Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 4-2 幼き英雄を称える街
激しかった武闘会から一夜。
アーシュラの街には、いつもの日常が戻っていた。
けれど、人々の中には昨夜の戦いが鮮烈に残っている。
偽りのドゥルガーを打ち倒し、ルドラとドゥルガーを相手に戦った小さな大侯爵令嬢。
昨日まで「お客様」だったリゼルを、街の人々は少し違った目で見始めていた。
そしてリゼルもまた――今日は令嬢の仮面を外して、街へ向かいます。
翌朝、アーシュラ侯爵邸の食堂には、香ばしい匂いが幾重にも満ちていた。焼きたてのパンの香ばしさ。炙られた肉の脂が、じゅうじゅうと爆ぜる音。大鍋でことこと煮込まれたスープから、白い湯気が絶えず立ち昇っている。壁際の窓は大きく開け放たれ、朝の涼やかな風が時折カーテンの裾を、そっと、揺らしていた。
窓の外では朝の光が、まだ、柔らかい。石畳の向こうから遠く鍛冶場の槌の音が規則正しく響いてくる。昨夜、あれほどの死闘が繰り広げられたとは、到底、思えないほどの穏やかな時間だった。
長机には、オルディアス、リゼル、カルガ、マヒーシャ、そして、ドゥルガーが、席についている。給仕たちが、皿を運ぶ足音だけが、規則正しく食堂に響いていた。ドゥルガーは、すでに3枚目のパンへと手を伸ばしている。
「オルディアス閣下におかれましては、昨夜は、ゆっくりと、お休みいただけましたかな」
カルガが、まず、そう、上座のオルディアスへと、丁重に声をかけた。大侯爵家の当主を迎える立場として、当然の気遣いだった。
「ああ、世話になった。戦場以外では、あれほどの見世物は、そうそう、拝めるものではないからな。……良い夜だった」
オルディアスが、そう、静かに返す。その一言だけで、食卓の空気に自然と格の重みが、加わった。
「あーあ」
ドゥルガーが、頬杖をつきながら、ぽつりと、そう、呟いた。
「あたし、おばちゃんと戦ってみたかったなぁ」
「――ディ、やめておけ」
リゼルが、間髪入れず、そう、たしなめた。その声には、珍しく、確かな真剣味が混じっている。
「あのお方は、不死鳥だ。あのお方の能力値を上回るだけの、瞬間的大火力がなければ、倒すことは、永遠に不可能だ」
「へえ、そうなんだ」
ドゥルガーは、あっさりと、そう、頷いた。だが、その一言を聞き逃さなかった者が1人いた。
「――リゼル」
オルディアスの声が、静かに、しかし、鋭く、響いた。
「お前、なぜ、そこまでキュマイラ閣下のことを知っている?」
「――ッ」
(や、やべぇ……! 調子に乗ってしまった……!)
リゼルの背筋に、冷たいものが走った。前世の記憶――あの、パンデモニウム・オンラインにおける、妖鳳公キュマイラの詳細な能力値。それを、あまりに当然のように口にしてしまっていた。
「は、ははは……」
リゼルは、努めて平静を装いながら笑ってみせた。
「ち、父上。闘技場に御来臨なされた、あの閣下のお姿が……その、文献に出てきた、伝説の不死鳥そのものでしたので……閣下が、その不死鳥なのかなぁーと、思いまして」
「ほほぅ?」
オルディアスは、片眉を僅かに上げた。娘のそのいかにも取ってつけたような言い訳に、興味を引かれた様子だった。
「では、その文献とやら、私にも読ませてくれ。何という、書物だ?」
「え、えっと……」
リゼルの、視線が、僅かに泳いだ。
「確か……禁書庫の、奥の奥にあった、青い、背表紙の……いや、黒だったかなぁ……?」
その、あまりに曖昧な答えに、オルディアスは、しばし、無言のまま娘の顔を見つめていた。だが、それ以上、深く追及することはしなかった。この娘が、はぐらかそうとしている時の、あの、独特の空気を、すでによく知っていたからだった。
その、微妙な間を、いち早く察したのだろう。カルガが、わざとらしいほど、明るい声で割って入った。
「はっはっ、書物の話はそれくらいにして。……さて、朝餉を、始めるといたしましょう」
「は……はい」
リゼルは、内心、ほっと、胸を撫で下ろしながら、そう応じた。それから、ふと、テーブルの一角――空いたままの席へと、視線を向ける。
