Ver.1 JUGGERNAUT Chapter3-2 凶姫
砂塵の中、リゼルは、倒れ伏したままのドゥルガーの傍らへ、静かに歩み寄った。だが、膝をつくことはしなかった。振り返り、少し離れた場所で、砂の上に片膝をついたまま、なおも起き上がろうとしていたソーマへ、視線を向ける。
ソーマの姿は、変わり果てていた。片方の瞼は大きく腫れ上がり、まともに開かない。口の端は切れ、顎から首筋にかけて、血が乾いた跡が幾筋も伝っている。殴られた脇腹を庇うように、体を軽く折り曲げたまま、それでも、砂に突いた片手だけを支えに、辛うじて、その場に留まっていた。息をするたびに、微かに顔をしかめている。折れた肋骨が、軋んでいるのかもしれなかった。
「ソーマ様」
その声音だけが、明らかに、先ほどまでとは違う響きを帯びていた。
「ディを、お願いいたします。……そのお体で、申し訳ございません」
「――お気になさらず。この程度……いえ」
言いかけて、ソーマは、小さく咳き込んだ。口の端から、赤いものが、ひとすじ滲む。それでも、彼は、首を横に振った。
「立てます。まだ、動けます」
ソーマは、そう言うと、砂についていた手を離し、覚束ない足取りのまま、傷ついた妹の傍らへと歩み寄った。膝を折るその動作にすら、明らかな痛みが滲んでいる。それでも、震える手を、静かに、妹の体へとかざした。赤褐色の光が、掌から溢れ出す。幼い頃から積み重ねてきた治癒の術式は、本人の満身創痍をものともせず、無駄のない、美しい流れで、裂傷を塞いでいった。
「う……あれ……? 痛く、ない……?」
ドゥルガーが、ゆっくりと目を開けた。その顔には、まだ困惑が残っていたが、体を苛んでいた痛みは、綺麗に消え去っている。
その視線が、ふと、瓦礫の山の方へ、向いた。
「……あれ? なんで、あたしが、あそこに……?」
寸分違わぬ、自分自身の姿。瓦礫の中に横たわる、もう一人の「自分」を見て、ドゥルガーは、そう呟いた。だが、その困惑は、すぐに、別種の恐怖へと変わっていった。全く同じ顔、全く同じ声、全く同じ装いをした少女。ただ一点、その肌の色だけが、自分の知る赤銅色ではなく、死人のような青紫色をしている。
「な、なにあれ……なんで、あたしと、そっくり……」
その声は、目に見えて、震えていた。それもそのはず、彼女の中からは、あの試合の記憶そのものが、綺麗に抜け落ちている。目の前にいるのが、自分から力を奪った敵であることすら、今の彼女には、分かっていなかった。
(怖い……なんで、こんなに、怖いんだろう)
普段であれば、どれほど強大な相手を前にしても、怯むことを知らない少女だった。だが、今、彼女の胸を満たしているのは、敵を前にした緊張ではなく、もっと根源的な、得体の知れない恐怖だった。まるで、自分という存在そのものが、揺らいでいるかのような感覚。それが、何よりも、恐ろしかった。
その光景を、少し離れた位置から、ルドラは、腕を組んだまま、無言で見つめていた。金色の瞳には、動揺の色一つ浮かんでいない。ただ、じっと、状況を見極めるように、砂塵の向こうを見据えている。
(……ディそっくりの、あれは、なんだ。気配が、どこか歪だ)
戦士としての本能が、そう告げていた。姿形は寸分違わずとも、そこに宿る「格」が、まるで違う。まがい物の気配だった。物心つく前から、命のやり取りに等しい稽古を積み重ねてきた者だけが持つ、獣的な勘だった。だが、その勘が何を意味するのか、この時のルドラには、まだ、正確な答えを結べずにいた。
一方、ソーマは、妹のその怯えを見て、静かに、眉をひそめた。様子が、明らかに、おかしい。ドゥルガーは、あの姿を見て、それを「敵」だと、判断できていないのだ。
そこまで考えて、ソーマの中で、一つの可能性が、静かに像を結んだ。それ以上のことは、彼には、まだ、分からない。だが、妹の瞳の奥に浮かぶ、あまりに純粋な困惑――それだけで、何か、取り返しのつかないことが起きているのだと、直感していた。表情には、欠片も出さない。ただ、赤褐色の瞳の奥だけが、いつもより、わずかに、深く沈んでいた。ドゥルガーの記憶が、失われているのかもしれない――その可能性を、ソーマは、慌てることなく、ただ、静かに、内に留め置いた。物心つく前から、妹の成長を誰よりも近くで見守ってきた兄として、この違和感を、見過ごすつもりは、なかった。
一方、少し離れた場所で、その光景を見ていたリゼルは、静かに、目を細めていた。
(……そういうことか)
赤い瞳の奥で、冷たい確信だけが、静かに像を結んでいく。それが、何を意味するのか――その内心までは、誰にも、明かすつもりはなかった。
「ソーマ様」
リゼルは、静かに、そう呼びかけた。
「ディを、どこか、安全な場所へお連れください」
「……リゼル嬢、貴女はいったい何者なんですか?」
ソーマの問いに、リゼルは、しばし、沈黙した。それから、感情の削ぎ落とされた、平坦な声で、答えた。
「私はこれから、ここを酷い有様にします。ですので、ディを連れて、どうか下がっていてください」
その一言だけを残し、リゼルは、瓦礫の山――ウォプラの気配が残る方角へと、視線を戻した。
「リゼル……? さっき、ソーマ兄ぃが、そう呼んでた……。……ねえ、これ、どういう状況……? あたし、何も、覚えてないの」
ドゥルガーの、消え入りそうな問いには、答えなかった。代わりに、リゼルは、視線を、ソーマへと移す。その表情には、これまで見せたことのない、冷たい無表情が浮かんでいた。
「ソーマ様には、見られたくなかった」
その一言は、ソーマ一人へ向けられたものだった。この先、己がどうなるのか――その醜い姿を、他の誰でもなく、ソーマにだけは、知られたくない。そんな、脆く、矛盾した想いが、その一言の裏に、隠れていた。
その一言を最後に、リゼルは、二度と、振り返らなかった。
「ディ、行こう」
ソーマは、それ以上、何も問わなかった。ただ、静かに頷くと、痛む体をおして、恐怖に竦むドゥルガーの肩を支え、後方へと促す。
「や、やだ……ソーマ兄ぃ、待って……あれ、なに……なんで、あたしと、あんな……」
ドゥルガーの声は、もはや、涙混じりになっていた。普段の、快活で怖いもの知らずの彼女からは、想像もつかない、幼子のような怯えだった。
「大丈夫だ、ディ」
ソーマは、そう言いながら、妹の肩を、しっかりと抱き寄せた。その声は、いつも通り、穏やかだった。この子を、これ以上、あの光景に晒すわけにはいかない。だが、いったい、何が起きているというのか――答えの出ない問いを、ソーマは、表には出さぬまま、静かに、胸の内だけで、抱え続けていた。
歩きながら、ドゥルガーは、なおも、震える声で、問いを重ねた。
