Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 4-3 約束(いや、脅迫だろ)
武闘会での敗北を胸に、一人で鍛錬を続けるルドラ。
そんな彼のもとへ、リゼルたちがやって来る。
もっと強くなりたい。
その言葉を聞いたリゼルが、ルドラとドゥルガーへ提示したのは――四年後の未来。
「王立学園タルタロスに、来い」
これは約束なのか、それとも――。
街から20万アルク。切り立った崖と、荒々しい岩場、そして、幾筋もの滝が絶え間なく流れ落ちる地形がそこには広がっていた。
人の手がほとんど入っていないこの地は、まさに鍛錬にうってつけの場所だった。轟々と水の落ちる音が絶え間なく、岩肌に木霊している。時折、その水しぶきが風に乗って遠くまで細かい霧のように運ばれてきた。空を見上げれば、切り立った崖の合間から狭く切り取られた青が覗いている。
その岩場の一角で、ルドラは、1人、拳を振るっていた。ソーマの治癒魔法で一度は癒されたはずの体に、すでに新しい傷が幾筋も刻まれている。額から、汗と僅かな血が混じって滴り落ちていた。踏み込むたびに砂利を蹴散らす音が単調に繰り返される。
ふと、頭上――滝の上部から大きな岩の塊が崩れ落ちてくるのが視界の端に映った。長年の水の浸食に耐えきれなくなったのだろう。巨大魔獣の頭ほどもある、その岩が轟音と共に水と一緒にまっすぐ落下してくる。
ルドラは、その軌道を目で追うと、6本の腕のうち、2本を無造作に振るった。
「――どけ、邪魔だ」
拳が岩へと突き刺さる。ゴッ、という、重く、鈍い音と共に、岩が瞬時に幾つもの破片へと砕け散った。粉々になった欠片が、水しぶきと共に辺り一帯へ飛び散っていく。ルドラは、それを一瞥もせず、再び拳を握り直した。すでに何十回と繰り返してきた、日常の一部だった。
「――ちっ。まだ、足りねぇな」
ルドラは、そう呟きながら、拳を握り直した。あのリゼルとの一戦。あの圧倒的な大魔力を骨の髄まで思い知らされた。あの記憶が、幾度も、幾度も、脳裏に蘇る。金剛羅刹で受け止めたはずの一撃が、いとも容易く押し込まれたあの感触。そして――最後に、浴びせられた、あの比較にならない密度の一撃。
何より、悔しかったのは――ドゥルガーと2人がかりで、ようやく五分に持ち込めたという、その事実だった。1対1ならば、勝ち目など欠片もない。それを、嫌というほど思い知らされた。武を誇るアーシュラの跡取りとして、これほど屈辱的なことはなかった。
あれが、悔しくて、悔しくて、堪らなかった。
それに加えて、あまりにも単純な事実もまた、腹の底に重くのしかかっていた。
俺は、12歳だ。
だけど、あいつは、たった、4歳。
歳の差だけで言えば、赤子も同然の相手だ。それに、真正面から叩きのめされた。その、あまりにも単純明快な事実が、他のどんな屈辱よりも深く突き刺さっていた。
その悔しさが、彼をこの場所へと駆り立てていた。誰にも見られたくなかった。この無様な足掻きの姿を。だからこそ、街から20万アルクも離れた、この荒れた地形を選んでいた。汗が、目に染みる。それでも拳を止めなかった。岩に、幾度も、幾度も、叩きつける。その度に皮膚が僅かに裂ける。
その時だった。
「――精が出るな、ルドラ」
頭上から、聞き覚えのある声が、降ってきた。
「な――ッ!?」
ルドラが、弾かれたように見上げる。そこには、宙に悠然と浮かんだリゼルの姿があった。その両脇には、ドゥルガーと、メアの姿もある。夕暮れには、まだ早い午後の光が、彼女たちの背後から逆光となって差し込んでいた。
「り、リゼル……? なんで、こんなとこに……いや、それより、それウィングだろ?! そんな魔法までてめぇは使えんのかよ」
