Save Data Corrupted?
これは、まだ起きていない物語。
あるいは――起きるかどうかさえ、定かではない未来。
長い年月を経た、魔界の地下深く。
そこには、五本の腕を鎖に繋がれた一人の男がいた。
その名は――ソーマ・ザン・アーシュラ。
そして彼の前に、**「魔王殿下」**と呼ばれる女が現れる。
『Error : 未確定領域へ、接続しました』
『これは、まだ、実行されていないファイルです』
『Save Data Corrupted? 魔王の王配』
地下深くに築かれた牢獄には、昼も夜も存在しなかった。
外界から隔絶された石造りの回廊に窓はない。壁面へ、一定の間隔で埋め込まれた魔導灯だけが冷たい青紫色の光を放っていた。
その光さえ、囚人のために用意されたものではない。巡回する看守が、足元を見失わぬため。あるいは――収監された者が、死んでいるのか、生きているのか。それを確かめるため。ただ、それだけのものだった。
ここへ送られる者に、快適さなど必要ない。まして、この最深部に収監されるような者ならば、なおさらだった。
幾重もの鉄扉。魔力を封じる封印。転移を阻害する、結界。壁そのものへ刻み込まれた、術式。通常の囚人を閉じ込めるには、明らかに過剰だった。
その最奥。1つの牢に、1人の男がいた。
ソーマ・ザン・アーシュラ。
なぜ、彼がここにいるのか。何をしたのか。牢獄の外で何が起きたのか。誰もそれを語らない。ソーマ自身もまた、語ろうとはしなかった。
長い歳月、看守の誰一人として、外の話を彼に聞かせようとはしなかった。生死の確認以外の、一切の接触を禁じられていたのだろう。簒逆の結末も、あの女の消息も――何一つ、知らされぬまま、ただ、この石牢の中で時だけが過ぎていった。
ただ、確かなことが1つだけあった。この光の届かぬ石牢に繋がれてから――すでにどれほどの歳月が過ぎ去ったのか、それすらも、もはや定かではない。
与えられた、ただ1脚の椅子に腰を下ろしたまま、ただ、沈黙している。
5本の腕は肘掛けの上で、太い鎖に幾重にも巻きつけられ、椅子そのものへと固く繋ぎ止められていた。魔力を封じる術式が、その鎖の表面に鈍く刻まれている。逆賊たる身に相応しい拘束だった。アスラ族の血を引くその体は、長い歳月を経てなお、若々しい青年の面影を色濃く留めていた。老いというものが、この身に追いつくまでには――まだ、途方もない時間が必要なのだろう。それでも、瞳の奥に宿る静かな諦観だけが、この男が確かに長い年月を生き抜いてきたことを物語っている。
アーシュラ侯爵家の嫡男として生まれた身。アスラ族の男は、本来6本の腕を持って生まれる。だが、この男は――5本の腕しか持たずに生まれてきた。武を何よりも重んじるこの一族にとって、その事実は、紛れもない異形の証だった。それでも、生まれ持ったその顔立ちだけは、誰もが目を奪われるほどに整っていた。武で名を上げることの叶わなかったその生まれが――皮肉にも、彼を剣ではなく、知の道へと向かわせたのかもしれない。
やがて。
静寂の向こうから、足音が聞こえてきた。
最初に響いたのは、複数の硬い軍靴の音。看守たちだ。だが、その中央に――明らかに異なる足音が、1つだけ混じっていた。
急がない。周囲へ合わせる必要さえ、感じていない。一歩。また、一歩。まるで、この地下牢そのものが、自分の所有物であるかのような歩みだった。
牢獄の空気が、変わる。
ソーマが、ゆっくりと、顔を上げた。
そして。
最奥の角を曲がり――その女が姿を現した。
数名の看守を従えている。いや。従えている、という表現すら、正しくないのかもしれない。看守たちは、女の護衛として歩いているはずなのに、誰一人として、彼女と距離を緊密にして歩こうとはしていなかった。数歩。必ず、後ろを歩く。それが、命じられた隊列なのか。それとも、本能なのか。判別できない。ただ、1つ確かなことがある。看守たちは、囚人よりも――中央を歩く女を恐れていた。
