かに声を潜めた。その、声の温度の変化だけで――続く言葉が、決して、単なる、美談では終わらないことを、暗に、告げていた。
「あやつ、調理指導の際には――しくじった職人に、アーシュラ侯爵領全域を走らせたり。小さな計量容器で、井戸水を80杯汲ませたり。薪割り100本をやらせたり」
「え……」
「挙句は――己のメイドに、アーシュラ侯爵領全域を走らせただけでなく。20万アルクも、さらに走らせたそうじゃ」
「あはははは!」
ドラコーは堪えきれず、大笑いした。
「何、それ!? ちょー、面白ぉーい!!」
「20万アルク?」
ハイシャオが、ドラコーの膝の上から僅かに顔を上げた。
「そのメイド――それを走り切ったのか?」
「そこを気にするの、シャオ?」
「気になるだろ」
「普通は、リゼルの無茶振りの方を気にするんだよ!」
「そうか?」
どうにも納得していない様子のハイシャオに、キュマイラが呆れたように笑った。その、噛み合わない、視点のズレすらも――この場においては、ある種の、和やかさとして、機能していた。
「それにしても。カルガめ」
キュマイラの瞳が、僅かに細まる。
「オルディアスの歓迎会で、妾が顔を出してやったというのに――妾には、このチョコレートケーキを出さなかったとは。仕置きが必要かえ?」
「御前様」
マルファスが、にこりと微笑んだ。その、あまりにも、美しい笑みの奥に――一抹の、不穏な気配が、確かに、滲んでいる。
「ご命令いただければ――わたくしが、アーシュラ侯爵閣下へ、一言申し上げて参りますが?」
「いやいやいや!」
ドラコーが慌てて止めた。
「それは可哀想だよー! 完成したの、オルディアスとリゼルが帰る直前だったんだって!」
「ふむ」
キュマイラが頷く。
「ならば――今回は許してやるか」
「良かったぁ。マイラとマルファスちゃんが揃って行ったら、カルガ泣くでしょ!」
「失礼ですわね、大魔王陛下」
マルファスは、にこりと笑った。
「わたくし、話し合いは得意でございますのよ?」
「その笑顔が怖いんだよ!」
しばらく。そんな和やかな時間が続いた。花々の香りと、噴水の水音とに包まれながら、この、絶対者たちの、束の間の、寛ぎの時が――静かに、流れていく。やがて、キュマイラが茶器を置き、居住まいを正した。声の調子が、僅かに変わる。
「大魔王殿。あの歓迎会では――ヴァルクロア大侯爵家を迎えての御前試合も、開かれておってな」
「え、そうなの!? で、どうだったの!? 早く聞かせてよ、マイラ!」
「話を急かすでない」
「だって、気になるじゃん!」
「リゼルと、アーシュラの小倅、ルドラ。それに小娘、ドゥルガー。あの2人との一戦を――この目で見てきたのじゃ」
「へぇー!」
ドラコーの瞳が輝く。
「幾ら、先天的に魔力量がバカ高い堕天使族とは言え――4歳児のリゼルが、既に12歳でアスラ族最強のルドラ。それに10歳の次席、ドゥルガー。2人を相手にしたんだ……!」
「12歳で、アスラ族最強?」
ハイシャオが、初めて明確な興味を示した。
「うむ」
「へぇ」
それだけ言うと、ハイシャオは再びドラコーの膝へ頭を預ける。だが。その金色の瞳は、先ほどまでよりも僅かに鋭くなっていた。獲物の匂いを、ふと、嗅ぎ取ったかのように。
「とても、童の児戯とは思えぬほど――凄まじい闘争じゃったわ」
キュマイラは静かに語り始めた。その、脳裏には、まだ、鮮明に、あの日の光景が、刻み込まれているのだろう。
「アビスタイトの壁を、大魔王殿お気に入りのショートケーキのように、粉微塵にするわ。珍妙な魔導器具を召喚して――対戦相手を処刑しようとするわ」
「処刑?」
ハイシャオの口元が、ほんの僅かに吊り上がった。
「面白い奴だな」
「良くないよ!」
ドラコーが即座に返す。
「御前試合で、相手を処刑しようとしちゃダメでしょ!」
「そうなのか?」
「そうなの!」
キュマイラが、くくっと笑う。
「のぉ、大魔王殿。あの童は――何者なんじゃ?」
「そうか……」
