Ver.1 JUGGERNAUT Chapter 3-3 見定める者、試す者、挑む者
貴賓室に、静寂が落ちた。
その静寂を破ったのは、床に膝をつく音だった。オルディアスが、真っ先に、その場に跪く。膝を折るその動作には、一切の迷いがなかった。長年、宮廷という場に身を置いてきた者だけが持つ、条件反射に近い所作だった。
続いて、カルガ、マヒーシャも、間を置かず、深く頭を垂れた。武を誇るアスラ族の当主すら、この瞬間だけは、獣が捕食者を前にした時のような、本能的な服従を示していた。
メアもまた、突然の出来事に動揺しながらも、慌てて、その場に膝をつく。両手が、震えていた。何が起きたのか、正確には理解できていない。ただ、周囲の全員が、一斉に、頭を垂れたという事実だけが、彼女に、同じ姿勢を取らせていた。
闘技場の中央でも、同じことが起きていた。リゼルとソーマは、ほとんど同時に、その場へ跪いた。
言葉を交わす間もなく、体の方が、先に、その存在の格を理解していた。理屈ではない。魂の奥底に刻まれた、何か根源的な畏怖が、思考を追い越して、膝を折らせていた。
だが、ルドラとドゥルガーだけは、違った。
「……誰だ、ありゃ」
ルドラが、上の2本の腕だけを胸の前で組み、残る4本はだらりと垂らしたまま、貴賓室の方角へと視線を向けた。その目に浮かんでいたのは、恐れよりも、純粋な驚嘆だった。
人の姿を取ったばかりだというのに、その体からは、なおも、灼熱の炎そのものと見紛う、圧倒的な魔力の奔流が、絶え間なく、立ち上っていた。触れれば消し炭にされる――そう確信させるだけの、桁違いの気配。ただ、そこに立っているだけで、周囲の空気そのものが、じりじりと、焼け焦げていくような、そんな錯覚すら覚える。
そして、何より、ルドラの目を釘付けにしたのは、その足元だった。武を至上とし、誰にも膝を折らぬと謳われる、アスラ族の当主カルガ。
魔界屈指の名門、堕天使系高位魔族を束ねる長オルディアス。この2つの家の頂点に立つ者たちが、揃って地に額を擦りつけんばかりに、深く、深く、頭を垂れている。
生まれてこの方、父がこれほどまでに己を小さく見せる姿など見たことがなかった。それだけで、目の前の存在がどれほど常軌を逸したものであるか、理屈を超えて、骨の髄まで叩き込まれた。
「なんか、スゲェの来たな?」
「うわー! なんかカッコいいね、ルドラ兄ぃ!」
ドゥルガーもまた、目を輝かせながら、そう言った。跪くどころか、興味津々といった様子で、降り立ったばかりの人物を、じろじろと眺めている。頭を垂れるという発想そのものが、彼女の中にはまだ生まれていなかった。
「ディ、ルドラ殿」
リゼルは、跪いたまま、小声で、2人へ告げた。声には、抑えきれない切迫感が滲んでいる。
「あれは、七魔公が筆頭、妖鳳公キュマイラ閣下だ。すぐに、膝をつけ」
「へ? 七魔公……?」
ドゥルガーが、きょとんとした顔をする。その名を、聞いたことがないわけではなかった。だが、目の前の光景と、その名の重みとが、すぐには結びつかなかったらしい。
「妖鳳公……って、あの、七魔公の中でも、一番上の……?」
ルドラの声から、先ほどまでの余裕が、すっと、消えていった。武門の家に生まれた者として、七魔公という存在の意味を彼は理性で理解していた。感覚だけでなく、知識としても、その重さを、今、ようやく、噛み締めている。
2人は、慌ててその場に膝をついた。
その動きに連鎖するように、闘技場を埋め尽くしていた観客たちも、次々と席を立ち、頭を垂れていった。数千の人波が、まるで、一つの生き物のように、静かに頭を下げていく。旗も、鳴り物も、先ほどまでの喧騒も、全てが一瞬にして消え失せた。その光景は、圧巻の一言だった。
「大魔王殿の戯れで、妾も、汝等の児戯に付き合うてやるわ。感謝するがよい」
キュマイラは、扇を、緩やかに開きながら、そう告げた。その声は、決して大きくはなかったが、闘技場の隅々にまで、はっきりと届いた。
空を統べる、この妖鳳公にとって、宙に浮かぶもの、漂うものは、全て意のままだった。声もまた、例外ではない。距離も、高さも、意味を成さない。同時に、闘技場側からの声もまた、不思議と、貴賓室まではっきりと届いていた。彼女が望みさえすれば、その支配する空の内側では、誰の声も、まるですぐ隣で交わされているかのように届けられてしまう。
怒鳴らずとも、囁かずとも、彼女の間合いにある限り、隠しごとも、聞き逃しも、許されない。
「は、ははぁ!」
オルディアスが、額を床に近づけながら、そう応じる。
「このような粗忽な場にまで、妖鳳公閣下にお越しいただけるとは、誠に望外の喜びにございます!」
カルガもまた、震える声で、そう続けた。声だけでなく、両手までもが、細かく震えている。
「よいよい。多忙な妾にも、たまには余興で心を慰めるひと時が必要じゃ。して――オルディアスよ」
「ははぁ!」
「妾はいつまで、案山子のように突っ立っておればよいのかえ?」
その一言に、カルガが弾かれたように顔を上げた。額に汗が玉のように浮いている。
「も、申し訳ございません、妖鳳公閣下! 速やかに、特上のお席をご用意いたします!」
カルガはそう叫ぶと、周囲の従者たちへ鋭く目配せを送った。従者たちが慌ただしく貴賓室の奥へと駆けていく。
その慌てぶりを、離れた場所から眺めながら、ルドラは小さく呟いた。
「あんな親父殿、見たことねぇな」
「うん! あのおばちゃん、なんか、スッゴい強そーだしね!!」
ドゥルガーが、無邪気に、そう返す。その声には、恐れの色など、欠片もなかった。
その一言を、リゼルは、跪いたまま、内心で、青ざめて聞いていた。
(あー、死んだぁー……。パンデモニウム・オンラインと同じ数値なら、ここに居る全員、秒で閣下に処刑されるわぁー)
前世の記憶にある、あの妖鳳公のステータス。
数値の桁が、この魔界の誰とも比較にならなかったことをリゼルはまざまざと覚えていた。今この場の全員を合わせても、彼女の指先一本にすら、抗えないだろう。
「ディ、ルドラ……お願いだから、言葉には気をつけて。妖鳳公閣下の御前なんだから」
ソーマが、痛む体を押して、2人へ、小声でそう呼びかけた。叱るというより、案じるような、優しい声だった。
だが、もう、遅かった。
「――今、妾のことを、おばちゃん、と申したかえ?」
キュマイラの扇が、ぴたり、と止まった。その視線が鋭い目つきで、闘技場の一角――リゼル、ルドラ、ドゥルガー、ソーマの4人へと、ゆっくりと注がれる。空気そのものが瞬時に氷点下まで冷え込んだかのようだった。
「も、申し訳ございません、妖鳳公閣下! 娘が、大変な御無礼を!」
マヒーシャが、真っ青な顔で、そう詫びた。
「ディ、貴様、なんという口を……!」
カルガが、怒声を上げようとした。だが。
「やかましいぞ、小僧」
キュマイラの、ひと言。それだけで、カルガの声が、ぴたりと止まった。武を至上とするアスラ族の当主すら、その一喝に、全身を強張らせている。並の圧ではなかった。
* * *
程なくして、国宝の金銀宝石で飾られた豪奢な椅子が、貴賓室の中央に運び込まれた。彫刻の一つ一つに、稀少な魔石が埋め込まれ、座面には、目にも眩い織物が張られている。
同じく、これ以上ないほどに精緻な細工の施された酒盃も用意された。メアが、震える手で恐る恐る、その盃に酒を注いだ。零れぬよう、こぼれぬようにと、全神経をその一挙一動に集中させながら。
「ほう。良い酒じゃ」
腰を落ち着けたキュマイラは、盃をゆるりと傾けながら、そう呟いた。その一言に、メアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
キュマイラは、オルディアスとカルガへ、これまでの流れを、詳らかに語らせた。試合の経緯。ウォプラという男の存在。ドゥルガーの技が、次々と奪われていった一部始終。そして――データスティールと、ドレインハートという、2つの、得体の知れぬ力について。
オルディアスが努めて冷静に事の次第を語る間、カルガは、時折、言葉を詰まらせながら、それでも、包み隠さず全てを語った。娘が、どれほど無惨に痛めつけられたか。記憶の一部までも、奪われたこと。その全てを。
その話を聞くにつれ、キュマイラの纏う気配が、目に見えて、変わっていった。扇を持つ指先に、じわりと、力がこもる。爪の先が、木製の柄に、深く、食い込んでいった。
「――データスティールに、ドレインハート、とな」
その声にはこれまでのからかうような余裕が綺麗に消えていた。代わりに、重力を帯びたかのような魔力の波動が闘技場全体を押し潰すように満たしていく。
「あの、忌々しい外法を使う者が……まだ、おったのか」
キュマイラの呟きには、ただの怒りとは違う、何か、苦々しい記憶を噛み締めるような響きが混じっていた。その一言に、貴賓室の空気がさらに張り詰める。
(まだ、おった……? 閣下は、以前にも、データスティールとあのドレインハートとかいうパンデモニウム・オンラインには無かったスキルを見たことが……?)