ルドラは、そう言いながら、目を細めた。あの浮遊魔法のことなら、彼も多少の知識はある。だが、あれほどの高度を、しかも、他人を2人も浮遊させ、平然と維持してみせる。その、桁違いの魔力制御に、内心、舌を巻いていた。
(ウィングって、確か、かなりの上級魔法だよな……? あいつ、アビスゲートだけじゃなくて、ウィングまで使えんのかよ……)
もはや、常識という常識が、あの少女には通じない。ルドラは、そんな諦めにも似た感想を、内心で零していた。
「ディとメアは、飛べぬからな。私の魔力で、共に浮かせている」
リゼルは、そう言うと、ゆっくりと、地上へと降り立った。ドゥルガーと、メアも、それに続く。着地の瞬間、砂利が小さく跳ねた。
「あ、足が……足が、地面に……!」
ドゥルガーが、地面に足がつくなり、その場にへなへなと、崩れ落ちるように座り込んだ。顔色は、真っ青を通り越して、いくらか土気色にすら見える。両手で、地面をしっかりと押さえつけていた。
「デ、ディ様……?」
メアが、心配そうにそう、声をかける。
「あたし……高いとこ、だめなの……。空の上とか、まじ、無理……」
ドゥルガーは、そう掠れた声で呟いた。あれほど、豪快で、物怖じしない少女が、これほどまでに弱々しい様子を見せるのは珍しい。
「メア、お前は大丈夫なのか?」
リゼルが、そう気遣うように、声をかける。
「は、はい……。少々、目が回っておりますが、大丈夫でございます」
メアもまた、青白い顔で、そっと、胸を撫で下ろしている。両手が、まだ微かに震えていた。それでも、常に主人の傍らに控える姿勢だけは崩さなかった。
「お前……なんで、ここが、分かった」
ルドラが、警戒するように、そう、問う。
「街で、聞いた。お前が、時々、ここへ来て、体を追い込んでいる、と」
リゼルは、そう答えながら、ルドラの体――そこかしこに刻まれた、新しい傷へと視線を向けた。頬に、幾筋もの擦り傷。拳には、皮の剥けた跡。血の滲むその拳を、一つ一つ、確かめるように、見つめる。
「ソーマ様に癒して頂いたばかりだろう。また、ソーマ様に迷惑をかけるつもりか?」
「うるせぇ。俺の勝手だろ」
ルドラは、ぶっきらぼうに、そう、返した。だが、その口調には、どこか照れ隠しのような響きも混じっている。視線が、僅かに逸れていた。
「その拳、見せてみろ」
リゼルは、そう言うと、断りもなくルドラの手を掴んだ。
「お、おい……!」
戸惑うルドラをよそに、リゼルは、その拳を、じっと、観察する。皮の裂けた箇所。骨の軋みが僅かに感じ取れるその内側。
「――お前は、拳を正面から叩きつけすぎる。岩の硬度を見誤っているぞ。角度を僅かに変えるだけで、衝撃の逃がし方がまるで違ってくる」
リゼルは、そう言うと、自らの拳をそっと岩の表面に当ててみせた。斜めに、滑らせるような動き。
「――こうだ」
軽く拳を振るう。次の瞬間、目の前の岩が、轟音と共に木っ端微塵に砕け散った。粉々になった破片が、辺り一帯へと勢いよく、飛び散っていく。リゼルの拳には、傷一つ、ついていなかった。
「な……!」
ルドラが、目を見開いた。その様子を、少し離れた場所から見ていたドゥルガーもまた、思わず感嘆の声を漏らす。
「リゼルって、なんでも出来ちゃうんだね……」
その、素直な感嘆に、リゼルは、僅かに口の端を上げた。
「私は君たちみたいな天才ではないからな。死ぬほどの努力の賜物というやつだよ……」
「あそこまでボコられて天才って言われても、皮肉にしか聞こえねぇぞ」
ルドラが、げんなりとした様子で、そう、返す。だが、その口調には、隠しきれない僅かな照れも混じっていた。
「教育だよ。まぁ、授業料は必ず取り立てるがね」
「悪魔みてぇなお嬢様だな、てめぇは」
ルドラが、呆れたように、そう、吐き捨てる。リゼルは、それをまるで褒め言葉であるかのように、平然と受け止めた。