「ねえ、ソーマ兄ぃ……あたし、なんにも、覚えてないの。昨日のことも、今日のことも……頭の中が、ぐちゃぐちゃで……」
「思い出せなくても、いい」
ソーマは、そう答えながら、妹の頭を、そっと撫でた。
「今、大切なのは、ディが、無事だということだ。それだけで、十分だ」
「でも……あたし、何か、大事なことを、忘れてる気がするの。すごく、大事な……」
ドゥルガーの声に、もどかしさが滲む。まるで、喉元まで出かかった言葉が、どうしても、形にならないような、そんな焦りだった。
「焦る必要はないよ、ディ。あの方を、信じよう」
そう言いながらも、ソーマの手の下で、妹の体は、なおも小刻みに震え続けていた。それを、はっきりと、感じ取りながら、彼は、内心で、静かに考えを巡らせていた。記憶が、欠けている。あの、まがい物の姿。もし、これが、あの男の力によるものだとすれば――その先の答えに、ソーマは、まだ、辿り着けずにいた。
* * *
一方、その場に残ったリゼルの耳には、遠ざかっていく、ドゥルガーの震える声が、まだ、微かに届いていた。その声が、完全に聞こえなくなるより先に、瓦礫の中から、ゆらり、と、一つの影が立ち上がった。
* * *
「ひっどいなぁ、リゼル」
ドゥルガーと寸分違わぬ声と顔で、ウォプラは、そう言った。ドヤ顔とでも言うべき、余裕ぶった笑みを浮かべている。
「あたしの姿でここまでやるとか、あんたも大概――ねえ、覚えてる? 昨日、屋台で肉串食べた時、あんた『とても美味しゅうございます』とか、澄まし顔で言っちゃってさあ」
その一言に、リゼルの肩が、わずかに強張った。
いつものように、赤い瞳の奥に、黒紫の文字列を呼び起こす。目の前の男の、正確な力量を、見極めておくためだった。
――――――――――――――――――
名前:ウォ▓ラ・ス##
種族:##▓▓▓▓族
身分:#####(読取不可)
年齢:ERROR_017
レベル:###
生命力:8@00
魔力量:62◇◇
筋力:ERROR_004
耐久:980
敏捷:1▓00
知力:ERROR_004
精神:▓▓▓▓
統率:ERROR_009
政治:##
礼法:▓▓
忠誠適性:#解析不能#
主要適性:技能##/魔術▓▓/####
危険度評価:算出不可
敵対意志:##########
備考:デ―タ破損。表示不可。#再試行してください# ##再試行# ######
――――――――――――――――――
その、乱れきった文字列を、リゼルは、しばし、無言のまま、見つめ続けていた。項目という項目が、まともに読み取れない。生命力や耐久といった、一部の数値だけが、辛うじて像を結んでいるものの、それ以外は、ほとんどが、意味を成さない記号の羅列と、無機質なエラー表示に、埋め尽くされている。
数値の桁が大きすぎて理解に時間がかかることはあっても、こうして、根本から情報そのものが崩壊している状態を、リゼルは、これまでに、ただ一人だけ、目にしたことがあった。
(……なんでコイツが、奴と同じ……いや、結論付けるのは早計だな)
その瞬間、脳裏に、ある顔が、唐突に浮かび上がった。普段から、最も近くに在りながら、最も思い出したくない相手の顔だった。
エルミナ――。
まごうことなき、リゼルの姉。天上の女神の如く、いつも、リゼルのことを気にかけてくる、あの姉だった。だが、リゼルには、それが、気持ち悪くて仕方がなかった。理由を、明確な言葉にすることは、できない。ただ、あの姉に見つめられるたび、肌の裏側を、そっと撫でられるような、名状しがたい不快感が、拭いきれずにいた。
そして、あの姉のステータスもまた、これまで一度として、リゼルの解析能力によって、正常に表示されたことがなかった。何度、何十度と覗き込んでも、返ってくるのは、こうした、意味を成さない、崩れた文字列と、エラーコードの羅列だけだった。屋敷の誰も、その異常に気づいていない。気づいているのは、この能力を持つ、リゼルだけだった。
単なる情報の欠落ではない。まるで、意図的に、何かが、その情報を、覆い隠しているかのような、不自然な崩れ方だった。その違和感は、これまでの怒りとは、また質の違う、冷たい戸惑いとなって、リゼルの胸の奥に、静かに、しかし確かに、根を下ろしていった。
だが、今、この場で、その謎に向き合っている余裕は、リゼルには、なかった。目の前には、まだ、片付けるべき相手がいる。
(……昨日、ディと過ごした時間の記憶まで、覚えているのか)
技だけではなかった。あの粘ついた笑みの奥で、この男は、ドゥルガーの中にあった、ごく些細な記憶の欠片までも、写し取っていたらしい。屋台の串焼き。街の人々とのやり取り。そうした、何気ないやり取りの一つ一つを、他人の口から語られることに、抑えようのない怒りが、腹の底から込み上げてくる。
「ねえねえ、リゼル。あたしの頭ん中って、こんなに簡単に、ぐちゃぐちゃに出来ちゃうんだね。楽しかったなぁ、あの子の記憶、ひとつひとつ、ずぶずぶ啜ってさ。……あ、そうそう、あんたと初めて会った時の記憶もね、あたし、もう持ってないんだよねぇ。だって、頂いちゃったから!」
ウォプラは、そう言って、心底楽しそうに、けらけらと笑った。ドゥルガーの無邪気な笑い声の形をした、悪意の塊だった。
「それ以上囀るな。耳が腐る」
リゼルの声が、氷のように、その場を切り裂いた。令嬢らしい響きなど、もはや、欠片もない。
そう言い放った、次の瞬間。リゼルの姿が、その場から掻き消えた。転移の余韻すら感じさせぬ、無音の移動。次の瞬間には、ウォプラの目の前に、リゼルの姿があった。
4歳のリゼルと、10歳のドゥルガーの姿を奪ったウォプラとでは、まだ、いくらかの背丈の差がある。本来であれば、ウォプラの方が、リゼルを見下ろす形になるはずだった。
「――え」
その困惑の声が上がった、ほとんど同時に、魔力を纏った拳が、ウォプラの顔面へ、深々とめり込んだ。骨の軋む音と共に、その体が、あの硬質な外壁の中へと、吹き飛ばされる。ゴウン、という重い音が、闘技場全体を震わせた。
* * *
貴賓室の空気は、いつの間にか、重く沈み込んでいた。
オルディアスは、杯を持つ手を、いつしか止めていた。娘の、あの素の口調も、剥き出しの気配も、彼にとっては、決して、初めて見るものではない。だが、これほどまでの怒気を纏い、他家の前で、あの仮面を、これほど完全に脱ぎ捨てる姿は、彼自身、初めて目にするものだった。それを、ただ、黙って見つめることしか、できずにいた。
隣で、カルガは、無言のまま、手にした杯を、じわり、と、握り込んでいた。
(我が娘の姿と力を、あのような下賤な輩に、好き放題に弄ばれておる……!)