リゼルは跪いたまま、その一言を聞き逃さなかった。だが、今、それを問い質す勇気はどこにもなかった。
魔力の低い観客たちは、肌を刺すような殺気にも似た魔力の奔流をまともに浴び、ばたばたと気を失っていった。悲鳴すら上げる間もなく、崩れ落ちていく。屈強なはずの兵士たちですら、顔面を蒼白にさせ、その場に片膝をついた。
リゼルもまた、跪いたまま額に冷や汗を滲ませていた。
(データスティールと、ドレインハート……ちっ! 生け取りにするか、最悪、やはり処刑をするべきだったな……)
「面白ぇ」
一方、ルドラはその魔力の暴風を真正面から浴びながら、なぜか瞳を輝かせていた。まだ若いながらも、武人としての血がそうさせるのかもしれない。
「わくわくするね!」
ドゥルガーもまた、恐れるどころか、期待に満ちた顔でその光景を見つめている。
「……大丈夫かな、これ」
ソーマだけが、なおも心臓を高鳴らせながら、そう小さく呟いた。冷や汗がこめかみを一筋、伝い落ちていく。
* * *
その、張り詰めた空気の最中だった。
「おばちゃーん!」
ドゥルガーの能天気な声が、響き渡った。
「リゼルったら、あたしと戦ってくれないって言うから、おばちゃん、あたしと戦ってよ!」
その一言に、貴賓室が――いや、闘技場全体が凍りついた。誰もが言葉を失う。息をすることさえ忘れたかのような、絶対的な沈黙だった。
「な――」
最初に我に返ったのは、カルガだった。その場に額を叩きつけるようにして、平伏する。あまりの勢いに、額が石畳に打ち付けられ、一筋、血が滲んだ。
「誠に、誠に、御無礼をッ! 娘の口を、二度と開かせぬよう、この場で、私が――!」
「私からも、伏してお詫び申し上げます……!」
マヒーシャもまた、床に額をこすりつけるようにして、深く、深く、頭を下げた。優雅な佇まいなど、もはやどこにもなかった。
オルディアスも、慌てて、カルガに合わせるように、深々と、頭を垂れる。自分の娘の不始末ではないというのに、この場の空気が、それを許さなかった。
キュマイラは、その阿鼻叫喚を、しばし、無言のまま見下ろしていた。それから扇を口元へゆるりと当てる。
「妾と、戯れたいと申すのかえ? アーシュラの令嬢は、ワンパクじゃのぉ? なぁ、オルディアスよ?」
「は、ははぁ!」
「お主の娘も、相当じゃと聞いておったが……アーシュラ侯爵の娘も、相当じゃな」
「誠に、御無礼……! どうか、わたくしの首でお許しを!」
カルガが、なおも額を床に擦りつけながらそう叫んだ。
「その方のムサ苦しい首など、眺めておっても目に毒じゃ」
キュマイラは、そう切り捨てると、視線をドゥルガーへと戻した。
「それより――のぉ、アーシュラの娘。其方の名は、なんと申したかえ?」
「え? あ! うん! ドゥルガーだよ!!」
「ディ! 口を慎め! このお方は――!」
「やかましいぞ、小僧。妾は、其方の娘と語ろうておる。邪魔じゃ」
「は、ははぁ!! し、失礼いたしました!」
カルガは、瞬時に、口を噤んだ。
「それで――ええっと、ドゥルガーじゃったな?」
「うん!」
「妾と戯れたいと申すのならば、条件がある」
キュマイラは、扇を緩やかに閉じた。パチン、という、小さな音が、やけにはっきりと響いた。
「ヴァルクロア大侯爵の娘と試合ぅて、勝ちを示すことじゃ。さすれば、少しばかり戯れてやろう」
「か、閣下……ッ!?」
オルディアスが、思わず、顔を上げた。
「リゼ……娘の、試合など、御身にご覧いただくほどのものでは……!」
「ほぅ?」
キュマイラの視線が、闘技場の外壁――蜘蛛の巣状に崩れた、アビスタイトの瓦礫が転がる方角へと、すっと、向いた。扇の先がその瓦礫を指し示す。
「魔界最高峰の鉱石、アビスタイトの瓦礫が、あちらこちらに転がっておるが。其方らには、取るに足らぬ些事なのかえ?」
「あ、あれは……」
オルディアスが、言葉に詰まる。反論の余地など、どこにもなかった。
そこへ、不意に割り込んだ声があった。
「ちょーっと、いいっすかねー?」
ルドラだった。跪いていたはずの膝を無造作に立て直す。誰の許しも待たず、片手を軽く挙げながら、平然と立ち上がった。
「な――ッ! ルドラ、貴様、閣下の御前で勝手に立つとは……!」
カルガが、思わず声を荒らげる。だが、ルドラはまるで意に介さぬ様子で続けた。
「ディは、すでに負けちまってるんで。俺様に、このヴァルクロアのお嬢様とやらせてもらえませんかねー?」
「え? ちょ! ルドラ兄ぃ! あたし、まだ負けてないもん! 今のは、ノーカンだよ!」
ドゥルガーが、慌てて、そう食い下がる。
「言い訳すんじゃねぇよ、ディ」
ルドラは、上の2本の腕だけを、胸の前で組んだまま、そう切り捨てた。
「雑魚でも、相手を舐めんなって、いつも言ってんだろ。変な技でお前はあの野郎に勝てなかった。その野郎を、ヴァルクロアのお嬢様は半殺しにした。……これが結果だ」
「うぅう……負けてないもん! あたしは、負けてないもん! ね?! リゼルも、そう思うよね?」
ドゥルガーが、涙目で、そう訴えてくる。リゼルは、しばし、その顔を見つめてから、静かに頷いた。
「確かに、ディは負けてはいない」
「でしょでしょ? だから、リゼルとは、あたしが決勝戦!」
「ふざけんな! じゃあ、俺様は、誰と戦えばいいんだよ?!」
「……壁?」
ドゥルガーが、そう呟きながら、アビスタイトの壁へと視線を向けた。
「ディ、ルドラも……少しだけ、落ち着いて。ね? 今は、キュマイラ閣下の御前なんだから」
ソーマが、困ったように微笑みながら、そう割って入る。声には、いつも通りの柔らかさがあった。
「よいよい。童の児戯に目くじらを立てるほど、妾は狭くはないわ」
キュマイラは、そう言ってくつくつと、喉を鳴らした。だが、その笑みが、ふと、意味深なものへと変わる。
「じゃが、そうなると、困ったのぉ、オルディアス?」
オルディアスの背筋に、冷たいものが、すっと走った。
(――嫌な予感がする)
その内心の呟きを表情には欠片も出さぬまま、彼はなんとか声を絞り出した。
「は! 何が、でございましょうか、閣下?」
「察しが悪いのぉ。戦さ場では大将軍と呼ばれる其方が呆けておっては、下々に示しがつかぬぞ」
「も、申し訳ございません!」
「アーシュラ侯爵の2人の童たちが其方の娘と試合ぅてみたい、と申しておる。……其方の娘、確か、もう1人おったのぉ? 呼んで参れ」
「は?」
「は?」
オルディアスと、リゼルの声が、ほとんど同時に、重なった。血の気が2人の顔から同時に引いていく。