ドラコーは、そこで急に神妙な面持ちになった。その、あまりにも、唐突な、表情の切り替えに、周囲の視線が、思わず、集中する。
「ついに、リゼルの正体を語る時が――来たのか……」
「もったいぶらずに、教えてたもれ」
「リゼルの正体は、ね……」
ドラコーが、勿体つけるように間を置く。
「オルディアスの娘の正体とは……?」
キュマイラも、思わず身を乗り出した。ハイシャオも、僅かに視線を上げる。マルファスも、静かに耳を傾けた。この場にいる、全員の、視線と、意識とが――今、たった1人の少女の、次の一言に、集中していた。
ドラコーは、さも重大な秘密を明かすかのように――胸を張った。
「よく分かりません!!」
「分からないんかー!!」
キュマイラの盛大な突っ込みが、庭園に響き渡った。
「でもさぁ……」
ドラコーは何事もなかったかのように、遠くへ視線を向ける。
「いいなぁ。朕も、その場に行きたかったなぁ……! 直接、見たかった……!」
その瞳は、憧れにも似た羨望の色で、きらきらと輝いていた。全魔界の頂点に立つ、この少女が――たった1人の、5歳にも満たぬ童の武勇伝に、こうまで、目を輝かせている。その、あまりにも、無邪気な、姿には――絶対者としての、威厳など、欠片も、見当たらない。
「まったく……」
キュマイラが苦笑する。
「大魔王ともあろう者が、4歳児の喧嘩1つに、そこまで羨ましがるでないわ」
「だってぇ! リゼルの戦いっぷりだよ? 見たいに決まってるじゃん!」
「ふふ」
その時。マルファスが、柔らかく笑った。
「御前様までも――随分と、そのリゼル嬢にご執心なのでございますね?」
「ん?」
「少々――妬いてしまいますわ」
ぞわっ――。一瞬。庭園の空気が、僅かに重くなった。近くの枝に止まっていた小鳥が、何かに怯えたように飛び去っていく。その、あまりにも、微かな、しかし、確かな、圧の変化に――この場の、全員が、気づいていた。
「マルファスちゃん?」
ドラコーが、そっと彼女を見る。
「殺気、出てるよ?」
「まあ」
マルファスは頬へ手を添えた。
「気のせいではございませんこと?」
「気のせいで鳥は逃げないよ!」
「マルファス」
キュマイラが額を押さえる。
「妾が、あの童へ興味を持っておるのは――才があるからじゃ」
「はい」
「見ていて、飽きぬ」
マルファスの微笑みが――僅かに深くなった。その、笑みの奥に潜む、感情の色が、僅かに、濃くなる。
「……御前様?」
「いや、今の言い方は悪かった」
即座に訂正するキュマイラに、ドラコーが噴き出した。
「あははは! マイラ、完全に尻に敷かれてるじゃん!」
「誰がじゃ!」
ひとしきり笑った後。やがて――キュマイラの表情が、僅かに曇った。その、変化の速さに、場の空気もまた、僅かに、その、温度を、変えていく。
「じゃが……その戦いの中で――1つ、気になることがあってな」
「なに?」
「ウォプラという、ドッペルゲンガーの参加者がおってな」
キュマイラの声音が、静かに低くなる。
「……その者が使った能力じゃが――データスティール」
一度。言葉を区切る。その、僅かな間にすら――これから告げる、言葉の、重みが、滲んでいた。
「それに――ドレインハート、と」
その2つの言葉が口にされた瞬間だった。空気が一変した。
「――は?」
ドラコーの声が変わった。先ほどまでの、無邪気で甲高い少女のような声ではない。地の底から這い上がってくるかのような。低く。重く。そして、途方もなく冷たい――大魔王としての声だった。玉座の間で、この魔界のすべてを見下ろす時の、あの、絶対者の声。それが、今、この、和やかな、庭園の空気を、一瞬にして、塗り替えていた。
「今……何と、言った」
ドラコーは、ロングソファーの肘掛けを静かに握りしめた。その所作1つにすら――先ほどまでのあどけなさは、欠片も残っていない。指先に込められた、力の強さに、革張りの肘掛けが、僅かに、軋んだ。
「データスティール」
キュマイラは静かに繰り返した。その声は、あくまでも、冷静さを、保とうと、努めているようだった。
