Ver.2 Poison Chapter 0 絶望の使い方
剣を振るわずとも、国を滅ぼす方法はある。
必要なのは、逃げ場のない絶望と――ほんの僅かな希望。
何万人もの民に対して、用意された解毒薬はたった千本。
それを人間たちへ差し出したのは、かつてのリゼルと一人の女だった。
生きた蛇を髪に宿す、美しく残酷な女。
その名は――メル。
その王国が滅びるのに――魔族の軍勢は、剣を抜く必要すらなかった。
王都の中央広場ーー。
かつては噴水の水音と、市場の喧騒とが絶えず、響いていたこの場所も――今はただ、重苦しい沈黙だけが支配していた。誰もが家に閉じこもり、誰もが隣人を疑いの目で見ていた。原因の分からぬ死が、日に日に街を蝕んでいく。
ある日、突如として王国全土に告知が下った。国民の誰の耳にも等しく届く魔法による、宣告。
広場に立つ誰もが、空を見上げた。
声の主は――悪魔のような角と翼を持ちながら、その顔立ちだけは天使のように、可憐な1人の少女だった。宙に浮かんだまま、まるで退屈な演説でもするかのような軽やかさで、その少女は口を開いた。
「偉大なる大魔王ドラコー陛下よりの慈悲だ」
その声は、あまりにも涼やかで、そして、あまりにも残酷だった。
「貴様ら下等生物に解毒薬を用意してやった。だが、数は1000人分しかない。どうするかは……貴様らが決めろ」
少女がそう告げた瞬間ーー。
空の彼方から、粗末な木箱がゆっくりと、舞い降りてきた。全国民に見えるように。少女は、その蓋を開けると、中身をたった1本だけ手に取る。
小さな瓶。それだけに、今、この国中の視線が、その1点に集中していた。
そしてーー。
少女は、わざとそれを地上へと落とした。
瓶が砕け散る乾いた音。ほんの僅かな破片が石畳の上に飛び散る。それだけの些細な出来事。だが、広場に居合わせた幾人もの民衆から悲鳴にも似た呻き声が上がった。
「すまんな、下等生物諸君」
少女は、そう悪びれもせず、続けた。まるで、それが何でもない日常の1コマであるかのように。
「残りは……999本になってしまった」
この王国には、すでに致死性の毒が蔓延していた。抵抗力の弱い者から順に命を落としていく。それが、いつ、どこから、どのように、広がったのか。国中の賢者たちが、あらゆる手を尽くしたが、誰1人として、その正体を突き止めることはできなかった。
(まるで教科書の中でしか知らなかった、あの黒死病。きっと、当時の人々には、こんな風に見えていたのだろうな)
リゼルの脳裏に、そんな場違いな感慨が、ふと、過ぎった。地球の歴史の遥か彼方に刻まれていた、あの大厄災。それを、まさか、この世界で自らの手で再現することになるとは。
ただ、確かなことは1つだけ。
この毒から逃れる術は――もはや、この国の中には存在しないということ。
そして。
王国を出ようとした者たちは、例外なく想像を絶する死に方を遂げた。魔族の軍勢からは、こう通告されていた。「領外に出れば、処刑する」と。
だからこそ――国民は絶望した。
その絶望の真っ只中に投げ込まれたのが――あの「1000人分」の、否、今は数が変わり「999人分」しかない解毒薬の宣告だった。
* * *
「999本……」
広場に居た1人の老いた鍛冶屋が、そう、呆然と呟いた。震える両手で、自らの顔を覆う。
「わしらは、何万人おるっちゅうんじゃ……たった、999本で……」
その傍らでは、幼子を抱いた若い母親が、ただ涙を流していた。声にすら、ならない。ただ、腕の中の我が子だけをしっかりと抱きしめながら。
「大丈夫、大丈夫だから……お母さんが、絶対に守るから……」
その言葉が、本当に守られるものなのか。彼女自身にも分かってはいなかった。それでも、そう、囁くしかできなかった。
やがて、広場の片隅から誰かが叫んだ。
「早い者勝ちだ! あの木箱にたどり着いた者から解毒薬を手にできる!」
その一声で――堰を切ったように、群衆が動き出した。