「ソーマ様は、いらっしゃらないのですか……?」
リゼルは、そう、視線を空いた席へと向けたまま、尋ねた。その声には、努めて平静を装いながらも、隠しきれない僅かな落胆の色が滲んでいる。
マヒーシャが、それに気づいたのか、困ったように頬に手を当てた。
「あの子でしたら、朝から書斎に籠っておりますの」
「書斎に?」
「ええ。オルディアス様から頂いた、あのアンブロジアを、あの子は早速、口にいたしましたの。ですが、それからがいけませんわ」
マヒーシャは、そう言いながら、小さく肩を竦めた。母としての、いくらかの呆れと――それでも隠しきれない、慈しみとが、その声に滲んでいる。
「『これほどの秘薬の理を、解き明かさぬ手はない』などと申しまして、そのまま、部屋に閉じこもってしまいましたの。朝餉の呼びかけにも、生返事しか返ってこないとのことです」
「ほぅ」
オルディアスが、そこで初めて口を開いた。杯を静かに傾けながら、その目には興味深そうな、光が宿っている。
「贈った甲斐が、あったということだな」
「わーはっはっはっはっ!! まったく、困った長男です!」
カルガが、豪快に笑いながら、そう、付け加えた。
「あれは、幼い頃からああにございましてな。気になることがあると、寝食を忘れるのです。武の道にはまるで興味を示しませんが……あれはあれで、我が家の誇りにございますよ」
「秘薬で、傷を癒されたというのに……休むどころか、その効能を解き明かそうとなさるとは。いかにもソーマ様らしいお話にございますね」
リゼルは、そう返しながら、内心で頬を緩めた。傷を癒すための、あの金色の輝き。それを口にしてなお、単なる治療の結果として受け流さない。効能そのものを、解き明かすべき理として追いかけてしまう。
(――尊い。推せる!)
ふと、視線をテーブルの端へと巡らせる。もう一つ、姿の見えない者がいた。
「そういえば、ルドラ殿は?」
「あ、そういえば、見てないなぁ」
ドゥルガーが、パンを頬張ったまま、首を傾げた。頬にパン屑がついている。
「朝から姿を見ておりませんね」
カルガが、腕を組みながら、そう、答えた。
「まあ、あれのことだ。どうせ、どこぞで、勝手に体を動かしておるのだろう。放っておいて構わん」
その、あっさりとした物言いに、食卓に小さな笑いがこぼれる。だが、リゼルの内心では、その、あまりに気楽な様子と裏腹に、僅かな引っかかりが残った。昨夜の、あの武闘会での結末。ルドラのことだ。ただ、何もせずに心を休めていられるような性分だとは、到底、思えなかった。
だが、その空気が、一区切りついたところで、リゼルは静かにフォークを置いた。それから、椅子から降りると、テーブルを回り、カルガとマヒーシャの前へと進み出る。
膝を折り、深く、頭を、垂れた。
オルディアスは、その一部始終を杯を持つ手を静かに止めたまま、見守っていた。娘が、何を言おうとしているのか――その意図は、すでに察しがついている。だが、ここで口を挟むべきではない。これは、リゼル自身がけじめをつけるべき場だった。
「――カルガ閣下、マヒーシャ様」
その声には、これまでの、令嬢としての涼やかな響きとは、また違う、真摯な温度がこもっていた。
「改めて、御詫びを、申し上げます」
「リゼル嬢……?」
カルガが、怪訝そうに、フォークを皿の上へ静かに戻す。その視線が、真っ直ぐに、頭を垂れる少女へと注がれた。
「昨日、私は、貴家の闘技場を二度にわたり、破壊いたしました。あれは、私の未熟さと、感情の暴走が招いた結果にございます」
リゼルは、床をじっと見つめたまま続けた。両の拳が、膝の上で僅かに握られている。
「あのウォプラという者だけは、どうしても、許すことができませんでした。ですが、その怒りが、御家に多大な損害を与えた事実を変えるものではございません」
一拍、置いて。
「損害の額に応じて、しかるべき賠償をさせていただきたく存じます」
その申し出に、カルガは、一瞬、目を丸くした。それから――堪えきれなかったように、大きく豪快に笑い出した。その声は、食堂中に朗々と響き渡る。
「はっはっはっ! 賠償だと!? リゼル嬢、そのようなもの、要りませんぞ!」
「ですが……」
「よいですか、リゼル嬢」