「なんじゃ? 親子揃うて、呆けておるのかえ? 1対2では、具合が悪かろう?」
「お、恐れながら、閣下……」
オルディアスが、なんとか、言葉を絞り出そうとする。だが、その前に。
「妖鳳公閣下!」
リゼルが、オルディアスの言葉を遮り、声を張り上げた。
「私1人で、ルドラ殿とディ――いえ、ドゥルガー嬢との手合わせを望みます! どうか、許可を!!」
(エルミナなんかに来られてたまるか! あんな意味不明な姉にこんな場へ来られて、もしも、妖鳳公閣下の御不興を買ってみろ! 大魔王ドラコー陛下にお会いできる前にゲームオーバーだ!!)
赤い瞳の奥で、悲鳴のような焦りが渦を巻いていた。あの姉がこの場に現れることだけは、何としても、避けねばならなかった。
「おぉ、それは、愉快じゃ!」
キュマイラは、瞳を楽しげに細めた。
「うむ。許してやろう」
「おいおい、なんで俺様と1対1じゃねーんだよ!」
「そーだよー! リゼルとは、あたしが、決勝! 決勝!」
「黙っていろ、貴様ら!」
リゼルの一喝に、2人は、ぴたり、と口を噤んだ。だが、その目には、なおも不満の色がありありと浮かんでいた。
* * *
控え室にリゼルが運び込まれると、メアは真っ先に水桶と布を手に、駆け寄った。傷だらけの腕をそっと、拭っていく。その手つきは、丁寧で、けれど、隠しきれないほど震えていた。
オルディアスは、しばらくの間、無言のまま、その様子を見つめていた。娘の顔に刻まれた、幾筋もの傷。ドレスに滲んだ乾きかけの血。それらを、一つ一つ、目に焼き付けるように。
「痛むか」
「大したことは、ございません」
リゼルは、そう答えながら、拭われている腕をじっと見下ろしていた。オルディアスが、なおも、何か言葉を続けようとしたその時だった。控え室の扉が、静かに開いた。
「失礼いたします。手当てに、参りました」
姿を見せたのは、痛む体を押しながらも、なんとか、足を運んできたソーマだった。
「ソーマ様ぁ!」
その瞬間、リゼルの顔が、これ以上ないほどの満面の笑みへと一変した。先ほどまでの平坦な受け答えなど、嘘のように消えている。
「――ッ!?」
オルディアスとメアの驚いた声が、ほとんど同時に重なった。あまりの表情の切り替わりに、2人とも束の間、言葉を失っている。
「恐れながら、父上」
リゼルは、素早くオルディアスへと向き直った。
「ソーマ様と、大切なお話がございますので、少々、お静まり願えますでしょうか」
「は……?」
オルディアスが、呆気に取られたまま、そう漏らす。
その隙に、リゼルの視線が、今度はメアへとすっと移った。表情そのものは変わらない。だが、その目の奥には、はっきりとした殺気にも似た圧が宿っていた。
(――邪魔をするなら、殺す)
言葉にはしない。だが、その一瞥だけで、伝えるべきことは全て伝わっていた。
「ひっ……!!」
メアは、思わず小さな悲鳴を上げ、水桶を抱えたままその場で凍りついた。何も言わず、ただ、こくこくと、頷くしかない。
そして、リゼルは再びソーマへと向き直った。先ほどまでの剣呑な気配など、欠片も感じさせない、蕩けるような、笑顔だった。
「ソーマ様。わざわざ、御自ら、お運びいただけるとは……」
「いえ、これくらいは。……お怪我の具合、拝見しても?」
「はい……ソーマ様に癒していただけないと……リゼルは、痛くて、痛くて、泣いてしまいます」
先ほど、父には「大したことはございません」と、平然と言い放っていたはずの声とは、まるで別人だった。潤んだ瞳。震える声音。今にも涙がこぼれ落ちそうな、儚げな表情。
「お嬢様、先ほどオルディアス様には、大したことはなぁ――」
メアが、思わずそう口を挟みかけたその時だった。
「――ひっ!?」
メアの声が、途中で引き攣った悲鳴に変わった。ソーマからは決して見えない角度――リゼルの視線が、一瞬だけメアへと鋭く突き刺さっていたのだ。
(黙っていろ。今、余計なことを言えば、貴様でも始末する)
声にならないその脅しは、しかし、誰よりも雄弁にメアへと伝わっていた。
「な、なんでもございません! お嬢様、お大事に……!」
メアは、慌ててそう取り繕うと、そそくさと部屋の隅へと後退った。
「では、失礼いたします」
ソーマは、そう静かに断りを入れると、自身の痛む体をそっと屈めた。震える手を、リゼルの傷へとかざす。赤褐色の光が、優しく、その傷を、癒していった。
「ソーマ様……その、ご自分のお体は……」
リゼルは、そっと、そう、声をかけた。目の前で、痛みを堪えながら、なお屈み込むその姿を見ていられなかった。
「私のことは大丈夫ですから。……それより、リゼル嬢を、先に」
ソーマは、そう言って、力なく微笑んだ。その笑みに、リゼルは何かを言いかけて、しかし、結局、口を噤んだ。
今ここで無理に言葉を重ねても、この人はきっと聞き入れない。そのことを、この短い付き合いの中で、すでによく知っていた。
みるみるうちに、頬の傷が、腕の擦り傷が、綺麗に塞がっていく。その様子を、リゼルは頬を紅潮させながら、うっとりと、見つめていた。
「これで――」
治療が終わると、リゼルは両手を胸の前で、ぎゅっと、握りしめた。瞳が、これ以上ないほど、きらきらと輝いている。
「これで、ルドラ殿とドゥルガー嬢を、心置きなくぶち殺せます!」
「リゼル」
オルディアスが、間髪入れずそう割って入った。
「その2人は、ソーマ殿の、弟と、妹だぞ? ぶち殺してどうする」
「あ」
リゼルは、一瞬、真顔になった。それから、慌てて、取り繕うように言い直す。
「し、失礼いたしました。言葉の綾にございます。もちろん、手加減はいたします」
「本当か……?」
オルディアスの声には、なおも拭いきれない不安が滲んでいた。
「ははは……」
ソーマは、そんな2人のやり取りを困ったように乾いた笑いで受け流すしかなかった。額には、うっすらと、冷や汗が浮かんでいる。
「リゼル嬢、その、程々に、お願いしますね……。2人とも、私の大事な弟と妹ですので」
「承知いたしました、ソーマ様。骨の1、2本で、留めておきます」
「それも、十分、酷いのでは……」
ソーマの乾いた笑いが、いっそう、深くなった。だが、その顔には、この少々物騒な令嬢に対する確かな親しみもまた滲んでいた。
* * *
ソーマが、一礼して、控え室を後にすると、部屋には再び静けさが戻ってきた。オルディアスは、しばし、閉じられた扉を無言のまま見つめていた。それから、深く長い息を吐き出す。
(ぶち殺せます、か……)