「悪魔か……言い得て妙だが、似たようなものだ。私に魅入られたからには諦めろ」
リゼルは、そう、あっさりと答える。
「――なあ、リゼル」
「なんだ」
「あんたとやり合って……分かったんだよ」
ルドラは、拳を開いたり、閉じたりしながら、そう、続けた。その視線は、自らの拳と、リゼルの顔とを、交互に行き来している。
「俺は、まだまだ、弱い。もっと強くならなきゃいけねぇ」
その言葉に、リゼルは僅かに目を細めた。負けた事実を、真正面から受け止め、なお、前を向く。その姿勢は嫌いではなかった。前世の記憶にある、あの都合の悪い現実から目を逸らし続けた幾人もの人々の顔が、ふと、脳裏を過ぎる。それに比べれば――この少年の在り方は、あまりにも好ましかった。
「素晴らしい、その意気だ!!」
リゼルは、そう、静かに頷いた。
「――ルドラ、ディ」
リゼルは、そこで静かに切り出した。その声には、これまでとは、また違う、確かな重みが込められている。傍らで、メアが、僅かに姿勢を正すのが分かった。この主が、こうした声音で、話し始める時――それは、大抵、何か重要な話の前触れだった。夕暮れ前の、橙がかった光が、リゼルの白銀の髪を淡く染めている。
「4年後、魔都ベル・ガ・モードにある、全寮制の王立学園――タルタロスに、来い」
「は?」
「学園……?」
2人は、揃って、きょとんとした顔をした。互いに、顔を見合わせる。轟々と響く滝の音だけが、その束の間の沈黙を埋めていた。
「あそこには、魔界中の優れた才を持つ子弟が集う。……お前たちなら、そこでさらに力を伸ばせるはずだ」
リゼルは、そう続けた。その瞳には、確かな確信が宿っている。この2人の才を、このまま、この地に留めておくのは、あまりにも惜しい。前世の記憶にある、あの、育成という概念。良い環境に、良い才を置く。それが、どれほどの伸びしろを生むか――リゼルは、誰よりも、よく、知っていた。この崖で来る日も来る日も、独り、拳を岩に叩きつけ続けているこの少年の姿。それを見た瞬間から、すでにこの提案は、リゼルの中で固まっていたのかもしれない。
「いや、待てよ。急に、なんの話だよ?」
ルドラが、戸惑ったように、そう、返す。眉根が、僅かに寄せられていた。
「アーシュラを、離れろって、こと……?」
ドゥルガーもまた、僅かに表情を曇らせた。その声には、困惑と、それ以上の何か居心地の悪さのようなものが滲んでいる。
「嫌だね」
「あたしも、なんか、ヤダ」
2人は、ほとんど同時に、そう首を横に振った。故郷を離れることへの、素朴な抵抗だった。生まれ育ったこの土地。慣れ親しんだ、崖と岩場と、滝の音。それらを手放すことへの漠然とした不安が、その表情に色濃く滲んでいる。風が、ふと、強く吹き、水しぶきを辺りにまき散らした。
リゼルは、その返答に、しばし、無言のまま2人を見つめていた。表情を崩すことなく、ただ、静かにその拒絶の言葉を受け止める。それから、静かに目を伏せる。
「――そうか」
その声には、僅かな落胆が滲んでいた。だが、それも、ほんの一瞬。すぐに、その赤い瞳に、悪戯めいた光が宿る。口の端が、僅かに吊り上がった。
「ならば、お前たちとの再戦は、もうないな」
「え――」
「さらばだ、我が友たちよ。いつか、また、会おう!」
リゼルは、そう言うと、右手を、すっと、掲げた。足元に、紫色の魔法陣が静かに浮かび上がる。その、あまりにも堂々とした、退場の演出に、2人はたちまち慌てだした。夕暮れの橙色の光を、その、紫の輝きが鮮やかに切り裂いていく。
「ちょっ、待った――!」
「ま、待ってよリゼル――!」
ルドラとドゥルガーの声が、慌てたように重なった。だが、リゼルの口元には、確かな笑みが浮かんでいた。この程度の揺さぶりで心を動かされる。単純な奴らだと、内心、微笑ましく思う。