女が足を止める。ソーマの牢の前だった。
「魔王殿下」
看守の1人が、踵を鳴らし、深く右手を胸へと当てた。緊張のあまり、その声は僅かに上ずっている。
魔王殿下――看守は、確かにそう言った。王であるならば、陛下と敬称を付けて呼ぶべきところを、彼は敢えて〝殿下〟と、そう呼んだ。だがそれは、決して侮辱では無かった。魔王と呼ばれたこの女自身が、自らを〝陛下〟と呼ぶことを許してはいなかった。〝陛下〟と呼ばれるべきは、天上天下において唯一無二の御方のみ――それを軽んじるのであれば、どんな権力者でさえ彼女は躊躇せず、また、考えもせずに処刑する。その後のことなどお構いなし。
――この女は狂っている――
魔界において彼女を知るものは、ただ一人を除き、すべての者が彼女をそう評した。
「こ、こちらでございます。殿下!」
「うむ、ご苦労」
女の声には、労いとも、儀礼ともつかない、平坦な響きがあった。
「はっ! 光栄でございます!!」
女は、牢の中へ視線を向けた。ソーマと目が合う。ほんの数秒。互いに何も言わない。ただ、見つめ合うだけの、その沈黙が、やけに長く感じられた。やがて、女の口元が、わずかに持ち上がった。
「開けろ」
「はっ」
幾重にも施された封印が、解除されていく。1つ。2つ。3つ。重々しい音を響かせながら、最後の錠が外れた。
鉄扉が開く。軋んだ音が、狭い回廊に長く尾を引いた。
しかし、女は入らない。代わりに、背後へ声を投げた。
「貴様らは、外していろ」
看守たちが、顔を上げる。困惑と、それを上回る恐れとが、その表情に綯い交ぜになっていた。
「私が、この者と話をする」
一拍。そして、女は振り返った。その瞳が、看守たち1人1人を順に射抜いていく。
「聞き耳も、覗き見も、処刑の対象だと思え」
静かな声だった。だからこそ――冗談ではないことが分かった。声を荒げるよりも、よほど恐ろしい響きだった。
「……魔王殿下」
それでも、1人の看守が、覚悟を決めたように口を開いた。額に、うっすらと、汗が滲んでいる。
「恐れながら、申し上げます」
「何だ?」
女の声に、僅かな苛立ちが混じった。
「魔王殿下お一人を残し、この者と対面させるわけには――」
女の眉が、ほんのわずかに、上がった。
「ほぉ?」
たった、1音。それだけだった。看守の顔から、血の気が引いた。頬が、みるみるうちに、白くなっていく。
女が、振り返る。
「貴様が」
ゆっくりと。1歩、1歩、確かめるように。
「私を、守ってくれると、言うのか?」
「――っ」
次の瞬間。
空気が沈んだ。比喩ではない。牢獄そのものが、巨大な何かに押し潰されたかのように、石壁が軋んだ。魔導灯が、明滅する。天井から、細かな砂塵が落ちる。看守たちの外套が、風もないのに激しく揺れた。
女を中心として、放たれた魔力。ただ、放出しただけ。術ですらなかった。それなのに。
「ぐっ……!」
1人が、膝をついた。続いて、もう1人。最後まで立っていた看守も、数秒と耐えられず、膝を折った。歯を食いしばり、それでも立ち上がろうとする者すらいなかった。
女だけが、立っている。悠然と、涼しい顔で。
「私の身を案じるとは、殊勝なことだ」
口元が、笑っていた。だが、その目には欠片の温かみもなかった。
「では、聞こう」
女は、牢内のソーマを指差した。
「この者が、私を殺そうとした場合――貴様に何ができる?」
「…………」
「私を敗れる相手から、貴様が私を守るのか?」
問い詰められた看守は、口を僅かに震わせるだけで、答えられなかった。
「……申し訳、ございません」
「聞こえんな」
「無礼を、申し上げました! 魔王殿下!」
看守たちが、一斉に頭を垂れた。石畳へ、額が擦れんばかりの深さだった。
そこで、初めて魔力が消えた。まるで、最初から何も起きていなかったかのように、静かに。
「分かれば、よい」
女は、興味を失ったように、背を向ける。
「行け」
「はっ!」
看守たちが、慌てて体勢を立て直し、踵を返そうとする。