武を至上とする、アスラ族の当主たる者が、この程度の光景を前に、冷静を装っていられるはずがなかった。むしろ、それでは、腑抜けというものだ。
ぱき、と、小さな音がした。見れば、握りしめていた酒杯が、ひび割れている。
「……ぶっ殺してやる」
低く、押し殺した声だった。普段の、この男の丁寧な物腰からは、およそ想像もつかない、剥き出しの怒気だった。長年、武の家の当主として保ってきた体裁すら、今この瞬間だけは、かなぐり捨てられていた。
「あなた」
隣で、マヒーシャが、静かに、その手に、そっと自らの手を重ねた。
「ここは、リゼル嬢にお任せいたしましょう」
「……マヒーシャ」
「4歳の姫君に、我ら大の大人が頼るなど、恥ずかしい話にございます。……ですが、今この場で、あの御方に代われる者は、誰一人としておりません」
その言葉に、カルガは、しばし、沈黙した。それから、握りしめていた杯を、静かに、卓へと置いた。
* * *
一方、その光景を、少し離れた場所から見つめていたメアは、もはや、じっとしてはいられなかった。両手を、無意識のうちに、胸の前で固く握りしめている。
「お嬢様――!」
思わず、大きな声が、口をついて出る。物心ついた頃からずっと、傍らに仕えてきた主が、これほどまでの怒りと、これほどまでの危うさを、同時に抱えている。その事実に、メアの胸は、張り裂けそうだった。だが、その声も、闘技場の喧騒に飲まれ、リゼルの元までは、届かなかった。
(お嬢様……どうか、これ以上、ご自分を傷つけないでください)
その願いは、誰に届くこともなく、ただ、メアの胸の内だけで、静かに渦を巻いていた。仕える身である以上、勝手に前へ出ることは、許されない。だが、それでも、じっとしていることが、これほど苦しいとは、思ってもみなかった。
そんなメアの様子に、ふと、気づいた者がいた。
「メアさん、リゼル嬢を信じなさい。あの娘は、貴女の主人なんでしょう?」
隣から様子を見ていたマヒーシャが、そっと、そう声をかけた。その優しい問いかけに、メアは、はっと我に返る。
「……お見苦しいところを、お見せいたしました……申し訳ございません……」
「いいの。あの娘は、確かに、凄いわ。……けれども、まだ、4歳なのだもの。侍女として、当然の心配よ」
マヒーシャの言葉に、メアは、少しだけ、肩の力を抜いた。だが、その視線は、なおも、闘技場の中央――リゼルの姿から、片時も離れずにいた。
* * *
誰も、それ以上、言葉を継がなかった。だが、貴賓室に満ちる沈黙は、先ほどまでとは、明らかに、質を変えていた。
* * *
「がっ――!?」
体を引き剥がす間もなく、リゼルは、再び、その姿を消した。瞬きの間に、またウォプラの眼前へと転移する。今度は、その髪を、無造作に、しかし万力のような力で掴んだ。
「や、やめ――」
「やめない」
短く、そう言い放つと、リゼルは、掴んだ髪を、壁へと叩きつけた。めきり、ばきり――並のことでは傷一つつかぬはずの、あの硬質な鉱石の壁が、悲鳴のような音を立てて陥没する。それだけでは終わらなかった。リゼルは、ウォプラの顔を壁に押し付けたまま、凄まじい脚力で、その体を、横へ横へと、引きずり回し始めた。ゴリゴリ、ガリガリと、鉱石の砕ける音が、絶え間なく響き渡り、粉塵が、白く舞い上がった。闘技場は、水を打ったように静まり返っていた。数万の観客が、誰一人として、声を発しない。ただ、その光景を、呆然と見つめている。
「ぎ、ぎゃああああッ――!」
ウォプラの絶叫が、闘技場に木霊した。だが、リゼルは、その悲鳴一つで、手を緩めるつもりなど、微塵もなかった。
髪を掴んだまま、今度は、体ごと持ち上げ、地面へと、思い切り叩きつける。ドスン、という鈍い音が響いた。悲鳴を上げる暇すら与えず、間髪入れずに、その腹へ、膝を打ち込む。ウォプラの体が、くの字に折れ、口から、胃の中身が逆流しかけた。
「がはっ……あ、あ……」
それでも、リゼルは、止まらなかった。倒れ込んだ体の腕を掴み、無造作に、逆の方向へと捻り上げる。関節の軋む、嫌な音がした。
「ぎゃあああああッ!? う、腕、腕がぁ……!」
ウォプラの絶叫が、また、闘技場に響く。だが、それすらも、リゼルにとっては、ただの雑音でしかなかった。捻り上げた腕を放すと、今度は、うずくまるウォプラの背を、容赦なく踏みつける。
「ぐ、ぐぇ……っ……」
息が詰まったような、潰れた声が漏れた。リゼルは、その背から足をどけると、今度は、髪を掴んで顔を持ち上げ、無表情のまま、その頬を、平手で、何度も、何度も、打ち据えた。パン、パン、パンッ、と、乾いた音が、幾度も響く。
「あ……ご、ごめ……っ、いだい、いだいよぉ……」
ウォプラの声から、いつもの跳ねるような明るさが、すっかり掠れていた。それでも、涙目のまま、なおも、へらへらとした笑みだけは、崩そうとしない。強がりなのか、それとも、恐怖のあまり、他にどう振る舞えばいいのか分からなくなっているのか――もはや、本人にすら、判別がついていないようだった。
リゼルの表情には、なおも、一切の容赦がなかった。加減という言葉が、その辞書から、すっぽりと抜け落ちているかのようだった。
* * *
打ち据えられ、崩れ落ちたまま、ウォプラは、しばし、砂の上に伏していた。腫れ上がった顔から、幾筋もの血が伝い、砂に、赤黒い染みを広げていく。折れた指先が、震えながら、砂を掻いた。
(……こんな、はず、じゃ)
奪った力は、確かに、強大なはずだった。だが、目の前の少女は、その力を、まるで児戯のように、あっさりと捻じ伏せてくる。恐怖と屈辱とが、ないまぜになって、腹の底から、こみ上げてきた。だが、それでも――このまま、砂に伏したまま終わるのは、彼の矜持が、許さなかった。