「そして、ドレインハート。……賊は、その力で、他者の能力と記憶。そして、容姿までも奪ったと」
「ふざけるな」
ドラコーの声は静かだった。だが、その静かさこそが――何よりも恐ろしかった。声を、荒らげるよりも、なお、深い、怒り。
「誰の許しを得て――そんな外法を、この魔界で使わせている」
庭園の空気が――軋んだ。頭上の蔓草が震え。花々の花弁が、幾片も舞い落ちる。まるで、この庭そのものが、大魔王の、怒りの余波に、耐えかねているかのように。近くに控えていた近侍たちが――たまらず、その場に膝をついた。誰1人として、この、あまりにも、重い、空気の中で、立っていることが、できなかった。
それまで。ドラコーの膝へ頭を預けていたハイシャオが――何も言わず、身体を起こした。ドラコーの隣へ、静かに座り直す。先ほどまで菓子を欲しがり、主人へ甘えていた少女の姿は、もうない。金色の龍眼が、静かに周囲を見渡す。甘える寵姫から――大魔王の傍らを守る龍へ。ただ、それだけの変化だった。だが、その変化の速さこそが――この少女の、龍族としての、本質を、雄弁に物語っていた。
同時に。マルファスもまた、先ほどまでの微笑みを完全に消していた。キュマイラの背後へ――半歩。いつでも動ける位置へ、静かに移る。誰から命じられたわけでもない。2人にとって、それは――呼吸をすることと変わらぬほど当然の行動だった。長年、それぞれの主に、仕え続けてきた者だけが持つ、揺るぎない、忠誠の形。
「大魔王殿」
キュマイラは、そこで――片膝を静かに地へと着いた。頭を深く垂れる。あの七魔公が筆頭たる女帝にすら、あるまじき姿勢だった。それでも、この、瞬間においては――それが、最も、正しい、選択だった。
「気持ちは分かる。じゃが――落ち着け」
その声は、あくまでも冷静だった。荒れ狂う、大魔王の怒りを、なだめすかすような――そんな、慎重な、響き。
「その賊は、もうリゼルが潰した。リゼルは、まだ4歳じゃというのに――その外道を処刑しようとしたのじゃぞ」
データスティール――。他人の能力を、苦労もせず奪い取る外法。技の修得。魔法の完成。そのために、数年、数十年、数百年――或いは1000年以上もの歳月を費やして積み重ねてきた、努力の結晶。それらを嘲笑うかのように、一瞬で奪い取る。あまりにも、卑劣な、力。
ドレインハート――。相手の記憶と共に、人格や、容姿までも奪い取る、災害級の外法。奪い取った記憶から、己の姿までも模写し――その者へとなり変わる。存在そのものを、根底から、塗り替えてしまう、あまりにも、恐ろしい、力。
歴代大魔王としては珍しく。友愛を肯定し、尊ぶドラコー。それは――ドラコー自身が、決して振り返りたくはない過去の何かを、あまりにも鮮烈に刺激する外法でもあった。その、過去の詳細を、この場の、誰も、知らない。だが、その傷跡だけは――今、確かに、この、大魔王の、瞳の奥に、暗い炎となって、揺らめいている。
「今、お主がここで、いきり立ったとて――何も変わらんぞ!」
「……分かっている……」
ドラコーは、歯を食いしばった。
「分かっているけど!!」
その瞳の奥に宿った暗い炎は――一向に消える気配がなかった。誰も、口を開かない。ハイシャオも、マルファスも、ただ、庭園に満ちる重い静寂だけが――しばらく続いた。噴水の水音だけが、変わらず、その、静寂の中に、静かに、響き続けている。
やがて。
「リゼルはのぉ」
キュマイラが、静かに続ける。
「妾がアーシュラの武闘会へ参上する前に、その小さき身で、友を――お主の臣下、臣民を救った」
「…………」
「そして、お主の魔界の理法を汚す輩を――自ら処刑しようとまでした」
「…………」
「妾たちの数千分の一しか生きていない童が、じゃぞ?」
「リゼルが……」
ドラコーは、長く。長く――息を吐いた。それから、ゆっくりと瞳を閉じる。その、長い、呼吸の中に――高ぶった、感情を、静めようとする、努力が、確かに、滲んでいた。
「……そうか」
小さく呟く。