「それと」
看守たちの足が、止まる。
「先ほど命じたことを、忘れるな」
振り返りもしない。それでも、その声だけで十分だった。
「私と、この者の会話を知ろうとするな」
「御意!」
看守たちは、踵を返し去っていった。足音が遠ざかる。1つ目の扉が、閉じる。2つ目。3つ目。やがて、完全な静寂が戻った。
女は、しばらく待った。足音の余韻が、完全に消え去るまで。そして。
「――さて」
ようやく、牢の中へ入る。鉄扉を自ら閉めた。
かちり。
小さな音だった。だが、ソーマには、それが妙に大きく聞こえた。
薄暗い、魔導灯の光が、初めて女の顔を正面から照らし出す。ソーマの瞳が、大きく見開かれた。
「……貴女は……そんな……まさか!」
掠れた、驚愕の声が漏れる。喉の奥から、絞り出すように。
「何故……そんな、若い時のままなんだ……!!」
長い、長い、歳月。それだけの時が流れたはずだった。だというのに――目の前の女の姿は、ソーマの記憶にある、あの頃と寸分違わず同じだった。皺の一つ、髪の一筋すら、変わっていない。まるで、時そのものが、この女だけを置き去りにしたかのように。
「随分と、待ちくたびれさせてしまいましたね、ソーマ様」
女は、その動揺を意にも介さず、涼やかに口元を綻ばせた。
「…………」
「壮健で、なによりです」
「これが、壮健に見えますか……?」
ソーマは、そう投げ捨てるように返した。声には、長年、燻り続けた乾いた苦さが、滲んでいる。
「軽口を叩ける程度には、御達者のようで」
女の唇の端が、僅かに持ち上がる。愉悦を隠しきれぬ、その緩みだった。
ソーマは、まじまじと、その顔を見据えた。何と呼ぶべきか。喉元まで、幾つもの呼び名がせり上がっては、消えていく。結局、そのどれもを口にはしなかった。
「……いかなる、御用向きでしょう?」
「ふふっ。随分と、他人行儀な物言いですね」
「この境遇で、他にどう振る舞えと?」
「以前と、変わらぬ態度でよろしいのでは?」
「以前と、今とでは――置かれた立場が違います」
「それも、そうですね」
女は、それを、あっさりと認めた。躊躇う素振りすら見せずに。
「あの頃とは、お互い随分と、様変わりしてしまいましたしね」
その言葉だけ。ほんの一瞬だけ、笑みが薄くなった。だが、すぐに戻る。まるで、何事もなかったかのように。
「では、本題に入りましょうか」
ソーマの目が、細くなる。警戒するように、体が僅かに強張った。椅子に鎖で拘束されている中、逃げ場など、どこにもないというのに――それでも、彼は身構えることをやめなかった。長きに渡る、幽閉の日々が、その本能のような警戒心だけは、決して鈍らせなかったのだろう。
「簒逆のことですか」
「ええ」
「……失敗したことは、この身が、証明しております。それを、今更、確かめにいらしたのですか?」
自嘲じみた、乾いた声だった。石壁に、幾度となく反響してきたであろう、その響きには、諦めと、僅かな苛立ちとが、綯い交ぜになっている。
「いいえ」
女は、静かに首を振った。その所作一つにも、無駄な力みは、微塵も感じられない。
「終わった後の話を、しに参りました」
ソーマの表情が、僅かに強張った。
「終わった後……」
「はい」
「それは」
言葉を選んでいる。女は、待った。急かすことなく、ただ、静かに。魔導灯の光だけが、2人の間に揺らめいていた。ソーマが、ようやく尋ねる。
「……あの方は……?」
その瞬間。女の口元が、美しい弧を描いた。喜びとも、憐れみとも、判別のつかぬ、複雑な笑みだった。
「あの女なら、私が、殺しました」
「…………」
それ以上は、言わなかった。誰を。どこで。どのように。いつ。何一つ。ソーマも、名前を口にしない。だが、意味は通じていた。牢内に重い沈黙が落ちる。石壁を伝う、水滴の音だけが、その沈黙を辛うじて埋めていた。
「……もっとも」
女は、そこで、ふと、独り言のように付け加えた。視線が、僅かに宙を彷徨う。