ウォプラは、震える両腕を、砂に突いた。折れかけた骨が軋む。それでも、奪った力の残滓――かき集められる限りの魔力を、体の隅々へと、無理やり巡らせていく。傷そのものが癒えるわけではない。ただ、動かぬはずの四肢に、強引に、力だけを、注ぎ込んだ。
ぐらり、と、体が持ち上がる。血の混じった唾を、地面へ吐き捨てながら、ウォプラは、なんとか、両足で、立ち上がった。
「あー……痛って、痛ってぇなぁ、もう……」
声は、なおも、震えていた。だが、その口元には、無理やり作り上げたような、いつもの、へらついた笑みが、じわりと、戻り始めている。恐怖を、道化に塗り替えることでしか、己を保てないのかもしれなかった。
「――やられっぱなしじゃ、あたしの、プライドが、許さないんでね」
ウォプラは、そう呟くと、ふらつく足取りのまま、リゼルへと向き直った。まだ、終わってなどいない――そう、己自身に言い聞かせるように。
* * *
「待たせたなぁ、リゼル! まだまだ、これからだろ! お返し、いくよー!!」
声こそ、精一杯、いつもの調子を装っていた。だが、その哄笑は、随所で、掠れ、途切れる。踏み込むたびに、折れた骨が軋むのか、頬が、微かに引き攣った。血まみれの顔に浮かぶ笑みは、もはや、余裕の証などではなく、痛みを押し殺すための、必死の仮面でしかなかった。それでも、ウォプラは、抵抗を諦めなかった。奪ったばかりの技を、次々と、繰り出していく。
「三日月乱舞――ッ!」
三日月剣を纏った両腕が、円弧を描いて振るわれる。踏み込みには、明らかに、先ほどまでの精彩がなかった。だが、リゼルは、その刃を、指先一本で、あっさりと受け流した。同じ技であっても、そこに込められた力の桁が、まるで違う。奪われる前のドゥルガーの地力は、レベルにしておよそ1800。対するリゼルは、4歳にして、すでに3000を超えている。無効化するまでもなく、まるで意味を成さない。
「あれぇ? なんで、効かないのぉ?」
その声には、まだ、動揺よりも、無邪気な戸惑いの方が、色濃く滲んでいた。
「じゃ、じゃあ……疾風拳・双牙――ッ!」
今度は、アビスタイトの拳甲を纏った拳が、唸りを上げて突き出される。だが、これも、結果は同じだった。リゼルは、その拳を、片手で軽く受け止めただけだった。
「うっそだぁ……なんで、なんで、効かないの、これぇ!」
追い詰められたウォプラの表情に、明確な焦燥が浮かぶ。だが、それでも、その口調だけは、なおも、快活な少女のものを、崩さずにいた。そして、その焦りの果てに、彼は、これまで一度も見せていなかった、未知の術式を、繰り出した。
「――紅蓮爪撃――ッ!」
その両手の間に、見たこともない紋様の魔法陣が展開される。爪のような形をした、真紅の魔力の刃が、幾筋も、空間を裂きながら、リゼルへと殺到した。
だが。
「ディスペル・フィールド」
リゼルが、そう短く呟くと同時に、その魔法陣ごと、真紅の刃は、まるで見えない壁に阻まれたかのように、力なく霧散した。
「えぇーっ!?」
その驚愕の声を無視して、リゼルは、ふと、視線を、遠くへと向けた。ソーマに連れられ、まだ、こちらの様子を窺っていたはずの、本物のドゥルガーへと。
「ディ! お前は、どちらかと言えば、直接攻撃特化型のユニットだ。ポイントは、だいたいをそちらに振るのが定石だろう。……それなのに、こんな魔法まで、生まれ持っていたのか。あははは! 凄いじゃないか、ディ!」
心底、楽しそうな声だった。
「え……あ、うん……?」
離れた場所で、ドゥルガーは、状況をまるで理解できていない様子で、曖昧に頷いた。
「リゼル嬢は、こんな時にまで……」
隣で支えていたソーマが、思わず、小さく苦笑を漏らした。
その光景に、ウォプラの表情が、怒りで、真っ赤に染まった。だが、その口から漏れる言葉は、なおも、あの跳ねるような語尾を、崩さない。
「もぉ、人が必死こいてる時に、よそ見しないでよねぇ!」
激昂したウォプラが、なりふり構わず、渾身の一撃を放った。今度は、リゼルは、あえて、その拳を、避けなかった。
「――ッ!」
拳が、リゼルの小さな体に、まともに叩き込まれた。その衝撃だけで、小さな体が、後方へと、勢いよく吹き飛ばされる。ゴッ、という鈍い音と共に、リゼルの体は、闘技場の外壁へと、叩きつけられた。もうもうと、砂塵が舞い上がる。
「あーっはっはっは! やった、やったぁ! 当たった、当たったよ!」
ウォプラは、ドゥルガーの声そのままに、屈託のない哄笑を上げた。その明るさが、状況の凄惨さと、あまりに不釣り合いで、聞く者の背筋を、いっそう冷やす。
だが。
砂塵が晴れると、そこには、傷一つない、リゼルの姿があった。壁にめり込むこともなく、ただ、その場に、悠然と、立っている。
「こほっ……こほっ……」
舞い上がった砂埃を吸い込んだのだろう、小さく、2度、咳き込む。それだけだった。ドレスの裾に、砂埃がついている以外、傷らしい傷は、どこにもない。
「……え?」
ウォプラの哄笑が、ぴたり、と止まった。
「ノーダメージだ。当たり前だろう」
リゼルは、静かに、そう告げると、ゆっくりと、砂を踏みしめながら、間合いを詰めていった。その足取りに、迷いは、欠片もない。
「ま、待て……待てって……」
ウォプラが、後ずさろうとする。だが、その動きは、恐怖のあまり、ぎこちなく、遅かった。
「まだ、続けるつもりなのか」
リゼルは、そう呟くと、右の拳を、ゆっくりと、握り込んだ。魔力が、拳の表面に、目に見える形で、収束していく。
「や、やめ――」
その懇願を、最後まで聞くつもりはなかった。
「終わりだ」