カルガは、笑いを収めると、身を乗り出すようにして続けた。その目には、からかいの色ではなく、確かな誠意の色が宿っている。
「アーシュラの民にとって、武闘会というのは、ただの催しではございません。あれは祭りにございます。しかも、大侯爵家がお越しになり、妖鳳公閣下までもが、御降臨された。……あんな見世物、そうそう拝めるものではございませんぞ」
「それは……」
「壁の修繕費なら御案じなさいますな。すでに民の方から、少しずつ出資が集まっておりましてな。誰も彼もが、『あの伝説の一夜のために、進んで払う』と、言うておりますよ」
カルガは、そう言って、快活に笑った。
「むしろ、礼を言うのはこちらの方です。頭をお上げくだされ」
リゼルは、ゆっくりと、顔を上げた。その言葉を継ぐように、マヒーシャが、静かに口を開く。
「リゼル嬢。ディと、ソーマを、救ってくださったこと……改めて、御礼を、申します」
「マヒーシャ様……」
「あの日、あなたが、あの場にいなければ。ディの身に、ソーマの身に、どれほどのことが起きていたか……考えるだけで、今も胸が締め付けられます」
マヒーシャの瞳には、隠しきれない母としての深い情が揺れていた。細い指先が、テーブルの上で、そっと、震えている。
「うん! リゼル、ありがとね!」
ドゥルガーもまた、パンを皿へ置くと、満面の笑みで、そう、続けた。
「あんたが居てくれなかったら、あたし、絶対、負けてたもん。……ソーマ兄ぃのことも、守ってくれてありがとう」
「……礼には、及ばない」
リゼルは、そう、短く返した。それ以上、何を言えばよいのか、少しばかり分からなくなっていた。この地で受け取った、あまりにも真っ直ぐな感謝の言葉。それに、どう応えれば良いのか――前世でも、今世でも、あまり慣れていない類の温かさだった。
「カルガ殿、マヒーシャ殿」
オルディアスが、そこで静かに口を開いた。
「娘のこの度の無礼、寛大に受け止めて貰った事、感謝する。……まぁ、大侯爵としては、複雑だがね」
その一言に、リゼルは僅かに目を見開いた。滅多に面と向かって、そうした言葉をかけてくる父ではない。
「ヴァルクロア家は安泰でしょうな。わーはっはっはっはっ!!」
カルガが、そう言って豪快に笑った。オルディアスもまた、静かに目を細めている。
* * *
「――さて、リゼル嬢」
場の空気が、一段落したところで、カルガが、ふと、思い出したように、そう、切り出した。その顔には、どこか、そわそわとした少年のような期待の色が浮かんでいる。
「実は一つ、御覧に入れたいものがございましてな」
カルガが、そう、目配せをすると、給仕たちが、恭しく、大きな皿を運び入れてきた。皿の上に載っていたのは――艶やかな漆黒のケーキだった。表面に、うっすらと、光が反射している。まるで、磨き上げられた、黒曜石のようだった。
「これは……」
リゼルの目が、僅かに見開かれる。
「妻と、ディの、思いつきでしてな。御宅のショートケーキに、対抗できぬものか、と。……それで、当家の料理長と共に、あれこれ、試行錯誤しましてな。当地に自生する、ラーヴァカという木の実を使ってみたのです」
「ラーヴァカ、にございますか?」
「高温多湿な密林に育つ、低木でしてね。幹から直に暗赤色の楕円形の実を付けます。果肉は甘酸っぱく、我らアスラ族は、古くからそれを食してまいりましたの」
マヒーシャが、そう言葉を継いだ。
「ショートケーキのようには、どうにも、料理長も上手く再現できませんでした。ですが、あの実を練り込んでみましたところ……このように黒いケーキが出来上がりまして。料理長自身が味見をしましたら、これが、存外、美味しいと」
「いかがかな、リゼル嬢?」
カルガが、身を乗り出すようにして、そう尋ねた。
「見た目こそ、ショートケーキとは似ても似つかぬものになってしまいましたが……いかがでしょう?」
リゼルは、フォークを取ると、一口、それを口に運んだ。
その、瞬間だった。
濃厚な甘さと、仄かな苦味とが舌の上で複雑に絡み合う。舌先から、鼻の奥へと抜けていく、あの独特の香り。それは、前世の記憶にある、あの味わいと寸分違わなかった。
(――こ、これは……!)