先ほどの、あの屈託のない笑顔と物騒な一言とが脳裏にこびりついていた。娘は、ソーマの前でだけ、まるで年相応の少女のように笑う。だが、その口から零れる言葉の端々には、やはり、年相応とは到底思えない、剣呑さが、常に潜んでいる。
その落差こそが、オルディアスにとっては何よりも不気味だった。だが、それとはまた別に、ふと、素朴な疑問が頭をもたげた。
「――待て。リゼル。お前は、回復魔法も使えるだろう。……なぜ、わざわざソーマ殿に、治療魔法を使わせたのだ?」
その問いに、リゼルは涼しい顔で答えた。
「父上、フラグにございます」
「は? ふらぐ? 旗が、どうした?」
オルディアスが、心底、分からない、といった顔で、そう聞き返す。
「未来への、可能性ということにございます」
「どういうことだ? さっぱり分らんぞ」
「父上。4歳の可愛い愛娘の無限の未来を勘繰るのは、無粋というものにございます」
リゼルは、そう言い切ると、それ以上の説明を頑として拒んだ。オルディアスは、なおも、釈然としない顔のまま、それでもこれ以上の追及することを諦めた。この娘に、真っ向から言葉で勝てた試しなど、片手の指で足りるほどしかなかった。
その傍らで、メアは、ふと、別のことを思い出していた。つい先日――お嬢様が、姉君付きの侍女、ゼノヴィアを、魔力操作一つで一方的に叩きのめしたあの光景を。
(お嬢様のあの強さは、確かに規格外だった。……でも)
「お嬢様」
メアは、思わず、そう声を上げた。
「ルドラ様と、ドゥルガー様は、ゼノヴィアさんよりも遥かにお強いと思います。ですから、くれぐれも……くれぐれも、ご無理は……」
その声は、次第に震え、掠れていった。最後には、堪えきれなくなったように、大粒の涙が、ぽろぽろと、零れ落ちる。
「メア」
リゼルは、そんなメアを静かに見つめた。口元に小さな、しかし、確かな、自信を湛えた、笑みが浮かぶ。
「安心しろ、メア。お前の主人は、お前が思うよりも遥かに――強い!」
その一言と共に、リゼルの周囲に、いくつもの小さな光の球が浮かび上がった。
赤々と燃える、炎の球体。青白く、凍てつく、氷の球体。滔々と渦を巻く、水の球体。重く、鈍い光を放つ、土の球体。闇そのものを、凝縮したような、黒い球体。そして、バチバチと、紫電を纏う、雷の球体。
6つの異なる属性の魔力が、今にも爆ぜそうな、危うい均衡を保ちながら、リゼルの周囲を、まるで、忠実な従者のように、ゆったりと、周回していた。
「な――」
オルディアスは、思わず、椅子から、腰を浮かせた。
「まさか、お前……多属性魔法まで、使えたのか……!?」
その声には、驚愕を通り越した、ほとんど放心に近い響きが混じっていた。1つの属性を極めるだけでも生半可な修練では到底及ばない。それを、複数、それも、これほど自在に操ってみせる。並の魔導師であれば、生涯をかけても辿り着けぬ領域だった。
(私は……この娘の、いったい何を、これまで、見てきたというのだ)
オルディアスは、内心で、そう呟きながら、深く、深く、自分自身に、呆れ果てていた。娘として、慈しんできたつもりのこの4年間。その実、自分は、この娘のほんの表層しか知らなかったのかもしれない。
* * *
闘技場に再びリゼルの姿が現れた。
対峙するは、ルドラとドゥルガー。ルドラとドゥルガーの兄であるソーマの手により、この場に立つ3人――ルドラ、ドゥルガー、そして、リゼルまでもが、肉体的にも、精神的にも、傷という傷はすでに無きものとされていた。ウォプラとの一戦で本当の意味で削られたのは、それぞれの魔力のみ。それすらも、まだ、十分に残っている。
この幼き令嬢の皮を被った、底知れぬ小さな魔王――そう呼ぶべき相手に対して、体力や魔力を出し惜しみするような真似は、もはや許されなかった。ルドラも、ドゥルガーも、口には出さずとも、2人は同じことを考えていた。
だからこそ、2人の目には、一切の手加減の色がなかった。武を至上とするアーシュラ家の子として、それは、当然の礼儀でもあった。
ルドラは、額に紫水晶を戴いた金の帯を締め、上半身には、裾の裂けた紫紺の戦衣を無造作に纏っていた。腕輪と足環が、6本の腕と、素足の踝でちらちらと金色に光っている。
ドゥルガーもまた、紫と紅、そして深緑の裾を幾重にも重ねた、動きやすさを重視した意匠の装束に身を包み、4本の腕には、それぞれ、三日月剣と、棘のついたアビスタイトの拳甲がしっかりと握られていた。
一方、リゼルの黒紅のドレスは、幾筋もの金の刺繍と、宝石の連なりで飾られている。背には、まだ、幼さの残る、小さな蝙蝠の翼。年端もいかぬはずのその出で立ちが、これから始まる死闘とはあまりに不釣り合いに見えた。
「悪ぃな、お嬢様。手加減はしねぇぞ?」
ルドラが、6本の腕を、それぞれ異なる構えで持ち上げながらそう言った。挑発めいた、それでいて、どこか、対等な相手を認めるような笑みだった。
その呼び方に、リゼルは僅かに片眉を上げた。
「望むところだ――あと、お嬢様ではない。私はリゼルだ」
「あぁ? なんだよ突然?」
「私のことは、リゼルと呼べ、ルドラ殿」
短く、そう言い放つ。令嬢としての体裁など、もはやどうでもよかった。
パンデモニウム・オンライン――あの、遠い日々の記憶が、ふと、脳裏を掠める。最初に手を組んだ相棒が、ルドラだった。軽口ばかりが先に立つ、口の悪いNPCだった。それでも、いざ、剣戟の只中に身を置けば、これほど頼もしい背中は他になかった。何度、その存在に、命を救われたことか。
もっとも、ここはあの画面の向こうに広がっていた、あの世界ではない。血が流れ、痛みが刻まれる、正真正銘の現実だ。目の前に立つルドラもまた、あの悪神の気まぐれが生み出した、まったく別の世界に生きる、まったくの別人なのかもしれない。同じ魂を宿す者なのか、それとも、ただ、同じ輪郭を纏いながら育っていく、似て非なる何かなのか――。
それでも――あの日、黒瀬真璃亜が、唯一無二の友として、その背を預けた男と同じ者であれ、違う者であれ、この目の前に立つ相手が、自分のことを他人行儀にお嬢様などと呼ぶことだけは、どうにも胸の奥がざらつくほど気に食わなかった。
その一言に、ルドラは、一瞬、目を丸くした。それから、堪えきれない、というように、大きく笑い出す。
「あーはっはっはっ! やっぱ、あんた、最高だぜ!」
闘気を纏った体を、なおも、揺らしながら、彼は、6本の腕を大きく広げた。
「なら、俺様のことも、ルドラと呼べや。堅苦しいのは性に合わねぇ」
「ずるーい! ルドラ兄ぃだけ!?」
ドゥルガーが、頬を膨らませながら、勢いよく、割り込んできた。4本の腕を、ぶんぶんと、大きく振り回している。