「あの時、私も共に死にました。ですが、大魔王ドラコー陛下のご慈悲により――蘇らせていただきましたが」
その一言に、ソーマの表情が僅かに揺れた。だが、女は、それ以上何も説明しなかった。まるで、それが当然の既知の事実であるかのように。あまりにも、あっさりと、告げられたその途方もない事実の重さに――ソーマの思考が、一瞬、追いつかなくなる。
「そう……ですか」
「はい」
「…………」
「悲しいですか?」
「分かりません」
ソーマは、視線を床へと落としながら、そう、答えた。その、掠れた声には、偽りのない当惑が滲んでいた。
「そうですか」
女は、ゆっくりと、ソーマの前まで歩いてきた。牢内の狭さゆえに、その距離は、あっという間に詰まる。
「私は、悲しくありませんでしたよ」
淡々としている。感情の起伏など、欠片も感じさせない、平坦な声だった。
「必要でしたので、殺しました」
「必要……」
「大魔王ドラコー陛下に仇なす者を排除する。それ以上の、理由が、必要ですか?」
ソーマは、答えなかった。ただ、鎖に繋がれたままの拳を静かに握りしめた。血の気の失せた、その指先だけが、彼の内心を雄弁に物語っている。
「ありませんよね」
女が、自分で結論づける。答えを待つつもりすら、初めからなかったのだろう。
「ですから、あの女は、死にました」
そして、続けるように。それまでの優雅な言葉遣いが、ふと、崩れた。まるで、抑えきれない愉悦が、その仮面の隙間から滲み出たかのように。
「あの女と、あなた方の愚かな企ては、全ぇん部、台無しにしてやりましたよ」
女は、勝ち誇ったように、口の端を大きく吊り上げた。椅子に座るソーマを見下ろすその瞳には、嘲りの色が隠しきれぬほどに滲んでいる。
「残っているのは、後始末だけです」
「……私も、その1つですか?」
「ええ」
あまりにも、あっさりした肯定だった。ソーマが、自嘲する。乾いた笑いにもならない息だけが、漏れた。
「では、処刑の宣告に?」
「まさか」
女は、笑った。心底、おかしそうに。その笑い声は、狭い牢内に、思いのほか涼やかに響いた。
「ソーマ様は、何を仰っているのです?」
「違うのですか?」
「もちろん」
「ソーマ様を殺すつもりなど、ございません」
「……なぜ?」
「必要だからです」
ソーマの眉が、僅かに動いた。その意図を、測りかねているのだろう。
「私が?」
「ええ」
女は、ソーマの座る椅子の傍らへと身を寄せた。立ったまま、上体だけを、ゆっくりと、傾け、ソーマと視線の高さを合わせる。衣擦れの音だけが、微かに響いた。その瞳の距離の近さに、ソーマは思わず、息を詰めた。
「ふふっ。ですので、ここから、出して差し上げます」
「…………」
「嬉しくないのですか?」
「条件は…何ですか?」
ソーマの声に、僅かな警戒が滲んだ。長年、この手の駆け引きから遠ざかっていたはずの身でありながら――その勘だけは、鈍っていなかった。
「さすがですね」
くすり。女は笑う。
「私が、無条件で逆賊を解放するとお思いにならない程度には――私を分かって頂いているようで、光栄に思います」
「条件を、聞かせてください」
「簡単なことです」
女の手が、伸びた。ソーマの顎へ、指先が、触れる。逃げようとすれば、逃げられるほどの力。だが、ソーマは、動かなかった。動けなかった、というのが、より正確なのかもしれない。
女は、そのまま、ソーマの顎を持ち上げる。冷たい、指先の感触が、肌に伝わった。
「私の、王配となるのです」
その一言に、牢内の空気が、一瞬、凍りついたかのように止まった。魔導灯の微かな瞬きさえ、その静寂を際立たせるだけだった。
「…………何を」
「聞こえませんでしたか?」
「聞こえました」
「では、結構」
「意味が、分からないと、言っているのです」
「難しい話でしょうか?」
女は、心底、不思議そうに、首を傾けた。その、あどけないとすら言える仕草と、口にしている内容との、あまりの乖離が――かえって、この女の底知れなさを際立たせていた。それから、まるで幼子へ道理を説くかのように、1つずつ、言葉を積み上げていく。