「本当に、もう、戦えないのか……?」
ルドラが、掠れた声で、そう、呟いた。その拳を握る手に、力がこもる。視線が、地面とリゼルの顔とを、幾度も行き来していた。
「あたしだって……もっと、リゼルと、戦いたいのに……」
ドゥルガーもまた、俯きながら、そう続けた。その声には、確かな未練が滲んでいる。両手の指先を、所在なげに絡めていた。
リゼルは、その様子を、しばし、眺めていた。2人の剥き出しのその本音。それだけで十分だった。そして――静かに、右手を下ろす。魔法陣が、光の粒子となって、静かに消えていった。
「――冗談だ。だが、私が、退屈しないような成長を見せてくれることを期待している」
その一言に、2人は、しばし、呆気に取られた顔をしていた。それから、ほとんど同時に盛大な溜め息を吐いた。緊張の糸が、一気に緩んだのだろう。
「あんた、性格、悪いな……」
ルドラが、げんなりとした様子で、そう、呟く。だが、その表情には、どこか安堵の色も混じっていた。
「褒め言葉として、受け取っておく」
リゼルは、そう言って悪びれもせず、笑ってみせた。その様子を眺めながら、メアは、内心、そっと、胸を撫で下ろしていた。
(お嬢様……先ほどは、本当に、転移なさるおつもりかと、肝が冷えました……)
夕暮れの光が、次第に、その色を深めていく。轟々と、水の落ちる音だけが変わらず、崖の谷間に響き続けていた。
「そういえばさー」
ドゥルガーが、ふと、思い出したように、口を開いた。夕暮れの橙色の光が彼女の横顔を淡く照らしている。
「ソーマ兄ぃ、そろそろ、学園の講師もやらなきゃいけないんだって。魔界の上級貴族家って、嫡男とか嫡女は、持ち回りでタルタロスの教壇に立たなきゃいけない決まりがあるみたい」
「――ディ」
リゼルは、間髪入れず、ドゥルガーへと詰め寄った。両手がドゥルガーの肩を、がしっと、掴む。
「その話、詳しく、聞かせろ!」
「わ、わっ! う、うん! えっとね……」
ドゥルガーは、その、あまりの勢いに、僅かに身を仰け反らせながらも説明を続けた。リゼルは上機嫌のまま、その説明に耳を傾け続けた。瞳が、これ以上ないほど、輝いている。
そこへ、ルドラが、バツが悪そうに、口を開いた。
「あのよぉ、リゼル。ちょっと、言いづらいことが、あるんだけどよぉ……」
「あ! ルドラ兄ぃ! それ、リゼルに言っちゃダメ!」
ドゥルガーが、慌てて、そう、割って入る。だが、リゼルは、そんな2人のやり取りにすら気づかぬほど、浮かれきっていた。
「はっはっはっ!」
リゼルは、朗々と笑ってみせた。
「ソーマ様が、講師を勤める学園生活……! 薔薇色ではないか! 多少のことでは動じないよ。何だね、ルドラ君?」
その、呼び方の変化に、ルドラは、僅かに目を瞬かせた。普段の「ルドラ」という、素っ気ない呼び方とは、明らかに違う。それだけ、この少女が、今、どれほど浮かれているかの証だった。
「ソーマ兄ぃ、婚約者、居るぜ?」
「――ふぇ?」
リゼルの動きが、一瞬、止まった。
「こんやく……しゃ? こんにゃく……え? えっと……?」
その、あまりにも、間の抜けた聞き返し方に、ドゥルガーとメアが思わず顔を見合わせる。だが、リゼルは、すぐに何かに気づいたように、ぱっと、表情を明るくした。
「あ! 私と、だな!」
「――は?」
「可愛い奴らだ、弟よ、妹よ! お姉ちゃんが、お小遣いをあげよう!」
リゼルは、そう言うと、上機嫌のまま、懐へと手を伸ばしかけた。
「お、お嬢様。……そうでは、ございません」
メアが、恐る恐る、そう、訂正を入れる。
「ディ、言い忘れてたろ?」
ルドラが、そこで、いくらか覚悟を決めた様子で続けた。
「リゼル、ソーマ兄ぃ――近々、分家の娘さんと結婚するんだよ」