「あたしにも、なんかちょうだいよ! ルドラ兄ぃだけ、ズルい!」
「――何が望みだ?」
「んーと……そうだ! あたしのことも、ちゃんと、『友達』って、呼んでよ!」
「――いいだろう。お前は、私の友だ、ディ」
「うん! それでいい!」
ドゥルガーは、満足げに、にっこりと、笑った。太陽のような、屈託のない、その笑顔に、殺気だった空気がほんの一瞬、緩む。
「へへっ、これで、あたしも、リゼルのお友達だね!」
ドゥルガーは、照れ臭そうに、そう付け加えた。その、あまりに気安いやり取りに、周囲で見守っていた観客たちの間からも、思わず小さな笑いが漏れる。
これから、命のやり取りにも等しい、死闘が始まろうとしている。そうとは、到底思えない。ほんの些細な名前のやり取り一つで、無邪気に笑い合う、年相応の子供たちの姿が、そこにはあった。
だが――。
「――では始めようか、ルドラ、ディ」
リゼルが、そう静かに、頷いた、次の瞬間だった。
先ほどまでの和やかな空気が、嘘のように消え失せる。3人の纏う気配が、一斉に張り詰めた。笑顔はそのままに、瞳の奥だけが、剣呑な光を宿していく。子供らしい無邪気さと、命を懸けた闘志。その、あまりに大きな落差が、闘技場の空気そのものを一変させていた。
魔力はまだ十分に残っている。だが、それ以上に、闘志がいささかも衰えていなかった。
審判の合図と共に、3人は、同時に地を蹴った。
* * *
「三日月乱舞――ッ!」
ドゥルガーの声が、真っ先に響き渡った。4本の腕に握られた2振りの三日月剣が、独楽のような回転と共に、円弧を描く。左右から、同時にリゼルの首筋を狙う鋭い斬撃だった。
観客席のあちこちから、「ディ様ぁ!」「がんばれー!」という、屈託のない声援が飛んだ。裏表のないその明るさゆえに、この地の民から老いも若きも分け隔てなく慕われている証だった。
「――思っていたより速いな、ディ」
リゼルは、そう軽口を叩きながら、迫る刃を、見据えた。
だが、それだけでは、終わらなかった。ドゥルガーの背後から、間髪入れずにルドラの拳が迫る。
「剛拳裂破――ッ!」
その一声と共に、6本の腕のうち、2本が、稲妻の速さでリゼルの側面を殺到した。込められた力そのものが、これまでとは明らかに桁が違っていた。
「――ッ!」
リゼルは、咄嗟に魔力を身体能力へと変換した。ドゥルガーの三日月剣を体を捻って紙一重で回避する。だが、避けきれなかったルドラの拳の一つが脇腹を深く抉った。
「がっ……ッ!」
小さな体が、大きく、後方へとよろめく。だが、リゼルはそこで倒れなかった。踏みとどまった足で逆に地を蹴り返す。
その光景を、闘技場の端――医療班の天幕の傍らから、ソーマは痛む体を庇いながら、じっと見つめていた。
(ディも、ルドラも……そして、リゼル嬢も。誰一人、欠けてほしくない)
剣を振るえぬ己には、こうして見守ることしかできない。それでも、祈るような気持ちで、その拳を静かに握りしめていた。
「ほう……。ルドラの剛拳裂破を、まともに受けて、なお、立つか」
貴賓室で、カルガが思わずそう漏らした。その声には、隠しきれぬ、驚嘆が滲んでいる。
「面白い小娘じゃ。もっと童を楽しませてたもれ」
キュマイラもまた、扇の陰で僅かに口の端を上げていた。
「――出でよ、デスブリンガー」
リゼルの右手に、暗紫色の魔力が渦を巻きながら収束していく。それは、やがて一振りの剣の形を取った。ただの武器ではない。禍々しい魔力そのものが、刃の形に凝り固まったような、不気味な輝きを放つその剣。
「魔力で、剣まで練り上げるのか……」
オルディアスが、思わずそう呟いた。娘の底知れなさを、また一つ、思い知らされた顔だった。
体勢を崩したルドラの喉元へ、狙いを定め、一気に、踏み込む。だが。
「――甘ぇ。金剛羅刹――ッ!」
ルドラは、その一撃を残る4本の腕のうち、2本であっさりと受け止めた。腕そのものに纏わせた闘気が、まるで盾のように刃の勢いを殺していく。金属同士がぶつかるような、硬質な音が響いた。
「羅刹双牙――ッ!」
その隙を、ドゥルガーが見逃さなかった。4本の腕のうち、2本に纏っていた三日月剣を瞬時に鞘へと収める。代わりに、その手にアビスタイトの拳甲がするりと装着された。剣から拳へ――武器を持ち替える、その一連の動作にすら一切の無駄がない。唸りを上げる拳がリゼルの背後から突き出される。逃げ場のない完璧な連携だった。
「へへっ、リゼル、隙あり!」
「隙ありなのは、そちらだ」
リゼルは、咄嗟に体を沈めた。頭上をドゥルガーの拳が掠める。だが、その隙にルドラの残る2本の腕が、下から掬い上げるように迫ってきていた。
「六道滅砕撃――ッ!」
その掛け声と共に、6本の腕全てが、まるで意志を持つ別々の生き物のように、同時に動き出す。左右から、上下から、逃げ場のない波状の攻撃だった。
だが、その猛攻の合間を縫うように、ドゥルガーもまた間髪入れず、追撃を仕掛けていた。兄の連撃で僅かに崩れたリゼルの体勢――その隙を、彼女は決して見逃さない。4本の腕が、それぞれ、独自の軌道を描きながら、剣と拳を、交互に、叩き込んでいく。
「まだまだ、続くよぉ!」
「――くっ!」
両腕を交差させ、デスブリンガーの刃でその一撃を真正面から受け止める。衝撃で、両足が砂に深くめり込んだ。骨が軋む鈍い痛みが、全身を貫く。
それでも、リゼルは、耐えた。歯を食いしばり、押し返す。
「まだ、まだだ……!」
血の滲む口元を、袖で拭いながら、なおも前へと踏み出した。激しい応酬に、魔力は確かに削られ始めている。だが、闘志だけは尽きることを知らなかった。
「――奈落地烈、ネザークラッシュ」
リゼルが、地面へ静かに手をかざす。次の瞬間、砂の下から幾本もの黒い岩の尖塔が、まるで、獣の牙のように突き上げてきた。
「うおっ――!?」
ルドラが、咄嗟に跳び退る。だが、完全には避けきれなかった。突き上げた岩の一本が脛を掠め、その体勢を僅かに崩させる。
「地面から、こんなものまで……! いったい、どんだけ引き出しあるんだよ……!」
* * *
「円月裂空――ッ!」
リゼルと出会う前、密かに稽古を重ねてきた、まだ、誰にも見せたことのない一手だった。
上手くいった試しは一度もない。だが、この命のやり取りにも似た緊張感が、かえって体を研ぎ澄ませていた。ドゥルガーが、新たな構えと共に、そう叫ぶ。2振りの三日月剣が、今度は交差するように逆方向から、同時に振り抜かれた。1つの斬撃ではない、2つの独立した軌道が、リゼルの左右から同時に襲いかかる。