「私は、魔王です」
分かりきったことを、あえて、口にする。その迂遠な話の運び方にこそ――この女の意図があった。
「存じています」
ソーマは、僅かに苛立ちを滲ませながら、そう返した。看守たちの、あの幾度もの「魔王殿下」という呼びかけを、忘れるはずもない。
「王配が、必要です」
「だから、私だと?」
「少し、違います」
女の指が、顎から、頬へ、移る。ゆっくりと、輪郭をなぞる。その指先の動きだけが、やけに生々しかった。
「王配など、誰でも構いません」
「…………」
「ですが」
そこで、初めて声の温度が変わった。それまでの、涼やかな響きに、確かな熱が混じり始める。
「御子の父親は――誰でもよい、というわけには、参りません」
ソーマの表情が、強張る。女は見逃さない。獲物の、その、僅かな変化すら、見逃すまいとするかのように、瞳を細めた。
「大魔王ドラコー陛下にお仕えする、御子が、必要なのです」
「……御子」
「ええ」
女は、その姿勢のまま、静かに続けた。指折り数えるように、1つ1つの言葉を、区切りながら。
「強く」
その、1音を紡ぐだけで、女の瞳が、恍惚を帯びる。まるで、遠い高みにある、何か崇高なものを仰ぎ見るような陶酔だった。
「賢く」
声に、うっとりとした熱が混じり始める。指先が、無意識のように、自らの喉元を、そっと、なぞった。まるで、その言葉を体の内側にまで刻み込もうとするかのように。
「忠実で」
もはや、隠す気もない。頬に朱が差している。信仰と呼ぶよりほかない、その、蕩けきった表情は、艶めかしくすらあった。この身も、心も、生まれてくる命さえも――全ては供物に過ぎない。そう、言わんばかりの、恍惚だった。
「何より――大魔王ドラコー陛下の御身をお守りできる者」
女の瞳には、先ほどまでとは違うものが宿っていた。恋慕では、ない。欲情でも、ない。信仰。ただ1人へ向けられた、揺るぎようのない、忠誠。その、瞳の奥に灯る、狂おしいまでの光に、ソーマは、思わず言葉を失った。
「そのためでしたら――私は、何でも、いたします」
ソーマが、静かに尋ねる。
「……私との、子まで?」
「当然でしょう」
その声に、一切の躊躇は感じられなかった。まるで、当たり前のことを、確認するかのような、平坦さだった。
「私自身も、大魔王ドラコー陛下の所有物です」
女は、胸元へ手を、添えた。その仕草だけを見れば、男の視線を誘うためのものにも見える。だが、表情は、奇妙なほど冷静だった。
「この身も」
指先が、衣服の上をなぞるように、ゆっくりと、滑っていく。
「血も」
そして、その手は静かに、腹部へと移った。
「私から、生まれる命でさえも」
女は、微笑んだ。狂気すら、感じさせる、あまりにも澄んだ笑みだった。その、澄み切った笑みの奥に、この女が抱える途方もない闇の深さが、僅かに垣間見えた気がした。
「すべて、大魔王ドラコー陛下の御為に使えるのであれば――それ以上の喜びが、ございましょうか?」
「……貴女は、なんて恐ろしい女になってしまったのか……」
ソーマが、呟いた。押し殺した声だった。女の笑みが、深くなる。
「すべて、ソーマ様がいけないのですよ? あの女に骨抜きにされたが故の結末です。私を選んでおけば良かったと、必ず後悔を噛み締めて頂きますからね」
女は、平和な遊牧民の、純情無垢な少女のような可憐な微笑みをソーマへと見せた。裏切りの代償が、必ずしも処刑という楽な終わりではないことを――女は、その笑顔だけでソーマへと示し付けていた。
「それで、私を?」
「はい」
「私には、拒否する権利が認められないのですか?」
女の眉が、上がった。そして。
「…………ふふ」
笑った。声を、堪えきれないように。
「何が、おかしいのです?」
「申し訳ありません」
口元を、手で隠す。それでも、隠しきれない笑みの気配が、指の隙間から覗いていた。
「あなたが、あまりにも、可愛らしいことを仰るので」