「リゼルが――もう、やってくれていたんだね」
その声から。先ほどまでの底冷えするような怒気が、少しずつ薄れていく。まるで、張り詰めていた、糸が、少しずつ、緩んでいくかのように。
「リゼルが対処してくれた、というなら――それで良しとしよう」
そして。
「だけどね、マイラ」
「御意」
「今後、あの外法の話を聞いた時は――すぐに報告して」
「…………」
「誰が、どこで、それを使ったか。誰から学んだか」
ドラコーが、ゆっくりと目を開く。その、瞳には――先ほどまでの、あの、怒りとはまた違う、確かな、決意の色が、浮かんでいた。
「全部、だよ」
「――承知した」
キュマイラは、深く、深く頭を垂れた。ドラコーの瞳には――もう、先ほどまでの大魔王としての冷たい光は宿っていなかった。代わりに浮かんでいたのは――どこか疲れたような、幼い少女の表情だった。
「……ごめんね、マイラ」
ドラコーは、小さく呟いた。
「せっかく、いい話をしてくれてたのに」
「いや」
キュマイラは、ゆっくりと立ち上がった。
「お主が怒るのは、当然じゃ」
それだけの一言で。庭園には――少しずつ、いつもの静けさが戻ってきた。花々の香りも、噴水の水音も――何事もなかったかのように、この庭を、再び、満たしていく。
その時。ハイシャオが、何も言わず。そっと、ドラコーの腕へ自らの頭を寄せた。
「…………」
ドラコーは、僅かに目を見開く。そして。何も言わず、その頭を一度だけ撫でた。ハイシャオも、何も言わなかった。言葉にせずとも、通じ合う、何かが――確かに、この、2人の間には、存在していた。やがて。するり、と。再び、いつものようにドラコーの膝へ頭を戻す。
(……器用な慰め方をする龍じゃ)
キュマイラは、それを見ながら。口には出さず――僅かに目を細めた。
「で」
ドラコーは、ようやく気を取り直すように切り出した。
「カルガの娘さん――えっと、あぁ、んと。ドゥルガー、だっけ? 大丈夫だったの?」
「うむ」
キュマイラは、再び椅子へ腰を下ろした。そして。自らの傍らへ視線を向ける。
「マルファス」
「はい、御前様」
「お主から話してやれ」
「畏まりましたわ」
マルファスは、優雅に一礼した。
「御前様より仰せつかり――後日、アーシュラ侯爵閣下のもとへ、聞き取りに参りましたの」
「うん」
「その際、ドゥルガー様の御無事も確認いたしましたわ。ただ――」
「ただ?」
「その後、ドゥルガー様より、わたくしへ決闘を申し込まれまして」
「え? 何で!?」
「その前にじゃ」
キュマイラが、嫌そうに口を挟む。
「こやつの目の前で――ドゥルガーが妾を、また『おばちゃん』と呼びおった」
「…………」
ドラコーが固まる。
「……やばくね?」
「死んだな」
ハイシャオが、ぼそり。
「ハイシャオ様」
マルファスが微笑む。
「死んではおりませんわ」
「そうなのか?」
「半殺し以上じゃったがのぉ」
「御前様」
マルファスの眉が僅かに下がった。
「そのような仰り方では――わたくしが、まるで、年端もゆかぬ娘をいたぶって喜ぶ、悪趣味な女のようではございませんか」
「違うの?」
ドラコーが真顔で尋ねる。
「もちろんでございます」
マルファスは、にこりと笑った。
「決闘でございましたもの」
「……その笑顔で言われると怖いんだけど」
「御前様を侮辱なさった以上――相応のお覚悟は、お持ちであったのでしょう」
「怖いよ!」
ドラコーが叫んだ。キュマイラは、深い溜息を吐く。
「ともあれ、ドゥルガーは無事じゃ。カルガの息子――ソーマが、回復魔法で治した」
「へぇー」
「妾は、よく見ておらなんだが……」
「はい」
マルファスが頷く。
「見事な回復魔法でございましたわ」
「良かったぁ」
* * *
それから、しばらく時が流れた後。ようやく。和やかな空気が戻り始めた頃――。庭園には、再び、あの、穏やかな、時間が、流れていた。だが、その、束の間の、平穏の裏で――キュマイラの心には、まだ、1つの、消えぬ、疑念が、燻り続けていた。