リゼルの脳裏に、遠い記憶の欠片が、鮮やかに蘇る。誕生日に、自らへのささやかなご褒美として買い求めていた、あの、洋菓子。仕事終わりの、疲れた体に染み渡るような、あの甘さ。
(チョコレートケーキ……! まさか、ショートケーキから、チョコレートケーキを派生させるとは……恐るべし、アーシュラ侯爵領……!)
その内心の驚愕を、リゼルは表情には欠片も出さなかった。代わりに、静かに、しかし、確かな熱を込めて告げる。
「す、素晴らしい……! これは、いったい、どうやって――」
言いかけて、リゼルは、はっと、口を噤んだ。それから、居住まいを正す。
「……いえ、失礼いたしました。これは、貴家の新たな収入源となりましょう。……門外不出を強く推奨申し上げます」
その、あまりの真剣な物言いに、カルガとマヒーシャは、思わず顔を見合わせた。
「そ、そこまで、でございますか」
「はい。この味わいは、他家に、決して、渡してはなりません。もし、レシピを外に出されるおつもりがあるならば、必ず、然るべき契約を結ばれることを、お勧めいたします」
その、あまりに実務的な忠告に、カルガは、いくらか気圧されたように頷いた。
「な、なるほど……肝に、銘じておきましょう」
「娘の言う通りだ」
オルディアスもまた、自身の皿に取り分けられた、黒いケーキを一口、味わいながら、そう、付け加えた。
「……これは、確かに、只事ではない。カルガ殿、この味を易々と外に漏らすでないぞ」
「オルディアス閣下にまで、そう、仰っていただけるとは」
カルガは、いくらか面映ゆそうに、頬を掻いた。
そこへ、ドゥルガーが、無邪気に割り込んできた。
「あ、そうそう! ラーヴァカってね、本当は鍛冶場の裏のあの一角にしか生えてない実なんだよ! だから、採れる量、実はすっごい少ないの!」
「――ディ!」
カルガが、思わず声を荒らげた。
「今、貴重な秘伝の話をしておるのだぞ! 軽々しく、素材の由来まで明かすでない!」
「あ……ご、ごめん」
ドゥルガーが、慌てて首を竦める。だが、リゼルは、その様子を見ながら、静かに首を横に振った。
「ご心配、なさいませんよう」
「リゼル嬢……?」
「当家には、すでに、ショートケーキという確固たる税収がございます。……この、ラーヴァカのケーキが、いかに優れたものであろうとも、我が家の脅威にはなり得ません」
リゼルは、そう言って、静かに、微笑んだ。その笑みの奥で、しかし、赤い瞳だけが、冷静にそろばんを弾いていた。
* * *
朝食を終え、日が中天へと差し掛かった頃。窓から差し込む光も、朝のそれより、いくらか強さを増していた。リゼルは、ヴァルクロア領へ戻る前に、もう一度、街を見て回りたいと、オルディアスへ願い出た。
「街を、か」
オルディアスは、そう、繰り返しながら、娘の顔をじっと、見つめた。その視線には、真意を、確かめるような慎重さが滲んでいる。
「はい。昨日、ディに街を案内してもらった際は、私は、大侯爵家令嬢としての振る舞いに、努めておりました。……ですが、今の、この偽り無き姿でこの地の者たちと、言葉を交わしてみたいのです」
「噓偽り無きありのままのお前で、か――」
オルディアスは、しばし、無言のまま、考え込む。娘が、自らそう望んでいる。それを止める理由は、どこにもなかった。
「好きにしろ。だが、メアを必ず連れて行け」
「もちろんです」
控えていたメアが、その言葉に深く頭を下げた。
「あたしも行く!」
その場に突然現れたドゥルガーが、嬉しそうに手を挙げた。
「昨日は、案内役、頑張ったからね! 今日は、あたしも一緒に遊びたい気分!」