「私は、真面目に――」
「存じております」
女は、身を傾けたまま、ほんの少しだけ、さらに顔を寄せた。互いの息遣いが、僅かに感じられるほどの距離。ソーマが、わずかに身を引く。その反応を見て、女の目が妖艶に細められる。狭い牢の中、逃げる先など、どこにもなかった。
「ソーマ様」
囁く。声が、耳朶を、そっと、撫でるように。
「あなたは――逆賊、ですよ?」
「…………」
「大魔王ドラコー陛下に弓引く謀反へ加わり、敗北し、こうして、牢へ繋がれている」
頬へ、触れる。指先が、頬骨の輪郭をゆっくりと辿った。その指先の冷たさとは裏腹に――そこに込められた意図の熱さが、ソーマの肌をじりじりと灼くようだった。
「本来ならば――命すら、ご自身のものでは、ない」
「それでも――」
「ええ」
女は、遮らなかった。ただ、静かに、続きを待つ。魔導灯の青紫の光が、その横顔を静かに照らし続けていた。
「お気持ちは、理解いたします」
意外な言葉だった。ソーマが、目を上げる。
「私とて、嫌悪されながら王配となっていただくより――少しでも、お気持ちを、こちらへ向けていただいた方が、都合が、よろしいのです」
「都合……ですか」
「はい」
あくまで、それだった。愛では、ない。その、あまりにも明確な線引きが、かえって、この女の底知れなさを物語っていた。
「ですから」
女は、そっと、上体を起こした。真っ直ぐに、姿勢を正し、ソーマを見下ろせる位置まで戻る。魔導灯の青紫の光が、その輪郭を淡く縁取っていた。
「私も、長いこと、己を磨いて参りました」
声が、僅かに低くなる。囁くというには、はっきりと。だが、それでいて、どこか秘密を打ち明けるような親密さを帯びていた。
「…………」
「魔術だけでは、ありませんよ」
少しだけ、腕を広げる。まるで、自分自身を品定めさせるように。灯りが剥き出しの肩の線をなぞっていく。
「容姿も」
胸元へ、指を添える。その、ゆるやかな指先の動きだけで、空気が、一段、重くなった。
「立ち居振る舞いも」
髪を、耳へ、かける。艶やかな、白銀の房が、一筋、頬を掠めて落ちた。
「あなたに、その気になっていただくために――私なりに努力したつもりです」
その声には、これまでの飄々とした、からかいの色とは、また違う、確かな熱が滲んでいた。まるで、その言葉1つ1つを、ソーマの肌へ、直に、刻みつけるかのように。
「……何を、言っているのですか」
「分かりませんか?」
「分かりたく、ありません」
「まぁ!」
女は、楽しそうに笑った。喉の奥で、小さく声を転がすように。
「随分と、酷いことを仰いますね」
そして、再び身を傾ける。先ほどと、同じ高さまで。
「ですが――考えてもみてください」
頬へ、手を添える。親指が、ほんの僅かに動いた。
「見ず知らずの醜女とまぐわうよりも――」
顔が僅かに近づく。ソーマが息を止めた。女は、その反応を楽しむように――しかし、それ以上、距離を詰めはしなかった。その、絶妙な間合いの取り方こそが、この女の恐ろしさの真骨頂だった。
「愛など無くとも――私を抱く方が――」
声を、少しだけ、潜める。囁きにも似た、その響きが、狭い牢の中に静かに溶けていく。
「いくばくかは、心の慰めになりませんか?」
「…………」
「おや」
女が、僅かに身を離す。愉快そうに、目を細めながら。
「顔が、赤いですよ、ソーマ様」
「誰の、せいだと」
「私でしょうね」
あっさり、認めた。悪びれる様子など、微塵も、なかった。
「光栄です」
「褒めていません」
「存じております」
女は、実に楽しそうだった。だが。次の瞬間には、その笑みが、薄くなる。潮が引くように、静かに。
「もっとも」
声音が、変わった。先ほどまでの、蕩けるような甘さが嘘のように消え失せている。
「誤解なさらないでください」
女は、ソーマを真正面から見た。その瞳から、先ほどまでの、戯れの色が、綺麗に消えていた。まるで別人がそこに立っているかのような、豹変ぶりだった。