「そういえば、大魔王殿」
「ん? なに、マイラ?」
「あの戦いの間中――ずっと控えの席で見ておった、リゼルのメイドがな」
「メア?」
「うむ」
キュマイラの瞳に、これまでにない真剣な光が宿る。
「最初は、泣き出しそうな顔で震えておった」
「うん」
「じゃが――途中から、何かが変わった」
「変わった?」
「……いや」
そこで、一度。言葉を区切る。記憶の中の、あの光景を、慎重に、言葉へと、変換しようとするように。
「此方や、お主のような――限られた者にしか扱えぬ、アレの気配を感じた気がするのじゃ」
「――万魔殿、だね?」
ドラコーの表情が、瞬時に真剣なものへと変わった。先ほどまでの、あの、無邪気な、少女の顔は――もはや、そこには、なかった。
《万魔殿》――。ごく一握りの魔族だけが発現させる。通常の魔法やスキルとは、一線を画す――超越領域。それ自体が、特定の能力を指す名称ではない。己の才。性質。経験。生き様。それらが極限にまで研ぎ澄まされた末に形を成す――その者だけの独自領域。ゆえに。発現する姿も。法則も。能力も。1人1人、まったく異なる。そして。その素質を持つからといって――必ずしも、扉を開けるとは限らない。才ある者ですら。生涯。そこへ辿り着けぬこともある。それが――《万魔殿》。この魔界において、それを持つ者は――数えるほどしか、存在しない。
「うむ」
キュマイラは、深く頷いた。
「あの、リゼルのメイド――凪の如くじゃった。傷つく主人を憂える様子すら消え――アーシュラの小倅と、小娘の致命傷を見ておったように思えた」
「へぇ」
ドラコーが、興味深そうに身を乗り出す。
「それは面白いなぁ。その娘の万魔殿は――一体、どんな力になるんだろうね」
「まだ、見えているというには――至っておらんのかもしれん」
キュマイラは、慎重に答えた。
「じゃが……もしも、あのメイドが万魔殿を持つ者ならば――捨て置くには惜しいと思うてな」
「えー」
ドラコーが、不意に頬を膨らませる。
「マイラぁ。ヒクわー」
「は? なんのことじゃ?」
「マイラには、可愛い寵姫ちゃん、いっぱい、いるのに――まだハーレム増やすのぉ?」
「違うわ!」
キュマイラの声が庭園に響いた。
「誰が、あの童を妾の寵姫にすると申した! 捨て置くには惜しい才じゃと、そう言うておるだけじゃ!」
「……御前様?」
背後から。妙に柔らかな声がした。キュマイラの身体が、僅かに止まる。
「マルファス」
「はい?」
「違うぞ」
「まあ」
マルファスが、不思議そうに首を傾げる。
「わたくし、まだ何も申し上げておりませんわ?」
「だから怖いのじゃ」
「あはははは!」
ドラコーが腹を抱えて笑った。
「マルファスちゃん、完全にマイラの弱点じゃん!」
「何を他人事のように申すか?」
キュマイラの目が、鋭く細まる。
「此方のハイシャオなど――七魔公に挑みたいなら、まず己を退けてゆけ、とまで豪語して。見所のある輩を、片っ端から痛め付けておるそうではないかえ?」
「あははは」
ドラコーが、乾いた笑いを漏らす。
「この娘、ちょっとヤンチャだからねぇ」
「ちょっと、で済むか」
「俺は、そんなにヤンチャじゃないぞ」
ハイシャオが、膝の上から不満そうに言った。
「じゃが――」
キュマイラの表情が、すぐに真剣なものへと戻る。
「このまま捨て置くわけにもいくまい」
「うん」
「万魔殿の才があるならば――扉の前まで導く者がおった方がよい」
「…………」
ハイシャオが。初めて、ゆっくりと身体を起こした。その、動作の1つ1つに、それまでの、寛いだ様子とは、また違う、確かな、興味の色が、滲んでいる。
「ドラコー」
「なに?」
「そのメイド」
金色の龍眼が、細くなる。
「俺に貸せ」
「は?」
「俺が試してやる」
「ダメ!」
即答だった。
「何でだ?」
「シャオが試したら、万魔殿が開く前にメアが壊れるでしょ!」
「殺さないようにはするぞ」
「その言い方の時点で、もうダメ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