その一言と共に、リゼルの拳が、呆然と立ち尽くすウォプラの腹へ、深々とめり込んだ。「――ぶっ」という、くぐもった呻き声と共に、その体が、くの字に折れ曲がる。追い打ちをかけるように、もう一撃。今度は、顎を掬い上げる形で、下から突き上げた。
ウォプラの体が、宙に、浮いた。そのまま、力なく、砂の上に、叩きつけられる。膝から崩れ落ち、口から、赤黒い血の混じった涎が、だらしなく零れ落ちていた。もはや、立ち上がる力すら、残されていないようだった。
* * *
「よかったなぁ、クソ雑魚劣等種族が」
リゼルは、地に伏したウォプラを見下ろしながら、そう告げた。
「少しでも、上位魔族であるアスラ族の、剣の天才の能力を、経験できて」
「な、なんの、話ぁ……?」
「体調不良のディの代わりに、私が、その能力のレンタル料を、取り立ててやろう」
リゼルの赤い瞳が、暗く、深く、光った。
「お代は、貴様の命だ」
その一言と共に、リゼルの周囲の空間に、黒い光と、紫電の走る、巨大な魔法陣が出現した。直径にして、優に10メートルはあろうかという、あまりに巨大な陣だった。その中心から、何か、禍々しい輪郭を持つものが、軋むような音を伴いながら、ゆっくりと、せり上がってくる。
ジャギーン!! ジャギーン!! ジャギーン!!
刃が、自動で落下しては、また、見えない何者かによって、引き上げられ、再び、落ちる。ただ、それだけのことなのに、ウォプラは、目の前に現れた、その禍々しい巨大な器具に、本能的な恐怖を感じていた。
その刃は、血のように赤黒く輝く、巨大な断頭刃だった。両端を、彫刻の施された黒鉄の柱に固定され、天へ向けて、鈍い光を反射している。
「リゼル! やめよ!」
貴賓室から、オルディアスが、弾かれたように立ち上がった。その顔には、抑えきれぬ焦りが浮かんでいる。踏み出しかけたその足を、しかし、彼自身も、途中で止めていた。
(――止めて、いいのか)
その逡巡が、彼の足を、その場に縫い止めていた。
「これは、私が研究して、独自に創造した、召喚魔法でね。こう呼んでいる――断罪墜落態」
「や、やめ……やめてよぉ……! あたしが悪かった、悪かったから……! なんでもする、なんでもするから……! 命だけは、命だけはああああッ――!」
ウォプラの絶叫が、闘技場に響き渡る。
「――くくっ」
リゼルの喉から、抑えきれぬ笑いが漏れた。
「あはっ……あはははは! 命乞いか。実に、滑稽だな」
その一言と共に、リゼルは、震え上がるウォプラの体を、無造作に、掴み上げた。そして、そのまま、あの赤黒い刃の下――処刑台の中央へと、放り込む。ウォプラの首が、木製の枷の中に、はまり込んだ。
「拒否する」
その声と共に、赤黒い刃が、鈍い光を反射しながら、落下し始めた。
* * *
だが。
刃が、あと、わずか数寸で、ウォプラの首に届く――その、まさに刹那。
轟音と共に、あの巨大な断頭刃が、木っ端微塵に砕け散った。粉々になった刃の破片が、花火のように、闘技場中に降り注ぐ。その衝撃波が、ウォプラの首を固定していた木製の枷ごと、粉砕する。拘束から解き放たれたウォプラの体が、何か途方もない力によって、遥か彼方まで、吹き飛ばされていった。
土煙が、もうもうと立ち込める。
その中心から、ゆっくりと、一つの影が、姿を現した。
ルドラだった。
* * *
「ルドラ殿。どういうおつもりだ?」
リゼルの声は、これまでのどの声よりも、不機嫌さを滲ませていた。その全身から、目に見えるほどの、暗紫色の巨大な魔力が、陽炎のように、立ち上っている。
だが、ルドラは、その圧に、一切、動じなかった。ただ、無言のまま、地に伏したウォプラへと、視線を落とす。
(この威圧、並の魔力量じゃねえ。……だが、俺には、関係ねえ)
その内心は、恐れよりも、むしろ、確かな苛立ちに満ちていた。妹の一件が、いつの間にか、他家の令嬢の手によって、勝手に決着をつけられようとしている。その事実そのものが、彼の、武人としての矜持を、静かに逆撫でしていた。
「ディから奪ったもん、置いて、とっとと失せろ」
その声は、静かだった。だが、静かであるがゆえに、なおのこと、底冷えのするような凄みがあった。
「ぶっ殺されたくなきゃ、な」
その一言に、ウォプラは、恐怖のあまり、言葉すら発せずに、何度も、何度も、頷いた。震える手で、奪ったばかりの記憶と技能を、大慌てで、解き放っていく。青白い燐光と、赤黒い靄が、遠く離れたドゥルガーの元へと、吸い込まれるように、還っていった。
そして、その返還と共に、ウォプラの姿もまた、変わり始めた。ドゥルガーそっくりだった輪郭が、崩れ、練り直され――やがて、そこに現れたのは、鋭い金色の瞳を持つ、漆黒の翼と、黄金の王冠を戴いた、本来の、異形の姿だった。人ならざる爪と、赤黒い翼膜を持つ、その本性を晒すと、ウォプラは、一目散に、闘技場の外へと、逃げ去っていった。
その後ろ姿を、リゼルは、なおも、鋭い眼光で睨みつけていた。逃した獲物を、視線だけで、繋ぎ止めようとするかのような、執念にも似た眼差しだった。
「――逃がすかよ」
リゼルの全身に、バチバチと、暴れ回る紫電が宿る。小さな右手に、ありったけの殺意を込めた、魔力の稲妻を収束させ、その、ヒドラのように細長い電撃が荒れ狂う手のひらを、ウォプラへと翳し、静かに、呟く。
「バアルの投擲」
だが、その瞬間。
「――は?」
ルドラの拳が、リゼルへ向けて、唸りを上げて、振り下ろされた。
* * *
リゼルは、咄嗟に、魔力を、筋力と耐久力へと変換した。両腕を交差させ、その一撃を、真正面から受け止めようとする。
だが、間に合わなかった。踏み込みの速さも、拳圧そのものの重みも、これまで相手にしてきた、どの敵とも、桁が違っていた。