「私が、己を磨いたのは――あなたに、愛していただきたいからでは、ありません」
「…………」
「あなたを、愛しているからでも、ありません」
躊躇なく、言い切る。その、迷いのない声音に、ソーマは、なぜか、僅かな痛みにも似た感情を覚えた。
「すべては――大魔王ドラコー陛下の御為です」
ソーマの瞳に、複雑な色が、浮かぶ。
「……そこまで」
「そこまで、です」
「あなた自身の望みは――ないのですか?」
初めて。女が、沈黙した。数秒。魔導灯の、小さな音だけが、響く。その束の間の沈黙が、これまでのどの会話よりも、雄弁だった。やがて。
「ございますよ」
女が、答えた。その声には、これまでの、どの言葉よりも、確かな熱がこもっていた。
「大魔王ドラコー陛下が、永遠に、君臨なさること」
静かに。
「陛下が、お望みになる世界が、続くこと」
そして。
「その御身へ仇なす者が――1人残らず、消え失せること」
微笑む。その微笑みの底に、揺るぎない信仰にも似た確信が、静かに横たわっていた。
「それが、私の望みです」
ソーマは、長く息を吐いた。その吐息の中に諦めとも、理解とも、判別のつかない、複雑な感情が、混じっていた。
「……変わりましたね」
「何が、でしょう?」
「いえ」
「そうですか」
女は、追及しなかった。ゆっくりと、立ち上がる。衣擦れの音が、静かに牢内に響いた。
「明朝、ここから、出して差し上げます」
「待ってください!」
牢の扉の方へ、体の向きを変えかけていた女の足が、止まった。
「何でしょう?」
「私は、まだ、承諾していません」
「ええ」
「ならば――」
「ソーマ様」
女は、そのまま、振り返った。笑顔が戻っている。美しい。だからこそ――恐ろしい。その笑顔の完璧さこそが、この女の揺るぎない支配の証だった。
「先ほどから、どうして、そのような可愛らしい勘違いをなさっているのです?」
「…………」
「私は、お願いに来たのでは、ありませんよ?」
ソーマが、黙る。反論の糸口すら、見つからないのだろう。
「あなたの処遇を、お伝えしに、参ったのです」
「処遇……」
「はい」
女は、指を、1本、立てる。その、優雅な仕草の裏に、有無を言わせぬ、絶対的な意志の強さが滲んでいた。
「ソーマ様は、牢獄を出る」
2本目。
「私の、王配となる」
3本目。
「そして、私との間に――御子を、残す」
指を、下ろす。
「以上です」
女は、そこで、一度、言葉を切った。それから、抑揚のない平坦な声で続けた。感情の色など、欠片も乗っていない。まるで、事務手続きの確認事項を読み上げるかのような口調だった。
「ソーマ様。私を、孕ませてください」
その、あまりにも冷たい直截な物言いに――ソーマは、しばし、言葉を失った。開きかけた口から、言葉の代わりに、掠れた息だけが漏れる。
「…………私が、断れば?」
「断る?」
まるで、知らない言葉でも聞いたような顔をした。それから。くすり。
「ふふふ」
笑い声が、牢内へ響く。冷たく、それでいて、どこか、心底楽しそうな響きだった。
「ソーマ様」
女は、最後にもう一度、彼のところへ歩み寄った。身を屈め、頬へ、そっと、手を、添える。今度は、弄ぶような仕草ではなかった。むしろ、優しい。だから――余計に逃げ場がなかった。
「逆賊であるあなたに――反対の自由は、ありません」
「…………」
「ですが」
ほんの少し、声が柔らかくなった。刃のような鋭さが、僅かに丸みを帯びる。
「私は、あなたを粗末に扱うつもりも、ありません」
ソーマが、女を見る。その瞳の奥に、諦めとも僅かな安堵ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
「王配として、相応の敬意を、払いましょう。望める範囲で、自由も差し上げます。必要なものがあれば、用意します」
「随分と、寛大ですね」
「ソーマ様が、お望みになられるのでしたら」