その、あまりに、屈託のない申し出に、オルディアスは、僅かに口元を緩めた。
* * *
昨日と同じ通りを今日も3人で歩いた。石畳を照らす午後の陽射しは、昨日と何も変わらない。鍛冶場の煙が、遠く、空へと真っ直ぐに立ち昇っている。商人たちの呼び込む声、荷馬車の車輪が、石畳を叩く音。街全体を包む、あの活気ある喧騒もまた、昨日と寸分違わなかった。
だが、そこを歩くリゼルの纏う空気は、まるで昨日と違っていた。
昨日の、あの、涼やかな微笑みと、丁寧な物腰。それは鳴りを潜め、代わりに、飾らない率直な表情が、そこにあった。歩幅すら、どこか大きく、迷いのないものへと変わっている。傍らを歩くメアは、そんな主人の変化を、時折、横目で窺いながら、荷物を抱え直していた。
「グラムさん、また来たよ!」
武具屋の店先で、ドゥルガーが、大きく手を振る。店主のグラムは、顔を上げるなり、目を丸くした。
「これは、ディ様。それに……昨日の姫様、で、ございますよね?」
「ご老人、昨日は世話になった」
リゼルは、そう言って、軽く頭を下げた。その口調に、グラムは明らかに戸惑いを見せた。
「あ、あの……姫様、その、お振る舞いが、昨日とは、随分と……」
「これが、嘘偽りない、本来の私でな。……不快に思わせたなら、申し訳ない」
「へ、へえ……」
グラムは、しばし、面食らった様子で口を半開きにしていた。だが、それも一瞬のこと。すぐに破顔した。目尻の皺が深く刻まれる。
「はっはっ、そりゃあ、いい。姫様、正直なところ、そっちの方が話しやすいですぜ」
「そう言ってもらえると、助かる」
リゼルは、小さく頷くと、軒先に並んだ、あの6腕用の籠手を、もう一度、手に取った。裏返し、留め具の作りを、じっと確かめる。金属の冷たさが、指先に伝わった。
「ご老人、この留め具のことだが。昨日、聞いた話を踏まえて、少し、考えてみた」
「へ?」
「上腕と中腕の可動域が干渉する箇所――ここを、こう、削れば、少しは耐久が、伸びるのではないか?」
その指摘に、グラムは目を大きく見開いた。しばし、籠手と、リゼルの顔とを、交互に見比べる。
「な……! 姫様、たった、一晩で、そこまでお考えに……!」
「長年、この道を極めてきたご老人の目には、到底、及ばないがな。雑談程度に、聞いてくれ」
リゼルは、そう言って、軽く、肩を竦めた。その様子を、ドゥルガーが、隣でにやにやと、眺めている。
「リゼル、あんたやっぱり、今の姿の方が、絶対、みんなに好かれるよ!」
「……そうか? そうだと、良いが」
その一言だけを、リゼルは返した。だが、僅かに口の端が緩んでいた。
* * *
次に足を止めたのは、肉屋の前だった。店先には、巨大な肉塊が幾つも吊るされ、朝から湯気の立つ鍋が置かれている。店主は、太い6腕で包丁を、振るいながら、リゼルを見るなり、豪快に笑った。
「おお、また来たか、姫様!」
「昨日は馳走になった」
リゼルは、短く、そう返した。その、素っ気ない物言いに、肉屋の親父は、一瞬、目を丸くしたが、すぐに、からからと、笑い出した。
「はっ、昨日とは、えらい変わりようだな! だが、そっちの方が話しやすくていいぜ!」
「昨日は、令嬢としての務めを果たしていただけだ。今日の私は、私自身の興味で来ている」
「そりゃあ、光栄なことで」
肉屋の親父は、そう言うと、串に刺した肉を、いくつか鉄板の上へと並べた。じゅう、という、香ばしい音が、立ち上る。
「そういえば、姫様。昨日は、ルドラ様のこと、色々、聞いていったろ?」
「ああ。あの後も、いくらか、考えることがあった」