魔力主体の体は、瞬発的な防御には長けていても、根本的な肉体の耐久では、生粋の武闘家であるルドラの拳圧に、抗いきれるものではなかった。ルドラの拳が、交差させた両腕ごと、リゼルの体を、真正面から捉える。
「――ぐっ!?」
小さな体が、凄まじい勢いで、後方へと吹き飛んだ。そのまま、闘技場の外壁――先ほど、ウォプラとの戦いで、すでに幾度も損傷を受けていたその壁へと、まともに突っ込む。ドゴォンッ、という轟音と共に、壁の一部が、大きく崩れ落ちた。粉塵が、もうもうと立ち込める。
「リゼル――!」
その光景を、遠くから見ていたドゥルガーが、悲鳴のような声を上げた。すでに、記憶を取り戻した彼女にとって、それは、もはや、見ず知らずの誰かではなかった。友のために、命を懸けて戦ってくれた相手が、今、目の前で、傷ついている。
「ディ、待て――!」
ソーマの制止も、ドゥルガーの耳には、届かなかった。弾かれたように、瓦礫の方向へと、駆け出していく。ソーマも、それを追うように、すぐさま、後を追った。2人の足音が、砂埃を巻き上げながら、闘技場の中央へと、近づいていく。
崩れた壁の隙間から、粉塵を纏いながら、リゼルが、ゆっくりと、立ち上がってきた。口の端から、一筋、血が伝っている。だが、その赤い瞳には、なおも、消えぬ闘志が宿っていた。
「……何のつもりだ」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
ルドラは、拳を退きながら、そう吐き捨てた。その顔には、勝ち誇った様子も、驚いた様子もない。ただ、当然の結果を確認したような、平坦な表情だけがあった。
「こりゃ、俺ん家の問題だ。いいとこのお嬢様の出る幕じゃねぇってこった」
「却下だ」
リゼルは、即座に、そう切り返した。血の滲む口元を、袖で、無造作に拭う。その仕草には、たった今、壁を突き破ったばかりとは思えぬほどの、余裕があった。
「早い者勝ちに決まっているだろう。ここは、魔界だぞ」
「――は?」
ルドラの眉が、ぴくり、と跳ねた。予想の斜め上を行く返答に、思わず、言葉を失ったようだった。
「あんた、今、なんつった」
「早い者勝ちだと言った」
リゼルは、悪びれる様子もなく、そう繰り返した。砂の上に、ゆっくりと、足を踏み出しながら、続ける。
「貴殿が、まだ様子を見ている間に、私は、すでに、動いていた。それだけのことだ。……もしや、貴殿は、それが、気に入らなかったのか? 自分より先に、他人が、手を出したことが」
その図星に、ルドラの表情が、明らかに、強張った。拳を握る手に、無意識のうちに、力がこもる。
「う、うるせえ! だいたい、ふざけんな! ウチの祭りで、客が、勝手に観客席から飛び出してくんじゃねぇ!」
「はっ」
リゼルは、それを聞いて、鼻で笑った。腰に手を当て、あからさまに、見下すような視線を、ルドラへと向ける。
「出た。世間知らずの、お坊ちゃん発言だな」
「あ?」
「これは、私の父上、ヴァルクロア大侯爵の、歓迎の祭りだ。私が、それをぶち壊そうと、私の自由だろう」
「――リゼル!」
貴賓室から、オルディアスの、慌てた声が飛んできた。娘の暴論に、いてもたってもいられなくなったのだろう。
「いや、待て。それは違うぞ! 父より先に、まずは、この地の主であるカルガ殿に、許しを請うべきだ! 後で、必ず、謝罪をするように!」
「……はい、父上」
リゼルは、そう答えると、しれっと、視線を、ルドラへと戻した。素直に頷いた割には、その表情に、反省の色は、微塵も見当たらない。
「まあ、そういうことだ。手続きの不備は、認めよう。だが、それとこれとは、別の話だ」
そう前置きしてから、リゼルは、なおも、続けた。声の温度が、また、一段、下がる。
「あの男が、ディの顔と声を使って、屋台の串焼きの話を、私に語って聞かせたことを、貴殿は、見ていたはずだ。ディの記憶――ほんの些細な、けれど確かに大事な、ディ自身のものだったはずの記憶を、あの下劣な笑みで、勝手に語り、勝手に消費していたことを」
その一言一言に、ルドラの表情が、少しずつ、強張っていった。反論の言葉を探すように、視線が、束の間、宙をさまよう。
「それを、貴殿は、どこまで見ていた」
「……全部だ」
ルドラは、短く、そう認めた。隠すつもりも、ないようだった。
「まがい物だってことは、最初から分かってた」
「なら、なぜ、動かなかった」
「動くつもりだったんだよ! あんたが、勝手に先を越したから、こうなってんだろうが!」
ルドラの声が、思わず、大きくなる。喉の奥から、抑えきれない苛立ちが、そのまま漏れ出したような、荒い口調だった。
「私は、確証が持てるまで待つ、などという、まどろっこしい真似はしない。動くべき時に、動いただけだ」
「拳が先に出るのは、俺の性分だ! それを、いきなり横から掻っ攫われて、頭に来ねえわけがねえだろうがッ!」
その本音の吐露に、リゼルは、少しだけ、目を見開いた。それから、ふっと、鼻を鳴らす。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「つまり、貴殿は、単に、先を越されたことが、悔しかっただけか」
「……そう言われると、なんか、しょぼいな、俺」
ルドラは、そう呟くと、ばつが悪そうに、頭を掻いた。だが、それでも、なお、強がるように、続ける。
「だが、それでも、これは、俺自身の手で、決着をつけなきゃならねえ問題だったんだよ」
「ならば、聞くが」
リゼルは、そう切り返しながら、闘技場の外へと消えていった、ウォプラの逃走方向を、一瞥した。土煙の名残が、まだ、うっすらと、その方角に漂っている。
「貴殿は、その『自分の手での決着』とやらを、すでに、あの男に、碌な報いも受けさせぬまま、逃がすという形で、終わらせたつもりか」
「……ぐっ」