「どう、リゼル! これ、あたしの、隠し技なんだよ! 今、初めてちゃんと決まった!」
「悪くない。だが、まだ、粗が残っているぞ」
「く――ッ!」
リゼルは、そう軽口を返しながら、デスブリンガーで片方を受け流し、もう片方を、紙一重でかわした。だが、避けた先には、すでにルドラの姿があった。
「天崩雷殺――ッ!」
6本のうち、2本の腕が地面を強く踏みしめ、残る4本が、その勢いを螺旋を描くように、拳へと乗せる。まるで、竜巻のような、変則的な連打が、リゼルの体を容赦なく打ち据えた。
「がはッ……!」
息が、詰まる。だが、リゼルは、なおも退かなかった。デスブリンガーを逆手に持ち替え、刃に追加の魔力を注ぎ込む。
「――ワームブレイカー」
その一言と共に、重力そのものが刃の切っ先へと一点に収束していく。放たれた不可視の奔流が、空間を軋ませながらルドラへと一直線に突き進んだ。避けた、はずだった。だが、掠めただけの左肩に、鈍い衝撃が深々と食い込む。骨まで砕けはしなかった。それでも、腕の感覚が一瞬飛んだ。
(直撃していれば、ただでは済まなかったな)
「ぐ、があッ……! なんだ、今の……! 当たってすら、いねぇのに……!」
「重力を、一点に、収束させていらっしゃるのかしら……。恐ろしい制御力ですわ」
貴賓室で、マヒーシャがそう零した。声には、母としての心配と、術者としての純粋な感嘆とが入り混じっていた。やはり彼女もアーシュラに名を連ねることはある。種族差はあるが、並みの魔族の母親ならば我が子が傷ついたら心穏やかではいられない。だがマヒーシャは息子への心配と同時に、対戦相手である堕天使の少女の異常なる魔力に関心の半分は持っていかれた。
「油断すれば、この程度の代償では済まないぞ」
リゼルは、そう言い放ちながら、追撃の姿勢を、崩さなかった。呻くルドラへ向けて、右手を、翳す。
「バアルの投擲」
紫電を纏った、細長い雷撃が、鞭のようにしなりながら、ルドラの体へと、叩き込まれた。
「ぐああッ……!」
ルドラの体が、痙攣したように、大きく、跳ねる。
「ルドラ兄ぃ……!」
ドゥルガーの声に、一瞬、鋭い心配の色が走った。だが、すぐに兄が自らの足で、なんとか踏みとどまったのを見て取ると、その顔つきが、一転、闘志を宿したものへと、変わる。
「――よくも、兄ぃに!」
バアルの投擲は生前の世界で言う、オリンピック競技のいわゆる槍投げだ。戦場では自らの獲物を投げる馬鹿は居ない。しかし、バアルの投擲はリゼルの魔力で生み出された雷属性の魔力の槍を投擲する魔法によるスキルだ。リゼルの魔力が尽きない限り、何度でも使える。だが、このスキルには威力の代償に致命的な欠陥がある。投擲後、必ずスキが生まれる。
リゼルは前世でルドラがNPCだった頃、ルドラと戦場を駆ける時は、このスキルを乱用した。何故ならば、このスキルの最大の魅力は一定時間相手を感電させ動きを封じることが可能だからだ。投擲後、リゼルは一定時間のリキャストタイムに縛られる。だが、当時はルドラが傍らにいた。だからリゼルにリキャストタイムが発生しても、ルドラが感電した相手を叩き潰してくれる。
リゼルは当時の記憶の残滓を捨てられずにいた。
当たり前だ! リゼルが積み上げてきた パーフェクト・ワン あの輝かしい記憶を残滓になどしてたまるものか!! リゼルはここがパンデモニウム・オンラインではない異世界であるというのに、絶妙なタイミングでルドラが獲物の如く目の前にいたことに冷静さを欠いてしまい、ついうっかりリキャストタイムの長いバアルの投擲を使ってしまった。
その隙を、ドゥルガーが、見逃すはずもなかった。
「へへーんだ、リゼル! ついにスキありだよ!! 月輪裂破――ッ!」
これまでにない速さで、ドゥルガーの体が、地を這うように、間合いを詰めてくる。低く沈めた姿勢のまま、まるで、地面そのものを、滑るように。4本の腕に握られた武器が、目にも留まらぬ速さで、次々と、繰り出された。
剣。拳。剣。拳。連続する斬撃と打撃の嵐に、リゼルは、防御に徹するほかなかった。デスブリンガーの刃が、幾度も火花を散らす。一撃ごとに、腕が痺れていく。並の相手であれば、この時点で意識を刈り取られていてもおかしくない密度だった。
「まだまだぁ! 残月乱舞――ッ!」
ドゥルガーの猛攻が、さらに勢いを増す。4本の腕全てが、まるで独立した生き物のように、それぞれの軌道を描きながら、リゼルへと殺到した。
「――ぐっ……!」
防ぎきれなかった一撃が、頬を浅く裂く。だが、リゼルの瞳に、恐れの色は微塵もなかった。
「これで、フィニッシュだよ――修羅月影――ッ!」
連撃の締めくくりとばかりに、ドゥルガーは2振りの三日月剣を、一斉に真上から振り下ろした。まるで満ちた月そのものが、そのまま刃と化して、降り注ぐかのような渾身の一撃だった。
「読めているぞ!」
リゼルは、そう短く呟くと、デスブリンガーを、真上に構え、その全ての斬撃を真正面から受け止めた。
ガギィンッ――これまでで、最も重い金属音が闘技場に木霊する。両者、拮抗する力の中で、互いの瞳が至近距離で交わった。
「――やるじゃん」
「そちらこそ」
* * *
「――影縛りの呪縛、シャドウバインド」
リゼルは、片手をそっと地面へとかざした。刹那、ドゥルガーとルドラの視界そのものを覆うように黒く歪んだ影が、まるで霧のように噴き上がる。
「な、なんだこれ……!? 目の前が、真っ暗に……!」
ルドラの視界が、一瞬にして闇に飲み込まれた。ドゥルガーもまた、同様に、目の前の光景を完全に見失う。ほんの一瞬――だが、この戦いにおいては、致命的な一瞬だった。
「――冥風絶刃、アビスゲイル」
リゼルの周囲に、漆黒の風が渦を巻きながら、吹き荒れた。黒く眩く、また禍々しく輝きを放つ無数の風の刃が、その渦から次々と放たれていく。
「な――」
ルドラとドゥルガーの目に映ったのは、黒く輝く刃が四方八方から、まるで意志を持つかのように絶え間なく襲いかかってくる光景だった。
「うおおおッ……!」
「きゃあッ……!」
躱す間もなく、無数の黒き風刃が、2人の体を容赦なく切り刻んだ。鋭い痛みが、幾度も、幾度も、続けざまに走る。
「影で、視界を奪い、風の刃で、畳みかける、か……。あの歳で、これほどの、搦め手を……」
キュマイラが、扇を揺らしながら、そう呟いた。その声には、からかいの色よりも、純粋な評価の色の方が濃く滲んでいた。
「……恐れ入ります、妖鳳公閣下」
オルディアスが、複雑な表情のまま、そう応じるのが精一杯だった。誇らしさと、底知れなさへの戸惑いとが、同時にその声に滲んでいる。