ハイシャオは、少し考え込んだ。そして。何の気負いもなく――言った。
「俺を殺せるところまで来たら――七魔公にも届くぞ」
「勝手に七魔公の試験作らないで!」
「ほれ見よ」
キュマイラが額を押さえた。
「もう龍に目を付けられたではないか」
「シャオぉー!」
「なんだ?」
「お願いだから、大人しくして!」
「ドラコーが、そう言うなら」
「……そこは素直なんだ」
「うん」
ハイシャオは、それ以上食い下がることなく。再び、ドラコーの膝へ頭を預けた。キュマイラは、そんな2人を眺めながら――深く息を吐く。
「ともあれ」
そして。その口元が、僅かに歪んだ。長年、この魔界に生きてきた、老獪な、女帝の、その笑みには――何か、確かな、企みの色が、宿っていた。
「万魔殿の才を引き出すとなれば――そろそろ、あやつを使うしかあるまいよ?」
「あやつ?」
ドラコーが首を傾げる。キュマイラは。そこで。ふと視線を――床へと落とした。遥か。遥か、地の底。魔界の大地そのものへ。語りかけるように。
「……聞いておるのじゃろう?」
「え?」
ドラコーは。一瞬。言葉の意味が分からず――きょとんとした。だが。次の瞬間。
「…………」
みるみるうちに。その顔から血の気が引いていく。
「マイラ」
「なんじゃ?」
「まさか……」
ドラコーの声が、震えた。
「嘘でしょ……?」
「…………」
「せ、先生を――使うの!?」
その声が、見事に裏返った。
「あやつ以外に――万魔殿の才を引き出す適任がおるかえ?」
「嫌だ!」
大魔王ドラコー。パンデモニウム全魔界の、絶対的頂点。その少女は。間髪入れずに――叫んだ。
「絶対に嫌だ!! 先生んとこなんて、行きたくない!!」
「大魔王殿」
「嫌だ、嫌だ、嫌だぁあああああ!!」
ロングソファーの上で。ドラコーが、幼子のように駄々を捏ね始めた。先ほどまでの、あの、絶対者としての、威厳など――もはや、どこにも、見当たらない。
「ドラコー」
ハイシャオが、膝の上から主人を見上げる。
「子供みたいだぞ」
「シャオにだけは言われたくない!」
「俺は、そんな駄々の捏ね方しない」
「ケーキ食べたいって、朕の服引っ張ったじゃん!」
「あれは駄々じゃない」
「同じだよ!」
「えぇい!」
キュマイラが、堪りかねたように声を荒らげた。
「大魔王ともあろう者が、駄々を捏ねるでないわ! 妾では、彼奴は動かぬことを此方も知っておろう? 天と地は――交わらんのだぞ?!」
「うぅう……嫌だよぉ」
ドラコーは、今度はハイシャオへ縋った。
「シャオ。代わりに行って」
「いいぞ」
「え?」
「その先生、強いんだろ?」
「…………」
ドラコーの顔が引き攣る。
「やっぱりダメ!」
「何でだ?」
「先生とシャオを会わせたら、絶対に碌なことにならない!」
「俺からは喧嘩を売らないぞ」
「先生から売られたら?」
「買う」
「ほらぁー!!」
その横で。
「御前様」
マルファスが、静かに一礼した。
「わたくしも、お供いたしますわ」
「いや」
キュマイラは、即座に答えた。
「お主も残れ」
「何故でございます?」
「彼奴は、妾のことを平然と『焼き鳥娘』などと呼ぶ」
「…………」
「その瞬間、お主はどうする?」
マルファスは。少しだけ考えた。
「捕食いたしますわ」
「だから残れと言っておる!」
「……畏まりましたわ」
口では従ったものの。その笑顔が、見るからに不満そうだった。
「あ!」
その時。ドラコーが突然、顔を上げた。
「そうだ!」
勢いよく立ち上がる。膝枕を失ったハイシャオの頭が。ぽすっ。ロングソファーへ落ちた。
「痛いぞ、ドラコー」
「ご、ごめん!」
だが、今はそれどころではない。ドラコーは、キュマイラを指差した。
「ここは、そうだ! マイラとオルディアスに行かせよう!」
「は?」
「はい!」
ドラコーは胸を張った。
「大魔王命令、決定!!」
その宣言と同時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――。