「あの若様、口は悪いが、根っこは、優しいからな。あんたも、もう、気づいてるだろう」
「あぁ、あいつはいいヤツだ」
リゼルは、そう頷きながら、差し出された、焼きたての肉串を遠慮なく受け取った。一口、齧る。濃厚な香辛料の香りが、口いっぱいに広がった。
「美味いな、店主殿」
「そうだろう、そうだろう!」
肉屋の親父は、その、短くも、確かな評価に、満足げに、頷いた。
* * *
鍛冶場は、昨日と変わらず、熱気に満ちていた。炉の炎が、絶えず唸り、真っ赤に焼けた鉄が金床の上で、跳ねている。飛び散る火の粉が、朝の光の中で、一瞬だけ、橙色に瞬いては、消えていった。
あの、皺だらけの手を持つ老女は、リゼルの姿を見つけると、手を止めた。
「おや、姫様。今日は、また、随分と、様子が、違うね」
「これが、本来の私だ。気を、悪くしないでくれると助かる」
「悪くなんかしないよ。むしろ、そっちの方があたしも話し易いよ」
老女は、そう言うと、にやりと、笑った。手にした金槌を、軽く振ってみせる。
「昨日、話した、あの留め具のことだが」
リゼルは、そう、切り出した。
「今朝、グラム殿にも、同じ話を、してきた。上腕と、中腕の、可動域が、干渉する箇所を削れば、耐久が伸びるのではないか、と」
「グラムかい――あの、愚息にも、同じことを言ったのかい?」
「愚息……?」
その一言に、リゼルが、僅かに首を傾げる。老女はそれに気づいて、快活に笑った。
「言ってなかったかね。グラムは、あたしの、息子だよ」
「――そうだったのか」
リゼルは、その事実に、内心、僅かに驚きながらも、頷いた。道理で、その腕の確かさに、似通ったものを感じたわけだ。
「姫様のあの指摘は正しいよ。あたしも、前々から気になっていた箇所だ。……壊れる箇所が分かれば、改良も進む。ルドラ様は壊し方が派手だからね。腹は立つが、鍛冶屋泣かせで、鍛冶屋育てでも、ある」
「良い、御関係だ」
「はっ、そう言われると、悪くない」
老女は、そう言って、豪快に笑った。それから、ふと、思い出したように続ける。
「そういえば、ソーマ様もよくここに来るんだよ」
「ソーマ様が……?」
その名を耳にした瞬間、リゼルの纏う空気が、かなり変わった。
「ああ。武具は見ていかないけどね。金具の歴史とか、古い鍛冶の技法とか、そういうのを聞きに来る。あたしの若い頃の話を熱心に書き留めてくれてね」
「そうか……」
リゼルは、静かにその言葉を胸に留めた。武の家でありながら、知の柱もいる。悪くない。むしろ、理想的な均衡だった。
肉屋の前でも、鍛冶場でも、同じだった。リゼルは、飾らない言葉で感謝を告げ、率直な感想を口にした。領民たちは、最初こそ、その本当の物言いに戸惑いながらも――すぐに、その裏表のない態度に心を開いていった。
* * *
やがて、通りの向こうから、砂埃を巻き上げながら子供たちが駆け寄ってくる音が聞こえてきた。昨日、遠目にリゼルを見た者たちだろう。乾いた石畳を裸足やすり減った靴が、次々と踏み鳴らしていく。
「あ! 姫様だ!」
「今日も、来たー!」
子供たちが、我先にと集まってくる。
「君たちは今日も元気だな。実に良いことだ」
リゼルが、そう、短く声をかけると、子供たちの1人が、ふと、首を傾げた。
「あれ? 姫様、なんか、昨日と、喋り方、違わない?」
「グラムのおっちゃんも、そう言ってた!」
どうやら、すでに街の噂になっているらしい。リゼルは、その様子に、腕を組み、不敵に笑ってみせた。
「ふっふっふっ。これが、本当の私だ。……どうだ? カッコいいだろう?」
その、あまりに堂々とした問いかけに、子供たちは、しばし、きょとんとしていた。だが、それも一瞬のこと。