その一言に、リゼルの笑顔が、ぴたりと、固まった。宙に浮いていたはずの、あの高揚感が、まるで砂の城のように、音もなく崩れ落ちていく。
「……え?」
瞳が、大きく、見開かれる。頬の血の気が、見る間に引いていった。
「ぅ、ぅえ…………」
喉の奥から、震える、掠れた声が、漏れた。両の瞳に、みるみるうちに、涙が盛り上がっていく。堪えようとしているのだろう。唇が、僅かに震えていた。だが、それも長くは続かなかった。
「――ぅえぇえええええーん!!」
次の瞬間、リゼルは、大粒の涙を流しながら、盛大に泣き出した。この地で、幾多の死線を涙一つ見せずに乗り越えてきた、冷血の少女とは、到底、思えない、あまりにも幼い泣き様だった。しゃくり上げるような、そのすすり泣きが、崖の谷間にこだまする。ドゥルガーもメアも、その、あまりの豹変ぶりに言葉を失っていた。そして――
「ぐっ……!」
ルドラとの身長差ゆえに、その視線は、まともに正面から噛み合わない。だからこそ、リゼルは、地面を思い切り蹴った。小さな体が、宙へと跳ね上がる。その涙の勢いのまま、ありったけの魔力を込めた拳が、ルドラの顔面へ真正面から深々とめり込んだ。
「ぐぼぁあああああああああ!!」
ルドラの体が、抗う間もなく彼方へと吹き飛んでいく。途中、幾つもの木々を、まるで紙のようになぎ倒し、切り立った岩山の一角すら粉々に貫きながら、そのまま、森の奥深くへと消えていった。轟音が幾重にも重なり、辺り一帯に木霊する。遠く、森の奥から、驚いたような無数の魔獣の鳴き声が、一斉に響き渡った。
「ル、ルドラ兄ぃ――!?」
ドゥルガーが、悲鳴のような声を上げた。だが、リゼルは、それに構う様子もなく――涙を、拭うこともせず、そのままアビスゲートを発動させた。足元に紫色の魔法陣が先ほどとは比較にならない速さで浮かび上がる。
「お、お嬢様――!! 私を、置いていかないでください――!!」
メアの悲痛な叫びも虚しく――紫色の光と共に、リゼルの姿はその場から掻き消えていった。後には、静寂と微かな紫色の残光だけが残されていた。
* * *
残された、メアは、しばし、呆然と、その場に立ち尽くしていた。夕暮れの橙色の光が、その青ざめた顔をなおも、照らし続けている。轟々と響く滝の音だけが、やけに大きく耳に届いた。それから、震える声で、隣のドゥルガーへと尋ねる。
「デ、ディ様……。ここから、アーシュラ侯爵閣下のお宅までの、距離は、どれほど、ございますでしょうか?」
メアの、顔色は、すでに真っ青だった。冷や汗が、こめかみを、一筋、伝い落ちている。声の震えを抑えようとしているのだろう。両手を胸の前で、固く、握りしめていた。
「うーん」
ドゥルガーは、しばし、考え込んでから、答えた。指折り、何かを数えるような仕草をしている。
「今は、リゼルが、転移魔法で連れてきてくれちゃったけど……歩いて帰るとなると、20万アルクくらい、かなぁ? あたしとルドラ兄ぃは、走って帰るから、夕ご飯の前には帰って、お風呂に入るよ!」
「う、ぎゃあああああああああああああ!!」
メアの絶叫が、崖と滝の谷間に木霊した。その声は、幾重にも反響し、しばらくの間、消えなかった。膝から、力が抜けそうになるのを、辛うじて堪える。
「に、20万アルク……!? お、お嬢様――ッ!! 『おかわり』は、もう、要りません――ッ!! 迎えに来てください――ッ!!」
その必死の叫びに応える者は――誰もいなかった。ただ、滝の音だけが、変わらず、轟々と響き続けている。虚しく空へと消えていくその声を、メア自身が、誰よりもよく分かっていた。
(お嬢様のことだ……。今頃、あのまま泣きながら屋敷に戻って、それきり、忘れておられるに違いない……! 私をこんな場所に置き去りに……!)