「…………」
魔界そのものが。根底から――揺れた。庭園の柱という柱が軋み。頭上の蔓草が、大きく揺れる。花々の花弁が――嵐のように舞い散った。
「…………」
ドラコーの顔から。みるみるうちに血の気が引いていった。
「……今の、って」
「じゃろうなぁ」
キュマイラが、深く息を吐く。
「……だよねぇ?」
「うむ」
「今のが、その先生か?」
ハイシャオが、興味深そうに地面を見る。
「シャオ」
「なんだ?」
「その楽しそうな顔、やめて!」
「面白いだろ」
「面白くない!」
「彼奴、魔界の大地におれば――大抵のことは筒抜けじゃからなぁ」
「絶対、怒ってるじゃん、先生!!」
ドラコーが、卓を両手で掴み。ガタガタと揺らし始める。
「どーしよー、マイラ!? やっぱり行ってきてよぉ!」
その瞬間。ゴゴゴゴゴゴゴゴ――! 再び。先ほどよりも大きく――大地が揺れた。ガゼボそのものが、僅かに傾ぐほどの揺れ。
「うわぁ!」
ドラコーが卓へしがみつく。だが。ハイシャオは、その揺れの中でも平然としていた。
「やっぱり強そうだな」
「シャオは黙ってて!」
「大魔王殿」
キュマイラが、静かに告げた。
「諦めよ」
「嫌だぁ……」
「今度は――大魔王府が粉微塵になるぞ?」
「それは困る!」
「ならば行け」
「うぅう……」
ドラコーは、深紅のロングソファーへ崩れ落ち。両手で顔を覆った。
「超、行きたくねー……」
そして。指の隙間から。ちらり、と。キュマイラを見る。
「マイラ」
「なんじゃ?」
「付いて来てよぉ」
「…………」
「言い出したの、マイラなんだからぁ」
「仕方あるまいなぁ」
キュマイラは。深い。深いため息と共に――告げた。
「付いていってやろう」
「うわぁーい!」
一瞬で。ドラコーが復活する。
「マイラ、大好き!」
「現金な奴じゃ」
「俺も行くぞ」
ハイシャオが、何の躊躇もなく言った。
「ダメ!」
「何でだ?」
「シャオは、絶対、先生と喧嘩するもん!」
「しないぞ」
「ほんと?」
「向こうが何もしなければ」
「ほら!」
「じゃあ、俺は留守番か?」
「うん」
「分かった」
意外にも、あっさりと引き下がる。そして。
「でも、ドラコー」
「なに?」
「帰ってきたら――チョコレートケーキの残り、全部くれ」
「全部!?」
「留守番代だ」
「高いよ!」
ハイシャオは、そこで少し考え。
「胸は触らせないぞ」
「それとこれとは別でしょ!」
「別じゃない」
「別だよ!」
「では」
マルファスが、静かに微笑んだ。
「御前様がお戻りになられるまで――わたくしが、ハイシャオ様を見ておりますわ」
「俺は子供じゃないぞ」
「存じております」
マルファスの笑みが、僅かに深くなる。
「ですから――勝手に抜け出して、御前様方を追わないように、と申し上げておりますの」
「…………」
ハイシャオが、マルファスを見る。
「俺を止められるのか?」
「まあ」
マルファスが、優雅に微笑む。
「お試しになります?」
「いいぞ」
「ダメだってばー!!」
ドラコーの悲鳴が、庭園いっぱいに響き渡った。
先ほどまで。魔界そのものを震え上がらせるほどの怒気を放っていた――あの絶対的支配者の面影は。もはや。どこにもなかった。パンデモニウム全魔界の頂点に立つ大魔王は。ただの無邪気な少女のように――己の寵姫と。親友と。その寵姫と。騒がしく、言い争っていた。近くに控える近侍たちは。ただ。その光景から――そっと視線を逸らし続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
《データスティール》と《ドレインハート》を耳にした瞬間、笑っていたドラコーの空気は一変しました。
そしてキュマイラが見出した、メアの《万魔殿》へ至る可能性。
その才能を導くため、ついに名前が挙がったのは――「先生」。
大魔王すら駄々をこねて嫌がる、その人物とは何者なのか。
次回、「腐葉土と焼き鳥と泣く大魔王」。