光弾の雨を、まともに浴びたドゥルガーは、膝からその場に崩れ落ちていた。意識こそ辛うじて保っている。だが、指先一本動かすのも億劫なほどの消耗だった。
「く……っ、まだ……あたしは……」
掠れた声で、そう、呟く。それでも、体は言うことを聞かなかった。
「無理をするな、ディ。……お前が、立てなくとも、恥ではない」
リゼルは、そう、短く声をかけた。皮肉でも、憐れみでもない、ただの、事実としての労りだった。
「や……やだ……」
ドゥルガーは、震える腕で、なおも地面を押し返そうとしていた。
「あたし、まだ……リゼルと、ちゃんと、戦えていないもん……ここで、伸びたままなんて、絶対、嫌だ……」
「……そうか」
リゼルは、その意地に、僅かに目を細めた。負けん気の強さも、諦めの悪さも、この短い付き合いの中で、すでによく知っている。
「なら、立て。中途半端に終わらせるのは、私も、望むところではない」
「……うん」
ドゥルガーは、小さく、頷いた。その目に、消えかけていた光が、再び灯る。
一方、視界を覆っていた闇が、ようやく晴れた瞬間、ルドラの瞳が爛々と輝いた。
「修羅顕現――ッ!」
全身から、赤く燃えるような闘気が、再び噴き上がる。纏う気配そのものが、一段、跳ね上がった。
「ディに、手ぇ出すんじゃねぇ! 阿修羅断罪――ッ!」
6本の腕全てが、統率された一つの意志のように、リゼルへと殺到した。防御も、回避も、間に合わない圧倒的な連撃だった。
「――ぐぁあッ……!」
為す術なく、その全てを浴びる。小さな体が、まるで、木の葉のように、宙を舞った。そのまま、砂の上を幾度も転がっていく。手放したデスブリンガーが、砂に突き刺さり、そのまま霧のように消えていった。
闘技場のあちこちから、悲鳴にも似た、どよめきが上がった。誰もが、決着がついたと、思ったに違いない。
だが、そこで、終わらなかった。
「まだ、終わってねぇぞ」
ルドラは、そう低く呟くと、倒れ伏したリゼルへ大股で詰め寄った。裂けた紫紺の戦衣はすでにあちこちが血に染まっている。素足も、幾筋もの擦り傷に、赤く汚れていた。それでも、その足取りに迷いは欠片もなかった。6本のうちの1本が、細い首筋を無造作に掴み上げる。
「ぐ……ッ……!」
小さな体が、宙に吊り上げられた。息が詰まる。だが、ルドラはそれだけでは終わらせなかった。
「舐めんじゃねぇぞ、こら――ッ!」
その怒声と共に、掴んだ首をそのままアビスタイトの壁へ叩きつける。ゴンッ、という、鈍く、重い音が響いた。それだけでは終わらない。二度、三度――幾度も、幾度も、容赦なくその体を壁へと打ちつけていく。
「――ッ……があッ……!」
声にならない呻きが、漏れる。視界が、白く、明滅した。それでも意識だけは辛うじて繋ぎ止めていた。
「リゼル嬢――!」
医療班の天幕の傍らで、ソーマが思わずそう声を上げた。今にも駆け出しそうになるその足をしかし、己自身の理性が辛うじて押し留める。
(今、私が飛び出したところで、何ができる。剣も振るえぬこの身では……かえって、リゼル嬢の足手まといになるだけだ)
その、歯痒いまでの無力さに拳が震えた。それでも、その目は闘技場の中央から一時も離れることはなかった。
貴賓室では、マヒーシャが思わず口元を覆っていた。
「なんという、荒々しいことを……」
「馬鹿者が……! いくら試合とはいえ、加減というものが……!」
カルガが、思わず腰を浮かせかける。だが、その言葉は最後まで続かなかった。
叩きつけられた壁から、ずるり、と、リゼルの体が滑り落ちる。だが、その瞳には――絶望ではなく、燃え盛るような怒りが宿っていた。
「――調子に、乗るな」
掠れた声で、そう吐き捨てる。首を掴んでいたルドラの手が、僅かに緩んだその一瞬をリゼルは見逃さなかった。
「利息を付けて、返してやる」
右の拳に、これまで浴びせられた、全ての衝撃と、全ての痛みが、まるでそのまま質量を持ったかのように、渦を巻きながら、収束していく。暗紫色の魔力が拳の表面で幾重にも層を成し、鱗のような、禍々しい紋様を描き始めた。白銀の髪が逆立つほどの圧倒的な魔力の奔流に、リゼルの周囲の空気そのものが陽炎のように揺らめいている。
「――レコード・ヴェンデッタ」
その一言と共に、拳の表面に刻まれていた紋様が、一斉に輝きを増した。まるで、これまでの一撃、一撃が、克明にその拳の中へと記録され、積み重ねられていたかのように。壁への衝突。骨の軋む痛み。首を絞め上げられた、あの屈辱。その全てが、今、一つの途方もない密度を持つ暗紫色の衝撃波となって解き放たれる。
「な――」
ルドラが驚愕に目を見開く。躱す間も、防ぐ間もなかった。至近距離から、その衝撃波をまともに浴びる。空間そのものが、悲鳴のように軋んだ。
「がああああッ――!!」
ルドラの体が、抗う間もなく後方へと吹き飛ばされた。地面を幾度も跳ねながら転がっていく。その軌跡には、まるで、爪で抉ったかのような、深い溝が幾筋も刻まれていた。
「化け物か、あんた……!」
なんとか、体を起こしながら、ルドラが、荒い息を吐き、そう呻いた。
「――まだ、だよ」
膝をついていたドゥルガーが、震える声で、そう呟くと、歯を食いしばりながら、再び立ち上がった。折れかけていた気力が、その一言で無理やり繋ぎ止められる。
「言ったじゃん、リゼル……あたしは、このままじゃ、終わらない」
「上等だ、ディ。その意地、嫌いじゃない」
リゼルは、そう短く返すと、静かに両手を天へと掲げた。もはや、駆け引きなど要らなかった。加減も、もう知ったことではない。ただ目の前のアスラの少女――前世から含めて33年間の人生で初めて自分を友と呼んでくれた少女には最高の返礼を示したかった。
「――グラビトン・フィールド」
その一言と共に、闘技場全体が、重く、軋み始めた。目に見えぬ重力の奔流がリゼルを中心に幾重にも広がっていく。
「な……ッ!? 体が、動かねぇ……!」
ルドラが、驚愕に目を見開いた。6本の腕を動かそうとしても、鉛のように重い。踏ん張ろうとした足が、砂の中へずぶずぶと沈み込んでいく。
「あ、あたしも……! なんで……!」
ドゥルガーもまた、同様に、その場に縫い止められていた。膝が震え、崩れそうになる。この場にいる誰もが、その重みに抗えなかった。遠く離れた観客席の一部でさえ、木材が軋み、僅かに沈み込んでいる。
だが、リゼルだけは、その重力の中を平然と歩いていた。まるで、自らの支配する箱庭を、悠然と闊歩するかのように。
「――ッ!」
拘束されたルドラの腹へ、リゼルの拳が深々とめり込んだ。