最初は、ただ、我先にと、走り出しただけだった。だが、すぐに、誰かが、誰かを、突き飛ばした。誰かが、誰かの腕を掴んで引き倒した。
「どけ! どけぇっ!!」
「私が、先だ! 私が、先に見つけたんだ!!」
「その子は、いいだろう! どうせ、長くは持たない! 私に譲れ!!」
悲鳴が、怒号が、そして――やがて、断末魔の叫びが。広場は、瞬く間に地獄へと姿を変えていった。
* * *
結果は、語るまでもなかった。
王族も、貴族も、将軍も、兵士も、市井の民も――誰もが、我先にと、その999本を求めて殺し合った。爵位も、身分も、もはや、何の、意味も、なさなかった。包丁を、鍬を、手にした平民たちが、かつて、自分たちを統べていた貴族たちへと襲いかかる。
「お、お待ちください……! 私は、あなた方に、良くしてきたはずでは……!」
ある、老いた伯爵は、そう、命乞いをしながら、かつての領民の手にかかり、その生涯を終えた。
「良くしてきた、だと……?」
その命を絶った農夫の目には、一切の迷いも、後悔も、なかった。ただ、飢えたような光だけが宿っている。
「俺の娘は、去年、お前の取り立てで、飢え死にした!! 今更、何が良くしてきただ!!」
誰もが、誰かを疑い、誰もが、誰かを裏切った。かつての隣人が、かつての友が――互いに刃を向け合う。この王国に積み重ねられてきた、すべての絆が――たった1日で、崩れ去っていった。
その、一部始終を――リゼルは、高台に建つ貴族の屋敷のテラスから、静かに眺めていた。
風が頬を撫でる。遠く、眼下の広場からは、未だ悲鳴と、怒号とが、絶え間なく響いてきていた。それでも、その赤い瞳には一切の容赦も、躊躇も見当たらない。
傍らには――1人の女。生きた蛇の髪を頭部に宿したその女は、優雅に微笑みながら、リゼルへと声をかけた。
「いかがかしら、リゼルちゃん? わたくし、ちゃんと助かる方法は、御用意しましたのよ?」
「メル」
リゼルは、そう短く応じた。
「君のおかげで、愉快な見せ物が見られたよ」
「まあ」
メルと呼ばれたその女は、心底、嬉しそうに、頬に手を添えた。
「リゼルちゃんに喜んで頂けて、わたくしも、嬉しいですわぁ」
その瞬間にも、眼下では幾人もの命が散っていく。誰1人として、その光景を悲しむ者は、このテラスにはいなかった。
「それにしても」
メルは、そう続けながら、僅かに首を傾げた。その、蛇髪の一房が揺れる。
「なぜ、皆殺しになさらないの? その方が、よほど手っ取り早いでしょうに」
「絶望は」
リゼルは、そう静かに答えた。眼下の地獄を見下ろしたまま。
「語り継がれてこそ、意味がある」
その声には、一切の迷いも、揺らぎもなかった。
「皆殺しでは――抵抗することの愚かさが伝わらないではないか。この国の、この末路を――生き延びた僅かな者たちが、後の世まで語り継ぐ。それでこそ……意味がある」
「ふふふ」
メルは、そう、艶やかに笑った。
「さすがは……わたくしたちの、愛おしい、主様」
自分たちは、ほとんど何もしていない。
ただ、絶望を1つ、用意しただけ。
それだけで、1つの国が内側から崩れ落ちていく。その、あまりにも容易い破滅の光景を、リゼルと蛇髪の女は、ただ、静かに見下ろし続けていた。
やがて、日が沈む頃には――広場は静寂を取り戻していた。
もはや、争う者すらいない。積み重なった、幾つもの骸の中に――あの、999本の解毒薬の行方を知る者は、誰1人として、残っていなかった。
* * *
瞼の裏に焼き付いていた、あの光景が、ふっと、闇の中へ溶けていく。
リゼルは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた、天蓋。黒檀の支柱に、深紫の薄布。ヴァルクロア大侯爵邸ーー自室の寝台。窓の外からは、まだ、夜明け前の薄青い光が僅かに、差し込んでいるだけだった。
寝具の感触。柔らかなシーツの冷たさ。それらが、ゆっくりと意識を現実へと引き戻していく。