その一言に、ルドラは、明らかに、言葉に詰まった。開きかけた口が、そのまま、閉じる。
「奪われたものを取り返しただけで満足し、罰することもせず、あの男を野に放った。それの、どこが、決着だ」
「そりゃ……」
「結局、貴殿の判断も、私の判断も、大差ない。……私は、ディを、この短い日数で、友と呼べるだけの相手だと、そう見定めている。それを、傷つけられて、黙っていられるわけがないだろう。その気持ちだけは、誰にも譲らない」
* * *
貴賓室では、その一部始終を、誰もが、息を呑んで見守っていた。緊張の糸が、今にも切れそうなほど、張り詰めている。
「ルドラァッ! 貴様、リゼル嬢に、なんたる無礼を働くかッ!」
カルガの怒声が、貴賓室の空気を、びりびりと震わせた。震えていたのは、声ではなく、その拳だった。今にも、自ら闘技場へ飛び降りかねない、そんな剣幕だった。
「あなた」
マヒーシャが、静かに、その袖を、そっと引いた。宥めるようでいて、しかし、決して強くは引かない、絶妙な力加減だった。
「ルドラの気持ちも、分からぬではございません。ですが、リゼル嬢の御気性を思えば、この場を丸く収めるのは、容易ではございませんでしょう」
その一言に、カルガは、拳を握ったまま、なおも、闘技場を睨みつけていた。だが、飛び出そうとする体だけは、辛うじて、その場に押し留めている。
オルディアスは、その光景に、なおも、言葉を失ったままだった。娘が、たった4歳にして、一人の命を、その手にかけようとした。その重さを、改めて、噛み締めているのだろう。
だが、隣で、カルガが、ふと、その激情を鎮めるように、深く息を吐いた。肩から、力が、少しずつ、抜けていくのが分かる。
「オルディアス閣下。……心より感謝申し上げます」
「……急にどうした、カルガ殿?」
「リゼル嬢の御怒り、御覚悟。あれは、我が娘のために、命を懸けてくださったも同然にございます。マヒーシャも、そして、私も。ディが、これほどまでに大切にされていたことを、心より、ありがたく存じております」
「ディは、幼き頃より、兄であるルドラを目指し、剣を振るうことだけを、生き甲斐にしておりました。あの子から、その未来を奪おうとした者を、リゼル嬢は、身を挺して、罰しようとしてくださった。……この魔界の武家におきましては、それは、決して、忌避されるべき行いではございません。むしろ」
マヒーシャの唇が、静かに、綻んだ。優雅な佇まいの中に、隠しきれぬ、母としての情が滲む。
「オルディアス閣下。リゼル嬢は、まこと、ご立派であらせられましたわ」
その言葉に、オルディアスは、しばし、何も言えずにいた。だが、やがて、その肩から、わずかに、力が抜けていくのが分かった。
背後で、メアもまた、静かに、目を潤ませていた。主のあの激情が、決して、狂気だけではなかったのだと、この2人の言葉が、証明してくれたような気がしていた。
* * *
闘技場の中央では、なおも、リゼルとルドラの睨み合いが、続いていた。互いの纏う魔力――暗紫色と、赤く眩い色とが、激しく、ぶつかり合っている。その圧に、周囲の砂粒までもが、細かく、震えていた。
「……面白ぇ」
ルドラの口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。負けん気に火がついたような、好戦的な表情だった。
「そこまで啖呵切るなら、上等だ」
「上等なのは、こちらの台詞だ」
一触即発の空気が、闘技場全体を、支配していた。観客たちも、固唾を呑んだまま、2人から、目を離せずにいる。
* * *
そこへ、ようやく追いついた、ドゥルガーとソーマが、駆け寄ってきた。息を切らしながらも、その足取りに、迷いはない。
「リゼル……!」
ドゥルガーは、リゼルの前に立つと、瞳を潤ませながら、その手を、両手で、しっかりと握りしめた。
「あんた、あたしのために、あそこまで……本当に、ありがとう。それに……」
そこで、ドゥルガーは、少し照れたように、視線を逸らした。頬が、わずかに、赤く染まっている。
「猫被ってた時より、今のあんたの方が、何倍も、格好いい。それに、あたしのこと、友達って言ってくれて……すっごく、嬉しかった」
その言葉に、リゼルの口元が、わずかに緩む。だが、次の瞬間、ドゥルガーの表情は、一転して、頬を膨らませたものへと変わった。
「――で! ルドラ兄ぃ! なんで、あの時、助けてくれなかったの!? あたし、めちゃくちゃ怖かったんだからね!」
「いや、それは……」
ルドラが、言葉に詰まる。先ほどまでの威勢は、どこへやら、妹の剣幕には、まるで敵わないようだった。
「ディ、ルドラも、色々と、考えがあったんだよ」
ソーマが、穏やかに、そう取りなそうとする。その声には、いつも通りの、柔らかな響きがあった。だが、その顔は、腫れ上がった瞼と、切れた口の端が、いまだ痛々しく残ったままだった。治癒の術式は、他者にかけるものであり、我が身へ向けたところで、効きは、驚くほど薄い。妹一人を癒すだけで、有り余っていたはずの魔力は、すでに、底を尽きかけていた。立っているだけでも、辛うじて、という様子だった。
「ソーマ兄ぃは、黙っててくれよ。自分で、けじめはつける」
ルドラは、そう言って、兄の助け舟を、ぶっきらぼうに、押し返した。庇われるのは、彼の性分には、どうにも合わないらしい。
その物言いを、リゼルは、片眉を上げながら、聞き流した。だが、その視線は、ふと、当のソーマへと、すっと移る。先ほどまでの、氷のように鋭い瞳が、嘘のように和らいでいた。
「ソーマ様。ご心配をおかけして、申し訳ございません。……そのお怪我、まだ、まったく癒えていないではございませんか」