「がはっ――!」
ルドラの体が、くの字に折れ、後方へ吹き飛ばされる。だが、リゼルはそこで止まらなかった。
「――アビスゲート」
その一言と共に、リゼルの姿が掻き消えた。刹那、ドゥルガーの目の前にその姿が、再び、現れる。震える両肩をリゼルの小さな手が、がっしりと掴んだ。
「え――」
「一緒に、来い」
そう言うが早いか、リゼルは、ドゥルガーの体を抱えたまま、浮遊魔法を使う。狙う先は、闘技場の外壁――先ほど、すでに一度、砕かれたはずのアビスタイトの壁だった。
「うわあああッ――!?」
轟音と共に、リゼルとドゥルガーの体がまとめてその壁へと突っ込んだ。並のことでは傷一つつかぬはずのあの鉱石が、二度目の決定的な破壊を受け止めきれなかった。壁の一角が爆発したかのように、木っ端微塵に砕け散る。
舞い上がる粉塵。降り注ぐ無数の破片。その中心でリゼルはなおも、立っていた。傷だらけの体を僅かに揺らしながら。
貴賓室では、オルディアスとカルガが揃って言葉を失っていた。闘技場の壁が、たった一夜で、二度も粉々にされている。損害の額を思えば、卒倒しかねない光景だった。だが、キュマイラの手前、大きく謝罪の声を上げることも、損害を嘆くこともできはしなかった。ただ、青ざめた顔で、その光景を見つめ続けるしかない。
「くっ……そ……」
瓦礫の中から、ルドラがなんとか体を起こそうとする。だが、その腕は、もはやまともに動かなかった。ドゥルガーもまた、瓦礫の下から、力なく呻き声を漏らすだけだった。
その2人へ向けて、リゼルは最後の魔力を両手の中心へと収束させ始めた。渦を巻く暗紫色の輝きが次第に小さな、しかし、途方もなく密度の高い渦へと姿を変えていく。
「これで、終わりだ」
ゴゴゴゴゴゴ――空間そのものが、軋むような重々しい音を立て始めた。収束していく魔力の中心から、周囲の砂粒が細く糸を引くように吸い寄せられていく。闘技場の空気が目に見えて歪んだ。まるで、そこだけ世界が内側へと折り畳まれていくかのような、異様な光景だった。白銀の髪が、ふわりと、逆立ち、ドレスの裾が内へ内へと絶えず引かれ続けている。
「――グラビティ・ヴォルテックス」
その一言と共に、リゼルの手のひらの中心で、暗紫色の輝きが、一際、強く瞬いた。ズンッ――重い、腹の底に響くような音と共に、重力そのものが渦を巻きながら解き放たれる。
放たれた重力の渦は瓦礫の中の2人を、容赦なく飲み込んだ。渦の中心へ向けて瓦礫の破片という破片が、悲鳴のような軋んだ音を立てながら、次々と吸い込まれていく。吸い寄せられ、押し潰されるような感覚に、2人は悲鳴を上げる間もなく、意識を刈り取られていく。
「が……ッ……」
「あ……」
やがて、渦が静かに収まった。その中心でルドラとドゥルガーは白目を剥いたまま完全に意識を手放していた。
その光景に、リゼルは小さく息を吐いた。だが、渦から漏れ出た余波は、それでもなお勢いを失わず、軌道を逸れることなく――よりによって、貴賓室の方角へと向かっていた。
「な――! しまった!!」
リゼルの顔が、瞬時に青ざめた。
「妖鳳公閣下、お下がりください――!」
オルディアスが、真っ先に剣の柄へ手をかけながら、キュマイラの前へと身を投げ出すように飛び出した。
「閣下、私が盾となりまする――!」
カルガもまた、間を置かず、6本の腕を大きく広げ、その巨躯をキュマイラの前へと割り込ませる。武人としての本能が、理屈を差し置いて、体を動かしていた。
「邪魔じゃ、小僧ども。目障りじゃ」
その一言だけで、2人は弾かれたように、脇へと飛び退いた。庇うことすら許されなかった。
キュマイラは、椅子に悠然と腰掛けたままだった。立ち上がる素振りすら見せない。
「見事じゃ、オルディアスの娘――否」
キュマイラは、そう呟きながら、片手に持った扇を緩やかに振るった。
「リゼル・ノクス・ヴァルクロアよ。良き余興に免じて、此度の無礼、見逃してやろう」
その一言と共に、扇の先が迫り来る重力の渦を軽く弾いた。ただ、それだけの動作だった。座ったまま、腕を僅かに振っただけの、あまりに軽い一振り。だが、その瞬間、闘技場の壁すら砕くほどの威力を持っていたはずの渦が空中であっけなく霧散していく。
紫色の粒子が、夜空へと静かに溶けて消えていった。
「ほほぅ、なかなか、良い見せ物じゃ。大義であったぞ!」
キュマイラは、そう言って、満足げに笑った。
その光景を、リゼルは震える足でなんとか立ったまま、見つめていた。座ったまま、腕一つで、あの一撃を無効化した。しかも、その威力を正確に見極め、力加減までも完璧に制御した上で。
(……ふふ、ふふふ……。これが……これが、レベル9000超えの……イベント、モンスターの……力、か……)
前世の記憶にある、あの、絶望的な数値を持つ討伐推奨レベルの化け物。ゲームの中でさえ、生半可なパーティでは指一本触れることさえ許されなかった、桁外れの存在。その圧倒的な事実が、ようやくリゼルの意識に重くのしかかってきた。
オルディアスも、カルガも、マヒーシャも、メアも、そして、闘技場に駆けつけていたソーマも――誰もが言葉を失ったまま、深く、頭を垂れる。ぼろぼろの体のまま、リゼルもまた、なんとかその場に跪いた。
「妖鳳公閣下……。御前を、汚しました、無礼……お許しを……」
声を、絞り出すのがやっとだった。そのまま、リゼルの意識はふつり、と、途切れた。小さな体が、砂の上へと崩れ落ちる。
「お嬢様――ッ!!」
メアの、悲鳴のような声が、響いた。崩れ落ちかけたその体を、駆けつけたソーマが、すんでのところで抱き留める。
その一部始終をキュマイラは椅子からゆっくりと、立ち上がりながら、見つめていた。
「大魔王殿に、良い土産話ができたわ。……大義であった」
満足げなその一言を残し、キュマイラは闘技場を静かに見下ろした。意識を失ったまま、ソーマに抱き留められたリゼル。白目を剥いて倒れ伏したままの、ルドラとドゥルガー。その全てを視界に収めながら、キュマイラは満足げに笑った。
「良き童どもじゃ」
次の瞬間、キュマイラの背に業火にも似た、巨大な翼が広がった。その翼が、一度、大きく羽ばたく。それだけで、体がふわりと宙へと浮かび上がった。
人の姿が瞬く間に揺らめき、崩れ、練り直されていく。漆黒と紫の炎がその輪郭を幾重にも包み込んでいった。そして――そこにあったのは、もはや人の姿ではなかった。天を覆わんばかりの、巨大な炎の不死鳥。
一声、高く、鳴いた後、その姿は凄まじい速さで夜空の彼方へと消えていった。