女は、そう、続けながら、指折り、数えるように、1つ、1つ、並べ立てていく。まるで、恵み深い、女神を演じるかのような、優雅な仕草だった。だが、その瞳の奥だけは、少しも笑っていない。
「大好きな、研究のための金も、人材も。慰み者になる、公妾も……あぁ、ええっと」
女は、そこで、ふと、思い出したように、言葉を切った。それから、この上なく無邪気な笑みを浮かべる。
「公妾との間に子を成せば、母子共々に殺しますから。お気をつけくださいね」
あまりにも、あっさりと、告げられた、その、凄惨な一言。まるで、些細な注意事項を伝えるかのような口調だった。恐ろしいのは、その言葉に、一切の誇張も脅しの色すら感じられないことだった。ただの、事実。ただの、決定事項。それだけの、ことだった。
「出来得る限りのお望みを、叶えて差し上げます」
「まるで、囚われの鳥籠の鳥ですね」
ソーマは、そう、吐き捨てるように、呟いた。声には、隠しきれない諦めと、侮蔑とが、綯い交ぜになっている。
「鳥籠?」
女は、その例えを面白がるように、僅かに目を見開いた。それから、心底、愉快そうに、口の端を吊り上げる。
「大いに、結構ではないですか」
その、声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。まるで、長年、追い求めてきた獲物をようやく、その手に収めたとでも言うような――そんな、勝ち誇った響きだった。
「今度こそ、あなたの身の安全は約束されます」
ソーマが、目を閉じた。長い、長い、ため息と共に。その、深いため息の中に、この、途方もない状況への諦めにも似た受容が滲んでいた。
「……貴女は本当に変わり果ててしまわれた」
「お褒め頂き、ありがとうございます」
「褒めていません」
「存じておりますよ」
女は、頬から手を離すと、ソーマに背を向け、鉄扉へと歩み寄り、手をかける。
「では、明朝」
「…………」
「お迎えに参りますね、愛しの旦那様」
扉が、開く。廊下へ出る直前、女が足を止めた。
「あぁ、そうそう」
振り返る。その口元に、悪戯めいた笑みが浮かんでいた。
「1つだけ、訂正しておきましょう」
「何をです?」
「先ほどの、鳥籠の、例えですが」
妖艶な笑みが、その口元に浮かんだ。まるで、最後の種明かしを楽しむかのように。
「鳥籠には、通常、鳥籠の外があるものでしょう?」
僅かに、首を傾けた。
「あなたには、その、外すら――もはや、存在しないと、思っていて下さいね」
鉄扉が、閉まる。重い音が、地下牢へ、響いた。
その、直後だった。
扉の向こう――遠ざかっていく足音に混じって、高らかな笑い声が石造りの廊下に響き渡った。
「ふふ、ふふふふ……あはは、ははははっ!」
抑えることも、しない。誰に憚ることもない、伸びやかな笑い声だった。それは、幾重もの鉄扉を隔ててもなお、しばらくの間、地下牢の奥深くまで木霊し続けていた。
残されたソーマは――ただ、その場に座り込んだまま、動けずにいた。
呆然と、見開かれた瞳。声すら、出ない。あまりにも、現実離れした、この状況に――思考そのものが、追いつかない。
やがて、遠ざかる笑い声が完全に聞こえなくなった頃。
ソーマは、深く、項垂れた。鎖に繋がれたままの両の拳が、肘掛けの上で、なす術もなく震えている。乾いた、笑いにも似た、それでいて、笑いとは、まるで違う、掠れた息だけが、唇から漏れた。
なぜ、彼が、ここにいるのか。何が、起きたのか。誰が、死んだのか。
そして――彼を王配にすると宣言した、あの魔王が、いったい何者なのか。
その答えを語る者は――どこにも、いなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
なぜソーマは、逆賊として牢獄にいるのか。
「あの女」とは誰なのか。
そして、彼の前に現れた魔王殿下とは――。
今はまだ、答えのない未来です。
『Save Data Corrupted?』
このファイルが本当に実行されるのか。それもまだ、未確定です。