「か、カッコいい……!」
「なんか、強そう!」
「本物の姫様すっげぇー!」
口々に、そう、称賛の声が上がる。羨望と、憧れの色が、その瞳にたちまち宿っていった。その様子に、リゼルは満足げに頷く。
その中の何人かが、興奮した様子で、続けて口々に昨日の記憶を語り始めた。
「姫様、見たよ! あの、ニセモノのディ様をぶっ飛ばしたとこ!」
「あたしも見た! ルドラ様と、ディ様、2人まとめて、ボコってたよね!?」
「あの壁、粉々になってさぁ! すっごい音、したもん!」
「うちの父ちゃんなんて、腰、抜かしてたよ!」
その、口々に語られる、昨夜の光景に、子供たちの目は、これ以上ないほど輝いていた。羨望と、憧れの色が、はっきりと、その瞳に浮かんでいる。誰もが、自分が見た光景を、誰よりも先に、リゼル本人へ伝えたくて仕方がない様子だった。
リゼルは、その様子を、しばし、眺めていた。子供たちの飾らない真っ直ぐな賞賛。それは、これまで、聞き慣れてきた貴族社会の社交辞令めいた称賛とは、まるで質の違う、温かさを持っていた。
それから、僅かに口の端を上げる。
「ふふん。君たちは、やはり見どころがあるな」
その、満更でもない様子に、子供たちは、いっそう、盛り上がった。その中の1人の少年が、思い出したように木剣を勢いよく構えた。彼の名は、確か、トビィといった。
「姫様! 俺と、勝負しろよ!」
「あたしも!」
他の子供たちも、口々に、そう叫ぶ。木剣を、地面に突き立てる者。両の拳を構える者。誰もが目を輝かせながら、リゼルを取り囲んでいく。その勢いは、まるで小さな包囲網だった。
リゼルは、その様子をしばし、無言のまま見つめていた。1人、1人の、構えを目で追う。その動きには、まだ、幼さの残る拙さがあった。それでも、瞳の奥には、確かな闘志の芽が宿っている。それから静かに口を開く。
「今の君たちでは、無理だ」
その、あまりにも、あっさりとした一言に、子供たちが、一斉に、しゅんと、肩を落とした。
「え……」
「な、なんだよ、それ……」
「ひでぇー」
落胆の色が、たちまち、子供たちの顔に広がっていく。トビィなど、握っていた木剣をそっと、地面へと、下ろしかけていた。だが、リゼルは、それを見て取ると、なおも続けた。
「少なくとも、ルドラの半分くらいは、強くなれ」
「――え?」
「そうすれば、相手をしてやろう」
その言葉に、子供たちの目が、一斉に、瞬時に、輝きを取り戻した。地に落ちかけていた木剣が、再び勢いよく構え直される。
「ほ、本当か!?」
「本当だ。ルドラの半分だぞ。低いハードルだとは、思わないことだ」
「や、やってやる! 絶対、強くなる!」
「私が、一番に、なる!」
「俺だって、負けねぇぞ!」
子供たちが、興奮した様子で、口々に、そう、叫び始めた。その熱気は、瞬く間に通り一帯を包み込んでいく。その様子に、リゼルは、ふと、面白いものでも見つけたように、目を細める。この素朴な、向上心。前世の、あの、閉塞した日々には、決してなかったものだった。
「そこまで、頑張るというのなら」
リゼルは、そう、続けた。
「将来、強くなった暁には――ヴァルクロア大侯爵家で、雇ってやってもいい。もちろん、ショートケーキ食い放題だ」
「「「ショートケーキ食い放題ぇぇぇぇ!?」」」
子供たちの声が、綺麗に、揃って、跳ね上がった。目という目が、これ以上ないほど、輝いている。誰かが、「よし、今日から、毎日、素振り1,000回だ!」と、叫んでいた。
「ちょっ! リゼル!」
ドゥルガーが、慌てて、そう、割って入った。