メアは、そう、内心で確信していた。あの主人が、感情の赴くまま、後先を考えずに突っ走る性分だということは、これまでの付き合いで、嫌というほど思い知らされている。迎えを期待するだけ無駄というものだった。空を見上げる。もう、日は随分と傾いている。焦りが、じわじわと、胸の奥を締め付けた。
そこへ、遠くの茂みから、満身創痍のルドラがよろよろと姿を現した。顔面には、大きく腫れ上がった痕がくっきりと、残っている。歩みは覚束なく、時折、体を支えるように、近くの岩へと手を伸ばしていた。服のあちこちには折れた木の枝や葉が絡みついている。
「痛でででで……! あの野郎……! 本気で、ぶん殴りやがったな……!」
ルドラは、そう、呻きながら、顎をさすった。指先に僅かに血が滲んでいる。その顔には、痛みと共に、どこか諦めにも似た、苦笑いが浮かんでいた。いつか、必ずこの借りは返してやる――そんな、遠い未来への誓いにも似た呟きが、口の中で、小さく、転がる。
だが、今、それよりも、優先すべきことがあった。ルドラは、ふと、思い出したように、メアの方を見た。その目に、悪戯めいた光が宿る。
「――あー、そういやぁ、メイドの姉ちゃん。大侯爵様、『夕食を食ったら、帰る』って、言ってたぜ?」
「は、はぃいいいいいい……!?」
メアの声が、裏返った。血の気が、瞬時に引いていく。頭の中で、何かが、音を立てて、崩れ落ちた。大侯爵閣下が、夕食後にお発ちになる――それはつまり、この場に留まっている限り、置いて行かれる、ということに、他ならない。
「急がねーと、置いてかれるぜ?」
ルドラが、あっさりと、そう、付け加える。その、あまりに軽い口調が、かえってメアの焦燥感を煽った。
「――『おかわり』、スタート……」
メアは、そう掠れた声で呟くと――次の瞬間、脱兎のごとく、走り出していた。その速さは、あのケーキ作りの場での、流れ弾と言っても過言ではない、「おかわり」ランニングで鍛え上げられた賜物だったのかもしれない。土埃を盛大に巻き上げながら、あっという間に、その姿は小さくなっていく。
「メアぁあああ!!」
ドゥルガーが、その背中に向けて、大きく、叫ぶ。
「この森、肉食系の魔獣、たくさん出るから、気をつけてねー!!」
その言葉に、メアは、一瞬だけ、ぴたりと、足を止めた。振り返ることすら、しない。だが、それも、ほんの一瞬だった。
すぐに、また、猛烈な勢いで走り出していった。荒野の向こうへ、一直線に。その背中を見送りながら、ルドラとドゥルガーは、しばし、顔を見合わせ――どちらからともなく、盛大に笑い出した。夕暮れの空に、その屈託のない笑い声だけが、いつまでも響き続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
四年後、タルタロスで再び共に過ごす約束を交わしたリゼルたち。
そしてソーマが講師を務めると知り、リゼルの学園生活は早くも薔薇色――
「ソーマ兄ぃ、婚約者、居るぜ?」
……薔薇色、終了。
泣きながらルドラを殴り飛ばし、メアまで置き去りにして帰ってしまいました。
次回、「大型Update」。