夢だった。
いや――正確には、夢ではない。
パンデモニウム・オンライン。あの黒瀬真璃亜として生きていた時代の――紛れもない、輝かしい記憶の1つ。あの国を滅ぼした、あの瞬間の感触が――今もなお、鮮明に蘇る。
リゼルは、しばらくの間、天蓋を見上げたまま、動かなかった。呼吸は乱れていない。心臓の鼓動すら変わらない。それでも、胸の奥に僅かに残る、あの記憶の余韻だけは、なかなか、消えなかった。
脳裏に蘇るのは――最後に聞いた、あの声。
――さすがは、わたくしたちの、愛おしい、主様。
「……メル」
リゼルは、そう小さく呟いた。
その声に、どんな感情が込められていたのか。喜びなのか、懐かしさなのか、あるいは――もっと、別の何かなのか。それは、リゼル自身にも判然としなかった。
コンコン。
控えめなノックの音が、静かに響いた。
「入れ」
リゼルは、そう短く答えた。すでに、その声色は、先ほどまでの、あの感傷の色を完全に拭い去っている。
扉が、開く。
「おはようござい……」
入ってきたのはメアだった。いつものように、丁寧に頭を下げながら、朝の挨拶を口にしようとする。
だが、その言葉は――途中で途切れた。
「ひっ!」
メアは、思わず小さな悲鳴を上げた。
「お、お嬢様……どう、なさいましたか……?」
リゼルの、その表情は、かなり不機嫌そうなものだった。眉間には、僅かに皺が寄り、赤い瞳の奥には――どこか冷たい、翳りが宿っている。4歳の幼子には、到底、似つかわしくない、その圧に、メアは、思わず身を竦めた。
「なんでもない」
リゼルは、そう、素っ気なく答えると、寝台から身を起こした。
「早く、着替えの支度をしろ」
「は、はい!!」
メアは、そう、慌てて答えると――すぐさま朝の支度に取り掛かった。手際よく、衣装棚を開き、その日の装いを選び始める。その背筋の伸びた丁寧な所作には、赤ん坊の頃からリゼルに仕え続けてきた者だけが持つ、確かな習熟が滲んでいた。
リゼルは、そんなメアの後ろ姿をぼんやりと眺めながら。ふと、意識の片隅で、視界の中に、あの、見慣れた表示を浮かび上がらせた。
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名前:メア・ナイト
種族:夜魔族(ナイトメア種)
身分:ヴァルクロア大侯爵家 リゼル付き侍女見習い
年齢:14歳
レベル:171
生命力:995
魔力量:2470
筋力:93
耐久:86
敏捷:149
知力:121
精神:312
統率:12
政治:8
礼法:175
忠誠適性:測定不能
主要適性:夢界干渉/精神干渉/短剣術/侍女作法
危険度評価:低(現時点)
敵対意志:なし
備考:現時点では、戦闘力、不足。夢界・精神干渉方面に、高い、潜在値を、持つ。忠誠適性が、異常値。将来的、成長余地あり。
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その数値を一瞥した瞬間。
(ちっ)
リゼルは、その内心で小さく舌打ちした。
(相変わらず、ゴミステータスだな。メルとは比べものにならん)
あの、記憶の中の蛇のような髪を揺らしながら、優雅に笑うあの女。その、圧倒的な才の片鱗すら――今、目の前で忙しなく動き回るこのメイドには、欠片も見出せない。
それでも。
リゼルはその内心の呟きを決して、表には出さなかった。
まだ、朝は――始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
リゼルの記憶に残る、蛇髪の女・メル。
国一つを滅ぼすほどの力を持ちながら、彼女はリゼルを**「愛おしい主様」**と呼んでいました。
そして目を覚ましたリゼルの前にいるのは、まだ未熟なメア・ナイト。
過去の記憶と、現在のパンデモニウム。
Ver.2 Poison――ここから始まります。
次回、「甘き菓子と、禁忌の外法」。