「勝手に、ウチの子たちを勧誘しないでよ!」
「将来有望な人材の確保も、大侯爵家令嬢の務めだ。……早い者勝ちだぞ、ディ」
「あ……でも、ショートケーキ、食い放題……」
そう呟くドゥルガー自身の目もまた、微かに、揺れていた。その、あからさまな様子に、リゼルは悪戯っぽく、口の端を上げる。
「――ディ。お前も、雇ってやろうか?」
「へ?」
「お前なら、大歓迎だ」
リゼルは、そう言うと、腕を組み、なおも続けた。
「なんなら、私の嫁にしてやろう」
「お、お嬢様ぁ!?」
背後で控えていたメアが、思わず、素っ頓狂な声を、上げた。あまりの飛躍に、頬が引き攣っている。
「……嫁?」
ドゥルガーは、しばし、きょとんとした顔で、固まっていた。それから、じわじわと、頬を赤らめていく。だが、それも、一瞬のこと。すぐに、けらけらと、笑い出す。
「なにそれ! リゼル、面白すぎ!」
「本気だぞ」
「うそだぁ!」
「結納金ならそこいらの貴族家嫡男の倍以上用意しよう」
「うそだって! でも……まあ、リゼルになら、貰われても、いいかな」
最後の一言は、ほとんど、独り言のように、小さく、こぼれた。それに、気づいたのかどうか、リゼルは、何も、言わなかった。ただ、僅かに、口元を、緩めるだけだった。
その、あまりに気安いやり取りに、周囲で見ていた子供たちも、大人たちも、思わず、笑いに包まれた。メアだけが、主人の、この、掴みどころのないノリに、ただ、困惑した顔で、立ち尽くしている。
(お嬢様……本当に、何を、お考えなのでしょうか……)
賑やかな笑い声が、通りに、しばし、響き渡る。それが、ようやく、落ち着いた頃、リゼルは、ふと、真顔に戻ると、子供たちへと、視線を向けた。その表情の切り替わりの早さに、周囲の空気も、自然と、引き締まる。
「――ところで、ルドラが、どこにいるか、知らないかね?」
その問いに、先ほどまで、ルドラの武勇伝を口々に語っていた子供たちが、我先にと、答えた。
「若様なら、いつもの、崖のとこじゃない?」
「そうそう! 街から、随分と、離れてるけど!」
「崖?」
「滝と、岩場のある、鍛錬場だよ! 若様、時々、ふらっと、あそこへ、行くんだ。誰にも、邪魔されずに、体を、追い込みたい時に!」
「あたしも、1回だけ、見たことある! すっごい、汗、かいてて……なんか、鬼気迫る感じ、だったよ」
その話に、リゼルの瞳が、静かに、光を、宿した。あの、圧倒的な力の差を、見せつけられた後で、ただ、何もせずに、心を、休めていられるような性分ではない――その、当初の予感は、どうやら、正しかったらしい。
「――ディ、案内できるか」
「え? うん、できるけど……今から、行くの?」
ドゥルガーが、僅かに、目を、丸くした。太陽は、まだ、真上に、近い。
「行く」
リゼルは、そう、短く、答えた。その足取りには、すでに、迷いが、なかった。傍らで、メアが、慌てて、荷物を抱え直す。子供たちは、名残惜しそうに、その背中を見送りながらも、口々に、「絶対、強くなるから!」と、叫び続けていた。
その声を、背に受けながら、リゼルは、街の外れへと、足を、向けた。
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飾らない本来のリゼルも、どうやらアーシュラの人々には好評だったようです。
子供たちからは英雄扱いされ、将来有望な人材までちゃっかり勧誘。
ついでにドゥルガーまで嫁に勧誘する始末です。
そして最後に向かうのは――一人で鍛錬を続けているルドラのもと。
次回、「約束(いや、脅迫だろ)」。