リゼルの声が、そこで、わずかに険しくなる。乙女めいた甘さの奥に、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「ご自分の治癒魔術は、我が身には、ろくに効かないと伺っております。……それでも、ディを優先してくださったこと、感服はいたしますが、心配にもなります」
そう告げる声音は、これまでの誰に対するものとも、まるで違っていた。乙女そのものの、甘く、蕩けるような響き。リゼルは、うっとりと、その頬を、わずかに紅潮させながら、ソーマの手を、両手で、そっと取った。見上げる眼差しには、これ以上ないほどの、輝きが宿っている。
「い、いえ……この程度」
その勢いに、ソーマの方が、むしろ、たじろいだ様子だった。言いかけて、また、小さく咳き込む。
「この程度、ではございません。あとで、必ず、屋敷の治癒師に診ていただきます。ソーマ様は、ご自分を大事になさらなすぎます」
「うっわ……ソーマ兄ぃへの、その態度、キモいぜ」
ルドラが、思わず、露骨に顔をしかめながら、そう漏らした。
「黙れ愚弟。貴殿は、ソーマ様の爪の垢を煎じて飲んでいろ」
リゼルの声は、一切の温度を欠いていた。ソーマへ向けていたはずの、あの蕩けるような眼差しから一転、ルドラを見る目だけが、氷のように冷え切っている。同じ人物とは思えぬほどの、極端な態度の落差だった。
「ちっ……なんだよ、それ。ソーマ兄ぃの言葉なら、なんでもかんでも、素直に聞くのかよ。……その程度で丸め込まれるなら、ソーマ兄ぃの優しさなんて、あんたにとっちゃ、ただの都合のいい飾りじゃねえか」
その一言に、リゼルの纏う空気が、一瞬にして、凍りついた。
「――今、なんと言った」
リゼルの声が、瞬時に、あの冷たい響きへと戻る。ソーマへ向けていた、蕩けるような眼差しはそのままに、しかし、声だけが、刃のように鋭くなっていた。
「ソーマ様の優しさを、飾りだと? その無礼な物言い、私が許さんぞ。ソーマ様は、貴殿の妹君を庇って、あれほど殴られたのだぞ。実の兄が、それを飾りと呼ぶか」
「なんでそこだけ、スイッチ入るんだよ……」
ソーマは、その両者の間に挟まれ、困ったように、苦笑を浮かべるしかなかった。両手を、宙で、所在なげに、彷徨わせている。
「ねえ、リゼル!」
そこへ、ドゥルガーが、目を輝かせながら、割り込んでくる。先ほどまでの涙は、もう、どこにもなかった。
「今度は、あたしと戦ってよ!」
「ディ」
リゼルは、そう言うと、静かに、しかし、はっきりと、首を振った。
「今の君では、私には、及ばない。……最低でも、そこの、長兄を敬うことすら出来ぬ無礼者よりは、強くなってから出直すことだ」
「て、てめぇ……! いくら大侯爵様の御令嬢だろうと、泣かすぞ、コラァ!」
ルドラが、額に青筋を浮かべながら、そう吠えた。
「おお、上等だ。やれるものなら、やってみろ!」
リゼルもまた、負けじと、そう啖呵を切る。腕を組み、不敵な笑みを浮かべるその姿には、先ほどの重傷など、微塵も感じさせない。
「ソーマ様の弟でも、遠慮なく泣かしてやる!」
「ディ、ルドラ、リゼル嬢も……お願いだから、少し、落ち着いて」
その一言に、リゼルの纏う空気が、一瞬にして、がらりと変わった。
「はい、ソーマ様!」
先ほどまでの、氷のように鋭い表情が、嘘のように、花開くような笑みへと変わる。
「だから、なんで、てめぇは、ソーマ兄ぃにだけ、そんな素直なんだよ!」
ルドラが、思わず、そう声を荒らげた。あまりの落差に、納得がいかない様子だった。
「黙れ、脳筋」
リゼルは、間髪入れず、そう切り捨てた。その口調には、一切の迷いがない。
「貴殿とソーマ様とでは、男としての魅力が、百億倍、違う」
「んなわけあるかァ!」
「ねぇ、リゼルぅ! あたしと、勝負してよぉ! 勝負、勝負ぅ!!」
そこへ、蚊帳の外にされていたドゥルガーが、たまらず、割り込んできた。両手を、ぶんぶんと、大きく振り回している。
リゼルは、そんなドゥルガーを、じっと、値踏みするように見つめると、ふと、真顔で、こう問うた。
「ディ。君は、月を見ると、巨大な猿になる、戦闘民族か?」
「へ? あたしは、アスラ族だよ?」
ドゥルガーは、一瞬、きょとんとした顔をした。だが、すぐに、その目を、きらきらと、輝かせ始める。
「月を見ると、巨大な猿に……なに、それ、カッコいいかも!」
「待て待て待て、話が、また、変な方向に飛んでいってねえか!?」
ルドラが、思わず、そう突っ込みを入れた。だが、その声もまた、混沌の渦に、あっさりと飲み込まれていく。
ソーマは、痛む体を引きずりながら、目の前で繰り広げられる、この茶番に、なんとか割って入ろうと、右往左往していた。だが、その声には、なおも、力がなかった。誰の耳にも、まともに届いていないようだった。誰も彼もが、それぞれの主張を、譲ろうとしない。穏やかなはずのソーマの顔にも、さすがに、困惑を通り越した、諦めにも似た色が、色濃く滲んでいた。
* * *
その、収拾のつかない騒がしさを、突如として、切り裂くように。
轟、という音と共に、遥か上空に、途方もなく巨大な魔力を纏った、一羽の炎の不死鳥が、その姿を現した。辺り一帯の空気が、その圧倒的な気配だけで、一瞬にして、凍りついたようだった。
漆黒と紫の炎を纏った、あまりに壮麗な、あまりに畏怖に満ちた姿。それが、ゆっくりと、人の形へと転じていく。その変貌の一部始終から、誰一人として、目を離すことができずにいた。
そうして、貴賓室へと、静かに降り立ったのは――七魔公が筆頭、妖鳳公キュマイラだった。
「大魔王殿からの頼みじゃ」
キュマイラは、扇を、緩やかに開きながら、そう告げた。
「妾も、其方らの児戯に少しばかり付き合うてやろう。……感謝するがよい、有象無象ども」




